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ローマ・カトリック教会による日本人奴隷売買・貿易

1名無しのひつじさん:2007/02/01(木) 10:35:51 ID:lRpwgqoI
☆★☆★学校・教会は日本人に 教えるべき☆★☆★
       ここ→ >>1-22 

鬼塚英昭氏の著「天皇のロザリオ」(P249〜257)は、次のように述べている。
「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。
『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、
獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』。
ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、
ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、
交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。

『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。
肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、
奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、
同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、
何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、
インドやアフリカまで売っている』と。

2名無しのひつじさん:2007/02/01(木) 10:36:57 ID:lRpwgqoI
>>1よりつづく 
http://www.gameou.com/~rendaico/nihonchristokyoshico/zinshinbaibaico.htm

秀吉は、準管区長コエリヨに対して次のように命じている。
>「ポルトガル人が多数の日本人を奴隷として購入し、彼らの国に連行しているが、
>これは許しがたい行為である。従って伴天遠はインドその他の遠隔地に売られ
>て行ったすぺての日本人を日本に連れ戻せ」。
2002.7.9日付北國新聞の「バテレン追放令」も当時の「宣教師達による日本人
女性人身売買」について触れている。豊臣秀吉のバテレン追放令第10条の
「日本人を南蛮に売り渡す(奴隷売買)ことを禁止」を紹介し、次のように述べている。
「バテレン船で現実に九州地方の人々が外国に奴隷として売られていること―などが
分かる。秀吉の追放令は、ある意味で筋の通った要求だった」。

これらを踏まえて、「株式日記と経済展望」氏は次のようにコメントしている。
今年のNHKの大河ドラマは山内一豊が主人公ですが、信長、秀吉、家康の時代のドラマです。
また同じNHKでは「そのとき歴史は動いた」と言う番組でも,
戦国時代のことをよく取り扱います。
その中で秀吉とキリシタンの関係を扱ったものがありましたが、
日本の娘などがキリシタンによって奴隷として売りさばかれた事は扱わなかった。
つぎへつづく

3ローマ・カトリック教会による日本人奴隷売買・貿易:2007/02/01(木) 10:38:04 ID:lRpwgqoI
>>2よりつづく 
この事は、さまざまな文献資料によっても証明されているから事実なのですが、
日本の歴史教科書でも、秀吉のキリシタン弾圧は教えても、
日本女性が奴隷としてキリシタンたちが海外売りさばいた事は教えないのはなぜか。
そうでなければ秀吉がなぜキリシタン弾圧に乗り出したかが分からない。

おそらく大河ドラマでも高山右近などのキリシタン大名が出てくるだろうが、
娘たちを火薬一樽で娘50人を売った事などはドラマには出てこないだろう。
しかしこのようなことがカトリック教に対する日本国民のイメージが悪くなり、
ローマ・カトリック教は日本ではいくら宣教師を送り込んでも1%も信者が増えない。
かつてローマ・カトリック教は人さらいをした宗教と言うDNAが、
埋め込まれてしまったのだろう。 つぎへつづく

4名無しのひつじさん:2007/02/01(木) 10:39:45 ID:lRpwgqoI
>>3よりつづく 
歴史教科書などではキリスト教弾圧を単なる異教徒排斥としか教えていませんが、
信長にしても秀吉にしてもキリシタンに対しては最初は好意的だった。
しかし秀吉に宣教師たちの植民地への野心を見抜かれて、
だんだん危険視するようになり制限を設けたが、
神社仏閣の破壊や日本人を奴隷として売りさばく事が,
秀吉の怒りに触れて弾圧するようになったのだ。

☆コラム:大西洋奴隷貿易時代の日本人奴隷
Column : Japanese Slaves in the Age of the Middle Passage

天正15年(1587年)6月18日、豊臣秀吉は宣教師追放令を発布した。
その一条の中に、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買を厳しく禁じた規定がある。
日本での鎖国体制確立への第一歩は、奴隷貿易の問題に直接結びついていたことがわかる。

「大唐、南蛮、高麗え日本仁(日本人)を売遣候事曲事(くせごと = 犯罪)。
付(つけたり)、日本におゐて人之売買停止之事。 右之条々、堅く停止せられおはんぬ、
若違犯之族之あらば、忽厳科に処せらるべき者也。」(伊勢神宮文庫所蔵「御朱印師職古格」)

日本人を奴隷として輸出する動きは、ポルトガル人がはじめて種子島に漂着した、
1540年代の終わり頃から早くもはじまったと考えられている。16世紀の後半には、
ポルトガル本国や南米アルゼンチンにまでも日本人は送られるようになり、
1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の一行も、
世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。
「我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、こんな安い値で、
小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった。」
つぎへつづく

5大西洋奴隷貿易時代の日本人奴隷:2007/02/01(木) 10:40:49 ID:lRpwgqoI
>>4よりつづく 
「全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、
世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、
みじめな賤業に就くのを見て、憐 憫の情を催さない者があろうか。」
といったやりとりが、使節団の会話録に残されている。
この時期、黄海、インド洋航路に加えて、マニラとアカプルコを結ぶ太平洋の定期航路も、
1560年代頃から奴隷貿易航路になっていたことが考えられる。
 秀吉は九州統一の直後、博多で耶蘇会のリーダーであったガスパール・コエリョに対し、
「何故ポルトガル人はこんなにも熱心にキリスト教の布教に躍起になり、
そして日本人を買って奴隷として船に連行するのか」と詰問している。
南蛮人のもたらす珍奇な物産や新しい知識に誰よりも魅惑されていながら、
実際の南蛮貿易が日本人の大量の奴隷化をもたらしている事実を目のあたりにして、
秀吉は晴天の霹靂に見舞われたかのように怖れと怒りを抱く。
秀吉の言動を伝える『九州御動座記』には当時の日本人奴隷の境遇が記録されているが、
それは本書の本文でたどった黒人奴隷の境遇とまったくといって良いほど同等である。
「中間航路」は、大西洋だけでなく、太平洋にも、インド洋にも開設されていたのである。
「バテレンどもは、諸宗を我邪宗に引き入れ、それのみならず日本人を、
数百男女によらず黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の呵責にもすくれ
(地獄の苦しみ以上に)生きながらに皮をはぎ、只今世より畜生道有様」といった記述に、
当時の日本人奴隷貿易につきまとった悲惨さの一端をうかがい知ることができる。つぎへつづく

6大西洋奴隷貿易時代の日本人奴隷:2007/02/01(木) 10:41:52 ID:lRpwgqoI
>>5よりつづく 
 ただし、こうした南蛮人の蛮行を「見るを見まね」て、
「近所の日本人が、子を売り親を売り妻子を売る」という状況もあったことが、
同じく『九州御動座記』に書かれている。
秀吉はその状況が日本を「外道の法」に陥れることを心から案じたという。
検地・刀狩政策を徹底しようとする秀吉にとり、
農村秩序の破壊は何よりの脅威であったことがその背景にある。
 しかし、秀吉は明国征服を掲げて朝鮮征討を強行した。
その際には、多くの朝鮮人を日本人が連れ帰り、
ポルトガル商人に転売して大きな利益をあげる者もあった。
−−奴隷貿易がいかに利益の大きな商業活動であったか、
このエピソードからも十分に推察ができるだろう。

7ローマ・カトリック教会による奴隷貿易の日本人奴隷:2007/02/01(木) 10:42:52 ID:lRpwgqoI
>>6よりつづく
日本における奴隷制度の歴史とローマ・カトリック教会

日本には奴隷制がないのです。理由は簡単です。
奴隷とする民族が極端に少ないからです。
日本の人身売買は一般的に「親が子どもを売る」というパターンが圧倒的です。
なんでも日本書紀にある親が生活にどうしても困って子どもを売りたいと言って、
役所へ届けた話が最古の例だそうです。645年ころです。
このころの日本は身分制度があり、良民と賤民に分れてました。
このときの大和王朝は良民の売買を禁止して賤民の売買を許可しました。
日本政府は通常の人身売買は禁止しますが、
飢饉や経済危機のときの人身売買を黙認するという方向となります。
平安以降から「人買い商人」が横行します。都会の若者をダマして、辺境へ売り飛ばすのです。
辺境も開発途上であり、労働力が必須でした。需要と供給は一致していたのです。
下品な話ですが美青年やら美少女とやらも珍重されてたようですね。
当時の政府はもちろん、禁止令を出しますがあまり効果がなかったようです。
人身売買がさかんになったのは室町時代以降です。

さらに1543年にポルトガル船が種子島に漂着したあたりの時期から日本は奴隷貿易を始めました。
南蛮との交流で日本人の売買がけっこうさかんだったようです。
しかし日本人もポルトガル人もかなり勘違いをしてました。つぎへつづく

8ローマ・カトリック教会による奴隷貿易の日本人奴隷:2007/02/01(木) 10:44:11 ID:lRpwgqoI
>>7よりつづく
西欧人にとって日本の奴隷市場は革命的なものでした。
なんと通常の1/3の価格で売買できたのです。
もちろん、日本の人買いが「買え、買え」と西欧人に押し売りしてた一面もありますがね。
このときのアフリカ人奴隷が現在で20万円くらいで売買されてたようですが、
日本人はなんと6万円です。「こんなに安くていいんか!」と思ったでしょうね。
西欧人と日本人の奴隷の観念が違うのです。西欧人にとって奴隷とはモノ同然の犬猫です。
日本人にとっては「債務」を抱えた同じ人間です。
つまり「債務」さえ完済すれば同じ人間に戻れるのです。
売値が「債務+利益」ですから、通常の奴隷より価格が安いのは当然ですよね。

始め、西欧に寛容だった豊臣秀吉が急に「西欧排斥」の態度に変わった原因もここにあるのです。
海外でいつまでも強制労働を強いられている日本人の存在を秀吉は知りました。
めっちゃ怒ったようです。
豊臣秀吉は「庶民」出身です。幼少時かなり貧乏な思いをしたようです。
もしくは売り飛ばされた経験があるのかもしれません。つぎへつづく

9ローマ・カトリック教会による奴隷貿易の日本人奴隷:2007/02/01(木) 10:45:14 ID:lRpwgqoI
>>8よりつづく
西欧人にとっては人身売買は「所有権の移転」です。
日本人にとっての人身売買は現代でいうと「派遣社員」に近いのです。
「債務を完済するまでが奴隷であって、一生奴隷なんてありえない」
と思うのが日本人共通の観念でしょう。
秀吉は民間出身ですからこの現実は身に染みてるはすなのです。

1587年にこの問題は外交問題となり、ポルトガル政府は苦慮したようです。
言い訳はこうです。
「あんたらが買え買えというから買ったんであって、どうにもならなかった」
だそうです。なんとなくわかる気がしますがね。
対応策は海外に存在している日本人奴隷の売買を禁止しました。
しかし、もうスペインはおろかアルゼンチンまで、
日本人奴隷がいたそうですからもうどうにもなりません。
でも秀吉が行った朝鮮の遠征で多数の朝鮮人がポルトガルを通じて売り飛ばされました。

世の中こんなもんですね。
売り飛ばされた日本人も誘拐同然なのも考慮にいれとかなければなりません。
(ひどい親となると明らかに換金目的で売り飛ばしてるのもいるそうです)つぎへつづく

