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現代人が納得できる日蓮教学
318
:
無徳
:2005/10/17(月) 22:55:56
皆さんお久しぶりです。
私は皆さんとちょっと違った視点から「現代人が納得できる日蓮教学」なるス
レッドのテーマに即して論じてみたいと思います。
果たして「現代人が納得できる日蓮教学」と言う、当スレッドのテーマに相応
しいかどうかはわかりませんが、遺漏がありましたらご寛恕ください。
いわゆる『現代思想』と『日蓮仏法』との関係性を問うことが可能であるとす
れば、それは如何なる位相に於いて可能であり、なおかつ、現代思想に於いて
は様々な領域に於いて行き詰まり状況にあることがつとに語られる昨今である
とすれば、『仏法』なかんずく『日蓮仏法』というパラダイムから現代思想に
対し逆照射を与えつつ、さらには、現代思想の限界点も突破することすら可能
であるかどうかを、皆さん方と共に探求したいと思います。
しかし、現代思想と言ってもあまりに漠然としていて焦点が定まりませんので、
現在における現代思想に於いての最も中心的課題は『言語論』であり『言語の
謎』と言って過言ではないと思われますので、日蓮仏法に於ける『言語の謎』
という位相から現代思想と関連付けて考察してみたいと思いますので皆さ方の
お知恵を拝借したいと存じます。
まずは、仏教思想というパラダイムに於ける中心的思想つまり言語は『縁起』
であり『空』であることは多くの人が承認する処でありましょう。そして、縁
起とは全ての存在は関係性の中にあり、独存にして常一主宰のものは何一つな
いとすることも承認されることでしょう。したがって、全ての存在の態様は
『空』であることも仏法者(仏教徒)であるなら否定はしないでありましょう。
さて、日蓮仏法における最も中心言語は南無(梵語)という二字と妙法蓮華経
(漢語)という五字の合成語である『南無妙法蓮華経』と言う五字七字ですが、
果たしてこれは如何なる言語なのでありましょうか、仏教思想における『縁起』
と『空』とは如何なる関係にあるのでしょうか?
この謎に迫る前に現代思想における言語の謎とは如何なるものであるかを、確
認しておきたいと思います。とは言ってもあまり言語の謎に拘泥すると、その
言語の密林に迷い込んで出てこれなくなる危険性がありますので、次回に現代
思想の入門的な書として最適な竹田青嗣氏の『近代哲学再考』を借りて現代思
想における言語の謎の一端を確認しておきたいと思います。
それでは皆様方のお考えも是非お聞かせください。
319
:
無徳
:2005/10/18(火) 00:42:52
竹田青嗣氏の『近代哲学再考』によれば、まずはギリシャに於いてターレス
やヘラクレイトス等のミレトス学派によって『存在の謎』が提出され、続いて
パルメニデスやゼノンと言ったソフィスト達によってパラドックスと言う『言
語の謎』が自覚的に作り出されたとされています。
つまり、『言語の謎』とはギリシャ哲学発祥の頃から提起されていた古くて
新しい謎と言うことになります。さらに近代哲学においてはその『存在の謎』
や『言語の謎』を人間の厳密な認識の可能性を問うと言う形で『認識論』が
哲学の主流となりますが、現代哲学にいたってそれが『言語論的転回』とな
って、再び『言語の謎』へと姿を変えて再登場することになったとされてい
ます。
つまり、これらの事柄を私なりに解釈すれば、世界の存在や人間の存在さら
には自己の存在と言ったアプリオリな謎は、釈尊が無記として語らなかった
謎であり、人間の認識能力を超えた謎でもあると言えましょう。
しかし、人間は様々な問いを発せずにはおれない存在でもあり、したがってそ
の問いを立てるにしても、その問いに答えるにしても言葉を使用する事が唯一
の方法といえます。(身振り手振りも言葉の一種)しかしながら、アプリオリ
な難問(謎)を言葉によってコミュニケイトすることは原理的に無理がありま
すから、人間は巧みな比喩や物語を屈指して伝えようとしたのが、宗教におけ
る教義でありそれを記述したのが経典でありましょう。
したがって、言語なるものは本来的に限界を有するものであり。パラドックス
を抱えた存在と言って過言ではないといえます。現代思想の領域では言語の分
析を通じてギリシャ哲学以来の形而上学批判を展開していますが、竹田青嗣氏
も指摘しているように、現代哲学の『言語論的転回』はもともとはヨーロッパ
近代哲学の形而上学的「話法」に対する対抗として生じてきたが、カントがは
っきり示したような<答えの出ない問いを果てしなく問い続けること>という
意味で捉えるならば『言語論的転回』も『言語の謎』と言う形而上学的な有り
様と言わざるを得ません。
320
:
乾闥婆
:2005/10/18(火) 01:04:27
>>318
無徳さん。お久しぶりです。
覚えていらっしゃらないかも知れませんが、以前「キウ」というHNでniftyなどで議論させていただいた者です。
>仏教思想における『縁起』と『空』とは如何なる関係にあるのでしょうか?
