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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5

904避難民のマジレスさん:2020/05/25(月) 01:48:45 ID:EBqggWUs0
くまめも2

経験をとおした蓄積と、その蓄積から行為すること。蓄積は過去であり、知識の行為が必要であるところでは、これは絶対的に必要。これに反対していない。それは愚劣。
二つの種類の学びがある。
一つは、知識と経験の蓄積をとおして行為することで、もう一つは、蓄積なく学ぶこと、生きる行為のなかすべてのときに学ぶこと。
前者は、技術的事態すべてにおいて絶対的に必要。しかし、関係、行動は技術的な事態ではないし、それらは生き物だし、すべてのときにそれらについて学ばなくてはならない。行動について学んだことから行為するなら、そのときそれは機械的になるし、ゆえに関係は課業になる。
もう一つ重要な点がある。蓄積と経験である学びすべてでは、利得が、学びの効率を決定する基準。そして、利得の動機が人間関係に作動するとき、それは孤立と分割をもたらすから、それら関係を破壊する。
経験と蓄積の学びが、人間行動の、心理的領域に入るとき、それは必然的に破壊する。
開明的な利己心は一方では前進たが、他方では、危害、悲惨、混乱の所在。利己心があるところに、関係は花開けない。関係は経験や記憶に導かれるところで花開けない。
質問者 宗教的経験−聖人、賢者の経験は、無知のなかの私たちには有益ではないか。
(´・(ェ)・`)


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