10ローマ・カトリック教会による奴隷貿易の日本人奴隷:2007/02/01(木) 10:46:22 ID:lRpwgqoI
>>9よりつづく
西欧人にとっては人身売買は「所有権の移転」です。
日本人にとっての人身売買は現代でいうと「派遣社員」に近いのです。
「債務を完済するまでが奴隷であって、一生奴隷なんてありえない」
と思うのが日本人共通の観念でしょう。
秀吉は民間出身ですからこの現実は身に染みてるはすなのです。

1587年にこの問題は外交問題となり、ポルトガル政府は苦慮したようです。
言い訳はこうです。
「あんたらが買え買えというから買ったんであって、どうにもならなかった」
だそうです。なんとなくわかる気がしますがね。
対応策は海外に存在している日本人奴隷の売買を禁止しました。
しかし、もうスペインはおろかアルゼンチンまで、
日本人奴隷がいたそうですからもうどうにもなりません。
でも秀吉が行った朝鮮の遠征で多数の朝鮮人がポルトガルを通じて売り飛ばされました。

世の中こんなもんですね。
売り飛ばされた日本人も誘拐同然なのも考慮にいれとかなければなりません。
(ひどい親となると明らかに換金目的で売り飛ばしてるのもいるそうです)つぎへつづく

11ローマ・カトリック教会による奴隷貿易の日本人奴隷:2007/02/01(木) 10:48:42 ID:lRpwgqoI
>>10よりつづく
戦国末期の日本はなかなか変な状況の国でして
法的に奴隷という身分は存在しませんが頻繁に人身売買が行われ、
犯罪同然で売買して商人も存在しているのす。
外見からみれば「普通の奴隷貿易」でいいんじゃないかと、
ポルトガル側は分析するんですが、決着はしてないようです。
ポルトガル側の証言でこんなことを言ってます。
日本人は奴隷たちをかわいがっている。
養子にしたり、娘を嫁に送ったり、
ましてや奴隷という身分から解放してやる例はよくある話。
反面。
我々が奴隷を買い取らねば「奴隷を殺す」という人買い商人がいた、
非合法な手段で手に入れてきたのは明らかだ。こんなケースは希だけども。
そんな外交問題があったため、秀吉は人身売買を禁止しました。
農民を土地に縛り付ける目的もあります。
1598年に秀吉は病死してしまい、
この人身売買禁止法はまたまた空文化してしまいます。

12ローマ・カトリック教会による奴隷貿易の日本人奴隷:2007/02/01(木) 10:50:17 ID:lRpwgqoI
>>11よりつづく
☆ローマ・カトリック宣教師の野望
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog154.html

50万人は少し多すぎる数字だと思います。
出入国管理も行われていない時代に、
世界各地に売られていった女性達の数を数えることはできないと思います。
少年遣欧使節らが見た女性らの数の多さを表す気持ちとして、
50万人と述べたのだと思います

秀吉がキリスト教の布教を許可→禁止した大きな原因の一つとして、
キリスト教が入ってきた途端に奴隷貿易が始まったことがありますね。
農村の貧困層から売られた若い男女が奴隷としてヨーロッパに多数売られていったことが、
教科書には一行も書いてありません。自分も恥かしながら最近になって知りました。
日本人のキリスト教徒が初めてヨーロッパに渡った天正遣欧使節団は、
現地で悲惨な境遇に置かれていある日本人奴隷に関する記録を残しているし、
秀吉自身がポルトガル人のガスパール・コエリョに日本人奴隷の輸出を糾弾してます。
つぎへつづく

13ローマ・カトリック教会による奴隷貿易の日本人奴隷:2007/02/01(木) 10:52:31 ID:lRpwgqoI
>>12よりつづく
天正15年(1587年)6月19日、豊臣秀吉はバテレン追放令を発布。
十条で日本人奴隷の売買が禁止される。これが大きかったのでしょうね。 
家康はそれら一連の出来事をよぉく知っていた。
それ故キリスト教禁止政策が継がれたのは、日本にとって幸いしました。

「ウィリアム・アダムスとカトリック教会の対立」その他を参照する。

秀吉亡き後、キリシタンとの戦いは、徳川家康に引き継がれていくことになる。
1600(慶長5)年、豊臣政権の五大老を努めていた家康は、
豊後に漂着したオランダ船リーフデ号の航海長で、
イギリス人のウィリアム・アダムス(三浦按針)を家臣として召し抱えた。
しかし、これは相当な厄介を招いた。
即ち、当時のオランダ、イギリスはプロテスタントの国で、スペインなどカトリック国と敵対していた。
家康に召抱えられたアダムスらは、家康に西欧の宗教事情を吹き込み、
カトリック系の世界植民地化構想を暴露する惧れがあった。
そういう予見から、在日カトリック系宣教師達は、プロテスタント教徒であった、
アダムス以下 リーフデ号の乗組員を処刑するように家康に申し出たり、
一人の神父を派遣して彼に日本を去るように説得したりした。
さらに最終手段として、プロテスタントからカトリックへと改宗するように迫っている。
ヨーロッパの宗教対立がそのまま極東の島国に持ち込まれた図式であった。
しかし、家康から見れば、ポルトガル、スペイン以外の貿易相手が出現したことになる。
それを良しとした家康の決断により、在日カトリック系宣教師達の試みはいずれも失敗に終わった。
つぎへつづく

14ローマ・カトリック教会による奴隷貿易の日本人奴隷:2007/02/01(木) 10:53:43 ID:lRpwgqoI
>>13よりつづく
政権を握った徳川家康は、初期の頃、宣教師の布教活動を許可・黙認した。
それは、ポルトガルやスペインとの貿易の利点の方が優った為であった。
以前から活動していたイエズス会をはじめ、フランシスコ会、ドミニコ会、
アウグスティノ会の宣教師が来日するようになった。

1609(慶長13)年、長崎で「マードレ・デ・デウス号事件」が勃発した。
これは、前年にキリシタン大名として知られる有馬晴信の朱印船が、マカオに寄港した際、
晴信の家臣である朱印船乗務員とポルトガル人が争い、
60余名の日本人が殺害される事件に端を発している。
翌年、この事件に関与したアンドレ・ペッソアが、通称マードレ・デ・デウス号に乗って長崎に来航し、
家康に釈明した。朱印船の生き残った乗組員から事件の顛末を聞いた長崎奉行・長谷川左兵衛は、
家康の前で彼らの弁護者となった。家康は、有馬晴信に命じてペッソアを召喚させようとしたが、
ペッソアはこれに応ぜずデウス号に乗り込み出帆しようとした。
これに対し、有馬晴信は、長谷川左兵衛らとデウス号を包囲攻撃し、4日目にデウス号は沈没した。
これを「マードレ・デ・デウス号事件」と云う。

この事件をきっかけに、家康はキリシタン弾圧へと傾斜していく。
キリシタンの春は終わりを告げ、一足飛びに厳しい冬を迎えていくことになった。
つぎへつづく

15ローマ・カトリック教会による奴隷貿易の日本人奴隷:2007/02/01(木) 10:55:04 ID:lRpwgqoI
>>14よりつづく
1611(慶長11)年、に来日したスペイン使節が、諸港を測量した。
その目的を家康から訪ねられたアダムスは、「エスパーニャ(スペイン)は、
まずカトリック托鉢修道士たちを派遣し、彼らの後で兵士たちを送り込みます。
このようなやり方で外国を支配下に入れていきます。
そのために各港にどの船が入港できるか知るためです」と述べ、
すべてのカトリック宣教師を国外に追放すべきであると進言した。
 
家康が、プロテスタント教徒アダムスを重用し、
スペイン、ポルトガルとの通商、国交を閉ざす意志を明確にするや、
カトリック側は、ついに、日本全国を、親カトリック陣営と、
反カトリック=親プロテスタント陣営と、真二つに分裂させ、
反カトリックの徳川幕府政権を武力で転覆する大作戦構想を立てた。
親プロテスタントの徳川幕府政権はプロテスタント国家オランダ・英国を味方につけた。

カトリック信者に信仰を捨てるよう に命じ、従わない者は死刑にした。
家康が何よりも恐れていたのは、秀吉の遺児秀頼が大のキリシタンびいきで、
大阪城にこもって、スペインの支援を受けて徳川と戦うという事態であった。
当時の大阪城内には、宣教師までいた。
つぎへつづく

16ローマ・カトリック教会による奴隷貿易の日本人奴隷:2007/02/01(木) 10:57:05 ID:lRpwgqoI
>>15よりつづく
1624年、江戸幕府はスペイン人の渡航を禁じた。
1633〜34年、徳川幕府は日本鎖国令を発し、スペインとの外交を閉ざした。
全国に寺請け檀家制度を設け、全国民を仏教寺所属の信徒として登録させた。
これによりキリシタンを取り締まった。
更に、5人組制度による相互扶助及び監視密告体制を作り上げた。
イエスや聖母マリアの聖像を踏ませる「踏み絵」による摘発が続いた。
これによって信仰の有無を判断するというのは日本独特の遣り方であった。

家光は、「キリシタンを密告した者に賞金を出すなどして、キリシタンを完全になくさせようとした」。
1637〜38年、キリシタン勢力による島原・天草の乱が起り、
約4万人の農民が一 揆を起こして、「全滅」した。
原城で信徒2万7千余人が殉教した。これをようやく平定した翌39年に、ポルトガル人の渡航を禁じた。
これは鎖国と言うより、 朝鮮やプロテスタント国家オランダとの通商はその後も続けられたので、
正確には カトリック・キリシタン勢力との絶縁と言うべきである。

17ローマ・カトリック教会による奴隷貿易の日本人奴隷:2007/02/01(木) 10:58:47 ID:lRpwgqoI
>>16よりつづく 【豊臣秀吉の危惧】
カトリック・イエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは日本に3年近く滞在した後、
1582.12.14日付けでマカ オからフィリッピン総督フランシスコ・デ・サンデに、
次のような手紙を出している。
これによれば、スペイン国王によるシナの植民地化が狙われており、
カトリック・イエズス会東インド巡察師がその手引きをしていることが判明する。
但し、日本は様々な事由で征服の対象としては不向きであるとも述べている。
但し、その武力はシナ征服に使えるから、キリスト教の日本布教を重視する必要がある、と述べている。

1584年、宣教師スパ ル・コエリョやルイス・フロイスら30余名の一行が、
落成したばかりの大阪城に出向いている。この時のことかどうは分からないが、
秀吉は南蛮服を着たり、牛肉に舌鼓したと伝えられている。

キリシタン宣教師の中で、カトリック・イエズス会日本準管区長ガスパ ル・コエリョが最も行動的であった。
当時の日本は準管区であったので、コエリョは、イエズス会の日本での活動の最高責任者であった。

