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ザ・KK退会者がもの言うスレット
55
:
IAOO.KK
◆ZKLVh/2jGY
:2006/09/30(土) 23:40:12 ID:DZS7qQVI
訂正。
反論を持ち出してくる人のありましょう。 => 反論を持ち出してくる人もありましょう。
56
:
RANDY
:2006/10/01(日) 10:07:13 ID:cpNbKs26
信仰と一口にいっても、ご利益信仰、自力・他力信仰とかいろいろありますね。
また自然崇拝、生き神様崇拝とかもあるね。
あと一神教信仰側からいえば、一神教は多神教の上の信仰なんでしょ。
いろんな信仰を分類整理してゆけば、信仰の発展段階説とかできるかもしれないです。
57
:
RANDY
:2006/10/01(日) 10:11:10 ID:cpNbKs26
>>51
エートス氏
>あなたが仮に等身大の人生を送ったとしても地獄に堕ちるような人だとは思いませんね。
一度は堕地獄を覚悟したつもりでも、そう言ってもらえると、やっぱ嬉しいですね。
>無我とは自分で自分を対象化すること〜
実を言えば、私の場合、そういうことはKKで訓練されたかもしれません。当時はまだ若かったんで、五十代、六十代のオヤジさんらの「正しき心の探求」「反省」「内観」とかのやり方を見るのは、結構勉強になりましたね。
>多くの人は等身大の自分がどのようなものか認識できないまま、抗って、もがいて人生を送るわけで〜
当時のKKって割と個性を尊重してたと思います。「地獄的だからダメ」みたいなのはあったけれども、私が自分の好きなように振舞ったとしても、「人には個性がある。君は○色なのかな?」とかその程度で済んでましたね。
けれどKKが宗教組織になって行くにつれて、理想の信者像が形成されてゆく。以前は様々な色の個性が容認されていたのが、一定の色しか認められなくなってゆく。そうすると他の色の個性の持ち主は、KKから出るか、己をKK色に染め上げるか、の選択を迫られる。
これは宗教だから仕方ないっていえば仕方ないけど、私にとってはちょっと窮屈。今にして思えば、私にとってのKK体験は、自分の個性を知るよい機会だったのかもしれませんね。
58
:
RANDY
:2006/10/01(日) 10:27:50 ID:cpNbKs26
KKの認識論についての感想。
KKでは、人の認識力は、その悟りの段階に対応しているとされる。五次元の人は五次元の、六次元の人は六次元の認識力だということ。
とすると、一般人は、仏陀が分かるどころか、本物の仏陀か否かは見抜けないことになるんじゃないのかな。
一般人は仏陀ではない。仏陀でないから「仏陀の悟り」は分からない。「仏陀の悟り」が分からないなら、「仏陀とは何か」はしらない。「仏陀とは何か」を知らないなら、本物の仏陀か否かを見分けられない。
KK認識論からすれば、一般人にとって、自分以上の存在について分かるのは、「この人は自分より認識力が上らしい」という程度のことで、その人が何次元に相応するかについては、確たることは言えないんじゃないかな。
多分、本物の仏陀を見抜けるのは、「仏陀とは何か」を知っている本物の仏陀くらいのもの。
退会して冷静になってみると、こんなKK認識論を学びつつも、「ORが仏陀であることは分かる人には分かる」と普通に考えてた自分が不思議に思えてならない。
59
:
エートス
:2006/10/02(月) 01:10:35 ID:7FKiqNLA
このスレッドすっかり法論と化しているようですネ。w
別に難癖をつけるわけでなく、退会なさった方を交えての穏やかな法論はここが向いているかもしれないと感じています。
スレッド建てとしては成功じゃないでしょうか。
で、本題ですが_信仰心とは極めて主観的で思い込みもあり得るのでははないか_と書きましたが、信仰心という言葉には仏教的には違和感を感じています。
もともと、東洋的宗教_特に仏教_は悟りに関してグレード(段階)が設けられていることがすぐれた点であって、KKに次元構造や愛についての発展段階説があることは仏教的だとは思っています。
しかし、菩提心という言葉を聞くことはありますが、伝統的仏教の中で信仰心という言葉の強調はあまり聞かないですね。
もともと仏教には被創造物(と創造主)についての概念はないですから。
英語には信仰心を示す単語がいくつかあるが、菩提心を示す単語は聞いたことがないですし。
100式氏によれば_信仰心はすでに心に備わっている_ということのようです。
「真理を求める気持ちが埋まっている」というのなら分かりますが、「信じる気持ちが埋まっている」と言われると「そうかなー?」と首をかしげてしまいます。
菩提心とは真理を求める気持ちですから、特定の神という信仰対象を持たなくてもいいわけで、また、IAOO.KK氏が言われるようにいろいろな意味での動機になるとも言えます。
あるとか無いとかの話になると、「信仰心が無い」という場合はどうしてもネガティブな評価方向_大川氏を信じない輩_に向かっていき、ひどくなると堕地獄とかに行き着いちゃう。
それに対して、「菩提心がない」というのは真理を求める気持ちがないということだから、それはいろいろな煩悩_こうしたい、ああしたい、あれがほしい、これがほしい_に阻まれて、本来欲しているものが分からなくなっていると解釈できます。
何と言ったらいいのか・・・。100式氏などKK信者氏が説明する「信仰心」からは非常にイデオロギー的な響きを感じちゃうんですよね。
60
:
100式
:2006/10/02(月) 22:30:44 ID:QbXe8Aqk
>>54
K氏
根本経典『仏説正心法語』を理解するため、その他の経典はある・・・
と言われております。
ま、仏言を解説するのは弟子の仕事でございましょう。
さて、信仰心が次元の壁を破る力だと言われておりますが、
どの程度破れるものなのか、皆目見当がつきませぬ。
信仰心の篤い人は仏と一体となるとも言われておりますのでね。
そして、我々の話している信仰心とは、はるか上位の仏神に対するものです。
この宇宙を存在せしめ、すべての生命を育んでいる存在。
これを何と呼ぶかは人それぞれでありましょうが、
我々は、主エル・カンターレと呼んでいるということです。
「目の前には手も触れられていない真理の大海原が横たわっているが、
私はその浜辺で貝殻を拾い集めているに過ぎない」
これはニュートンの言葉だそうですが、
真理=仏神と置き換えれば、信仰心にも通じるのではないかと思います。
信仰心の発現には段階がありましょうが、その対象はやはり、
人智を超えた存在に対するものでしょう。
61
:
100式
:2006/10/02(月) 22:42:17 ID:QbXe8Aqk
RANDY氏
>>56
宗教そのものの発展段階がある。それは、信仰形態を比較すると判る、
そのような考え方でありましょう。
>>57
ことりん氏あてですが、雑談にコメント入れてあります。
>>58
君自身がそれを証明している。
62
:
100式
:2006/10/02(月) 23:07:36 ID:QbXe8Aqk
>>59
エートス氏
人は仏性がある。仏性は魂の親を覚えている。魂の親を思う気持ちが信仰心である。
このように説明されることもありますね。
なので、人は最初から信仰心があるのだと、そういう考え方でも良いと思います。
それを信仰心の素と言い換えても良いですし、発現させるのはやはり自分自身ですので、
その程度に段階があると考えるのも妥当でしょう。
仏教と信仰心についてですが、
釈尊が主に説かれたのが、修行による人間完成の道だと思います。
私を信仰しなさいとは説かれなかった。
しかし、仏陀入滅後は仏陀信仰が出てきて、
仏塔を信仰の対象としたり、法輪としたり、仏足跡としたりした。
仏像を作るのは恐れ多いって事らしい。
浄土宗のような他力門も出てくるくらいだから、
信仰とは人間が元から持っているものなのだと伺えるかと思います。
菩提心と信仰心は表裏一体なのでしょう。
あと、イデオロギーも宗教の一種とも言われますから、
私の話がそのように感じることも致し方ないかと。
宗教、信仰、霊界など、強烈な主観の話ですから、
蚊帳の外の方からすればそのように見えるでしょう。
63
:
IAOO.KK
◆ZKLVh/2jGY
:2006/10/03(火) 00:09:03 ID:kq4gndPY
>>57
>今にして思えば、私にとってのKK体験は、自分の個性を知るよい機会だったのかもしれませんね。
責任転嫁的ですが、私にとってはメンタル的な悪徳__真理を知らないものへの軽蔑や傲慢とか霊的野心・霊的利己主義__を刺激してくれたよい?機会だったとおもいます。
また「波動」とかいって相手の雰囲気に敏感になりすぎ、相手のちょったした愚痴や悪口ですぐに心身へのダメージがくるような状態になってしまいました。
KKだけがというわけではないけれど、KKで決定的になったというか。ネットのKK信者でも”霊的体質で…”とかいうけれど自慢にならないことさ。
この点を考えれば「成長の家」に入信したほうがよかったかなとおもう。ま、これは思想的にハードル__”本来、悪なし、罪なし、病なし”__が高かったのでパスでした。
64
:
RANDY
:2006/10/04(水) 18:51:53 ID:moGnsOLc
100式氏
>>61
>雑談にコメント入れてあります。
あのですねえ。KKの間口を狭めたのはOR氏本人だと思いますよ。
たとえば、当初のKKでは、真理を学ぶ意思があれば、他宗教の信者でも入会できたが、
今は、エルカンターレ信仰が信者の条件でしょう。「正心法語」を見ても、他の霊人のものは削除されて、エルカンターレ一色ですよね。
学習団体から、信仰団体になったら、そりゃあ、エルカンターレ色以外は、いられなくなるでしょ。
「子供がちょこっと騒いだだけで〜」の件も、案外、信仰に因があるかもね。
熱心な信者であるほど、「支部は神聖な神域である。常に静粛にしていなくてはならん。騒ぐのは仏に対する非礼である」みたいな発想になりがちだからね。信仰を徹底すれば、この手の人が出てくるのはいわば必然かも。
ちなみに私が以前通ってた支部(もう十年以上前の話)では、少しくらい騒いでもOKでしたよ。行事があるときは、当然、みんな静かにするけど、普段は、みんなでワイワイガヤガヤ賑やかに雑談してた。
私は子供と応接セットの周りをぐるぐる走ったりしたこともあるけど、別に叱られなかった。だいち職員さんからして、「大人同様の大きさの霊体が、子供の小さな体に入っている。窮屈だし、力が余るし、子供が動き回るのは当然だ」みたいな見解でした。
こういうのって、今のKKの考え方からすると、信仰心とか礼儀の欠如になるのかなあ。でも、神様の場所である支部に来た時、静粛にしたい個性もあれば、光の場所に来れて、嬉しくって、あちこち跳ね回りたくなる個性もあるんじゃないかという気はしますね。
まあそれでも、子供に混じって、大人までもが支部の中で駆けっこするのは、さすがにマズイけど、行事の時以外は、少しくらい賑やかにしても良い気はしますね。なんか私の通ってた支部でも「静粛第一主義の信者」らが、多勢になってるとしたら、なんか嫌だなあ。
私は信者時代には、KKの寛大さを誇りにしてたからね。
65
:
RANDY
:2006/10/05(木) 19:37:56 ID:8RWEbnzA
100式氏
>>60
>我々の話している信仰心とは、はるか上位の仏神に対するものです。
私の記憶では、OR氏は、神の概念について「高次元存在から伝え聞くところによれば、神と呼ばれうるのは、少なくとも二十次元以上の存在だろう」みたいに語ってたと思います。手元に資料がないんで、確かな事はいえないですけど。
>この宇宙を存在せしめ、すべての生命を育んでいる存在。
うーん。これもまた私の記憶なんだけども、KK本にこんなたとえ話があったと思います。
「高次元から見れば、宇宙はバスケットボールのようなもの。体育館に、このバスケットボールがいくつも転がっているように見える」
ずっと高次元から見ると、宇宙レベルでもバスケットボールに見えるんでしょうね。おそらくは、さらにずっとずっと高次元_たとえば百億次元あたりから見れば、宇宙をバスケットボールと見る存在さえも、とてもかよわい存在に見えるかもしれません。
>信仰心の発現には段階がありましょうが、その対象はやはり、
人智を超えた存在に対するものでしょう。
これはちょっとした言葉遊びが出来そうですね。
たとえばこんな風に…。
「信仰の対象は、人智を超えた存在に対して為されるべきである。しかしながら『あれは人智を超えている存在だ』と言うことは、つまりは『人智を超えている』ということを認識していることであり、しっかり人の知性が届いているといえる。
たとえば『クヌルプこそが人智を超えた最高神だ』と考えたとすると、それを持って、クヌルプは人智によって知ることができたことになり、『人智の及ばない』という神の定義から外れてしまう。
人には人智の及ばない神を信仰するのは無理らしい」
66
:
100式
:2006/10/06(金) 00:21:13 ID:57kbpUf.
>>64
RANDY氏
>あのですねえ。KKの間口を狭めたのはOR氏本人だと思いますよ。
昔は書籍を10冊以上読んで願書書かなきゃ入れなかったし、
願書出しても半年一年待機なんて人もいた。
今は信仰というハードルはあるが、結構低いと思うぞ。
間口は格段に広がっている。
しかし、信仰について理解不能な人ならば、これは巨大な壁かもしれん。
>エルカンターレ一色ですよね。
主エル・カンターレの下に七色が集っている。
ちなみに、今回の映画『永遠の法』は銀色光線だといわれている。
>「子供がちょこっと騒いだだけで〜」の件も・・・
これは、ことりん氏自身の個人的問題とリンクしている。
>信仰を徹底すれば、この手の人が出てくるのはいわば必然かも。
信仰心の篤い人ほど寛容になる。
>>65
>人には人智の及ばない神を信仰するのは無理らしい
信仰によって人智を超えた存在だと理解できる。
君の意見は、信仰に対する無理解が出すぎていて痛々しい。
67
:
AHW
:2006/10/06(金) 23:45:13 ID:DPhibNnk
退会者スレお邪魔するです!!
>>66
百式氏
>君の意見は、信仰に対する無理解が出すぎていて痛々しい。
ランディ氏に対してのこの最後の一行・・・・。
ぽろっと出てくるこの上からの憐れみ感覚に溢れた一行が
kk信仰のもつ独善性をよくあらわしてるんじゃないか。
まあ第二でなごんでくれてたし、いちいちレスしなかったが、
こういう周りを不快にさせる文言はスルーしないよ。
これじゃ、おまえさんが問題視してた他の問題ネット信者と
まるで何も変わらんだろに・・・。
(自慢癖ある御仁なのでまともに信用しなくてよいというガマン氏やら
不良扱いとしてる痛い系ヒカリモノ信者諸氏やらと)
んで信仰の間口が以前より広くなった?嘘こけよ。
宗教思想的には教義大改定してより狭くなってるだろ?
入信の事務的関門が、超初期よか簡単になったってだけじゃないのか。
68
:
エートス
:2006/10/07(土) 01:16:02 ID:NHpH5WDg
>>62
100式氏
>仏教と信仰心についてですが、釈尊が主に説かれたのが、修行による人間完成の道だと思います。
>私を信仰しなさいとは説かれなかった
そのあたりはソースがあると尚いいと思いますが、釈尊時代は当然ビッグバンとか遺伝子解析とか知らないわけで。
また、神を前提とするのは当たり前の時代でしたからね、神を信仰しなさいということではなくて、神_あるいは神が創ったありのままのこの世界_をもっとよく知りなさい、ということだったんだと思います。
積極的に人間完成の道を説いたとあなたは解釈しているようだが、涅槃は人間としての枠内での完成ではないと思う。より大きな世界と一体になることなんだろう。
人間完成という道学的評価は我々のフィルターを通しているように感じました。
>しかし、仏陀入滅後は仏陀信仰が出てきて、仏塔を信仰の対象としたり、法輪としたり、仏足跡としたりした。
>仏像を作るのは恐れ多いって事らしい。
>浄土宗のような他力門も出てくるくらいだから、信仰とは人間が元から持っているものなのだと伺えるかと思います。
信仰は、当然古くから持っていると思いますよ。
旧石器時代にはマンモスの牙で作られた地母神像があるし_いわゆる旧石器のヴィーナス_といわれるやつネ。
また、ヨーロッパの洞窟壁画はクロマニヨン人によって描かれたわけですが、それらは信仰の産物ですからね。
>菩提心と信仰心は表裏一体なのでしょう。
私が上に書いたような信仰心が菩提心と表裏一体だと言えます?
だから仏教的には信仰心は違和感がある、と書いたんですよ。
>あと、イデオロギーも宗教の一種とも言われますから、
>私の話がそのように感じることも致し方ないかと。
あなたがイデオロギーをどう解釈しているのかは分からないが、わたしは固有のあるべき世界観を主張するという意味で使いました。
しかし、全て因縁生起で説明される仏教においては固有の世界観の主張ってありえないですよね。
で、「イデオロギー<宗教」ということですが、是非、イデオローグではない、より上位概念の宗教者であるところを100式氏には示してほしいですね。
>宗教、信仰、霊界など、強烈な主観の話ですから、
>蚊帳の外の方からすればそのように見えるでしょう。
こうした言い方はKK会員としては変じゃないですか?
