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なぜエスペラントは普及しないのか?

382丹花:2009/04/29(水) 07:18:36
べダウリデさン:お久しぶりです。歌では、十分な表現ができないことは、わかります。しばらく悩んでいましたから、私は、会話ができるようになりたい巣のためには、歌つくりは役に立ちます。

383丹花:2009/04/29(水) 07:22:48
其のためとンを間違えました。でも作っていると、人を感動させたりできるものが、時々できますよ

384N:2009/04/29(水) 08:37:36
Saluton, Nです。

>文化が無いエスペラントは、音楽で人を感動させるのは無理???

文学(エスペラント原作文学;翻訳でなく)についても、「エスペラント
は文化がないから、文学で人を感動させるのは無理」という無理解な謂い
がNe-E-istoのあいだにはままあるようです。でも実際にはそんなことは
ないですよね。クロアチアのスポメンカ・シュティメツ氏のように、原作
文学をたくさん上梓し、高い評価を得ている人も少なくありません。

文学で可能なことが、音楽では難しいのでしょうか?
私は「すそ野」の広さの問題かな、と考えますがどうでしょう。文学は紙
とペンがあれば作品を書けるけれども(それを出版という形にもっていく
のは手間がかかりますが)、音楽だと録音装置や媒体といったものがない
と制作ができない。ソロでなくグループでの作品ともなれば、集まれる範
囲にメンバーが住んでいなければならない。そういった点で、音楽にはハ
ードルがいろいろあって、陽の目を見る作品が少なくなりがちなのではな
いでしょうか。母数がたくさんあれば優れた作品も多くなると思います。

385松戸彩苑:2009/04/29(水) 10:11:33
>>381
私は数年前に「過去に流行ったポピュラーソングにエスペラントの歌詞をつけて流行らせれ
ば良い宣伝になるのではないか」と考えたことがありました。

ladio さんが大衆扇動によってエスペラントを広めようと考えておられますが、これも似たよ
うなものですね。

しかし考えてみますと、この手の曲というのは権利関係がとても厳しいので、許可をとるのが
ものすごく大変だろうなと思いました。
(もちろん、おカネさえ出せば可能なんでしょうけれども)

386Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2009/04/29(水) 22:47:10
>>381
言葉は付属品だから、主役次第で結構輝いていると思う。

Rumis Eterne
http://www.youtube.com/watch?v=uggnwtmxCI0

紀元の樹海
本家 http://www.nicovideo.jp/watch/sm4023702
PV http://www.nicovideo.jp/watch/sm6700952?oldplayer=1
アルカ訳 http://www.youtube.com/watch?v=1IjcswFbfMc&feature=channel_page

387ベダウリンデ:2009/04/30(木) 09:46:12
>384
>「エスペラントは文化がないから、文学で人を感動させるのは無理」
私はそこまでは思いません。
ある言葉で何がしかを書いて、それが他人に理解されて、そこに共感が生じたならば、「感動」すると思う。
逆に、特定の文化に依存し過ぎたお話になると、基底にある文化背景や価値観が理解できず、作者が何を言いたいのか全く分からない、
分かった気でも結局的外れだった、とか、そういう場合があると思います。
つまり、文学と「文化」はあまり関係ないと思います。

ちなみに、私は「文化」=「民族文化」の意味で使いました。
エスペランチストは「文化」=「広く一般に人間の知性」みたいにとらえているかもしれないので、
そこはズレがあるかもしれないです。

>私は「すそ野」の広さの問題かな、と考えますがどうでしょう。
事情通のNさんでも、エスペラント音楽にもこんなに感動できるものがあるよ、
と書けなかったのは、やっぱり現時点では「いい音楽は無い」ということなんでしょうか。
自分と他人が同じ感動を受けるかどうかはどうでもいいことで、誰かが感動できる曲があればいいのですが、
私にもNさんにも無い、となると、「ホントに無いんだな」という気がしました。

>音楽だと録音装置や媒体といったものがないと制作ができない。
そんなことないですよ。地下室の倉庫でギター一本でカセットテープに録音された歌でも
本当に良いものだったら、例えエスペラント界の中だけという限られた世界の中であっても、
「語り継がれる名曲」になるのではないですか? そういうのは無いんですよね?
今ではYOUTUBEもあるし、ちょっとリンクでも張って紹介すれば
本当にいい曲ならすぐに噂になって広まると思いますが、そういうの、無いんですよね?

だから「なんで無いんだろう」という気はすごくありますね。
「無い」理由を、私は「民族文化が無いから」かな、と思いました。(正解ではないかもしれないですが)

388ベダウリンデ:2009/04/30(木) 10:12:13
>「過去に流行ったポピュラーソングにエスペラントの歌詞をつけて流行らせれ
ば良い宣伝になるのではないか」
オリジナルの歌詞に勝るものはないでしょう。
外国の原曲に日本語歌詞をつけて流行る場合はありますが、
「母語で歌える」から流行ったのでしょう。
オリジナルで勝負できなきゃダメでしょう。

>言葉は付属品だから、主役次第で結構輝いていると思う。
それは言えてますね。
エスペラントにも良い歌手はいると思うけど、私個人としては「好きになる」程の人が
いなかったなー。いれば、エスペラントももっと好きになったかも、と思います。
ルーミスエテルネに感動してエスペラントに興味を持った人もいるから、
一概に「いい曲は無い」とはいえないですね。
でも、そういう人も、「もっとこういうの集めたい」と思って期待したけど結局他には無かった、
なんだがっかり、ということになってそうな気がしますが、どうなんでしょう?

389Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2009/04/30(木) 10:13:46
エスニックな香りが薄さに不満を持つあなたに
こゆい民族文化を持つアルカ文学をお勧め。と宣伝してみる。

『紫苑の書』(2009/04/24改定版)
http://cid-dd6eff55a81cbf67.skydrive.live.com/self.aspx/arka/xion778.pdf

辞典ないと後半はきつい
http://www8.atwiki.jp/arbazard/pages/553.html

紫苑の書読み終えたよ掲示板 感想give us
http://www8.atwiki.jp/arbazard/pages/710.html

390Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2009/04/30(木) 10:27:30
とりあえず、エスペラントの裾野拡大→人工言語愛好家増大→アルカ知名度アップと思っているので、
一応擁護してみる。
最近聞いたものでは、「銀河鉄道の夜」の挿入歌がいい感じだったと思う。
幅が狭いのは否めないところだけど。

賛美歌306番(320番)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6618060

素人っぽさがラブリーなヘタリア
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6855656

391北辰:2009/05/01(金) 07:33:57
 エスペラントは「ことば」ですから、それを使った作品・芸術は「文学」になり、
百年の歴史の間に原作・翻訳を含めてかなりの量の作品が知られています。
ノーベル賞候補になった作家もいましたね。
 音楽はこれと違って音を使った(メロディ・リズム・ハーモニーの要素があるが)
芸術。ことばだけで(エスペラントでも、日本語でも)音楽は作れません。
> エスペラントは、音楽で人を感動させるのは無理か?
という設問自体ちょっとおかしいと思う。ことばは
音楽の一部の材料(歌の場合、その歌詞)は供給出来ますが、音楽として重要な
ほかの部分(作曲、演奏)にかかわる人の問題が大きいようです。
 感動する、しないはその作品に対する個人の理解、感受性などで人さまざま
でしょうが、目的意識を持ってかかわる活動の中で「感動」が見つからないのは
残念ですね。どこかで「感動」を発見するように Kun espero antau~en!

392ベダウリンデ:2009/05/01(金) 09:26:43
>390
聞いてみましたよ。どっちかっていうと、私はヘタリアの方がお気に入り。
エスペラントはコミックソング系が意外と似合うように思う。
「賛美歌」の方は、字幕一部おかしくないですか?
(こんなこと指摘できるなんて、私もいっぱしのエスペランチストですねーなんちゃって)
Son ĝojve nigu min, Dio pli apud Vin.
Sonĝoj venigu なら 意味取れる。

あとは、松戸彩苑さんの掲示板でだにょさんが紹介してたサイトも役立ちますね。

初心者のためのエスペラント音楽番組
http://worldtv.com/esperanto_muziko_tv

「歌で勉強」しようとしてた時点では、こんなのあるとは知らなかったから
1年ちょっとで随分便利になったものだと思う。

393ベダウリンデ:2009/05/01(金) 09:44:10
今ではすっかり「エスペラントの敵」の私ですが、
はじめは期待を持って勉強しようとしてたんですよ。
それで歌も、当時の私の検索レベルで一生懸命探して聞いてみたんです。

音楽を乱暴にも2分すると、「民族色の濃いもの」と「汎民族的な」ジャンルと、に分けられると思う。
私は「こゆい民族調」が基本大好きで、そういうのに「感動」するんですが、
エスペラント音楽にも民族調のものがありまして、
それが民謡からの翻訳なのか、オリジナル作曲なのか、私には分からないものもありまして(もちろん知ってる民謡もあった)
そういう曲はメロディ的には大好きなんですが、「どうせなら○○語で聞きたいな」と思ってしまうんですよ。
民族音楽ジャンルでは、エスペラントは「どうせ民族語には負ける」のです。

ならばエスペラントは「汎民族」的な、ポップス・ロックがイケルのではないか、と思いました。
ロックなら「反体制的」で「エスペラントの精神」にもぴったりでしょう?
聞いてみて気に入った曲が無かった、とはいいません。
ありました。でも、幻滅しました。
名詞の末尾のOを滅茶苦茶省略しまくってたから、です。

394ベダウリンデ:2009/05/01(金) 10:00:10
私は、エスペラントは末尾が母音で終わる所が、日本語に近い気がして気にいっていたのです。
それがなせ、詩のジャンルになると、邪魔物の如く排除されなければならないのでしょうね?

言葉は、民族が自分のものとして当たり前のものとして持つもの。
歌や音楽のリズムは、基本的には、その言語が持つリズムを反映しているはずです。
有名な説ですが、ヨーロッパの音楽にアウフタクトがあるのは、その言語に冠詞が存在するからで、
日本語には冠詞がないから、伝統的にはアウフタクトも無い、というものです。(適当なキーワードで検索すれば出てきます)
スラブ諸語にも冠詞は無いし、スラブ系民族音楽も、アウフタクト無いです。

エスペラントはエスペラントが持つ末尾Oという本来のリズムを、どうして排除するんですか?
エスペラントを事実上担っているヨーロッパ人が、自分達が民族的背景として持っている美意識から離れられず、
それで排除してるのではないですか?
ザメンホフの16か状にも、詩ならOを省略してもよい、とありますが、
その言語が本来もつ特性で「美」を追求できないのはなぜですか?

395ベダウリンデ:2009/05/01(金) 10:15:16
エスペラントができて100年?でしたっけ?
いまどきの「民謡」なんて、100年前以降にできたものも多いと思う。
それなのに「エスペラント民謡」が無いのはなぜですか?
ザメンホフ作詞の「ラ・エスペロ」ってありますが、
あれをしのぐどころか、追随できる程度の音楽すら、今なお無いんじゃないですか?
それって、すごくレベル低くないですか?

ちなみに「ラ・エスペロ」って、歌詞見たら、Oの省略があるのは、歌の終わり部分だけです。
前半部メインは省略なしですね。
この曲は「タンタ、タンタ」というリズムが印象的ですが、
それは、末尾母音を省略しない場合、末尾から2つめにアクセントが来る、という
エスペラントが本来持つ言葉のリズムを反映したから、ではないでしょうか?

だから「タンタ、タンタ」を追求すれば、「エスペラント民謡」という色もできたかもしれないですが、
O省略=>言語の個性の否定=>ろくな音楽現れず、という結果になったんじゃないでしょうかねー

396N:2009/05/01(金) 20:06:35
ベダウリンデさんへ。
私はエスの音楽に関しては「事情通」ではないです。(^^;)残念ながら。

テープを2本だけ持っています。komencantoの頃にエスと宮沢賢治の研究
の第一人者だった岩手の故・佐藤勝一先生(釜石線の各駅にエスの愛称
をつけた方として有名)からいただいたものです。片方は世界のさまざま
な歌のエス訳を集めたもの、いまひとつはオランダの「Kajto」というロ
ック(?)グループのものです。私は前者のほうが気に入っていたのです
が、その理由が「あんなのも、こんなのもエス訳されているんだ!スゴイ
な!」というkomencantoの素朴な感動によるものが大きかったようなので、
客観的に比較することはできません。

語尾の-oの省略多用が残念とのことですが、多分、(特に訳の場合)「詰
め込むためにはやむを得ない」という単純な理由ではないかと私は思いま
す。たとえば英語やドイツ語といった子音の多い言語からエス訳する場合、
類似の単語(の前のほうの部分)に母音が挟まるので、語尾は犠牲になる
のではないかと思うのですがどうでしょう。

ベダウリンデさんの「La Espero」評には一理あるような気がします。「La
Espero」の旋律は何種類もあって、今歌われているのは比較的新しいものだ
そうです。ひとりで口ずさむにはイマイチという気がしますが、大会などで
大勢で歌うと荘重な感じがして、私は気に入っています。

397胡人:2009/05/02(土) 03:35:49
詩の最後に「’」が来るのは、そのリズム「強、弱、強、弱、・・・」が歌うために必要だからと聞いています。
たぶん、民族語自身が持つそのリズムを表現するために様々な工夫がなされているのだと思います。

中国語の4声はそれをもって中国語のリズムがあり、
キリスト教の讃美歌は、その詩の意味と共に、その元のユダヤになるのか、ローマになるのかそれ自身が持つリズムを表すために工夫がされているのだと思われます。
また日本語本来のリズムは、皇室の歌会始での朗詠の様なものが本来でしょうし、その様に詠える様に、詩も工夫するのが本当だと思われます。

その意味でエスペラント自身のリズムにあった音楽の追求は、エスペラントオリジナルの音楽が必要とすれば、
本当の音楽を知る才能のある方の出現が必要です。
まぁボサノバ的なものはエスペラント化は簡単だと思えますが(^^)

私は、歴史や、その民族のリズムを感じることが出来る意味で、エスペラントが好きです。
語順の自由さや、母音、アクセント等の条件があいまって、その使用者の文化、価値観を感じられるところが大変興味深く、交流言語として素晴らしいと思います。

その意味で、共通語ではなく、交流語としての有り方の追求が、その必要性をまた創造するものとなると思いますが・・・

398丹花:2009/05/02(土) 07:40:32
私は、ザメンホフの、La vojoを朗読した時、自分もこのような、花の詩を作ってみたいなと思いましたができませんでした。皆さ
んのお話は面白いです。

399ベダウリンデ:2009/05/02(土) 15:06:14
>英語やドイツ語といった子音の多い言語からエス訳する場合、
類似の単語(の前のほうの部分)に母音が挟まるので、語尾は犠牲になる
のではないかと思うのですがどうでしょう。

>民族語自身が持つそのリズムを表現するために様々な工夫がなされているのだと思います。

これでは、「エスペラントには文化が無い」と言われても仕方ないですよ。
エスペラントは、既存の民族文化を翻訳するための言語にすぎない、とお二人は認めています。
まあ、翻訳も高度な知的作業だから、「文化的」なお仕事ではありますが。

外国語(ヨーロッパ語をイメージ)の歌に日本語歌詞をつける時、直訳ではメロディにおさまりきらない。
そこで、日本語では、思い切って意訳して、
時には日本人が共感しやすいように、内容まで一部変更して、歌詞をつけてることがあります。
エスペラントでは、こうはしないのですか?
エスペラントはなまじっかヨーロッパ語にそっくりなので、翻訳が簡単で、
そのために独自色をもった「エスペラント文化」が発展しなかった、ともいえませんか?

エスペラントは民族間交流を目指した人工語なんだから、独自の文化なんて必要ないと、そう言いきってもらえると納得するのですが、
いつもお決まりで「文学があるから文化があるんだ」的に反論されると納得できません。

>その意味でエスペラント自身のリズムにあった音楽の追求は、エスペラントオリジナルの音楽が必要とすれば、
本当の音楽を知る才能のある方の出現が必要です。

結局、エスペラントオリジナルの音楽は、必要が無いから存在しない、ということなんでしょうね。

400N:2009/05/02(土) 19:50:29
Saluton, Nです。

>エスペラントはなまじっかヨーロッパ語にそっくりなので、翻訳が簡単で、
>そのために独自色をもった「エスペラント文化」が発展しなかった、とも
>いえませんか?

その可能性はありますね。

日本語からエスへの歌詞の翻訳の場合には、ベダウリンデさんがおっしゃる
ような「大胆な意訳」が結構使われているんですよね。少し前まで「La Movado」
誌で日本語の歌のエス訳の名人・小西岳さんが「歌の訳し方」という連載を
されていたのですが、ちょうど私自身が購読を始めた頃と入れ替わりに終了
となってしまい、十全には読むことができず、残念でした。そのなかに、確か
に胡人さんがおっしゃるような、

>詩の最後に「’」が来るのは、そのリズム「強、弱、強、弱、・・・」が歌
>うために必要だからと聞いています。

といった記述があったようです。

401ベダウリンデ:2009/05/02(土) 21:40:40
私も改めてエスペラント音楽を聴きなおして「考察」してみました。
敵対的なことばかり書いてもなんですから・・・

>まぁボサノバ的なものはエスペラント化は簡単だと思えますが(^^)
「初心者のためのエスペラント音楽番組」に『イパネマの娘』が入ってました。
タターンタ、タタンタみたいな弾むリズムなので、エスペラントに合ってるかもしれない、と思った。
ただし、エスペラントだと、若干語感がきつくなるような。
エスペラント語で「けだるい感じ」とか、出せるのかな?
いつも強い語調で自己主張してるイメージがあるんですが。

ロックも聴きました。
昔ダウンロードした曲は削除してしまいましたが、かろうじて歌詞を残してました。
私はpersoneとか、dolchemarを気に入ったみたいです。
語尾O省略しまくりですが、曲を聞いたら、ロックは語尾を伸ばすんですよね。
だから、省略せざるをえなかったのか、と、気づきました。
ロックにはウキウキ弾むリズムは似合わないし、エスペラントはリズム的には、ロックは合わないのですね。
語調のきつさは、ロック向きだと思います。

Kajtoもありました。どこぞのヨーロッパ民謡調ですが、こゆい感じはなく、
リズムも弾んだ感じで、ちょっとコミカルでもあり、いい感じでしたよ。
語尾省略も最小限で、その点でも好ましいかったです。

402北辰:2009/05/03(日) 01:28:10
ベダウリンデ様
 「ラ・エスペロ」を例に出しておいでですが、おっしゃるようにこの曲は
「タンタ、タンタ」というリズム(強弱リズム)で出来ています。定形詩で
1行の音(母音)の数も決まっているので1番〜3番まで通して同じメロディで
歌えるわけです。
 O(名詞語尾)の省略 1ヵ所    Al la mond' eterne militanta
 定冠詞の母音省略 2ヵ所     signo de l' espero
song^o de l' homaro
ですが、このリズムを維持し、定形詩を構成するために必要だったことは
わかりますね。この省略をやめれば(リズム、定形の崩れはどうします?)
これより良い作品(音楽も)が出来ると思いますか? 作って見せてくれますか?
> 日本語には冠詞がないから、伝統的にはアウフタクトも無い
初めて聞く ふしぎな話です。日本民謡で、例えば
木曾節、佐渡おけさ、最上川舟歌、をどう歌い出していますか? 全部
アウフタクトで始まっているのですが。伝統を無視して自分の好きなように
編曲する人も あるかもしれないが、私は見たことありません。
 語尾省略のない詩を作ろう、という考えには反対しません。わかりやすい詩を、
という趣旨には賛成です。Brendon Clark の作品、好きですか?

403Kanva:2009/05/03(日) 23:52:48
ベダウリンデさんがどんな範囲で「スラブ系民族音楽」と言っておられるか
よく分かりませんが、いわゆるロシア民謡でアウフタクトで始まる曲ないし
フレーズはいろいろ思いつきますね。
有名どころでは「トロイカ」「カリンカ」「ステンカ=ラージン」
「鐘の音は単調に鳴り響く」「バイカル湖のほとり」「オレグ公の歌」など。

思うに、アクセントのない短い音節が、文や句の頭に来ることができれば、
それが冠詞である必然性はないのではなかろうかと。

404松戸彩苑:2009/05/04(月) 11:45:57
私は「エスペラント改造論」スレ
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/7882/1160642811/l50
において

  あまりにも長すぎる単語・表現は、より短い単語・表現に換えても良いのではないか。

と主張しているんですが、これは

(1) 作詞する場合や、歌詞を翻訳する場合には、単語・表現が短いほうが便利である。

ということがあるからなんですね。
ほかにも

(2) 合成語をつくる場合にも、短いほうが長くならなくて都合がよい。
(3) エスペラントで話すときにも、短いほうが口が疲れない。
(4) 同時通訳をする際にも、短いほうが楽。
(5) 雑誌などでは使えるスペースが限られているので、短いほうが便利。
(6) ラジオ放送の場合には使える時間が限られているので、短いほうが都合がよい。

といったメリットがあります。

405北辰:2009/05/04(月) 12:01:49
Kanva 様
 あなたのあげたロシア民謡のうち「オレグ公の歌」は、私の見る楽譜
(三沢郷作詞・河西保郎編曲)では4分の4拍子の第1拍から始まっており
アウフタクトではありません。ほかの曲はみなアウフタクトです。
ロシア語には冠詞はありませんが、冠詞のあるなしとアウフタクトは
全く関係無いことが(日本語も同じ)よくわかります。
> アクセントのない短い音節が、文や句の頭に来ることができれば、
その場合 当然作曲家はアウフタクトで始めます。冠詞の有無に関係ないこと、
御説の通りです。

406ベダウリンデ:2009/05/06(水) 08:30:31
北辰様
>> 日本語には冠詞がないから、伝統的にはアウフタクトも無い
>初めて聞く ふしぎな話です。

民族音楽研究の日本での先駆けである、(その筋でその名を知らなかったらモグリでしょう)
故小泉文夫さんの説を、自分なりのうろ覚えで書きました。
ネットで適当なキーワードを入れて検索したら、同じような言い回しが出てきましたので、一般的に流布しているのかと思いました。
出典の本『音楽の根源にあるもの』も持っているので、改めて読み直しました。
それに近い記述は確かにありまして、それは後で引用するとします。

本をよく読むと「緊張」と「弛緩」の言葉を使い、リズムを分析しています。
西洋式の楽譜に採譜して、小節線の前に音符があれば即、西洋式アウフタクトと同じ、と決めつけられるわけではないようです。
小泉氏の説はそんな単純ではないようなので、ぜひ、ご一読を。

407ベダウリンデ:2009/05/06(水) 08:41:57
アウフタクト=上拍、を「体感」したことはありますか?
私の場合、某ダンスなのですが、これが「アウフタクト」か、とやっと体感できた経験があります。
一拍目の強拍を目指し、そこへの準備のために、その直前に体をふわっと上にあげる感じです。
音楽では、タラ、とか、ター、とか、一拍目の前に小さい音が入るんですが、そこを意識するといいんです。
小泉氏の説では、ドイツ民謡は、一拍目が「弛緩」で、その前の弱拍は「緊張」だそうで、
私の「体感」もそれに合ってます。小さい動きなんだけど、準備のための緊張があるんです。

こういう感覚でのアウフタクトって、日本民謡やロシア民謡には無いんじゃないか、
と私は「経験上」感じてました。あくまで経験なので、間違いかもしれませんが。

(まだ続くので待っててね)

408ベダウリンデ:2009/05/06(水) 09:14:00
ロシア民謡で「カリンカ」は、楽譜では、最初の「カ」は、小節線の外の8分音符ですが、
私が知ってるロシア民謡では
「カ〜〜〜〜、リン!! カ、カリン! カカリンカマヤ」という感じで歌います。
ここでは、「カ」の文字のアウフタクトはさして重要ではないようです。

佐渡おけさでも、出だしの「さどー」の「さ」が、楽譜上では「アウフタクト」なんだろうけど、
「さ」は「ど」のための「準備」「緊張」なのかな?と思います。
あくまでも一単語で、たまたま「ど」にアクセントがあるだけで、
西洋式のアウフタクトと違うんじゃないかな、と思います。
私は専門家ではないので、自分の「感覚」で言ってますけど。
(まだ続く)

409Kanva:2009/05/06(水) 09:34:19
西洋音楽に比べて長めの時間での「緊張」と「弛緩」の円環周期を持つ
インド古典音楽でも、同様の重心感覚があると私は感じます。
そして最強拍(「サム」・解放拍)からフレーズが始まるものではなく、
周期の反対側付近の最弱拍周辺(重心が一番高く感じる辺り)から始まり、
最強拍へ向かっていきます。
それで、そういうのも私はアウフタクトの一種だと思っていますが、
一般にはどうなのでしょう。

私も自分の感覚とも照合しながら、どこまでを「アウフタクト」の言葉で
括ってよいのか、改めて考え直したいと思います。

410ベダウリンデ:2009/05/06(水) 10:06:38
小泉氏の本では、民謡の一例をあげ、
『前のフレーズの解放点において、緊張より弛緩の方向に転じたエネルギーを
再び次のフレーズの準備のために緊張の方向へ誘う』とあり、(平凡社ライブラリー、P58)

日本民謡の「アウフタクト」は、これではないか、と私は思います。
弛緩の準備のための緊張ではなく、一拍目の緊張にそのまま持続する緊張。
ロシア民謡のアウフタクトも、私はそれに近いように思います。

本から引用
『ドイツやイギリスの民謡にはアウフ・タクトではじまる(弱起の)旋律が多いが、日本の民謡にはほとんど弱起のものはない。』(同、P58)
『ドイツ語や英語には、前置詞や冠詞が多いので、アクセントのあるシラブルがそれらのあとのニ番目にくることが多い。』』(同、P140)
(例・・中略)
『こうした洋楽のイディオムを持つ旋律は、ヴァイオリンやピアノのような歌詞をもたない器楽の旋律にもあらわれ、
例えばシューマンのトロイメライヤやリストの愛の歌など、アウフタクトで始まる旋律は案外多い。
ただしヨーロッパもスラブやハンガリーなど東欧諸民族の言語では、必ずしもこのようなシラブルの原則は見られないので、
民謡の旋律もしたがって、アウフタクトが少ない』(同P141)

スラブ系の音楽に関しては、民族音楽を聴いてみて「アウフタクト」少ない(てゆーか無い!)と経験的に感じました。
(つづく)

411ベダウリンデ:2009/05/06(水) 10:34:45
北辰様
>このリズムを維持し、定形詩を構成するために必要だったことは
>わかりますね。この省略をやめれば(リズム、定形の崩れはどうします?)
>これより良い作品(音楽も)が出来ると思いますか? 作って見せてくれますか?

エスペラントのことをちょっとでも批判すると、すぐに「逆上」するんですね。怖いです。
エスペランチストって全員そういう人なんですか?