小池さんの引用された平川氏の説にもあるように、「すなわち法華経は、空系列の経典であるよりも、真如や如来蔵思想に発展してゆく有の系列の経典と考えるべきである」といったことは、やはり言えると思うのです。犀角独歩さんとの議論の中で確認しましたが、蓮祖が霊鷲山に常住する釈尊の実在を信じていた、その上での見仏である、といったことも、どのように「空」といった思想と折り合えるのか、関心があります。概念や理念としての「時我及衆僧 倶出霊鷲山 我時語衆生 常在此不滅」ではなく、実在としてのそれであるならば、法華経は、なかんずく蓮祖は「空」思想と折り合えなくなってしまわないでしょうか。
>次回に現代思想の入門的な書として最適な竹田青嗣氏の『近代哲学再考』を借りて現代思想における言語の謎の一端を確認しておきたいと思います。
竹田青嗣氏の『言語的思考へ』(径書房)は非常に刺激の多い本でありました。ちょうど続いて『近代哲学再考』を読んでみようと思っていたところです。仕事が忙しくあまり書き込めませんが、楽しみにしております。
321
:
無徳
:2005/10/18(火) 07:50:28
乾闥婆さんお久しぶりです。そうでしたかキウさんでしたか良く覚えています
よ。
私も20年以上も前からniftyの掲示板で、sunyaさんに助けていただきながら様
々な論議に参加していました。北条さんという方の文体が私にとっては理解し
難く難渋していましたら、sunyaさんが見事に読み解きつつ北条さんと論議し
ているのをみて、sunyaさんの読解力に感嘆したことを今も鮮明に覚えていま
す。
その頃の私はすでに40歳を過ぎていましたが、学問とはほとんど無縁に生きて
きましたので論議に参加すること自体冒険でした。それまでと言えば、好きで
科学関連の本と少々訳あって三島由紀夫や吉本隆明の本を読んでいたのみで、
後は創価学会経由の教学と耳学問が大半でした。
しかし、インターネットの普及によって、この掲示板のようにいろいろな方が
参加して、自由に論議できる場がたくさん出来た事はすばらしいの一語に尽き
ます。私も拙いながらいろいろな掲示板に参加することによって、様々に刺激
や示唆を受けながら勉強させていただいております。
私が
>仏教思想における『縁起』と『空』とは如何なる関係にあるのでしょうか?
としたのは、あくまで南無妙法蓮華経と縁起・空の関係を問うたものです。
私の書き方がまずかった為に縁起と空の関係を問うたような印象になってしま
いすみませんでした。しかし、縁起と空の関係と言うことも論ずべき立派なテ
ーマとなり得ますね。
>小池さんの引用された平川氏の説にもあるように、「すなわち法華経は、空
>系列の経典であるよりも、真如や如来蔵思想に発展してゆく有の系列の経典
>と考えるべきである」といったことは、やはり言えると思うのです。犀角独
>歩さんとの議論の中で確認しましたが、蓮祖が霊鷲山に常住する釈尊の実在
>を信じていた、その上での見仏である、といったことも、どのように「空」
>といった思想と折り合えるのか、関心があります。概念や理念としての「時
>我及衆僧 倶出霊鷲山 我時語衆生 常在此不滅」ではなく、実在としての
>それであるならば、法華経は、なかんずく蓮祖は「空」思想と折り合えなく
>なってしまわないでしょうか。
とのキウさんからの問題提起に対しては次回において私なりにお答えしたいと
存じます。
それから、私も最近竹田青嗣氏の『言語的思考へ』を読みました非常に刺激的
で示唆に富む内容でしたね、今後とも様々な論議通じて共に研鑽してまいりま
しょうよろしくお願いします。
322
:
犀角独歩
:2005/10/18(火) 14:54:46
無徳さん
お久しぶりです。
先の経過がありますから、特に争論とはしたくない。その前提で記します。
ただし、当スレには当スレの脈絡がありますから、記すべきことはしっかりと記さなければなりません。
宗教哲学の問題が、9割方が言語の問題であるという指摘は、ご承知のとおり、『現代書学と仏教』で石田次男氏が行っていました。
彼が、無徳さんと論法的に違うのは、西洋哲学における弁証法を斥け、仏教教団における伝統的な古因明によるべきだとしたことでした。つまり、西洋哲学が仏教を破壊したというのが、その主張でした。より具体的に記せば、彼が言う現代諸学とは、つまり、言語論も含む西洋哲学であり、それを、外なる道、すなわち外道=現代諸学といったのでしょう。日蓮の教えは内外相対からはじまるわけだから、外道を簡んで、内道に採るという立場です。ですから、いま、無徳さんが仰るような形で、日蓮を解題するとすれば、まずこのハードルを越える必要があるでしょう。
> 答えの出ない問いを果てしなく問い続けること
宗教には、こういった問題は着いてい回ります。しかし、この言葉が逃げ口上になれば、その宗教は卑屈なだけです。
いままでの議論で、法華経が釈尊の直説ではないこと、どのように成立してきたかという点で継続しています。それ以前に末法についても、論じ合いました。これらは別段、答のでないことではありません。答は出ていることです。
また、宗教といわず、大石寺について言えば、答が出ることがあります。
先ず、所謂「本門戒壇の大御本尊」についてです。これは、既に論証してきたように日禅授与漫荼羅を原本として臨模・作為された彫刻であることは明白です。答が出ないことではありません。また、歯にくっついた肉が700年はおろか、1日とて生きていたり、ましてや成長したりするはずはありません。このようなものを本物であるというのは、答が出る出ない以前にペテンという言います。
以上のような、インチキ、ペテンのまがい物によっている集団において、無徳さんが呈示くださった言語の問題は、当てはまりません。
