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ローマ・カトリック教会による日本人奴隷売買・貿易

25ローマ・カトリック教会による奴隷貿易の日本人奴隷:2007/02/01(木) 12:21:43 ID:lRpwgqoI
>>24よりつづく
■■■奴隷日本人秘話■■■
日本人が戦国時代に奴隷に売られて、男は印度から馬来半島方面のポルトガル領の植民地に、
容色のよい女は、魔女裁判によって多くの女性を焚殺したヨーロッパへ送られていたことは、
あまり知られていない。
しかし、「朕、国王は、この勅令をもって布告す」とし、「従前印度地方における奴隷日本人に関し、
朕の得たる報告において正当なる事由なし。よって今後は日本人を奴隷に捕らえたり購入したる者は、
その財産没収となしその一半を朕の国庫に納め、一半を告発する者に下付すべし、1571年3月12日」
というポルトガル国王ドン・セバスチャンの勅令も、現存している。
この年号は日本の元亀二年、織田信長が姉川合戦で勝った翌年で、延暦寺の焼討ちをして僧俗数千を殺し
た年にあたっている。さて従来の日本史は、
(ギネア海岸からのアフリカの黒人を、聖ドミニコ派の宣教師が、現在のリスボンを集散地として、
南米へ送りこんでいたが、天文十二年以降は、現在のマカオが、
ポルトガル人による日本人奴隷の一大集散地だった)といった事実を隠している。
だからして、織田信長が何千人も殺してしまったといった記載など、当時としては、
「奴隷に売れば儲かるものを、もったいない事をしたものだ」といった受取り方で記録されているのに、
今の歴史家はそれを知らず、「信長は残忍だった。
だから本能寺で殺されたのは因果応報である」などと説明する。
あまりに不勉強にすぎないのではなかろうか。
ただ歴史家とは認められていない人だが、徳富蘇峰の『近世日本国民史』に、
「後戸(五島)・平戸・長崎にて、日本人を男女を問わず数百人ずつ黒舟が買いとり、
手足に鉄の鎖をつけ舟底へ入れて運び去るは、地獄の責苦にもまさって、
むごい有様である」 といった実地にみた大村由己の、
『九州動座記』の奴隷売渡しの実況が挿入されているだけである。
由己は豊臣秀吉の祐筆頭で、これは当時の公文書である。
そして現在と違い、マカオ九州間の黒舟は百トン以下だった。
だからそれに、数百の日本人が奴隷として押しこまれ、ディーゼル・エンジンや蒸気機関のない昔、
季節風だけで動くマカオへの旅。そして、そこから印度への輸送は、
アフリカからの黒人奴隷が大西洋一つ渡るだけで済んだのに比べ、もっと悲惨だったろう。


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