なぜ、省略形の無い本来のエスペラント語のリズムより、定型に決められたリズム配置を優先するのですか?
そのリズム配置が美しいと、誰が決めたのですか?
定型に無理に合わせるのなら、省略せずにすむ別の単語を選択すればいいのではないですか?
定型リズムなんて気にしなければ、日本人の感覚では、de la homaroでもなんの違和感ありません。

そもそも私は、「言葉と、歌や音楽は密接に関係してる」という事を言いたかったんです。
冠詞がどうとが、楽譜上に出る弱拍がどうとか、そういう瑣末な事の学術的検証をしたいのではありません。
北辰さんは、言葉と音楽は関係ない、とおっしゃりたいのですか?

ちなみに、日本民謡はアウフタクトだ、という説もあるようです。
他人のブログから無断コピペしてしまいますが、

(引用開始)
これについては、服部龍太郎氏が、著書『日本の民謡』(角川新書186)の中で次のように指摘しています。
「日本の民謡を観察すると、ほとんどがいつの場合でもアクセントの弱い音からうたいだし、
第二音になってようやくアクセントを強めるということをしている。
すなわち、弱起のかたちをとっているのであって、これは、日本語のアクセントにふかいつながりがあるものとおもわれる。
この一事は音楽にたずさわるひとはもちろんのこと、音楽に関係のない日本人でもよくこころにとめておいてもらいたいことである。
日本民謡がアップ・ビートの弱拍からはじまるということはじつに徹底したものであって、百曲中の九十曲中まではそうである。」(同書206-207ページ)
(引用終了)
ここで注目したいのは、例え日本民謡をアウフタクトと定義したとしても
それは『日本語のアクセントにふかいつながりがある』のです。

(いちおう終わり)

412Kanva:2009/05/06(水) 11:22:32
ベダウリンデさん>

日本語訳によって歌詞のアクセントの位置が原詩とずれていると、ついつい
音楽のアクセントの感じ方も訳詩に合わせてしまう、ということがあります。
日本語の意味を伝えるにはそうする方がいいけれども、楽曲のノリは原曲と
大きく違ってしまいます。
例えばそういう経験から、「言葉と、歌や音楽は密接に関係してる」という
論旨には、賛成します。

「アウフタクト」についても、どこまでをアウフタクトに含めるかの問題を
(連続的なものとして)一旦脇に置くことと、「有る/無い」ではなく
「多い/少ない」という表現だと判りましたから、それならほぼ抵抗なく
賛成できます。

413Kanva:2009/05/06(水) 11:42:10
「La Espero」の件では、
・1番から3番までを全く同じリズム割・旋律形で歌うことは、多少の便利さは
 あるだろうが、音楽的にあまり重要なこととは感じられない。
 歌詞のリズム・音節数・アクセントに応じて変わっても構わないのではないか。
・当たり前のように句末の-oを落としてしまうのでなければ、歌詞1番あたりに
 一ヶ所くらいの省略は構わないのではないか。
と、個人的には感じます。

414松戸彩苑:2009/05/06(水) 12:39:58
音楽好きな人が多いんですね。
これをエスペラント運動に生かせると良いと思います。

415丹花:2009/05/06(水) 16:00:23
昨日60人で、賛美歌を歌ってきましたが、エスペラントを広めるために、文学を、翻訳したり歌を作り、詩を作ったのでは、ないのですか?議論するより、作曲 
してからのように思われます。

416ベダウリンデ:2009/05/06(水) 17:13:47
私は、名詞が-oで終わる所が、エスペラントの好ましい点だと思っていたのですが、
歌を聞くと、-oを省略してばかりだったので嫌気がさし、
エスペラントの歌を好きになる事を諦めたのです。
詩でも、どうせきっと省略の連続だろうから、読む気すらおきませんでした。
よって、ニュース文などの「散文」ばかり読んでいました。
それもそのうち飽きて、今はエスペラントから離れています。

それなのに、そんな私に対して「誰それの詩は読んだか」(北辰さん)だの、
「作曲しろ」(丹花さん)だの、みなさんトンチンカンだなあ、と思います。
私は「運動」なんてしないです。あなたたちの仲間ではないのですから。

それより、詩の定型リズムはどこの美意識から由来していて、
なぜエスペラントでも、省略という操作をしてまで、
それと同じ形を取り入れているのか、誰か説明して下さい。

417Kanva:2009/05/06(水) 18:56:42
エスペラントではないですが、漢詩の平仄の規則の起源は、学問的にまだ
解明されていないと、今年の時点で、漢語の学生さんから聞きました。
漢語に影響を与えたとも言われるサンスクリットの韻律も、そもそもが
一番古い文献が韻文なので、成立過程を辿ることは難しいでしょうね。

ところで、一つの言語の韻律が数種以内に限られるということはなくて、
サンスクリットなら何百種類とありますよね。
曲の付く詩は定型に限ると、いうことも、ないはずですしね。

418Kanva:2009/05/06(水) 19:18:15
そういえば私は、名詞の語尾を-oに固定するのはそもそも好きじゃなかった
(複数種類の型を持つか、語幹末音自由が理想)し、単語のアクセント位置の
固定も好きじゃない(活用形式や単語によって変動する方が響きとしては
より好ましい)ので、その時点で立ち位置がベダウリンデさんとは異なります。

ただ、しばしば語尾省略が見られるのは好ましくなくて、散文と同じ音構造の
ままで、詩も作れるのが理想だと思っています。
早くもザメンホフの第一書に「Ho mia kor'」という詩がありますけれど、
いくらラテン語の単数主格が/cor/であるにせよ、こういう形を例にしない
方が良かったのにと思います。

419松戸彩苑:2009/05/06(水) 20:24:29
>>416
残念ながら私は音楽とか詩とかいうものに詳しくないので話に加わることができないんで
すが、みなさんの知識には大いに感服させられましたので、それで「そういう才能がエスペ
ラント運動に役立てば良いなぁ」って思ったんですが、しかしひょっとしたら話の腰を折って
しまったかもしれませんね。

ところで『Parnasa Gvidlibro』という、エスペラントで詩をつくる人のための本がありますけれ
ども、これを元にして語尾の -o の省略を説明できる方はおられないですかね?

私もこの本をもっているんですが、なにしろ詩には関心がありませんでしたので、ほとんど
読んでないんですよね。

詩の用語である jambo とか trokeo といったものが何のことなのか、関心がないので、いま
だに判っておりません。
(調べれば当然判るんですが、今までそういう気にならなかったということです)

私の印象では

(1) エスペラントの詩形というのは基本的に欧米語の伝統的な詩形を踏襲しているが、そ
    れに合わせるために語尾の -o を省略する必要が出てくる。

(2) 語尾が -o ばかりだと単調になるので -o を取り去る。

(3) 音節数を減らすために -o を略す。

といったことなのかなと思ったんですが、なにしろロクに勉強してない人間の印象にすぎま
せんので、どなたか詳しい方のご教示を待ちたいと思います。

420Raku:2009/05/06(水) 23:10:04
語尾の母音を省略せずに脚韻を踏めば品詞をそろえなければ
なりませんが、それでは脚韻の効果は失われてしまいます。
日本語詩に脚韻がないのも似たような理由が関係しています。
詩のための特別な語形などは歴史的に発展してきたもので
ない限り不合理なものです。

421ベダウリンデ:2009/05/07(木) 09:42:52
Kanvaさん、松戸さん、ちょこっとでも説明して頂けて、ありがとうございました。
北辰さんは別スレには書き込みしてるのに、ここには返事してくれませんでした。

422北辰:2009/05/08(金) 07:50:32
松戸彩苑さん、 「語尾の -o の省略」は『Parnasa Gvidlibro 』を持ち出す
までもなくザメンホフの Fundamento の中の16条文法の第16条にあります。
英語版には euphoniae gratia (音調を整えるために許容される)が入って、
詩人の特権としてリズムや韻を揃えるために許される、と理解されています。
 その実用上の問題は Parnasa Gvidlibro の LA ARTO POETIKA の
Kanto kvara のなかで細かい注意(乱用の戒め)があります。
しかしこのあたり、すごいですね。Kanto unua から Kanto sesa まで
詩の作り方の極意を、見事な詩の形で述べています。
ベダウリンデさん、
> 「誰それの詩は読んだか」(北辰さん)だの、「作曲しろ」(丹花さん)
> だの、みなさんトンチンカンだなあ
とは何?? 私はそんなことは聞いたことはないが、かかわりありそうなのは
> Brendon Clark の作品、好きですか?
と おたずねしたことかな? あなたの主張を聞いて、Clark は当然ご存じだろう、
と思ったのですが --- 人の発言をゆがめて非難するのは demagogo の手段です。
説明します。Brendon Clark は詩での母音省略に反対し、省略のない詩作を
実践しています。彼の「マオリの航海の歌」は、太平洋の波のうねりのような
リズムに酔わされる感じです。あなたなら、母音省略のない雄大な詩から
エスペラントの詩の視界が開けるものを感じておられるのでないか、と
思ったのですが。これが トンチンカン ですか? ご返事ください。

423ベダウリンデ:2009/05/08(金) 09:13:25
北辰さま
>> Brendon Clark の作品、好きですか?
>と おたずねしたことかな? あなたの主張を聞いて、Clark は当然ご存じだろう、
>と思ったのですが --- 人の発言をゆがめて非難するのは demagogo の手段です。

その事です。私にとっては聞いたこともない人の名をあげられ、
突然「好きか?」と聞かれたのです。その人がどんな詩を書くのかも知らされずに。
私には、「読んだのか、読んでないなら読め」というように聞こえました。
「こんなのも読んでないくせにでかい口たたくな」的にも聞こえました。

その発言の前には「これより良い作品(音楽も)が出来ると思いますか? 作って見せてくれますか?」
と恐喝じみた言い回しさえ受けています。

こういう言い回しを受けて、私は「怖いな」「不快だな」と感じましたが、
そのように反応したら「demagogo」なんですか?
あなたの意図が私に通じなかったのならば、あなたの「書き方」に問題があるのです。

丹花さんも悪気はないとは思うけど、突然割り込まれ、あのように言われたら
「文句言うなら自分で作曲してみろよ」的に聞こえたんです。
もちろん、悪気はないとは、分かっています。
でも、私には「本当に聞きたいこと」があったのに、それから議題をそらされたように感じました。

424ベダウリンデ:2009/05/08(金) 09:22:03
北辰さんも「母音の省略に反対」の立場を理解し、
すでにそういう詩もある、と紹介して下さいましたが、
「なぜ、省略する形式の詩が多いのか」という疑問には答えてくれませんね。

北辰さんは
>このリズムを維持し、定形詩を構成するために必要だったことは
>わかりますね。この省略をやめれば(リズム、定形の崩れはどうします?)
すごい強い口調で「定型詩のリズムは重要なんだ」と主張なさっているように聞こえます。
なぜ、そこまで定型リズムが重視されるのか、その由来はなんなのか、
私はそこを質問してるんです。

それには答えようともしないんですね?

425丹花:2009/05/08(金) 14:28:04
わたしがつくつてみられたらと言ったのは、そうしてみないとわからないとおもつたからです。2人の方は、懇切丁寧に説明しておられますよ。cつたのはきょくしてみたら

426丹花:2009/05/08(金) 14:31:10
コンピュウターの調子が悪いので、大きく間違えてしまいました。

427ベダウリンデ:2009/05/08(金) 17:23:18
Kanvaさんがおっしゃってた例から・・・

>早くもザメンホフの第一書に「Ho mia kor'」という詩がありますけれど、
>いくらラテン語の単数主格が/cor/であるにせよ、こういう形を例にしない
>方が良かったのにと思います。

私も「ホー、ミーア、コーロ」のままで充分美しい響きだと思います。
それなのに、なぜザメンホフは「ホー、ミーア、コー」でなければ美しくない、と感じたのでしょうかね。
(私は語尾が子音になると聞き取れないので、だから嫌いなのですが)
自分が作った言語そのままの形では「醜い」とザメンホフが感じた「文化的背景」は何なんですか?

そういう点が知りたいんです。(自分で作ってみろよ、というレスは無しでお願いしますね)

428松戸彩苑:2009/05/09(土) 03:31:32
『Parnasa Gvidlibro』(私が持ってるのは1984年に出た第3版)のなかを探してみましたら、
41ページに Ho, mia kor' が載っていました。

この詩は「弱強五歩格(エスペラントでは kvin-jambo、英語では iambic pentameter)」とい
う韻律だそうです。
これは、アクセントの弱い音節と強い音節とが交互に現われるというのを5回くり返すという
もののようですね。

アクセントの弱い音節を小文字、強い音節を大文字で表わすと

  ho MI a KOR' ne BA tu MAL trank VI le
  el MI a BRUS to NUN ne SAL tu FOR
  jam TE ni MIN ne PO vas MI fa CI le
  ho MI a KOR'

というふうになるわけです。

ということで、この韻律にするためにはやはり kor' という形にしないといけないわけです。
---

しかし、私もエスペラントを長いことやってますけれども、欧米人の詩に対する情熱というの
はいまだによく判りませんね。

もちろん、欧米では文学はホメーロスの『オデュッセイア』と『イーリアス』という叙事詩に始
まるんだといったことは知識としては知っていますけれども、しかしなんでそんなことに今で
もこだわるんだろうと思います。

429松戸彩苑:2009/05/09(土) 06:30:11
それから私は、語尾の -o の省略は気にならないんですが、しかし詩において語順がゴチ
ャゴチャになるってのにはかなり違和感を感じます。

具体例をあげますと Ho, mia kor の3行目の

  jam teni min ne povas mi facile

なんかがそうですね。
ふつうだったら

  jam mi ne povas teni min facile

みたいになると思うんですが、これが jam teni min 〜 になっていますので、エスペラントを
始めたばかりのころは頭にスッと入ってこなくてイライラさせられました。
やはり我々は、日本語の語順と英語の語順にしか慣れていませんので、そのどちらでもな
い語順の文章は、なかなかすんなりと理解できるようにはなりませんね。

このほかにも La espero には

  nun de loko flugu g'i al loko

  g'i la homan tiras familion

なんて行がありますね。

そういえば、ギリシア語やラテン語なんかにも語順がゴチャゴチャになるというのがよくあり
ます。

430ベダウリンデ:2009/05/09(土) 13:14:51
私も、詩には全然興味なくて何も知らなかったのですが、ウィキペディアなどで、自分で調べましたよ。
それなりに勉強になりました。
(北辰さんは、やっぱり答えてくれないですね。そういう人なんですね)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%BB%E5%BE%8B_(%E9%9F%BB%E6%96%87)
(引用開始)
例えば日本語の伝統的韻律では、モーラ(拍)が最小単位となり、5拍・7拍を基本とする七五調・五七調などがよく使われる。
フランス語でもこれに似て、韻文では時間的最小単位である音節が一定数繰り返される(5音節、6音節など)。
またアクセント・強勢や音節の長さ、あるいは声調が重視される言語も多い。
例えば古典ギリシャ語とラテン語では音節の長短、英語やドイツ語ではアクセント・強勢、中国語(漢詩)では声調(平仄)に関して特定のパターンが用いられる。
イタリア語やスペイン語では、フランス語と同様の音節数に加え、アクセントのパターンが重視される。(
(引用終わり)

西洋文明の古典・ギリシャ・ローマの詩において、長短リズムの詩があったのですね。
英語・ドイツ語は、たまたま強弱リズムの言語であったので、古典詩の長短をそのまま強弱に置き換えて
その伝統を引き継ぐことができたのですかね?
エスペラントも強弱リズムなので、自然と英語・ドイツ語の詩に近づいたのでしょうか?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0#.E8.A8.80.E8.AA.9E.E3.81.AB.E3.81.8A.E3.81.91.E3.82.8B.E3.83.AA.E3.82.BA.E3.83.A0
『音節リズムはスペイン語やフランス語などに見られ、各音節が時間的にほぼ等間隔で現れることによって生じる。』
フランス語は、強弱リズムの言語とは異なるので、詩においても、英語・ドイツ語の詩とは違った様相を示すのでしょう。
自分たちの言語を無理に操作してまで古典の基準に合わせる、ということをフランスでは行わなかった、という事なんでしょうから、
そこらへんにフランスの「文化」というものが感じられます。

431ベダウリンデ:2009/05/09(土) 13:34:07
エスペラントがギリシャ・ローマ風の詩に近づける特徴を持っていたとしても、
無理な操作を行わずにすむ韻律の型を選べばいいのに、と思います。

http://eo.wikipedia.org/wiki/Piedo_(poetiko)
韻律は、長短(強弱)の組み合わせで、何種類もあります。
その中で、最後が「長」で終わる型は、本来的に、エスペラントには合わないと思います。
ヴィキペディーオからの例をとると、

trokeo: —∪ ("En la mondon venis nova sento") これは合う
jambo: ∪— ("Mi amis vin")  終りに来る単語を vin とか miとかに限れば可能。
daktilo: —∪∪ ("Kanto sincera de mia animo")  最後に休符を足せば、合う
anapesto: ∪∪— ("Ne riproĉu la sorton, ho juna animo")  最後-o省略しないと合わない。
amfibrako: ∪—∪ ("Tra densa mallumo briletas la celo") 合う

このように、 やっぱ、最後は短いので終わるものは、無理なく自然に合うんですよ。
anapesto型でも、最後に「短」を字余り的に追加すればいいと思う。「型」は崩しますが。

>429
エスペラントは、アクセントが固定という不自由さがあるから、
その代わりに、語順の自由は認めてあげるといいと思います。

432北辰:2009/05/10(日) 07:51:26
-->429:松戸彩苑さん、
> 日本語の語順と英語の語順にしか慣れていませんので
ですか。ずいぶん英語に慣れておいでのようですね。英語を習い初めてから
5年後エスペラントをやり出した私とはだいぶ違うのでしょうか。
 英語はかなり語順が固定され、日本語、エスペラントに比べて不自由なことば。
日本語は「が(は)のにを」の助詞が西洋語の格表示に当たる機能をもつので
「動詞が最後」という一応の語順固定はあるが、わりと自由ですね。
ザメンホフの詩で比べてみます。
jam  teni min       ne povas  mi    facile
もう 私を支える(ことは) できない、(私は) 容易には
------------------------------
と、頭から日本語で読みくだして スンナリ わかりましたので、
> 頭にスッと入ってこなくてイライラ
する方がいる、のに意外な感じがしますが、それだけ
英語に慣れて(囚われて?)いる方が多いのでしょうか。
 エスペラントでは格表示と前置詞の活用で、文の要素間の関係は はっきり
表示されるので、格表示を失った英語に比べると語順の自由度は大きく、
詩作や作文に有利な言葉です。表現したい内容にに合わせて語順を変えても
文法違反にならず表現の可能性が格段に大きい。
 「最初にエスペラントを習ったあとで外国語を学ぶほうが学習効果は大きい」
という教育研究結果が多いが、言語の表現可能性と多様性を先に知っておく
ことの意味が大きいのかも、といま気がつきました。

433松戸彩苑:2009/05/10(日) 09:37:02
>>432
それほど英語ができるわけではないんですが、しかし語順には慣れましたので、その影響
はあるのだと思います。

それから考えてみたんですが、私の場合はエスペラントを「読みくだす」ということはしてい
ないんですよね。
どうやら、語順に依存してバッと大づかみにするというやりかたで理解していたらしくて、ふ
つうの語順から外れた文章を見ると、それだけで心のなかで拒否反応を起こしてしまって
いたようです。

もちろん今では、こういう文章にもかなり慣れましたが。

おそらくこの手の文章は、ロシア語やドイツ語なんかを母語としている人たちには理解しや
すくて、英語やフランス語なんかを母語にしている人たちには、ちょっと判りにくいのではな
いでしょうか。

434ベダウリンデ:2009/05/10(日) 13:18:33
>英語はかなり語順が固定され、日本語、エスペラントに比べて不自由なことば。
英語は印欧語の中でも孤立語化した言語だから、語順に依存するのは仕方ないのではないですか?
その代わりに、英語では格変化は退化してるから、格変化だらけの屈折語に比べたら、日本人には馴染みやすいです。
それを「不自由」と言い切るなんて、英語はじめ他の諸言語に対しても「失礼」ですよ。
みんな普通は「母語が基準」なんだから、エスペラントと母語の異なる点に対して「違和感」を感じるのは当然だと思う。
日本人が英語を経ずに直接にエスペラトを習ったとしても、日本語には無いエスペラントの特徴(それは英語にも共通する特徴だと思うけど)
が存在するんだから、難しさは同じだと思う。

てゆーか、北辰さん、エスペラント詩において定型リズムがなぜそんなに重要なのか語って下さい。

435ベダウリンデ:2009/05/10(日) 13:38:00
ところで、私思うに、「文化」って「美意識」なんですよね。
ヨーロッパ人にとってはギリシャローマ文明は誇りであり、憧れであるのは分かる。
エスペラントだと、ラテン語風の詩が、ラテン語の知識が無くても、お手軽に書けるから、
それでエスペラントに飛びついたヨーロッパ人も多いんだろうな、と思う。
ラテン語の詩には「短+長」という型のリズムが存在するから、エスペラントでも存在しなければならない、と
硬直的に考えて、無理やり「ホミー、アコー」なんて言ってるんだろうな。

でも日本人の私からすると、長短を規則的に組み合わせだけのリズムって、単調に感じる。
そこに美しいメロディがつけば、異文化の私にでも「美しさ」は理解できるけど、
言葉だけ聞かされても「美しい」とは感じない。
ヨーロッパ人が自分たち特有の美意識にとらわれてるうちは、エスペラントの「文化」も生まれないんだろうな。

日本民謡のアウフタクトについて、ちょっと考えたんですが、
民謡に限らず、日本人が「うた」う時、一文字目と2文字目は、くっつくんですよね。
「たびーゆけーばー」の浪曲(たぶん、規定のリズムは存在しない、いわゆる無拍のリズムというやつかな?)でも、
百人一首の読みでも、そこが共通してると思う。
リズムが決まっていて採譜できる民謡も、その特徴をひきついでいて、
見かけ上の「アウフタクト」ができるんだ、と思った。

436松戸彩苑:2009/05/10(日) 16:13:39
「エスペラントの詩の上手な朗読」というのを聞いてみたいものですね。
でないと、良さが判らないですね。

437Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2009/05/10(日) 20:11:34
>英語はかなり語順が固定され
スターウォーズのヨーダのセリフを聞くとその固定観念はもろくも覆ることに。
fight the darkside we must!

ところでセレン氏が有名なメルトをうたった動画をupしたので宣伝します。
http://www.youtube.com/watch?v=eoS0NnUfC5g

438Kanva:2009/05/11(月) 00:20:34
初期からあるキリスト教典礼文は散文であり、ミサ曲なんか数多く
作曲されてきているわけですから、
「定型に沿った韻文でないと(ヨーロッパで)名曲は生まれない」
ということは、誰にも主張できないことだと思います。
縦の揃わないポリフォニーなんかにおける韻文の意味って何でしょう?

また、古代ギリシア語の長短アクセントの韻文は、アクセント位置が
規則正しく現れるタイプのものではなかったので、ベダウリンデさんが
引用したような韻律の先祖とは、見なせないものだと思います。

439Kanva:2009/05/11(月) 00:36:26
> 長短を規則的に組み合わせだけのリズムって、単調に感じる。

私も、その点に同感です。
単純拍子と言われる2拍子・3拍子・4拍子で、中のリズムも殆ど同じ
形が続く楽曲は、単調でつまらなく感じられます。
私にとって自然に湧き出る音楽は、交替拍子や複合拍子のものであり、
たとえ同一の単純拍子が続く曲でも、中のリズム分割がいろいろ変わる
ものが好きです。
また、無拍子の音楽も好きです。

> 「文化」って「美意識」なんですよね。

少なくとも芸術の文化について言えば、「何が美しいか・かっこいいか」
という感じ方・考え方が、文化の違いですよね。
それぞれの文化圏での楽典や、演奏法のルールを知って音楽を聞くことで、
より深く本当に分かるようになるわけですね。
ヨーロッパも、長短のリズムを重視する言語や、強弱アクセントの言語の
葛藤によって音楽や韻律を変遷させてきたわけですが、その結実に我々が
縛られる必要はないと思います。

440Kanva:2009/05/11(月) 00:49:29
「アウフタクト」という用語は、私の身の周りでは、ドイツ語で本来意味する
リズム感覚を離れて、「練習番号○○のアウフタクトから始めてください」と
いうふうに、弱拍から始まるフレーズの、その弱拍部分一般を指すものとして
使われています。
小節番号や練習番号が、小節単位で振られているので、「○○の前の小節の
何拍目」、と言うより、「○○のアウフタクト」と言う方が早いというだけの
ことですが、色々な学校等の出自の人を含む団体で意味が通じているので、
そんなに変な使い方ではないのだろうと思っています。

441北辰:2009/05/11(月) 04:05:24
-->430: ベダウリンデさん、
私はあなたに何度か問いかけて、1度も まともな答をいただいていません。
> 402 名前:北辰 投稿日: 2009/05/03(日) 01:28:10
での私の問いかけに、まともな返事はなく、私の問いかけた
> Brendon Clark の作品、好きですか?
に対して、次のように 私の発言をゆがめた非難が ありました。
> 416 名前:ベダウリンデ 投稿日: 2009/05/06(水) 17:13:47
> 「誰それの詩は読んだか」(北辰さん)だの、みなさんトンチンカンだなあ
しかも続けて次の文があり、あれ! と驚きました。
> 421 名前:ベダウリンデ 投稿日: 2009/05/07(木) 09:42:52
> 北辰さんは別スレには書き込みしてるのに、ここには返事してくれませんでした。
いったい何についての返事を期待されていたのか、心当たりないのですが?
そこで松戸さんへの返事と、あなたの「みなさんトンチンカン」の意味を伺おうと
> 422 名前:北辰 投稿日: 2009/05/08(金) 07:50:32
で私の真意を説明し ご返事を求めたのですが返事がないまま
> 430 名前:ベダウリンデ 投稿日: 2009/05/09(土) 13:14:51
> (北辰さんは、やっぱり答えてくれないですね。そういう人なんですね)
とは、どういうことですか。何か私の答えを待つ問いかけがあったのですか。
 確認したいのですが、上に出した私の何度もの問いかけ、読んでおいでですね?
そして無視されたのか? それとも読んでない?
いま気がついた。私の何度かの書き込みが次のアクセスの時にはもう見えなく
なっていた。常時こんなことがあれば、目にふれない書き込みがあるかもしれない。
とすると。掲示板管理者の問題ですが、あるいはあなたも その被害者か?
 となるとあなたを責めるのは間違いかも。管理者さん、説明をどうぞ。人の回答を
求める書き込みはその返事が出るまで目にふれるように出しておくべきです。
そうでないと メンバー間に 無用の不信、混乱を起こします。ご返事を!
ベダウリンデさんは 私から聞きたかったことを知らせてください。

442ベダウリンデ:2009/05/11(月) 15:36:45
>いま気がついた。私の何度かの書き込みが次のアクセスの時にはもう見えなく
なっていた。

北辰さん、すれ違いの原因が分かりましたよ。
ここのように、スレ(○○について語ろう、のようなタイトル・テーマ)が複数ある掲示板では、
各スレにつき最新の幾つかのコメントしか表示されないのです。
そのスレの書き込みを全部読みたいなら、右上の 「All」 とか「Last50」をクリックしないといけないんです。

それはさておき、私は北辰さんの質問には「答えた」つもりです。
「トンチンカン」に関しては、突然聞いたこともない詩人の名をあげられ「好きか」と聞かれたので、
私は困惑し、「どうせ読んでないんだろう、読んでから言えよ」という「脅し」のように聞こえた、というのが原因です。
「脅しだ」と真に受けるのも大人げないので「トンチンカン」と、言葉を和らげたのです。
もしも北辰さんが「○○いう詩人は母音省略しないで書いてますし、私はこの詩人好きです」などと書いてくれていれば、
私だって「そうなんだー、読んでみようかなー」と思ったと思います。
今は北辰さんへの反感が強すぎて、読む気はありません。

私がしつこく、「答えて下さい」と言っているのは、
北辰さんは、このスレでの私に対する最初のコメントで「定型のリズムが崩れますが、どうするんですか?」
と強い語調で威圧してきたので、「そこまで定型リズムにこだわるのはなぜか」と聞いたのです。
(もう一回、Last50して読んでください)

443ベダウリンデ:2009/05/11(月) 15:56:46
Kanvaさん
アウフタクトの概念自体が、今はばらけているのでしょうね。
アウフタクトの概念が「強弱」を基準にした「弱」であるなら、
日本民謡には「強弱」自体が無いので、「アウフタクトは存在しない」となるのでしょう。
また、現代では日本人の耳も、アウフタクトに慣れ過ぎて、
4分音符の前に8分音符があるだけで、体がアウフタクトっぽく反応してしまうのかもしれないです。

444ベダウリンデ:2009/05/11(月) 16:36:31
百人一首など、和歌の「詠み」についてなんですが、
「一文字目とニ文字目をくっつける」以上に大きな特徴は「語尾をめいっぱい伸ばす」ことだと思います。
(『音楽の根源にあるもの』のP165に「追分様式」の説明として、同じ様な事が書かれていました。)
エスペラントでもTANKAOは盛んなようで、丹花さん、北辰さんも趣味となさっているんですよね?
私は創作の才は無いので、そういうのができる人が羨ましいので、
けなすつもりは決して無いのですが、ひとつ疑問が生じました。

日本語とエスペラント語では、言語の特質が異なります。
日本語芸術である短歌をエスペラントに移植するとなると、
和歌の様式と、エスペラントの言語的個性のどちらかを犠牲にしなければならないと思うのです。
その当たり、どうなってるのかな?と思いました。

詠唱のイメージでは「ありあけの〜〜〜」と語尾を伸ばしたいところですが、
エスペラントでは、語尾-oを省略しないと、末尾を伸ばせない。
-oを省略すると、西洋詩同様、日常語からの乖離、という現象になる。
省略しないで、「デラホマーロ〜〜〜」と詠唱しても、私は構わないと思うけど、エスペランチスト達が許すかどうか。
そうではなく、和歌の詠唱形式を諦めて「デラホマ〜〜〜〜〜ロ」と詠唱するか?

