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ローマ・カトリック教会による日本人奴隷売買・貿易
13
:
ローマ・カトリック教会による奴隷貿易の日本人奴隷
:2007/02/01(木) 10:52:31 ID:lRpwgqoI
>>12
よりつづく
天正15年(1587年)6月19日、豊臣秀吉はバテレン追放令を発布。
十条で日本人奴隷の売買が禁止される。これが大きかったのでしょうね。
家康はそれら一連の出来事をよぉく知っていた。
それ故キリスト教禁止政策が継がれたのは、日本にとって幸いしました。
「ウィリアム・アダムスとカトリック教会の対立」その他を参照する。
秀吉亡き後、キリシタンとの戦いは、徳川家康に引き継がれていくことになる。
1600(慶長5)年、豊臣政権の五大老を努めていた家康は、
豊後に漂着したオランダ船リーフデ号の航海長で、
イギリス人のウィリアム・アダムス(三浦按針)を家臣として召し抱えた。
しかし、これは相当な厄介を招いた。
即ち、当時のオランダ、イギリスはプロテスタントの国で、スペインなどカトリック国と敵対していた。
家康に召抱えられたアダムスらは、家康に西欧の宗教事情を吹き込み、
カトリック系の世界植民地化構想を暴露する惧れがあった。
そういう予見から、在日カトリック系宣教師達は、プロテスタント教徒であった、
アダムス以下 リーフデ号の乗組員を処刑するように家康に申し出たり、
一人の神父を派遣して彼に日本を去るように説得したりした。
さらに最終手段として、プロテスタントからカトリックへと改宗するように迫っている。
ヨーロッパの宗教対立がそのまま極東の島国に持ち込まれた図式であった。
しかし、家康から見れば、ポルトガル、スペイン以外の貿易相手が出現したことになる。
それを良しとした家康の決断により、在日カトリック系宣教師達の試みはいずれも失敗に終わった。
つぎへつづく
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