殊に日寛の教学を現在、担ぐことにおいて、この彫刻の無謬性が根幹とするわけですから、その教義は既に瓦解しています。
以上のような事態を、言語=教義の問題は形而上の問題であるから、「答えの出ない問いを果てしなく問い続けること」とは、言えません。はっきりと答が出ていることです。
ですから、当スレのテーマで言えば、現代人に通用する日蓮とは、そのようなインチキ、ペテン、まがい物を排除したところから出発するものであることは言うまでもないことでしょう。
もちろん、無徳さんが仰ろうとされていることは、以上の前提に基づくことであると、わたしは信じます。しかしながら、ロムする人々のなかで、信仰を言語での論証不能であるから、信じることがすべてだなどという逃げ道を与えることは、いままの議論が水の泡になりますので、いちおう、記させていただきました。
当然のこととして、ご呈示いただいたテーマは、21世紀の日蓮を考えるうえで避けては通れないところです。故に、引き続く、ご投稿を楽しみにしております。
323
:
無徳
:2005/10/18(火) 16:14:38
>小池さんの引用された平川氏の説にもあるように、「すなわち法華経は、空
>系列の経典であるよりも、真如や如来蔵思想に発展してゆく有の系列の経典
>と考えるべきである」
>中略
>「時我及衆僧 倶出霊鷲山 我時語衆生 常在此不滅」ではなく、実在としての
>それであるならば、法華経は、なかんずく蓮祖は「空」思想と折り合えなく
>なってしまわないでしょうか。
と、小池さんや乾闥婆さんが示された平川彰氏による当該箇所は私も、かなり
以前に読んでなかなか理解し難い文意に戸惑ったことを思い出しました。
ただ、乾闥婆さんが独歩さんとの論議の中で引用された講座・大乗仏教第四巻
『法華思想』(41p)の中にある当該箇所は、平川彰著作集第六巻の『初期大乗
仏教と法華経』(356p)の中にもほぼ同文が載っていますが、若干内容に違いが
あります。
それは、『初期大乗仏教と法華経』の中では、「仏教思想を空の系統と有の系統
に分けるとすれば、法華経は有の系統に属するというべきであろう。」の後に
「しかしその有は、空を離れた有ではない。この点が誤解されやすいが仏教で
は、空と有とは矛盾するものではない。同じことを、空をおもてと見るか、有
をおもてと見るかの違いである。空は論理で理解できるものではないのであり、
教理の思索から長年月の間に自然に体得せられるものである」となっています。
それにしても、<法華経が「有」の立場に立つことは、法華経が「信」を重視
することにも関係がある。信仰は実在を対象とするからである。>との論点に
は少々驚きます。私の考えでは有である実在を対象とするのであれば信を強調
する必要はなく、そもそも仏教を実在論的に理解することは現在では迷妄とさ
れているように思われますが如何なものでしょうか?
324
:
犀角独歩
:2005/10/18(火) 17:28:05
> 有である実在を対象とする
板漫荼羅信仰というのは、まさにその有の最たる万年不朽の楠板の彫刻を信仰しているのではないでしょうか。
325
:
無徳
:2005/10/18(火) 18:55:01
楠板の彫刻その物を信仰しているのではありません。御本仏たる日蓮大聖人が
書き表された御本尊として信仰しているのです。
貴方は現在の大石寺にある板曼荼羅を偽としていますが、私は今のところ偽と
は断定していません、しかし、貴方の考察や河辺メモ等を考慮に入れると偽の
可能性も否定できません。
私は「三大秘法抄」は宗祖のご真筆と信じておりますので、いわゆる本門戒壇
に安置されるべき御本尊を表されたであろうことも信じております。
しかし、もし何がしかの理由でその御本尊が失われたと仮定したとき、その御
本尊に代わるべき御本尊が再興されても不思議はないであろうと思います。
石田次男さんも私がもし焼失なりなんらかの理由で戒壇の御本尊が失われたと
きはどうなるのでしょうと質問したところ、日蓮正宗の宗務院と信徒の総意で
再興すればよいといわれ、御本尊そのものは決して物体ではなく宗祖のおん魂
であられると申されておりました。
326
:
犀角独歩
:2005/10/18(火) 19:12:41
では、無徳さん、お尋ねします。
325にあなたが記されたことは、大石寺に通用しますか。
しないでしょう。しないことをもって反論することが何の意味がありますか。
また、
> 私は今のところ偽とは断定していません
ならば、真であることを、ここに証明されればよいだけです。
> 本尊に代わるべき御本尊が再興
ですから、ここでも、まだ、再興されるモノ(有)に拘っているでしょう。
そんなものは空などとはいえないのでしょう。どうですか。
> 書き表された御本尊
とは、何でしょうか。具体的に記してください。
空たる本尊ですか。言語には限界があれば、南無妙法蓮華經という言語にも限界があり、さらにそれを書き表したものにも限界がある、ともに有ではないでしょうか。
それが有でないというのであれば、ここにちゃんと説明してください。
要は、無徳さんの論法は引用する哲学、言語論と著しい齟齬を来しているとしか思えませんが如何でしょうか。
327
:
無徳
:2005/10/18(火) 19:57:22
独歩さん相変わらずですね。
大石寺に通用しますかとのことですが、現在時点で通用するとは思いませんが
もしも、万が一にも戒壇の御本尊が失われるようなことがあれば、おそらく通
用することになることでしょうとしか申し上げようがありません。
また、御本尊たる板曼荼羅が単なる物体でなく宗祖が法華経を身口意の三業で
読みきられて、末法の衆生に残された曼荼羅であり、その曼荼羅を御本尊とし
て尊崇し御題目を唱え感応同交することによって成仏が可能になるであろうこ
とも大石寺の教学から学んだことです。