下記のサイトでは、
http://www.epa.jp/arangxo.html
朗詠できるエスペラント短歌として、西洋詩のように強弱の繰り返しになるような作詞を推奨しています。
太鼓のリズムに合わせて朗詠したいみたいなので、これはもう「ナンミョーホーレンゲーキョー」と同じ世界であって、
和歌の世界ではないな、と私は思ったのですが、
実際、エスペラント短歌の世界って、どんなものなんですか?

北辰さんへ「タイトル右上のLast50をALKLAKU!」

445胡人:2009/05/11(月) 22:57:30
「ナンミョーホーレンゲーキョー」がどの様なたとえなのか、実際に聞いたことがないので、よくわかりませんが・・・

謡などでも同じ様に、根本的に日本の和歌なども基本的には強弱のリズムで詠う様にできています。
それを鳴り物で奏することもあります。
また様々な流派、地域で、様々な詠い方、リズムがあります。

短歌31文字では、ただ、5、7、5、7、7すべての句をのばすのではなく、
始の5、中の5、最後の7をのばし、2番目の7、4番目の7を短くすることで抑揚が生まれ実際に詠える短歌になります。

それで短く詠う、2番目、4番目のところに「’」を使用し韻をふむことが一つの方法となる様に思われます。

446Kanva:2009/05/11(月) 23:44:36
「ナンミョーホーレンゲーキョー」は、私の知っている範囲の宗派では、
太鼓を入れるときには、「ダダダンダンダンダンダン」と7回打ちます。
6拍(ウラを数え入れると12拍)のリズムですが、6拍ともほぼ同じ強さ
なので、西洋流のいわゆる6拍子ではありません。
ひょっとすると、宗派によってかなり違う可能性がありますね。

思うにベダウリンデさんも、同じ強さの強拍が規則的に出てくる例として
おっしゃっているのだと思います。

日本語短歌で、二音節ごとに一つの強拍(長いor高いor強いor重い音節)が
出てくるとは私は思っていませんが、そういう説がどこかにありますか?
べダウリンデさんが 444>> でご紹介のサイト
http://www.epa.jp/arangxo.html
では、エスペラントで短歌を作る際に、強弱を二音節ごとに規則正しく
繰り返すように単語を置くように勧めているので、これでは日本語のリズムと
大きく違うように感じました。

胡人さんは、
> 謡などでも同じ様に、根本的に日本の和歌なども基本的には強弱の
> リズムで詠う様にできています。
と書かれていますが、これも強・弱を規則正しく反復することを意味しない
ように思われます。

ところで、胡人さんがおっしゃっている
「2番目、4番目のところに「’」を使用し韻をふむ」
というのは、いま一つピンと来ないのですが、
2番目の7と4番目の7に「’」を使って音節の強弱を合わせると同時に、
2番目の句末と4番目の句末を強拍にして脚韻を踏む
ということで宜しいでしょうか?

447ベダウリンデ:2009/05/12(火) 09:32:12
胡人様
>短歌31文字では、ただ、5、7、5、7、7すべての句をのばすのではなく、
>始の5、中の5、最後の7をのばし、2番目の7、4番目の7を短くすることで抑揚が生まれ実際に詠える短歌になります。

確かに、おっしゃるように、百人一首を読む時も、
1番目と3番目の後は伸ばして、2番目と4番目の後は伸ばさないように読むと、よりリズミカルです、が、
でも、それって「絶対的な規則」とは言えないのではないですか?
5行全部を伸ばす例も普通に見かけると思いませんか?(歌会始の映像で確認しました)

Kanvaさん
>思うにベダウリンデさんも、同じ強さの強拍が規則的に出てくる例として
>おっしゃっているのだと思います。

そのとおりです。
太鼓の音は和太鼓風に複雑なリズムを刻むのもありますが、
それに合わるお経は、タンタンタンタンと規則的な拍で読んでるように聞こえました。
(そうじゃない宗派もあるのかもしれないですが)

北辰さんへ「タイトル右上のLast50をALKLAKU!」

448北辰:2009/05/12(火) 11:53:35
ベダウリンデ 様
> 右上の 「All 」 とか「Last50」をクリックしないといけない
なるほど、原因がわかりました、ありがとうございます。失礼しました。
 あの詩人の名をあげた理由は前に説明した通り。あなたの「語尾 -o の省略反対」
の主張を見て、「B.Clark と同じだな、さては読んでいるな」と思ったので、--
「読んでない」こともありうるが、調べればわかること、面倒なら相手
(この場合私)に「どんな人?」と説明させればいい、この件は終わりですね。
> 定型リズムにこだわるのはなぜか
La Espero についての話でした。リズムを変えたり、母音省略をやめ音の数を
増やせば、今の楽譜では歌えなくなる。この詩には2人が作曲していますが、
どれもザメンホフの原作の詩についてのもの、あなたの考える内容改変したものは
見た事なく、具体的な詩(楽譜も)を見なければ いいも悪いも判断できません。
 この歌(La Espero)を、わかりやすい日本語歌詞をつけて エスペラントを
知らない人にも歌ってもらおうと している友人がいます。うまくできれば
いいな、と思っているのですが。1番だけ作って様子を見ています。
「やってみよう」と思う方、歌える試訳を どうですか?
> エスペラントでもTANKAOは盛んなようで、丹花さん、北辰さんも
> 趣味となさっているんですよね?
私は「趣味」と言えるほどには とてもとてもだが、外国にも紹介したい
国内の作品をいじっているうちに 短歌に当たってしまったのです。
 俳句は興味を持つ外国人が多く英語、ドイツ語その他で作る俳人が結構
いますね。エスペラントでもこの頃下火か、と思ったら「モバード俳壇」で
盛り上げている。日本の伝統的短詩型が外国人を魅する、のは愉快ですね。

449ベダウリンデ:2009/05/12(火) 16:34:15
胡人様
>短歌31文字では、ただ、5、7、5、7、7すべての句をのばすのではなく、
>始の5、中の5、最後の7をのばし、2番目の7、4番目の7を短くすることで抑揚が生まれ実際に詠える短歌になります。

学校で習った事を思い出したのですが、短歌には七五調だけでなく、五七調もあります。
その場合は、
あまのはら〜、ふりさけみればかすがなる〜〜   ではなくて
あまのはらふりさけみれば〜〜 かすがなるみかさのやまに〜〜 となると思います。

胡人さんが「詠える短歌」いう読み方は、私にもリズミカルに感じられますが、
それは、我々現代日本人が4拍子のリズムに慣れすぎているから、そう感じるのではないでしょうか?

あま、のは、らー、休
ふり、さけ、みれ、ばー
かす、がな、るー、休
みか、さの、やま、にー
いで、しつ、きか、もー

と、ついついこう読んでしまいがちではないか、という事です。

450ベダウリンデ:2009/05/12(火) 17:28:09
胡人様
「同じ強さの強拍が規則的に出てくる例」は、日本の歌で何があるか、考えたのですが
「手まり唄」的なものならありえますね。
手まり唄があるのだから、私が知らない日本の古典音楽でも、同じようなものがあるかもしれません。
ただし、手まり唄は、一拍の中が「タンタ」と細かくはずんでいますので
(例、あんた、がーた、どーこ、さ)
お経のような等間隔性とはまた違うようにも感じます。
(お経のようなリズムで歌う日本の歌があるのか、改めて探してみます)

http://www.epa.jp/arangxo.html で推奨されていた短歌形式は
お経のリズムなのか、手まり唄的なリズムなのか、実際聞かないと分からないですね。

北辰さん
単に「今の楽譜」に合うか合わないかだけを考えてたのですね。なーんだ、という感じです。
私は、歌詞がなぜ定型リズムなのか、そのリズム配置の由来は何なのか、を考えていたのです。
北辰さんはそういう事には興味無いでしょうから、質問は取り下げます。

エスペラントの詩の形式って、英語詩の形式に近いように思いました。
でも、英語を敵視してるエスペランチストが英語詩に倣うわけないし、と思って、
その由来をちゃんと知りたかったのです。
誰か詳しい人いたら、どうか教えて下さい。

451ベダウリンデ:2009/05/13(水) 09:15:23
「同じ強さの強拍が規則的に出てくる例」は、能の「大ノリ、中ノリ」がありましたね。
私は素人なので、単にセリフを読んでいるだけのように聞こえていましたが、
「謡」ともいうし、演じてる人は「うたってる」のかもしれないですね。
それに、敢えて棒読み状態で「うたう」事による音楽的効果もありますね、きっと。
緊迫感とか、鬼気迫る感じ、とか、やわな感情では立ち向かえない状態、とかを表現できるんだと思う。
お経もそうですね。(等拍に読むタイプのお経です。声明もお経の一種だから、ただし書きが必要です)
棒読みは感情を抑えてる感じがするので、それにより逆に、鬼気迫る凄味が感じられるのかもしれないです。

日本語は音節リズムの言語だから、何も感情を入れないと、単純な等拍の棒読みになる。
日常語では感情が入るので、多少等拍性が崩される。
感情を堂々と表現した「歌」となると、等拍性は意図的に崩され、はずんだり、語尾が伸ばされたりする。
和歌は感情を表現する芸術だから、等拍ではないリズムで歌うのが「正統」なのではないか??と。。
以上は私の推論です。

エスペラントや英語など、強勢リズムの言語はどうなのでしょう?
何も考えないで喋ると、強弱のリズムがバラバラになるので、その点を「醜い」と感じるのでしょうか?
日本語とは逆に、拍節にきれいに並べることが、彼らにとっての「美」であり「感情がこもってる」事になるのでしょうか?

こういう話には興味のない人が多いと思いますが、皆様のご意見をお聞かせ下さい。

452北辰:2009/05/13(水) 17:38:03
ベダウリンデさん
> 短歌には七五調だけでなく、五七調もあります
?? 七五調の短歌? どんなものか、例を教えてください。
五七調の例のつもりか、あたたが出している
> あまのはら〜、ふりさけみればかすがなる〜〜
は、五七五七七の 5句の、短歌と 呼ばれているものですね。
> 「今の楽譜」に合うか合わないかだけを考えてたのですね
違います。あなたは La Espero の改変を考えている。 -o などの母音省略を
やめて音の数、リズムが変われば当然楽譜も変わらねば歌えません。おもしろい
ものができたら拝見したい、とは思うが具体的なものは 何も見えないので
判断のしようがない、ということです。
 ザメンホフの La Vojo, 長く R,G,Tomblin の曲で歌われていたが g^anfranko は
これに全然ちがうメロディをつけてギター弾き語りで歌った。なかなか
おもしろいな、と思いました。もっとも原歌詞の改変は一切ありませんが。
> 歌詞がなぜ定型リズムなのか、そのリズム配置の由来は何なのか、
> を考えていたのです
詩を作るのが人間だからでしょう。人間のすべての動作は 心臓の鼓動、呼吸など
基本に強弱リズムがあり、若干の変化を加えて変種も作れます。あとは表現者
(作者)が自己の表現内容にふさわしいリズムを選ぶ、表現の自由を発揮するだけ。
> 英語を敵視してるエスペランチストが英語詩に倣うわけないし
ずいぶん不思議なことを言いますね。エスペラントの詩も(特に定形詩では)
英語も含むヨーロッパの詩の伝統を受け継いでいます。使いやすいから私は
エスペラントを主に使っているが、英語でしか 話せない人や、読めない情報に
出会えば英語を使う。どちらもコミュニケーションの道具で、場合場合で
便利に使えばいいことです。

453松戸彩苑:2009/05/13(水) 22:23:03
先に述べたように私は語尾の -o の省略が気にならないんですが、それは、合成語をつく
るときにしばしば(okul-vitroj のように)語尾の -o を省くということがあるからではないかと
思いました。

454Kanva:2009/05/14(木) 00:26:29
時に、日本語の定型詩と比較する対象としては、琉歌あたりがまず不可欠だと
思うのですが、まだ話題に出てこないようですね。

さて韻文には、強弱を主な要素とするものと、そうでないものの両方があります。
また、強弱を等間隔に繰り返すものと、不均等に配置されるものがあります。
例えば中古漢語以降の漢詩(詩詞)は、主に声調(平仄)に由るものですね。
この漢詩では、各音節(語)の間に、目立った強弱はつけないと思います。

私は、強弱が等間隔に繰り返される韻律は、「当たり前ではない」と思って
います。恐らくロシア語でもドイツ語でも似たような韻律をしているので、
サメンホフが採用したのでしょうが、エスペラントの内的リズムから自然に
導出できるものかどうかは大いに疑問に思います。
(私は高校時代、レールモントフの詩に曲をつけたりして遊んでいましたが、
もう遠いかすかな思い出です。)

そして、韻律に合わせるために語順を倒置することは比較的普通のことですが、
散文にない語尾省略をすることは、当たり前ではないと思っています。

ちょっと当面、書く時間が十分取れませんが、視座の一助になればと、追々、
インドの韻律の話を書ければと思っています。

455ベダウリンデ:2009/05/14(木) 09:56:44
北辰さん
>?? 七五調の短歌? どんなものか、例を教えてください。
五七調  http://100.yahoo.co.jp/detail/%E4%BA%94%E4%B8%83%E8%AA%BF/
七五調  http://100.yahoo.co.jp/detail/%E4%B8%83%E4%BA%94%E8%AA%BF/

>あなたは La Espero の改変を考えている。
そんな事全然考えてませんよ。ザメンホフがなぜ母音省略したのか考えてます。

>詩を作るのが人間だからでしょう。
北辰さんは私が考えてるような事には一切興味が無いのだと思います。
人はみな興味対象が異なりますから、それはそれで構いません。
北辰さんの「答え」は私には「答え」になってないのですが、
興味の対象が異なるので仕方のないことです。

456ベダウリンデ:2009/05/14(木) 10:11:38
>英語も含むヨーロッパの詩の伝統を受け継いでいます。

どうやらそのようですね。私は西洋詩の事は全く知らなかったので、
今回初めて関心を持って色々調べることができました。

参考文献  http://www.venus.dti.ne.jp/~kaisaki/gengoken/pdf/vol2/ueda2.pdf

『ロシアにおいて近代的な意味で言うところの文学の1 ジャンルと
しての詩が盛んになったのは17 世紀初めのことだが、この時期の
詩は各詩行のアクセント数のみを基準とし、音節数やアクセントの
規則的な配置は問題にしないアクセント詩法( тоническое
стихосложение)によって作られた。』

『上記の詩法は17 世紀も中期になる頃には衰退し2 、代わって主にポーランド詩から
音節詩法(силлабическое стихосложение)が輸入された。
この詩法はギリシア・ラテン詩法に起源を持つもので、
各詩行の音節数のみを一定にして、アクセントは問題にしないというものである3。
音節詩法は音節に長短の区別のある言語
(例えばギリシア語やラテン語)の詩法としては有効なものだが、ロシア語の
ように語のアクセントに著しい強弱があり、また音節に長短の区別がない言語の詩法としては、
その特徴を十分に生かせないことから、適したものとは言い難い。』

『初めてこの疑問を公にしたのはВ. К. トレジャコフスキーТредиаковский(1703-69)である。
彼は1735 年に『新簡易ロシア作詩法(Новый и краткий способ к сложению российских стихов)』と
題する論考を発表し、ロシア詩法の改良案を呈示した。
彼の改良案というのは、ギリシア・ラテン詩の模倣である音節詩型ではなく、
アクセント詩型こそがロシア詩に適している、というものだった。
また、彼はロシア詩に詩脚(ロシア語ではстопа)の概念を導入し、(以下略)』

『これに対してМ. В.ロモノーソフЛомоносов(1711-65)は1739年に
『ロシア詩法に関する書簡(Письмо о правилах российского
стихотворства)』7を著し、トレジャコフスキーの上記論考の不徹底性の数々を批判し、
ロシア詩法の改革案を呈示した。
彼の主張とは、アクセント音節と無アクセント音節の交替を詩行の一次指標に
高め、2 音節詩脚のみならず3 音節詩脚を認め、
強弱格以外にも弱強格(ヤンブямб)、強弱弱格(ダークチリдактиль)、弱強弱格
(アンフィブラーヒーамфибрахий)、弱弱強格(アナーペストанапест)を認め8、(以下略)』

『いずれにせよ、この2 人の活動により、ロシア詩には新しい詩法―すなわち
音節アクセント詩法(силлабо-тоническое стихосложение)―が導入された
のである10。』

『ロシア詩法の用語を英詩法、フランス詩法の用語と比較しながら見て来たが、
そのいずれもに語感の共通性があることが気付かれる。
それは、これらの詩法用語が本来はギリシア・ラテン詩法のものであったのを
後代のヨーロッパ諸国が輸入し、それを彼らの詩法に合わせるべく用いたからにほかならない。
つまり、このことはヨーロッパの詩法というものがギリシア・ラテンの模倣から出発し、
それぞれの言語に合わせるべく進歩したものであることを表している。
もちろん、その過程において、ヨーロッパ各国の詩法が互いに影響し
合って発展したこともまた事実である21。』

強勢アクセントのロシア語も、はじめは独自の形式の詩を持っていた。
しかし時代が下がるにつれ、ヨーロッパ色に染まって(?)いったことが分かりました。

457ベダウリンデ:2009/05/14(木) 10:21:55
Kanvaさん
>私は、強弱が等間隔に繰り返される韻律は、「当たり前ではない」と思って
います。

そうかもしれないですね。

>恐らくロシア語でもドイツ語でも似たような韻律をしているので、
サメンホフが採用したのでしょうが、エスペラントの内的リズムから自然に
導出できるものかどうかは大いに疑問に思います。

私も、散文のエスペラントでも、「十分美しい」という印象を持ってました。
なのでそこから独自の「美」を作ればいいになー、(と他人事だけど)そう思ったのです。

>散文にない語尾省略をすることは、当たり前ではないと思っています。

全くもって同感です。

458松戸彩苑:2009/05/14(木) 21:04:31
語尾の -o の省略の話が続いていますけれども、それに似た話を思い出しました。

エスペラントには dank' al (〜のおかげで)という表現があります。
これはザメンホフが使い始めたものですが、しかし、この表現を批判する人がいるんですね。

(1) エスペラントの16条の文法は、名詞の語尾 -o を省略することは認めているが、それ
    以外の品詞の語尾の省略は認めていない。

(2) だから dank' al は(たとえザメンホフが使ったものであっても)間違いであり、danke al
    としなければならない。

というのがその論旨なんですが、これについてはどう思われますか?
私の意見は、みなさんの意見をうかがった後で書きます。
---

それから余談になりますが、今日の昼ごろに「花より団子」に相当する表現を思いつきました。

  rizo pli ol rozo

というものですが、いかがでしょうか?
脚韻は踏んでいないんですが、一文字違いで意味が大きく異なるというところが面白いんじ
ゃないかと思ったんですけどね。

ちなみに『日本語エスペラント辞典』の「団子」「花」の項には「花より団子」の訳として

  regaloj pli ol flor-petaloj

というのが載っています。

459松戸彩苑:2009/05/15(金) 06:18:33
いま思い出しましたが、エスペラントの16条の文法においては「名詞の語尾の -o の省略」
だけでなく「冠詞の la を l' とすること」も認めているんですよね。

これについては、どのように思われますでしょうか?

460北辰:2009/05/15(金) 07:59:16
ベダウリンデさん
> ザメンホフがなぜ母音省略したのか考えてます
私が次のメッージで説明した通りです。
> 402 名前:北辰 投稿日: 2009/05/03(日) 01:28:10
La Espero の例でしたが、「詩のリズムを維持し、定形詩を構成するために必要」
と言う説明が、どうもあなたには理解できないようで、さらに
> 定型リズムにこだわるのはなぜか
と言われた時、根本的に「定形詩に対する理解がない人」と知るべきでした。
これはその後 あなたの
> > 英語も含むヨーロッパの詩の伝統を受け継いでいます。
> どうやらそのようですね。私は西洋詩の事は全く知らなかったので、
で明らかになりましたが、どうぞ理解を深めてください。
La Espero は kvin-trokeo(強、弱のリズム5個で1行の定形詩)なので、
それに揃えるためザメンホフは苦労してますね。しかし見事にできています。
 定形にこだわらず自由詩を作るのも、作者の「表現の自由」ですから、
面白いものができたら 見せてください。

461ベダウリンデ:2009/05/15(金) 17:17:06
定型詩といえば、短歌や俳句も日本の定型詩と言えるでしょう。(音節数の定まった詩)
5文字7文字の組み合わせは、日本人にはとても安定的に響きます。
それは万葉集の時代から現代まで、日本人の言語的美意識としてずっと続いています。
淡々と等拍的に「しずけさや」と言うだけで、とても安定感が感じられます。
「しずかだ」「しずかだよね」より「しずかだな」の方がリズム感が出ます。
このような言語的美意識は日本語の特質から出ているのでしょう。
私にだってちゃんと、母語の日本語では「定型詩に対する理解」はありますよ。

エスペラントにもtankao やhajkoもありますが、
エスペラントを5音節で言ったとして、はたして日本語のような美しい安定感は得られるのでしょうか?
「わがこころ」と同じリズムで「ほみあころ」と言っても、エスペラントらしくないでしょう。
エスペラントだったら「ホーミーアコーロ」と堂々と言った方がずっと美しいと思いますし、
わざわざ5音節にしなくても、いきなり「ミーアコーロ」と言ったとしても、全く遜色ないと思います。

462ベダウリンデ:2009/05/15(金) 17:35:44
エスペラントでtankaoやhajkoを作るのはなぜですか?
本当に、その音節数の組み合わせがエスペラントにぴったり合って美しい、と言えるのでしょうか?
日本の文化を外国人に紹介して親しみを持ってもらうためのツールとしては役立つでしょう。
でも、5,7,5音節のエスペラント文を読んだ外国人は、
日本人が日本の俳句で感じる美しさと同じ印象を持つのでしょうか?

ラテン詩型定型詩についても同じです。
それは西洋一般に普及して、彼らの美意識に染みついているので、
彼等にとっては、日本人が575で句を作りたいのと同様な理由で、そう作りたかったのでしょう。
でも、それは本当にエスペラントに合っているのでしょうか?
母音省略という、日常語を不自然に加工してしか生み出すことのできなかった
ザメンホフの「ラエスペロ」って、そんなに素晴らしいのでしょうか?
定型に無理やり押し込めた努力って、そんなに称賛される事なのでしょうか?