1585(天正13)年、コエリョは当時キリシタンに好意的であった豊臣秀吉に会い、九州平定を勧めた。
その際に、大友宗麟、 有馬晴信などのキリシタン大名を全員結束させて、秀吉に味方させようと約束した。
さらに秀吉が「日本を平定した後は、シナに渡るつもりだ」と述べると、
その時には2艘の船を提供しよう、と申し出ている。
当時、日本には外航用の大艦を作る技術はなかったので、
それは有り難い申し出であった。秀吉は、コエリョの申し出に満足したが逆に、
カトリック・イエズス会がメキシコやフィリピンを征服したように、
我が国を侵略する野望を持っているのではないかと疑い始めた。

これによれば、当時、カトリック宣教師は軍事コンサルタントも兼ねていた様子が判明する。
シナ攻略にカトリック宣教師が一枚噛んでいたことも判明する。
秀吉が九州平定のために博多に下ると、カトリック宣教師コエリョは自ら作らせた、
平底の日本にはまったくない軍艦に乗って、大提督のような格好をして出迎えた。
秀吉の軍をおおいに驚かせた。

18ローマ・カトリック教会による奴隷貿易の日本人奴隷:2007/02/01(木) 11:01:07 ID:lRpwgqoI
>>17よりつづく
1587.7.24日(天正15.6.19日)、豊臣秀吉が、島津を破り、
右近の役割が終わったのを見計らったように箱崎の陣にあった秀吉は突然宣教師達を呼びつけ、
「バテレン(伴天連)追放令」を出し、右近に棄教を迫った。

軍事力を誇示するカトリック宣教師を国外退去に命ずることを伝えた。
これが「天正(てんしょう)の禁令」として知られる第1回のキリシタン禁止令であった。
以後徳川時代にかけて、次々に発せられていくことになる。
続く措置として秀吉は、長崎の公館、教会堂を接収した。

近年解読されたイエズス会文書館所蔵の資料から、
日本で布教を続ける宣教師達が本国と連絡を取り合いながら、
キリシタン大名を競合して「日本占領計画」を持っていたことが判明した。
ヨーロッパ最強と謳われたスペインの海軍力がその背景だった。

【「伴天連(ばてれん)追放令」の根拠考】
「伴天連(ばてれん)追放令」を野蛮な宗教弾圧と思うべきだろうか。
通俗的歴史書は、キリスト教弾圧を単なる異教徒排斥としか教えていないが、
そういう観点は早急に見直されるべきではなかろうか。
そもそも、信長にしても秀吉にしてもキリシタンに対して当初は好意的であった。
しかし、信長の時代はともかく秀吉の頃になるとカトリック宣教師たちの植民地化活動が目に余り始めた。
秀吉は、宣教師たちの間に日本占領計画が存在することを見抜いて危険視するようになった。
その具体的措置として「伴天連(ばてれん)追放令」を発したことになる。

その1、「植民地政策の尖兵として宣教師の布教が為されている」
という観点からのキリシタン禁止令であった。
カトリック宣教は、世界史を紐解けば、西欧列強諸国の植民地政策と結びついていた。
彼らカトリック宣教師が敵情視察の尖兵として送り込まれ、信者と情報を集めた後に軍隊を送って征服し、
遂には植民地化するという政策が常套化していた。
秀吉は早くもそのことに気づいて主君信長に注意をうながしていた、と云う。

19ローマ・カトリック教会による奴隷貿易の日本人奴隷:2007/02/01(木) 11:02:18 ID:lRpwgqoI
>>18よりつづく
その2、「植民地政策と重複しているが、カトリック布教は建前で、実は略奪ビジネスである」
という観点からのキリシタン禁止令であった。
この頃、西欧列強諸国の一獲千金ドリーマーが、世界各地へ飛び出し、植民地ビジネスを手掛け始めていた。
カトリック宣教師たちはその布教のみならず植民地ビジネスを手引きする尖兵でもあった。

その3、「カトリック宣教師達は、戦国大名を懐柔し、奴隷売買 で荒稼ぎしている」
という観点からのキリシタン禁止令であった。
ルイス・デ・アルメイダは、カトリック・イエズス会の神父として来日したが、
カトリック宣教師たちの生活を支えたり、育児院を建てたり、キリシタン大名の大友宗瞬に医薬品を与え、
大分に病院を建てたりする他方で、奴隷売買を仲介した。
秀吉は、カトリック準管区長コエリヨに対して、次のように命じている。
「ポルトガル人が多数の日本人を奴隷として購入し、
 彼らの国に連行しているが、これは許しがたい行為である。
 従って伴天遠はインドその他の遠隔地に売られて行ったすぺての日本人を日本に連れ戻せ」。

20ローマ・カトリック教会による奴隷貿易の日本人奴隷:2007/02/01(木) 11:07:35 ID:lRpwgqoI
>>19よりつづく
日本の娘などがキリシタンによって奴隷として売りさばかれた史実は、
さまざまな文献資料によっても証明されている。
日本の歴史教科書では、秀吉のキリシタン弾圧は教えても、
日本女性が奴隷としてキリシタンたちが海外売りさばいた事は教えていない。
高山右近などのキリシタン大名が出てくるだろうが、
娘たちを火薬一樽で娘50人を売った事などはドラマには出てこない。
それでは、秀吉がなぜキリシタン弾圧に乗り出したかが分からない。

【「宣教師の反撃」】
秀吉は、カトリック準管区長コエリヨに対し、凡そ以上の視点からの詰問をした。
しかし、カトリック準管区長コエリヨの反応は極めて傲慢で、狡猪な、高をくくった返答であった。
高山右近を初め多くのキリシタン大名たちはカトリック準管区長コエリヨに進言したが、
彼は彼らの制止を聞き入れなかったばかりか、
ただちに有馬晴信のもとに走り、キリシタン大名達を結集して秀吉に敵対するよう働きかけた。
そして自分は 金と武器弾薬を提供すると約束し、長崎と茂木の要塞を強化し、武器・弾薬を増強し、
フイリピンのスペイン総督に援軍を要請した。2、3百人のスペイン兵の派兵が あれば、要塞を築いて、
秀吉の武力から教界を守れるとフィリピンに要請した。
これは先にカトリック巡察使ヴァリニヤーノがカトリック準管区長コエリヨに命じておいたことであった。

しかし、頼みとする高山右近が失脚し、長崎が秀吉に接収されるという情勢の変化を見て、
カトリック巡察使ヴァリニヤーノはその能力がないと判断し戦闘準備を急遽解除した。
この企ては有馬晴信が応じずに実現されなかった。
カトリック準管区長コエリョの集めた武器弾薬は秘密裏に売却され、
これらの企ては秀吉に知られずに済んだ。

21ローマ・カトリック教会による奴隷貿易の日本人奴隷:2007/02/01(木) 11:09:09 ID:lRpwgqoI
>>20よりつづく
これらの経過を見れば、ポルトガル、スペイン両国の侵略政策の尖兵として、
カトリック宣教師が送られて来たという事実を認めるほかない。

キリシタン勢力が武力をもって、アジアの港を手に入れ、
そこを拠点にして、通商と布教、そしてさらなる征服を進める、
というのは、すでにポルトガルがゴア、マラッカ、マカオで進めてきた常套手段であった。
また大村純忠は軍資金調達のために、長崎の領地をカトリック・イエズス会に寄進しており、
ここにスペインの艦隊が入るだけでクルスの計画は実現する。
しかし、この計画は未遂に終わった。

【「秀吉の朝鮮出兵の動機」考】
秀吉は急遽朝鮮出兵を打ち出す。肥前の名護屋に本陣を構え、
1592年ー96年、文禄の役、1597ー98年、慶長の役に出兵する。
文禄の役では、第一軍を小西行長、第二軍を加藤清正を大将とする15万8700名が派兵された。
慶長の役は全軍14万余の兵力が投入された。
二度の戦争で日本軍は完敗し、結局のところ朝鮮出兵が豊臣政権の命取りになった

秀吉の朝鮮出兵の動機については諸説あり、
通説は「朝鮮、明の入貢と貿易復活を求めたところ拒絶された故の外征であった」としている。
が、スペインやポルトガルのカトリック宣教師の入れ智恵であったという説もある。
カトリック準管区長コエリョは、スペインに船を出させ、共同で明を征服しよう、と考えた。
しかし、カトリック準管区長コエリョが秀吉を恫喝するような態度に出たので、
独力での大陸征服に乗り出したという説がある。その際、シナ海を一気に渡る大船がないので、
朝鮮半島経由で行かざるをえなかったということになる。

1593年(文禄3)年、朝鮮出兵中の秀吉は、マニラ総督府あてに 手紙を送り、
日本軍が「シナに至ればルソンはすぐ近く予の指下にある」と脅している。
いずれにせよ、秀吉の朝鮮出兵政策の陰にカトリック宣教師達の巧言があったことが推定でき、
秀吉は甘言もしくは挑発にまんまと乗せられたことになる。

22ローマ・カトリック教会による奴隷貿易の日本人奴隷:2007/02/01(木) 11:18:13 ID:lRpwgqoI
>>21よりつづく
1596.10月、台風のため土佐の浦戸湾に漂着した
スペイン船の積み荷没収と乗組員拘留が行われた際、
スペイン国王によるカトリック宣教師派遣には、
領土征服の意図が含まれているという趣旨の水先案内人の発言が為された。
これを「サンフェリペ号事件」と云う。12月、秀吉は再び禁教令を発し、
京都に住むフランシスコ会員とカトリック教徒全員の捕縛(ほばく)を石田三成に命じた。

慶長元年(一五九六年)五月、土佐の浦戸付近に、スペインの商船、サン・フィリップ号が座礁した。
豊臣秀吉は、すでにその九年前(天正十五年)、九州を平定すると共に、
キリシタンを禁止、スペインとの通商を断っている。
それ故、この難破船の貨物は没収された。
その時、この船の船長デ・ランダは、秀吉が派遣した増田長盛の前に世界地図を広げ、
「わが国王の領土は、世界にわたってかくの如く広大である。この大国の国民を虐待せば、
 容易ならぬ禍を招きしが承知のうえか」、と威嚇した、と云われている。
長盛が、「いかにしてこのように広大な領土をあわせ得たのか?」とたずねたところ、
ランダ船長は、
「その手段はまず、カトリック宣教師を入りこませ、
 キリスト教をひろめて土人を手なずけ、しかるのちに軍隊を送り、
 信徒と相呼応してその国を征服するのだ」と、広言した(本音を言ってしまった)、という。
この事件は、秀吉の死の直前のことだ。

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            >>1-9 >>11-22

23ローマ・カトリック教会による奴隷貿易の日本人奴隷:2007/02/01(木) 12:02:48 ID:lRpwgqoI
>>22よりつづく
■キリシタン大名・有馬晴信■
もそも島原の地の旧主・有馬晴信がキリシタンに改宗したのは、現実的な理由であった。
近隣を支配する強大な龍造寺隆信に対抗するために、キリシタン大名の大友純忠と同盟する事
を決意し、そのために改宗を願い出た、とルイス・フロイスは『日本史』に記している。

洗礼の意思はイエズス会から派遣されていた巡察使ヴァリニャーノに伝えられ、
晴信は領内の寺社を破壊し、領民を改宗させるという約束の上で、洗礼を受けた。
ヴァリニャーノは晴信に兵糧と鉛、硝石などの軍事物資を提供して、支援を行った。