>ですから、ここでも、まだ、再興されるモノ(有)に拘っているでしょう。
>そんなものは空などとはいえないのでしょう。どうですか。
とのことは、私は御本尊は単なる物ではないと申し上げておりますよ。
>言語には限界があれば、南無妙法蓮華經という言語にも限界があり、さらに
>それを書き表したものにも限界がある、ともに有ではないでしょうか
とのことについては後日私の試論を述べてみたいと思います。
まあ貴方自身の215のご意見に齟齬を来たさぬよう期待します。
328
:
犀角独歩
:2005/10/18(火) 20:30:34
無徳さん
> …相変わらずですね。
それはあなたのことでしょう。議論の流れを無視して、突然書き込みをする、まあ、それはよいとしましょう。次に、こちらから「お久しぶり」と挨拶をしても、返答もせず、持論をごり押し、遂に頭に来れば、反論だけ書く。そんな態度は、大人げないでしょう。ですから、あなたはここでは議論ができないのです。215を云々していますが、敬うことを人に強要する前にまずは自分が手本を示されるべきでしょう。
年齢に見合った見本となってもらいたいということです。
あなたのやり方は、議論のエチケットに反していますよ。
> 大石寺に通用…戒壇の御本尊が失われる…通用する
何を言っているのだか、わかりません。
> 曼荼羅を御本尊…御題目を唱え感応同交…成仏が可能
ですから、その漫荼羅を弘安2年10月12日本門戒壇の大御本尊と規定することは実在かではないのかという質問です。
> …御本尊は単なる物ではない
では、単なる物でなければ何でしょうか。
漫荼羅の魂というのであれば、それを、では是としましょうか。
ならば、弘安3年5月9日の、それも真筆と認められない日禅授与漫荼羅を臨模・作為して弘安2年10月12日の本門戒壇の大御本尊に仕立てられた本尊の魂とは何でしょうか。それに魂があれば、嘘、偽りと言うことでしょう。
> 貴方自身の215のご意見に齟齬
まあ、こんな嫌みしか言えず、問われたことに何も答えない、相変わらずのやり方では、個人の信仰のからは守れても、社会一般には通用しません。
この言葉については、冒頭に記したとおりです。
さて、ついでに書いておきましょう。
この漫荼羅と魂の問題を突き詰めると、ついには弘安2年10月12日・本門戒壇の大御本尊のみとすることはできなくなります。
なぜならば、その信仰者は、遠目でしかそれを見られず、何が書かれているのかもわからないからです。また、弘安2年10月12日という日付に拘っても、そこに何らこの本尊が唯一であるとする裏付けはありません。つまり、この日付に魂はありません。
漫荼羅ではなく、その魂と言うことであれば、日蓮の、どの漫荼羅と断定することはできません。すべての漫荼羅は等しく日蓮の魂が宿るのであり、また、その日蓮を崇拝し、書写された漫荼羅も等しく魂を有するでしょう。
以上のように考えていけば、漫荼羅・魂論とは弘安2年10月12日楠板彫刻本尊という特定漫荼羅本尊を斥ける結果になるのは理路整然としたところです。
329
:
小池
:2005/10/18(火) 21:11:06
独歩さん
独歩さんのお考えを理解するために整理してみたメモです(まだまだよくわからない部分が多く未消化ですが…)。
【Ⅰ.法華経でいう「法」とは何か】
1.「法」と言えるのは「妙法」と羅什が訳した言葉が指したもの。
2.「妙法蓮華經」は「経典」の「名」であり、「南無妙法蓮華經」はその「経典」に「南無」するという以上の意味はないところを「経題」そのものを「法」とした教学的な姿勢を直視する必要がある。
3.法華経全編を見ると、諸仏はこの経典によって成仏した、経典自体が遠い過去から存在していたとはあるが、経典自体が「法」であるという記述はない。
4.その「法」が何であるのかという点で明確に記述される句を探すと「教菩薩法」に尽きる。この漢訳に該当する梵本直訳を見ると「菩薩をいましめ」る(岩波文庫『法華経』上 P45)という以上の意味はない。法華経とは菩薩を教え(いましめ)、成仏記別を与える教えという内容になっている。
5.この「法」は「理法」ではなく、間違いなく「教法」(もしくは「行法」)である。教えは教(菩薩)法、行は菩薩行(六波羅蜜)である。これは実際の実践の行を教えること。それにも拘わらず、その教えを書いた本の名前を「法」と捉え違いするとき、実践行はそこで廃れてしまう。まさに「お題目だけ」ということになる。行法としては、六度(また八正道)といった実践行を忘却したところに後退があったと主張したい。
6.「妙法蓮華經は経題である」、なんでそれが「法」なのだという当たり前の疑問であり、このような当たり前の疑問は、古来からいわれていたようで、台釈にしても、日蓮教説にしても、その弁明に終始していると強く感じる。
7.私は、「題目」(五字七字)が「法」であるという教理解釈には反対の立場。
330
:
小池
:2005/10/18(火) 21:12:40
【Ⅱ.教の違い】
梵本法華経
梵本法華経は菩薩の戒めから計り知れない寿命を持つ如来になるために、法華経典を弘める「菩薩行」を督励するもので、この経典は古代の東西を凌駕した「聖典信仰の系譜」にあるように思える。
経典は誰かが作ったものであるというより、神秘な存在として永遠の過去から存在しているというもの。
経典は仏が説いたというのが旧来の在り方だが、法華経ではむしろ経典が仏にしたというコンセプトが散見できる。
その経典は誰が作ったのかということには言及せず、神秘の存在というコンセプト。
舎利信仰、仏塔信仰、仏像信仰も肯定はされているが、その骨子は「経典信仰」にある。
ここでいわれる「法」は「教法」であり、宇宙の真理であるとか、心の有り様であるといったことを問題にしていない。
