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ローマ・カトリック教会による日本人奴隷売買・貿易

39名無しのひつじさん:2007/04/02(月) 10:17:04 ID:sYito2/w
(リーフデ号の乗組員のあるものは家康の上杉景勝討伐に砲手として参加したと伝えられている。)
中でもウィリアム アダムスは三浦按針の日本名を与えられ、
また江戸橋に邸宅、相模国三浦郡逸見村に220石あるいは250石の領地を与えられ、
家康の外交顧問として活躍した。彼の業績としては、
日蘭貿易のための画策及びイギリス東インド会社へ日英貿易の利を説き、
平戸のイギリス商館開設の窓口となったことや航海士としての技術を生かした、
洋式帆船建造などがあげられる。
ヤン・ヨーステンは家康に仕え外交の諮問に応じる立場として活躍、
オランダの日本貿易独占に尽力。東京中央区「八重洲」の地名は、
「ヤン・ヨーステン」が転訛したもの。

この中で私が注目するのはオランダ商船からもたらされた武器、長射程艦載砲である。
当時の日本にはなかったであろう、この武器が、家康に天下取りの意欲をいだかせ、
関が原合戦へと繋がったとは言えないだろうか。わずか、関が原の半年前のことである。
この因果関係を証明する術はない。しかし、状況証拠を考えると、
この時期のオランダとの接触が家康に天下を取らせ、
褒美がポルトガル、スペインを排除してオランダへの独占的交易権の付与であったのではないか。
証明はできないが、辻褄はあっていると考えるがいかがであろうか。
もしこのことが証明されたらどうなるか。日本史は、このとき以降独立した歴史ではなく、
欧州勢力によって支配者が決められるということである。
間接的な意味での植民地である。
鎖国(この用語も適切ではない。選択的開国というのが正しい)の真の意味とは、
オランダと徳川家で談合して徳川家による日本支配とオランダの交易を相互承認し、
他の勢力(伊達、島津、毛利、前田等の外様大名)がカソリックのスペイン、ポルトガルと、
結びつかないようにするための規制、枠組みであったのではないか。
島原の乱(1637年のキリシタン一揆。天草四郎時貞(当時16才)を総大将にし、
原城(南有馬町)に総勢3万7千人で90日間たてこもった。


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