したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

ローマ・カトリック教会による日本人奴隷売買・貿易

1名無しのひつじさん:2007/02/01(木) 10:35:51 ID:lRpwgqoI
☆★☆★学校・教会は日本人に 教えるべき☆★☆★
       ここ→ >>1-22 

鬼塚英昭氏の著「天皇のロザリオ」(P249〜257)は、次のように述べている。
「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。
『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、
獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』。
ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、
ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、
交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。

『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。
肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、
奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、
同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、
何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、
インドやアフリカまで売っている』と。

11ローマ・カトリック教会による奴隷貿易の日本人奴隷:2007/02/01(木) 10:48:42 ID:lRpwgqoI
>>10よりつづく
戦国末期の日本はなかなか変な状況の国でして
法的に奴隷という身分は存在しませんが頻繁に人身売買が行われ、
犯罪同然で売買して商人も存在しているのす。
外見からみれば「普通の奴隷貿易」でいいんじゃないかと、
ポルトガル側は分析するんですが、決着はしてないようです。
ポルトガル側の証言でこんなことを言ってます。
日本人は奴隷たちをかわいがっている。
養子にしたり、娘を嫁に送ったり、
ましてや奴隷という身分から解放してやる例はよくある話。
反面。
我々が奴隷を買い取らねば「奴隷を殺す」という人買い商人がいた、
非合法な手段で手に入れてきたのは明らかだ。こんなケースは希だけども。
そんな外交問題があったため、秀吉は人身売買を禁止しました。
農民を土地に縛り付ける目的もあります。
1598年に秀吉は病死してしまい、
この人身売買禁止法はまたまた空文化してしまいます。

12ローマ・カトリック教会による奴隷貿易の日本人奴隷:2007/02/01(木) 10:50:17 ID:lRpwgqoI
>>11よりつづく
☆ローマ・カトリック宣教師の野望
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog154.html

50万人は少し多すぎる数字だと思います。
出入国管理も行われていない時代に、
世界各地に売られていった女性達の数を数えることはできないと思います。
少年遣欧使節らが見た女性らの数の多さを表す気持ちとして、
50万人と述べたのだと思います

秀吉がキリスト教の布教を許可→禁止した大きな原因の一つとして、
キリスト教が入ってきた途端に奴隷貿易が始まったことがありますね。
農村の貧困層から売られた若い男女が奴隷としてヨーロッパに多数売られていったことが、
教科書には一行も書いてありません。自分も恥かしながら最近になって知りました。
日本人のキリスト教徒が初めてヨーロッパに渡った天正遣欧使節団は、
現地で悲惨な境遇に置かれていある日本人奴隷に関する記録を残しているし、
秀吉自身がポルトガル人のガスパール・コエリョに日本人奴隷の輸出を糾弾してます。
つぎへつづく

13ローマ・カトリック教会による奴隷貿易の日本人奴隷:2007/02/01(木) 10:52:31 ID:lRpwgqoI
>>12よりつづく
天正15年(1587年)6月19日、豊臣秀吉はバテレン追放令を発布。
十条で日本人奴隷の売買が禁止される。これが大きかったのでしょうね。 
家康はそれら一連の出来事をよぉく知っていた。
それ故キリスト教禁止政策が継がれたのは、日本にとって幸いしました。

「ウィリアム・アダムスとカトリック教会の対立」その他を参照する。

秀吉亡き後、キリシタンとの戦いは、徳川家康に引き継がれていくことになる。
1600(慶長5)年、豊臣政権の五大老を努めていた家康は、
豊後に漂着したオランダ船リーフデ号の航海長で、
イギリス人のウィリアム・アダムス(三浦按針)を家臣として召し抱えた。
しかし、これは相当な厄介を招いた。
即ち、当時のオランダ、イギリスはプロテスタントの国で、スペインなどカトリック国と敵対していた。
家康に召抱えられたアダムスらは、家康に西欧の宗教事情を吹き込み、
カトリック系の世界植民地化構想を暴露する惧れがあった。
そういう予見から、在日カトリック系宣教師達は、プロテスタント教徒であった、
アダムス以下 リーフデ号の乗組員を処刑するように家康に申し出たり、
一人の神父を派遣して彼に日本を去るように説得したりした。
さらに最終手段として、プロテスタントからカトリックへと改宗するように迫っている。
ヨーロッパの宗教対立がそのまま極東の島国に持ち込まれた図式であった。
しかし、家康から見れば、ポルトガル、スペイン以外の貿易相手が出現したことになる。
それを良しとした家康の決断により、在日カトリック系宣教師達の試みはいずれも失敗に終わった。
つぎへつづく