霊の存在を科学的に証明しろ、とまでは言わないが、科学を冠する以上は、少なくとも理解できるような客観的な根拠は示してほしい。
大川氏信仰の世界が強烈な主観の世界なんだというなら、アンチがよく揶揄するようにKKはオーカワワールドで信者はその住人になる、と思いますよ。
少なくともネットに出てきて絶対レベルで正しいんだ、なんてことはいえなくなるでしょ。
69
:
エートス
:2006/10/07(土) 01:18:02 ID:NHpH5WDg
>>66
>>あのですねえ。KKの間口を狭めたのはOR氏本人だと思いますよ。(RANDY氏)
>昔は書籍を10冊以上読んで願書書かなきゃ入れなかったし、願書出しても半年一年待機なんて人もいた。
>今は信仰というハードルはあるが、結構低いと思うぞ。
>間口は格段に広がっている。
>しかし、信仰について理解不能な人ならば、これは巨大な壁かもしれん。(100式氏)
「KK信仰について」という注釈付きでそうでしょうけどね。
狭いから広い、広くなったからより狭くなった_ということがいえるんじゃないでしょうか。
習熟度別クラス編成のほうが全体のレベルはマクロで上がりますからね。
三角形が同じ面積なら底辺が短いほうが高さは高くなるからね。
数が増えればという、まー相似形を想定した高さの確保はできるかもしれないが、それだけ巨大な底辺_言い換えればかつての待機組_を抱え込むということでしょうから。
>>信仰を徹底すれば、この手の人が出てくるのはいわば必然かも。(RANDY氏)
>信仰心の篤い人ほど寛容になる。(100式氏)
これ真っ先にジーク氏を思いだしてしまいましたよ。
信仰の徹底と信仰心が篤いという言葉には、微妙な違いがありそうですね。
ただし_KK信仰心が篤いと寛容になる_というのは疑問符です。
あなたも書かれているように信仰心は主観ですから信仰が篤いと自分で思っていても寛容でない人はたくさんいる。
歴史を紐解いてみればわかるでしょう。
>>人には人智の及ばない神を信仰するのは無理らしい(RANDY氏)
>君の意見は、信仰に対する無理解が出すぎていて痛々しい。(100式氏)
意見じゃないよ。言葉遊びだって書いてるでしょ、RANDY氏は。
AHW氏と同じくで、どうしてこういう風にぽろっと出るのかネ。
70
:
RANDY
:2006/10/07(土) 11:31:30 ID:AiK6Cgvo
100式
>>66
信仰については、理解、無理解というよりは、双方の視点の相違とした方が波風が立たないかもしれないですね。それに私の意見って、自分の独創というよりも、過去の偉人のパクリ、応用とかですよ。偉人てのは、KK的にも光の天使と認定されてるような人たちね。
だから「黄金の法」とかに出てくるような哲人らの著作、解説本とか読み進めて行くと、私のような思考に達する人もいるんじゃないかと思います。というわけで一応、私の思考過程を書いて見ましょ。もしかしたら、これはある意味、信仰の発展段階論になるかも。
まず私も以前は、100式氏のように考えてました。たとえば
>>62
みたいに。_でも信仰を発現させるのは自分だという考え方をしていたら、「果たして自分に本物を見分ける能力はあるのか」という問いが生じたんですよ。ただ信者時代にそういう疑問を持っても、先輩会員から「KKに集っているのだから、本物を見分ける力は十分ある」といわれるだけでした。そしてそれは心地よい答えだし、妙に納得しちゃったんですよね。
でも、KKから外に出て、いろいろ考えたり、調べたりすると、人の認識、信仰の過程は大雑把に言えばこんな感じなんですよね。
①対象を見る ②対象の真偽を自問する ③真だと判断する ④対象を信じる
まず①について言えば、人は対象そのものを把握するのでなく、網膜にうつった対象しか見られないでしょ。霊感で知るとしても、それは対象そのものを知るのでなく、霊感という感覚器官の刺激を探知してるだけっぽい。
④についていえば、対象そのものを信じているのではなく③における自己の判断を信じているに過ぎないと言えるかもしれない。さらには①におけるように対象を主観的にしか把握できない人間に、客観的判断は可能か否かの問題も生じてくる。これじゃ、人が自分で信仰を持つって可能かな? とますます疑問に思えてくる。
一方、上とは逆に、信仰は神から来るというキリスト教的発想をすると、人の認識うんぬんという面倒な議論は解消されそうですね。「信仰は神の御業である。神の恩寵である」とか言ったら、人に信仰は可能かとかの議論は必要なくなりますから。ただこれにも疑問点はあるけどね。
と、まあ、こんなことをつらつら考えていると、過去の自分のKK信仰は、不合理を自覚しない信仰だったんだなあ、と痛感するわけです。そしてこれは過去の自分だけに限らず、KK信者に留まらず、宗教信者一般に見受けられると思うんですよね。
信者さんって、「自分の宗教は大変筋の通った合理的なものだ」みたいな信仰を持ってることは多いですよ。だから宗教の不合理性を指摘されると、「不合理じゃない」と言い張りたがる。または「不合理の指摘」を軽視し、それを見ることさえも拒絶する。
信仰って「不合理ゆえに我信ず」のはずだけど、本当に不合理性を自覚した上で、「不合理ゆえに我信ず」という人は、案外少ないみたいです。
あと蛇足ながら、以前、私は他の掲示板で、KK以外の宗教信者と議論したことがあります。その際、大概の信者は「自分の宗教は不合理じゃない。合理的だ」とか言い張ってたのに、たった一人だけシン吟の末に、自分の宗教の不合理を認めて、その上で、「それでも信じる」みたいなことを発言した人がいたんですね。
これには思わず、一寸感動しましたよ。私は自分は思想的宗教的な酩酊体質だという自覚があるんで、そういう感動には冷静でいようという自戒があるけど、それでも「うーん」と唸りましたよ。思い返してみれば、「不合理なれど我信ず」の実践者との、初めての対面でしたね。
71
:
100式
:2006/10/14(土) 22:10:42 ID:6mIgPMIE
>>67
AHW氏
あれはワシらの目からすれば痛々しい。
人間とは信仰を持っているものだとする考え方ならば当然だろう。
他宗の方デモそう思うんじゃね?
最新の投稿を読んでより強く感じるよ。
あと、単純な信仰を説くことで間口は広がっていくもの。
今は複雑な教義を理解する必要は無い。
間口は圧倒的に広がっている。
72
:
100式
:2006/10/14(土) 23:04:58 ID:6mIgPMIE
エートス氏
>>68
修行により悟りを得る=人間完成の道→涅槃
念仏による信仰→浄土
自力門と他力門でよく比較されたりしますが、
まったく逆方向を目指しているように見えて、
実は到達点は同じ。
ってことで、菩提心と信仰心は表裏一体と言いました。
ここでワシの言っている信仰とは、仏教内における仏陀信仰のこと。
>こうした言い方はKK会員としては変じゃないですか?
霊界とは主観のみの世界と言われております。
民族、宗教ごとに固有の霊界を形成しているそうです。
そういう霊界の常識を受け入れている我々は、
そんなもんでしょう、と考えるってことです。
主観のみなんだけれども、より上位の悟りを持つことで、
さまざまな主観を統合できると、こう考えてよいと思いますよ。
>>69
底辺は広がってるけれども、もちろん信者のレベル向上も求められる。
上の資格を持っている人は結構大変。ワシは初級だったりするww
信仰心の篤い人は寛容ですよ。
どの宗教でもそうでしょう。
しかし、そこに政治的要因が絡んでくると話は変わってきますな。
寛容だけでは自国は守れませんからね。
それと、支部内のルールやマナーの話を、信仰の徹底と言うのは勘違いでしょう。
信仰とは、個人の心の中で掘り下げるとか、大きくするとかだから。
>言葉遊びだって書いてるでしょ
もちろん知っていますよ。で、遊びだと言いながらこういうことを書く。
かなり痛い。
73
:
100式
:2006/10/14(土) 23:14:17 ID:6mIgPMIE
>>70
RANDY氏
⑤不可知領域が存在する
が抜けてるんじゃね?
この不可知領域を扱うのが宗教。
この世の常識とあの世の常識は違うんだが、
この世の常識であの世を見ると不条理。
しかし、あの世の常識を受け入れてしまうと、
この世のほうが不条理となる。
こんなもんだろ。
74
:
RAND
:2006/10/15(日) 19:51:31 ID:1CLzTst.
100式氏
>>73
>⑤不可知領域が存在する
が抜けてるんじゃね?
>>73
で書いてるのは、人の認識力についてだから、その対象が不可知でもそうでなくても、結論は大差ないですよ。ただ不可知領域に対しては、理知が及ばないから、本人の思い込みを抑制する作用は弱まるかもね。
>この不可知領域を扱うのが宗教。
私は、「不可知は不可知としておくべし」という立場です。だから宗教は、人智を超えたものを、無理やり人智の範囲内に留めようとしているように見えます。
たとえば宗教は、普通、有神論であって、無神論を否定するでしょう。
けれども、神は人智を超えたものと定義するならば、神は有るとか、無いとか言えないものとなり、そういう議論は無意味になります。
また神を超越、絶対などと定義すると、神は、有るのでもなく、無いのでもなく、存在する、存在しないを超えたものとなるでしょ。
つまりどちらにしても神は、易々と有神論、無神論を超えるわけです。
こういう思考をすると、宗教が「神は存在する」と言った時点で、超越、絶対の神を、「有る、無い」という三次元的相対的なものに落してしまってる気はします。
あと最近、KKネット界では、「永遠の法」が話題になったりしてるけど、KKの霊界観は、三次元的なものを超えてないですよね。
たとえば○次元というのは、そこに空間があるということでしょ。
光より早い「霊速」という言葉からすると、霊の世界にも時間があるということ。
高次元の存在は、「人としての形をとらず意識として存在している」とされていることからすれば、高次元存在であっても「有」と「無」を超えた存在ではないということ。
存在、空間、時間っていうのは、三次元的常識ですから、KKの霊界観は、端的にいえば、三次元の延長であって、不可知領域には踏み込んでないかもね。
「不可知領域を扱うのが宗教」というのは、その通りなんだろうと思います。でも現実に、それが出来てる宗教って、あまり無いでしょうね。仏教系の本とかを見てると、「不立文字」だとか、「在るのでもなく、無いのでもなく」みたいな表現があったりするから、人智を超えた何かを説こうとしているらしいことは、ほのかに感じることはありますけどね。
>この世の常識とあの世の常識は違うんだが、〜〜
この世の常識と、あの世の常識を別物と認めるのは、一寸危ないと思いますよ。
それに私が知ってるKKは、「この世とあの世を貫く幸福」「偉大なる常識人」とかみたいに、この世とあの世、どちらにも通用する真理と人物を求めてたと思う。
75
:
RANDY
:2006/10/15(日) 20:18:43 ID:1CLzTst.
>>71
>あれはワシらの目からすれば痛々しい。
では、痛々しい私なりの信仰観を述べてみましょ。お陰様で、色々やり取りしているうちに、自分なりの信仰観が出来てきたような気がしてます。
思うに、本来、信仰っていうのは、人智を超えた神の偉大さと同時に、今の自分の矮小さを実感する作用があるんじゃないだろか。宗教によっては、人の中に神性が内在されていると説くものもあるけど、そうであっても神性は顕在化されていないわけだから、信仰によって、今の自分の小ささ、不完全さが自覚されるという点では大差ないですね。
また信仰は、神を信じるわけだから、神の心の表現である真理をも認めることにつながりますね。そして真理という大海は、不可知っぽいんで、知ろうとしても全てを知ることは難しいくらい広大無辺。
信仰を、こんな感じに不可知のもの、人智の及ばないものとかを信じることだと見ると、他者に対して、「彼はこのことを知らないが、私は知っている」という発想が生まれる余地はないです。せいぜい「彼の意見は合点が行かない。しかし私は真理の全てを知っているわけではない。彼の意見が真理に合致するか否かの判断は留保する」くらいしか言えない。
ようするに、人智を超えた神、広大無辺の真理を信じるならば、それは無知の自覚につながり、「あれが正しい」「これは間違い」「真理がわかった」「これは本物の宗教だ」とか簡単には言えなくなるんですよ。言えるのは、「自分はこう考えるけど……どうかな?」という程度ね。
でもKK信者はこれとは正反対ですよね。信者さんらを見ていると、KK信仰を持つ事で、「主を知った」「真理を知った」「私は真実を知っている。しかし彼は知らない」とか、そういう思考をするようになって行くみたい。
うーん。一口に信仰といっても、ここまで認識内容が真逆だと、なんか不思議ですね。
76
:
RANDY
:2006/10/15(日) 20:40:22 ID:1CLzTst.
>>74
は、「Y」が抜けちゃってるけど、「RANDY」です。
で
突然、話は変わって、
思い返してみれば、私は信者時代に、他宗教信者から、「あなたの信仰は、信仰というより、OR氏を崇拝しているだけだろ」と言われたことがあった。少々、グサッと来ましたね。
「崇拝してる」という指摘は、感情的には不愉快だったけど、当っていない事もないような気がしないでもないから、これが余計、悔しかったりした。
あと、ある友達は退会時に、「OR氏は、生き神様になった。俺は生き神様信仰はできない」みたいなことを言ってた。これは常識人としては当然の感覚なんだけど、面と向って言われるまで、うっかり忘れてましたよ。
信仰と崇拝のちがい。
この世のものでない未知の神を信じることと、この世を生きている人を現人神と信じることの相違。
感覚的にはこれらの違いは分かるつもりだけど、その差異について、言葉で上手く説明できないのがもどかしい。
77
:
100式
:2006/10/15(日) 22:01:33 ID:7ioI9NDE
>>74
結論が同じじゃあ困るだろうに・・・
前に進めんがな。
78
:
エートス
:2006/10/15(日) 22:17:22 ID:WFooZ.zE
>>74
RANDY氏
>>この世の常識とあの世の常識は違うんだが、〜〜
>この世の常識と、あの世の常識を別物と認めるのは、一寸危ないと思いますよ。
そうですね。100式氏によれば以下の行き着く先は同じということらしいが
>>修行により悟りを得る=人間完成の道→涅槃
>>念仏による信仰→浄土
この世とあの世の常識が違うとすれば、前者の道は閉ざされるでしょうね。
ところで100式氏はあなたをかなり痛いと評価しているんだが、わたしにはどこをとらえて痛いとなるのかが全く分からない。
ご自分の過去をよく振り返られて吟味されているし、退会されたKKに対しても是々非々の態度をとられているし、
感情に左右されないようによく自制されている。
痛いというのが信者にとって救済の対象なのかはわかりませんが、例のヤフーのリピーター氏などに対して、わたしなどは、
痛いを通り越してもはや痛々しささえ感じます。
79
:
RANDY
:2006/10/17(火) 21:33:24 ID:E8aO9yzM
100式 氏
>>77
>結論が同じじゃあ困るだろうに・・・
「困る」「困らない」じゃなくて、そもそも私の意見は、「悟りに応じた認識力」ということを確認してるだけだよ。_でも、とにかく説明方法を変えてみましょ。
①まず一般人は仏陀じゃないですね。ていうことは、一般人の認識はこうなるでしょ。
仏陀でない→無執着でない。執着がある→偏見・願望がある→正見ができない→目からウロコが落ちてない→「あばたもえくぼ」になる。または「えくぼもあばた」になるかも。
②不可知領域に関しては、こう。
不可知領域→人智を超えた理知の及ばぬ世界→客観的論理による認識の補正ができない→自己の偏見・願望による「あばたもえくぼ」になり放題。
100式氏の説く「信仰による認識」については、①より②に近くなるでしょうね。
仏陀でない人は→無執着でない→願望・執着がある→宗教によって願望・執着を満たす→「これこそ本物だ」と信仰する→「本物だ」と信じてる間は、理知による認識矯正は不可。
つまりは、執着を去ってない一般人の信仰には、多かれ少なかれ願望・執着などの不純物が混じってるわけ。
ということは、「信仰による認識」といっても、信仰の純度は、執着を去った程度_または悟りの程度によるのだから、結局は「悟りに応じた認識しかできない」と同じ事ね。
やっぱり本当の純粋な信仰、正しい認識は、無執着の仏陀にならないと難しいのかもね。
ただ私は、宗教にはちょっと痛い目にあってるのでね。無執着を目指す宗教的手法ではなく、自分の願望を自覚し、自分の認識の癖を知ることで、認識の精度を高める方が無難ではないかと思ってます。
>前に進めんがな。
100式氏は、「宗教選択に失敗した」という気持ちを持った事がないだろうけど、私は、それで苦い経験があるわけです。
だから前に進むためには、まずは真贋の認識というものをよくよく吟味したいんです。ていうか、私的には、認識について、ああだこうだ考えること事体が、一歩一歩前に進んでいる気もするんだけどね。
80
:
RANDY
:2006/10/17(火) 21:41:55 ID:E8aO9yzM
エートス氏
>>78
KK信者からすれば、私の姿はこう見えてるでしょうね。
退会←←脱落、下の方から引っ張られた。
理屈っぽくて、かつKKとは反対の結論を出す←←下からの指導、操作に気づいてない。
KK真理が分からない←←霊格低い。
OR氏批判←←仏陀を誹謗中傷してる。死後は……。
こんな見方からすれば、私はかなり痛いでしょうね。
あと「理屈」っていうのは、KKではご法度なんです。理屈を言うと、「理屈ばかりでは、誰も救済できない」「ぐるぐる回ってるだけ」みたいな感じで注意される。そうでなければ「毒矢のたとえ」で説教される。
理屈が多くて、KKを受け入れない場合は、「素直でない」と叱責されることもありますね。
81
:
100式
:2006/10/19(木) 21:30:38 ID:MuQvl5qo
RANDY氏
>>79
宗教に関する認識論で、不可知領域についてはっきりとさせないと、
困るのは君だろうってこと。
また、議論を前に進めることができないだろうってこと。
>>80
君の仏性はさぞかし痛み苦しみを感じているだろうに・・・
ってな意見だ。
続きはまた書く。
82
:
100式
:2006/10/19(木) 22:05:09 ID:MuQvl5qo
続き
>>79
認識を誤るパターンとしてはそのとおりだろう。
異論は無い。
人間は過ちを犯す生き物だ。
しかし、すべてに誤った判断を下すわけではないだろう。
良い方向を選び取り、進歩していくことも可能だ。
チョット前に心の指針「師弟の道」を引っ張り出したんだが、
アレは大正解だったと、我ながらおもたよ。
お、そうそう
ヤフーのひょうご氏の意見はどう思う?