もし「西洋型定型詩はエスペラントにぴったり合っている」としたら、どうでしょう?
単語、文法はエスペラントはヨーロッパ的です。
それは我慢できるとしても、それ以上の「言語的美意識」までも、
ヨーロッパ流に染まらなければならない、という事です。
エスペランチストが「それでいい」と思ってるなら、私は何も言わないです。

463ベダウリンデ:2009/05/15(金) 17:52:37
そうそう、日本人は普通に喋る場合でも、ちょっと気をきかせば
すぐ5,7,5口調で言えますね。
なんでだろ、やけにくいつく、ほくしんさん(最後はちょっと字余り)
(まあ、俳句が芸術的になるには、内容が重要なんですけどね。)

エスペラントでも、『それに揃えるためザメンホフは苦労してますね。』
なんていうような「苦労」なんてしなくても、
誰でもさらっとリズム感ある詩句が言える言語だったら、
エスペラントはきっと魅力的な言語になってたと思う。

464Kanva:2009/05/15(金) 22:17:53
>松戸彩苑さま

まず、「散文と違う語形を、韻文で韻律に合わせるために頻繁に使うこと」が
問題なのであって、散文や口語先行で広まったものが韻律に入ったり、
或いはほぼ同時並行で入ったりする分には、違和感がないと思います。
また、韻文の方に古形が残ったために散文と違うのも、自然なことです。
どの言語でも、その言語に合った「美」を、文筆家が模索してきた歴史が
あります。言語という土壌がまずあって、その特性に合った文芸・文学が
花開きます。
そこを、「計画言語でもちゃんと文芸・文学ができるんだぞ」ということを
早く見せるために、無理して近隣言語の韻律を移植してきたのだとしたら、
それは何かおかしいぞ、というわけですね。
世界中の韻律の中から、作り手がどんどん好きな韻律を持ち込んで、
独自のエスペラント詩の世界を開拓するのが、筋としては望ましいことです。
……私は多分、やらないけれど。

dank' al は、もう群前置詞として機能していて、副詞としての danke の
意味が変質してしまっているので、副詞を示す語尾を省略しても構わないと
思います。
明らかに名詞として使っているのに名詞語尾を省略するのとは、違います。
それに、「韻文だから省略している」のでもありません。

465Kanva:2009/05/15(金) 22:43:51
インドの韻律は、皆様ご案内のとおり、大きく二つの流れがあります。
『リグ=ヴェーダ』を最古の文献とする、インド=アーリア語派のものと、
『サンガム』を最古の文献とする、ドラヴィダ語族のものですね。

後者は、大野晋氏が、日本語の五七調の源流ではないかと論じたもので、
文節を単位として各行を組み立てる独特のシステムを持っているそうです。

前者は、ヴェーダ語に端を発する、やはり膨大なシステムですが、
音節の長短(発音にかかる時間)を最も主要な要素として展開します。
音節は、
G (重=guru)と
L (軽=laghu)との
二種類に大別され、三音節の並びの略号として、順列組み合わせ的に
Y = L G G、
R = G L G、
T = G G L、
Bh = G L L、
J = L G L、
S = L L G、
M = G G G、
N = L L L、
というのがあります。
この辺はラテン語と似ていますね。
ただ、この三音節の並びというのは、意味のまとまりでも、韻律の感じ方の
単位でもありません。単に一脚の頭の音節から三つずつ数えて略号に
置き換えるだけの、諳記の道具のようなものです。

466Kanva:2009/05/15(金) 23:03:39
古典サンスクリットで、おそらく最も大量に使われてきた韻律として、
「シュローカ」(狭義の「アヌシュトゥブ」)があります。

○を、軽重どちらでもよい音節の記号とすると、

○○○○ LGG○, ○○○○ LGL○ |
○○○○ LGG○, ○○○○ LGL○ ||

という形式の韻律です。
8音節で一つのまとまりを持ち、その5音節目が軽く、6音節目が重い
リズムがミソです。全体としては、アクセントは不規則なはずなのに、
心地よい4拍子で歌える調子になっています。

エスペラントでは、このシュローカを構成するにも、句末から2番目の
音節を軽くするのがネックになりそうですね。

467松戸彩苑:2009/05/16(土) 09:40:16
>>464
たしかにその通りですね。

私の場合は「エスペラントでよく詩を作るなぁ」という感嘆(と呆れ)の気持ちが先に立ちます
ので、-o の省略とかはほとんど気にならないんですよね。
たぶん、そこのところで意見の相違が出てくるのでしょう。

ところで、これまでは「日本のエスペラント界は、欧米と比べると、詩に関心をもつ人の割合
が少ない」と言われてきたんですが、Kanva さんやベダウリンデさんのように詩にこだわる
人がいらっしゃるのを見て、正直言って驚いております。

残念ながら私は詩には詳しくないので、専門的なことは『Parnasa Gvidlibro』や詩集なんか
を取り寄せて研究していただきたいと思いますね。

あるいは、他のエスペラント掲示板で尋ねてみるという手もあるでしょう。

468Raku:2009/05/16(土) 09:49:35
>>460
北辰さんお勧めのエスペラント「自由詩」を教えてください。

>>462
>そうそう、日本人は普通に喋る場合でも、ちょっと気をきかせば
>すぐ5,7,5口調で言えますね。
一般に定型詩は西洋の詩でも漢詩でもそんな安直なものではありません。
かなり勉強を要します。なぜそうような詩形が出来たのかは、言語の音韻的
特質だけでは説明できない歴史的文化的背景があります。
「誰でもさらっとリズム感ある詩句が言える言語」とはどの言語ですか?
そんな言語はわたしは知りません。

>>464
>そこを、「計画言語でもちゃんと文芸・文学ができるんだぞ」ということを
>早く見せるために、無理して近隣言語の韻律を移植してきたのだとしたら、
>そそれは何かおかしいぞ、というわけですね。
>世界中の韻律の中から、作り手がどんどん好きな韻律を持ち込んで、
>独自のエスペラント詩の世界を開拓するのが、筋としては望ましいことです。
>……私は多分、やらないけれど。
同意です。「私は多分、やらないけれど。」の部分も含めて。
和歌の翻訳を考えてますが、一人ではできませんし協力できる能力を
備えたエスペランティストはいませんから絶望的ですね。

469北辰:2009/05/16(土) 10:30:54
-->458 松戸彩苑さん
ちょっと訂正します。
> (1) エスペラントの16条の文法は、名詞の語尾 -o を省略する
> ことは認めているが、それ以外の品詞の語尾の省略は認めていない。
文法第16条ですが、名詞の語尾 -o と 定冠詞の語尾 -a の省略を認めています。
いま気がついた。あなたは 459 で この件追加していました。
ほかは認められてないので、 dank' al については
> 間違いであり、danke al としなければならない
と 言えます。しかし、現実には「広く便利に」使われており
「文法原理主義」も なかなか優勢に なれません。
ザメンホフは dank' al と同じ意味に danke 〜-on も使っていますが、こちらは
前置詞省略の対格となり、文法違反にはなりません。
 この第16条の母音省略、詩人にとっては福音ですね。定形詩の音の数や
リズムを合わせるのに四苦八苦するとき、ほんとに助かりますから。
母音省略に反対し、わかりやすい詩を、と主張し実践している
Brendon Clark も おりますが、立派なもの、と思います。
> rizo pli ol rozo
おもしろい! もっとできそうですね。

470Raku:2009/05/16(土) 11:57:11
>>462
エスペラント短歌とエスペラント俳句の形式はエスペランティストの発明では
ありません。日本語歌人日本語俳人が非日本語人に短歌俳句を作らせるために
考え出した形式です。

471Raku:2009/05/16(土) 12:12:06
わたしの知っている限りでは日本語を除くあらゆる言語で短歌は
5音節、7音節、5音節、7音節、7音節の5行で書かれます。もちろん
日本語短歌のリズムを理解する助けにはなりませんし、それ自体としても
快いものではありません。

472Raku:2009/05/16(土) 17:25:33
エスペラント版ウィキペディアではこのようになってます。
Poemo
http://eo.wikipedia.org/wiki/Poemo

Poezio
http://eo.wikipedia.org/wiki/Poezio

Verso
http://eo.wikipedia.org/wiki/Verso

473北辰:2009/05/16(土) 19:03:49
Raku さん、
> 北辰さんお勧めのエスペラント「自由詩」を
寡聞にして、心当たりはありません。詩集を見てもみな定形詩、なかに
行の長さ不そろいで これは非定形=自由詩か、と思ってみると作者が組み立てた
独自のリズムと脚韻で組み立てた定形詩だったり でお求めには答えられません。
リズムも 韻も ないものは詩でなく、散文 ということでしょうか。
 このスレで母音省略を嫌い、詩のリズムの必要についても疑問を持つ方が
いるので、その考えを実行したら自由詩(自由律?詩)だろうと思い、
> 面白いものができたら 見せてください。
と書いただけです。
 日本の詩歌には自然と人間の関わりが多い。死後も「草葉の陰から」縁者を
見守ったり。英語文化の中から出た歌でも「千の風になって」が日本で受けたのは
そのためか。しかしヨーロッパ文化ではこんな思想は見えないようですね。
Mediuma Poemaro(ブラジル、 1972)は その性格上 生と死を扱った詩99編が
出てますが、ほかの生き物と違って人間だけは 神のもとへと 天をめざし、
「千の風」になる気配は全くなし。あの歌が元来アジア起源でアジアと共通の
自然観をもっていたインディアンからでないか、と言われる所以ですね。
この詩集の作品、構成は多様ですが、やはり全部 定形詩です。

474Raku:2009/05/17(日) 20:52:27
北辰さんお答えありがとうございます。
「詩=poezio/poezia?o」という理解は決定的に間違いということでしょう。

475Raku:2009/05/17(日) 22:30:58
エスペラント短歌俳句についてはベダウリンデさんがすでに指摘されましたが、
拍がすべて同じ長さと意識される日本語と違って、強弱アクセントでアクセントの
ある音節が長めに発音される言語では、強弱の並べ方に規則性がなければ
リズムは成立しません。

476ベダウリンデ:2009/05/18(月) 09:11:41
>このスレで母音省略を嫌い、詩のリズムの必要についても疑問を持つ方が
>いるので、その考えを実行したら自由詩(自由律?詩)だろうと思い、

それは誤解です。
私は「エスペラントならでは」の「エスペラントの言語の特性を生かした」
「母音省略という不自然な操作せずに、誰でも自然に口に出せる」エスペラント定型詩は
なぜ生まれなかったのか、という疑問を持っています。

西洋詩はラテン語の呪縛に縛られながら(ラテン語というお手本から離れられずに)発展してきた。
中国詩も(よくは知りませんが)古典詩の偉大さが大きすぎて、
現代中国人からすると「縛られている」と感じたりするかもしれません。

幸い私は日本人ですが、5文字7文字の組み合わせという日本の定型は
とても良くできたものだと、関心せずにはいられません。
古代から続き、現代の小中学生でも現代口語で短歌俳句が作れちゃう。
文字数という、最も単純な基礎だけ決まっている。
ジャンルによって規則(俳句の季語)や技巧(枕詞、掛詞)があり、
それによって単純さだけでない変化が加わる。
文字数の規則も厳密ではなく、字余り字足らずも許され、それでいてリム感が損なわれない。
5文字に合わせるために、不自然な言語的な操作をする「苦労」なんてないんです。

>「誰でもさらっとリズム感ある詩句が言える言語」とはどの言語ですか?
>そんな言語はわたしは知りません。
日本語ですよ。日本語で575口調で言うのに「苦労」しますか?
日本語の他に外国語自体を私は知らないのですが、
世界には、今の自分の気持ちを、即興で、メロディ付きで歌ってしまう民族がいますよね。
歌うってことは、リズム的にも自然に言えるって事かもしれないですよ。

ザメンホフは西洋人なので「詩とは苦労して既存の枠にあてはめるもの」という先入観から抜けられなかったのでしょう。
世界には、言葉をもっと自由にあやつる民族が他にも沢山いるかもしれませんよ。
いつまでも「ザメンホフの呪縛」に縛られていると、
エスペランチストはいつまでも19世紀ヨーロッパの枠から抜けられないですよ。

477ベダウリンデ:2009/05/18(月) 09:17:04
464のkanvaさんのご意見には全面的に同意です。
エスペランチストの中にも、西洋に縛られない人がいるのは心強いですね。

478ベダウリンデ:2009/05/18(月) 15:46:24
dank' al の件について、自分の意見。
日常語で頻出する言い回しが、より言いやすい形に丸まるのは、全く自然な事だと思います。
アキバハラがアキハバラになったように、です。
de temp' al tempoという言い回しも見かけた事があり、違和感はありませんでした。
言語は自然に変化するのが当然です。
ただし名詞末尾の母音省略は、日常語の散文にはほとんど見受けられず、
詩においてのみ頻出します。そこが「不自然」なのです。

>この第16条の母音省略、詩人にとっては福音ですね。定形詩の音の数や
>リズムを合わせるのに四苦八苦するとき、ほんとに助かりますから。
詩を作るのに、文字数を合わせるためだけに四苦八苦するのは、異常事態だと思います。
何のための「定型」なんですか? 詩人が「苦労」するためのものなんですか?
それとも、>422で北辰さんが『詩人の特権としてリズムや韻を揃えるために許される』と書いたように、
詩人が特殊技能をひけらかし、特権階級ぶるために必要なんですか?

479ベダウリンデ:2009/05/18(月) 16:00:57
詩の発生については、>464のKanvaさんの意見に同意で、
エスペラントでは詩が自然発生する前に、ザメンホフが既存の定型を安易に移植してしまった。
それは人工言語ならではの「失敗」だったと、私も思う。

それ以外にも、西洋や中国など、文化先進国には特有の事情もあると思います。
古代の言語では自然な形であった定型が、時代を追って言語の方が変化してしまい、
古代の名作詩は、実際の日常語とはかけ離れたものになってしまった。
しかし名作詩の権威は衰えなかったので、言語が変わっても昔の定型は守られる努力がなされ、
よって、詩は日常語と異なる言語で書かれるのが当然だ、という感覚になってしまった。
ザメンホフもそれを受け次いでいるのだと思う(19世紀ヨーロッパの限界)

日本も文明国だったけど、定型の基礎が単純で、時代時代に適応できたことが幸いしたのかな。

北辰さんはアメリカインディアンの例をあげたけど、彼等の詩はどのようなものなのでしょうね?
英雄叙事詩とか、神(彼等が神とみなすもの)への讃歌とか、きっとあるんじゃないかな?と思う。
そしてそれには、耳で聞いて心地よい、何か表現上の工夫があるんじゃないかな?と思います。
彼等は詩を「文字で記す」事はしなかったから、「昔の定型」は保持されない。
とすると、時代時代で言語が変わっても、聞く人が違和感なく聞けるような形で受け継がれてきたのでは?
と思います。まあ、これは私の「想像」ですけどね。
詩の言葉は本来は「自然なもの」であるべきだった、と思うんですよ。

480ベダウリンデ:2009/05/20(水) 10:25:20
ザメンホフは最初から、ラテン語っぽい詩を書けるように(或いは、書くために)、エスペラントを設計したのではないですか?

ラテン語アクセントについて調べたのですが、http://www.kitashirakawa.jp/taro/latin20.html
ラテン語には長母音と短母音があり、それとは別に高低のアクセントがあるようです。

ラテン語=『2音節の単語の場合。 語の最後から数えて2つ目の音節にアクセントは置かれます。 』とあり、
エスペラントでも最後から2番目にアクセントがくるので、
2音節目が長母音でないラテン語単語に限り、耳で聞いた印象は、エスペラントのアクセントと近くなるでしょう。

ラテン語=『3音節の単語の場合。 ラテン語では、後ろから数えて2番目の音節に含まれる母音の長短で判断します。
それが「長い」音節であれば、この2番目の部分にアクセントがつきます。』
ラテン語でこのパターンにあてはまる単語は、そのまんまエスペラントのアクセントパターンと同じになります。

ラテン語ではこれ以外のアクセント(『「短い」音節であれば、語の後ろから数えて3番目の音節にアクセントがつきます。』)
もありますが、そこまで真似ると、エスペラントの「規則性」が損なわれる。
エスペラントの規則性をなるべく損なわない形で、ラテン語詩の形体にも対応できるようにしたい。
そのための最も単純な「例外措置」が「末尾母音-oの省略」ではなかったか?
と思いました。
事情通の皆さんは真実をお知りでは?

481ベダウリンデ:2009/05/20(水) 10:34:28
問題点を先に書いちゃうと、
ザメンホフがラテン語風の詩をエスペラントで絶対に書かなければならなかったのは、
彼にとっては、西洋文明が世界の規範となるべき至高の存在だったからではないでしょうか?
その思想は現代の「世界人」からすると「異常」です。
世界の価値観は多様であり、全て尊重されるべきものです。
ヨーロッパ文明は特殊で魅力的ですが、それが世界の他の文化に比べて殊更に勝っている、と思う必要はないと思います。

エスペランチストは「ザメンホフ先生は常に正しい」「ザメンホフ先生のお手本どうりに詩を作ろう」
と素直に思いすぎていて、ザメンホフへの批判精神がなかなか現れないのだと思います。
その結果、みんなして「四苦八苦」してラテン語風の詩を書いて喜んでいる、
それが結果として、「西洋文明世界一!!」という凝りかまった価値観に陥る、
それはザメンホフの仕掛けた罠だと、誰も気付かずに・・・

482松戸彩苑:2009/05/21(木) 06:31:49
>>480
> ザメンホフは最初から、ラテン語っぽい詩を書けるように(或いは、書くために)、エスペラ
> ントを設計したのではないですか?

ザメンホフは最初は(アルカやクリンゴン語のように)民族語とはまったく関係なく単語を作
ってみたのですが、それだと自分にとってさえも憶えるのが大変だということが判って、そ
れで当時のヨーロッパ社会においてもっともよく学習されていたラテン語やフランス語をもと
に単語を作ることにしたんですね。

つまり「当時の人たちの学習のつごう」に合わせて作られたんですね。

それから詩ですが、ザメンホフは単純にヨーロッパ式の詩の作り方しか知らなかったんじゃ
ないかと思います。
(でもヘブライ語の詩の形式くらいは知ってたかもしれません)

「ヨーロッパ中心だ」とはよく言われることですが、100年前のロシア帝国民であったザメン
ホフがヨーロッパのことしか知らないのは已むを得ないでしょう。

ヨーロッパ以外の要素を取り入れるというのは、後世の人間がやるべきものだと思います。

483ベダウリンデ:2009/05/21(木) 09:32:28
>ヨーロッパ以外の要素を取り入れるというのは、後世の人間がやるべきものだと思います。
それが簡単なようで、簡単ではないんだと思います。

ザメンホフは基本単語を決める時、どういう基準で選んだのでしょうでしょうか?
ヨーロッパ語の中からアットランダムに「平等に」選んだのはないですね。
単純な多数決? だとしても、最も影響力のあるラテン語起源の単語が自動的に優勢になるでしょう。
或いはそうではなくて、最初からラテン語系優先で考えた、とも考えられますね。
ラテン語優先で考えれば、必然的に、その直接後継者であるところの仏伊西の各国語に近くなるし、
英語もラテン語単語の影響が強いのでイギリス人にも好都合。
西洋文明の規範であるラテン語を優先にするなら、違う単語を使っているドイツ人ロシア人も文句ないだろう。
(ドイツ語ロシア語起源の単語は微量取り入れれば、一応平等ということで納得してくれるだろう)

今回、アクセントまで「ラテン語風」に仕組まれていたと、初めて気がついて知って、ちょっとショックでした。
Kanvaさんがkoroはラテン語のcorだと教えてくれましたが、
一音節名詞はラテン語にはありますね。(エスペラントで一音節は代名詞前置詞数詞くらい)
花floro=flos 山monto=mons 平和paco=pax 声voĉo=vox 王reĝo=rex
そういう単語は末尾母音省略することで、音韻面でもラテン語に近づくのだと思います。

日本人の私も、ラテン語基準なら他のヨーロッパ語を覚える時に便利かな?と
最初は安易に考えていましたが、
単語面で妥協すると、歌とか詩とか「文化」に関わることまでも、
西洋文明に対して妥協しなくてはならないんだな、と気づきました。
ラテン語風単語を使ってラテン語風アクセントで歌えば、
立派な「エセ」ラテン語風歌になるしかないでしょう。

日本人エスペランチストが素直に「ザメンホフ先生をお手本に」なんて思って詩を書いていると、
ヨーロッパ人は、「我々の西洋文明が優れているからアジア人が模倣しているのだな」と思うんだろうな。

484ベダウリンデ:2009/05/21(木) 09:56:07
>ヨーロッパ以外の要素を取り入れるというのは、後世の人間がやるべきものだと思います。

おまけで書きますが、エスペラントでは
(エスペラントがヨーロッパ一色から脱するために)アジア人頑張れ、なんて話は普通にありそうですね。
でも、アジアだからって即「団結」できないですよね。
ヨーロッパの基盤は「ケルト、スラブ、ゲルマン」と多様だったとしても、
共通して誇り憧れる「ローマ文化」がありますね。
ドイツは「神聖ローマ」と称し、ロシアも「ローマ帝国の正統な後継者であるビザンツ帝国の、さらにその後継者」を自任してた。

アジアはまとまれるものないですよ。価値観が多様すぎる(そこがアジアの魅力ですが)
中東なんて、「一神教」で、こっちから見るとヨーロッパ的だし。
インドは「多神教」でその点は近いけど、あのあくの強さは異質だなーって思う。
中国韓国は「漢字文化圏」の仲間だけど、彼等「大陸的」。
それなのに「アジアは協力してヨーロッパのエスペラントに対抗しろ」なんて
無理だと思いませんか????

485Kanva:2009/05/21(木) 20:43:30
ベダウリンデさん記:
> ラテン語風単語を使ってラテン語風アクセントで歌えば、
> 立派な「エセ」ラテン語風歌になるしかないでしょう。

そういうことだと思います。


さて、古典サンスクリットの「シュローカ」、プラークリットの「ガーター」に
続いて、アパブランシャ文学以降になって代表的になった韻律は
「ドーハー」です。

サンスクリット以来、インドの韻律には「拍(マートラー)」という
発音の長さの単位があります。
「ドーハー」は、音節数を定めず、主に拍の数だけで決まる韻律です。
(サンスクリットにおける韻律「アーリヤー」などの仕組みと類似。)

拍一つを 0 で表わすことにすると、

000000 0000000, 000000 00000 |
000000 0000000, 000000 00000 ||

という、24拍×2行の韻律(二行詩)です。
(ヒンディー語における「一番短い韻律」と言われています。)
古典サンスクリットの韻律では、脚韻を踏む必要はなかったのですが、
ドーハーは各行末の2音節ずつで脚韻を踏みます。
行末最後の音節は短い(1拍の)音節になります。

こうして、各言語文化圏内でも、時代によって韻律の形が変わっていく
ことがあります。

漢語の場合も、音韻体系が時代や地域によって大いに変わってきており、
平仄の本格的な仕組み(近体詩)ができたのは、中古漢語以降(六朝期)で
あると言われますよね。
仏典の翻訳では脚韻を踏まないなど、ジャンルによる違いも指摘されます。

486ベダウリンデ:2009/05/22(金) 09:02:03
心地よいリズム感というものは、言語や時代によって異なる、ということですよね。
エスペラントが西洋流のリズム感に固執し続けるのは、やはり尋常ではない、と私は思います。
さて、エスペラント詩が「エセ」ラテン語詩から脱却するにはどうすべきだったか、というと、
エスペラントならではの個性を前面に出すことではないか、と思うのです。
単語がラテン語起源なのは仕方ないとして、エスペラントの場合、語尾が極度に規則的だという点は
人工語ならではの個性であると思うのです。
それは既存の民族語の美意識からすると「変化がなく醜い」となるのでしょうが、
個性は、それを恥じれば欠点でしかないですが、堂々と出していればチャームポイントになります。
「何〜ァ、何〜ォ言ってるから、これエスペラントだね」と一般人にも区別できたら面白いです。
タモさんの4ヶ国語麻雀のように、でたらめエスペラント語が言えるくらいの「個性」があったらね、と思います。

それからエスペラントで、詩の分野と散文の分野で、全く異なった語法が使われてきたのは
エスペラントの発展にとってマイナスでしかなっかたのでは?と思います。
ただでさえ人的資源にハンディがあるエスペラントです。
詩へ向けられた「四苦八苦」の情熱が、日常語を豊かにする方向へ向かえば良かったのに。
日常語で使えない詩語や詩的アクセントにいくら磨きをかけたって、それは「無駄な努力」だよ、と思うのです。
「詩人達」が、リズム感ある素敵な言い回しを、日常語で使える言葉のために開発してくれたら、
エスペラントはもっと豊かな言語になっていたのではないですか?

487なつ:2009/06/19(金) 22:10:41
エスペラントはヨーロッパ的すぎる
と思ってましたが、その考えは変わってきました。
ヨーロッパ人にしてみれば、習得の容易さからいけば
格段にインテルリングワです。
エスペラントの特徴は、①恣意的な語彙選定②人工的な造語③共通的欧州語から安易な採用(特に新語)。
アジア人からは看過しがたいのですが(特に③)、
ヨーロッパ人にとってみれば③だけでいくインテルリングワが圧倒的に容易で、
逆に特に②が、エスペラントはうざいし覚えにくいと、こうなるわけですね。
例えていうなら、病院は、malsanulejo=反・健・人・所は、②だから、
ヨーロッパ人にとっては、
覚えにくいからhospitaloでいいじゃん、と③でいこうとおしきることになる。
結局2語覚えなければいけないはめになる。
ヨーロッパの言語が不得手な人にとっては機能語を駆使した造語方法のほうが絶対に覚えやすい。

かたや、インテルリングアは、ハナからhosipital一本でいく。

で、母語または第一外国語がヨーロッパの言語だという人は世界で圧倒的多数だと
すれば、その次に学ぶ人工語は、それにより近いインテルリングワのほうが有利といえなくもない。

しかし、インテルリングワをやるんだったら、いっそのこと英語で十分だという意見が強くなる。
無理する必要はなく、英語でいいと。
以前は、Z氏の時代などは、フランス語、ロシア語、ドイツ語、英語、あるいはラテン語などが肩を並べていた。
しかし、いまは、そういうこともなく少なくとも全ての科学の分野では英語で論文を書かなくてはフランスやドイツの機関でも取り扱ってくれない。
国際的学会はどこの国でも英語でやる。あるいは、一流ホテルはどこでも英語で通じる。
Z氏の時代と違い、小さいころからみんな英語に的を絞ればいいだけということだ。
言語間の優劣争いがない今、それを怠らなければ、言語の不平等はない。
英語使用者と不使用者の間で格差は起こるだろうが、それはどの言語を採用してもそれは起こりうることだ。

488なつ:2009/06/19(金) 22:13:16
加筆。アンチテーゼです。

489ベダウリンデ:2009/06/24(水) 10:19:37
インテルリングワ(インターリングア?)も名目「国際補助語」なんだけど、
設計は最初から西ヨーロッパ(=ロマンス語系)志向なんですね。
「西ヨーロッパ的」なのは最初から承知で、というか、それを目指して作られたんだから、
エスペラントと比較しても意味ないと思う。
世界中の諸民族から等距離で平等ですよ、とか、嘘宣伝してないから、売り方としては公正だと思う。
アジア人だったら「こんなんだったら英語でいいよ」ってすぐ思うから「騙されない」ですむ。
エスペラントは名目が平等をうたってるし、設計としてもそれを目指してはいたんだろうけど、
なにせ「当時の時代のせい」とやらが今でも生き残って、ヨーロッパ色がいつまでも消えない。
自分は「救急車」の英単語を知らなかったから、エスペラントでもなかなか覚えられなかった。
malsanoaŭtoとかにしてくれれば簡単なのに、と思った。
ヨーロッパ人がmalsanulejoを覚えるの負担だと言っても、日本人が「救急車」覚える苦労に比べたらはるかに楽ですよ。
日本人が、これからは「病院」と言わずに「反健人所」と言いましょう、と言われたとしても
大した苦労なく順応できると思います。それと同じです。

490ベダウリンデ:2009/07/01(水) 10:17:57
「エスペラントが自然言語的だから」とか言われちゃうと、元も子も無いんですが、
人工言語なんだから、もうちょっと「不自然に」ぎちぎちと決まりを守ってもらえたら
逆に「平等」になったんじゃないか、とも思いますね。
数百?の基本語くらいなら西欧語起源でも全く構わないですよ。
その程度なら頑張って覚えますよ。
でも、造語で言葉を作らないで、西洋語に-o付けてる例が多すぎる。
まともな文読もうとすれば、そういうのばっかりです。
語源が同じゆえ似て非なる単語も多く、混乱します。
humoroとhumuro、どっちが気質でどっちがユーモアなのか、最初全然分からなかった。
英語でユーモアhumorは気質の意味もあり、古さとしてはそっちなんですね。
ユーモアの古い正当な意味=気質がhumoroで、新しい方はhumuroとして区別。
何とややこしい!!!