14ローマ・カトリック教会による奴隷貿易の日本人奴隷:2007/02/01(木) 10:53:43 ID:lRpwgqoI
>>13よりつづく
政権を握った徳川家康は、初期の頃、宣教師の布教活動を許可・黙認した。
それは、ポルトガルやスペインとの貿易の利点の方が優った為であった。
以前から活動していたイエズス会をはじめ、フランシスコ会、ドミニコ会、
アウグスティノ会の宣教師が来日するようになった。

1609(慶長13)年、長崎で「マードレ・デ・デウス号事件」が勃発した。
これは、前年にキリシタン大名として知られる有馬晴信の朱印船が、マカオに寄港した際、
晴信の家臣である朱印船乗務員とポルトガル人が争い、
60余名の日本人が殺害される事件に端を発している。
翌年、この事件に関与したアンドレ・ペッソアが、通称マードレ・デ・デウス号に乗って長崎に来航し、
家康に釈明した。朱印船の生き残った乗組員から事件の顛末を聞いた長崎奉行・長谷川左兵衛は、
家康の前で彼らの弁護者となった。家康は、有馬晴信に命じてペッソアを召喚させようとしたが、
ペッソアはこれに応ぜずデウス号に乗り込み出帆しようとした。
これに対し、有馬晴信は、長谷川左兵衛らとデウス号を包囲攻撃し、4日目にデウス号は沈没した。
これを「マードレ・デ・デウス号事件」と云う。

この事件をきっかけに、家康はキリシタン弾圧へと傾斜していく。
キリシタンの春は終わりを告げ、一足飛びに厳しい冬を迎えていくことになった。
つぎへつづく

15ローマ・カトリック教会による奴隷貿易の日本人奴隷:2007/02/01(木) 10:55:04 ID:lRpwgqoI
>>14よりつづく
1611(慶長11)年、に来日したスペイン使節が、諸港を測量した。
その目的を家康から訪ねられたアダムスは、「エスパーニャ(スペイン)は、
まずカトリック托鉢修道士たちを派遣し、彼らの後で兵士たちを送り込みます。
このようなやり方で外国を支配下に入れていきます。
そのために各港にどの船が入港できるか知るためです」と述べ、
すべてのカトリック宣教師を国外に追放すべきであると進言した。
 
家康が、プロテスタント教徒アダムスを重用し、
スペイン、ポルトガルとの通商、国交を閉ざす意志を明確にするや、
カトリック側は、ついに、日本全国を、親カトリック陣営と、
反カトリック=親プロテスタント陣営と、真二つに分裂させ、
反カトリックの徳川幕府政権を武力で転覆する大作戦構想を立てた。
親プロテスタントの徳川幕府政権はプロテスタント国家オランダ・英国を味方につけた。

カトリック信者に信仰を捨てるよう に命じ、従わない者は死刑にした。
家康が何よりも恐れていたのは、秀吉の遺児秀頼が大のキリシタンびいきで、
大阪城にこもって、スペインの支援を受けて徳川と戦うという事態であった。
当時の大阪城内には、宣教師までいた。
つぎへつづく

16ローマ・カトリック教会による奴隷貿易の日本人奴隷:2007/02/01(木) 10:57:05 ID:lRpwgqoI
>>15よりつづく
1624年、江戸幕府はスペイン人の渡航を禁じた。
1633〜34年、徳川幕府は日本鎖国令を発し、スペインとの外交を閉ざした。
全国に寺請け檀家制度を設け、全国民を仏教寺所属の信徒として登録させた。
これによりキリシタンを取り締まった。
更に、5人組制度による相互扶助及び監視密告体制を作り上げた。
イエスや聖母マリアの聖像を踏ませる「踏み絵」による摘発が続いた。
これによって信仰の有無を判断するというのは日本独特の遣り方であった。

