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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5
903
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/25(月) 01:47:32 ID:EBqggWUs0
変化の緊要
学び 2
質問者 あなたは、技術的な学びと経験に対し、科学と蓄積された知識に対する、反例を示しておられるのでしょうか。私たちはそれに背を向けるなら、野蛮状態に戻るでしょう。
K いいえ。私は全くそういう反例を示しているのではありません。私たちは互いに誤解しあっていると思います。私たちは、二つの種類の学びがあると言いました - 経験をとおした蓄積と、その蓄積から行為すること。蓄積は過去であり、知識の行為が必要であるところではどこでも、これは絶対的に必要です。私たちはこれに反対しているのではありません。それはあまりに愚劣でしょう!
質問者 ガンジーは生活から機械を締め出そうとし、インドで「国内産業」または「家内工業」と呼ばれる産業すべてを始めました。それでもなお彼は、近代の機械化された運送を使いました。これは、彼の立場の不一致と偽善を示すのです。
K 他の人々はここから外しておきましょう。私たちは、二つの種類の学びがあると言っています - 一つは、知識と経験の蓄積をとおして行為することで、もう一つは、蓄積なく学ぶこと、まさに生きる行為のなかすべてのときに学ぶことなのです。前者は、技術的事態すべてにおいて絶対的に必要です。しかし、関係、行動は技術的な事態ではないし、それらは生き物ですし、あなたはすべてのときにそれらについて学ばなくてはなりません。あなたが行動について学んだことから行為するなら、そのときそれは機械的になるし、ゆえに関係は課業になるのです。
それから、もう一つとても重要な点があるのです。蓄積と経験である学びすべてでは、利得が、学びの効率を決定する基準です。そして、利得の動機が人間関係に作動するとき、それは孤立と分割をもたらすから、それら関係を破壊するのです。経験と蓄積の学びが、人間行動の領域、心理的領域に入るとき、それは必然的に破壊するにちがいないのです。開明的な利己心は一方では前進ですが、他方では、危害、悲惨、混乱のまさしく所在です。どんな種類でも利己心があるところに、関係は花開けないのです。そういうわけで、関係は経験や記憶に導かれるところで花開けないわけなのです。
質問者 それは分かります。しかし、宗教的経験は、何か違ったものではないでしょうか。私は、宗教的な事柄において集められ伝えられた経験について、話しています - 聖人と導師の経験、賢者の経験です。この種の経験は、無知のなかの私たちには有益ではないでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
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