あと、造語で作ってるくせに、なぜそうなのか通じない例。
よく言われるeldoniもそうだけど、bonhavo良い持ちって何?と思った。
簡単な単語をつなぎ合わせてるのに、意味不明。
財産、だって、ふーん、なんかこじつけっぽい。
きっとどこかの民族語の熟語から来てるんだろうけど、
その民族の感覚が万国共通とは限らない例ですね。

あー、あとそうそう・・・まだまだある不満・・・

491ベダウリンデ:2009/07/02(木) 08:56:28
最初、ホームページのトップに書かれるbonvenonの意味が分からなかった。
今は分かりますよ。英語で言えばwelcome、日本語では「よく来たね」的な表現。
でも、salutonは挨拶「を」、dankonは感謝「を」、こっちにくれる、という意味。
bonan tagonは好き日「を」、こっちに願ってくれてる、という意味。
bonvenonって、「良い来訪を」こっちに願ってくれている?
既にこっちの意思で来訪してるのに、訪問された側が他人事のように言うのがピンとこなかったです。
bonvoleも「良い意思で」が「どうぞ」になるのは微妙な気がした。

その他、partopreni、voĉdoniは、「答え」を知れば「言い得て妙」なのは分かりますが、
答えを知らずに意味を汲みとれ、と言われたら無理。
vidpunktoは文字どおり「視・点」で、そういうのもありますが。

造語は話者が勝手に作って、聞き手が想像力を働かせろ、というのは無理だと思う。
でも、既存の、上手く出来た造語は、「答え」が分かった後なら覚えやすい。
漢字文化圏なら、意味+意味=別の意味、という熟語の観念に慣れてるから、特に分かりやすいと思う。
逆に西洋人は、そういう習慣が無いから、造語=分かりにくい=
だったらみんな共通認識してるラテン語系単語ですませちゃえー、
となるのだと思う。

492ベダウリンデ:2009/07/02(木) 09:16:50
思えば、自然=自由の世界では、強い者が勝つんですよね。そして不平等が起こる。
平等を求めるならば、何らかの統制が必要なんですよ。
エスペラントは自然・自由な発展を許してきたから、強者であるところの西洋色に染まってしまったんだと思う。
エスペラントにも強力な統制機関が存在して、造語の考案と普及と検閲(?)をしていたら
不平等な西洋語が、こんなにもエスペラントに溢れなかったのではないかな?と思います。
でも、全体主義的な人工語なんて、怖くて誰もやらないと思いますけどね。
なので一長一短ですね。

たまたま、エスペランチストの集合写真を見たんですが、会場はヨーロッパでしょうね。
ほとんど全員ヨーロッパ人でした。彼らでかいから迫力ですよ。日本人みたいにきちっと並ばないし。
アジア人やアフリカ系の風貌の人はいないかな?と思って探したんですが、
アジア系は最後列にちんまり写ってました。存在感うすっ!
エスペラントの現状を表してるな、と思いました。
過去も今もエスペラントは白人主体。
アジア人やアフリカ人は「国際語ですよ」を主張するための、お飾り・おまけにすぎない、と思いません?
もちろん中国は政府の後押しで、日本はボランティアの尽力で、
エスペラント運動頑張ってると思うけど、「蚊帳の外」感がありあり。
韓国はどんな系統の人がエスペラントやってるのか、さえ不明だし。

493ベダウリンデ:2009/07/02(木) 09:27:32
あー、そうそう、「そんなに不満ならエスペラントやめれば?」「他の人工語やれば?」
という声が聞こえそうですが、私には「エスペラントの変さ」が面白いのです。「中途半端さ」「へたれぐあい」が。
そもそも、何かの役に立てようと思って始めた訳でもないのです。
最初の動機から「暇つぶし」として始めました。
ゲームとかユーチューブ見るとか、テレビや読書、音楽鑑賞とか、そういったものの代わりです。

494ベダウリンデ:2009/07/03(金) 10:12:41
エスペラントは「造語力」があるから、数少ない語根で無限に(?)造語できる、とか
どっかで読んだような気がします。
自分も単純に信じ、「それはすごい」と思ったのが、エスペラントに興味を持ったきっかけの一つです。

でも、今は思う。「発想はいい」、けど、十分に生かしきれなかったのではないか、と。
造語のパターンとして、接頭語・接尾語を使ったものと、語根+語根のものがあると思う。
接頭語を使ったものは特に、慣れないと分かりづらいです。
subteni=下で保つ=支持する、elteni=保ち抜く=耐える
substreki=下に線=強調する、subskribi=下に書く=署名
どれも「言われてみれば」分かるけど、自分で想像しろ、と言われたら無理。
でも、西欧語起源の語を新たに覚えるよりは楽だと思し、よく考えたな、と思う。

語根+語根は、○○の××、○○な××、という即物的表現が多い。
partopreni、voĉdoniのように、ちょっとひねった表現は、むしろ少数派かもしれません。
即物的表現は、日本人(あるいは他のアジア人)にも、西洋人にも、分かりやすいと思います。
ですが、熟語に慣れた日本人としては、ちょっとひねった型がもっとあっても良かったかも、と思います。
それによって、西洋語起源の語が「駆逐」できたなら、その方が良かったです。

ザメンホフや創設時の西洋人の仲間達は、熟語を作る能力=想像力が、
「西洋人だから」劣っていたのかもしれません。
例えばridegoが爆笑なら、pensegoが熟考だっていいではないですか。pensetoが軽率、とか。
grandanimaが寛大なら、grandmienoがでかい顔=尊大だっていいではないですか。

でも、今更、今の西欧主義で完成されたエスペラントは変わりませんよね。
平等=自由の原理で西洋人にとって楽な方へと流れ、
劣ったアジア人は西洋人を模倣すべく、必至でそれについていく。

495ベダウリンデ:2009/07/03(金) 10:18:25
×平等=自由
○自然=自由

496ベダウリンデ:2009/07/04(土) 17:46:38
日本語の熟語というのは、和語+和語(高笑い、とか)もあるけど、
漢語の熟語の比率が多いです。
漢語の熟語は音だけでは意味が汲み取れない。
「きゅうきゅうしゃ」と発音しても、漢字知らなかったら意味が分からない。
「れいきゅうしゃ」もあるけど、車の仲間なのに「きゅう」の意味が違ったりする。
漢字で熟語が発達したのは、表意文字を用いるから、短い同音で異なる意味を表せたからかもしれない。
エスペラントは表音文字なので、単語の意味が異なれば音まで変えなければならない。
必然的に一つの単語の音の長さは長くなり、熟語でくっつけばくっつくほど長くなる。
長い=面倒=だったらラテン語系単語が短く言えて楽、となる。
とすると、造語で単語を増やす発想自体に無理があったのかも。

それから、エスペラントは「論理性」を売りにしてるので、
論理的でない感覚的な造語は好まれないのかもしれない。
西洋人社会で慣習的に既に言いまわしている熟語なら、非論理的でも取り入れるけど、
それ以外に想像力を駆使して上手い表現を新しく生み出すまでは、いかなかったのかも。
高笑い=alt/ridoなんて言ったら、高く笑うってなんなの? 意味分からない、と言われそう。
勝ち誇って得意満面で笑うと声が通常より高くなるでしょ、そういう意味って言っても
想像力無い人種には「はあ?」かも。

mok/rido=嘲笑 sub/rido=下で笑う=忍び笑い、はあるみたいです。

497なつ:2009/07/05(日) 12:35:31
>>エスペラントは「造語力」があるから、数少ない語根で無限に(?)造語できる、とか
>>どっかで読んだような気がします。
>>自分も単純に信じ、「それはすごい」と思ったのが、エスペラントに興味を持ったきっかけの一つです
同感です。どの人にも平等で学びやすいというのと合わせて、だまされたって感じです。
それをここで語ると、「まず人を呼び込むことが大事なのだ」というようなことを言われたような気がします。
つまり、ちょっとの捏造や虚偽や甘言を用いて、入ったらこっちのものだと。
あらら宗教団体や左翼団体と同じ発想で悪びれる様子がない。
エスペラント諸団体が左翼団体なんですがね。
話がそれましたが、数少ない語根で造語ができるという思想は特に非印欧語族者にとってとても有意義なはずです。
しかし、実際は数百語レベルまで行くとあとは、ヨーロッパ語を安易にどんどん取り入れているから、覚えるのが結局大変で、自然語とあまり大差はないと気付く。
しかも日本人でも上級者になれば、malを嫌う人が出てくる。
ここの掲示板でもかつて、話されてたんだけど、malを嫌う人が多数で、
どんどん新語を作っていく方向の人たちが圧倒的多数でした。
学びやすいことを考えるとベクトルが全く逆なんですけどね。
malあるいはinoを使うことだけでも、どれだけ入門期に助けられることか。
単純に覚えることが半分です。それをみんな忘れてしまうのだろうか。

統制する機関が必要だったと僕も思います。
が、結果はほぼ同じだったと思います。
例えるならアカデミーオに権力を与えるだけですから。

語彙に関して疑問を呈している方の言葉を思い出しました。
その人の例はmonoteismo(一神教)はunudiismoにすればいいじゃないか。
金茶主義ってなんなんだ、と。
せっかくすぐれた造語法があるのに安易にヨーロッパ語を取り入れて、ヨーロッパ人びいき甚だしいと。
ちなみに、英monotheism、仏monotheisme、伊・西monoteismo、独・羅monotheismus、インテルリングワmonotheismo

498エスペロ:2009/07/06(月) 07:41:19
Esperanto restas post ĉio Eŭropa Lingvo...ĉu...?
エスペラントは、所詮、ヨーロッパ語なんですね・・・?

Aliaj ekzemploj: politeismo(plurdiismo),lano(ŝafharo),murdo(hommoritigo),
dermologo(haŭtokuracisto)...
他の例: 多神教、羊毛、殺人、皮膚科医・・・

499ベダウリンデ:2009/07/06(月) 09:12:09
エスペラントより新しいインターリングアはエスペラントよりも西欧的。
エスペラントの改造板イドも、「西洋人」がエスペラントに対して抱いた未完成感を補う程度の変更だったのではないかと思う。
非西洋人に対しても平等にしようという方向性の改造案は、今まで無かったのでしょうか?
無いとしたら、どうしてなんでしょうね?

日本のエスペランチストさんの発言を読んでると、
「今のままで十分コミュニケーションできるから、今のままでいいんだ」
「エスペラントに不満ならイドに行けばいい。イドは変更ばっかりで結局失敗したが」
「エスペラントに不満なら他の人工語をやればいい。で、その人工語の話者数はどの位ですかな」
「エスペラントって案外難しい。でもそれは自分の努力不足でせいだから、もっと頑張らねば」
のように、エスペラントの批判は全くといっていいほど、しません。

また、不備を指摘されると、
「エスペラントは民衆の物だから、民衆の選択により、不備な点は自然と変わっていくだろう」と言う。
その人個人は既存の語法を模倣してるくせに。超保守的な人が、そのうちいつかきっと変わるよ、と夢見る変さ。

日本人エスペランチストも、詩語や西洋語起源の学術用語を知ってて使える方が偉いエスペランチストなんだ、
ベテランなんだ、使いこなしてるんだ、という認識が強そうですね。
アメリカ上流階級英語が話せる方が、ヒングリッシュ、シングリッシュより偉いんだ、
という認識と全く変わらないです。

500ベダウリンデ:2009/07/06(月) 09:39:40
これは全くの冗談話なんですが、自分がエスペラントを改造するなら、
文法には手をつけずに、造語を大改造しますね。基本的に語根は変えない方針で。
monoteismo->unudiismoは、まだ甘い、なんてね。

エスペラントは「論理性」を売りにいてるから、造語も冗長になりやすいです。
ridindaĵo=笑うべき物、ですが、ここで「べき」なんていらないですよ。
ridaĵoだけで、笑える可笑しい物だって分かるし、他と混同することもありえない。
okulvitroj眼鏡も、長いし、発音が難しい。だったら、okuliloでいいじゃないですか。
目で使う道具で、日用品として頻繁に使う道具なんて、眼鏡くらいしかないですよ。
コンタクトレンズはokuliletoとか、望遠鏡や顕微鏡は特殊な人以外は普段は使わないから
○○okuliloでいい。専門でいつも使ってる人はTPOに合わせてokuliloと言えばいい。

-umiも便利なようで、意外と実用化されてない。
malvarmumiは初心者で習う例だけど、上手く出来てるのは他にplenumiくらい。
okulumi=見る(今は色目を使うという意味ですが)でいいじゃないですか。
目でやる事は見る事でしょう。okulumiĝi=見える。
nazumi=においを嗅ぐ、nazumiĝi=匂う。
orelumi=聞く、orelumiĝi=聞こえる。
piedumi=歩く、krurumi=走る、などなど、

501N:2009/07/06(月) 22:24:06
Saluton, Nです。エス単語はなるべく易しい基本語から造語されるべきで、
ヨーロッパ人特有の「理解」に他の地域のE-istoが合わせる必要はないと
考える1人です。たとえば「subvencio」は「helpmono」のほうがよい、と
か。
後藤文彦氏の「使いたくないエスペラント単語」をお読みください。私も
基本的に賛成です。

http://www3.ocn.ne.jp/~gthmhk/trmnr.html

502ベダウリンデ:2009/07/07(火) 09:34:55
>501
>subvencio」は「helpmono」のほうがよい
その通りなんですが、ヨーロッパ人が文書でsubvencioって書いたら辞書引かなきゃならないし、
口頭だったら、その時点で話はちんぷんかんぷんか、
いちいち「今の単語分かりません」って言って、皆の議論を中断させるかのどっちかです。
日本人は遠慮勝ちだから「分かりません」って言うより、「今の単語何だったんだろ」と一人で悩みながら傾聴し続けるだけかも。
現にヨーロッパ人達が何の悪びれもなく使っていて、辞書にも載っている正式なエスペラント単語なので
少数の意識の高い日本人がジタバタしても無駄だろう、と思います。

後藤さんのHPは、初期に検索した時に出てきたので、一部は読んでると思います。
難しい高級語を簡単な造語に、というのは基本賛成です。
問題点として、やはり、日本人が一部で騒いでもヨーロッパ人主体の世界では
焼け石に水、ではないか、という事です。

動物が「鳴く」という単語が、動物毎に異なるのは煩わしいから一つにしろ、というのは、全く同感。
さらに言えば、動植物の名前も削減してほしい。
学名調の呼び名で言わないで、○○鳥、とか、○○猫、とか
ライオンはキング大猫、ピューマはアメリカ大猫、虎は縞大猫、とかでいいよ。
インドは虎しかいないだろうから、「大猫が出たぞー」と言えば、「虎が出た」と思えばいい。

後藤さんのリストには、高級学術語でないものも入っていますが、
庶民が日常で使う用語で、同音の言い方が世界的に広まってるものならば、
わざわざ造語しなくていいと思う。
野球はbasbaloでいいですよ。アメリカの民族的競技としてĵudoとかと同じ扱いでいいでしょう。
basbaloはやり玉にあがってるのに、ĵudo,futbaloは載ってない、というのも恣意的。
operoも民族的芸術の一種なので、そのままでいいでしょう。
西洋語の駆逐という点に厳格になりすぎても、冗長でわずらわしくなる。

503ベダウリンデ:2009/07/07(火) 09:42:18
blinda(めくら)surda(つんぼ)などを改善、には賛成。
未だに使うヨーロッパ人というのは、差別語の問題意識が日本人とは異なるのか、
或いは、差別的ニュアンスがその語には無いのか、よく分からない点です。

それから、詩語もやり玉にあげているのは、偉いと思う。
詩人かぶれのせいで、エスペラントはより難解になった、と。
(言ってやれ、言ってやれ!ですよ)

504ベダウリンデ:2009/07/07(火) 18:15:03
>501
Nさんのコメントは
私の499の「非西洋人に対しても平等にしようという方向性の改造案は、今まで無かったのか」への
返答なのでしょうか? ありますよ、という。

一部の人が個人的に主張してるのは分かりますが、
イドのような「分派」として存在するのでしょうか?
エスペラントの枠内で大人しく主張してるだけでは、
結局多数派の強者に飲み込まれてしまうのではないですか?

それに、subvencioとhelpmonoのような日常語(この例は事務用語)なら方言的バリエーションは許されると思いますが、
高級学術専門用語において、monoteismoとunudiismoのように、同じ内容を示す語が二つあっていいんでしょうか?(素朴な疑問)
下手に2種の言い方を許すと、「我々のはmonoteismoだが、奴らのはunudiismoだ。」と
屁理屈こねて同じものを違ったものとして言いくるめようとするヤカラが現れたりするかも。

505エスペロ:2009/07/07(火) 21:13:02
Mi,tamen,prie argumentas alimaniere,karaj N,Bedaŭrinde...
お言葉ですが、Nさん、べダウりンデさん、私はこの点については別の考えです・・・

Mi mem preferas vortojn 'subvencio','monoteismo','paleontologio','latitudo' al aliaj kunmetitaj vortoj...
私自身、subvencio,monoteismo,paleontologio,latitudo...の言葉の方が他の合成語より好きです・・・

Ĉar mi asertas ke E simple estu komuna lingvo NUR inter eŭropanoj...
kaj mi opinias ke E evitu kunmetitajn vortojn nenaturajn al eŭropanoj...
E ne bezonas prikonsideri parolantojn de ne-eŭropaj lingvoj...
なぜなら、エスペラントは、ヨーロッパ人同士の共通語でありさえすればいいと思うからです・・・
エスは、ヨーロッパ人にとって不自然な合成語は避けるべきだと思います・・・
エスは、非ヨーロッパ語の話者のことを考慮する必要はないと思います・・・

506ベダウリンデ:2009/07/08(水) 10:37:02
エスペロさんのような考えの人(=西欧語由来の単語を好む人)は
実際は、エスペラントの主流派・正統派だと思います。
かつてこの掲示板でエスペロさんと数多くの議論を繰り広げていた某KJ氏は
詩語大好き人間だったと記憶してます。
現実問題として、ヨーロッパ人が書いたエスペラント文はそういう単語ばっかりなので
我々日本人も覚えない訳にはいかないでしょう。

後藤さんやNさんのようなお考えは青臭い(と言っては失礼ですが)理想論として、
結局はまともに扱ってすらもらえないんだろうと思います。
本気でやるなら、イドのように分派を作って、現エスペラントと袂を分かつ位の意気込みでやらないと駄目だと思います。

507ベダウリンデ:2009/07/08(水) 18:39:37
私の場合は、エスペラントをより良く(或いはより正当なものに)しようという改革論ではなく、
どんな語彙群を作ったら、国際語としてより効率的なのかと、
エスペラントを叩き台にして、お気楽に考えている、という次第です。

私は、まず、語彙を、人間界に普遍的なものと、特定の民族から由来しているもの、との
二つに分けたいです。
両者の境は曖昧ですが、民族由来のものを狭い意味で限定し、
それ以外のものを「普遍的なもの」として位置付けると楽です。

民族由来のもの(民族系単語と呼ぶ)は、basbalo,ĵudo,opero,hajko,など、起源が明らかで、名称が一般化されてるもの、です。
キムチ、テコンドーなどは、今エスペラント単語にあるかどうか知りませんが、
韓国流の読み方でエスペラント化してもらって結構。カバディ、セパタクローなどもどんどんエスペペラント化してOK。

それ以外は、一応全部、人類普遍のもの(普遍系単語)とする。
つまり、語源が西洋語でも西洋オリジナルのものだけを指すのではない、と定義する。
西洋オリジナルのものを指す場合、民族系単語の範疇に入る事を明示的に示す。

オペラは、通常、例の西洋式の歌劇を指すものとす。(民族系単語)
京劇をチャイニーズオペラなどと称することもあるが、厳密には西洋のオペラとは異なるので、そういう呼び名は失礼なので別の呼び名を用意する。
operoという単語には、「世界中の民族に存在する歌を伴った芝居」という定義は与えない。
逆にteatroには「全世界の芝居形式のものを指す」と、普遍的な意味を与える。
普遍系単語の組み合わせを用いれば、京劇の固有の名称を知らなくとも、「チャイニーズ歌芝居」などと説明的に訳すこともできる。

現在のエスペラントは、西洋語起源の語を用いていてますが、それが西洋オリジナル形式のものを指すのか、
他の民族にもそれに類するものがあればその語を使っていいのか、非常にあやふやである、と考えました。

例えば、士族階級などは、世界中の複数の地域に存在する(した)でしょう。
西洋の騎士はkavaliroですが、その語は他の地域の騎士類や士族類に用いて良いものかのかどうか。
つまり、民族系にするか、普遍系にするか、悩むところです。
民族系と定義したら、騎士武士階級を普遍的に表す語を考えないといけません。
普遍系と定義したら、今は日本の武士はsamurajoなんて名づけてますが、
同じように世界中の全ての騎士武士階級に名称を与えないといけません。
西洋の騎士を示す名前を新たに考える必要もあります。
それか、民族別呼称は平等に廃棄、か。

508エスペロ:2009/07/08(水) 19:48:59
Mi mem opinias ke E simple estu pure eŭropa lingvo...ankaŭ koncerne ties
vortprovizon,E konsistu el nur eŭropecaj vortoj(ne artefaritaj kunmetitaĵoj)...
私は、エスペラントは純粋にヨーロッパ語であればいいと思っています・・・
その語彙に関しても、エスはヨーロッパ語の単語(人工的な合成語ではなく)だけで構成されるべきだと考えます・・・

Eŭropa Civilizacio(inkl.Nord-Amerikon) jam nun universalas...aliaj mondpartoj
nun enkondukas preskaŭ ĉiujn kulturojn kaj morojn eŭrop-devenajn...ekz.
vestaĵoj,loĝado,manĝaĵo,leĝoj,politika sistemo,sporto,ludoj k.a.
ヨーロッパ文明(北アメリカを含む)は、今やすでに普遍的なものになっています・・・
世界の他の人々も、今や、ヨーロッパ起源のほとんど文化や風習を導入しています・・・
衣服、住居、食物、法律、政治制度、スポーツ、ゲーム・・・

Ankaŭ prie de lingvo,la mondo ne povus rezisti kontraŭ uzado de eŭropa lingvo...
言語に関しても、世界は、ヨーロッパ語の使用に対して抵抗はできないでしょう・・・

La mondo,tamen,ne estus feliĉaj okaze de uzado de lingvo apartenanta al
specifika eŭropa nacio...ili estus multe pli feliĉaj je ESPERANTO,lingvo,
kiu simpligis eŭropecajn gramatikaĵojn sed konsistas el vortprovizo pure eŭropeca...
しかし、世界の人々にとっては、特定のヨーロッパ民族に属する言語の使用はうれしくないでしょう・・・
世界の人々は、ヨーロッパ語的な文法を簡素化したが、純粋にヨーロッパ語の語彙から成る言語、
エスペラントには好感をもつでしょう・・・

509ベダウリンデ:2009/07/09(木) 11:00:50
エスペラントは今のまま西欧志向で続けばいいと思います。
現実的にはそれしか道が無いでしょうし、そこがまた魅力でありますし、いいと思います。

で、私の勝手なエスペラント改造案(エスペラントを愛する人からすると、こういう遊びは不謹慎かな?)
騎士武士階級の普遍系単語は、batalisto,batalistaroがいいかな、と思いました。
kavaliroは民族系単語とし、西洋中世batalistoと説明する。舞台設定が明らかであればbatalistaroのみでOK。
戦国武士は日本中世batalisto、江戸の武士は日本近世batalistoなど。

futbaloはイギリス発祥で世界的に広まっている例の球技とする。(民族系単語)
piedpilkoは、世界各地に存在するであろう、球を足で蹴って遊ぶ競技と定義。(普遍系単語)
futbaloはイギリス式piedpilkoで、蹴鞠・セパタクローもpiedpilkoの一種。
イギリスでのfutbaloの前身でもある競技(町中でボール蹴ってるような競技)も
世界に広まったfutbalo競技とは別扱いにし、イギリス式piedpilkoとする。
現在のエスペラントでは、futbalo=piedpilkoですが、そこをちゃんと区別する。

510ベダウリンデ:2009/07/09(木) 11:14:17
別扱いにし、イギリス式piedpilkoとする。
->別扱いにし、イギリス式旧piedpilkoとする。

511エスペロ:2009/07/09(木) 13:01:25
Mi konsentas kun vi,kara Bedaŭrinde koncerne vian mencion pri vortoj: futbalo,piedpilko...
'Futbalo' implicu la nuntempe vaste ludatan ludon per pilko,dum 'piedpilko' ĝeneralan ludon per piedbato de pilko...
ベダウリンデさんの'futbalo'と'piedpilko'に関する言及には賛成です・・・
'futbalo'は、今広く行なわれているサッカーを意味し、一方、'piedpilko'は、球けり遊び一般を意味する・・・

Nun lasu min ordigi mian propran ideon pri Esperanto kaj lingvo-problemo de la mondo...
ここで、エスペラント及び世界の言語問題に関する私の考えを整理させていただきたいと思います・・・

Mi argumentas pri E NE kiel komuna lingvo inter nacioj de la mondo,SED nur kiel tiu inter-eŭropanoj...
私は、エスは世界諸国民間の共通語ではなく、ヨーロッパ人の間だけの共通語であればいいと考えています・・・

Nuntempe en Aziaj landoj la angla lingvo estas eklernata en baz-lernejoj kaj uzata efektive kiel komuna lingvo inter azianoj...
現在、アジア各国では、英語が小学校から学ばれ、現実にはアジア人の共通語として英語が使われています・・・

Mi mem agnoskas kaj taksas tiun efektivecon...
私は、この現実を認め、評価します・・・

E kiel komuna lingvo inter eŭropanoj...angla kiel tiu inter azianoj...
エスペラントはヨーロッパ人の共通語・・・英語はアジア人の共通語・・・

Sed nur japanoj estas esceptaj...! Japanoj ne bezonas paroli aliajn lingvoj kiel anglaparolantaj
usonanoj...eksterlandanoj uzus japanan lingvon aŭ dungus interpretistojn en dialogo kun japanoj...
しかし、日本人だけは例外です・・・! 日本人は、外国語を話す必要はありません、英語を話す米国人のように・・・
外国人は、日本人と対話をするときは、日本語を使うか、或いは、通訳を雇う・・・

Tio estas mia idealo pri lingva afero prie de Eŭropo,Azio,Japanio...
これが、ヨーロッパ、アジア、日本の言語問題についての私の理想です・・・