この法華経が教える菩薩の戒めこそ、唯一の教え(法)であり最高のものである、菩薩以下の衆生も菩薩道を行じて仏になるという。この菩薩は徹底した無抵抗、非暴力、不怒の菩薩。
天台
しかし天台はこの「法」を什訳方便品の「諸法実相」から心から整理していく。「説己心所行法門」(己の心に行ずる訪問を説く)という解説はそれを端的に物語る。天台が法という場合、それは心法であり、その観察を十界、十如、三世間から三千の止観禅として結実したという点で、梵本法華経のコンセプトと大きく異なる。天台の時点では一念三千という成句化はない。「言語道・断、心行・処滅」をモットーとした天台が、このように三千分類観察する心法をしかし、三千であるとするわけがなく、三千はまた一心として、非三千にして、しかも非一、亦三千にして、亦一とするのは、実に勝れた観点である。
ところが妙楽は、天台の言う一心を一念とし、三千という定数化を天台が簡んだにも拘わらず、一念三千とした。個人的にこの妙楽解釈は、天台から大きく後退したものと思う。
日蓮
日蓮に至っては、この妙法蓮華経という経題を末法付属の正体として、法華経典への南無ではなく、この五字への南無として、「南無妙法蓮華経」とし、漫荼羅という独自な境地を展開していった。
331
:
小池
:2005/10/18(火) 21:13:15
【Ⅲ.行の違い】
梵本法華経
法華経は、菩薩を教えるといい、その成仏の結果は寿量(量り知れない寿命)であるという。ここで重点となっているのは「菩薩行」。
天台
羅什は、五何法と言われる箇所を九如是と約して恣意的な方向性を定めてしまった。
慧師を通じて天台はこの九如是を十如是として、唯識思想、また老荘思想、華厳思想、涅槃思想等と総合して三千不可思議境という座禅(止観)の方法を論じる。
妙楽はこれを一念三千とし、妙楽解釈の天台が天台として日本に伝わる。
ここで重点になっているのは止観という禅。
日蓮
日蓮は、伝教以降、真言密教の影響を受けた天台学と念仏の影響下で純天台を目指す意識を持ちながら、南無妙法蓮華経の唱題行を立てるという独自な展開をすることに。
332
:
小池
:2005/10/18(火) 21:13:53
【Ⅳ.末法】
今回の末法についての呈示は、末法思想を鼓舞する人々が、自分達が生きている時代こそ末法であるという認識に立っているという点である。
梵本法華経の制作者といえども、この例外ではないと考える。彼らが経典を創作し、釈迦滅後の時代を描写するのは、自分達こそ、その「末法」の弘法者であるという認識を、紀元前後の段階で既に持っていたからと考える。創作者たちがいう末法とは梵本法華経成立時点、さらにそこに登場する釈迦を担う主人公・地涌菩薩の出現もまた、創作者とその集団を指した西暦前後その時代を想定したものであったろうと考える。
重要な点は法華経制作者も、天台教派も、そして、日蓮も、通じて、自分達の時代が末法であるという自覚に基づいているという点である。
末法認識とは、現実社会が乱れ、滅亡に向かう様相を呈し、さらに人心が退廃している理由を、正しい教えの滅尽したことに理由を求める構造で古今一貫しているという点である。
法華経は、末法(教説が絶える=法滅)という時代に、釈尊を仰ぎ、「この世をどうするのか、衆生をどうするのかを考えた」経典であったという点(厳密に言えば「」で括った部分)が評価できる。
末法‘思想’は、この世をどうするのか、どう変えたかによって意味をなす‘思想’であるという点を再認識し、実際に活かされれば今日的な意義を持つに至るのではないか、その可能性があるのかが議論したい点。
333
:
無徳
:2005/10/18(火) 21:22:16
独歩さん貴方がおしゃられる様に私は大人気ない人間です、そのことは否定し
ようが有りません。
>あなたはここでは議論ができないのです
との事ですのでこれにてこの掲示板から去ります。
なにせ、貴方が中心の掲示板でありましょうからね、他の皆さんには私のレス
が中途半端になってしまった事をお詫びします。
もしも、他の掲示板にてお会いすることがありましたらその時はよろしくお願
いします。それでは失礼します。
334
:
無徳
:2005/10/18(火) 21:56:41
管理人さん、どこに書き込んでよいのか解りませんでしたのでここに書き込ま
せていただきます。
長らくお世話になりました私も管理者メニューにアクセスでき得る立場に居り
ましたので、後々のため管理者パスワードの変更をお願いします。
それでは失礼します。
335
:
犀角独歩
:2005/10/19(水) 00:57:08
無徳さん
まあ、あまり血圧が上がらないように冷静にと申し上げておきましょう。
そもそも、当スレは、ここのところ、法華経の成立その他を真剣に議論してきたわけです。それが一つの流れです。
そこで、突然、「『現代思想』と『日蓮仏法』との関係性を問う」と、脈絡なく、書き込みがあったわけです。これにお答えになったのが乾闥婆さんで、そこに挨拶その他のコミュニケーションもあったわけでしょう。
わたしとしては、折角、ここのところ、一字三礼さん、Pohさん、小池さん、また、乾闥婆さんと積み上げてきた議論があるわけですから、そこの新たなテーマをもたらすのであれば、相応の挨拶、また、イントロがあってもよいだろうという思いがあるわけです。
第一、当掲示板は、特定の相手を決めて、他を無視し、問われれることも無視して、一方的に自分の意見を述べることを制する不文律があります。問われれば、解答し、特定の相手で綴じた議論をしないという佳例です。
ところが、これを無徳さんは常に無視をするわけです。ですから、「当掲示板では議論がきない」と申し上げるほかないわけです。
まず、わたしの挨拶を無視したうえで、さらに、わたしが投げた322の投げかけを無視したわけです。さらに326に投げかけたことにも解答をよくしていません。