アレに突っ込みを入れているのはジーク氏一人だったつーのも変な気がした。
引用すると、
>イエスを信じる事により争いの心が起こるならば、
>クリスチャンはイエスへの信仰を捨てて愛を取るのが本当なのです。
???
マジか???
その後2chに登場して、ケンカは好きらしいことがわかった。
正直、それでいいのかと思ったぞ。
83
:
100式
:2006/10/19(木) 23:16:48 ID:MuQvl5qo
追加
「師弟の道」は雑談スレの430ね。
どこに書いたか自分でもわからなくなって、探しまわしました・・・
84
:
RANDY
:2006/10/20(金) 20:26:33 ID:HozvnYVQ
100式氏
>>82
>ヤフーのひょうご氏の意見はどう思う?
特別な異論はないですね。
それより、Y、のやり取り見てると、100式氏は、自分なりの「信仰」の定義があったせいで、それにとらわれてしまい、ひょうご氏の文章読んで、????になったのかなあ。
KK式の信仰論を熱心に学びすぎて、「信仰は絶対に手放してはならない」とかの思いが強固なものとなり、ひょうご氏の説く棄てた方がいい「信仰」の意味合いを取り違えたとしたら、気の毒ですね。
でも、本当にガチガチになってるKK信者は、ネットしたり、退会者、アンチとの交流は避けるものだろうね。波動が悪いものには近づけないから。その点、100式氏はまだガチガチではなく、柔軟さはあるはずだね。
それとお節介かもしれないけど、ひょうご氏は、わざわざ100式氏に宛てて、説明してくれたわけだから、せめてその点については、今からでもお礼言っといた方が真理に適うと思うよ。
85
:
RANDY
:2006/10/20(金) 20:28:19 ID:HozvnYVQ
>>81
>不可知領域についてはっきりとさせないと、困るのは君だろうってこと。
前に書いたように、私の意見は、不可知は不可知としておく他はないってことですよ。だいち、はっきりさせられないから不可知なんでしょ。不可知について「これこれだ」と決めたら、出発点からして嘘になってしまう。
不可知の神についても、これと同様。本来、神は広大無辺で人智の及ばぬもの。それに対して、「神とはこういうもの」「神の意思はこうだ」と定義づけしたら、広大無限の神を人間の認識範囲内に小さくすることになる。
だいち「神はこういうもの」「コレが神の意思だ」とすると、必ずといっていいほど、それによって他者を裁くことにつながる。「それは神の御心に適わない」とか言ってね。
「神の御心は、人には解明できない」とするのが吉、と思います。
86
:
RANDY
:2006/10/20(金) 21:30:50 ID:HozvnYVQ
100式氏
>>83
>「師弟の道」は雑談スレの430ね。
コレだね。
↓
ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/6228/1142778535/430
>>84
の責任を取る意味でも、「わざわざ、どうもありがとう」とお礼を言います。
ただね。100式氏が期待するほど、私は感動できてないかもしれない。
正直言って私には、「師弟の道」の良さが分からない。
内容について、ちょっと突っ込みいれると、「無師独悟」は普通、有り得ないと思いますよ。人は、社会的環境で生きてるから、必ず他者から影響を受けるだろうし、自然界に学ぶということもあるからね。
たとえば、100式氏と私は、互いに批判し合ってるけど、どこかで互いに気付きの機会を与え合ってると思います。これはある意味、お互いに師となり、弟子となってるってことね。まあ100式氏は、「おれはあなたを師と思ってないよ」と言うかも知れないけど…。
今の私には、誰か特定の人物を自分のヒーローにするよりかは、出会う人、出会う本、過去の偉人とか、いろんな人、自然界のいろんなモノを師とする方が肩が凝らなくていいです。
87
:
100式
:2006/10/20(金) 22:55:37 ID:EApWnpKY
RANDY氏
>>84
???の部分を説明しとく。
信仰には本物の信仰と偽物の信仰がある。
偽物の信仰とは、自我我欲なんかが混じっているものだ。
>>79
の②で巧く説明してあるね。
ひょうご氏の見解は、ワシもおおむね賛成なんだよ。
つまり、愛を取れってのが真実の信仰、イエスを本当に信じることじゃないか。
イエスを信じることで争い心が生じるってのは偽物の信仰。
イエスを信じているようで何か間違っているのだと。
つまり、偽物の信仰を捨て、本物の信仰を持て!
これならば、十二分に話は通じる。
しかし、ああいう言い方は誤解を招くし、やはり言って良い言葉ではなかろう。
その後も問題を感じたわけで、
争いを捨てて愛を取れと言ってる人が、2chに喧嘩を買いに来る。
それでいいのかと心配したのさ。
ワシに対するレスも、さすがに喧嘩腰ではなかったものの、
挑発しとるんかいなと思えるような表現もちらほら見える。
本人には悪気は無いんだろうけどな。
あと、これにはびっくりした。
>100式くんは高校生くらい??
ワシは永遠の青年のつもりなんで、ここは素直に喜んでおこうか。
>>85
不可知領域とは真理の大海原。
全部わかったらそれこそ一大事だわ。
少しずつ少しずつ明らかにされていくものだろうよ。
>>86
アレに感動しろとかじゃなくて、非常に重要なテーマだと思う。
認識論において限界を突破するためのね。
88
:
RANDY
:2006/10/21(土) 20:45:36 ID:dw9OwPOY
100式 氏
>>87
>ああいう言い方は誤解を招くし、やはり言って良い言葉ではなかろう。
どうかなあ。噛み付いたのは、100式氏と他の人の二人くらいでしょ。大方には、意味は伝わってたと思います。
Yでは「信仰による闘争」を煽るかのような書込みが続いてたという状況もあったしね。
>争いを捨てて愛を取れと言ってる人が、2chに喧嘩を買いに来る。
私とは解釈違うね。私には、ひょうご氏の意見は、「無益な争いはしない。しかし、どうしてもやらねばならぬ時は覚悟を決めて立ち向かう」という具合に思えたよ。
そんで2chの件では、ちょっとした行き違いが判明したので、勘違いを率直に謝って手打ちになったわけでしょ。これは「やらねばならぬ時はやる。しかし無益な争いはしない」というポリシーには、反してないね。
>偽物の信仰を捨て、本物の信仰を持て!
これならば、十二分に話は通じる。
ここからは、ひょうご氏の話から離れて、
以下は、私の意見だけど、「本物の信仰を棄てよ」という教え、論理もありますよ。
まず儒教には、「孝」という徳目があります。これでは、親が間違ったことをしてる時、子は遠まわしに諌めることはできるが、それでも親が意見を変えなければ、それまで、っとなる。
具体例を出すとこう。
親「その宗教は偽物だ。止めろ」
子「偽物かどうかもう少し様子を見ましょう。世間では本物という評価もありますし_実はわたくしも、もしや本物! と考えております」
親「ならぬ。止めろ」
子「…分かりました」
ほらね。儒教的「孝」だと、「正しい宗教でも棄てよ」となる。でも多分、100式氏はこういうのは承服できないでしょうね。ではKK的に理屈をつけてみる。
子→信仰を棄てたくない→これは子の希望→与える愛は自分より他人を大事にする→「信仰を棄てたくない」という自分の気持ちより、「信仰を棄てよ」という親の気持ちを優先するべきだ→与える愛による棄教
ちなみに私は、家族からKK信仰を反対されても、ガンとして信仰を続けたけど、今にして思えば、親にいらぬ心配かけたし、あれは奪う愛だったと反省してます。だから私は、将来、何かの宗教を本物だと考えたとしても、家族とかの了解がなければ、入信はしないだろうなあと思います。
89
:
100式
:2006/10/21(土) 22:37:36 ID:M1dt4gc.
>>88
RANDY氏
もうチョットひょうご氏ネタ。
あの言葉は、いわゆる妄信狂信を戒める意図があったかと思う。
しかし、くどいんだけど、やっぱり言ってはいけない言葉。
いまどきこんな解釈をする人がいるのか知らんけど、
「イエスへの信仰を捨てよ」ってのは「地獄に落ちてしまえ」と同じ意味じゃね?
だから言うのなら「悔い改めよ」じゃないかね。
間違った解釈かもしれんけども、ワシからはそう見えるってこと。
人間、戦わねばならぬときがあるってのには賛成。異論無し。
個人の場合も、組織、国家などの場合でもあてはまると思う。
また、人間だから怒りに我を忘れることがあるってのも認める。
しかしこれは、瞋に支配れている状態だから、そのまま争ってしまうとヤバイ。
喧嘩っ早いってのはここら辺に問題があると思う。
心を鎮めて、冷静に行動せねばならないだろうな。
「無益な争いはしない、煩悩に支配された争いを戒める」
これならば異論は無い。
しかしなあ、ああいう行動は、自分はよいが他人はだめとか、
個人は良いが国家はだめとか、いろいろと誤解が生じるだろうよ。
あ、ひょうご氏は国家はだめと言うかも知れんな。
個人のことで組織は範疇でないならばそれでいい。
90
:
100式
:2006/10/21(土) 22:47:33 ID:M1dt4gc.
>>88
後半は妙な方向へと進んでおりますな。
真理と言えども選択肢は複数あるってことで。
91
:
エートス
:2006/10/22(日) 01:19:01 ID:8CGJQAgU
>>79-80
RANDY氏
>つまりは、執着を去ってない一般人の信仰には、多かれ少なかれ願望・執着などの不純物が混じってるわけ。
ここらはボディーサットヴァ氏が書いてますがY語るトピでも出ていますネ。
>無執着を目指す宗教的手法ではなく、自分の願望を自覚し、自分の認識の癖を知ることで、認識の精度を高める方が無難ではないかと思ってます。
世を捨てての出家僧侶のような立場でならともかく、無執着を目指すという目標の設定行為が、すでに無執着から遠ざけているように思いますね。
野にあっては常に自分をより深く知ろうとし修正をかける努力をすることしかないかなと。
仏教の場合「慈悲」がバロメーターでしょ。その結果行き着くところがどこになるかはお任せって感じですか、無執着とは。
結局、「KKこそ最高・最強」という、おおくの信者さんがふりかざす大前提も不純物の結晶なんでしょう。
>KK信者からすれば、私の姿はこう見えてるでしょうね。
これは卵氏が、立ち向かう人の心は鏡だと書いていましたが、こう思う信者氏ご自身の姿が鏡に映ってるんじゃないのだろうか。
>下の方から引っ張られて、下からの指導、操作に気づいてなくて、霊格低くて、仏陀を誹謗中傷してる。死後は……。
で、鏡に映った自分の姿にその信者氏は気が付いていない、という図でしょう。
>あと「理屈」っていうのは、KKではご法度なんです。理屈を言うと、「理屈ばかりでは、誰も救済できない」「ぐるぐる回ってるだけ」みたいな感じで注意される。
100式氏は、他のネット信者諸氏と比較すれば結構「理論(こねてみる)派」だとは思うけど、団体内ではそうでもないのかな。
>理屈が多くて、KKを受け入れない場合は、「素直でない」と叱責されることもありますね。
わたしなんかも信者だったとしたら四六時中叱責されてそうデス。w
92
:
エートス
:2006/10/22(日) 01:21:30 ID:8CGJQAgU
少しYなど静観させもらってましたが雑感です。
>>82
100式氏の以下の投稿、わたしは大正解だとは全く思えませんよ。
>>チョット前に心の指針「師弟の道」を引っ張り出したんだが、
>>アレは大正解だったと、我ながらおもたよ。
ひょうご氏の「争いのもとになるなら信仰は捨てる」という意見、RANDY氏の「不可知は不可知としておく」という意見、
どちらも意見なんですよ。つまり「自分の考え」ね。
100式氏はそれを「無師独悟」と否定的に意味付けしたいようだが、「師弟の道」とは自分自身の意見を持つことより教えられていることを素直に物差しとすることですよね。
「自分の意見ではないものを物差しとする」のは、自分の置かれた立場から「客観的態度」で語るか、あるいは自分の置かれた状況に完全に縛られ「主観的態度」で語るか、のどちらかになります。
いずれにしても対話の良識、対話の中道から外れるでしょうね。
対話における中道とは、自分と相手の立場を吟味し止揚して第3の視点を見出すことではなく、ましてや自分の正当性という前提を主張することでもなくてね。
自分の状況にとどまったままで、相手の状況をより理解しようとする二重の視点の獲得にある、と思います。
対話とは他者との対立が前提にあるわけで、そもそも自分でないものをそう簡単に理解することはできません。
共通して持っているはずの「仏性」を見ることが大切だ、と信者さんはよく言いますが、それは対話の基本的な態度である_差異を大切にすることの「しんどさ」_を消去あるいは回避しているように思えます。
93
:
エートス
:2006/10/22(日) 01:23:18 ID:8CGJQAgU
この好例が、Yトピでガマン氏がジーク氏に宛て書かれていた投稿でしょう。この二人に共通して知られているのは複数ハンドル使いでの確信犯という投稿姿勢ですよね。
そうした詐称や欺瞞を平然と吐露できてしまうのは、もともとお二人には対話の「しんどさ」を背負う気がない_つまり他者が存在してない_ということ。
そのガマン氏のコメントを少し引いてみますが
>>Yトピ 15876
>「理解を超えると人は拒絶を始める。」という教えがあったと思います。
この教えというのを肯定しつつ批評するなら、アンチという存在は彼らの理解を超えており、そのため彼らはアンチを拒絶しているわけです。
これはまさにジーク氏やガマン氏の「差異を大切にできない態度」そのものなんだろうと思いした。そして
>アンチになった方の多くは、自身の経験から理解出来る範囲を超えた段階で、拒絶側に入ったように考えると理解しやすいでしょう。
理解しやすい_という言葉が象徴するように、他者とは簡単に理解できるはずの存在である_ということになっている。
しかし、もちろん他者の本当の重みをしっかり受けとめているわけではないのです。
一方、引用は略しますが信者さんでも、若葉氏の念入りな相違点の確認作業(手続き論に傾斜しがちですが)や、たまご氏の慎重な歩み寄りの模索、地道な手探り、マンダム氏の憎悪や対立の感情を排して対話を続けようとする姿勢、などには好感が持てます。あと、ソングバード氏の法論を元にした落ちついた諫言入りコメントなどは、わたしには非常に好印象でした。
また、
>>86
でRANDY氏が書かれているように
>たとえば、100式氏と私は、互いに批判し合ってるけど、どこかで互いに気付きの機会を与え合ってると思います。これはある意味、お互いに師となり、弟子となってるってことね。まあ100式氏は、「おれはあなたを師と思ってないよ」と言うかも知れないけど…。
この営みが「他者を大切にする態度」から生まれる対話なんだろうと思います。分かる分からないの揺れが続くことなんでしょうね。
94
:
RANDY
:2006/10/22(日) 22:13:28 ID:8EYC8uak
100式氏
>>89
>くどいんだけど、やっぱり言ってはいけない言葉。
見事に、私とは正反対ですね。私は「別にいいんじゃないか」という感覚ですよ。イエスの改革も、「してはいけない」という枠を打ち壊すことだったし。
一神教の戒律って、神との約束だから厳守しなくちゃならないもん。でもイエスは、公然と、戒律より愛を優先した。ていうか愛こそが、もっとも重要な戒だとしたわけでしょ。愛がドッと押し寄せる時、宗教的タブーなんか消し飛んでしまった。
そういえば私がKKに魅かれたのも、宗教改革的な部分でした。KKの「既成宗教は形骸化してる。重要なのは心だ。心こそが全てだ」みたいな主張に共感したわけです。でもKKは段々そうじゃなくなったから止めた。この辺は、100式氏は異論があるでしょうけど、まあ私にはそう感じられたわけです。
>「イエスへの信仰を捨てよ」ってのは「地獄に落ちてしまえ」と同じ意味じゃね?
「神は愛なり」って言葉がありますよね。聖書の言葉だったか、KKの言葉だったか忘れたけど…。この定義から考えると、イエスを信じていなくても、心に愛があれば、神がそこにいることになりますよ。<神=愛>ならば、「心の中に愛」があれば、「心の中に神」があるわけです。
一方、神を信じていても、心に愛がなければ、心に神はいないわけです。
ということは、神とつながっているかどうかは、信仰の有無ではなく、愛の有る無しこそが重要だということになりますね。
>心を鎮めて、冷静に行動せねばならないだろうな。
そうすると、愛も小さくなるかも…。誰を念頭におくのでもなく、一般論として言うと、愛が大きい人は、感情量も多い傾向があります。したがって、愛が深い人ほど、カーッと来やすかったりする。
たとえば、イエスは愛の人だけど、決して常に穏やかな人ではないですよね。だから短気を矯正すると、感情も小ちゃくなってしまって、激しく強く全てを押し流すような愛の大河も、チョロチョロ流れる小川になってしまうかも。
あとKKでは、平静心とか、知で愛を制御するかのごとき教えがありますよね。でも現実には、愛が深ければ深いほど、知とかでコントロールできなくなりそうな気はしますよ。
かくすれば かくなるものと 知りながら
やむにやまれぬ 愛他行
って感じかな。イエスの場合も、多分、タブーをばんばん破ったらどうなるか、承知してたでしょう。でも愛の奔流が激しすぎて、どうにもならなかったんじゃなかろうか。私には、本当のところは分からないけどね。
平静心も大切だけど、そればかりだと、愛を犠牲にしてしまうかも_という話でした。
なんかいつも100式氏に異論ばかり書いちゃってるけど、この平静心は、私はわりとすきですよ。OR氏の、指導霊は老子とされてた平静心の講演とか、すきでしたね。しっとりした語り口のやつね。
ただ「平静心を大切にしてる」という信者さんに、支部長が「あなたのは平静心じゃない。愛の欠如だ」と叱ってたのを目撃してから、いろいろ考えてたことを書いてみた次第です。
95
:
初代
:2006/10/23(月) 07:25:39 ID:MkmmJJwM
>>94
RANDYさんへ
>私は「別にいいんじゃないか」という感覚ですよ。イエスの改革も、「してはいけない」という枠を打ち壊すことだったし。一神教の戒律って、神との約束だから厳守しなくちゃならないもん。でもイエスは、公然と、戒律より愛を優先した。ていうか愛こそが、もっとも重要な戒だとしたわけでしょ。愛がドッと押し寄せる時、宗教的タブーなんか消し飛んでしまった。そういえば私がKKに魅かれたのも、宗教改革的な部分でした。KKの「既成宗教は形骸化してる。重要なのは心だ。心こそが全てだ」みたいな主張に共感したわけです。でもKKは段々そうじゃなくなったから止めた。
これも以前に書いたかな。
KKは「宗教を超える」「宗教を統合する」と言って始まったが、いつしか「宗教で一番になる」と言い出し、現実には「一宗教に納まった」ということですよ。
ヤフーで話題の「お墓」の件に関しても、当初の主張は「お墓」も形骸化した既成宗教の一要素くらいに軽視していた。そう、「心」こそが全てだからね。
RANDYさんのおっしゃる通り、打ち壊すべき対象だったものに自らが成ったということです。今やKKは一神教で、厳守すべき特殊な戒律を持つ一宗教です。
八正道の前提にさえ、「正しい信仰」を据えたじゃない。こんなの普遍じゃないじゃない。
>>「イエスへの信仰を捨てよ」ってのは「地獄に落ちてしまえ」と同じ意味じゃね?
