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ローマ・カトリック教会による日本人奴隷売買・貿易
21
:
ローマ・カトリック教会による奴隷貿易の日本人奴隷
:2007/02/01(木) 11:09:09 ID:lRpwgqoI
>>20
よりつづく
これらの経過を見れば、ポルトガル、スペイン両国の侵略政策の尖兵として、
カトリック宣教師が送られて来たという事実を認めるほかない。
キリシタン勢力が武力をもって、アジアの港を手に入れ、
そこを拠点にして、通商と布教、そしてさらなる征服を進める、
というのは、すでにポルトガルがゴア、マラッカ、マカオで進めてきた常套手段であった。
また大村純忠は軍資金調達のために、長崎の領地をカトリック・イエズス会に寄進しており、
ここにスペインの艦隊が入るだけでクルスの計画は実現する。
しかし、この計画は未遂に終わった。
【「秀吉の朝鮮出兵の動機」考】
秀吉は急遽朝鮮出兵を打ち出す。肥前の名護屋に本陣を構え、
1592年ー96年、文禄の役、1597ー98年、慶長の役に出兵する。
文禄の役では、第一軍を小西行長、第二軍を加藤清正を大将とする15万8700名が派兵された。
慶長の役は全軍14万余の兵力が投入された。
二度の戦争で日本軍は完敗し、結局のところ朝鮮出兵が豊臣政権の命取りになった
秀吉の朝鮮出兵の動機については諸説あり、
通説は「朝鮮、明の入貢と貿易復活を求めたところ拒絶された故の外征であった」としている。
が、スペインやポルトガルのカトリック宣教師の入れ智恵であったという説もある。
カトリック準管区長コエリョは、スペインに船を出させ、共同で明を征服しよう、と考えた。
しかし、カトリック準管区長コエリョが秀吉を恫喝するような態度に出たので、
独力での大陸征服に乗り出したという説がある。その際、シナ海を一気に渡る大船がないので、
朝鮮半島経由で行かざるをえなかったということになる。
1593年(文禄3)年、朝鮮出兵中の秀吉は、マニラ総督府あてに 手紙を送り、
日本軍が「シナに至ればルソンはすぐ近く予の指下にある」と脅している。
いずれにせよ、秀吉の朝鮮出兵政策の陰にカトリック宣教師達の巧言があったことが推定でき、
秀吉は甘言もしくは挑発にまんまと乗せられたことになる。
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