わたしは石山彫刻の是非を語るにつけ、利を尽くし、いまで切る証拠(写真、画像)をも尽くして、それを論じてきたわけです。それに反論するのであれば、同じく利を尽くし、写真、画像の証拠も示して、それに答えて、「本門戒壇の大御本尊」の正統を論じてこそ、誠意と筋があります。それをなさらない。さらにあのインチキな生きた御肉関しても頬被りを決め込んでいる。このような不誠実な態度をとりながら、ただ、自分の意見を、一方的にごり押しするような態度は、好ましくないと言ったのです。
自分の主張をしたいのであれば、まず、投げかけられた疑義に対して、答を尽くし、語るのが筋であると申し上げているわけです。
ところが、お見かけするところ、自分の言うことに反論されること自体に立腹されたようで、これでは真っ当な議論が成り立ちません。ここは自涜を晒す場ではなく、議論の場です。そこで議論するためには、それなりの礼節とルールが存する、それを無視していると、わたしは指摘したまでです。当然のことであろうと思います。
また、ここはわたしが中心であるはずはなく、わたしは単に自分が主張したことにつき、投げかけられた疑問は一切、お答えし、齟齬が生じれば、それを修正して、本日までやってきたに過ぎません。問答名人さんを筆頭に、れんさん、彰往考来さん、顕正居士さん、パンナコッタさん、乾闥婆さん、独学徒さん、Pohさん等々、その他大勢の方々と、質疑応答を繰り返し、それなりの成果を上げてきました。
わたしは自分の考えに執着する理由は何もなく、あるのは、ただ真実を知りたいという欲求のみです。その事実の前で、自分の考えに間違いがあれば、皆さんの叱正を仰ぎ、ただ訂してきた、自分で考えたことを披瀝し、反論に関しては、細大漏らさず、一切応じてきた、そのようなわたしの在り方を中心というのは、まったくの勘違いでしょう。
以上のような成り立ちですから、無徳さんのように相手を選び、投げかけられた疑問は無視し、ただ、自分の考えだけをごり押しするような態度は、残念ながら、馴染まないと言うことです。しかし、別段、だからといって、去る・去らないなどという短絡を迫っているわけではなく、皆で作り、守ってきた議論のルールは守らなければ、ここでは通用しない、故に守ってくださいと言っているのに過ぎません。
今一度、冷静になって、再考ください。
336
:
犀角独歩
:2005/10/19(水) 00:57:32
小池さん、たいへんによく整理をしていただき、まことに有り難うございました。
ここに312の指摘を撤回します。
337
:
犀角独歩
:2005/10/19(水) 01:07:09
慌てて打ち、また訂正、恐縮です。
【335の訂正】
誤)特定の相手で綴じた議論
正)特定の相手で閉じた議論
誤)議論がきない
正)議論ができない
誤)いまで切る証拠
正)いまできる立証
誤)生きた御肉関しても
正)生きた御肉に関しても
338
:
乾闥婆
:2005/10/19(水) 02:02:35
無徳さん、犀角独歩さん。
私は以前の経緯を知りません。
犀角独歩さんから無徳さんに対して、「本門戒壇の大御本尊」についての問いただしがあるということは、そのような議論がかつてあり、その曼荼羅をめぐる議論においての何らかの経緯が両者にあったのだろうと、理解いたします。
以前にも記しましたが、私は曼荼羅を道具であると思っています。道具は役に立たなければ意味がありません。
当時、月例登山会があり、何度も正本堂で御開扉を受けましたが、子供心にこれでは意味がないと思ったものでした。犀角独歩さんが言われるとおり、曼荼羅がさっぱり見えないからです。自宅に帰ると達師による曼荼羅があり、非常によく読め、ほっとしたものでした。蓮祖の曼荼羅は文字なのですから、読めなければいけません。読めない文字は意味がありません。今は実家を離れ寛師の曼荼羅であるのですが、実に不満です。字がつぶれていて読み取りにくいからです。
犀角独歩さんの「謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について」には目から鱗の落ちる思いをしましたが、実のところ精神的なショックというものはあまりありませんでした。ああ、やはり、そうなのか、といった思いのほうが強かったくらいです。もともと遠すぎて読めなかったものに、まさに、物に、私は信仰をしてはいなかったからです。
『仏教の思想5 絶対の真理<天台>』(角川文庫)に田村芳朗氏は宮澤賢治を紹介しつつ雨ニモマケズ手帳なるものの写真を掲載しております。そこに宮澤賢治による「曼荼羅」がありました。真ん中に「妙法蓮華經」、両脇に釈尊と多宝如来、その脇に四菩薩、汚いけれど、はっきりした字で書かれています。この写真を見たときに私ははっとしました。うまく言えませんが、ああ、そういうことなのだな、と思いました。そのとき私は「本門戒壇の大御本尊」から完全に自由になれたのだと思います。その後、大日蓮展で臨滅度時の曼荼羅を見たときもその文字が作り出す世界に、その蓮祖の精神に素直に感動しました。よく見えもしない「本門戒壇の大御本尊」では、本当に用を成さないと思いました。
現代人が納得する、とは、やはり文字なら文字で、よく読めること、そしてそれは文字に過ぎないこと、しかし文字は人に作用すること、それ以上でもそれ以下でもないこと、そういうことではないかと考えました。
とりとめもない感想を書き散らしました。お詫び申し上げます。
無徳さん。
><法華経が「有」の立場に立つことは、法華経が「信」を重視
することにも関係がある。信仰は実在を対象とするからである。>との論点に
は少々驚きます。私の考えでは有である実在を対象とするのであれば信を強調
する必要はなく、そもそも仏教を実在論的に理解することは現在では迷妄とさ
れているように思われますが如何なものでしょうか?