晴信は約束通り、領民たちに宣教師の説教を聞くことを要求し、
どうしてもデウスの教えを理解しようとしない者は領国から出て行くように命じた。
晴信の庇護のもとで、宣教師たちは日本の寺院の仏像を破壊し、仏教徒の目の前で放火したりした。
またキリシタンと僧侶の間に争いが起きると、晴信は僧侶を処刑すると脅し、
財産を没収した。領民はこれを聞いて震え上がり、たちまち千人を超える人々が改宗したという。

晴信は宣教師の求めに応じて、領民から少年少女を取り上げ、
インド副王に奴隷として送る、ということまでしている。

■戦って死ぬことで天国へ行ける■
天草四郎率いる一揆勢は島原に引き揚げ、
12月1日に南有馬地区にある廃城・原城(はらのしろ)に籠城した。
その人数は一説に、3万7千人と言われている。ここから翌年2月28日の落城まで、
4ヶ月に渡る幕府軍との攻防が繰り広げられる。

四郎は「それぞれの持ち場をぬかりなく持ち固めよ。そうすれば天国へいけるであろう、
しかしそれを怠れば地獄へ堕ちるであろう」と籠城の一揆勢に督戦した。
戦って死ぬことで天国へ行ける、という教えである。

24ローマ・カトリック教会による奴隷貿易の日本人奴隷:2007/02/01(木) 12:05:58 ID:lRpwgqoI
>>23よりつづく
幕府軍は当初、強引な攻撃をしかけて、総大将・板倉重昌が戦死するという大きな被害を受けると、
その後は城を包囲して、兵糧攻めにする作戦に出た。
上述の矢文のやりとりも、この時に行って懐柔に出ている。
この間に、一揆勢からは約1万人ほどが、水汲みなどで城を出た際に、幕府軍に投降している。

また平戸にいたオランダ船にも、原城を砲撃させた。この作戦については幕府内からも
「外国船を動員するのは、日本の恥」という批判が出たが、
作戦を立てた幕府上使・松平信綱は次のように答えている。

>拙者が異国船を呼び寄せたのは、一揆の指導者たちが、
>我々は「南蛮国」と通じているのでやがて「南蛮国」から
>援軍がやってくる、などといって百姓を騙しているから、
>その「異国人」(つまりオランダ)に砲撃させれば、「南
>蛮国」さえあの通りではないかと百姓も合点が行き、宗旨
>の嘘に気がつくのではないか、と思ったからであり、日本
>の恥になるとは思いもよらなかった。

カトリック国ポルトガルからの援軍を頼むキリシタンたちを、
プロテスタント国のオランダ船が攻撃するというのは、
まさに欧州における両宗派の代理戦争という趣である。

25ローマ・カトリック教会による奴隷貿易の日本人奴隷:2007/02/01(木) 12:21:43 ID:lRpwgqoI
>>24よりつづく
■■■奴隷日本人秘話■■■
日本人が戦国時代に奴隷に売られて、男は印度から馬来半島方面のポルトガル領の植民地に、
容色のよい女は、魔女裁判によって多くの女性を焚殺したヨーロッパへ送られていたことは、
あまり知られていない。
しかし、「朕、国王は、この勅令をもって布告す」とし、「従前印度地方における奴隷日本人に関し、
朕の得たる報告において正当なる事由なし。よって今後は日本人を奴隷に捕らえたり購入したる者は、
その財産没収となしその一半を朕の国庫に納め、一半を告発する者に下付すべし、1571年3月12日」
というポルトガル国王ドン・セバスチャンの勅令も、現存している。
この年号は日本の元亀二年、織田信長が姉川合戦で勝った翌年で、延暦寺の焼討ちをして僧俗数千を殺し
た年にあたっている。さて従来の日本史は、
(ギネア海岸からのアフリカの黒人を、聖ドミニコ派の宣教師が、現在のリスボンを集散地として、
南米へ送りこんでいたが、天文十二年以降は、現在のマカオが、
ポルトガル人による日本人奴隷の一大集散地だった)といった事実を隠している。
だからして、織田信長が何千人も殺してしまったといった記載など、当時としては、
「奴隷に売れば儲かるものを、もったいない事をしたものだ」といった受取り方で記録されているのに、
今の歴史家はそれを知らず、「信長は残忍だった。
だから本能寺で殺されたのは因果応報である」などと説明する。
あまりに不勉強にすぎないのではなかろうか。
ただ歴史家とは認められていない人だが、徳富蘇峰の『近世日本国民史』に、
「後戸(五島)・平戸・長崎にて、日本人を男女を問わず数百人ずつ黒舟が買いとり、
手足に鉄の鎖をつけ舟底へ入れて運び去るは、地獄の責苦にもまさって、
むごい有様である」 といった実地にみた大村由己の、
『九州動座記』の奴隷売渡しの実況が挿入されているだけである。
由己は豊臣秀吉の祐筆頭で、これは当時の公文書である。
そして現在と違い、マカオ九州間の黒舟は百トン以下だった。
だからそれに、数百の日本人が奴隷として押しこまれ、ディーゼル・エンジンや蒸気機関のない昔、
季節風だけで動くマカオへの旅。そして、そこから印度への輸送は、
アフリカからの黒人奴隷が大西洋一つ渡るだけで済んだのに比べ、もっと悲惨だったろう。

26ローマ・カトリック教会による奴隷貿易の日本人奴隷:2007/02/01(木) 12:25:14 ID:lRpwgqoI
>>25よりつづく
そして、こういう秘められた歴史があるからこそ、世界中で一番、黒人びいきなのは、
日本人だというのもそのせいかもしれない。
さて天文十二年以降においても、古くは源平合戦の起因となる神戸福原からの原住民を、
奴隷輸出された事実や、室町時代においても、四国の三次氏や山口の大内氏は、
日本原住民を捕らえこれを明国や南蛮船に売っていた。
西暦1603年(慶長八年)には、
「ゴア(印度)人民のスペイン国王フェリッペ二世陛下の城砦を守っているのは、
白人の五、六倍もいる日本人奴隷で、好戦的な彼らは鉄砲をもち土民を撃退しています」とある。
インドやマカオでは、奴隷の日本人が、「軍人」として使役されていたのである。
さて、これがスペイン国王の名宛なのは、ポルトガル国王セバスチャンがモロッコで行方不明となり、
その妻が代り、のちエンリケ親王が国政をみたが急死していた。
この当時はスペイン王がポルトガル王を兼ねていたからである。
さて、現在のマライ半島は最近まで英領だが、その前はオランダに奪われるまではポルトガル領だった。
ということは、マライの軍人も奴隷日本人だった事になる。
そして地図で一目瞭然だが、マライは南支那海にある。
「和寇とよばれる日本人が南支那海沿岸を侵した。足利政権は明国に取締まり方を申込まれ、
犯人の首を切って明国へ塩漬で送っていた」
「八幡船とよばれる彼らは、遠く海南島まで百余にわたって襲っていた」と、
「八幡大菩薩」の旗をたてた五、六人のりの小舟にのったフンドシ一つの男の絵がある。
それより何故日本人が、こんなに奴隷に売られたのか?
これまでの日本史では極秘である。
というのは今日の日本史は明治帝国主義の所産だから、これは明治軍部のせいだろう。
真相は天文十二年に銃器が種ガ島へ渡来。
器用な日本人は直ちにそれをまねて精巧な銃も作った。
しかし、硝煙とよばれた硝石は、現在でもそうだが日本では一片も産出しない。
みな輸入に依存するしかなかった。鉄砲があっても火薬がなくては戦争できぬ立場にあった。
よって、しめしめとばかり黒人の奴隷売買で味をしめたカトリック・ドミニコ派の宣教師が、
マカオよりの火薬と交換に、日本人を牛馬のごとく買ってゆき奴隷転売にしたのである。
戦国時代に切支丹大名が多かったのも、信仰の為ではなく火薬入手の手段だった。

27ローマ・カトリック教会による奴隷貿易の日本人奴隷:2007/02/01(木) 12:26:17 ID:lRpwgqoI

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            >>1-9 >>11-27

28名無しのひつじさん:2007/02/01(木) 13:18:22 ID:p.U7FbDU
ミスターヒストリー?

29名無しのひつじさん:2007/02/07(水) 18:44:58 ID:/GTeHdBk
■1.日本布教は最も重要な事業のひとつ■

 イエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
は日本に3年近く滞在した後、1582年12月14日付けでマカ
オからフィリッピン総督フランシスコ・デ・サンデに次のよう
な手紙を出した。

 私は閣下に対し、霊魂の改宗に関しては、日本布教は、
神の教会の中で最も重要な事業のひとつである旨、断言す
ることができる。何故なら、国民は非常に高貴且つ有能に
して、理性によく従うからである。

 尤も、日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不
向きである。何故なら、日本は、私がこれまで見てきた中
で、最も国土が不毛且つ貧しい故に、求めるべきものは何
もなく、また国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練
を積んでいるので、征服が可能な国土ではないからである。

 しかしながら、シナにおいて陛下が行いたいと思ってい
ることのために、日本は時とともに、非常に益することに
なるだろう。それ故日本の地を極めて重視する必要がある。
[1,p83]

 「シナにおいて陛下が行いたいと思っていること」とは、ス
ペイン国王によるシナの植民地化である。日本は豊かでなく、
強すぎるので征服の対象としては不向きだが、その武力はシナ
征服に使えるから、キリスト教の日本布教を重視する必要があ
る、というのである。

30名無しのひつじさん:2007/02/11(日) 01:10:36 ID:???
sage

31名無しのひつじさん:2007/02/13(火) 12:39:09 ID:U8S.oRY2
■日本もメキシコ、フィリピンと同じ運命をたどる危機があった■

 実はこれは日本人にとっても他人事ではない。戦国時代にスペイ
ンやポルトガルからカトリック教の宣教師がやってきたときに、日本
が信長や秀吉のようなすぐれた人物に恵まれず、また民族的なエネ
ルギーも不足してゐたら、メキシコ人と同じ運命をたどった可能性
があった。現実にアジアでもフィリピンがそうなっている。

 イエズス会の宣教師たちは、日本を占領するつもりで来たのだが、
その少し前に伝わった鉄砲が日本全土で10万丁も普及しているの
に驚き、本国に「日本占領をあきらめるべし」という手紙を書いた。
そのかわりに狙ったのが、西国の大名を改宗させ、それを手下に使
って、九州の神社仏閣を破壊し、さらに明の侵略に使おうとしての
である。

 秀吉は、明がスペイン人に征服されては、元寇と同じ事が起こる
と考え、外国人バテレン追放令を出し、さらに先手をとろうと明征
伐に向かったのである。(歴史の教科書では、こうしたスペイン人
の侵略を伏せているので、キリシタン弾圧も、明征伐も、秀吉の狂
気の沙汰としか描けない)

32名無しのひつじさん:2007/02/15(木) 17:26:32 ID:/GTeHdBk
>徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。
徳富蘇峰がこれを書いたのは大正時代
日露戦争で勝った後で比較的暮らしは自由
大衆文化が過激になりつつあった時代
清での利権をめぐって欧米日露の列強が暗躍する時代であり
文学芸術も過激になり
このような表現がうけたらしい

レスありがとうございます。
すると徳富氏が史実を誇張して書いていたということですね。

この逸話が流れたのはおそらく関ヶ原直後

信長の時代、
九州諸国がカトリック教ザビエルら宣教師の工作で
ポルトガル領になりかけたことがあったため
徳川家康が鎖国を決意し
ポルトガル・スペインといった列強侵略から
日本と民を守るため
ウソかも知れないが
このような風説を流した可能性はある。

徳富蘇峰は同志社時代新島襄から受洗したプロテスタントでもあった。

33名無しのひつじさん:2007/02/19(月) 04:09:05 ID:GSpdp3As
またスゴいスレが立ったもんだ(~o~)
”目からウロコ”の連続!!!
”大航海時代”にスペインやポルトガルが中南米をほとんど
占領しちゃってるもんね。先住民族は”奴隷化”されて。

やはり日本の某省庁は”歴史音痴”ゆえに”宗教音痴”で
ロクな教育をしていない・・・という小生のカンは当たっていた。

ところで、これだけの論述ができる人は、Mr.ヒストリー
じゃないですか?