家光は、「キリシタンを密告した者に賞金を出すなどして、キリシタンを完全になくさせようとした」。
1637〜38年、キリシタン勢力による島原・天草の乱が起り、
約4万人の農民が一 揆を起こして、「全滅」した。
原城で信徒2万7千余人が殉教した。これをようやく平定した翌39年に、ポルトガル人の渡航を禁じた。
これは鎖国と言うより、 朝鮮やプロテスタント国家オランダとの通商はその後も続けられたので、
正確には カトリック・キリシタン勢力との絶縁と言うべきである。

17ローマ・カトリック教会による奴隷貿易の日本人奴隷:2007/02/01(木) 10:58:47 ID:lRpwgqoI
>>16よりつづく 【豊臣秀吉の危惧】
カトリック・イエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは日本に3年近く滞在した後、
1582.12.14日付けでマカ オからフィリッピン総督フランシスコ・デ・サンデに、
次のような手紙を出している。
これによれば、スペイン国王によるシナの植民地化が狙われており、
カトリック・イエズス会東インド巡察師がその手引きをしていることが判明する。
但し、日本は様々な事由で征服の対象としては不向きであるとも述べている。
但し、その武力はシナ征服に使えるから、キリスト教の日本布教を重視する必要がある、と述べている。

1584年、宣教師スパ ル・コエリョやルイス・フロイスら30余名の一行が、
落成したばかりの大阪城に出向いている。この時のことかどうは分からないが、
秀吉は南蛮服を着たり、牛肉に舌鼓したと伝えられている。

キリシタン宣教師の中で、カトリック・イエズス会日本準管区長ガスパ ル・コエリョが最も行動的であった。
当時の日本は準管区であったので、コエリョは、イエズス会の日本での活動の最高責任者であった。

1585(天正13)年、コエリョは当時キリシタンに好意的であった豊臣秀吉に会い、九州平定を勧めた。
その際に、大友宗麟、 有馬晴信などのキリシタン大名を全員結束させて、秀吉に味方させようと約束した。
さらに秀吉が「日本を平定した後は、シナに渡るつもりだ」と述べると、
その時には2艘の船を提供しよう、と申し出ている。
当時、日本には外航用の大艦を作る技術はなかったので、
それは有り難い申し出であった。秀吉は、コエリョの申し出に満足したが逆に、
カトリック・イエズス会がメキシコやフィリピンを征服したように、
我が国を侵略する野望を持っているのではないかと疑い始めた。

これによれば、当時、カトリック宣教師は軍事コンサルタントも兼ねていた様子が判明する。
シナ攻略にカトリック宣教師が一枚噛んでいたことも判明する。
秀吉が九州平定のために博多に下ると、カトリック宣教師コエリョは自ら作らせた、
平底の日本にはまったくない軍艦に乗って、大提督のような格好をして出迎えた。
秀吉の軍をおおいに驚かせた。

18ローマ・カトリック教会による奴隷貿易の日本人奴隷:2007/02/01(木) 11:01:07 ID:lRpwgqoI
>>17よりつづく
1587.7.24日(天正15.6.19日)、豊臣秀吉が、島津を破り、
右近の役割が終わったのを見計らったように箱崎の陣にあった秀吉は突然宣教師達を呼びつけ、
「バテレン(伴天連)追放令」を出し、右近に棄教を迫った。

軍事力を誇示するカトリック宣教師を国外退去に命ずることを伝えた。
これが「天正(てんしょう)の禁令」として知られる第1回のキリシタン禁止令であった。
以後徳川時代にかけて、次々に発せられていくことになる。
続く措置として秀吉は、長崎の公館、教会堂を接収した。

近年解読されたイエズス会文書館所蔵の資料から、
日本で布教を続ける宣教師達が本国と連絡を取り合いながら、
キリシタン大名を競合して「日本占領計画」を持っていたことが判明した。
ヨーロッパ最強と謳われたスペインの海軍力がその背景だった。