というよりも、実在を信じる、ということではないでしょうか。ですので「法華経は、なかんずく蓮祖は「空」思想と折り合えなくなってしまわないでしょうか」、すなわち、仏教とは言えなくなってしまうのではないでしょうか、といった私の問いであったのです。
ほとんどロムに近い私が言うのも変ですが、このままでは非常に残念ですので、よろしかったら、書き込みを続けられてはいかがでしょうか。言葉に対しては感情ではなく、言葉で対処するべきだと思います。
339
:
犀角独歩
:2005/10/19(水) 14:34:21
乾闥婆さん
> 正本堂で御開扉…もともと遠すぎて読めなかった…私は信仰をしてはいなかった
以前も、独学徒さんの開扉記を拝読したときも思ったのですが、わたしのような宝蔵、奉安殿、正本堂という堂宇を経てきた者にとって、800万人・500億円の供養をもたらした「本門戒壇の大御本尊」信仰は実感できます。しかし、世代を経、いまの創価学会の人々には、恰も日本の戦前に天皇が現人神と崇められていたのと同様、過去の物語になっているということを、わたしはなかなか実感できませんでした。
創価学会は石山のみならず、日蓮も卒業すべきであるとわたしは考えていますから、それはそれでけっこうなことなのでしょう。ただ、800万人を突き動かしたけじめは、被害者でありながら、加害者であるわけですから、総括はすべきであると考えます。もっとも、いまの規約を見る限りまだ遠い将来に属しそうですね。
> …宮澤賢治…雨ニモマケズ…手帳…曼荼羅
わたしは、これを「日蓮正宗創価学会」時代にはじめて見、当時は「謗法」と思ったものです。しかし、いまは、あの手帳に密かに書き懐中にあった思いがわかる気がします。
このように記すと誤解を生じるかも知れませんが、わたしは『雨ニモマケズ』というあの詩は、賢治が自分自身で紡いだ彼の法華経なのだと思います。
> 臨滅度時の曼荼羅…文字が作り出す世界…蓮祖の精神に素直に感動
同感です。
わたしがはじめて日蓮の文字というのを見たのは、国立博物館か何か展示された『立証安国論』でした。筆の毛先一本一本が確認できる筆致、墨色は黒は黒でも、濃厚な緑がかった色、700年を経た紙質…。真筆でなければ、けっして観じ得ない日蓮の魂をそこに見ました。
現代のように特にインターネット、プリンター等も発達し、肉筆というものを見る機会はめっきり減りました。しかし、文章は書いた本人の肉筆に真価があると思えます。その意味において、たしかに墨痕鮮やかに書される漫荼羅は、その文字文化の昇華、日蓮門下にとっては、その頂点にあるのだと思います。日蓮の真筆は、それを写真、製版印刷したものには遠く及ばない迫力、真跡を存しないまでも「日蓮がたましひをすみにそめながして」という件は、まさに真筆しか持ち得ないものであろうと考えます。
> よく見えもしない「本門戒壇の大御本尊」では、本当に用を成さない
一般のお宝は、案内に写真を出します。写真は写真であって、本物ではありません。しかし、ガイドにはなります。しかし、石山はそれをできない。できないなりの理由は彰往考来さんと話し合ったところで、当たりでしょう。
> 現代人が納得…文字…よく読めること…文字に過ぎな…人に作用…それ以上でもそれ以下でもないこと…
多分、日蓮はこの文字(有)を窓として、空を垣間見せようとしたのかも知れません。
やや、補足になりますが、ここのところ、空・有という議論が続いていますが、この前提は有といえば、無との対照、しかし、有無といえば、空との対照で、また、中と対照というのが議論の筋であろうかと存じます。日蓮を西洋哲学解きすると余計な要素が入り込み、かえってややこしくなると思えますが、如何でしょうか。もちろん、西洋哲学を斥けるという意味ではありません。別のものとして扱うということです。
一つ、お尋ねしたいのですが、文字は読めてはじめて、用を為すという点ですが、たとえば、SGIのように全世界の非漢字圏の人々にとっては、漫荼羅は読めないわけですが、このような人々には、この点、どのようにお考えになりますか。争論の意図はありません。少しこの点でもお考えを頂戴したいと思っております。
340
:
乾闥婆
:2005/10/20(木) 01:14:04
>>339
犀角独歩さん。
>創価学会は石山のみならず、日蓮も卒業すべきであるとわたしは考えていますから、それはそれでけっこうなことなのでしょう。ただ、800万人を突き動かしたけじめは、被害者でありながら、加害者であるわけですから、総括はすべきであると考えます。もっとも、いまの規約を見る限りまだ遠い将来に属しそうですね。
そうですね。自己批判をするところからはじめられればよいのでしょうが、うやむやにしつつ、なかったことにしようとでもしているかのようです。過去を知っている人が死に絶えるのを待ってでもいるかのような。思えばもはや今の未来部の子供たちは大石寺登山も、御開扉も、ほとんど知らない世代なわけですから、もう十年、二十年も経てば、まったく宗門とのしがらみがない人たちが組織の中心に来るのでしょう。しかし日蓮仏法を創価学会は結局のところ卒業できないと思っています。池田氏の死後、何を持ってその組織の求心力とするのかと考えますと、日蓮仏法を振りかざすしかなくなるのではないでしょうか。そのときになって、まだ天台五時であるとか、「本門戒壇の大御本尊」であるとか、そういうことを、正当性・唯一性の根拠のように言っていないといいのですが。
>わたしは、これを「日蓮正宗創価学会」時代にはじめて見、当時は「謗法」と思ったものです。
はい、私もそのように思い、ぎょっとして、そして思い直したのでした。そのようなことにぎょっとする自分のほうがおかしいのではないかと。あれは宮澤賢治の、まさに、見仏であったのでしょう。そういう素直な感情の吐露を、謗法といってしまうのはやはりおかしいと思い直したのです。
>わたしは『雨ニモマケズ』というあの詩は、賢治が自分自身で紡いだ彼の法華経なのだと思います。