>「神は愛なり」って言葉がありますよね。聖書の言葉だったか、KKの言葉だったか忘れたけど…。この定義から考えると、イエスを信じていなくても、心に愛があれば、神がそこにいることになりますよ。…一方、神を信じていても、心に愛がなければ、心に神はいないわけです。ということは、神とつながっているかどうかは、信仰の有無ではなく、愛の有る無しこそが重要だということになりますね。
ここに普遍を追っているのか、そうでないのかの差がキッチリ出ていますよね。
もちろん、昔の方がレベルが高かったってな話に流していこうとしているわけではありません。
ただね、今のKKは、どこにでもある宗教…カルトでもいいか…と特に変わらぬ構造をしているし、そこいらへんに集う程度の頭を持って十分参加可能ってことです。
掲示板で光っているヤツらと、それを緩く囲おうとするヤツらを見ていれば判るでしょ。
96
:
100式
:2006/10/25(水) 23:03:33 ID:5D5CQRU2
>>92
エートス氏
>100式氏はそれを「無師独悟」と否定的に意味付けしたいようだが、「師弟の道」とは自分自身の意見を持つことより教えられていることを素直に物差しとすることですよね。
師というのは我々にとってはエル・カンターレですけれども、普遍的な神、真理、法則等に考えても良いと思います。
信仰心は認識を拡大し、より高次の理念が受け入れられるようになる。
私はこんな感じに捉えています。
無師独悟と否定的に・・・でなくて、信仰心のことを言っているんですよ。
自らの認識を拡大していくことが可能なのって感じ。
求め続ければ
97
:
100式
:2006/10/25(水) 23:04:57 ID:5D5CQRU2
↑
>>96
最後の2行は削除し忘れ出ございます。
申し訳ありませぬ。
98
:
100式
:2006/10/25(水) 23:18:02 ID:5D5CQRU2
>>94
RANDY氏
97年の映画だったんだけど「コンタクト」ってのがあった。
ttp://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD30178/
詳しいあらすじはこっち
ttp://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD30178/story.html
あらすじには書いてないけれども、エリーが選考に落ちた理由が、
「信仰を持たない人を、人類の代表として送るわけにはいかない」
というものだった。エリーは不可知論者だったんよ。
ここで何が言いたいのかというと、要するに、
信仰を持つことが、人間としての条件じゃないかと、そんなメッセージだと思う
捨てちゃイカンよって考える人が、アメリカには大勢いるんだろうなと。
99
:
100式
:2006/10/25(水) 23:39:23 ID:5D5CQRU2
>>98
の続き
ローマ帝国の国教になってから、キリスト教は世界中に広がっていった。
16世紀の日本にも、フランシスコ・ザビエルって人が来て熱心に伝道された。
山口にザビエル記念聖堂ってところがある。
ワシはそこでクリスマスに賛美歌を歌ったことがある。
いや〜気持ちいいよ。あの荘厳な雰囲気は。
話がそれた。
世界中に広がっていったキリスト教なんだが、伝道はシンプルだったと聞く。
「イエスを信じることで救われる」
ザビエルも多くは語らなかったらしい。つーか、短期間で日本語をマスターできんし。
この救われるってのは、死後天国にいけるってことね。信じないと地獄行き。
これがイエス信仰の核心だろうと思う。イエスを信じることで救われるのだと。
クリスチャンはこのように信じているんだろ?
いろいろあるんだろうけれども、一言で表すならこれだろ?
ザビエルは、このことに確信を持って伝道されていたと聞く。
さて、ワシはクリスチャンではないんで、これから先は想像で語る。
「イエスへの信仰を捨てろ」ってことは「地獄に落ちろ」ってことではないのか?
こういうことを簡単に言えるってのは、実はイエスを信じてないってことではないのか?
幸福の科学の教義に関わらず、こんな風に考えるわけだ。
クリスチャンがそんなことは無いって言うのならいいけどね。
100
:
RANDY
:2006/10/26(木) 20:02:54 ID:5InsqgOk
100式
>>98
>信仰を持つことが、人間としての条件じゃないか
うーん。私は、サヨク的人権派ではないけども、内心の自由は尊重した方が良いと思う。
>エリーは不可知論者だったんよ。
米映画だし、最後は、ハッピーエンドかな。もしそうならエリーが不可知論者で、人類代表に選出されなかったのも、みんな神の導きっていう見方も可能かもしれませんよ。
ところで、この前テレビでみた映画はこんな内容でした。主人公(ハリソン・フォード)は妻が悲惨な事故死を遂げたことで信仰を失った。しかしその後、宇宙人の侵略やら何やらがあって、妻の死とか、この世の不条理が、神の遠大な計画の一部であり、すべてはなるべくしてなったのだと悟り、信仰を取り戻し、宇宙人も撃退し、めでたしめでたし。そんな感じのあらすじだったと思う。
スティーブン・キングの小説にも、この世の悲惨は、人には不合理に思えるけれども、実は神の遠大な計画の一部だった、みたいな感じのはいろいろあるね。『ザ・スタンド』とかそんな感じが濃厚だった。あと題名は忘れたけど、台地の下に、触ると頭がおかしくなる小さな人形が一杯埋まってる話も、そんな雰囲気の話だった。
私は単純だから、こういう小説、映画を見ると、信仰者、無神論者とかそういうのは、みんな神の御業かな、と思ったりしますね。だから信仰者を信仰者として_無神論者を無神論者として固定的に見ない方が得策かなという気もします。
だって信仰者も、無神論者も、永遠にそのままなのじゃなく、変わって行くものだからね。そして変わる時期については、神が絶妙のタイミングを容易してる。
こういう考え方は、運命論的なんで嫌いな人は嫌いでしょうけど、この見方だと、「カルト信者だからダメ!」「唯物論者だからダメ!」みたいな考え方は回避できそうではある。カルトでも唯物論でも、その人にとっては、それが必要な時期だから、それに凝ってるのだろうからね。
蛇足ながら、私は今でも時々、KK信仰を失った頃に、こういう考え方を知ってたらなあ_と思ったりしてます。だってアノ頃は、KK信仰を失ってるのに、「信仰を手放してはだめだ!」と執着してたからね。
「神様はその人にとって信仰が必要なときは信仰を_無神論が必要な時は無神論を与えるだろう」という風に神を信頼できてれば、あんなに葛藤しないで、もっと自然体で、のんびりKK離脱ができたはずでした。
私はこの意味で、信仰の保持にこだわるのは、見方によれば、神を本当には信頼してないことになると思いますよ。
101
:
RANDY
:2006/10/26(木) 20:04:53 ID:5InsqgOk
100式氏
>>99
>イエスを信じることで救われる
イエスを信じるか否かで、天国、地獄が決まるっていう考え方に、納得しない人たちが大勢いたから、煉獄っていう考え方が出来たんだと思いますよ。
>「イエスへの信仰を捨てろ」ってことは「地獄に落ちろ」ってことではないのか?
大勢のクリスチャンの中には、そう解釈する人もいるかもしれませんね。ていうか、100式氏には、クリスチャンに仮託して、自己の意見を述べるのではなく、できれば普通にストレートに自己の意見を自己の意見として述べて欲しいです。その方が話しがややこしくならないから。
>こういうことを簡単に言えるってのは、実はイエスを信じてないってことではないのか?
それは結論を急ぎすぎに見えますよ。実際のところは、ひょうご氏の信仰観と、100式氏との信仰観に相違があるだけじゃないのかな。
だから、ひょうご氏は、100式氏的な信仰はないのだろうけど、ひょうご氏的信仰はあるんだと思います。
ここでは結論を急がずに、まずは上の方でエートス氏が書いてるように、互いの信仰観の差異を、あぶりだせたらいいんじゃないかな。
102
:
RANDY
:2006/10/26(木) 20:07:01 ID:5InsqgOk
あれ!?
>>100
に「氏」が抜けてますね。
100式氏、ごめんね。
103
:
100式
:2006/10/27(金) 20:19:39 ID:RyuHlhbo
RANDY氏
>>102
気にせんでいいです。ワシはそういうのに無頓着。
>>100
>内心の自由は尊重した方が良いと思う。
たしかに、現代日本の人権思想からすれば、差別的な発言にも聞こえるね。
内面の自由は尊重すべきだと、ごもっともなんですが、
KK的にダメなのは御存知だと思うけど、アメリカでもそういう考えを持つ人が多いんじゃないかってこと。
進化論を教科書に載せない運動とかあるらしいしね。
この映画では「良識ある人間として推薦できぬ」と、そんな感じかな。
こういうものさしもあるのだと認識すればOKじゃないだろうか。
>もしそうならエリーが不可知論者で、人類代表に選出されなかったのも、みんな神の導きっていう見方も可能かもしれませんよ。
ここがポイントなんよ。
エリーは「マシン」に乗って銀河中心へワームホールを通って旅をする。
そこで見聞きしたことを正直に報告するんだけれども、誰にも信じてもらえなかったわけ。
「マシン」って言うのは移動する球状の搭乗部分と、ワームホールとつなげる為の動力部分とに分かれていて、エリーの乗っていた球体は、落下の途中でワームホールに入り、銀河の中心まで行ってまた戻ってきたんだけれども、同じ時間、同じ場所に帰ってしまったんだ。
そして、エリーの持っていたビデオカメラにも何も写っていなかった。
つまり、周りの人からは、「マシン」は失敗、単に落下しただけで、
エリーはウソの報告をしたと、そう認識されてしまった。
霊的世界、神秘的なものに対しては信じない不可知論者自身が、逆に、
不可知領域に放り込まれてしまう・・・ってこと。
な、今、ワシらが語っているテーマにピッタリだろ?
霊的世界、仏神の世界について信じてもらうことの難しさをもあらわしているとおもたよ。
さて、無神論や邪教を信じてしまって、霊界に帰ってから本物に気がついたとする。
そこでスルリと心を入れ替えることができるのか?ってことだろうな。
普通に考えて難しいぞ。簡単にできないから地獄があるんだろ?
自己責任だと納得できるのか?普通は無理。
だから、生きているうちに真理に目覚めなさいと、そう言われている。
いろいろな宗教・思想がある。正しいもの、間違っているものが混在している。
その中で何を選ぶかは自分自身であって、仏神が決めるのではない。
自分自身の選択に対しては、自分自身が責任を負うしかない。
で、これは個人レベルで何を選択するかの話。
つまり、間違ったものがゴロゴロしているという環境があるわけで、
こういう環境を作り出しているのは誰だ?
と、そう考えると、これもまた神の計画なのかと、そう考えるしかないわけで、
では、悪をなすひとは自業自得で、貧乏くじを引いたかに見えるけれども、しかし、
そういった役目を果たしている人があるから、この地上世界が修行の場として価値がある。
わしの考えはこんなところ。
104
:
100式
:2006/10/27(金) 20:37:51 ID:RyuHlhbo
RANDY氏続き
>>101
煉獄って言うのは、
イエス生誕まえの先祖はどうなるのか?地獄行きなのか?
という疑問に対して考え出されたものって聞いたよ。
地獄と天国の中間だったかね。
>普通にストレートに自己の意見を自己の意見として述べて欲しいです。
ワシの意見は、
「それは言っちゃイカン!イエスの救いを信じている人に向かって、それを捨てろなんて・・・マジかよ!!」
ですが、クリスチャンが良いなら良いんです。ハイ。
>信仰観に相違があるだけじゃないのかな。
どうもそのようで、ひょうご氏がイエスの説く愛の教えを手放すことは無いってのは確信した。
ワシとしては、ひょうご氏に、
「これが真のキリスト信仰だ!!!」
ってな感じでむか〜しの森田健作みたいにがが〜っといってほすいという願望はある。
105
:
100式
:2006/10/27(金) 22:09:39 ID:RyuHlhbo
>>104
自分で読んでわかりにくい。
①KK的にはだめ。周知の事実なんで省略してる。
②クリスチャン的にも
>>104
のように考えるんだが、クリスチャンの人どうよ?
これですっきり。
106
:
RANDY
:2006/10/28(土) 22:00:38 ID:TkLBDy3Q
100式氏
>>103
>進化論を教科書に載せない運動とかあるらしいしね。
文章のニュアンスからすると、100式氏はこういうのに共感してるみたいだけど、OR氏や他の会員らも賛同してるのでしょうか?
>この映画では「良識ある人間として推薦できぬ」と、そんな感じかな。
向こうには、「宗教信者はその宗教に則った言動をすると推定できるが、無神論者は何を基準に行動するのか定かでないから油断できない」という感覚はあるらしい。
また統治者からすれば、下位にあるものが何らかの宗教信条を持つ方が、その者を理解し易いでしょうね。
>こういうものさしもあるのだと認識すればOKじゃないだろうか。
はい。
>霊的世界、神秘的なものに対しては信じない不可知論者
霊とかを信じないのは、不可知論じゃなくて、無神論、唯物論とかじゃないかな。不可知論は、そういったものがあるか、無いかは分かりようがないという立場だと思う。
私は現時点では、霊とかそういうのはよく分からないと思うから、多分、不可知論的立場なんでしょうね。ただ宗教関連の本と、唯物論的立場の本とか比較すると、観念論は分が悪い感じはしますね。
>霊的世界、仏神の世界について信じてもらうことの難しさをもあらわしているとおもたよ。
映画の話からは離れるけど、テレビの心霊番組とかが終わらないことを見ると、そういうのを信じてる人、興味ある人は結構多そうですよ。
また、よく聞くのは、亡くなった肉親が、今も自分を見守ってくれてるという話。この類の話は、普通の生活の中で、さほど違和感なく話されてますし、どっちかっていうと美談扱いですよね。
こういうことを考えると、一般人は、霊、仏、神を信じないのじゃなくて、宗教団体を信じないのだと思います。
>無神論や邪教を信じてしまって、霊界に帰ってから本物に気がついたとする。
そこでスルリと心を入れ替えることができるのか?
霊界では、思想宗教とかあんまり関係ない_という気はしますよ。たとえば夢の中では、深い思索とかできないことが多いですよね。考えるには考えてるけど、とりとめのない考えしか浮かばなかったりしてね。
霊界も、夢の中と同じで、思想宗教とか脱ぎ捨てられてしまって、理性とかも剥がれて、むき出しの自分が表出されるのかも。そしたら思想、宗教とか、あまり重要じゃないことになりそう。まあ実際のところは分からないですけどね。
でも思想、信条、信仰とかって、わりと変わりやすいものだし、自己の意思である程度操作可能だから、結構表面的なものにすぎないのじゃないかな。もっと深いところを探る必要があるような気はします。
107
:
エートス
:2006/10/29(日) 00:52:49 ID:1sJmVvEg
>>96
100式氏
>師というのは我々にとってはエル・カンターレですけれども、普遍的な神、真理、法則等に考えても良いと思います。
とは言ってもエル・カンターレ=普遍的な神、真理、法則なんですよね。で、後者の許容範囲はエル・カンターレとの整合性がなければならない。
それとも、初代氏も書かれているように、「世界宗教を超える、統一する」から「宗教で一番となる」から「一宗教に納まった」という流れに対応すると
エル・カンターレとは one of 普遍的な神、真理、法則で納まったということになるのでしょうか。
ニーチェを普遍的真理とみなす人も多いですがそれはバツなんでしょ。
>信仰心は認識を拡大し、より高次の理念が受け入れられるようになる。
>私はこんな感じに捉えています。
このより高次の理念という意味ですが、より高次というのはどのような意味でしょうか。
例えばプラトンはヘーゲルより高次なのかそうではないのかなどというのは判断ができないように思えますが。
あるいはピカソとミケランジェロはとかね。w
108
:
エートス
:2006/10/29(日) 00:54:58 ID:1sJmVvEg
>>99
100式氏
>この救われるってのは、死後天国にいけるってことね。信じないと地獄行き。
>これがイエス信仰の核心だろうと思う。イエスを信じることで救われるのだと。
普遍性>宗教ということになるでしょうね。
「仏を誹謗することは地獄への特急券だじょー」というKK信者さんがいるように、
「イエスを信じないと地獄が待っている」というキリスト教徒がいるというのは。
もう少し言うと、精神的な自立度がその人の信仰の在りようを左右するんじゃなかろうか。
>「イエスへの信仰を捨てろ」ってことは「地獄に落ちろ」ってことではないのか?
