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ローマ・カトリック教会による日本人奴隷売買・貿易

50名無しのひつじさん:2007/04/26(木) 14:41:42 ID:taPIsFPg
北信濃に進出した武田軍は、信越国境の関山(新潟県妙高村)を越え、春日城(上越市)近くまで侵入し、
村々に火を放ち、どさくさに紛れて女性や児童を乱取りし、生け捕った越後の
人々を甲斐に連れ帰って、自分の召使(奴隷)にした。
「甲陽軍艦」に、この作戦で武田軍は越後を占領こそしなかったが、略奪に大成果をあげたのも、
みな信玄の威光のお陰だと力説している。戦国の戦争には、明らかに乱取り目当ての戦争もあり、
大名さえ強ければ、それは思いのままであった。

薩摩軍が豊後で捕虜にした人々は、肥後の国に連れていかれ売られたが、
その年、肥後の住民はひどい飢餓と労苦に悩まされ、
己が身を養うことすらおぼつかない状態にあったから、
彼らをまるで家畜のように高来(たかき、島原半島)に転売。
その高来から上海に人身輸出。時の上海には日本人奴隷の市がたっていた。

天正3年(1575)8月、織田信長が越前の一向一揆を制圧したとき、
追われた一揆方の男女が村を捨てて山々に逃げ込むと、
信長は徹底的に山狩りをして、男も女も切り捨てよと命じた。
やがて生け捕られて信長のもとに送られ殺された数は1万2250人余り。
「その外、国々へ奪い取り来る男女、その員(かず)を知らず」といわれ、「生捕りと誅させられたる分、
合わせて3,4万に及ぶべく候か」といわれた。生捕っても信長に報告せず、
諸大名軍がひそかに国元に連れ去った男女2,3万人に上がった筈であるといわれる。

<無数の山田長政たち>
日本人傭兵たちのマニラでの評判はひどかった。有害なる国民にして、不真面目な罪を犯し、
多大なる害毒を流す。中国人よりもさらに不穏にして好戦的で、しばしば戦いをもってこの国を脅かし、
略奪のためにきた彼らの船で、この国と海岸を荒し廻った。そうした日本人の一人に、
シャム(タイ)で暴れまわった山田長政がいる。彼は「海外に雄飛する日本人」の代表格として、
いまも日本史の教科書に登場する。シャムの内乱に雇われ、日本人傭兵隊をひきいて活躍し、
ついに毒殺された彼は、日本では徳川方の小大名大久保忠佐に仕えた六尺、
つまり主人のカゴをかつぐ下僕であったという。日本人の源流がしのばれる。


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