34名無しのひつじさん:2007/03/02(金) 01:52:49 ID:???
age

35名無しのひつじさん:2007/03/13(火) 01:17:23 ID:???
age

36名無しのひつじさん:2007/03/22(木) 14:02:23 ID:lRpwgqoI
★天皇陛下の叔父にあたる方が、正統なキリスト教信仰を継承する、
 プロテスタント福音主義−「福音派」教団の牧師先生をされています。
★その天皇陛下の叔父にあたる牧師先生のお話の一部抜粋
               ↓ 
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/729/1173947639/7-10

★ラビ・アビハイル著作『イスラエルの失われた、また離散した部族たち』より
                 ↓
「日本人が失われたイスラエル10支族と関係があるかもしれないと、
ユダヤ人に思わせる理由のひとつは、日本神道の神社と、そこでの儀式である。
神道は日本全国に広がっている宗教で、興味深い独特の特徴がある。
その特徴は、ほかのどの民族にも見られないもので、ただユダヤの古代神殿にのみ見られたものである。」

★国際科学振興財団TRACE研究プロジェクト幹事・今井弥生氏は、ルベン・アルカレイ編
『ヘブル・英語大辞典』(Reuben Alcalay“The Complete Hebrew-English Dictionary")で、
学んだことをもとに、ヘブル語と日本語の類似性に関する膨大なリストを公表している。
そして、その中でこう述べている。
             ↓
「日本語の中心にあるヤマト言葉は主として、ヘブライ語の単語により、
ウラル・アルタイ系(古代朝鮮語やツングース系)の語順に当てはめて形成されている。」
(『日本語の起源に関する調査研究報告書』国際科学振興財団内、日本語の起源研究会発行)

★「彼らは異教徒の群れから離れ、人類がいまだかって住んだことのない土地へ行き、
自国では守ることの出来なかった規則をせめて守るようにとの計画を、
お互いに持ち合って、さらに遠い国へ進んだ。。。。」『エズラ第四書』第13章から

★「やがて終末の日には、神のうわさを聞いたこともなく、その栄光を見たこともない遠くの「島々」の国が、
神の栄光を諸国の民に語り告げるようになる」『イザヤ書』第66章19節
★「あなたの家とあなたの王国とは、私の前にとこしえまでも続き、
あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」『サムエル記Ⅱ』第7章16節

37名無しのひつじさん:2007/03/26(月) 12:21:02 ID:SqTZSP6I
〜〜奴隷売買そのものが消されている〜〜

中世カトリック大名による奴隷売買50万人という数字は初耳です。
しかし無視されているのは、このような奴隷売買だけではなく、
戦国の世の合戦は敵地の村や町を襲って放火・掠奪を行うのが常態で、
とくに人々を捕らえて奴隷として売るのが常であったということ。
この奴隷として売られた人々は国内だけではなく、東南アジアや遠くヨーロッパにも及んでいた
(倭寇、日本人主体の初期倭寇も中国人主体の後期倭寇も、朝鮮や中国を襲って人々を拉致し、
日本・東南アジアに奴隷として売り飛ばしていた)。
戦国における奴隷狩りについては藤木久志著「雑兵たちの戦場」(朝日新聞社刊)に詳しい。
15・16世紀の国際貿易の主な商品は奴隷であり、奴隷狩りは全世界的に行われていた。
日本の戦国時代の奴隷狩りもキリシタンによる奴隷売買も、すべてその一環と考えられます。
これらすべての奴隷売買が教科書からは消されている。
(ポルトガルによるアフリカでの奴隷狩り奴隷売買は掲載されていたが)
その流れに属するのでは。

38名無しのひつじさん:2007/04/02(月) 10:11:03 ID:sYito2/w
話がいきなり近世に飛んで恐縮であるが、戦国時代以降の日本の歴史を考えてみたい。
古代や中世についても語りたいことは多々あるが、本論から外れるので別の機会に譲る。
戦国時代の画期を示すものとして、1543年の種子島へのポルトガル商人漂着による鉄砲伝来、
1600年に豊後に漂着したオランダ商船リーフデ号(西暦1600年4月19日、
佐志生の入江に今にも壊れそうな、とてつもなく大きな帆船が漂着した。
遠いオランダの地から、東洋の国ジパング(日本)へ向けて旅立った、
5隻の船団(ホープ号500トン乗員130人、リーフデ号300トン110人、ヘローラ号300トン109人、
トラウ号220トン86人、スハッブ号150トン56人)の中でただ1隻だけ、
1年10ヶ月におよぶ苦難の航海の末日本に到着した船、それがオランダからの初めての船、
リーフデ号であった。この船には、江戸時代、日本とイギリス、オランダ両国の友好を、
とりもつことになったウイリアム・アダムスとヤン・ヨーステンが乗っていた。

1600年という年は、関ヶ原の戦いで徳川時代を決定した年である。

オランダという国が正式に公認されたのは1648年だったので、リーフデ号がオランダを出発した
1598年という年は、オランダがスペインから独立を宣言した1581年からわずか17年しか経っておらず、
まだ独立戦争の最中のことであった。)が上げられる。
日本には1543年に欧州勢力としてポルトガル商人が種子島に漂着して火縄銃を伝達しているから
カソリック国とは面識があったわけであるが、
オランダ船により、プロテスタント国との接点ができたわけである。
時の権力者、豊臣政権の大老筆頭徳川家康は、漂着したオランダ船に多大な興味を示した。
船に載まれていた武器が、一番の目当てだった。リーフデ号が運んできた武器は全て没収され、
ヤン・ヨーステンとウイリアム・アダムスは大坂、次いで江戸に上るよう命じられた。
そこで2人は、ポルトガル語の通訳を介して取り調べを受けることになる。
運良く彼らの返答は家康の気を良くし、臼杵で被った損害も補償された。
日本に残った乗組員のほとんどは、その後貿易に携わったり、日本人女性と結婚している。
この漂着者たちは、地図や航海術、造船術の知識、さらには西洋諸国の戦況に関する情報など、
非常に役立つものを握っていた。

39名無しのひつじさん:2007/04/02(月) 10:17:04 ID:sYito2/w
(リーフデ号の乗組員のあるものは家康の上杉景勝討伐に砲手として参加したと伝えられている。)
中でもウィリアム アダムスは三浦按針の日本名を与えられ、
また江戸橋に邸宅、相模国三浦郡逸見村に220石あるいは250石の領地を与えられ、
家康の外交顧問として活躍した。彼の業績としては、
日蘭貿易のための画策及びイギリス東インド会社へ日英貿易の利を説き、
平戸のイギリス商館開設の窓口となったことや航海士としての技術を生かした、
洋式帆船建造などがあげられる。
ヤン・ヨーステンは家康に仕え外交の諮問に応じる立場として活躍、
オランダの日本貿易独占に尽力。東京中央区「八重洲」の地名は、
「ヤン・ヨーステン」が転訛したもの。

この中で私が注目するのはオランダ商船からもたらされた武器、長射程艦載砲である。
当時の日本にはなかったであろう、この武器が、家康に天下取りの意欲をいだかせ、
関が原合戦へと繋がったとは言えないだろうか。わずか、関が原の半年前のことである。
この因果関係を証明する術はない。しかし、状況証拠を考えると、
この時期のオランダとの接触が家康に天下を取らせ、
褒美がポルトガル、スペインを排除してオランダへの独占的交易権の付与であったのではないか。
証明はできないが、辻褄はあっていると考えるがいかがであろうか。
もしこのことが証明されたらどうなるか。日本史は、このとき以降独立した歴史ではなく、
欧州勢力によって支配者が決められるということである。
間接的な意味での植民地である。
鎖国(この用語も適切ではない。選択的開国というのが正しい)の真の意味とは、
オランダと徳川家で談合して徳川家による日本支配とオランダの交易を相互承認し、
他の勢力(伊達、島津、毛利、前田等の外様大名)がカソリックのスペイン、ポルトガルと、
結びつかないようにするための規制、枠組みであったのではないか。
島原の乱(1637年のキリシタン一揆。天草四郎時貞(当時16才)を総大将にし、
原城(南有馬町)に総勢3万7千人で90日間たてこもった。

40名無しのひつじさん:2007/04/02(月) 10:18:33 ID:sYito2/w
1637年12月 総大将天草(益田)四郎時貞の下、
キリシタン信仰を団結のよりどころに島原天草の農民三万七千人の一揆軍が原城にたてこもり、
幕府軍十二万五千人と戦いを繰り広げた。
翌年の二月二十八日、一揆軍は総攻撃を受け、老若男女問わず皆殺しとなった。
日本史上もっとも悲惨な事件とされる。)で、
幕府がカソリックに恐怖をいだいたことが、最大の契機となった。

このように考えると、カソリック勢力と接触し、
支倉常長(慶長18年9月15日(1613年10月28日)仙台藩主,伊達政宗
の命を受け,メキシコ,スペイン,イタリア,そしてバチカンと旅した)を派遣した、
伊達正宗は徳川+オランダ連合にカソリックと組むことにより対抗しようとしたのではないか。

41名無しのひつじさん:2007/04/04(水) 14:52:17 ID:sYito2/w
『天正遣欧使節記』(デ・サンデ著/雄松堂書店)の中の、
 対話部分のテキストで、「日本人の奴隷(奴隷貿易)」について言及しているものをアップしておきます。p232-235

レオ  ちょうどよい機会だからお尋ねするが、捕虜または降参者はどういう目に遭わされるのだろう。
    わが日本で通例やるように死刑か、それとも長の苦役か。

ミゲル キリスト教徒間の戦争で捕虜となったり、やむをえず降伏する者は、そういう羽目のいずれにも陥ることはない。
    つまりすべてこれらの者は先方にも捕虜があればそれと交換されるとか、また釈放されるとか、
    あるいはなにがしの金額を支払っておのが身を受け戻すのだ。
    というのも、ヨーロッパ人の間では、古い慣習が法律的効力を有するように決められ、
    それによってキリスト教徒は戦争中に捕われの身となっても、
    賤役を強いられない規定になっているからだ。だがマホメット教徒、
    すなわちサラセン人に属する者に対しては、別の処置が取られる。
    これらの者は野蛮人でキリストの御名の敵だから、交戦後も捕えられたまま、いつまでも賤役に従うのである。