512ベダウリンデ:2009/07/10(金) 16:24:19
なるほど、エスペロさんのお考えも分かりますし、結論としては一部賛成だったりします。(過程は違うかも)
エスペラントの魅力はそのヨーロッパ性にあると、私も認めます。
エスペラントは、諸民族に平等でなくてもいいから、是非このままの魅力を保ち続けてほしいです。
(個人的には嫌いな箇所もありますが、あばたもえくぼ、です)
より平等な人工語は、新たに、或いは、エスペラントから正式に離脱して、作るべきです。

ヨーロッパ人がエスペラントを自分達の共通語にするか否かは、
我々アジア人が口出しすべき事ではないと思います。
ヨーロッパ人にとっては分かりやすくて、西欧世界に限れば比較的平等なのに、
なぜ未だに、ヨーロッパ世界でも「変人」がやるものとされているのでしょう?
レルヌの掲示板でも欧米系(国は忘れました)の人が
エスペラントやったら変人扱いされ友達失った、とかいう書き込みが時々あります。
たぶん、思想面に対する偏見とか、何かあって、欧米でもエスペラントってなかなかメジャーになれないんだろう、と思います。

アジア人は既に英語をマスターしてるし、ヒングリッシュとかシングリッシュとか言って
堂々と自分流英語に変換して恥じてません。
そのまま正当英語の権威なんか糞くらえの精神を貫いて、世界に見本を示してほしいです。
それに、アジア人にとっては英語だろうがエスペラントだろうが、どっちも難しい、異質な言語です。
英語なら「自分は英米人じゃないから」という開き直りで堂々と崩せるけど、
エスペラントの方がむしろ「エスペラントらしい表現」とやらを強要される恐れがあります。

日本人は、英語にしろエスペラントにしろ、どっちも苦労するのが目に見えてます。
インド人や中国人みたく厚かましくないから、崩して喋る勇気も無いし。
外国語の得意な人が専門職となり、諸民族の言語を日本語訳してほしいなー、というのが、私の本音です。
エスペロさんのいう「英語を話す米国人のように」はなれないと思うけど。
だって国のステータスが全然違うじゃないですかー

513エスペロ:2009/07/10(金) 17:53:14
Dankon pro respondo,kara Bedaŭrinde...
ベダウリンデさん、レスありがとうございます・・・

E simple estu inter-eŭropa lingvo...sed ankaŭ en Eŭropo furoras anglalingva
hegemonio,kontraŭe rezistas sole francoj,al mi ŝajnas...
エスは、単にヨーロッパ人同士の言語であって欲しい・・・しかし、ヨーロッパでも
英語支配はすごいです・・・これに一人抵抗しているのはフランス人だけのよういに
思えます・・・

Nun mi legas avide libron 'Kolizio de Civilizacioj' de Samuel Huntignton,kie
li montras ke ekzistas 8 diferencaj civilizacioj en la nuntempa mondo,
el kiuj elstaras 'Japana Civilizacio'...! Ĝi konsistas el nur unu sola lando.dum
aliaj el pluraj landoj...
ところで、今私が熟読している本に、サミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』があります・・・
ここでハンチントンは現代世界のには8つの文明があるといっています。そのうちの1つが、日本文明
なんです・・・! 日本文明はただ一国からなっています・・・他の文明が複数の国々から
なっているのに・・・

'Japana Civilizacio' estas karakterizata de Tennoismo,eliro el religio,eliro el angla lingvo...
’日本文明’は、天皇制、脱宗教、脱英語・・・により特徴づけられます・・・

Ene de Orienta Azio,kaj Ĉinio kaj Koreio...al mi ŝajnas...iras la vojon de evangeliziiĝo,anglismo...
東アジアにおいては、中国も韓国も、キリスト教化と英語化への道をすすんでいる
ように見えます・・・

Kompatinda afero...! Japanio iru unikan vojon de senreligio,senanglismo... mia espero...
哀しむべきことです・・・日本は、非宗教と非英語という独自の道をすすんでいって欲しい・・・私の願い・・・

514なつ:2009/07/10(金) 19:14:03
僕は、ベダウリンデさんと同じ方向だと思います。
僕は普遍的語彙は極力少なくしていく「べきだった」、あるいは、分派するなら、す「べきだ」と思います。
okulo目であれば、視覚作用つまり「見る」はokuliだけでいいと思います。
「見える」「目に入る」を特に言いたければenokuliだとかにするという感じです。
okuloよりも視覚作用は語幹vidが世界共通的なのでそっちを採用してvidiは視覚作用全般の行為を指すとし、
vidorganoが目のほうがいいかもしれません。同じようにaudiは聴覚作用全般を指し「聞く」「聴く」、
耳はaudorgano。語幹は共通的な欧州的語彙を用い造語法は漢語的にいくわけです。
(organoを付けるのは冗長なら短い語を考えるのも手です)
猫科のライオン、トラなどをkategoに統一するのもとてもいい試みだと思います。


エスペロさんのようにエスペラントを共通ヨーロッパ語だと割り切ろうとする考え方
であるのなら、いっそのことインテルリングワを選択したほうがヨーロッパ人は習得が
早いという現実があります。

515ベダウリンデ:2009/07/11(土) 10:11:48
エスペラントとは不思議なものですね。
私は最初「人工語とはどうあるべきか」なんて一切考えなかったけど、
エスペラントの不完全さを知ると、改善したくなってしまう。
ミニマムな語根で、世界中の物事をもらさず公約数的に網羅できる人工語なんて、
人間には作る能力は無いのかもしれないけども、それでも考えてみたくなる。
人類共通の国際語にならなくてもいいから、知的挑戦としてやりたくなる人々の気持ち、分かります。

そういう点で、エスペラントを叩き台にしつつ、既存エスペラントの枠を崩す試みって
あってもいいんじゃないかな、と思います。
名前はNEPO=孫なんでどうでしょう。IDO=子ならぬ。コードネームNova EsPerantOの略です。できすぎですね。
子は親に反抗しただけで中途半端に終わったけど、
孫はお爺さんとお父さんから「いいとこどり」をしつつ、しかも縛られない。
世界的視野と現代性は、祖父や父に比べたら桁違い、という。

516ベダウリンデ:2009/07/11(土) 10:23:24
monoteismoとunudiismoに関しては、いっそ、mono=単一、teo=神、と
語根の意味を変えてしまえばいいんじゃないか、と思います。
現エスペラントのmonoお金はmoneoとし、teoお茶はĉaoとでもする。
polio=多数、も語根とする。
そうすれば、学術用語として広まってるラテン語との矛盾も解消されます。

517ベダウリンデ:2009/07/13(月) 09:52:23
あと、エスペラントだと、感情や言論に関する語の分け方が、(例:後述)
日本語と非常に異なっていて、複雑だな、と思うんですよ。
そういう語彙の設定基準って(私は他の言語知らないから比較できないのですが)
ヨーロッパ語に準じてるんじゃないか、と思わざるをえないです。
物の名前は完全にヨーロッパ基準なので、抽象的な語も当然そうではなかろうか、
それ以外の基準をザメンホフが思いつく訳がない、と思うのです。

となると、エスペラントを使うという事は、抽象的な思考の基準までヨーロッパ的に頭を切り替えなければいけないので、
他民族にはつらいなーと思うのです。
ヨーロッパ的思考=論理的=正しい=世界が見習うべき基準、だなどと、ヨーロッパ人やエスペランチストが考えているとしたら、
私はそれには反対です。

感情を表す語なども同様に複雑なので、現代心理学とか応用して(って、私は知らんけど)、
全人類共通的に、もっとすっきり表せないものか、と思います。

518ベダウリンデ:2009/07/13(月) 18:08:52
例えば、の例。
エスペラント語のkonvinkiとpersvadiってあるんですが、前者、後者を順に、各国語で訳しますね。
日)(論理や証拠によって)説得する, 説き伏せる・・・・・説き伏せる, 説得する, 納得させる(参考:実用エスペラント小辞典)
英)to persuade, to convince・・・・・・・・・・・・・・to persuade           (参考:Lernu!vortaro以下同)
仏)convaincre・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・persuader, inspirer (faire naître)
独)überzeugen・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
西)convencer・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
伊)convincere, persuadere・・・・・・・・・・・・・・・persuadere
露)убедить・・・・・・・・・・・・・・・・・・・убедить, уговорить
ポーランド)przekonać・・・・・・・・・・・・・・・・・przekonać, perswadować, nakłonić, wmówić, namawiać
フィンランド)vakuuttaa, saada uskomaan・・・・・・・・suostuttaa, suostutella, taivuttaa, taivutella; vakuuttaa, saada vakuuttuneeksi
中)說服/说服・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・說服/说服

日本語では両方「説得する」。一応説明では「論理的か、そうでなくてもいいか」の区別はあるが、
日本語で「説得する」という場合、論理的方法でのみ行うか、或いは、それ以外の策も動員するかは、あまり意識されない。
中国語でも両者は同じ訳語である。(他のアジア語も見たが辞書が未完成なのか表示されない場合が多かったので諦めた)
西洋語では、どちらかが他方の意味を含んでいる場合もあるが、中国語みたいに全く同じ訳語のものは無い。
つまり西洋語では、どう説得するかというのが非常に重要なようだ、と分かる。
日本人は、論理面も感情面でも両方駆使して説得するのが普通なので、
(いくら正しい事を言っても、先方に生意気だ・礼儀知らずだ、とか思われたら、説得できないので、
無意識に或いは論理的根拠に基づき人間感情まで把握した上で説得するのが普通)
今の説得が論理面のみか否かなんて考えられないので、西洋的区分って難しいな、と思いました。

519ベダウリンデ:2009/07/15(水) 10:06:30
今のままのエスペラントだと、自分なんかだと、常にpersvadiを使用すべきなんでしょう。
(いつもいつも理詰め一辺倒で説得したりしてないので)
でも、単語としてはkonvinkiの方が「必須単語」なんですよね。
初心者として覚えやすいのもkonvinki。
上位概念と下位概念ってあるみたいですが、下位の方が必須って変ですよね。
エスペランチストになるなら、脳内改造して常にkonvinkiする人間になるべきでしょうが、
そんなのは嫌だし。。。

新世代エスペラントNEPOでは、
「ありとあらゆる言論上の策を駆使して説得」という上位概念の語根を作り、
「論理で説得」はその下の概念として、「説得」という語根を用いた造語で表現したいものですよ。

520ベダウリンデ:2009/07/15(水) 18:20:22
しかし、非ヨーロッパにシフトした新エスペラントが仮にあったとしても
流行るかどうかは、非常に疑わしいですね。
現エスペラントが「成功」したのは、ヨーロッパ人に分かりやすかったからでしょう。
なんだかんだ言って、ヨーロッパ人種は現代社会の勝者です。
彼らの応援を得られなければ、この世界では、何一つグローバル化しないでしょう。
仮にザメンホフが超天才で、真の意味で全民族に平等な言語を作っていたとしても
周囲のヨーロッパ人から「分かりにくい」と言われて、支持を得られなかったでしょう。
その意味では、真に平等な人工語とは、決してかなえられない永遠の夢なのかもしれませんね。

エスペランチストって「英語帝国主義が云々」とよく言いますが、
なんでイギリス・アメリカ(&カナダ・オーストラリア)だけを責めるのかな。
彼らが今、地球上で最大の権力を握っているのは確かですが、それは、
ヨーロッパ各国が対等に競争した結果の最終勝者だからです。
エスペラントが多くの語根を取っているロマンス諸語の、フランスやスペイン、ポルトガルだって
イギリスと同じように植民地政策をしたではないですか。
たまたま競争に負けた、というだけで、「罪深さ」は英米と何ら変わらないです。
ドイツ、イタリア、ロシアも、たまたま出遅れましたが、必死で後を追ってました。
(日本までつられてしまいましたが)
そういうヨーロッパ的な「価値観」のせいで、新大陸先住民、アジア、アフリカの人々がどれだけの苦しめられたか。
それなのにどうして、ヨーロッパ文化以外の何物でもないエスペラント語を
アジア人やアフリカ人までが「平等な言語」だと思わなければならないのでしょう?
本当は差別されてるのに「差別されてません、私たちは平等なんです」と言ったとしたら、
喜ぶのは差別してる側だけです。「奴隷根性」という言葉がぴったりです。
英語なら、いいんです。誰も英語が平等な言語だなんて思ってない。
英語が現代の勝者だから、順応したり、利用したりしてるだけです。
嫌々英語をマスターしたからといって、その場合、心まで奴隷になっているのではないです。

エスペラントも「ヨーロッパ人向けの人工語として、趣味嗜みとして」やるだけならいいけど、
本気で「平等だからやってる」なんて思ってる人がいたら、相当悲惨だと思う。
言語として不平等云々だけでなく、
残虐な植民地政策に行き着いたヨーロッパ文化を「地球上の普遍の価値」として
あがめなければならない事が、非常に屈辱的だと思う。

521なつ:2009/07/16(木) 19:04:17
アルカ語の作者兼宣伝マン兼唯一の使用者(別れた女房除く)であらせられたS氏がそのサイトで、

人工言語を作るのであっても絶対にどこかの価値観を基準にしなくては作れない。
エスペラントが細々とではあるが、こんなに続いているのはヨーロッパの価値観を基準においたからにほかならない。
アルカ語はその価値観の基準からまず仮想的に作り上げたんだ。
というようなことを言っています。
これはもっともなことかもしれません。
が、それに挑戦するというのも面白いでしょう。

「説得する」についてはもっと上の概念を使ってもいいかもしれません。
「受け入れられるように説明する」という具合に2語使用する感じです。
さらに「説明する」も「詳しく言う」とすることもできるかもしれません。
上位概念下位概念とその語彙の有無について、以前、「麦」についてありました。
これについては、さらに上の、「稲、トウモロコシ、麦」を含んだ概念の語を作る。
アジアをつけると稲・コメ アメリカをつけるとトウモロコシ パンをつけると小麦 酒をつけると大麦
というように接辞をつけて表すのはどうだろうか。

一度、改良してもいいというタガが外れると、文法まで手を付けたくなる。
形容詞の格変化は本当に必須か?目的格nは本当に必須か?受身をもっとわかりやすくできないか?
英語にはないような条件形、命令形はことさら必要なものなのか?
あるいは、sesとsep、miとniは分かりやすくしないか?
いっそのこと複数形のjをsにしちゃったほうが共通的でいいのではないか?
いや、単複の区別が明確なのはヨーロッパ的で複数形なんてなくてもかまわないとなるか?
などなど
どこまで文法に手をつけるか、まさにIdoの二の舞のようになりうる危険性をはらんでいる。

522ベダウリンデ:2009/07/21(火) 10:56:47
自分がもし、文化的に偏らない人工語を作ろうと試みたとしても、
無意識のうちに日本文化に依拠したものになってしまう可能性大です。
でも、エスペラントがあまりにダメダメなので、なんとかならんものか、とつい考えてしまうんですよね。

「麦」に関しては、そんな感じで、語がまとまってたら楽ですよね。
「主食穀物」という概念語を作り(仮に「greno」とする)、世界のどの地でも、自分たちの主食穀物をその名で呼んでいいものとする。
日本で「greno」と言えば「米」。ヨーロッパで「greno」と言えば「小麦」。日本で「小麦」と言いたければ「西洋greno」と言う。

ある特定の地域においては、植生とか動物の生態系として存在する種は限定されている。
世界中の全種類の動植物が一斉にそろっている地域は、本来存在しない。
現代は、世界各地の植物が栽培されたり、帰化動物となっている場合があるが、
その場合でも「他所から来た新しいもの」として認識されてるので、各々の地で語が混乱することは無いでしょう。

「歌声のきれいな鳥」と言えば、各地域・文化毎に、ある特定の鳥が連想されるのだと思う。
学名に従った名で言われると、その時点で辞書のお世話にならざるをえないし、
それがどんな特徴を持つ鳥なのかまでは、辞書に書かれてないかもしれないし。
「歌声のきれいな鳥」という概念語があれば、実際の鳥の種別なんて気にする必要無く、
すぐにイメージが浮かぶ。

この方法では、世界の各文化圏で、概念語のひとつひとつに何を定義するか決めていく必要があります。
自分たちがどの文化圏に所属するか、或いは、独自の文化圏として独立するか、も同時に決めなければならない。
世界共通語を作る事は、自分達の文化の個性を逆に意識する事なんだなーと思う。
エスペラントは「西洋=普遍」と思いこんじゃって、それが個性だと思ってないのが欠陥ですね。

本などを書く場合、所属する文化圏コードを併記する必要も生じますね。
概念語と民族語約対応表も文化圏コード毎に必要ですね。
さらっと本読んだり、会話したりしてる分には、対応表は全く必要ないけど、
学術的に詳しく掘り下げたい時必要。

523ベダウリンデ:2009/07/21(火) 11:23:33
ところで、熱心なエスペランチストさんに限って、エスペラントが平等である、と主張する。
少なくとも、「現時点では言語差別を解消する唯一の手段である」、と主張する。
つまり、消去法とはいえ、「差別」を解消して「平等」にするのはエスペラントしか存在しない、と主張してる。
全然平等じゃないのに、なんでだろ、と思ってました。

食品偽装とか不当表示とか、ああいうのって、社のトップクラスは確実に偽装と知ってて、
知ってるからこそ真実をひた隠しにし、「我が社は安心です」と強調する。
(で、ばれたとき、知りませんでした、と弁明、まさか)
エスペラントもこれに似た所があって、
「平等だ」と強く言う人に限って、「不平等だ」という真実を一番良く知ってるのかもしれない。
「エスペラントってもしかしたら不平等かも」なんて思ってるのは素人のアマちゃんかも。

524ベダウリンデ:2009/07/23(木) 18:00:28
エスペラント改造論で避けて通れないのは、riismoとiĉismoでしょう。
21世紀の今現在、職業肩書にまでいちいち-inoを付けるとは、ヨーロッパエスペランチストって保守的なんだな、と思います。
アメリカでは-essは付けない方向にどんどん進んでいるらしいのに。
日本でさえ、看護婦が看護師になったり、職業名での男女差別は無くなったのに。

iĉismoはデフォルトを性別不問とし、男性を明示する場合は-iĉoつける、というものですが、
チョ、の音はいただけませんね。プレジデンティーチョって、馬鹿にしてんのか、という感じです。
他の案として-unoというのがあるらしいのですが、こっちの方が気が利いてます。
プレジデントゥーノ&プレジデンティーノ。いい感じです。
edzo=配偶者、edzuno=夫、edzino=妻。美しくきまりますね。こんなエスペラントだったらどんなに良かったか。
まあ、こんな気のきいた案も、超保守のヨーロッパエスペランチストの前では鼻であしらわれて終わりなんでしょう。

525ベダウリンデ:2009/07/23(木) 18:14:25
エスペロさんも他のレスで福島瑞穂党首の事をPartiestroって書いてたし、
日本人は、いちいち-ino付けるのが煩わしかったりするんだと思います。
日本語や英語では「友達」「friend」は男女問わないのに、amikoというと男になるのが現エスペラント。
日本人の女の子が「amikoのとこに泊ったよ」と言ったら、女友達か男友達か、非常に気になるところ。
女の子は日本語の感覚で女友達の意で言ったのかもしれないのに、
西洋人のエスペランチストの彼氏は「浮気だ〜!」と大揉めかも。
boyfriend=恋人の意となるアメリカ人の彼氏だったら、amiko=boyfriend=恋人、となり
がびーん二股だったのかー、となってしまうことでしょう。
エスペランチストは大変ですね。ビヤリストク行ってる人達、恋人探し、頑張ってネ

526なつ:2009/07/23(木) 19:34:38
ベダウリンデさん。
それはちょいと違うと思います。
エスペラントはフランス語から採用された語彙が多いですが、
まあ、それは置いといて、
フランス語では女性の名詞は男性の名詞にeをつけます。
これは、エスペラントが名詞にinoをつけて女性の名詞にするのと全く同じです。
amikoにしても、フランス語で、女性が mon ami (mia amiko)というと
恋人を意味します。
ヨーロッパ人は機械的にエスペラントに言語変換するから、
単にヨーロッパ的鈍感さとでも言ったほうが、いいと思います。
昨今の、日本の男女の職業名が同じにするヒステリックさは、
一種のアメリカ化、アメリカのぱくりだと思います。
看護婦と看護士が看護師と同じなったというのは別に男女差別解消には当たらないと思います。
「婦」を嫌う女性団体(もと婦人団体)の影響のほうが強いのではないかと思われます。
ただし、僕も差別抜きにして、中性名詞→icxo男性、ino女性 主義には賛成です。
Idoではたしか、男性はuloだった気がしますが、unoはどこからなんでしょうね。
東北なまりだとどっちかわかりませんね。いや、日本人の口をすぼめないウをuだと受け止めないにくい民族もいると思いますし。
riismoでどうしてriなのか、という理由はヨーロッパ人がrはどの代名詞にもない子音かつみんな発音上問題ないでしょ?
という理由だったのを思い出します。riismoも結局はアジア人差別なんですよね。日中韓は全体からの使用人口何割と思ってんだ!です。
僕はicxoでも、unoでも、(あるいはuloでも)どれでもいいのですが、
すぐ分裂するIdo諸派の末路です。
それが、響きが原因ならなおいただけない。チョの音がいただけないというのはものすごく偏った主観による結果です。
チョは全人類が聞いて全員がバカにしてるのか、という感じがするとお思いなのでしょうか?
それを言い始めたら複数形はojじゃなくてosのほうがいいし、女についてはinaのほうが響きがいい
段々こうなります。coという音も気に入らないし、gxoとjxoの区別も気に入らない。
jじゃなくyで、oの前はkじゃなくcのほうがいい。
結局「友達たち」は「amicos」「女友達」は「amikina」がいい話になる。

527ベダウリンデ:2009/07/24(金) 12:27:15
>ヨーロッパ人は機械的にエスペラントに言語変換するから、
>単にヨーロッパ的鈍感さとでも言ったほうが、いいと思います。

私もそれは考えました。男女差別云々ではなく、単純に「母語の影響」か、と。
日本人が、日本語で男女区別しない語に-inoを付けるのに違和感があるように、
ヨーロッパ人は区別しない事に違和感を感じるのでしょう。
「男女区別をするヨーロッパは日本より男女差別が多いのか、多くないだろう」とか
「ヨーロッパは男女差別が無いから男女区別しても差別にならないのだ」とか
色々理屈はありますが、そんな事とも一切関係なく、「単純に母語の影響」でしょう。
アメリカはウーマンリブ運動とか激しそうだから、それで職業名の男女差も無くされたのかもしれないけど、
それ以前に、英語には男性名詞女性名詞の別が無いから、それが可能だったのかもしれませんね。

エスペラントに関しては、今のように「ヨーロッパ人の言語」である場合は今のままでいいのですが、
仮にも「未来の地球語」を目指すなら、「デフォルト=男性」は「非科学的」でふさわしくない、と思います。
生物の種としては同じなんだから同じ語で表し、男女の概念はその下に対等に並列させるのが、
「科学的」で「美しい」と思います。

>チョは全人類が聞いて全員がバカにしてるのか、という感じがするとお思いなのでしょうか?
日本人の私が聞いて「チョはやだな」と思いましたが、
ヨーロッパ人も「チョはなめてる」と思うんじゃないでしょうか?
だって愛称で使われる形と同じなんですよ。
「音が汚い」だけの話ではないです。

>複数形はojじゃなくてosのほうがいいし
それでは動詞の未来形と同じです。
音の美感だけでなく「かぶらない工夫」も必要です。
私は最初にチョじゃない別のいい言い方を自分で考えていて、-ikoって思いついたんですよ。
セニョリーチョは不細工だけど、セニョリーコならイケテル感じ?(by日本人)
でも、公式じゃないけど、-ikという接尾辞的なものは既にあるんです。英語でいうところの-ic。
なので-ikoは諦め、その後-unoという候補が既にある事を知り、それいいね、と。
他にもいっぱい候補があった中、自分的に-unoがベストでした。
http://bertilow.com/pmeg/vortfarado/neoficialaj_afiksoj/sufiksoj/ich.html

>riismoも結局はアジア人差別なんですよね。
代わりにhiismoもあるらしいので、私はそっちがいいと思いました。

分裂云々は置いといて、idoの二の舞を踏まないよう、
より良い改良をじっくり考えて、その後に変更不可で普及するといいと思う。

528北辰:2009/07/24(金) 13:29:02
> 日本語や英語では「友達」「friend」は男女問わないのに、
> amiko というと男になるのが現エスペラント。
これは認識を改めてください。「エスペラント日本語辞典」(JEI) ではどう
なっていますか。日本語と同じ「友人」です。性別に関係なし。
> amiko というと男になる
使い方をしている言葉はヨーロッパのあちこちにあるようですね。
その習慣が抜けずにエスペラントでも そう理解する輩がいるが困ったもの。
ま。言葉は生き物、使い方で対応できる。エスペラントはその点便利。
> 女の子が「amiko のとこに泊ったよ」
と言うとき、誤解されたくないなら amikino を使えばいい、だけのこと。
なにも 大変なことは ありません。

529なつ:2009/07/24(金) 18:54:18
ベダウリンデさん、へへへやはり根本的に同じ考えだから議論も建設的で面白いですね。
さて、「チョ」は僕も主観的な意見では「へん」です。英米人やフランス人もそうだろうと思います。
ただ、スペイン人、中国人、韓国人はどう思うのかなあとは思います。
別の角度からみて例えば女性形をinjoにしたらどうでしょうか?別にいいと思います。
つまり、愛称のicxoだからではなく、やはり語感からchoはちょっと。。。と思うのだと思います。
個人的に仮に替えるとなると、usoはどうかなと思います。ラテン語で男性名詞の多くがus語尾ですから。
複数形をsだ云々はそれに伴う響きの話で僕自体はsがいいとは思っていませんが、
エスペラント発表当初はsにすべきだという意見が多数あったみたいで、こう書きました。
ちなみにインテルリングワでは複数形はsで、未来形は語幹にraです。(過去形は語幹にva)
「響き」「聞こえ」を重視する危険性を述べたいのはそれが全人類共通ではなく、ある集団の主観的だということです。
例えばIdoは改造するというタガがはずれた結果むやみやたらに語そのものを変えて行きました。
Bon juro(仏:ボンジュール)こんにちは。E vu?=kaj vi?(仏:エヴ?全く同じ)と、あからさまに某氏(フランス人)は、フランス語に近づけました。
それ以上に、聞こえすなわち自然言語に近い聞こえとすれば、インテルリングワです。
エスペラントはインテルリングワに一線を画すように、簡単かつ合理的であるほうがいいと思います。
一番の天敵が「自然言語に近い」「聞こえ」だと思うのですが。

530なつ:2009/07/24(金) 19:16:13
響きから別方向。
幸福がfelicxoというのは、良くはないのではないでしょうか?
英、仏はfeliksoが聞こえがいいと思うのではないでしょうか?

