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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5
910
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/27(水) 00:08:05 ID:HQ/A94Rg0
くまめも1
情欲と情熱は別々のもの。情欲は思考により維持され、駆り立てられ、思考において成長し、実体を得て、ついに性的に爆発するし、またそれが権力への情欲であるなら、それ自らの暴力的形態の充足において爆発する。
情熱は思考の産物ではないし、また過去の思い出でもない。それは、充足のどんな動機によっても駆り立てられない。それはまた悲しみでもない。
質問者 性的情熱すべては情欲なのか。
K 思考が楽しみのイメージを築き上げるところでは、情熱の自由ではなく、情欲。楽しみが主な駆り立てる力であるなら、それは情欲。性的感情が楽しみから生まれるとき、それは情欲。
それが愛から生まれるなら、たとえそのとき大きな歓喜が存在していようとも、それは情欲ではない。
ここで愛は楽しみと味わいを排除するのかを自身で見出すのでなければならない。
あなたが、思考や所作において感覚刺激に戻りつづけるなら、そのときあなたは、空想の想像的高まりに耽溺しているし、ここでは楽しみと思考が、作動する誘因。
あなたがまず初めに感覚刺激を得て、その美しさが見えたとき、そういう楽しみの誘因は作動していなかった。
セックスの美しさは、「私 'me' 」、自我の不在だが、セックスの思考はこの自我の定立。そしてそれが楽しみ。この自我は、すべてのときに楽しみを探し求めているのか、苦しみを回避しているのかのどちらかで、充足をほしがり、よって欲求不満を招いている。
このすべてのなか、情熱の感情は、思考により維持され、追求される。ゆえに、それはもはや情熱ではなく、楽しみ。
憶えられ思い出される情熱の希望、追求は、楽しみ。
(´・(ェ)・`)
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