レオ  そうすると、キリスト教徒なら、その教徒間では戦争中に捕虜となっても、
    賤役に従えという法律に拘束される者は一人もないわけだな。

ミゲル そうしたことで市民権を失った者はただの一人もない。
    それはまた今もいったように、古来の確定した習慣で固く守られている。
    それどころか、日本人には慾心と金銭の執着がはなはだしく、そのためたがいに身を売るようなことをして、
    日本の名にきわめて醜い汚れをかぶせているのを、ポルトガル人やヨーロッパ人はみな、不思議に思っているのである。
    そのうえ、われわれとしてもこのたびの旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、
    道義をいっさい忘れて、血と言語を同じうする同国人をさながら家畜か駄獣かのように、
    こんな安い値で手放すわが民族への激しい怒りに燃え立たざるを得なかった。

マンショ ミゲルよ、わが民族についてその慨きをなさるのはしごく当然だ。
     かの人たちはほかのことでは文明と人道とをなかなか重んずるのだが、どうもこのことにかけては人道なり、
     高尚な教養なりを一向に顧みないようだ。
     そしてほとんど世界中におのれの慾心の深さを宣伝しているようなものだ。

42ローマ・カトリック教会による日本人奴隷売買:2007/04/04(水) 14:55:37 ID:sYito2/w
>>41よりつづく
マルチノ まったくだ。実際わが民族中のあれほど多数の男女やら、童男・童女が、世界中の、
     あれほどさまざまな地域へあんな安い値で攫って行かれて売り捌かれ、
     みじめな賤役に身を屈しているのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか。
     単にポルトガル人へ売られるだけではない。それだけならまだしも我慢ができる。
     というのはポルトガルの国民は奴隷に対して慈悲深くもあり親切でもあって、
     彼らにキリスト教の教条を教え込んでもくれるからだ。
     しかし日本人が贋の宗教を奉じる劣等な諸民族がいる諸方の国に散らばって行って、
     そこで野蛮な、色の黒い人間の間で悲惨な奴隷の境涯を忍ぶのはもとより、
     虚偽の迷妄をも吹き込まれるのを誰が平気で忍び得ようか。

レオ   いかにも仰せのとおりだ。実際、日本では日本人を売るというような習慣を、
     われわれは常に背徳的な行為として非難していたのだが、
     しかし人によってはこの罪の責任を全部、ポルトガル人や会のパドレ方へ負わせ、
     これらの人々のうち、ポルトガル人は日本人を慾張って買うのだし、
     他方、パドレたちはこうした質入れを自己の権威でやめさせようともしないのだといっている。

ミゲル  いや、この点でポルトガル人にはいささかの罪もない。
     何といっても商人のことだから、たとえ利益を見込んで日本人を買い取り、
     その後、インドやその他の土地で彼らを売って金儲けをするからとて、彼らを責めるのは当らない。
     とすれば、罪はすべて日本人にあるわけで、当り前なら大切にしていつくしんでやらなければならない実の子を、
     わずかばかりの代価と引き換えに、母の懐から引き離されて行くのを、あれほどこともなげに見ていられる人が悪い。
     また会のパドレ方についてだが、あの方々がこういう売買に対して、
     本心からどれほど反対していられるかをあなた方にも知っていただくためには、
     この方々が百方苦心して、ポルトガル追うから勅状をいただかれる運びになったが、
     それによれば日本に渡来する商人が日本人を奴隷として買うことを厳罰をもって禁じてあることを知ってもらいたい。
     しかしこのお布令ばかり厳重だからとて何になろう。

43ローマ・カトリック教会による日本人奴隷売買:2007/04/04(水) 14:56:44 ID:sYito2/w
>>41-42よりつづく
     日本人はいたって強慾であって兄弟、縁者、朋友、
     あるいはまたその他の者たちをも暴力や詭計を用いてかどわかし、
     こっそりと人目を忍んでポルトガル人の船へ連れ込み、
     ポルトガル人を哀願なり、値段の安いことで奴隷の買入れに誘うのだ。
     ポルトガル人はこれをもっけの幸いな口実として、法律を破る罪を知りながら、
     自分たちには一種の暴力が日本人の執拗な嘆願によって加えられたのだと主張して、
     自分の犯した罪を隠すのである。だがポルトガル人は日本人を悪くは扱っていない。
     というのは、これらの売られた者たちはキリスト教の教義を教えられるばかりか、
     ポルトガルではさながら自由人のような待遇を受けてねんごろしごくに扱われ、
     そして数年もすれば自由の身となって解放されるからである。
     さればといって、日本人がこういう賤役に陥るきっかけを、
     みずからつくることによって蒙る汚点は、拭われるものではない。
     したがってこの罪の犯人は誰かれの容赦なく、日本において厳重に罰せられてよいわけだ。

レオ 全日本の覇者なる関白殿Quambacudonoが裁可された法律がほかにもいろいろある中に、
   日本人を売ることを禁じる法律は決してつまらぬものではない。

ミゲル そうだ。その法律はもしその遵守に当る下役人がその励行に眼を閉じたり、
    売手を無刑のまま放免したりしなかったら、しごく結構なものだが。
    だから必要なことは、一方では役人自身が法律を峻厳に励行するように心掛け、他方では権家なり、
    また船が入って来る港々の長なりがそれを監視し、きわめて厳重な刑を課して違反者を取り締ることだ。

レオ それが日本にとって特に有益で必要なこととして、あなた方から権家や領主方にお勧めになるとよい。

ミゲル われわれとしては勧めもし諭しもすることに心掛けねばなるまい。
    しかし私は心配するのだが、わが国では公益を重んずることよりも、
    私利を望む心の方が強いのではなかろうか。実際ヨーロッパ人には常にこの殊勝な心掛けがあるものだから、
    こうした悪習が自国内に入ることを断じて許さない。
    それはそうと、このあたりで以前の話に戻ることにしてはどうだろう。

44善良なヨハネ・パウロ一世は殺される:2007/04/12(木) 17:57:39 ID:lRpwgqoI
このネタを本格的に検証する場合、最終的にはこの時代に手広く植民地貿易をしていた各国、
スペインやポルトガル、オランダ等に残る「人身売買」の証拠や、
状況認識となる記録など古文書等も当たらないといけなくなるでしょう。
そもそも「奴隷」の定義がアフリカ黒人奴隷のそれと女性達のそれとはまた性質も異りそうです。

戦国時代の宣教師の活動については、高瀬弘一郎著「キリシタン時代の研究」(岩波書店)がよいかと思います。
高瀬先生は元慶応義塾大学教授で、日本の歴史学界におけるキリシタン研究の権威。
イエズス会の古文書を渉猟し、スペイン・ポルトガルの植民地政策と宣教師の関係を論じています。
手軽に入手できる通史としては藤木久志「天下統一と朝鮮侵略」(講談社学術文庫)でしょうか。

戦国時代の奴隷売買については、上述の藤木久志氏の『雑兵たちの戦場』(朝日選書)という本があります。
古文書を駆使し、慢性的飢餓にあった中世農村の「出稼ぎ」として戦争のディテールを論じたこの本では、
戦国時代の戦争は半分かた大規模な人狩りビジネスであったとされています。

藤木氏が引用している古文書は国内での売買例なのですが、相当数の奴隷が国外に売られたことは確かにしても、
それを上回る国内市場があったと思われます。
(日本国内で奴隷と言うとピンとこないかもしれませんが、
 下人と呼ばれ売買される非自由身分が古文書には多々登場しており、
 私の先祖に売買された下人がいても不思議はないぐらいです)。

45名無しのひつじさん:2007/04/24(火) 16:42:03 ID:lRpwgqoI
【新版】 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り (単行本) 藤木 久志 (著)
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価格: ¥ 1,365 (税込)

内容(「BOOK」データベースより)
飢餓と戦争があいついだ日本の戦国時代、英雄たちの戦場は、人と物の掠奪で満ちていた。
戦場に繰り広げられる、雑兵たちの奴隷狩り―。まともに耕しても食えない人々にとって、
戦場は数すくない稼ぎ場だった。口減らしの戦争、掠奪に立ち向かう戦場の村の必死の営み。
やがて、天下統一によって戦場が閉ざされると、人々はアジアの戦場へ、城郭都市の普請場へ、
ゴールド・ラッシュの現場へ殺到した。「雑兵たちの戦場」に立つと、意外な戦国社会像が見えてくる。

村に対する人や物の略奪(乱妨)が日常化していた戦国時代の戦場。
そして略奪こそを目当てに戦いに加わった下級兵士たち。
現在では既に通説化しているかもしれない戦国時代の現実であるが、門外漢の目には非常に新鮮であった。
時代劇で描かれる華やかな武将たちと同時に存在した、戦争の現実がここにある。
更に驚かされたのが、東南アジアに売買された日本人奴隷(戦争での略奪被害者)と、
同じく東南アジアで繰り広げられた西欧諸国の植民地戦争に投入されたという日本人傭兵の存在。
きちんとした研究があるからこそ明らかになるこうした現実に、歴史の幅広さと奥深さを痛感させられる。
新版ということで、旧版の訂正や新たなエピソード挿入等があるそう。
価格も手ごろなので戦国史の好きな方には是非薦めたい。

46天草四郎が得た奴隷売買による豊富な資金:2007/04/24(火) 16:47:07 ID:lRpwgqoI
■戦国時代は悲惨な時代・・・
戦国合戦の話を読んでいると、軍勢が何千何万とか書かれていますが、
その数字のすべてが武士というのではなく、武士10〜20%、農民80〜90%の割合だそうです。
村の大きさによって、徴発される人数(1人〜8人くらい)が割り当てられました。
そのような強制的動員の他に、自主的に参加する者が多くいたそうです。
合戦に出れば兵糧が支給され、戦地での掠奪など、彼らにとって戦場は稼ぎ場でもあったのです。
合戦の背景には、掠奪暴行、乱取り(人や物を奪うこと)があって、
その掠奪や人狩りが目的で参加し、合戦後には人身売買の市が立てられることもあったようです。
戦国大名たちもそのような濫妨狼藉を黙認したり、敵城を攻め落とした後の褒美として、
兵たちに自由に乱取りをさせました。
そして、そのような狼藉は常識であり、決して悪事とは見なされていなかったといわれます。

戦国時代の約100年間は、各地あるいは全国規模で凶作、
水害、干魃、疫病、飢饉が毎年のように多発した時代だったそうです。
戦乱の世が長期にわたって続いた原因として、家臣団に与える領地を獲得するためとか、
下克上の目を他国侵略へそらすため、といわれますが、
その他に大きな目的として食糧を奪い取るための戦争も多かったと思われます。
戦場付近の村を襲って農作物を根こそぎ奪い、女・子供をさらって来て売り払ったり奴隷にしたり。
現実の戦国時代は飢餓から生き残るために、人々が必死になった悲惨で厳しい時代だったのですね。