北辰さん。
そうですねえ。確かにJEIの見解ではamikoは中性的に「友人」みたいですね。
そしてjapanoも中性的に「日本人」みたいです。あくまでもJEIの見解では。
しかし、主流派すなわちヨーロッパ人はjapanoは男だと解する人が多数ということはありませんか?
僕は、そう「アメリカ人(にもかかわらず)」に言われたことがあります。
フランス人は男性名詞にeをつけて女性名詞を作りますからその応用です。
ただし、そのアメリカ人にstudentoは男女をさすといわれました。

JEIよりも中級ヨーロッパ人の意見のほうが残念ながら重要だという現実があると思います。
JEIのエス日辞典では、独自の意見を入れずに①友人②男の恋人・・・ とすべきだったと思います。
実際は①友人②味方③愛好者、なんと恋人という意味がありません。
これは正直誤解を生むことになると思います。

531Raku:2009/07/24(金) 19:56:02
Reta Vortaroではamikoは次のとおりです。
Persono, amata kaj amanta, kiu estas korligita kun alia pro inklino sed ne
pro seksamo, nek pro familianeco: ne riproĉu vian amikon [1]; amiko en ĝojo
kaj ploro[2]; amikon montras malfeliĉo[3].
http://www.reta-vortaro.de/revo/

PMEGによればamikoはneŭtra radikoです。
http://bertilow.com/pmeg/gramatiko/o-vortoj/seksa_signifo.html

532なつ:2009/07/25(土) 01:58:49
なるほど、ありがとうございました。
つまり、僕とベダウリンデさんは、共通的に同じ勘違いをしていたということになりますね。
これがヨーロッパ人に通用するかどうかわかりませんが。
ちなみに、Reta vortaroのfrancaの所では、〜oは、amiだとしています。
これでは、フランス人に誤解を招くかもしれません。まあ、下は予備参考程度でしょうが。

話がそれるかもしれませんが、
sinjorinoについて、JEIエス日では、「最近は未婚・既婚を問わず成人女性への敬称として使われる」とします。
reta vortaroでは「Gxentila titolo uzata por edzinigxintaj virinoj」だとします。
ザメンホフ自身はreta vortaroのように解していると思います。
今の日本人は敏感ですから未婚女性にsinjorinoを使う傾向でしょうが、
ヨーロッパ人の若い未婚女性にこういうと、「結婚してません!」と少なからずなるのではないでしょうか。
とにかく、ヨーロッパ的価値観をどこまで廃することができるか、廃していいのか、
は今後も課題になっていくでしょうね。表面に現れているものは、いいですが、潜在的な細かな所は難しい問題です。
日本人と中国人が、英語で会話をするときは、価値観は英米のものに依拠します(誤解はつきものですが・・・)。
しかしながら、日本人と中国人がエスペラントで会話をするとき、その価値観はどこに持っていくか、エス大会、親善会ならいいですが、
大きな理想としての国際会議、科学分野の論議などの侃々諤々の舞台で果たして成り立つのか、面白い課題になりえます。

533ベダウリンデ:2009/07/25(土) 11:48:58
>響きから別方向。
>幸福がfelicxoというのは、良くはないのではないでしょうか?

はい、それは気になりません。
ということは、私が「チョは変だ」と思ったのは、「音の響きが変だ」と思ったのではなく、
子供に使う愛称形と同じ形だから、馬鹿にしてる感が感じられて変だ、と思った事が分かりました。
もしエスペラントの愛称形が〜チョでなかったならば、変に思う理由も無かったかもしれないです。
女子の愛称が〜ニョでなければ、セニョリーニョで全く問題ありませんが、
もしも愛称と同じ形が女性形接尾辞として採用されていたならば、ますます「女性差別言語」と言われてしまったことでしょう。

しかし一方で、ザメンホフが愛称形に〜チョや〜ニョを選んだのにも理由があるように思います。
ヨーロッパ人にとっても、いわゆる拗音や軟音の類が、かわいらしく感じられるのではないか、と。例:ロナウド->ロナウジーニョ
女性が-inoになったのも、-onoや-unoよりも「女性的な語感」をザメンホフが感じ取ったからではないか、とも思ってます。
その感覚が万国共通ではないにしても、例えばアラビア語で「あなた」は、男性なら「アンタ」女性なら「アンティ」となる例もあるので、
イ音って女性的なのかな、と思ってました。
ザメンホフ作の現エスペラントも、意外と音の感覚を考えていたりして、と思います。
ただしIDOのように、個人的な音の美感だけを頼りにした改造案は、
なつさんのおっしゃる様に、結局自滅へと向かうのでしょう。
改造にあたっては、美感より合理性、というのに賛成です。

534ベダウリンデ:2009/07/25(土) 12:16:43
amikoに関しては、ReVoやPMEGなど、正式見解としては中性なんでしょうが、
使われてる実態としては、果たしてそうなんだろうか、という疑問があります。
amikoが性別不問なら、男子が「amiko の所に泊ったんだ」と彼女に言う場合、
誤解を避けるためにはviramikoと言うのでしょうか。実際そう言ってるのでしょうか?
vir-という言い方は、自分の感覚ではオス○○という感じがします。
みんな本当にそんな言い方使ってるんですか?

amikoが中性であれば尚のこと、-iĉo(-uno)という接尾辞は絶対必要ではないかと。
それが存在しないというのは、amikoは男性である、と実際には多くの人が認識してるからではないか、と。
ReVoでも、amikoの下にamikinoという語が別にある。すると、amikoは男かな、と思いませんか?
その下にはkoramiko とkoramikinoという語が並んで載ってます。
なんで男の恋人を指す単語が存在しないんですか?
男の恋人はvirkoramikoなんですか?

535ベダウリンデ:2009/07/25(土) 15:38:13
エスペラントは共通文化が無く、従ってコンセンサスも無く、
各自が各自の判断で勝手気ままに語を使用している、というという感は否めません。

viramikojをgugliすると、140件使ってます。
amikinojは34,600件。geamikoj=221,000件。amikoj=799,000件。
女友達の頻度に比べ、男友達は異常に少ないです。
geamikojの使用者は、amiko=男、という前提の人です。かなり存在します。
amikoj使用者には、amiko=男女、と、amiko=男 と両方入ると思いますが、参考までに。

ちなにみ自分の感覚ではhomo、personoは中性なんですが、
世の中にはいるんですね、homino、personinoを使う人が。
そういう人にとっては、homoもpersonoも男なんでしょう。

PMEGでは中性ですよといくら正論を吐いても、世の中一筋縄ではいきません。

536ベダウリンデ:2009/07/25(土) 18:43:09
PMRG該当項目読みましたが、納得いきません。以下、要約。

エスペラントでは人間名詞(仮称)は基本、中性語根で、
明らかに男(viro,sinjoro,knabo..)と家族関係(patro,frato...)と
高貴な身分(reĝo,princo...)と一部宗教者のみ男性語根。
女性語根はdamo,megero(性悪女),putinoなどなど特殊な語のみ。

男性語根が女性の時は-inoを絶対つける。(virino,patrino)
女性語根が男性の時はvir-を付けるが、実際にはありえない。
中性語根は、男性を明示する場合はvir-、女性を明示する場合は-inoを付けるが、それは義務ではない。

女性の時には常に-inoを付け、男性の時は必要である場合であってもvir-を付けない人がいる。
論理的ではないが現実的である。しかしほんとは中性なんだよ、と。

民族的慣習に従い中性語根を男性語根のように扱うもよし、中性として扱うもよし。
人によって、性を明示する重要性も異なるし。
でもさ、改造しようとすると、却って混乱するんですよね。
言語が差別するんじゃないもん、差別するのは人間だもん。
過激な改造派はいるけど、幸いにもそういう人はエネルギーの無駄遣いだね。

以上、要約終わり。

感想:エスペラント終わってるな、と思った。
だって、みんながamiko=男と勘違いして、それでエスペラント界がトドコーリなく流れてるのは、
そっちの方が自然だからであって、どうしてそれが自然かっていうと、
vir-に対して女性を表す語根が存在しない、-ino に対しする男性接尾辞が存在しない
というのは「醜いアンバランス」だからです。
-o=男女、-ino=女、=男は存在しない、より、
-o=男、-ino=女、の方がエレガントだからです。

537北辰:2009/07/25(土) 20:07:17
amiko に限らずヨーロッパの多くの言葉で名詞の「性」があり、複雑怪奇な
文法規則をもっています。国際語をめざすエスペラントは、こんな無用なものは
廃止しました。しかしその「性別名詞」になじんだヨーロッパ人は その母語の
癖が出やすい点はあるでしょう。(日本人も同様、心すべきもの)
 そういう点も考慮してか、PIV(2002) では amiko の説明を3通り示し、
1.男性と理解する場合、2と3は 性別を問題にしない「友人」です。
「男性と理解する人もいるよ」と注意を促しているのでしょうか。
心得ておけばいいこと、それに迎合する必要はありませんが。
 不合理な「名詞の性」を廃止したエスペラントの実用は 日本語のように
「一般的には性別なし、必要なときは示す」方向に行くべきです。
ヨーロッパのあちこちの変なクセは あまり持ち込ませないほうがいいですね。
そのほうが、我々(日本人、アジア人)に わかりやすいエスペラントになります。
恋人? amato, amatino で充分と思うが? 変化つけたければどうでも
やってみたら? だれか外国人と話して困ることありました?
 Rakuさんの Reta Vortaro は昔の Plena Vortaro と同じですね。
(amiko は性別なし です) PMEG も同じ。不合理は排除、の方向か。
誤解がありそうなら、どうでも説明すればよし。質問もよし。
> 「amiko の所に泊ったんだ」と彼女に言う場合、
> 誤解を避けるためにはviramiko --------------- ??
日本語の「友達、友人」は性別指示なしだから、こんな問題は日本人の方が
慣れているでしょう。あなたならどう説明していますか?
それをエスペラントで やればいい だけです。
「だれだれ君のところ」とか、「そいつ、どこで知り合った、こんな奴」とか。
viramiko なんて変な言葉を使われたら「ン? さては?」と感じそう。
> 「amiko の所に泊ったんだ」
に 探りを入れるなら
C^u la amiko estas sinjoro de via ag^o?
あたりから始めますか。

538ベダウリンデ:2009/07/26(日) 06:27:40
エスペラントでの正式見解がどうれあれ、viramikoは滅多に使われないというのは事実なんでしょう。
そもそも、viro->virino、patro->patrinoにしたのが間違いです。
それを見たら、エスペラントの人間名詞は男性が基準で、女性には全て-inoを付ける、と
普通に思いませんか?
むしろそのほうが「合理的で論理的で例外ない」と思います。

それに「エスペラントは生きてる言語だから、多数派が支持すれば変わっていく」と言われますが、
amiko=男、は、事実上の多数派だと思います。
ならなぜ、そのように変わらないのか。
理由は「エスペラントは女性差別言語である」というソシリを免れるため、でないですか?
そういうのが屁理屈、なんですよ。
男性接尾辞を用意する気持ちがさらさら無いなら、
-o=男性、-ino=女性、にした方が、そのような習慣のないアジア人から見ても、
合理的でエレガントです。

539ベダウリンデ:2009/07/26(日) 06:37:08
エスペラントが屁理屈ぬかすばかりで変わろうとしないなら、、別派として過激な案を出すけど、
現代の視点で男女の区別は、生物上の区別だけで十分です。すなわち
父になる可能性をもったもの=viro
父となったもの=patro、だけです。
ある人にとっての生物上の父は、いくら性的マイノリティの解放や同性愛、生殖医療技術が進んでも、なれるのは一人だからです。
それに対応して、
母となる可能性をもったもの=femo(案)
母となったもの=matro(案)、を作り、
その他は全部中性とし、必要ならば、男女を示す接辞を用いるようにしたら
誰も誤解せず、合理的です。

540なつ:2009/07/26(日) 08:59:25
ベダウリンデさんの言うとおり、amikoは中性だというのは男女差別だという指摘を回避したい詭弁だと思います。
しかしpatro男viro男、そしてamikoも男というのが自然であり現実的です。
amikojでいいものをgeamikojとはどういうことなのでしょうかね。
この解決法は3つ。
1つは、男性名詞にinoをつけることによって女性名詞にすることに統一すること。
男女差別をいうのは実際は英米人およびそれに影響を受けた日本人くらいなんじゃないかとも思いますが、
そんなことで批判をする人がいるのであれば「あ、フランス語方式です。フランス語知らないの?」で済みます。
フランス語式といいましょうか。
2つめは、すべて名詞は中性で男性語尾icxo(あるいは他の語尾)、女性名詞inoを徹底させる。アジア式といいましょうか。
3つめは、生物学的に性のあるものは男性語尾と女性語尾しかなく中性名詞は存在しない。
スペイン語式といいましょうか。これは文法体系を維持できなくなるので無理でしょう。

男性名詞を女性名詞化することが男女差別だという先入観をもってしまうと、viro→virinoの問題はどうしても解決できません。
解決不可能な自己矛盾を抱え込むだけなのでこのような詭弁はやめたほうがいいと思います。
解決不可能といいましたが、解決するにはベダウリンデさんのいう
viro男、femo女にするとか、masklo男、femalo女を採用させるとか、viroは使わないようにして、homo人、homicxo男、homino女にする。
で、patro父、matro母に分けるというのはどうなんでしょうか?
patroを中性(親)にするのはいいですが、matroを制定するのは無意味です。
こうなると、frato、filo、avo、onklo、nepo、kuzo、nevoもわけるべしとなります。
frato-sororo、onklo−tanto、nevo−niecoなどのようにインフレがおこります。
家族構成を覚えるのが半分だったものが倍増します。この入門期の労力は無意味です。
やはりpatroを中性にするほうが移行も覚えるのも容易です。

541ベダウリンデ:2009/07/27(月) 09:30:17
なつさんの1・2案には、両方賛成です。
>男性名詞にinoをつけることによって女性名詞にすることに統一すること。
この事自体は決して男女差別ではない、と思うようになりました。
きっちりきれいに分ける方が、むしろ「平等」です。

逆に、基本的には中性概念とし、場合によって女性のみ区別する、という方がサベツ的です。
日本語もその傾向を持ってます。
医師(男女)と女医、警官(男女)と婦人警官、孫(男女)と孫娘。等々
女性のみを分別する単語はあるのに、それに相当する男性形は存在しない例です。
この点では、amiko(男女)、amikino(女)、viramiko(論理上可能だが実際は使用されない)とする現エスペラントと同じです。

日本語は民族語であるので、日本文化を背景にして発展します。
女性を分別する単語が生じたのは、(特に過去において)日本文化で女性差別が存在した証だと思います。

女医という単語が存在するのは、女性医師は珍しいという、教育的機会の不平等の結果。
(現代はもっと別な理由で区別したがる傾向も?)
戦前には小学校に「女先生」が存在したが、現代では女性教師の方が普通なので、そんな言い方しない。
婦人警官も、体力的な面で男性警官と区別する必要から生じたのでしょう。
孫娘は、昔の家制度のもとで、家督を継ぐ可能性を持つ男孫ではないけれど、でもかわいい、的なニュアンスが感じられます。
自分は聞いたことなかったのですが、広辞苑には「いとこめ」という単語もありました。
男いとこは分家の家督を継ぐ可能性があるが、そうではないいとこ、の意味で必要だったのかも。

エスペラントには文化が存在しない。
なので、-inoつけなくてもいいのに差別的に-inoを付けるのは、あくまでも本人の自己責任である。
というのが、MPEG等、エスペラントの公式見解なんでしょう。
しかし、-ino のみ用意し、それに相当する男性接尾辞を作ろうともしないのは、
「差別を促してる」ようにしか思えません。
というか、どうしたって「差別」の方向に向かうでしょう。あるのは-inoだけなんだから。
民族語では文化が言葉を作りますが、人工語は「用意された語彙」により思考が操作される。

542ベダウリンデ:2009/07/27(月) 09:53:37
>こうなると、frato、filo、avo、onklo、nepo、kuzo、nevoもわけるべしとなります。
分けなくてもいいんですよ。
日本語で、孫、いとこは、男女分けてません。分けなくても不便ないです。
ベトナム語では、弟妹は、男女の区別なくいうそうです。
http://www.coelang.tufs.ac.jp/modules/vi/gmod/contents_m/explanation/014.html

そう考えると、子、おじおば、おいめい、も絶対に男女で分けなければならない理由もないです。
現エスペラントではfrato、filo、avo、onklo、nepo、kuzo、nevoは男性語根なのですが、
これを中性語根と定義しなおし、必要ならば男女接尾辞で区別すればいいと思います。
onklo kaj onklino と言ってる所を onkluno kaj onklino と言い直すだけです。

543ベダウリンデ:2009/07/27(月) 15:44:10
>patroを中性(親)にするのはいいですが、matroを制定するのは無意味です。
なつさんと私とでは、「父」の定義の仕方が異なったのだと思います。

親を中性語根とし、父も母も親と定義するのは、その他の家族用語と揃えた定義方法ですね。
私が、兄弟姉妹は「同じ親から生まれた者」として男女別なくfratoでいい、と思ったのと同じ根拠です。
すなわち、家族関係における位置づけ=「社会学的」定義です。

私のは「生物学的」定義です。
viroの延長に位置するpatro、という感じです。
また、動物達には人間のような家族関係用語は必要ないと思われますが、
子動物の世話をするのは主に母動物なので、「母」という語根があってもいいかな、と思ったのです。
すなわち、母=子を出産したもの、という定義です。

父母という語は、男女という生物的用語と家族用語の、ちょうど中間に位置してるので、定義が難しいですね。

ちなみにエスペラントではsinjoro,fraŭlo,knaboは男性語根ですが、
これらも、一般尊称、未婚者、幼児より大きい未成年者、の意で
中性定義できますね。

544なつ:2009/07/27(月) 20:40:08
ベダウリンデさん
はい。僕は、すべての名詞は中性に徹底させるという考えです。
理由は、入門期の記憶の負担を極力減らすことだからです。
ベトナムではちなみに年下への二人称は弟妹以外でもみなemとなります。
日本では父・母に対する中性親というのはありますし、子もありますが、
祖父・祖母、おじ・おば、おい・めいは中性がありません、また、いとこは、
男も女も同じ(表記除く)です。言語によって面白いですね。
英語ではparent親という中性名詞がありますが、ほかのヨーロッパ言語では、
あるんでしょうか・・・。保守的エスペラントにはありませんね。
そして、ベダウリンデさんの思いも生物学的にpatroとmatroと二つにするという考え。
「親」という表現はないということでしょうかね。
僕は、全て中性で統一すべきだと思いますので、
viroも男ではなく人ということになります。
viricxoで今までのviroということになります。
あるいはvir語幹自体不使用にするという方向でもかまいません。
生物学的な母でもpatrinoでかまいません。
わざわざ、エスペラントにない語幹を新たに作り出し、語幹をますます増やす実益はないに等しいと思うのです。
ほかの語幹と同じくすべて中性に統一し、例外なしがエレガントです。
話は雑談へと入っていきます。エスペラントの例外なしは時として気持ちのいい感じがします。
たしか、IdoではItalioやfamilioは例外的にイターリォ、ファミーリォです。
(真の)理由は「だってそっちのほうが、イタリア語っぽくて、かっこいいじゃん」です。
こういう例外は無意味であり、むやみやたらにつけるべきではないと思うんですよねえ。
「最後から2つめの母音にアクセント。例外なし!」なんてかっこいいんでしょうか。
日本人の多くは気にならないでしょうが、作るとき、アクセントの位置について葛藤があっただろうし、
批判が多かっただろうなあと、いう想像、そしてそれに打ち勝っての例外なし
というのはすごいことだなあなんて思います。
それを思うともとに戻りますが、「生物的性のある名詞はすべて男性名詞、それにinoをつけて女性名詞。例外なし!」
というのはとても分かりやすく、覚えやすく、竹をスパッと割った感じで気持ちがいい。
が、それをいうことは勇気のいることなんだなあと思います。だから、今、混沌としているわけです。
なら、いっそのこと全て中性名詞にしたほうがどんなに楽で分かりやすいことか・・・

545ベダウリンデ:2009/07/28(火) 09:11:54
全部中性として、男女は平等に接尾辞で分ける、というなつさんの考えに、私も賛成します。
viroを男性の性と考えるからいけなかったのですね。viro=性別不問の人間、と考えればいいのですね。
viroを性としても中性定義すれば、男でも女でもない性的マイノリティとか、或いは、「既存の男女感の枠組みに入りたくない」と自己主張する人々の要望にも
答える事ができそうです。(いやー、ほんとに有意義な議論っていいですねー)

ところで、現エスペラントに関して。
現エスペラントはIDOショックから立ち直れず、そのトラウマで、接尾辞一個すら追加できないんですよ。
だったら現エスペラントの場合は、名詞を全部男性として、生物的に女性であるものには全部-inoを付ける、とした方が
現状に即していて、しかもすぱっとしてますね。
エスペラントは女性差別言語である、という非難されるのが怖いなら
「極東の島国の日本語をごらんなさい。中性と定義する方が差別的なんですよ」と言えばいい。
そして、現エスペラントで女性語根とされてる特殊な語、
それらは全て民族語由来で、文化的伝統で女性しか存在してなかった単語なのですが、
それらも「男性」と定義すれば良い。
従来通りの女性の意味で使いたければ、megerinoなどととすればよい。
そうしたらウーマンリブの方々も「エスペラントは男女差別撤廃の、なんと素晴らしい言語なのでしょう!」
と絶賛すること間違いなしですよ。

546なつ:2009/07/28(火) 18:53:43
ヨーロッパ人がアジアの言語(極東の言語?)にふれ、あるいは学習するとき、
驚嘆するのが「人」という概念だと聞いたことがあります。
ヨーロッパでは、人類、人物、人格などはあるが、普通の「あの人だれ?」
のような「人」というレベルの男女ひとくくりの概念を目にして、
コロンブスの卵的驚きを得ると。ちなみにヨーロッパ的思考から生まれていばってる
riismoは、その極東人がliと区別できない音を採用するという傲慢さを覗かせてる。
tiuでいいのだ。あるいは、la homo estas・・・で貫き通すとか。
la homoという発想は思いつかないのだろうと思う。
Idoショックから抜け出せないというのは面白い言葉です。
中性が無理ならoは男、inoは女を貫き通す勇気を持つべきです。
外部の人間で男女差別の言語って一体誰が言ってるんでしょうか?
被害妄想じゃないですかね。何度も言いますが、そんなこといいだすと、
フランス語はなりたたなくなりますから。
あるいは、女性語尾はあるが男性語尾が存在しない女性優位の言語ということもできるかもしれない。
とにかく、はっきりしてほしい。ほかのことにおいても・・
それにはやはり、「権威」が必要です。ある語の意味や価値観もその権威が示すことにより明確化する。
EUで採用されない一つの理由が、語の意味においてみな無責任だということです。
ある条約をエスペラントが優先して選択されないのは、細かな議論、語の定義がふわふわだからです。
とこういう疑念に対し、「いや明確だ」という神話がはびこっています。
amikoに女性が入るのか入らないのか結論づけられない連中が、、です。
僕はいうかもしれません。「amikoは中性だと誰が決めたのだ?どの権力が勝手にamikoは男女どちらかだと言ってるのか?
それらに断定する権利はあるのか?」と。
反論は誰もできません。みな、無責任なのです。
やはり、統一的に決める権威はある程度ひつようです。
そしておいらは、それは絶対権力ではなく、例えば、5年や10年に一度投票制度を作ればいいと思うのです。
いくつかの議題に対してある各国の代表数人ずつがインターネット投票をするのです。
これなら権威機関は絶対的権力は有してなく、民主主義的な反映プラス統一的になると思うのです。

547ベダウリンデ:2009/07/29(水) 11:10:11
>語の意味においてみな無責任だということです。
言えてますね。「民衆の言語だから権威は存在しないのだ」とか言って、何も決めようとせず
各自が自分の都合のいいような民族的解釈で語を使用し、
そのくせ「いつかきっと自然と多数派の言い方が決まるのだ」とか言ってる。無責任ですね。

>統一的に決める権威はある程度ひつようです。
エスペラントの「権威」が何かを決める場合、ただの多数決はやめてほしいですね。
多数決だと、影響力等が強い団体が勝ちます。現状ではエスペラント界の強者はヨーロッパ勢なので、
何でもかんでも「ヨーロッパ流」が優先される可能性があります。
「権威」が何かを決める場合、単純さ、例外の無さ(バランス感覚も重要かも)を最優先して、十分に議論して決定してほしいです。
そうすれば、アジア的な「homo」という言い方が評価されるかもしれないし、
男性名詞女性名詞は男女差別だと思いこんでる人々も考えを改めるかもしれません。
或いは、男性接尾辞は必要だ、それ一つ作れば「男女差別問題」は一気に解決すると、気づけば、
IDOショックから立ち直ることもできるでしょう。
「むやみな改造」でなく「議論を尽くした上での改造」をすれば、IDOの二の舞にはならないです。

それから、「変更情報」はインターネット上などで、誰でも無料で参照できるようにする。
ReVoも常に最新情報をアップする。
インターネット使えない人のためには、地域団体を通じて、変更箇所のみ紙で配布する。
PIVが今の「最高権威」なんだろうけど、超高くって、あれでは少数の大金持ちしか買えないですよ。
(エスペラントは金持ち優遇言語か〜!?)