>こういうことを簡単に言えるってのは、実はイエスを信じてないってことではないのか?
以前初代さんの本棚で紹介したことがあるんだけど、東大の先生だった荒井献ね。
新約聖書の研究者で牧師の父上を持つクリスチャン。日本でのグノーシス研究の第一人者で超優秀な人。
その人にこんな言葉がある。
「しかし私の信仰が、聖書を分析していくことによってぐらぐらすることもあります。何か自分の根っこを白日にさらけだして、結局は枯らしてしまうのではないかという危機感は常にあります。
でもゲーテのような人でも「永遠に迷う」と言っています。だから私のような者はもっと迷っていいのではないか。
地獄に落ちてもやることはやる。それが知と信の間にダイナミックスを生み出してくれるなら。あまりに信に固まってしまうよりはよいと思います。」
で、この人はこんなことも言っていますね。
「信仰を持たない人が聖書研究をするようになってきているが、どうしてできるのか不思議でならない」とも。
まー私は「イエスを信じないと地獄に落ちる」という人を真のキリスト教徒だとは思わない。
弟子たちに祈りの方法を請われてイエスが答えたといわれている「主の祈り」を心から捧げられる人がキリスト教徒だろうね。
109
:
初代
:2006/10/29(日) 08:47:51 ID:8bljszpA
>>106
RANDYさん、100式さんへ
進化論者・初代です。
>>進化論を教科書に載せない運動とかあるらしいしね。
>文章のニュアンスからすると、100式氏はこういうのに共感してるみたいだけど、OR氏や他の会員らも賛同してるのでしょうか?
KKは、明確にダーウィンにダメ出しをしています。そこで、反進化論の動きは何であれ基本的に好ましいと捉えるでしょう。
キリスト教国アメリカでは、昔から一部に反進化論の動きがあるのはそうですね。
一方1996年10月13日、カトリックのローマ法王ヨハネ・パウロ二世は、ダーウィンの進化論を認める見解を法王庁科学アカデミーに寄せた書簡で明らかにしました。
事はそう単純ではないよ。
KKのそれはというと、“独自”の創造論的進化論ですからね。
「種は個別に創造された」としていても、「肉体(この世の乗り舟)の進化」〜「魂としての進化」〜「転生に伴う種の乗り換え」、また創造主や時期についてキリスト教と相容れるはずはありませんから。
「進化論」対「創造論」という単純な図式にはならないよ。
クリスチャンとKK信者の話が続いていますが、KKがキリストの教えを内包しているとしているのはKK教義ですからね。
110
:
RANDY
:2006/10/29(日) 20:28:52 ID:KG8/MNCI
初代さん
>>109
実は、私が興味を持ってるのは、特定の宗教教義を、法律によって、教団外の一般人にまで強制することをどう考えているか、という点なんです。
宗教が、反進化論を唱えて、信者らがそれを信じてるうちはまだいいです。
反進化論を、社会に向けて主張するのもいい。
でも「一律に、どこの学校でも進化論を教えちゃならん」という発想まで行くと、「おいおい一寸待って!」と言いたくなります。
多分、100式氏は、
>反進化論の動きは何であれ基本的に好ましいと捉えるでしょう。
てな感じで何の気なしに発言してるだけでしょう。
でも私としては、そんなにあっさり原理主義的やり方に共感しちゃっていいのかな?
という気がするんですよね。
111
:
初代
:2006/10/30(月) 18:31:37 ID:5MKObHQo
>>110
RANDYさんへ
ダーウィニスト・初代です。
>私が興味を持ってるのは、特定の宗教教義を、法律によって、教団外の一般人にまで強制することをどう考えているか、という点なんです。
これについては、「科学」か否かを基準にして考えればいいのではないかと思いますよ。
天動説・地動説と同じですね。「説」が(時代的制約はあれど)科学的根拠に依っておればよしと。
創造論・進化論にしても、その「論」がその時代の科学の最先端で、如何に評価されるかで、教科書なんかには載せられるということで。
KKでは「恐竜と人類は同時代に生きていた」「ムー、アトランティスという大陸で栄華を極めた文明があった」等の歴史観があるわけですが、それらのことが現時点で教科書に載ることはありませんよね。
>多分、100式氏は、
>>反進化論の動きは何であれ基本的に好ましいと捉えるでしょう。
>てな感じで何の気なしに発言してるだけでしょう。
おそらくそのレベルかと。「進化論」と名の付くものは、とりあえず×ということでの反応でしょう。
進化論は多岐に亘っており、その主張するところは、もちろんひとつではない(真向対立するものもある)ということが、ひとつ。
もうひとつは、KKが主張するそれは、“独自”の創造論的進化論であるということ。
ローマ法王の表明などは、現代のダーウィン評価を表した出来事かと。「自然淘汰」というアイデアの優位性が示されたひとつの例じゃないでしょうか。
繰り返しますが、KKは「ダーウィンは地獄に堕ちた」としています。しかし、KKの創造神話は、ある種の進化を認めている。大雑把にいうと、進化の原動力を「自然淘汰」ではなく、「意思」においている。そうですね、「ウォレス」「定向進化」「今西進化論」等の古い時代の進化論に近い。
簡単にいえば、こういうこと。カトリックは、ようやくダーウィニズムを評価せざるを得なくなった。KKはというと、時代遅れの進化論を支持している。
112
:
初代
:2006/10/31(火) 07:44:25 ID:syOR9A6k
>>111
>KKでは「恐竜と人類は同時代に生きていた」…KKの創造神話は、ある種の進化を認めている。大雑把にいうと、進化の原動力を「自然淘汰」ではなく、「意思」においている。
通説では、爬虫類である恐竜の絶滅後に哺乳類の天下が始まる。もちろん、人類の登場は遥か後になってのこと。
繰り返しますが、KKは進化を完全に否定しているわけではない。理念による創造を根本に、現象としての一部進化を認めている。
最初期の小冊子『生命と科学』に、このような記述がある。
「ネズミならネズミとして長年転生を繰り返しているうちに、そのうちの一部が霊的に進化してきて、もはやネズミの体内に宿ることによってはこれ以上の進化が望めなくなったとき、霊界において、こうした一群の魂に対して、今度はウサギという新種の動物を地上に創るという天命が賦与されることがあるのです。こうした魂が母ネズミの体内に宿って一群となって地上に出てくると、ネズミにしてはややおとなしくて、敏しょうで、少し耳の長い新種の肉体が多数地上に出てくるのです。こうしてウサギになりかかったネズミが一団となって地上に出て、そのうち共同生活を始めるのです。やがて、何世代か繰り返すうちに、もはやネズミではなく、完全なウサギの肉体へと変わってゆきます。このようにして出現した動物もあります。」
たとえば、ネズミからウサギへの中間種を経ての生物進化を認めている。しかしもちろん、それは「自然淘汰」が原動力ではなく、ウサギありきという「理念」だというわけです。それでも、生物の“この世での”生存自体にも意味を持たせている。
小さいレベルでの進化を認めつつ、基本的には創造(現象化)です。既に、霊的に人間は金星で創造されており、地球での新たな創造は魚類・両生類・爬虫類だそうです。
『新・太陽の法』に興味深い記述があります。「エル・カンターレは、自分の創造した高級人類の子孫たちに、指導者としての経験を積ませるためには、類人猿たちより進化した生物を生活させ、それらを訓育・指導させる必要があることを感じました。」
即ち「ネズミ→ウサギ」同様、類人猿についても、地球上の生物進化の過程で至らせていた…と。
まあ何れにしても、通説の進化系統図とは全く異質なものとなります。
>KKが主張するそれは、“独自”の創造論的進化論であるということ。
113
:
初代
:2006/10/31(火) 18:11:59 ID:Qk.IZw7.
>>112
>類人猿についても、地球上の生物進化の過程で至らせていた
これは読み違いのようです。
お詫びして、訂正します。
地球上での話ではなくて、別の惑星上での話のようですね。
『太陽の法』の改訂は、主に「高橋信次」部分がメインでしたが、別に「創世」に関する部分の書き換えが非常に興味深かった。
旧版では、地球に人類を誕生させる前、通説の進化系統図に外れない順序で生物を創っていき、いよいよ人類となったのですが類人猿程度のものしか創れず、他の惑星から人類を導入したとされていた。
これが新版になると、人類の創造に成功。その後…
>エル・カンターレは、自分の創造した高級人類の子孫たちに、指導者としての経験を積ませるためには、類人猿たちより進化した生物を生活させ、それらを訓育・指導させる必要があることを感じました。
…ということで、他の惑星からも人類を導入した、となった。
旧版の方が、進化系統図に逆らわないように出来ていたのだが…。といっても、どちらもトンデモはトンデモなんやけどね。
114
:
初代
:2006/11/01(水) 07:39:41 ID:qE34bVHQ
>>111
>KKは「ダーウィンは地獄に堕ちた」としています。
念のため正確な記述を。
『新・黄金の法』によると…
「この思想(唯物主義的無神論)の一方の極だったのは、ダーウィンであり、『種の起源』という著作に表われた進化論でした。こうして、人間は、アメーバから進化してきた偶然の産物にまで落ちぶれてしまったのです。ダーウィンは、決して偽善的な人ではありませんでしたが、その思想的誤りによって、人々を無神論に導いた罪を自ら良心が恥じ、現在、地獄のなかの無間地獄で反省を重ねております。」
…ということです。
「落とされた」というより「自ら赴いた」というニュアンスですか。
進化論全てがダメだといっているわけではなく、特に「自然淘汰」と「思想的影響力」を問題にしているわけですね。
>KKが主張するそれは、“独自”の創造論的進化論
言葉がちょっと変でした。
「有神論的進化論」でいきましょう。
115
:
100式
:2006/11/01(水) 21:04:08 ID:FjlkBBFY
RANDY氏
>>106
>100式氏はこういうのに共感してるみたいだけど、OR氏や他の会員らも賛同してるのでしょうか?
信仰の篤い人は、仏神の存在を確信している。
ということは、無神論・唯物論は悪に見える。
自分の子供に教えてほしくないというのが人情だろうね。
我々がああいう運動をしようって言うんじゃなくて、ああいう運動も出てきて当然といった感覚かな。
KKとしては、霊的価値観を広めていくことで、ああいう思想が淘汰されていくだろうと、
そんな感じではないかと思います。
>一般人は、霊、仏、神を信じないのじゃなくて、宗教団体を信じないのだと思います。
これだけいろいろな宗教団体があって、それぞれに相応の信者がいるというのが現実なんで、
宗教(団体)を信じる人とそうでない人と二分されてるって感じでしょうか。
統計的にはどうなのかわかりませんが、そう思いますよ。
また、いわゆる邪教が多いというか、目立っているんで、宗教に対する偏見が強い傾向はあると思います。
>霊界では、思想宗教とかあんまり関係ない
いや、霊界こそ、宗教思想が仕切っている世界ですよ。
>でも思想、信条、信仰とかって、わりと変わりやすいものだし、自己の意思である程度操作可能だから、結構表面的なものにすぎないのじゃないかな。
では、こういうのはどうでしょう。
仮にですよ。仮に。
総裁先生が偽物の仏陀であったとします。
ということは、悪魔の思想を説かれていることになります。
私はというと、その悪魔の思想を信じ、インターネット上で広めています。
リアルでもやってます。私が伝道した人はすべて魔に憑依されて不幸になるのです。
地獄行き確定です。間違いありません。
で、はっきり言いますけど、
自分の行為がその要因なら、反省のしようがあります。
たとえば、嘘つきだったとか、不倫してたとか、教団のお金を使い込んでいたとか、
そんな事実をうじゃうじゃと照魔の鏡で見せられた日にゃ、小さくなって地獄に行くしかありません。
しかし、信じていた思想そのものが間違っていたという理由ならば、
自分が正しいと信じて行っていたことがすべて悪だったと、霊界に帰って知らされたとしても、
とても納得が行かないと思います。
自分の心を修正するのに何百年かかるのか、考えるだけでも気が遠くなりますよ。
つまり、心の中で深く強く確信していることを変えるのは、とにかく難しいってことです。
>>110
>そんなにあっさり原理主義的やり方に共感しちゃっていいのかな?
多くの人に信じてほしいわけで、法で強制的に広めるような考え方はありません。
116
:
100式
:2006/11/01(水) 21:39:24 ID:FjlkBBFY
エートス氏
>>107
>エル・カンターレとは one of 普遍的な神、真理、法則で納まったということになるのでしょうか。
地上で活動されているわけで、そのように見えるのは仕方ないと思います。
本質的にはそうじゃないんで、これを理解するにはちと次元の壁を突破しないといけないのでしょう。
>ニーチェを普遍的真理とみなす人も多いですがそれはバツなんでしょ。
×ですw
>信仰心は認識を拡大し、より高次の理念が受け入れられるようになる。
>私はこんな感じに捉えています。
>このより高次の理念という意味ですが、より高次というのはどのような意味でしょうか。
7次元の方なら8次元、8次元の方なら9次元。
プラトンはヘーゲルの過去世。ミケランジェロはピカソの過去世。同じじゃん。
>>108
>普遍性>宗教ということになるでしょうね。
そう思います。宗教とは普遍性の一部。
>「仏を誹謗することは地獄への特急券だじょー」というKK信者さんがいるように、
これは人々を救わんとして地上に降りられた仏陀、救世主、預言者等の方を誹謗中傷することは、
そりゃ地獄行きですがなってこと。幸福の科学限定ではありませぬ。
>「イエスを信じないと地獄が待っている」というキリスト教徒がいるというのは。
これは「イエスを信じることであなたの魂は救われる」と、相手の幸福を確信して言っている言葉で、
では信じないとどうなるんですかというときに「地獄に落ちます」が出てくる。
上とはちと違うと思います。
>もう少し言うと、精神的な自立度がその人の信仰の在りようを左右するんじゃなかろうか。
中世には「信じることで救われる」と言った風な素朴な信仰で伝道していたようだし、
それで宗教が普及したことは事実で、その功績は大きいと思います。
仏教では他力門がこれにあたると思います。
近代以降はそういう単純な真理ではうまくいかなかったようです。
>東大の先生だった荒井献ね。
この人の話は良くわかりました。「どうしてできるのか不思議でならない」ってのには禿同。
ワシとしては、「信仰を捨てろっていうのは酷いと思った」ということです。
117
:
100式
:2006/11/01(水) 21:44:43 ID:FjlkBBFY
初代さん
ワシ、コメントすること無いw
118
:
RANDY
:2006/11/04(土) 12:35:15 ID:.fMV5w1s
100式 氏
>>115
>自分の子供に教えてほしくないというのが人情だろうね。
はい。その心情は理解します。でもね。親は親、子は子だからね。中高生くらいになったら、様々な思想宗教を教えて、子ども自身に主体的に選択させてあげたい気もします。
そういえば以前、釣りしてたら、幼稚園児二人が見物に寄って来たことがありましたよ。小ゴイが釣れたので「この魚、誰がつくったと思う?」と問うたら、二人声を合わせて「かみさま!」と言ってた。質問の仕方が、誘導尋問っぽかったけど、なかなか微笑ましかった。でも幼児ならこれでいいけど、中高生がこんな答えをしたら、ちと複雑ではある。
>KKとしては、霊的価値観を広めていくことで、ああいう思想が淘汰されていくだろうと、そんな感じではないかと思います。
進化論は、価値観、思想というよりは、現実だという感じはしますね。
>邪教が多いというか、目立っているんで、宗教に対する偏見が強い傾向はあると思います。
一般人からすると、宗教の正邪だけじゃなく、宗教に凝ってるか否かという基準もありますよ。一般人には、オタクはキモイという公式があるように、宗教に凝ってる人はキモイという感覚がある。これは理屈じゃなくて、感性だから、変えるのは中々難しいかも。
>霊界こそ、宗教思想が仕切っている世界ですよ。
現実の夢は、宗教思想のタガが外れてしまう事は多いですよね。倫理道徳さえも希薄になってしまうこともたびたびある。少なくとも私は夢の中で、正心法語を唱えたことは無い。←これが私の実感ね。
一方、KKは夢と霊界を関連付けてます。霊夢とか。_だからコレに則って考えると、夢の中では宗教思想を忘れ気味なんだから、霊界でもそうかも_と推論できるわけです。
もし100式氏の言うように、霊界こそ宗教思想が仕切ってるならば、夢と霊界はリンクしてないことになり、KKの霊夢という考え方は否定されるかもしれませんね。
>〜つまり、心の中で深く強く確信していることを変えるのは、とにかく難しいってことです。
信仰について、こういう意見があります。「人は、宗教思想によって、人生の意義を見出し、心の平安を得る。この平安、幸福感こそが目的であり、宗教思想はその手段である」
この指摘から考えると、「これこそ本物の宗教だ」と確信してる状態は、表面意識の働きが主で、(この宗教によって自分の劣等感、葛藤を癒せそうだ)という無意識の動きに気付いてない状態であるとも言えそうです。
これを直視すれば、宗教思想から自由になるチャンスになりそうだし、また私が、宗教思想は心の表面の動きにすぎないじゃないかというのは、この意味でもあります。
119
:
RANDY
:2006/11/04(土) 12:36:47 ID:.fMV5w1s
話のついでに、貼っとこかな。印象としては、KK教義は、進化論裁判の下の方にある知的デザイン論に似てますね。
進化論裁判
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E5%8C%96%E8%AB%96%E8%A3%81%E5%88%A4
キリスト教根本主義
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E6%A0%B9%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9
120
:
エートス
:2006/11/04(土) 22:06:06 ID:o/O0rZ5w
>>116
100式氏
>7次元の方なら8次元、8次元の方なら9次元。
>の過去世。ミケランジェロはピカソの過去世。同じじゃん。
ふーん、そうなのですか。これはKK認定過去世の予備知識なしで私が勝手に書いたのですが、どーも私にも霊的な探知能力があるのかネ。w
ダビンチとピカソが同じ魂だというのはありかもしれないが、ミケランジェロとピカソはとんでもなく乖離しているので組み合わせてみただけなんですが。
で、せっかくだからもうちょっと。
プラトンはヘーゲル、あるいはミケランジェロとピカソが同じ魂である_ということは思想、あるいは美術功績的にはどのように説明されるのでしょうか?