豊臣秀吉は準管区長コエリヨに対して次のように命じています。
『ポルトガル人が多数の日本人を奴隷として購入し、彼らの国に連行しているが、これは許しがたい行為である。
従って伴天遠はインドその他の遠隔地に売られて行ったすぺての日本人を日本に連れ戻せ。』

2002.7.9日付北國新聞の「バテレン追放令」も当時の「宣教師達による日本人女性人身売買」について触れています。
豊臣秀吉のバテレン追放令第10条の「日本人を南蛮に売り渡す(奴隷売買)ことを禁止」を紹介し、次のように述べています。
『バテレン船で現実に九州地方の人々が外国に奴隷として売られていること―などが分かる。
秀吉の追放令は、ある意味で筋の通った要求だった。』

47天草四郎が得た奴隷売買による豊富な資金:2007/04/24(火) 16:52:13 ID:lRpwgqoI
豊臣秀吉は、この奴隷狩りを止めさせるために、イエズス会の司祭、コエリュに詰問しています。
「九州に来る西洋の商人たちが日本人を多く購入し連行していることをよく知っている。
いままで誘拐して売り飛ばした日本人を返せ。それが無理なら、
ポルトガル船に買われて、日本にいる監禁されている日本人だけでも開放しろ。
そんなに金が欲しいなら、代金はあとで渡す。」

これにコエリュが答えて
「日本人売買の禁止はかねてからのイエズス会の方針である。問題なのは、
外国船を迎える港の領主(キリシタン大名や天草四郎)であり、
厳しく日本人の売買を禁止しない日本側に責任がある。」
このやり取りで、秀吉は激怒し、奴隷売買禁止令を発します。

天草四郎があれだけ最新鋭の鉄砲で武装できたのも、奴隷狩りの豊富な資金があったからです。
彼らは現在の絵や小説やドラマに描かれているようなムシロ旗に竹槍の武装などしてないんですね。
鎧を着て、銃で武装した組織的武士団です。
戦前までは、この事実はよく知られていたそうです。
そのため、古い物語などに出てくる天草四郎は、
魔回転生に出てくるような化け物として描かれています。
しかし戦後はあべこべに日本人がキリスト教徒を迫害したのだと教科書で教育しています。

■濫妨狼藉の世界
 戦国時代の戦いの目的は何だったのだろうか。そんな当然のことを今更問う意味があるのか、
 領土争いに決まっているではないか、との反論がありそうだが、それは「英雄的視点」からの戦争論である。
 確かに、例えば豊臣秀吉が、国郡境目の争いを止めよ・九州の国分け紛争は自分が裁く、などと言っていたように、
 戦国時代の戦いが領土紛争であったことは間違いがない。
 だが、雑兵たちの視点に立つと、別の重要な側面が存在した。
 つまり、「食う(生きる)ための戦争」・「略奪目当ての戦争」ということである。
 ルイス=フロイスの『日本史』には、われらにおいては、土地や都市や村落、およびその富を奪うために、
 戦いがおこなわれる。日本での戦さは、ほとんどいつも、小麦や米や大麦を奪うためのものである、との記述がある。

48名無しのひつじさん:2007/04/24(火) 16:59:16 ID:lRpwgqoI
フロイスはポルトガル出身の宣教師だけに、日本に対する誤解や偏見があったことは否めない。
だが、フロイス『日本史』も含めて宣教師の書き残した各種史料は、
信仰の問題を除けば、概ね冷静公平な記述である、
との評価も研究者の間にはある。では、フロイスのこの記述を裏付けるような史料は存在するのだろうか。
先ず最初に実例として挙げられているのは九州南部の戦国大名島津氏である。島津方の日記・覚書・軍紀には、
戦闘に伴う人の生捕りや牛馬の略奪や田畠の作荒しといった行為が多数記載されている。中には、
「人を取ること四百人余り」というものもあり、これなどは単なる戦争捕虜ではなさそうである。
島津氏と隣接した肥後南部の大名である相良氏の年代記には、「いけ取り惣じて二千人に及ぶ」とあり、
島津氏の事例は決して特殊なものではなく、誇張もあるだろうとはいえ、各地の史料からは、
戦国時代における大量の人取りが決して珍しくはなく、また容認されていたことが分かる。

今回は、戦国時代、戦国大名たちによって人の略奪と売り買いがごく自然に行われていた事実を、
藤木久志氏の著書『戦国の村を行く』から紹介することにします。
この著書は、これまでのように支配者側からみた華々しい戦国時代の側面ではなく、
村人など、支配されていた側の視点から戦国時代を見つめなおしたもので、
生々しい戦国時代の歴史が浮かび上がってきます。

戦国時代、封建領主とその地域に住んでいる人々とは、
年貢負担、戦役負担などを媒介にして持ちつ持たれつの関係にあります。

ですから、領主が敵方の手に落ちれば、そこにいる領民も敵方の手に落ちたということを意味します。
落ちた領民や領民の財産は、敵の兵士たちの略奪の対象になります。
しかしここまでは、戦場という非日常的世界のことだからということで、
しかも一般兵卒の話とすれば、納得しがたいこともないわけです。
しかし話が武田信玄や上杉謙信という教養のある戦国大名となると、
多分ほとんどのひとが驚かれると思います。
藤木氏は、これについて武田信玄と上杉謙信の例をひいて紹介しています。
相模の国での戦で武田軍によって村人が生け捕りにされ、みな甲州へ連れていかれます。
そして親類のある者は、2〜10貫文ほどの身代金で買い戻されたと言います。

49天草四郎が得た奴隷売買による豊富な資金:2007/04/24(火) 17:04:39 ID:lRpwgqoI
また上杉謙信の例では、上杉謙信が小田城(つくば市)を攻め落とした時、
小田城下がたちまちにして奴隷市場に早変わりし、
上杉謙信自身から差配して人の売り買いを行ったというものです。
奴隷の値段はひとりあたり20〜30銭ほどということです。
この人身売買は、戦場に出入りしていた奴隷商人たちに売られていったことは明らかです。

【戦国時代】
九州南部の戦国大名島津氏の日記・覚書・軍紀には、
戦闘に伴う人の生捕りや牛馬の略奪や田畠の作荒しといった行為が多数記載されている。
中には、「人を取ること四百人余り」というものもある。
島津氏と隣接した肥後南部の大名である相良氏の年代記には、
「いけ取り惣じて二千人に及ぶ」とあり、島津氏の事例は決して特殊なものではなく、
戦国時代における大量の「人取り」が決して珍しいものではなかったことが分かる。
生捕りにされ連行された人々は、下人や奉公人として働かされた。
また、親族のいる者は身代金の支払いで在所に連れ戻されるということもあった。
戦場にはこうした生捕りの人々を目当てとした商人とも盗賊・海賊とも言えるような人々がいて、
仲介手数料を取ったり売買したりして利益を得ていた。
また、ポルトガルなど外国商人により、生捕られた人々が海外へと、
奴隷または傭兵として売られていくことも珍しくはなかった。
こうした「日本国内」の習俗は、朝鮮役の際には朝鮮にも持ち出され、
多数の朝鮮住民が生捕りとなり、日本のみならず東・東南アジア各地に売られていった。

50名無しのひつじさん:2007/04/26(木) 14:41:42 ID:taPIsFPg
北信濃に進出した武田軍は、信越国境の関山(新潟県妙高村)を越え、春日城(上越市)近くまで侵入し、
村々に火を放ち、どさくさに紛れて女性や児童を乱取りし、生け捕った越後の
人々を甲斐に連れ帰って、自分の召使(奴隷)にした。
「甲陽軍艦」に、この作戦で武田軍は越後を占領こそしなかったが、略奪に大成果をあげたのも、
みな信玄の威光のお陰だと力説している。戦国の戦争には、明らかに乱取り目当ての戦争もあり、
大名さえ強ければ、それは思いのままであった。

薩摩軍が豊後で捕虜にした人々は、肥後の国に連れていかれ売られたが、
その年、肥後の住民はひどい飢餓と労苦に悩まされ、
己が身を養うことすらおぼつかない状態にあったから、
彼らをまるで家畜のように高来(たかき、島原半島)に転売。
その高来から上海に人身輸出。時の上海には日本人奴隷の市がたっていた。

天正3年(1575)8月、織田信長が越前の一向一揆を制圧したとき、
追われた一揆方の男女が村を捨てて山々に逃げ込むと、
信長は徹底的に山狩りをして、男も女も切り捨てよと命じた。
やがて生け捕られて信長のもとに送られ殺された数は1万2250人余り。
「その外、国々へ奪い取り来る男女、その員(かず)を知らず」といわれ、「生捕りと誅させられたる分、
合わせて3,4万に及ぶべく候か」といわれた。生捕っても信長に報告せず、
諸大名軍がひそかに国元に連れ去った男女2,3万人に上がった筈であるといわれる。

<無数の山田長政たち>
日本人傭兵たちのマニラでの評判はひどかった。有害なる国民にして、不真面目な罪を犯し、
多大なる害毒を流す。中国人よりもさらに不穏にして好戦的で、しばしば戦いをもってこの国を脅かし、
略奪のためにきた彼らの船で、この国と海岸を荒し廻った。そうした日本人の一人に、
シャム(タイ)で暴れまわった山田長政がいる。彼は「海外に雄飛する日本人」の代表格として、
いまも日本史の教科書に登場する。シャムの内乱に雇われ、日本人傭兵隊をひきいて活躍し、
ついに毒殺された彼は、日本では徳川方の小大名大久保忠佐に仕えた六尺、
つまり主人のカゴをかつぐ下僕であったという。日本人の源流がしのばれる。

51名無しのひつじさん:2007/04/26(木) 14:42:46 ID:taPIsFPg
1608年(慶長12)8月、マニラで日本人1500人もの大暴動が必至、という形勢になったとき、
総督は日本人すべての退去を命じて幕府に「当所に数年逗留のいたずらものども」によって
「所々騒ぎにまかり成る」と強く抗議した。しかし日本側(家康・秀忠)は外国の介入を慎重に避けて、
「近年、その国に到る日本人の悪逆をなす輩は、
呂宋(ルソン)法度の如く、成敗いたさるべし」とつっぱねている。
暴逆の日本人は現地ルソンの法で処罰していい、煮て焼いて食おうと口出ししないというのである。
あわれ1500人の在留日本人はいっきに棄民に。

私の考えでは、この政府事業を行うのに、最初は7千乃至8千、
多くても1万人の軍勢と適当な規模の艦隊で十分であろう。
・・・日本に駐在しているイエズス会のパードレ(神父)達が容易に、
2〜3千人の日本人キリスト教徒を送ることができるだろう。
彼等は打ち続く戦争に従軍しているので、陸、海の戦闘に大変勇敢な兵隊であり、
月に1エスクード半または2エスクードの給料で、翺翺としてこの征服事業に馳せ参じ、
陛下にご奉公するであろう。[1,p95]