【「伴天連(ばてれん)追放令」の根拠考】
「伴天連(ばてれん)追放令」を野蛮な宗教弾圧と思うべきだろうか。
通俗的歴史書は、キリスト教弾圧を単なる異教徒排斥としか教えていないが、
そういう観点は早急に見直されるべきではなかろうか。
そもそも、信長にしても秀吉にしてもキリシタンに対して当初は好意的であった。
しかし、信長の時代はともかく秀吉の頃になるとカトリック宣教師たちの植民地化活動が目に余り始めた。
秀吉は、宣教師たちの間に日本占領計画が存在することを見抜いて危険視するようになった。
その具体的措置として「伴天連(ばてれん)追放令」を発したことになる。

その1、「植民地政策の尖兵として宣教師の布教が為されている」
という観点からのキリシタン禁止令であった。
カトリック宣教は、世界史を紐解けば、西欧列強諸国の植民地政策と結びついていた。
彼らカトリック宣教師が敵情視察の尖兵として送り込まれ、信者と情報を集めた後に軍隊を送って征服し、
遂には植民地化するという政策が常套化していた。
秀吉は早くもそのことに気づいて主君信長に注意をうながしていた、と云う。

19ローマ・カトリック教会による奴隷貿易の日本人奴隷:2007/02/01(木) 11:02:18 ID:lRpwgqoI
>>18よりつづく
その2、「植民地政策と重複しているが、カトリック布教は建前で、実は略奪ビジネスである」
という観点からのキリシタン禁止令であった。
この頃、西欧列強諸国の一獲千金ドリーマーが、世界各地へ飛び出し、植民地ビジネスを手掛け始めていた。
カトリック宣教師たちはその布教のみならず植民地ビジネスを手引きする尖兵でもあった。

その3、「カトリック宣教師達は、戦国大名を懐柔し、奴隷売買 で荒稼ぎしている」
という観点からのキリシタン禁止令であった。
ルイス・デ・アルメイダは、カトリック・イエズス会の神父として来日したが、
カトリック宣教師たちの生活を支えたり、育児院を建てたり、キリシタン大名の大友宗瞬に医薬品を与え、
大分に病院を建てたりする他方で、奴隷売買を仲介した。
秀吉は、カトリック準管区長コエリヨに対して、次のように命じている。
「ポルトガル人が多数の日本人を奴隷として購入し、
 彼らの国に連行しているが、これは許しがたい行為である。
 従って伴天遠はインドその他の遠隔地に売られて行ったすぺての日本人を日本に連れ戻せ」。

20ローマ・カトリック教会による奴隷貿易の日本人奴隷:2007/02/01(木) 11:07:35 ID:lRpwgqoI
>>19よりつづく
日本の娘などがキリシタンによって奴隷として売りさばかれた史実は、
さまざまな文献資料によっても証明されている。
日本の歴史教科書では、秀吉のキリシタン弾圧は教えても、
日本女性が奴隷としてキリシタンたちが海外売りさばいた事は教えていない。
高山右近などのキリシタン大名が出てくるだろうが、
娘たちを火薬一樽で娘50人を売った事などはドラマには出てこない。
それでは、秀吉がなぜキリシタン弾圧に乗り出したかが分からない。

【「宣教師の反撃」】
秀吉は、カトリック準管区長コエリヨに対し、凡そ以上の視点からの詰問をした。
しかし、カトリック準管区長コエリヨの反応は極めて傲慢で、狡猪な、高をくくった返答であった。
高山右近を初め多くのキリシタン大名たちはカトリック準管区長コエリヨに進言したが、
彼は彼らの制止を聞き入れなかったばかりか、
ただちに有馬晴信のもとに走り、キリシタン大名達を結集して秀吉に敵対するよう働きかけた。
そして自分は 金と武器弾薬を提供すると約束し、長崎と茂木の要塞を強化し、武器・弾薬を増強し、
フイリピンのスペイン総督に援軍を要請した。2、3百人のスペイン兵の派兵が あれば、要塞を築いて、
秀吉の武力から教界を守れるとフィリピンに要請した。
これは先にカトリック巡察使ヴァリニヤーノがカトリック準管区長コエリヨに命じておいたことであった。

しかし、頼みとする高山右近が失脚し、長崎が秀吉に接収されるという情勢の変化を見て、
カトリック巡察使ヴァリニヤーノはその能力がないと判断し戦闘準備を急遽解除した。
この企ては有馬晴信が応じずに実現されなかった。
カトリック準管区長コエリョの集めた武器弾薬は秘密裏に売却され、
これらの企ては秀吉に知られずに済んだ。

