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ローマ・カトリック教会による日本人奴隷売買・貿易

38名無しのひつじさん:2007/04/02(月) 10:11:03 ID:sYito2/w
話がいきなり近世に飛んで恐縮であるが、戦国時代以降の日本の歴史を考えてみたい。
古代や中世についても語りたいことは多々あるが、本論から外れるので別の機会に譲る。
戦国時代の画期を示すものとして、1543年の種子島へのポルトガル商人漂着による鉄砲伝来、
1600年に豊後に漂着したオランダ商船リーフデ号(西暦1600年4月19日、
佐志生の入江に今にも壊れそうな、とてつもなく大きな帆船が漂着した。
遠いオランダの地から、東洋の国ジパング(日本)へ向けて旅立った、
5隻の船団(ホープ号500トン乗員130人、リーフデ号300トン110人、ヘローラ号300トン109人、
トラウ号220トン86人、スハッブ号150トン56人)の中でただ1隻だけ、
1年10ヶ月におよぶ苦難の航海の末日本に到着した船、それがオランダからの初めての船、
リーフデ号であった。この船には、江戸時代、日本とイギリス、オランダ両国の友好を、
とりもつことになったウイリアム・アダムスとヤン・ヨーステンが乗っていた。

1600年という年は、関ヶ原の戦いで徳川時代を決定した年である。

オランダという国が正式に公認されたのは1648年だったので、リーフデ号がオランダを出発した
1598年という年は、オランダがスペインから独立を宣言した1581年からわずか17年しか経っておらず、
まだ独立戦争の最中のことであった。)が上げられる。
日本には1543年に欧州勢力としてポルトガル商人が種子島に漂着して火縄銃を伝達しているから
カソリック国とは面識があったわけであるが、
オランダ船により、プロテスタント国との接点ができたわけである。
時の権力者、豊臣政権の大老筆頭徳川家康は、漂着したオランダ船に多大な興味を示した。
船に載まれていた武器が、一番の目当てだった。リーフデ号が運んできた武器は全て没収され、
ヤン・ヨーステンとウイリアム・アダムスは大坂、次いで江戸に上るよう命じられた。
そこで2人は、ポルトガル語の通訳を介して取り調べを受けることになる。
運良く彼らの返答は家康の気を良くし、臼杵で被った損害も補償された。
日本に残った乗組員のほとんどは、その後貿易に携わったり、日本人女性と結婚している。
この漂着者たちは、地図や航海術、造船術の知識、さらには西洋諸国の戦況に関する情報など、
非常に役立つものを握っていた。


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