日本に10年以上も滞在したイエズス会日本布教長は、日本人を傭兵の如くに見ていたのである。

■8.天草をスペイン艦隊の基地に■
全国統一をほぼ完成した秀吉との対立が決定的になると、キリシタン勢力の中では、
布教を成功させるためには軍事力に頼るべきだという意見が強く訴えられるようになった。
1590年から1605年頃まで、15年間も日本にいたペドロ・デ・ラ・クルスは、
1599年2月25日付けで次のような手紙を、イエズス会総会長に出している。
要点のみを記すと、日本人は海軍力が弱く、兵器が不足している。
そこでもしも国王陛下が決意されるなら、わが軍は大挙してこの国を襲うことが出来よう。
この地は島国なので、主としてその内の一島、即ち下(JOG注:九州のこと)
又は四国を包囲することは容易であろう。
そして敵対する者に対して海上を制して行動の自由を奪い、
さらに塩田その他日本人の生存を不可能にするようなものを奪うことも出来るであろう。・・・

52名無しのひつじさん:2007/04/26(木) 14:44:02 ID:l6VTH9BU
このような軍隊を送る以前に、誰かキリスト教の領主と協定を結び、
その領海内の港を艦隊の基地に使用出来るようにする。
このためには、天草島、即ち志岐が非常に適している。
なぜならその島は小さく、軽快な船でそこを取り囲んで守るのが容易であり、
また艦隊の航海にとって格好な位置にある。・・・

キリシタン勢力が武力をもって、アジアの港を手に入れ、そこを拠点にして、
通商と布教、そしてさらなる征服を進める、というのは、カトリックが、
すでにポルトガルがゴア、マラッカ、マカオで進めてきた常套手段であった。

53名無しのひつじさん:2007/05/15(火) 14:12:23 ID:/GTeHdBk
宗教というのは組織が大きくなればなるほど宗教原理が曲がっていく。
中世において、ローマ帝国の文化をもっとも多く保持していたのはカトリック教会であった。
教会は学校や病院などによってますますおおくの土地を手に入れ、
王国の土地の3分の1がカトリック領主に占められていることさえ珍しくない事態を招き、
ついに王権に脅威を与えるまでになった。
教会は10分の1の税によって富を増やした。
すべての人の所得の10分の1を教会に納めるという税である。
これはどのような税より苛酷な税であった。
1515年ヴァチカンのサンピエトロス大聖堂の建築資金不足を補うために、
ローマ法王庁は売官のためのシステムを開発した。
ローマ法王は免罪符をドイツ国内で売り出させたのだ。
これは賽銭箱の中にお金を入れると、
チャリンという音がするたびに人間の魂は天国に近づくなどと巧言し、金を集めたのである。

法王庁は免罪符を発行しただけでなく、重要な聖職までも売り出した。
金を出す者を僧職に命したのである。
この売官は近代に至るまでヨーロッパでは広く行われていたが、
法王庁は贅沢が原因となり財政が乱れ、金を得るためには手段を選んでいる余裕がなくなっていた。
フィレンツェでは、金融業者と結託して金を儲けたり、
カトリック教会ではもともと利子を取って金を貸すことを禁止している。
それをみても目を見張るような堕落である。

この時代になると聖職者に課した独身の戒律にもかかわらず、
法王が子供をつくることなど珍しくも何ともなくなっていた。
例えば、マキヤベリ(イタリアの政治思想家1469〜1527)が「君主論」のモデルとして、
天才的政治家チェーザレ・ボルジャ(1475〜1507)と彼の妹であり美人として、
いまに名を残すウレチヤ・ボルジャ(1480〜1519)とは、
法王アレクサンデル6世(1431〜1503)の私生児であった。

54名無しのひつじさん:2007/05/16(水) 15:23:26 ID:/GTeHdBk
そもそも聖職者の独身制は、カトリック教会自身が制定した制度である、
12世紀にはすでにカトリック教会は堕落していて、
しばしば皇帝から改革を迫られていた。身内の修道院からも改革の要求が出るありさまであり、
このままだと、僧職の任命権利は、皇帝に取り上げられかねない事態となった。
法王グレゴリウス7世(1620〜85)は強く任命件を主張し、
教会が自律的な任命権を確保する代償として、
教会には厳しい自己規律を持つことになった。それが聖職者の独身制である。
勿論、僧職を売ることなども厳しく禁止したのである。
このような経過を経て1122年には、皇帝と教会の間にウォルムス協会が結ばれ、
僧職の叙任権を教会は手中に収めたのである。

このことによってカトリック教会は皇帝の支配を脱し、
法王の権力は、飛び抜けて大きくなったのである。
叙任権を得た法王はどのような人物であれ聖職者に任命でき、
任命された者は、人が生まれて死ぬまでの節目節目を司る、秘蹟という宗教儀式を行う権利を持つのだ。
これは大きな権力となったのだ。
ここで注意すべきことは聖職者の独身制は、カトリック教会が、
皇帝との対抗上、戦術的に必要であるとして、自主的に制定した制度である。
何かに差し障りがあれば、カトリックが自主的に発止したからとて、
キリスト教の教義上、全く差し障りはない。
キリスト教はもともと修行を必要としていないから修行を専門とする僧侶は必要とはしないはずだ。

55雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り:2008/07/17(木) 11:38:58 ID:p7mjrdgY
☆★☆【新版】 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り (朝日選書(777)) (単行本)
藤木 久志 (著) 価格: ¥ 1,365 (税込)

●出版社 / 著者からの内容紹介
飢餓と戦争があいついだ日本の戦国時代、英雄たちの戦場は、人と物の略奪に満ちていた。
戦場に繰り広げられる、雑兵たちの奴隷狩り。
耕してもまともに食えない人々にとって、戦場は数少ない稼ぎ場だった。
口減らしの戦争、略奪に立ち向かう戦場の村の必死の営み。
やがて、天下統一によりやがて戦場は閉ざされていく…。1995年間の好評『雑兵たちの戦場』待望の選書化。

●内容(「BOOK」データベースより)
飢餓と戦争があいついだ日本の戦国時代、英雄たちの戦場は、人と物の掠奪で満ちていた。
戦場に繰り広げられる、雑兵たちの奴隷狩り―。
まともに耕しても食えない人々にとって、戦場は数すくない稼ぎ場だった。
口減らしの戦争、掠奪に立ち向かう戦場の村の必死の営み。
やがて、天下統一によって戦場が閉ざされると、人々はアジアの戦場へ、城郭都市の普請場へ、
ゴールド・ラッシュの現場へ殺到した。
「雑兵たちの戦場」に立つと、意外な戦国社会像が見えてくる。

単行本: 296ページ
出版社: 朝日新聞社; 新版版 (2005/6/10)
ISBN-10: 4022598778 /ISBN-13: 978-4022598776
発売日: 2005/6/10

56名無しのひつじさん:2008/07/17(木) 13:12:50 ID:eUYeEKH6
カトリックの奴隷売買、十字軍、免罪符、歴史操作で作られた嘘。

57名無しのひつじさん:2008/07/17(木) 13:13:33 ID:eUYeEKH6
カトリックこそ絶対!

58飢餓と戦争の戦国を行く 藤木久志:2008/07/28(月) 10:12:50 ID:p7mjrdgY
☆★☆飢餓と戦争の戦国を行く (朝日選書) (単行本)
藤木 久志 (著) 価格: ¥ 1,365 (税込)

●内容(「BOOK」データベースより)
「七度の餓死にあうとも、一度の戦いにあうな」―「飢餓も恐ろしいが、戦いの方がもっと悲惨だ」。
私たちの意表をつくこの格言の真実を、ことに飢餓と戦いの続いた日本の中世史のなかにさぐる。

●内容(「MARC」データベースより)
日本の戦国時代は飢餓の時でもあった。餓死するよりは奴隷になった方がまし、
いや他人を奴隷に売り飛ばした方がさらにまし。戦国の世の実相を面白く分かりやすく説く。

単行本: 244ページ
出版社: 朝日新聞社 (2001/11)
ISBN-10: 4022597879/ISBN-13: 978-4022597878
発売日: 2001/11

59名無しのひつじさん:2008/08/06(水) 13:11:16 ID:taPIsFPg
「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」
 これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。
(新約聖書へブル人への手紙10章17,18節)

と書いてあります。

しかし、カトリック信者はこの御言葉を信じず、いまだに罪を犯しては赦してくださいと懺悔しているのです。
彼らはまだ旧約の時代を生きているのです。(というよりも、罪を犯そうが犯すまいが罪人であることにかわりない)

主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。
(新約聖書ローマ人への手紙4章25節)

彼らは、主の復活は信じると言うが、自分が義と認められて義人となったことは信じていないのです。
イエス・キリストを信じない世の人も罪人、イエス・キリストを信じた者も罪人なら何が違うのでしょう。

まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、
恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。
(新約聖書へブル人への手紙10章29節)

カトリック信者は口ではイエス・キリストを信じると言いますが、心では信じていないので、
カトリック教はキリスト教ではなく、(むしろ)ユダヤ教です。

(イエス・キリストからいただく救いを信じて受けれる者は「聖化」され、
 やがて主が再臨されるときには「栄化」されます。)

60名無しのひつじさん:2008/08/09(土) 09:58:00 ID:eUYeEKH6
カトリックでは、懺悔を「許しの秘蹟」といいます。イエスがマタイ10章一節であらゆる病気や患いを癒すために12人の弟子達に権能をお授けになりました。当時病気や患いは自分達の罪からくるものと考えられてました(てか昔はそうだった)。その罪が許されることにより病気も治ると考えられていました(てか昔はそうだった)。そしてカトリックや東方の教会(シリア正教会等を含む)の司祭は12使徒から代々その権能を受け継いだと考えています。罪の為に捧げものは無用です。しかし、これは決して神への捧げものではなく、神(イエス)が12使徒にお授けになった権能を受け継いだ司祭達が神の代弁者として罪を許すのです。神は心から罪を悔い改めればどんな罪でもお許しになります。しかし、司祭は人の心を読み取る権能は授かってません。懺悔することにより本当に許されるには、信者自身が心から悔い改める必要があります。その見極めができるのは神のみです。司祭は懺悔をしたということを伝える人でしかありません。しかし、この懺悔を受けなければ天国に行けないわけではありません。天国に行くには主イエスを受け入れることが必要です。懺悔はその場で告白した罪が許されるだけです。それなら必要ないと思われるかたもいると思いますが、罪を犯すと人はそれを一生背負って生きていかなければなりません。しかし許されることにより精神的負担が軽減されます。そんなの必要ないというひとには必要ないでしょう。実際私もカトリックに行っていたころでもこの懺悔をしてませんでした。カトリックはイエスを義人と認められて義人となったことを信じています。もし、カトリックがイエスを信じるといいながら心では信じていないと言うなら、それは完全なる偏見です。あなたの言った通り口先だけの人もいます。しかし、中には心からイエスを愛しておられる方もいます。それは、プロテスタント信者も同じだと思います。

61名無しのひつじさん:2008/08/17(日) 00:47:14 ID:eUYeEKH6
NO56、57で書き込んだことは冗談です。変なんこと書き込んですみませんでした。

62名無しのひつじさん:2008/08/18(月) 10:00:09 ID:52Z4W3Nc
キリスト教は、人が救える宗教への、新たな宗教改革が必要です。

63石垣眞人:2008/09/08(月) 14:48:31 ID:R3gOjHSw
「平成の黙示録」という表題の私説を公開しています。
http://makoto-ishigaki.spaces.live.com にアクセスしてください。


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