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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5
934
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/04(木) 23:52:32 ID:1R/9XXYg0
くまめも28-1
冥想のなかで、どんな形態の権威も、障害になり、自由を防止する。新鮮さを防止する。それで、権威、順応、模倣は完全にわきに置かなければならない。言われたことを模倣するだなら、それは、心をとても鈍く愚かにする。そこには自由がない。過去の経験は導き、新しい道を確立するかもしれない。それさえも去らなければならない。そのときにだけ、冥想のとても深く、重要なことに、入れる。冥想はエネルギーの本質。
思考のあらゆる動き、あらゆる行為がエネルギーを要求する。このエネルギーは、葛藤、抗争をとおし、さまざまな形態の不必要な思考、情動的追求、感傷的活動をとおして、消散するかもしれない。
二元性に、「私 'me' 」と「非私 'not-me' 」に、観察する者と観察されるもの・こと、思考する者と思考されるもの・こととの間の分割に生ずる葛藤、抗争のなか、エネルギーはむだになる。
このむだが起きていないとき、気づきと呼べるエネルギーの性質がある。そのなかに、評価づけ、判断、非難、比較がなく、単に注意深い観察、思考、すなわち過去の干渉なく内的、外的にものごとをまさに有るとおりに見ることのみがあるところの気づき。
あの樹を見るとき、あなたは①あれは、木である。②ただ見るだけ③それを〇〇の木と認識しはじめるなら、そのとき過去が直接的観察に干渉する。
同じように、妻を見るとき、記憶をもって見るなら、本当は彼女について心に持っているイメージを見ている。それが直接的知覚を防止する、直接的知覚には、認識が要らない。妻、隣人の外的認識はもちろん必要、しかし、なぜ眼、心、頭に過去の介入があったりするのか。それは明確に見るのを防止する。何かについて非難したり、見解を持つとき、その見解や先入観は、観察を歪曲する。
(´・(ェ)・`)
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