>これは人々を救わんとして地上に降りられた仏陀、救世主、預言者等の方を誹謗中傷することは、
>そりゃ地獄行きですがなってこと。幸福の科学限定ではありませぬ。
読解に誤解があるようですが、わざわざ「」を付けたのはね、_地獄に落ちるというような言葉を相手に何の気なしに投げれるというメンタリティーが共通しているのでは_ということで教義論な意味ではありませんよ。
つまりね、相手を本心から救おうと実践してきた人間ならばね、こうした言葉は無意味あるいは逆効果だとわかってるはずでしょ。
>近代以降はそういう単純な真理ではうまくいかなかったようです。
はいはい、その先駆けがニーチェなんですよ。
古い神理念は死んだ_ということを彼は言った、古い神理念から決別して自らの深層を見つめるべきだ、と。
彼あるいはフォイエルバッハ以降、「神を知ることが人間を知ることではなく、人間を知ることが神を知ること」_になってきましたよね。
ニーチェの影響はフロイトやユングにまで及んでいます。だから普遍性を認める人は多いわけですよ。
で、話題の映画拝見しましたよ。感想その他は雑談スレにちょうど映画の話題が出ているのでそちらで。
121
:
エートス
:2006/11/04(土) 22:34:21 ID:o/O0rZ5w
>>118
RANDY氏
>信仰について、こういう意見があります。「人は、宗教思想によって、人生の意義を見出し、心の平安を得る。この平安、幸福感こそが目的であり、宗教思想はその手段である」
平成18年度の東大入試前期の現代文がこうしたテーマでしたね。
共同体の存続と宗教の役割を論じたもので、簡単にまとめてみますと、、、
共同体の安定は死にゆくものと生まれるものの交替がスムーズに行われることで維持されるわけで、信仰が現世に「犠牲」という理念をもたらし、執着を断つための来世観を提示することにとりその安定と強化に寄与している。
こんな感じだったかな。
あなたが書いたように「心の平安をもたらしたり」また、上記の「共同体の存続に寄与したり」というように、宗教の意義を人間心理や社会真理にに求める人は多いですね。タブーがネガティブな面を担うなら信仰はポジティブな面を担うともいえるかな。
KK信者は霊的な意味で_もっと端的に言えば教祖の霊視で_邪教を判断するようですが、現世での意義に反する信仰を邪教とするのがわたしにはわかりやすいですね。
122
:
IAOO.KK
◆ZKLVh/2jGY
:2006/11/04(土) 22:55:23 ID:Ccbtt5iE
>>121
>KK信者は霊的な意味で_もっと端的に言えば教祖の霊視で_邪教を判断するようですが、現世での意義に反する信仰を邪教とするのがわたしにはわかりやすいですね。
いっぺん、信者さんのほうで邪教の定義をだしたらいいかな。あまり定義が短いといけませんから、10〜20個の定義文の箇条書で。
123
:
100式
:2006/11/04(土) 23:01:34 ID:ff23Ce06
RANDY氏
>宗教に凝ってる人はキモイという感覚がある。これは理屈じゃなくて、感性だから、変えるのは中々難しいかも。
これは日本において、新興宗教に凝っている人と言い換えたほうがいい。
宗教一般、海外を含めると恥をかくぞ。
で、信仰を持たない人=一般人ではないからね。これは念を押しとく。
ついでに、多分想定外だと思うが、マザーテレサのような信仰の篤い人に対してキモイなんて言うなら、ワシは躊躇無く殴る!
>KKは夢と霊界を関連付けてます。霊夢とか。
夢と霊界を関連付けてはいるが、すべてが霊界での経験だとは言ってないだろ。
また、自分の意識、心境に応じた霊界に通じるのはいつどこでも同じ。
つまり、
>現実の夢は、宗教思想のタガが外れてしまう事は多いですよね。
ってのは要するに、自分の意識がそうだから。KK理論のまんま。
宗教的な夢を見ないから、霊界は宗教が仕切っていないと、
結論付けられないだろうに。
>「人は、宗教思想によって、人生の意義を見出し、心の平安を得る。この平安、幸福感こそが目的であり、宗教思想はその手段である」
こういう言い方もできるんだろうけど、これは神を信じない人の信仰理論じゃないかな。
マザーテレサを出したんで、彼女の言葉を披露しようか。
「信仰を失うより、いのちをなくすことをわたしは選びたい。」
「まことのキリスト者であるとは、キリストを本当に受け入れること。そして、次々にもうひとりのキリストとされていくこと。私たちが愛されたように、十字架上からキリストがわたしたちを愛してくださっているように愛すること。わたしたちはお互いに愛し合い、人々を愛さなければなりません。」
いいサイトがあったんで
ttp://www.fruits.ne.jp/~k-style/teresa1.html
宗教思想は手段なんて考え方は、彼女の前では吹っ飛んでしまうだろ。
神の実在がその核心だからな。
124
:
100式
:2006/11/04(土) 23:54:50 ID:ff23Ce06
>>120
エートス氏
もしやと思ってましたが、やっぱり知らなかったんだ。
へぇ〜〜〜〜。偶然とは思えませんねww
ピカソの過去世は鑑真、ミケランジェロとなっております。
ミケランジェロの部分が本体で霊格が高いということです。
鑑真ってのが意外でしょ?ピカソ霊示集に出てますが、絶版でしたかねw
ヘーゲル、プラトンに関しては「黄金の法」に記述があります。P112あたり。
漫画版だと西洋編。
ダビンチは大天使ガブリエルです。かなり霊格高いっすよ。
>思想、あるいは美術功績的にはどのように説明されるのでしょうか?
こういうのはエートス氏にお任せしたいんですけど・・・マジで。
KKに入ってくださいませ。マジで。
ギリシャにおいてプラトンの批判者として現れたエピクロス。
ドイツでヘーゲルの批判をしたマルクス。
魂の兄弟だった。
>こうした言葉は無意味あるいは逆効果だとわかってるはずでしょ。
重々承知しておりますよ。
だから、信仰を捨てるなんて軽く言うもんじゃないと、
くどくどと言っておるのです。
>その先駆けがニーチェなんですよ。
カントの理論が十分理解できない人たちが、理性的判断不能な不可知領域を、
無いと判断したことが大きいと聞きましたよ。
で、無神論的な流れができてしまったと。
で、ニーチェあたりに続くんじゃないかと、そのように思っていますが、
スミマセンが詳しくないんで。
ニーチェの哲学の中には、真理=普遍性も含まれているんだと思うのですが、
結局、人々を無神論に導いてしまったと、その罪が極めて大きいのだと、
そういうことなんでしょう。
>>近代以降はそういう単純な真理ではうまくいかなかったようです。
カルバンやクロムウェルのピューリタニズム(16〜17世紀)がうまくいかなかったので、
カントに始まる知性的、理性的な方向性が出てきたのだと、黄金の法に記述があります。
>話題の映画拝見しましたよ。
ありがとうございます。
そして、おめでとうございます。
125
:
初代
:2006/11/05(日) 08:32:46 ID:g42KKo9U
>>115
100式さんへ
>我々がああいう運動をしようって言うんじゃなくて、ああいう運動も出てきて当然といった感覚かな。KKとしては、霊的価値観を広めていくことで、ああいう思想が淘汰されていくだろうと、そんな感じではないかと思います。
100式さんはKKの主張する創造と“進化”、それと主にアメリカで展開されている創造科学の主張が未整理ですよということです。
『聖書』の「創世記」を言葉通りに受け取る者(ファンダメンタリスト)たちの運動により、1920年代にテネシー州などで学校で進化論を教えることを禁止した法律が制定されました。「進化論裁判」(1925年、スコープスが禁止されていた進化論を教えたとして訴えられた)を経て、1967年に上記法律は廃止される。
その後、ファンダメンタリストの要求は学校教育から「進化論を締め出せ」というものから、「創造科学も進化論と同等に取り入れろ」というものに変わっていくことになる。
さて…
>>111
で「「科学」か否かを基準にして考えればいいのではないかと思いますよ。天動説・地動説と同じですね。「説」が(時代的制約はあれど)科学的根拠に依っておればよしと。創造論・進化論にしても、その「論」がその時代の科学の最先端で、如何に評価されるかで、教科書なんかには載せられるということで。」…と書いた通りでいいのではないでしょうか。
例えば現在、一般的に地球の古さは46億年くらいとされていますよね。彼らの主張は、6000年くらい。で、KKの主張は45億年。
この点、(100式さん流にいえば)淘汰されるべきモノは自ずと判る。
>>109
で「KKは…反進化論の動きは何であれ基本的に好ましいと捉えるでしょう。…(しかし)「進化論」対「創造論」という単純な図式にはならないよ。」と書いた意味が解りますよね。
KKは、反・ダーウィニズムという点で共感するキリスト教原理主義者たちに、「科学」を基準に諭さなければならない。
更に進めていえば、KKはそのトンデモ歴史観(「恐竜と人類は同時代に生きていた」「ムー、アトランティスという大陸で栄華を極めた文明があった」等)を「科学」から諭される立場にもあるということ。
>信仰の篤い人は、仏神の存在を確信している。ということは、無神論・唯物論は悪に見える。
「有神」掲げてりゃ、なら何でもよし…じゃあ、ないでしょう。
>自分の子供に教えてほしくないというのが人情だろうね。
繰り返しますが、KKは「ネズミ→ウサギ」の生物進化を認めていますからね(
>>112
)。
生物学の授業で「進化論」を排除する必要はないでしょう。
126
:
RANDY
:2006/11/05(日) 20:17:45 ID:C9WmjxaU
100式氏
>>123
>日本において、新興宗教に凝っている人と言い換えたほうがいい。
伝統宗教信者にも凝りすぎの人はいるけど、確かに新興宗教信者の方が目立ってはいますね。
>宗教一般、海外を含めると恥をかくぞ。
うーん。コチコチの原理主義者は、どこでも微妙な気がするけど_。
>多分想定外だと思うが、マザーテレサのような信仰の篤い人に対してキモイなんて言うなら、ワシは躊躇無く殴る!
マザーテレサのことは詳しく知らないけど、宗教に関係なく、困ってる人を助けたわけでしょ。コチコチという印象はないですね。
それはともかく、仮に「キモイ」と言った人がいたとしても、いきなり殴るよりかは、「なぜそう言うか?」と尋ねてみた方がいいよ。単にマザーのことを全然知らないゆえの失言かもしれない。だったらマザーがどんな人か説明してあげればそれで済むでしょ。
>自分の意識、心境に応じた霊界に通じるのはいつどこでも同じ。
私は他人から理屈屋といわれるけど、夢の中では理屈をこねた事って皆無なんですよね。霊夢っぽい夢もあったけど、それでも理屈は考えませんでしたね。取り留めの無い想念しか浮かばなかった。心境に応じた霊界に通ずるってホントかなあ、と思う。
>宗教的な夢を見ないから、霊界は宗教が仕切っていないと、結論付けられないだろうに。
そうですよ。だから私が言ってるのは、「霊夢がある」「霊界は宗教が仕切ってる」という二つの定理から行くと、「宗教がバンバン出てくる夢がありえる筈だが、そんな夢みたことない。ということはどっちかの定理がおかしいのじゃないか」ということね。もちろんこれは私の実感にすぎない。もし100式氏がKK理論を裏付ける夢を見てるなら、100式氏的には無問題でしょうね。
>宗教思想は手段なんて考え方
宗教の多様性についての譬で、よく登山の譬があります。様々な登山道(宗教)によって頂上を目指すという風にね。登山道(宗教)は目的じゃなく、頂上に至る手段ですよね。
マザーテレサについて言うと_KKではこういう考え方もあるでしょ(あった?)。光の天使は、仏教国では仏教的に、キリスト教国ではキリスト教的に、儒教国では儒教的に、神道国では神道的に、愛を表現する_という感じの話。この場合、愛が目的で、宗教はその手続き、手段っぽいですよ。
127
:
エートス
:2006/11/05(日) 22:36:28 ID:iEpXFmY2
>>124
100式氏
>鑑真ってのが意外でしょ?ピカソ霊示集に出てますが、絶版でしたかねw
意外というより問題外w
>ダビンチは大天使ガブリエルです。かなり霊格高いっすよ。
ダビンチならわかると書いたのは美術史上の意味ね。
>カントの理論が十分理解できない人たちが、理性的判断不能な不可知領域を、
>無いと判断したことが大きいと聞きましたよ。
>で、無神論的な流れができてしまったと。
>で、ニーチェあたりに続くんじゃないかと、そのように思っていますが、
無神論の系譜についておさらいしておきましょうか。
1839フォイエルバッハ「キリスト教の本質」
1844マルクス「ヘーゲル法哲学批判序論」
1882ニーチェ「悦ばしき知識」
マルクスはこの中で「宗教は阿片だ」と書いていますね。ニーチェ「神は死んだ」の約40年前です。
フォイエルバッハの唯物論とヘーゲルの弁証法につらなる系譜がマルクス
ニーチェはフッサール、ハイデガー、また後のいわゆる実存主義に影響を与え続ける
以上どの哲学書にも書かれています。
ニーチェは自分を神としてしまったと言えなくもないが、少なくとも唯物論者ではないでしょうね。
物質>精神という唯物論的系譜こそがKKとして俎上に載せるべきは思想ではないですか、独悟よりもね。
カントを引き継いだロマン主義は汎神論の系譜ですね。これはむしろKKとは親和性があるはず。
しかし、一神教であるキリスト教側からは無神論と捉えられた。これは当然ニーチェにはつながりません。
ではカントの理論を十分理解できず不可知領域を無いと判断したのは誰なんでしょうね。
その人がKKによればA級戦犯じゃないでしょうか。もしかしたらそれはヘーゲルじゃないんですか。
>ありがとうございます。
>そして、おめでとうございます。
雑談に書いた映画評を読まれたらおめでとうございますにはならないでしょうね。w
128
:
100式
:2006/11/06(月) 00:25:29 ID:Naf.nPUc
>>125
初代氏
未整理と言うよりも、整理する気が無いw
ワシが問題を感じるのが、「人々を無神論に導く思想」ってところ。
教団も同じじゃないかね。
そういうものは淘汰されて無くなっていくのが望ましい。
で、有神論なら何でもOKとまでは言いませんよ。
ついでに、
>「科学」を基準に諭さなければならない。
そんな義務は無いと思うが?
KK思想が普及すれば、そんな人たちも減っていくんじゃないの?
>「科学」から諭される立場にもあるということ。
霊界思想の普及が義務。
諭されていてはお話になりません。
129
:
100式
:2006/11/06(月) 00:27:30 ID:Naf.nPUc
>>122
K氏
最近は「歴史が証明する」みたいな言い方だねw
あんまり邪教邪教と言わなくなった。
130
:
100式
:2006/11/06(月) 00:56:50 ID:Naf.nPUc
>>122
要するに、破壊的カルトや現状無視の原理主義者はキモイってことかね。
「宗教に凝る」という表現では熱心な信仰者も含まれると思うがね。
ワシの勘違いだったかね。
で、マザーを良く知らないんだ。
これも勘違いだった。
ってことは
>>123
に不適切なものがあります。御理解のほどを。
霊界は宗教が仕切っている世界だが、
夢では自分の意識の通じる所、つまり、
その仕切られている一部分しか見れない。
だから、夢で確認するのは不可能でしょ。
ってことを言っている。
「宗教は手段」についてはまた後日。
131
:
初代
:2006/11/06(月) 07:23:02 ID:TpNpqkd2
>>128
100式さんへ
>未整理と言うよりも、整理する気が無いw
いさぎよすぎ。(あはは)
>ワシが問題を感じるのが、「人々を無神論に導く思想」ってところ。
理解していないのに「進化論即悪」って反応は止めておいた方がいいよ。
理由を繰り返しますが、「進化論」そのものが多岐に亘っていること、またKKは一部生物進化を認めている(有神論的進化論)の立場ですから。
思想だけを問題にしたいのなら、尚のこと「進化論」の歴史を深く知り且つ「進化思想」だけを抽出できるくらいでなければアカンのとちゃうかな。
>>「科学」を基準に諭さなければならない。
>そんな義務は無いと思うが?
「幸福の科学」は「科学」に重きを置かないということかな。
>KK思想が普及すれば、そんな人たちも減っていくんじゃないの?
科学的であることをもって、普及させていくわけではないんやね。
>>「科学」から諭される立場にもあるということ。
>霊界思想の普及が義務。
特に科学的であろうとはしない…と。
>諭されていてはお話になりません。
科学から反論があった時はどういう態度をとるのかな?
132
:
100式
:2006/11/06(月) 15:18:27 ID:Naf.nPUc
>>130
はRANDY氏宛て
で続きね。
たとえば、諸行無常・諸法無我とかは手段かね?
こういうのは存在について語っていることで、真理そのものだろう。
これは目的か?手段か?
宗教は神の実在をといている。
神とは目的か?手段か?
要するに、宗教思想の中核は、形而上の理念であって、
目的、手段といった表現では不適当じゃないかね。
ということ。
133
:
100式
:2006/11/06(月) 15:38:24 ID:Naf.nPUc
>>127
エートス氏
>意外というより問題外w
問題外つーてもねぇ。
松下幸之助の過去世は紀伊国屋文左衛門だが、その前はルカの福音書を書いたルカだと。
人の転生は奥が深いですねぇ。
学問的に整合性を求めても、まあ、そうはいかない場合も多いんじゃないでしょうか。
まあ、ピカソは梵天界、ダビンチは如来界の上段階、
美術関係だけにとどまらないダビンチの仕事をみれば、
ああそうなんだと納得がいきませんか?
