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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5

941避難民のマジレスさん:2020/06/06(土) 23:43:31 ID:zulUrRnU0
変化の緊要
   
   冥想とエネルギー 3

質問者 この観察は確かに、とてつもない自己修練を要求します。

K あなたの言われる自己修練とはどういう意味でしょうか。自己に拘束服を帰せることにより自己を修練するという意味でしょうか。それとも自分自身(について)、主張し、支配し、野心的暴力的などである自分自身について修学する、それについて学ぶ、という意味でしょうか。学ぶことはそれ自体が修練です。修練という言葉は、学ぶ、修学するという意味です。蓄積ではなく、学びがあるとき、現行の学びがあるとき、それには注意が要るし、その学びがそれ自体の応答する責任能力、それ自体の活動、それ自体の次元をもたらすのです。それで、それに課されるものとしての修練はないのです。学びがあるとき、模倣はなく、順応はなく、権威はないのです。これがあなたが修練という言葉でいわれる意味であるのなら、そのとき確かに学ぶ自由がありますか。

質問者 あなたは、私をあまりに遠く、おそらくあまりに深く連れていっています。私は、この学びが関係するところでは、あなたにぜんぶは付いてゆけません。私は、観察者としての自己が終わりにならなければならないことが、明確に分かります。論理的にそのとおりですし、葛藤があってはなりません。それはごく明確です。しかし、あなたは、まさにこの観察が学びであるし、学ぶなかにはいつも蓄積があると言われています。この蓄積が過去になるのです。学びは付け加えの過程ですが、あなたは明らかにそれに全く違った意味を与えられています。私が理解したところからは、あなたは、学びは蓄積なき常の動きであると言われています。そのとおりでしょうか。蓄積なしの学びがありうるのでしょうか。

K 学びはそれ自体の行為です。一般的に起きることは、学んでおいて - 私たちは学んできたことにのって行為する、ということなのです。それで、過去と行為の間に分割があるし、ゆえに、有るべきもの・ことと有るもの・こと、またはあったもの・ことと有るもの・こととの間に、葛藤があるのです。私たちは、学びの動きこそに行為がありうると言っているのです。すなわち、学ぶことはなすことです。それは、学んでおいてそれから行為するという問題ではないのです。これを理解することがとても重要です。なぜなら、学んでおいてその蓄積から行為することは、「私に 'me' 」、「私 が 'I' 」、自我、またはどんな名を付けたくても、まさにその本性です。「私 'I' 」は過去のまさに本質ですし、過去は現在に触れて、さらに未来になるのです。ここには常に分割があるのです。学びがあるところには、常に動きがあるのです。「私 'I' 」になりうる蓄積はないのです。

質問者 しかし、科学技術の分野には、蓄積された知識があるのでなければなりません。知識なしには、大西洋を飛んだり、車を走らせたり、またはふつうの日々のことのほとんどをすることさえもできません。

K もちろんですね。そういう知識は絶対に必要です。しかし、私たちは、「私 'I' 」の作動する心理的分野について話しているのです。「私 'I' 」は、何かを立場や信望を達成するために、技術的な知識を用いられるのです。「私 'I' 」は、作用するためその知識を用いられるのです。しかし、作用するなかで「私 'I' 」が干渉するのなら、ものごとはおかしくなりはじめるのです。というのは、「私 'I' 」は技術的な手段をとおして地位を探し求めるからです。それで、「私 'I' 」は単に科学的な諸分野に関心を持つだけではありません。それは、何か他のものを達成するためにそれを用いているのです。それは、有名になるためピアノを用いる音楽家に似ています。彼が関心を持つものは、それ自体での、それ自体のための音楽の美しさではなくて、名声です。私たちは、技術的な知識を除かなければならないと、言っているのではありません。反対に、技術的な知識があるほど、それだけもっと良い生活状況があるでしょう。しかし、「私 'I' 」がそれを用いるととたんに、ものごとはおかしくなりはじめるのです。
(´・(ェ)・`)つ


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