21ローマ・カトリック教会による奴隷貿易の日本人奴隷:2007/02/01(木) 11:09:09 ID:lRpwgqoI
>>20よりつづく
これらの経過を見れば、ポルトガル、スペイン両国の侵略政策の尖兵として、
カトリック宣教師が送られて来たという事実を認めるほかない。

キリシタン勢力が武力をもって、アジアの港を手に入れ、
そこを拠点にして、通商と布教、そしてさらなる征服を進める、
というのは、すでにポルトガルがゴア、マラッカ、マカオで進めてきた常套手段であった。
また大村純忠は軍資金調達のために、長崎の領地をカトリック・イエズス会に寄進しており、
ここにスペインの艦隊が入るだけでクルスの計画は実現する。
しかし、この計画は未遂に終わった。

【「秀吉の朝鮮出兵の動機」考】
秀吉は急遽朝鮮出兵を打ち出す。肥前の名護屋に本陣を構え、
1592年ー96年、文禄の役、1597ー98年、慶長の役に出兵する。
文禄の役では、第一軍を小西行長、第二軍を加藤清正を大将とする15万8700名が派兵された。
慶長の役は全軍14万余の兵力が投入された。
二度の戦争で日本軍は完敗し、結局のところ朝鮮出兵が豊臣政権の命取りになった

秀吉の朝鮮出兵の動機については諸説あり、
通説は「朝鮮、明の入貢と貿易復活を求めたところ拒絶された故の外征であった」としている。
が、スペインやポルトガルのカトリック宣教師の入れ智恵であったという説もある。
カトリック準管区長コエリョは、スペインに船を出させ、共同で明を征服しよう、と考えた。
しかし、カトリック準管区長コエリョが秀吉を恫喝するような態度に出たので、
独力での大陸征服に乗り出したという説がある。その際、シナ海を一気に渡る大船がないので、
朝鮮半島経由で行かざるをえなかったということになる。

1593年(文禄3)年、朝鮮出兵中の秀吉は、マニラ総督府あてに 手紙を送り、
日本軍が「シナに至ればルソンはすぐ近く予の指下にある」と脅している。
いずれにせよ、秀吉の朝鮮出兵政策の陰にカトリック宣教師達の巧言があったことが推定でき、
秀吉は甘言もしくは挑発にまんまと乗せられたことになる。

22ローマ・カトリック教会による奴隷貿易の日本人奴隷:2007/02/01(木) 11:18:13 ID:lRpwgqoI
>>21よりつづく
1596.10月、台風のため土佐の浦戸湾に漂着した
スペイン船の積み荷没収と乗組員拘留が行われた際、
スペイン国王によるカトリック宣教師派遣には、
領土征服の意図が含まれているという趣旨の水先案内人の発言が為された。
これを「サンフェリペ号事件」と云う。12月、秀吉は再び禁教令を発し、
京都に住むフランシスコ会員とカトリック教徒全員の捕縛(ほばく)を石田三成に命じた。

慶長元年(一五九六年)五月、土佐の浦戸付近に、スペインの商船、サン・フィリップ号が座礁した。
豊臣秀吉は、すでにその九年前(天正十五年)、九州を平定すると共に、
キリシタンを禁止、スペインとの通商を断っている。
それ故、この難破船の貨物は没収された。
その時、この船の船長デ・ランダは、秀吉が派遣した増田長盛の前に世界地図を広げ、
「わが国王の領土は、世界にわたってかくの如く広大である。この大国の国民を虐待せば、
 容易ならぬ禍を招きしが承知のうえか」、と威嚇した、と云われている。
長盛が、「いかにしてこのように広大な領土をあわせ得たのか?」とたずねたところ、
ランダ船長は、
「その手段はまず、カトリック宣教師を入りこませ、
 キリスト教をひろめて土人を手なずけ、しかるのちに軍隊を送り、
 信徒と相呼応してその国を征服するのだ」と、広言した(本音を言ってしまった)、という。
この事件は、秀吉の死の直前のことだ。

☆★☆★ローマ・カトリック教会による奴隷貿易の日本人奴隷☆★☆★
               ↓
            >>1-9 >>11-22


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板