548ベダウリンデ:2009/07/29(水) 14:03:25
それから、なつさんが多少なりともエスペラントを何とかしたいと思うなら、
NEPO(Nova Esperanta PostulOの略です)路線って考えるといいですよ。
今のエスペランチストが「無責任」なのには理由があるのです。
現エスペラントに少しでも(ザメンホフ以外の人間が)人為的な改造を企てたら最後、
たちどころにIDOのように自滅してしまうだろうと恐れているのです。
自分が何か新しいことを公式に提案したら、それが原因でエスペラントは消滅してしまうかもしれない、
それが怖いんです。
だからみんな「無責任」なのです。これがIDOのトラウマです。

なので私は、多少なりとも現エスペラントに不満を持っている人に、NEPOを提案します。
NEPOは現エスペラントを修正するものではありません。
現エスペラントは今のまま「無責任」状態で放置します。
現エスペラントとは別に、それと平行した形でNEPOは存在します。
もしもNEPOが失敗しても、現エスペラントは生き残ります。
NEPOがIDOの二の舞を踏まず、必要最小限の改造で、より合理的で例外なく、
エスペラントの一種なのでヨーロッパ的言語なのには変わりはないけども、
だけども今よりはアジア人にもとっつきやすい、というものになれば、
現エスペラントからNEPOへと移行する人が増えるかもしれない。
その結果、本家をしのいだら、NEPOが「エスペラント」という名称を名乗ればいいんです。
その地位を継承すればいいんです。
インターネットを通じた改造投票も、現エスペラントに直に反映するのではなく、
まずはNEPOで試用してみる、というのがいいかもしれません。

549なつ:2009/07/29(水) 20:35:12
エスペラントの改正恐怖症と日本国憲法の改正恐怖症は同じだといえます。
いいことをすることさえはばかられるヘタレ集団です。
日本国憲法の改条文ではなく、新人権の加条文さえ臆病になっているのと同じことがエスでもいえます。
エスペラントはまず金持ちの趣味から抜け出さないと・・・と、ヨーロッパ人のお偉いさんがいつか言ってました。
PIVはザ・左翼団体がヨーロッパ的価値観で彼らの勝手で作ったものですからね。それを金科玉条にするのは良くない。
僕は投票でヨーロッパ的のものが選ばれるのもいいと思います。許容の範囲といいますか。
投票の前々に中国人なんかが、「その価値観はヨーロッパ的だけど、そのヨーロッパ的価値観をアジア人に強制したいのか。
たしか、エスペラントは中性、公平だぞ。ヨーロッパのみの言語にしたいのならどうぞ、見放されてください」と強い口調でいったりしたら、
面白いかも(笑)
数年に一度の改変ならば、議論を尽せていいと思うのです。
その改変がだめなら、数年後に再議決できるわけですし。
1900何年にどこそこで、エスペラントは勝手に変えてはいけないと決まったのだ!
だから、エスペラントはいまだに生きているのだ!
っつう詭弁はそろそろやめてほしいものです。
勝手に先祖が決めたもので将来を束縛しないでほしいものですし、
実際、初期エスペラントと現在のエスペラントは多少違っていますし。
そういう意味で変化(チェンジ)は必要です。
NEPO計画が、より合理的、より例外なく、より非ヨーロッパ的で、より万民に中立・公平で、
そして、入門者により容易で、より記憶に負担のない
言語であるのなら、喜んで手伝いたいと思います。
たとえるなら辞書収録数が今の100分の1で今の同じ内容というのを望みます。

550ベダウリンデ:2009/07/30(木) 09:54:34
>ヨーロッパのみの言語にしたいのならどうぞ、見放されてください
私、時に思うんですが、エスペラントにおいてアジア人って邪魔者だったんじゃないかって。
ヨーロッパ的価値観に統一されていれば、amiko=男が完全多数派として、何の当たり障りもなく、自然と共通認識になっていただろう、と。
日本人(や同じ言語特性を持つ他のアジア人)が、自分達の習慣でamiko=男女で使いたいと思っていて
それを頑固に貫こうとしてるから(例:JEIの見解)、いつまでたっても統一されないんだと思います。
他の不統一も大体、東西対立が要因ではないですか?
アジア人さえいなければ、subvencioで、全く問題ないでしょう。
アジア人さえいなければ、語彙の意味の固定化も現在より楽になり、
EUから「定義がふわふわしてる」なんて言われなくてもすむでしょう。

「エスペラントは中立公平な言語であるべきだ」と思ってる善良な西洋人エスペランチストは
アジア人達に影響されて揺らいでいるんだと思います。
良識的に考えたら、アジア的なamikoの方が「男女平等」的だし、
helpmonoの方が、造語駆使という点で、ザメンホフ先生の遺志にかなっていそうだし。

また、中国人がどやせば、(あんまり深く考えてない一般の)西洋人エスペランチスト達までもが考えを改めるか、
といったら、それはどうかな、と思います。
「じゃあ出ていけば?」で終わったりして。
で、出ていくか、と思ったら出て行かなかったりして。

そんなこんなの揉め事が、明らかに予想されるので、
>数年に一度の改変ならば、議論を尽せていいと思うのです。
という案は、それこそ「IDOの二の舞」へと突き進んでいく危険性を秘めてます。
IDOトラウマの残る現エスペラント界では、怖くて絶対踏み込めないでしょう。

551なつ:2009/07/30(木) 21:16:47
はい、僕は、前提が、ある権威機関が存在し、その機関に沿うのが当たり前という土壌であればよかったのに、という思いです。
例えば、「エスペラント・ザメンホフ財団」というのがあり、その理事は、歴代、ザメンホフの意志を継ぐものと擬制される(各地に傘下団体がある)。
その機関紙(サイト)と辞書が標準エスペラントのお手本とされる。エスペランティストはその標準エスペラントを使うことを当然と思っている。
文法や語彙選定はそこのみが受け持つ。ただし、変えないというのが大原則である。
時代の流れとともに変えざるを得ない状況のとき、その機関が提案を出し、1年後に投票、可決、試用期間、継続使用。
提案例:「国名にするにはujoからioの語尾(Japanio)を提案する。理由、①ujoは一義的に入れ物、容器という意味であり国名にはふさわしくない。②より国際的で親しみやすい語感」
結果:賛成多数により可決。当機関紙で1年間試用し、1年後試用決定予定とする。今後は国名はujoに代わりioを標準とするが、ujoは古形として存続させる。
みたいな。10年に一回くらいかな。
権威は権力とは違い、残念ながら必要だと思います。そしてその権威に沿って標準が決まっていけますから。
でも今は無理ですね。「権威なんてふざけんな」という恐怖症の人たちばかりですから。
僕の言う権威とは、もちろん「権力など力をもって他を支配する」という意味ではなく、みんなに信頼されるお手本の代表みたいなものです。
権力はないし、決定力もありません。国家機関でいう大統領、行政です(提案権など)。我々が立法機関(決定権)です。
NEPOはどうなるんでしょうかね。

552ベダウリンデ:2009/07/31(金) 09:45:47
今現在、事実上の「権威」なのは、SATのPIVではないでしょうか?
掲示板上のやりとりを見た限り、「PIVではこうなってます」という言い方は
黄門様の印籠のように、決定的な権力を持ってるように、私には響くんですが。
ReVoもPVの古バージョンらしいし、結局「辞書のSAT、辞書はSAT」なのではないですか?
UEAはPIVに相当する辞書は出してないし、どちらかと言うと、
大会等、みんなが会する機会を提供する事務的機関、みたいな印象。

なつさんが「権威さえ存在すればいい」と思うなら、いっそ手っとり早く、
SATに全権委譲してはいかがでしょうか。
基盤は既に整っているので、あと必要なのは「皆の了解」だけです。
選挙も、SATが「必要だな」と思ったら、必要な時点でやればいい。
大体は、様相見て、SATが勝手に決めちゃってもいいんじゃないですか?
要は、不確かな部分を、ガツンと決めてほしいだけなのですから。
10年も間隔があると、どっちにしろ、事後承認的な形になると思いますし。
SATはMLや刊行物などが既にあるらしいから、、内部だけで「試用」する環境も整っているでしょう。
それでOKなら「公布」して、皆それに従う。超スムーズな運営ではないですか? 

エスペラントの「定義がふわふわしてる」のは、東西で言語の感覚が違うからだと思います。
EU等で使用してもらうためには「定義の統一」が必要で、そのための「権威」なら、
アジアにおもねることなく、ヨーロッパ人の考えで決めてもらっった方が結論は早いと思います。
その路線でいくなら、私は「SATに全権委譲」を提案します。

NEPOはaziemaな企画案です。
エスペラントをヨーロッパよりからアジアよりに近付けて、さらにそれを決定づけよう、とするものです。
アジアよりなので、EU等に採用される可能性は低くなるでしょうし、
ヨーロッパ人達の支持も得られず、結局自滅も考えられます。
(中韓と仲良くしなきゃならないのが嫌だ、と思う日本人エスペランチストもいるでしょう)

553ベダウリンデ:2009/07/31(金) 10:05:52
>その理事は、歴代、ザメンホフの意志を継ぐものと擬制される(各地に傘下団体がある)。
なつさんの案でいくと、「各地の傘下団体」の日本支部は、自動的にJEIになることでしょう。

それから、NEPO案に関して、
今までにもそういう動きはあって当然だと思うのですが、無かったのでしょうか?
アジア人エスペランチストは、アジア大会だの日中韓大会だの、結構交流してるようです。
ヨーロッパ人から見ると「なんでアジア人がエスペラントなんかやってるんだろ?」と疑問に思っても
実際既にやってるんだから、ヨーロッパ人から見ても無視する訳いかないんだろうと思う。
それに、リベラフォリオによると、ビヤリストク大会のある交流会場に、投石事件があったんだってね。
ヨーロッパではエスペラントって意外と「嫌われ」てるのかもしれない。
アジアにおいてはむしろ「偏見」は少ないだろういから、生き延びるのはアジアでかもしれないですね。
(日本のエスペランチストはなぜか言語運動に無関係な9条に固執してるから、一部改憲派からネット上でターゲットにされてるけど
一般的には「知名度」そのものが低いから、大会やってて右翼に狙われる、なんてことは実際無いと思う。)

554なつ:2009/07/31(金) 18:24:42
UEAが権威を初めからもっていたらなにも文句は言ってなかったとおもいます。
しかし、今となっては、「日本大会より歴史が浅いUEAが、でしゃばんじゃねえよ。
SAT?時代遅れの共産主義者がうるせえよ。いいきになんじゃねえよ」という思いしかありません。
権威を持つとなっても、反発するだけです。
JEIのEs日辞典は大変重宝してますが、「だからっていいきになるなよ」という思いもありますから(笑)
続きまして、
ベダウリンデさんのNEPO案ってそんなにアジアよりの案だったんですか!?
僕は、文法は9割以上手をつけないという考えだったんですが、
文法をかなり変更させるということになるますよ。
基本語根はエスペラントであとは総とっかえになりかねませんよ。
まあ、かなり興味深いですけど。
いままで、そこまでの改造案はアジア人からは無かったと思います。
アジア人はエスペラントはヨーロッパのものという暗黙の共通認識がありますから。

555なつ:2009/07/31(金) 18:50:44
ベダウリンデさんが思い描くNEPO案について、仮にヨーロッパ的からアジア的に移行した言語
とするならば、16条の文法は・・・・・
①冠詞 ない
②名詞 語尾o。変化なし。つまり主格・対格または単数・複数形の区別なし。複数を表したいときは副詞で表す。
③形容詞 語尾a。変化なし。比較級、最上級は副詞で表す。
④数詞 変化なし。以下略。
⑤人称代名詞 変化なし。男女、単複、物人区別しない。普通名詞と全く同じ扱いをする。
⑥動詞 語尾i。活用なし。無活用。時その他を表したいときは副詞で補う。
⑦副詞 語尾e。
⑧以下 略
備考 疑問詞が文頭に来る必要はない。

基本的にこういうことっていうことでしょうか?

556ベダウリンデ:2009/08/01(土) 09:20:26
>UEAが権威を初めからもっていたらなにも文句は言ってなかったとおもいます。
なつさんは、「権威を選んでる」のですね。
現状では、全権委任してもいいと思えるような、完璧な権威候補が存在しない、と。
ならば、新しいのを作るか、諦めて現状の無権威状態を認めるかの、どちらかですね。
新たな権威を最初から作るのは、現実問題として非常に難しいでしょう。

NEPO案は、アジアより、というより、「今よりは」アジア人にも分かりやすい、という程度です。
エスペラントは基本的にヨーロッパの言語ですから、そこは尊重します。
改造は最小限とし、絶対的基本方針は「例外なし」で、実際の主な取り組みは「ヨーロッパ語彙の削減」です。
基本的な語根は保持し、造語せずにヨーロッパ語をそのままエスペラント化した語彙のみ削減します。(どっかのマニュフェストみたいですね)
最初は理論面の構築を行わねばならないので、実際の個々の語根がどうこうとかいう話はずっと先になります。
10年20年の長いスパンが必要でしょう。そこが難点ですね。「そんなの無理〜」みたいな。

現エスペラントには直接反映しません。あくまで「別派」です。
出来上がれば、いきなりダーンと完成形を公開し、その後は改造不可、とします。
時代に即した新語は無理なく導入できるように、あらかじめ設計しておきます。
なつさんの①〜⑧は、私は考えてませんでしたが、
その後の検討により「必要最小限の変更」として妥当と判断されたならば
それもありかもしれませんね。

557なつ:2009/08/01(土) 11:22:18
>>NEPOはaziemaな企画案です。
>>エスペラントをヨーロッパよりからアジアよりに近付けて、
>>さらにそれを決定づけよう、とするものです。
>>アジアよりなので、EU等に採用される可能性は低くなるでしょうし、
>>ヨーロッパ人達の支持も得られず、結局自滅も考えられます。

といわれたので、エスペラントが西より、NEPOが東よりなのかと、思いました。
今まで、今よりも非ヨーロッパ色を排除していくと思っていたので「おや」と思ったのです。
しかし、>>556
>>「今よりは」アジア人にもわかりやすい
など、言われたので、僕の当初思っていた考えと同じだと分かりました。
となると、ヨーロッパ的から、より中立的、より世界的になって、
ヨーロッパ語の言葉遊びより上を目指すヨーロッパ人には受け入れられるのではないでしょうか?

558なつ:2009/08/01(土) 12:52:48
訂正 「非ヨーロッパ色」→「ヨーロッパ色」

559ベダウリンデ:2009/08/03(月) 11:16:21
>ヨーロッパ的から、より中立的、より世界的になって、
そうです。そういう言語だったら良かったのに、と思います。
>ヨーロッパ語の言葉遊びより上を目指すヨーロッパ人には受け入れられるのではないでしょうか?
そんなヨーロッパ人、いるかもしれないけど、いても少数派の言語エリートではないですか?
一般の凡人ヨーロッパ人エスペランチストは、自分達にとって当たり前の感覚として何も疑わずに
ヨーロッパ的感覚でエスペラントを使っているんだと思います。
何も疑わずに、それが「世界標準」だと思って。
アジア人が他の感覚を持っているなどとは、露ほども思わずに。
(エスペラントはヨーロッパ語の一変種なので、それが可能なのですが)

MPEGではamiko=中性ですよ。ではなぜ、誰もviramikoを使わないのか。
ヨーロッパ人の当たり前の感覚が、「正当なルール」を無視して標準感覚になってるからでは?
それはエスペラントが「生きてる言語」の証明でもありますが、
だったらルールを変更すればいいんですよね。
でも、多々の要因(*1)でルール変更ができない。それが今のエスペラントです。
(*1)例として、イドトラウマ、言語エリートであるヨーロッパ人エスペラントリーダー達のアジア人へのおもねり

アジア人にも責任がありますね。
だって、アジア的感覚でamiko=男女で使いたいならば、男友達を表現したい時はviramikoって使えばいいんですよ。
でもヨーロッパ人がそんな言い方しないから使わない。使ったら「変」に思われるから。
それでもってamikinoは安心して普通に使う。
このように、無意識に「ヨーロッパの価値観」に順応させられるのが、
アジア人にとってのエスペラントです。

そうじゃなくて、もっとバシッと、決まりをはっきりさせて、
アジア人にも違和感ないようなエスペラントがあったらなーっと思ってます。

560ベダウリンデ:2009/08/03(月) 11:34:19
エスペラントを多少やると、日本語の感覚と全然違うな、と気づかされます。
エスペラントの感覚=ヨーロッパの感覚なんだと思います。
英語なら「英語だから英米人の感覚に合わせるか」と思えるし、
「へー、英米人ってそういう感覚なんだ、ふーん」と他人事として思えます。
エスペラントは「これが正当中立な国際語」=「正当な第2の母語」にしなくちゃいけない、
と思うと、すごい違和感を感じて、苦痛で屈辱的でもあるんです。

例えば、日本語を使う私の感覚では、「自分」は混とんとした宇宙で、「他者」は「自分」と異なる存在。
エスペラントでは「自己」も「他者」も同じものとして見てる。あたかも自分は「幽体離脱」して「自己」も「他者」も見てる感じ。

例えば「着る」と「着せる」。
エスペラントでは「着る」=「自分に着せる」。「他人に着せる」のと、全く同じ行動だと思って、幽体離脱した自分が眺めてる。

他には感情語についても、気になる点があるので、まとまったらまた。

561:2009/08/03(月) 21:32:44
むしろエスペラントはラテン語のクレオールとして純化してほしいとか言ったらいけませんか?

562なつ:2009/08/03(月) 23:17:48
ベダウリンデさん。
そうですね、僕も、屈辱感を持ちましたね。
ヨーロッパへの屈服感といいますか。

それなのに、日本人のエスペランティストたちは
中立公正だと大宣伝をしている。
ザメンホフが思ったとされる逸話を用いて言語差別のないものだと大宣伝する。

そんなのはヨーロッパへの服従の考えでしかないと、すぐ学べば気づくものなのだが、
どういうことで、大宣伝しているのか。一種の霊感商法だ。
ヨーロッパの統一的価値観=差別がない、とほんとに思って、中立公正だなんて言ってるとしたらクレージーだし。
そう思うと、アホらしいって思う。
いっそのこと英語でいいじゃないか、と飛躍して思ってしまうこともある。
エスペラントを学ぶ人はジレンマが常につきまとうと思う。
エスペラントは、中立公正なのか?エスペラントの現代における意義とはなんなのか?と。
まあ、何も考えず9条!と叫んでる人たちもいるが。

563なつ:2009/08/03(月) 23:54:05
鮒さん。
ラテン語のクレオールに純化するというのは、どういうことですか?
①語彙選定をラテン語のみからにする。②活用等文法をラテン語に近づける。
ということでしょうか。
比較的容易だろうと思いますよ。
しかし、無活用ラテン語(Latino sine flexione)がありますよ。
名詞、形容詞、動詞は語尾が数種類ありますが、
動詞の時制、複数形、および冠詞はありません。
さらにいうと、発音が、gxとjxなし、hxなし、vなし、cとcxなし
ですからかなり簡単です。
これが、鮒さんのおっしゃるラテン語のクレオールと言えるものだと思います。
ただし、これは、まさに中立公正に反するものですよね。
特にイタリア人(あるいはスペイン人等)にかなり有利ですし。
そこで出るのがインターリングワです。
仏、伊、西(葡)、英、独、露、(+羅)の6ヶ国語の共通的語彙を語彙にする言語です。
最大公約数という訳ですがスラブ系1、ゲルマン系2に対してラテン系が占めますので、無活用ラテン語に似てきます。
が、より現代語の公約数的なものが網羅されていますので、かなりこちらのほうが覚えやすいです。
またエスペラントもインテルリングワと同じくらいラテン系から採用されていますのでエスペラントとインテルリングワはとても似ています。
ただしエスペラントの語彙選定は恣意的なので、より不公平感があります。

564ベダウリンデ:2009/08/04(火) 08:48:25
鮒さんが、エスペラントをラテン語のクレオールにしたい、と思うのは自由ですよね。
誰も妨げる権利を持ちません。「中立公正」じゃなくたって全然OKですよ。
それを実現させる方法としては
①(なつさんご紹介の)無活用ラテン語やインテルリングワ等、同じ方向性を実現してる言語が既にあるので、それに合流する。
②現エスペラント界に対して改造を要求する。
③NEPO(Nova Esperanta PosteulO)のように、新たな別派として構想する。
どれでもいいんじゃないですか?

565ベダウリンデ:2009/08/04(火) 09:16:05
NEPOは、アジア人がエスペラントやってみて「分かりづらい」「不自然だ」と思うところを
なるべく「変更最小限」の形で、なるべく「例外を作らない」形で、実現したいな、と思う案です。
現エスペラントに対して改造は要求しません。別派、亜流、方言、です。

ただし、実現にあたっては、長大な道のりが予想されます。
辞書の洗い出しもしなくてはならないし、他の民族語や人工語を参考にするための勉強も必要だし、
私個人としては「絶対そこまでできない」と思うのですが、将来のための第一歩として、企画提案してます。
今現在は、「エスペラントのどこがアジア人に分かりにくいか」という点を
エスペラントを叩いて叩いて叩きまくり、洗い出している段階です。
エスペラントの悪い点を暴き、改造しようとしてるように見受けられるかもしれませんが、
目的は全く異なります。

566ベダウリンデ:2009/08/04(火) 09:57:34
エスペラントの分かりづらい点の例:感情語に関して

例えば「怒り」という感情は、『何らかの不満・不平に対する感情的な反応である。』(ウィキペディア)
それは『血圧や心拍数の上昇を伴う』(Vikipedio)人類共通の現象であると思われる。

その感情を、日本語では「おこる」「いかる」「いきどおる」などと言うが、それらはほとんど同義で、
その感情が起きた原因によって、言葉を選ぶのではない。
「義憤」という単語はあるが、文字どおり「正しい怒り」という意味で、
その単語の中に「いきどおり」という語を含んだ熟語(造語)でいる。

エスペラントで「怒る」はkoleriだが、「義憤」にはindigniという全く別の単語が存在する。
つまり、konvinkiとpersvadiが「説得の方法」で独立した単語になってるように、
koleriとindigniは、「怒りの理由」で別単語になっている。

大かたの日本人は、よっぽどでない限り、「義憤」なんて言葉は使わない。
「義」だろうが「私」だろうが、「怒ってる」という自分の気持ちには変わりはないから、普通「怒る」「憤る」で代用し、
代用しても、怒りの原因が誤解されることはない。

また、エスペラントではofendiĝi=侮辱を感じて怒る、という単語がある。
これも「怒りの理由」で別単語になっている。
これに相当する日本語単語は、一語では思い当たらない。
日本語で「侮辱された」と言う場合、自分の怒りの感情よりも、相手の行為の不当性を公的に訴えてる感じが強まる。
他に、「怒りの理由」とは関係無いが、furiozi=狂ったように怒る、という全く別の単語もある。

色々な「怒り方」はあって当然だが、なぜそれを「造語」で行わないのか。なぜ、別単語なのか、
日本人の私の感覚では、納得いかない点です。

日本語では「怒る」という感情は、理由では分けない。
その精神的背景を考えると、「自分という混とんとした宇宙」があって、怒りの起因になってるのは「外部」であり、
それは自分とは異なる世界、という感覚があるのかなと思う。
そして「外部」よりは「自分の内部」が大事である、という世界感があるのかな、と思いました。

日本語で「怒り」を表現するとき、「むっ」「かちん」「かっ」など、擬態語的表現で表すこともよくある。
これは怒りを、「理由」でなく、「感覚」的表現で表してると思う。
「腹が立つ」「頭に来る」なども、理屈ではない身体の感覚での表現だと思う。
「自分」は混とんとした宇宙で理屈で説明できない。だから「混とんが感じ取った」内部感覚でしか表現できないんだと思う。

日本語には主語が無い。時にそれは「非論理的」と非難される。
でも、主語が無いのは、「自分」は混とんであり、「他者」もまた自分の外にある混とんだ、という意識の表れなんだと思う。
エスペラントとか、その元になってるヨーロッパ語みたいに、
自分を怒らせてるのは何かという事を、幽体離脱の自分が常に冷静に判断してるような語とは、精神構造そのものが全く異なるように思う。
そしてそういうエスペラントを「公式共通語」とする事は、「そういう感覚は非論理的だからこっちに直しなさい」と言われるのと同じな感じがするので、
非常につらいものがあるのです。

なのでNEPOでは、koleriは、人類共通の「怒り」という内部感覚として定義し、
「その要因」は造語としてくっるける、としたらどうか、と思っている。
仮に他の民族で、ヨーロッパ人と異なる理由で怒る民族がいて、
その要因をはっきり言いたければ、それも造語で対等に作る事ができる。
他の民族語を知らなくても、想像力を働かせ、こういう時は**-koleriっていう言い方があるといいね、という感じで作れる。

567:2009/08/05(水) 15:39:28
なぜ「アジア人」に限定するのかわかりませんね。
アフリカ・アメリカ・オセアニアの言語文化は無視ですか?
それに「アジア」と言ってもインド・イラン・アルメニア等
「インド・ヨーロッパ語」の系列の言語が優越してる国も多いですよね。

568:2009/08/05(水) 16:03:56
最大の問題としてアラビア語圏は「アジア」に入るのでしょうか?
アラビア語では名詞のみならず動詞にも性の区別がありますが。

569ベダウリンデ:2009/08/05(水) 18:33:02
>なぜ「アジア人」に限定するのかわかりませんね。
理由は、NEPOは今のところ日本人である私個人での構想だからです。
本当ならば「日本人にも分かりやすい」と書きたいところでした。
それなのに「アジア人」にしたのは、中韓は漢字文化圏だし、似てる所も多々あるだろう、
という私の思い込みです。
今後は「日本人にも分かりやすい」に変えようと思います。(「も」に注目! 日本人に、ではありません)

私は「日本人にも分かりやすいエスペラント」を目指していますが、それは
「日本語の特徴をエスペラントに盛り込みたい」というのとは異なります。
日本語とエスペラント語の違いを検証することにより、
より普遍的な言語構造とは何か、を考えています。
「分かりやすさ」=「自分の言語に似てる」という事ではないです。
「ルールがはっきりしてて誤解される要因が少ない」のが「分かりやすい」だと思います。
 
vir/ino問題など、アンバランスゆえに誤解を生みやすい箇所が、現エスペラントにはありますが、
そこを修正すると、誤解も減り、「分かりやすく」なります。
「男女平等」にするのは、「その方がアジア的だから」ではありません。

そのような検討の結果、アフリカ・アメリカ・オセアニアの諸民族にとっても
今のエスペラント語よりは、分かりやすいものになったら幸いです。
そのためには、人類共通の感覚とは何かを常に意識し、
抽象的・普遍的に考える、というコンセプトを、NEPOには持たせようと思っています。

566の最後の部分は読んでいただけましたか? 「ここ」押さないと読めないので再掲します。

NEPOでは、koleriは、人類共通の「怒り」という内部感覚として定義し、
「その要因」は造語としてくっるける、としたらどうか、と思っている。
仮に他の民族で、ヨーロッパ人と異なる理由で怒る民族がいて、
その要因をはっきり言いたければ、それも造語で対等に作る事ができる。
他の民族語を知らなくても、想像力を働かせ、こういう時は**-koleriっていう言い方があるといいね、という感じで作れる。

570なつ:2009/08/05(水) 19:45:51
鮒さんの意見はどうなのかな?
エスペラントがより、ラテン語という一言語に偏って近づくことが希望なんですかね?

ベダウリンデさん。
漢字圏+シナタイ語族つまり日本語、中国、韓国・朝鮮、ベトナム、タイ
というくくりでなんとなく考えていました。大東亜共栄圏といいましょうか(笑)
NEPOのスレッドをそろそろ作ってもらえないですか?
僕も、いろいろ案を出させていただこうと思います。
人工言語、クレオール言語、その他の言語を趣味でかなり見ていたことがあります。
NEPOのようなものをずっと僕も抱き続けていました。
NEPO構想は、少なくとも今までのどの人工言語よりも、すぐれています。

571なつ:2009/08/05(水) 19:48:32
補足。
東亜ひとくくりで考えてたといってもあくまでも
エスペラントが基礎、土台としてあるのが前提という話です。

572ベダウリンデ:2009/08/06(木) 08:59:07
>570
なつさんありがとう。
今までの経緯をまとめて、新スレ立てたいと思いますので
まとまるまで少々お待ち下さい。

573ベダウリンデ:2009/08/07(金) 10:32:34
新スレ作りました。
新エスペラントNEPO構想*アイデア募集中
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/7882/1249603204/


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