ミケランジェロは仕事のできないやつだと、
ダビンチを馬鹿にしていたと聞きますけどね。
求めていたものが違うんでしょうね。
哲学の話どうもありがとうございます。
ああいう風にまとめていただくとわかりやすいです。
で、KK的A級戦犯は誰かと言いますと、
マルクス、ニーチェ、ダーウィンとなります。
これを学問的に分析するのは、専門家にお任せしますわ。
>雑談に書いた映画評を読まれたらおめでとうございますにはならないでしょうね。w
いえ、ちゃんと見られて感想を持たれた。それで結構です。
あの映画は悟りの映画でもあるので、全部理解できると如来格なんだそうな。
で、その人の心境・悟りに応じて共鳴する部分、感じ方が変わってくるといいます。
共鳴する所が無かった。これも大事な発見でしょう。
134
:
100式
:2006/11/06(月) 15:52:38 ID:Naf.nPUc
>>131
初代さんは素人の範囲を超えている所があるんで、
あえて素人っぽく反応していますw
あなたのおっしゃることもごもっともですけれども、
それは生物学の専門家にお任せすることでありましょう。
また、教団としてどう対応するかも、教団のことで、
ワシら一般信者には関係ないといえば関係ない。
方針としては「人々を無神論に導く考え方が悪い」でよいと思うし、
具体的にどうするのかはやはり教団任せ。
個人としては霊的人生観・世界観を辛抱強く訴えていくだけ。
社会的軋轢を起こさないように、上手にってことで。
135
:
RANDY
:2006/11/07(火) 18:47:14 ID:EjAZzxyo
100式氏
>>130
>「宗教に凝る」という表現では熱心な信仰者も含まれると思うがね。
具体的事例を挙げるのが分かり易いと思うので、とりあえず書いて見ます。
①私は信者時代に、友達をKKの集いに誘った事があります。その時、会員らが声を合わせて正心法語を唱えているのを目の当たりにした友達の感想は、「気持ち悪い」という一言でした。私は後からこの事実を、先輩会員らに告げんだけど、答えは「そりゃそだろ」ということでした。先輩会員らも、普通の人が見たら驚くだろうということは承知していた。
②あとは……同窓会で、話の流れからかつての級友に信仰告白してみたら、「馬鹿じゃねー」と一蹴されたことがありますね。同窓会じゃない、他の場面で、他の友達らに、文庫本の『不動心』とか「面白いよ」と言って見せた事あったけど、まあ似たり寄ったりの反応でしたね。宗教の話は完全拒否という感じ。
③それから私がKKに入会する前の話だけど、ある友達(A)の家に行ったら、豪勢な祭壇みたいのが設えてありました。友達(A)の友達(B)は、「なにこれ、宗教? やばいんじゃない?」と言っていたのが印象に残ってる。
私の個人的考えを言えば、過去に信者経験があるので、上に挙げた一般人ほど宗教に偏見はありませんよ。原理主義については、現実に妥協せずに宗教を突き詰めれば、原理主義に至るのは、いわば必然と思います。
ただね。普通の人たちの宗教に対する思いは、大体、上に挙げたようなもののようですよ。さらに言えば、KKは、こういう偏見が存在する事を認めた上で、それを矯正しようという目標もあったように思います。もしも宗教に対する偏見が存在しないなら、KKが「信仰は美しい」とか改めて言う必要はないわけです。こういうことを言わなきゃならないこと事体が、現実はその反対の考えの人が多いことを示してる。
マザーテレサについて触れると、日本でのマザーの取り上げ方は、信仰者としてよりかは、慈善家、奉仕する人として報道されることが多いのじゃないだろうか。それから一般人から見て、僧侶、牧師、神父、修道女などは、いわば宗教のプロですから、宗教プロが宗教に熱心なのは、当たり前だから、さほど宗教に凝ってるという否定的な見方にはならないでしょうね。
136
:
RANDY
:2006/11/07(火) 18:52:32 ID:EjAZzxyo
100式氏
>>130
>霊界は宗教が仕切っている世界だが、夢では自分の意識の通じる所、つまり、その仕切られている一部分しか見れない。だから、夢で確認するのは不可能でしょ。
霊界は宗教が仕切っているとすれば、霊界の何処を見ても、宗教に行き当たると思いますよ。もし霊界の何処かに宗教が希薄な部分があるなら、それは宗教が仕切ってることにはならないのじゃないだろうか。
あと念のために言っとくと、私が習ったKK霊界観は、上位に行くほど宗教の相違は問題じゃなくなるという感じだったと記憶してる。高級霊には宗教専門霊の割合が高いとか、高級霊は神仏を信じてるとか、そういうのはあったと思うけど、「宗教が仕切ってる」というのはあまり記憶にないですね。
というわけで、ここらで、私なりの夢、宗教、霊界についての妄想をちょっとだけ。
たしか夢と無意識が関連するという説がありますね。これに乗っかって考えると、夢の中で、思想宗教がモロに出てくることって少ないから、思想宗教は心の奥底の潜在意識、無意識とかに属するものじゃなくて、表面意識に属するのかもしれません。
もちろん宗教が関わる夢もあるでしょ。でもそれは宗教が主役じゃなくて、無意識が、その人の表面意識の宗教に合わせた形で表現されてるだけって感じがする。だから夢、宗教、霊界(つまりその人が信じてる世界観ね)、こういったものは本質的なものじゃなくて、あるものが翻訳されたもの、象徴とかだと思う。ホントのことは、その向こう側にあるんじゃないだろか。
>>132
宗教全体をざっと見回してみると、大概は、幸福獲得の方法論を説いてるようですよ。
諸行無常とかも、移ろい行くものに執着するのを止めると幸福になるということでしょ。神と信仰についても、神を信じれば幸福、背を向ければ不幸ということでしょ。KKの場合は、愛、知、反省、発展とか色々教えはあるけれども、それらの目的は、「あの世とこの世を貫く幸福」の獲得でしょ。
もちろん一口に幸福と言っても、その中身はさまざまです。信仰を失うよりも殉教する方が幸福だという人もいるでしょ。商売繁盛、病気平癒が幸福だと言う人もいるでしょ。ただどういう場合にしろ幸福を求めていることには変わりない。大方の人にとっては、幸福こそが目的なんじゃないかな。
137
:
エートス
:2006/11/08(水) 22:25:46 ID:eJrkL8FU
>>133
100式氏
宗教お宅はキモイという話がRANDY氏との間で続いているようですね。
家に豪華な祭壇があったり、声を揃えてお経を唱えたりとかは、まー自分とは関係ない世界なんであまり抵抗はないのですが、あなたのこのコメントははっきり言って気味悪かった。
>いえ、ちゃんと見られて感想を持たれた。それで結構です。
ここまではいいんですよ。で、
>あの映画は悟りの映画でもあるので、全部理解できると如来格なんだそうな。
>で、その人の心境・悟りに応じて共鳴する部分、感じ方が変わってくるといいます。
>共鳴する所が無かった。これも大事な発見でしょう。
商業ベースに乗せた上で「見てください」と言われて見た作品なのに、いつのまにか見た人はそのワールドに巻き込まれて、_逆に自分を問われる_という構造は実に気味が悪いものだよ。心の中に土足で踏み込まれたみたい。
もし映画を見て自分の段階の判定や自分を発見するといったコンセプトで作られた映画だと分かっていたら、多分見に行かなかったでしょう。
例えば友達の個展を見に行って感想を言ったら「あなたの美的感覚に応じて私の作品に共鳴する部分や感じ方が変わってきます。私の作品が気に入らないということも大事な発見です」と言われたみたいでネ、ふざけるんじゃないよ、という気分というか。
138
:
エートス
:2006/11/08(水) 22:27:18 ID:eJrkL8FU
>>136
RANDY氏
>霊界は宗教が仕切っているとすれば、霊界の何処を見ても、宗教に行き当たると思いますよ。もし霊界の何処かに宗教が希薄な部分があるなら、それは宗教が仕切ってることにはならないのじゃないだろうか。
これはわたしも100式氏が何を言いたいのかよく分かりません。
神あるいは霊の親分とかが仕切っている_というならまだ分かるけど、宗教が仕切るという意味がね。
例えば不可知論者は神的な存在を否定はしていませんが、どちらかといえば無宗教イズムになるはずでね。こういうのはどうなるんでしょうネ。
139
:
100式
:2006/11/08(水) 22:49:57 ID:cZw0bjcg
RANDY氏
>>135
普通の人、一般人には
宗教を信じる人、信じない人の両方が含まれるだろう。
まずここを指摘しておきたい。
宗教を信じる人の中に、伝統宗教を信じる人、新興宗教を信じる人、
邪教を信じる人が含まれている。
いいかね。
宗教を信じない人、偏見を持つ人がどういう感じなのかは重々承知している。
しかしな、それを普通の人、一般人の意見だと強弁されては困る。
一般人の意見の一部だよ。
そういう言い方を続けると困るよ。
マジで。
また、KK信者ではないが教団に対して好意的な人々も存在する。
これも認めなイカンよ。
君には想像できないかもしれないが、結構いるんだよ。
で、マザーテレサの話。
どんな人かチョットは調べてみたかい?
唯の慈善家ではないだろう。
KK的には、生涯を「与える愛」に生きた方だ。
あのような愛と行動力がどこから湧いてくるのか。
その源泉は信仰心だよ。
信仰心が篤くて君がキモイと言っている人でも、成長したらあんな風になるんだよ。
幾転生かかるかはわからないけどな。
>>136
たとえば、
死後その人の一生を見せられると言う。
古くは閻魔大王のそばで照魔の鏡に映していたらしいが、
今時はシネコンのような映画館のような施設で上映するらしい。
その上映を自分で見ることで、自分の行き先を自覚できるそうな。
天国に行くか地獄に落ちるか。
こういうことをするのは誰?
こういうことに関わっている人たちは何系統だと思う?
宗教しかないだろう。
霊界の次元構造を造ったのは誰?
表と裏を分けたのは?
霊界を仕切る存在は?
仏神だよな。
で、その仏神について語るのが宗教。
仏神に一番近いのも宗教。
直属やからね。
宗教が霊界を仕切っているといって何も問題は無いだろう。
で、宗教思想の本質は、この仏神をどう表すか、
これに尽きると思う。
形而上の理念と言うやつだ。
修行論もあるからここら辺のことを手段というのは一向に構わない。
しかし、形而上の理念を形而下に持ってきて手段と言うのは、
普通におかしいよと言っているわけ。
140
:
100式
:2006/11/08(水) 23:13:09 ID:cZw0bjcg
>>137
判定は御自身でなさるものです。
私はやりませんよ。
あと、表面意識が思ったことと、潜在意識が感じたことが、
まったく逆の場合もあるそうです。
御参考まで。
141
:
RANDY
:2006/11/10(金) 19:38:59 ID:LJXGlbd2
エートス氏
>>138
>不可知論者は神的な存在を否定はしていませんが、どちらかといえば無宗教イズムになるはずでね。こういうのはどうなるんでしょうネ。
私の場合、元々オカルト系をすぐ信じる気質があるわけです。だからオカルトを安易に信じ込まないように、無宗教イズムの方にくいくい引いてもらうのは、悪くないんじゃないかと感じてます。
とはいえ、あまりにも無宗教イズムに引かれすぎると、心が干物みたいになった気分になるから、そういう時は懐疑論不可知論を疑うと、無宗教偏向が是正される気がします。
上の話をたとえ話にすると、心の中の天秤の一方にオカルトがあって、そちら側に完全に倒れてたけど、反対側に懐疑論不可知論を置いたことで、天秤がゆうらゆうらと揺れるようになったと言えるかもしれないですね。
あと私は、宗教を二つくらいに分けてみることがあります。
① 宗教教団とその教義、および信者という感じの人工的組織化された宗教。
② ①とは異なり組織は持たない文化習慣情緒とかの宗教。
②の説明をすると、たとえば先日の竜巻の被害者は小さい子供を残して亡くなった方が複数いらしたけれども、こういうのは宗教ドグマと関係なく、痛ましさを感じるし、冥福を祈りたい気持ちになるものでしょ。また、お盆、正月になると、習慣のせいか墓参り、初詣がしたくなるような、しないといけないような気になる。②はこういう感じの宗教。ていうか宗教心かな。
私の場合、不可知論懐疑論でアンチ宗教に偏った時でも、その対象は①みたいな人工的理屈神学ドグマ宗教に限られていて、②のような自然的情緒的宗教に対してはさほどアンチにならないですね。あと①に属する信者であっても、その心情が②みたいであれば、強いて批判する気になれないかな。
見当違いのレス返してるかもしれないけど、とりあえず私の場合こんな感じ。
142
:
RANDY
:2006/11/10(金) 19:47:32 ID:LJXGlbd2
100式 氏
>>139
>マザーテレサの話。
100式氏がKK的解釈するのは、立場上、やむを得ないですね。ただ現実には、KKとマザーテレサは正反対っぽいと思う。
たとえばKKだと、基本的には、信仰、愛は本人の努力によるものでしょ。
でもキリスト教は、基本的には、親鸞のような他力ですよ。あと幾転生については、キリスト教では多分、論外。
それからマザーテレサは、授賞式か何かのスピーチで、ご馳走を前にして、この食べ物でどれくらいの飢えた人々を救えるかとか話したと思います。また建物を寄付された時も、カーペットとかを贅沢として剥いでるのをテレビで見た記憶がある。これらはKK的繁栄の法とは真逆でしょうね。
>信仰心が篤くて君がキモイと言っている人でも、成長したらあんな風になるんだよ。
始めは一ミリの違いでも、万里を進むと、元々の一ミリの誤差がトンでもない違いになるといいます。キリスト教の信仰と、KKの信仰は上に挙げたように相違点があるから、その到達点は大分違うかもしれないです。
>仏神について語るのが宗教。仏神に一番近いのも宗教。直属やからね。宗教が霊界を仕切っているといって何も問題は無いだろう。
なるほど。KKではそういう風に考えるわけですね。それだとやっぱ私は、「多様な価値観」の方がいいな。
神の光が燦燦と降りそそぐ。光は特殊なプリズムのようなものを通過して、宗教(悟性)、科学哲学(理性知性)、芸術(感性)などに別れる。各人は己の得意分野から、神へアプローチする。みたいな感じの世界観ね。
↑これは、KKから離れて大分経つし、KK本もあまり読んでないから、KK真理とは違ってしまってるかもしれないけど、とりあえず「宗教のみが別格」というよりは、「多様なる価値観」の方が好みだね。
あと宗教って、閻魔大王に見られるように。正邪善悪を分かつ作用がありますよね。でも現実には、ものの分類法はそれだけじゃないですよ。美と醜、明と暗、強と弱、硬と柔、優と厳、温と冷とか他にもいろいろある。
だから世の中には、暗い善、汚い善、冷たい正義、良い悪、美しい悪とかいろいろあるんですね。さらには、明るいけど弱々しい善、悪だけど柔らかくて優しいとかもあるかも…。
物事を判断する時は、宗教だけじゃなく、科学哲学芸術とか様々な価値基準を使用して、総合的に判断した方が無難でしょうね。ただこう考える私のような者には、やっぱKK内には居場所は無さそうではある。
143
:
100式
:2006/11/11(土) 00:20:52 ID:7I4SGCXM
>>142
RANDY氏
他力について勘違いしとるな。
普通は救いのことを言う。
イエスを信じることで救われる。
念仏を唱えることで浄土に往生する。
こういう風に言われてるだろ。
イエスを信じる。念仏を唱える。
ここは自力じゃ。人によっては努力を要する。
ヤフーのひょうご氏との対話で感じたことを簡単に言う。
神の愛を信じる。
隣人愛の完成が目的。
自分が救われるかは考えない。神の御心のままに。
この3点だな。3番目が他力。
最初2つは努力が必要だろ。
自力の思想とは、
修行によって悟りを得て涅槃に入る。
つまり、自助努力で天国に帰る思想。
他にも着眼点はあるが、とりあずここがポイント。
で、ひょうご氏が語っていた「隣人愛の完成」
KK的に言えば7次元の許す愛。
マザーの言葉にはこの7次元の愛があふれている。
思想的に共通していると言っていい。
元信者ならこのあたりの話は理解できるはずだが・・・?
>これらはKK的繁栄の法とは真逆でしょうね。
繁栄の法を体現していないからKKの思想とは違う・・・ではない。
愛においては共通しているんだが、愛の与え方において、
松下幸之助や本田総一郎とは違うやり方だったと、こうなる。
宗教家だけでなく、芸術家、政治家、学者、事業家なども、
愛に生きた菩薩として尊敬されるすばらしい思想。
それが幸福の科学。
神人合一型と神人隔絶型。
宗教の類型で前者が仏教、後者がキリスト教。
仏教では修行によって人が神になれる。
キリスト教では神が天使、人間を作り、人は神や天使にはなれない。
大雑把だがこんな感じ。
KKでは修行、転生を重ねることで霊格が上がっていくと説かれている。
ちなみに、誰でも、性根を入れて修行をすれば阿羅漢向になれる。
阿羅漢向の状態を一生続けることができれば阿羅漢果となる。
阿羅漢果の状態で約千年(3転生くらい)成功を続ければ菩薩の仲間入り。
こんな感じ。
仏教においても修行して阿羅漢になれると説かれているな。
言い方は違うが、修行を重ねることで、仏神に近づいていくことができる思想。
この話をしていたんだよ。
で、ジークみたいなやつでもな。
性根を入れて修行に励めば、今世、阿羅漢になれる可能性があるってことだ。
KK思想でも、伝統的仏教思想でもな。
で、何千年か後に、マザーテレサのような立派な菩薩へと成長しているかもしれない。
これはKK思想だけどな。この、可能性についての話をしているわけだ。
もちろん、修行の方向性が曲がっていれば地獄に落ちるし、
霊格も向上しない。すべての人が菩薩になれるわけではない。
しかし、努力を続けることで到達が可能なのだと。
こういう話だよ。
144
:
エートス
:2006/11/11(土) 00:25:15 ID:ckmOT/Lo
>>139
100式氏
>修行論もあるからここら辺のことを手段というのは一向に構わない。
>しかし、形而上の理念を形而下に持ってきて手段と言うのは、
>普通におかしいよと言っているわけ。
理論的に破綻してないか?
この世は仏の想いからできたんでしょ。なんだっけ進歩するための修行の場としてだか。
で、そういうのを方便とかいうんじゃないの、あなた方の文脈じゃ。
「方便」はあなたの表現だと「手段」になっているようだけど、形而下というのは全てが手段化するということになるよ。
その手段を通じて聖と俗の一致を体得するのが宗教の場であって、仏教の場合は八正道の実践なんかがそうなるし、キリスト教なんかだと祈りがそうだろうと思う。
また倫理的な方向に行けば道学的な探求にもなる。
あなたがた信者はKK本内の説明を聞いて知ったような気分になっているし、その知識を教えてくれるのが宗教だと思っているかもしれないが・・・
ようするに形而上の理念はそのままの形で知ることはできないわけですよ、この世が方便ならばね。
わたしが今書いていることが分かりますか?
形而上の理念を形而下に持ってきて、じゃあ手段でなければ何だ?というと目的だよね。
イデオロギーとはまさにそうしたものでしょうが。
共産主義という形而上の理念で作られた世界をわれわれは見てきた。
これが宗教の分野で起こるとカルトなんだろうとわたしは思ってるけどね。
145
:
エートス
:2006/11/11(土) 00:26:39 ID:ckmOT/Lo
>>140
100式氏
>判定は御自身でなさるものです。
>私はやりませんよ。
わたしは自分自身でも判定なんかはしませんよ、というか判定なんかはどうでもいいんですよ。
むしろ自分たちの物差しが真理をはかる正しい基準である、という無条件の思い込み、そしてその無条件に思い込んだ真理を普遍だとして押し付けようとする。
これが気味悪さなんです。
信者さんはあれが真実を描いた映画だと思っているかもしれないけど、少なくともわたしはそうした見方はしていませんからね。
まー、信者さんが映画を判定の基準にして、わたしは菩薩かもしれないわん、とか思うのはどーでもいいんだけどね。
>あと、表面意識が思ったことと、潜在意識が感じたことが、
>まったく逆の場合もあるそうです。御参考まで。
全く逆の場合があるというより、大雑把に言って両者は補完の関係になっている_と言われている訳で、逆の方が多いんじゃないの。
で、あなたがた信者さんがKKの教義だとか言いながら、ネットに書いたりしていることは表面意識の領域に属していますね。
これは言語水準でといってもいいでしょう。ネットに向かってカキコみしているときに、その教義に対しての自分の潜在意識のありようを感知していますか?
していないでしょう。それがあれば、ひかりもののような連中は生まれないはずだし、無条件の思い込み的視点は捨てられるはずなんですがネ。
146
:
エートス
:2006/11/11(土) 00:28:40 ID:ckmOT/Lo
100式氏
あと2件程質問をいいかな。
>まあ、ピカソは梵天界、ダビンチは如来界の上段階、
>美術関係だけにとどまらないダビンチの仕事をみれば、
>ああそうなんだと納得がいきませんか?
>ミケランジェロは仕事のできないやつだと、
>ダビンチを馬鹿にしていたと聞きますけどね。
>求めていたものが違うんでしょうね。
ダビンチについて如来界の出自だと示す業績を挙げてみてください。
で、ダビンチが生涯かけて求めていたものとミケランジェロの求めていたものは何でしょうか。またはどこが違うんでしょうか。
これはマジで知りたい。納得するのはその後ですネ。
>>また、KK信者ではないが教団に対して好意的な人々も存在する。
ふーん。例えばどんな人なんですか?
好意的にもかかわらず入信しないのはなぜでしょうか。
147
:
100式
:2006/11/11(土) 01:08:35 ID:7I4SGCXM
>>143
の続き
>神の光が燦燦と降りそそぐ。光は特殊なプリズムのようなものを通過して、宗教(悟性)、科学哲学(理性知性)、芸術(感性)などに別れる。各人は己の得意分野から、神へアプローチする。みたいな感じの世界観ね。
KK的には6次元がそんな感じだ。
7次元になると宗教色が強くなる。
いろいろな判断基準があるのは当然。
価値観は多様だ。
しかし、地獄行的な価値観は排除すべき。
148
:
100式
:2006/11/11(土) 03:18:14 ID:7I4SGCXM
エートス氏
>>144
仏や神、霊界について語る。それを把握した上で、人の生き方を説く。
宗教って大雑把に言えばこうでしょう。
人々の幸福が目的。
そのための生き方、考え方は手段。
しかし、仏や神、霊界は目的でも手段でもない。
でしょ?
>形而上の理念はそのままの形で知ることはできない
そう、だから救世主とか仏陀が現れて宗教を説く。
我々はその言葉を通じて、その世界を垣間見るだけ。
>>145
丹波哲郎氏は大絶賛されていたらしい。
試写会でみられたそうな。
そんでもって、映画公開の日に告別式だったらしい。
あの映画を本物と思うか、偽者と思うかは自由です。
しかし、我々は、本気で本物としてお勧めしています。
ということです。
表面意識と潜在意識については、
悟りが高くなれば一致してくるそうです。
阿羅漢の悟りが得られると、守護霊と同通します。
すなわち、潜在意識と表面意識が一致してくるということ。
一般レベルの悟りではエートスさんの言うとおり。
ヒカリモノはもちろん論外です。
>>146
>ダビンチについて如来界の出自だと示す業績を挙げてみてください。
多くの分野で業績を残した超天才。
トス神に似てるかもねw
霊言集では霊格が高いのでめったに地上に生まれないとの記述。
>ダビンチが生涯かけて求めていたものとミケランジェロの求めていたものは何でしょうか。またはどこが違うんでしょうか。
霊言集で登場したのはピカソなんで、ミケランジェロ、ダヴィンチに関する記述はほとんど無かったです。
つまり、エートスさんのほうが詳しいのではないかと思います。
好意的な人ですか・・・
実は映画開催中、当日券での入場者がかなりあったんですよ。
これは謎なんです。
誰が、何のために、わざわざ、500円高い、当日券で、
幸福の科学の映画を見るのか!!!
わからないんですよ。
普通の信者なら、前売り券を使います。いっぱい持ってます。
支部から離れ幽霊信者となっている人は、まず映画は見ません。
チケットが足らなくて緊急で使った信者もいますが、明らかに数が多い。
つまり、好意的な一般人ではないか・・・
これ、勝手な推測なんだけど、ありえない話ではないでしょ?
で、最近三帰した友人の話。
今まで5年くらい献本したりしてたんだけども、感触はよくなかった。
それが今回の映画を見た後に三帰しちゃったんですね。
で、映画のおかげといえばそうなんですが、実は本人が真理を求めていたんですよ。
前回の映画のときは求めていなかった。しかし、今回は求めていた。
時期だったようですね。で、背中を押してあげた。
かなり勇気が必要だったようです。
とりあえず、心の支えのようなものができた感じがして、
安心感があるといってますよ。
一般的に入信しない理由は、教えは学びたいが入信する必要を感じないとか、
勇気が無いとか、熱心に勧める人がそばにいなかったとかでしょう。
149
:
RANDY
:2006/11/11(土) 16:47:41 ID:qPvRXtIY
100式氏
>>143
>イエスを信じる。念仏を唱える。
ここは自力じゃ。人によっては努力を要する。
そう。それだと自力ですね。ただし私が学んだ限りにおいては、キリスト教、親鸞の場合は、
・神が、人にイエスを信じさせる。
・仏が、人に念仏させる。
ていう感じですよ。人が自力で信仰し、念仏するのではないみたい。
ついでに言うと、キリスト教のカルヴァン主義とかは、人間が道徳心を持ち、それにより自己の行動を規制できるとするような考え方は、とんでもない傲慢としてるようです。
さらに、ついでに言うと、信仰ってこんな感じの分類できるかも…。
①理屈とかじゃないしに、素直に信仰している状態
②神学によって、自己の信仰に論理的整合性を持たせようとする状態。
③聖典経典等を、客観的科学的実証的に検証し、批判し、神によるのではなく、人によるものだと結論付けてのちも、信仰を保持している状態
クリスチャンには、③の信仰に到達して、「聖書は人が書いたもの」とか結論出しても、なおも信仰を捨てない人もいるようです。
私の場合は、霊言集の事実誤認、OR氏の言の間違い、KKの活動方針などから、OR氏は全知でも神仏でもないと判断した結果、KK信仰は続けられなくなりました。だから③の信仰は経験してません。
だから③の信仰を持つ心はいまいち分からない。ただ想像として、③の信仰は、「信仰を保持するぞ」という自己の思いだけでは如何ともしがたく、神の導きがなければ信仰は保てないんじゃないか、という気はします。
私の見るところ、KK信者の信仰は、①②の段階に留まっているように見えます。果たして将来、KK信者の中に、霊言集は偽物、KK真理は人がこしらえたもの等と判定した上で、③の信仰に達して、エルカンターレ信仰を継続する人は出現するでしょうか。どうでしょうか。
>愛においては共通している
愛においては、松下さん、本田さんと共通していたと言われれば、そうかなという気がしないでもありませんね。ただKKと共通しているといわれると、ちょっと首を傾げたくなります。
>宗教家だけでなく、芸術家、政治家、学者、事業家なども、
愛に生きた菩薩として尊敬されるすばらしい思想。
それが幸福の科学。
『永遠の法』見てて、その部分に違和感を持ちましたよ。後世に名を残したような人々には、それぞれ熱烈ファンがいます。また松下さん、本田さんとかはご遺族もおられるでしょう。
そういう人たちが、『永遠の法』見たら、どう感じるだろう? と思ったりしました。実在人物の霊格認定は、教団内部だけの話にしておいた方がいいかもしれません。
150
:
RANDY
:2006/11/11(土) 16:53:07 ID:qPvRXtIY
100式氏
>>147
>いろいろな判断基準があるのは当然。価値観は多様だ。しかし、地獄行的な価値観は排除すべき。
<地獄的なものはダメ!>というのは簡単だけど、何をもって地獄的かの定義は困難でしょうね。<唯物論=悪>という図式があるとしても、唯物論的な西洋医学の指導霊団は、白色高級霊団でしょ。この唯物論的な医療で、大勢の患者が健康を快復している。
一方、唯物論じゃない心霊治療、宗教の病気治しは、いかさまがほとんど。これじゃどっちが地獄的か、わからないよ。
また無神論についても、必ずしも悪と言えないかもしれない。たとえば昨今は、幼児が殺害されるような事件が頻発したりしてます。
こういう被害者幼児の親が、「神も仏もあるものか!」と泣きたくなるのは当たり前です。これはある意味、愛ゆえの無神論であって、愛が深いほど、犯人および神仏に対する怨恨も深いものでしょ。神仏を呪うのはヤバイけど、呪いたくなるのも仕方ない。
たとえ聖職者であっても、こういう親に対して、以下の説教したら変ですよ。「無神論は悪であり、地獄行きです。神仏はおられます。人生は一冊の問題集です。自分が解決できない問題はありません。今度の事件も、一つの問題です。がんばって乗り越えましょう。この事件は、前世のカルマかもしれませんね」
もし私が天使だったら、「神も仏もあるものか」と泣く親と一緒においおい泣くけど、場違いな説教する聖職者にはちょっと引きますよ。聖職者の説教内容は正しいかもしれないけど、心神喪失状態で嘆いてる親に、そんなことを言うのは何か原則ロボットくんのようで嫌ですね。
宗教的には、唯物論・無神論は地獄と認定されるかもしれないが、健康・情緒の面からすると、必ずしも否定しきれないかもしれないです。
151
:
AHW
:2006/11/12(日) 00:24:15 ID:Y6I0TOUI
ひさびさにこっちもお邪魔。
百式氏
こっちで続いてる議論の内容には面倒なんで立ち入らないが、
古い「ザビビ」の頃も指摘した覚えがあるんだが、
おまえさん、宗教や思想の議論をするのはいいが・・・、
悪いが、そっち方面の教養があまりになさすぎなんだよな。
(まあこれは、百式氏に限ったことではないんだが)
どうも一時が万事、kk本から受け売りの主張しか出来てない。
kk本メガネ以外の視野からも、宗教でも思想でも
ちゃんと正論を学んどく努力くらいしておかんとダメじゃまいか。
宗教のカテゴライズとか見てると、偏ってて痛すぎる。
内輪の論理でわーわーこられても外との法論に到底ならんわな。
とまあ忠告ってわけでもないが、ここ一月くらいの読んでの感想ですた。
152
:
100式
:2006/11/12(日) 23:05:07 ID:KmSoNA7w
>>149
RANDY氏
結局ここに戻ってくるんだなぁ。
信仰は自力か他力か?
だよな。始まりがこれだったねw
>・神が、人にイエスを信じさせる。
>・仏が、人に念仏させる。
>ていう感じですよ。人が自力で信仰し、念仏するのではないみたい。
これが本当なら世界中キリスト教徒になっとるだろ。
無神論者などいない世界が現出する。
KK的には理解不能。
人間に選択権が無い思想だから。
信仰のない状態から信仰を持つ状態へ、
神の御心を受け入れていない状態から受け入れる状態へ、
こういう心境の変化には、必ず何がしかの選択、決断、発心などがあるはずだ。
自己責任を伴う心境の変化がある。
そこを神のお導きというような表現を使うこともあるが、
選択しているのは自分自身。
>キリスト教のカルヴァン主義とかは、人間が道徳心を持ち、それにより自己の行動を規制できるとするような考え方は、とんでもない傲慢としてるようです。
すべては神の御心のままに、つまり自我を捨て去る。
仏教的な無我に通じる考え方だと思うけどね。
こういう考え方を受け入れる、選択するのも自分自身。
>「聖書は人が書いたもの」とか結論出しても、
そう結論付ける人もいるけどな。
神からのインスピレーションと考える人のほうが多いと違うかな。
KK的には複数の指導霊からのインスピレーションってことで問題なし。
>神の導きがなければ信仰は保てないんじゃないか、という気はします。
これは賛成。
世代を超えて広がり、歴史に残る宗教は本物ってことだろ。
>果たして将来、KK信者の中に、霊言集は偽物、KK真理は人がこしらえたもの等と判定した上で、③の信仰に達して、エルカンターレ信仰を継続する人は出現するでしょうか。どうでしょうか。
どうかな〜。
いつの世も宗教を信じない勢力の批判はあるからな。
そういうのは継続してあると思うよ。
で、KK信仰を持っているということは霊界思想を持っていることなので、
③はありえないと思う。
>ちょっと首を傾げたくなります。
事業で成功することで人々が豊かになる。
こういうのも与える愛だと言っているんだが・・・
それともKKで言う「与える愛」とキリスト教で言う「隣人愛」は違うということ?
>実在人物の霊格認定
経典の中に名前が出ていて、映画には出ていない人があるわけで、
その辺は教団が配慮しているということ。
成功者やお金持ちを嫉妬するような思想もまだまだあると思うので、
こういった形で天使なのだと訴えることは重要だと思う。
>>150
医は仁。
しかし、心を忘れた医療の問題は最近は多いな。
これは無神論的な考え方を取り除いていくことで改善されると思う。
そこは対機説法だよ。
いきなり「これはあなたの人生の問題集」なんて言うやつはおらんワイ。
霊界があること、死者の来世での幸福を祈る。
加害者に対する怒りを和らげて行く方向。
被害者の家族に対するいたわり。これが最初か。
しんどいんだが、じっくりと話していくしかないだろうな。
どんな事情があっても、無神論に導いてはいけない。
153
:
100式
:2006/11/12(日) 23:23:25 ID:KmSoNA7w
>>151
AHW氏
ご忠告ありがとうございます。
わかっちゃいるが一朝一夕には変えられないですよ。
ここも早めに去ろうかと思っていたんだけれども、
去れない・・・
こんなワシでも必要とする人がいるかもしれないとか・・・
どうかな〜
ま、逆伝道なら速攻立ち去りますですよw
154
:
エートス
:2006/11/13(月) 02:43:57 ID:d3ktSUoI
>>141
RANDY氏
>私の場合、元々オカルト系をすぐ信じる気質があるわけです。だからオカルトを安易に信じ込まないように、無宗教イズムの方にくいくい引いてもらうのは、悪くないんじゃないかと感じてます。
霊的な事柄とは無縁なためだろうかなー、わたしはオカルトにはあまり関心は無いですね。
>あと私は、宗教を二つくらいに分けてみることがあります。
>① 宗教教団とその教義、および信者という感じの人工的組織化された宗教。
>② ①とは異なり組織は持たない文化習慣情緒とかの宗教。
実際に分かれてるんじゃないですか。ただ、宗教ではなく宗教性と表現したほうがいいかもしれません。
100式氏が潜在意識とかの話を書いていたけど、前者は顕在意識の宗教性、後者は潜在意識の宗教性、と考えていいと思います。
オカルトに惹かれるのも、心が干からびたように感じるのも,おそらく後者の宗教性にかかわっているんでしょう。
そもそも、宗教は、どこからか湧き上がってくる美しさや怖ろしさや偉大さや深い意味に対する心情_潜在的な宗教性_というバックグラウンドを
例外なく持っていますから、顕在意識の宗教性は「ニ次的なもの」と考えていいと思います。
だから100式氏が「宗教が仕切る」と言われる意味が相変わらず分からないんですよ。2次的なものがどうやって根源的な世界を仕切るんだろう_という疑問を持ちますネ。
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