同感です。どの本で読んだのか記憶が定かではないのですが、詩中の「デクノボー」を常不軽菩薩に重ね合わせておりましたが、非常に共感いたしました。
>しかし、石山はそれをできない。できないなりの理由は彰往考来さんと話し合ったところで、当たりでしょう。
はい、そのあたりの経緯、「本門戒壇の大御本尊様の偽作説について」を読ませていただき、驚いております。それにしても、いまだに曼荼羅を写真に取られることにはためらいを感じるのですが、この心の癖はなかなか抜けません。
>ここのところ、空・有という議論が続いていますが、この前提は有といえば、無との対照、しかし、有無といえば、空との対照で、また、中と対照というのが議論の筋であろうかと存じます。
同感です。空の対義語は有ではないだろうと思います。有は無に対応します。
>日蓮を西洋哲学解きすると余計な要素が入り込み、かえってややこしくなると思えますが、如何でしょうか。もちろん、西洋哲学を斥けるという意味ではありません。別のものとして扱うということです。
そうですね。私はそれほど西洋哲学に詳しくはありませんが、現代人が納得できる日蓮教学ということでいえば、別の言葉での置き換えは、しなければならない部分はあるのだろうと思いました。それが西洋哲学であったり、言語学であったりしてもよいとは考え、無徳さんがそのような自説を展開されるのであれば、やはり関心は持ち、楽しみにも思ったのでした。
>文字は読めてはじめて、用を為すという点ですが、たとえば、SGIのように全世界の非漢字圏の人々にとっては、漫荼羅は読めないわけですが、このような人々には、この点、どのようにお考えになりますか。
ずっと違和感はあったのです。非漢字圏の人々が「南無妙法蓮華経」と唱えることは、どういう事態なのであろう。しかもあの文字曼荼羅に向かい、漢訳された法華経を、日本語の音で読むとは、どういうことなのだろうかと。いっそう法華経はそれぞれの母国語に翻訳されたものを読まれたほうがいいのではないかと思ったりもしました。聖書もそのようにされて普及しているのでしょうし。蓮祖の宗教はインドの宗教でも中国の宗教でもなく日本の宗教ですし、日本語の宗教だと思います。「たしかに墨痕鮮やかに書される漫荼羅は、その文字文化の昇華、日蓮門下にとっては、その頂点にあるのだと思います」と犀角独歩さんも言われるとおり、ある程度、漢字文化を受け入れないと、やはり文字曼荼羅を信仰対象として受け入れることは難しいのではないでしょうか。そこに曼荼羅というモノが信仰対象としてあることの限界を感じます。聖書のように、聖典宗教であるならば、法華経の翻訳を持って用を為すわけですが、曼荼羅を翻訳して図顕するのでは、何か、根本的に違ってしまうように思います。
341
:
犀角独歩
:2005/10/20(木) 15:56:13
乾闥婆さん
ご丁重なレス、有り難うございます。
> 池田氏の死後、何を持ってその組織の求心力…日蓮仏法を振りかざすしかなくなる
そうですね。ただ、わたしは日蓮を振りかざすためには、そこに必ず真筆漫荼羅が、ついて回ることになる点で、創価学会教学は、条件を欠いていると思えます。日蓮を煎じ詰めていけば、最終的に日蓮真筆漫荼羅へ引力があります。それは非漢字圏の人々であっても同様なのだろうと思います。しかし、これを結果的にすべて斥けた形になっています。「すべて」というのは、唯一、認める「三大秘法の御本尊」をあの彫刻とすれば、あれは真筆ではなく、第二に偽物であるからです。つまり、いまの創価学会は、日蓮真筆漫荼羅の一切を否定して、成り立っているわけです。これには限界があるでしょう。
また、「三大秘法」を言い、二箇相承を肯定していれば、最終的に富士戒壇論、富士=大石寺という問題にもぶち当たり、富士大石寺が聖地であり続ける矛盾を解消することは出来ません。これはまた、日寛を担いでも同様です。
結局のところ、立正佼成会のように、日蓮を相対化し、教祖崇拝でいくしかないのだろうと思います。立正佼成会は裾野の広いボランティアで社会に開いていますが、創価学会は公明党という政治活動です。宗教が政治に手を出すことは、政治の転覆が=宗教の転覆となる構造を孕むことになるので、わたしは危険だと思うわけですが、教祖崇拝(宗教)と政治活動(対社会)という二本立て以外では、既に専従3万人、周辺30万人とも言われる創価学会で生計を立てる人々の生活を保障することは出来ない経済構造も出来上がっている以上、致し方がないのでしょう。
池田氏崇拝の完全化、もしくは日蓮を相対化し間口を広げ、彫刻から日蓮真筆漫荼羅へ、日寛から汎仏教への転換か、その折衷しか道はないように思えます。
> 『雨ニモマケズ』…詩中の「デクノボー」を常不軽菩薩に…
ええ、よく言われる解釈です。しかし、わたしはこの解釈は一部分的であると思います。何故ならば、不軽菩薩は「但行礼拝行」であって、人助けをするような実践をしないからです。むしろ、「デクノボー」の特徴は、もっと広義の菩薩道です。『勧持品二十行の偈「為斯所軽言 汝等皆是仏 如此軽慢言 皆当忍受之」の訓読について』でも、この点に基づき記しましたが、法華経の菩薩の特徴は「いからず」「相手を、やがて仏になると敬う」という二大特徴を有します。これはしかし、不軽菩薩に限ることではありません。法華経に登場する菩薩に共通した特徴です。
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/doppo_001.html
しかし、法華経の菩薩にも限界があります。何か。法華経の菩薩の菩薩行は経典流布を弘教に、菩薩道を限定してしまう点です。しかし、大乗(と言われる)仏教全般における菩薩行は我が身を供養する実践であるわけです。賢治の「デクノボー」は、この菩薩まで立ち入っています。彼の『雨ニモマケズ』は、最後に一尊四士漫荼羅を図します。その諸尊に「南無」を冠し、帰命から捨身を陳べたものであるにも拘わらず、ある面、法華経の菩薩の欠点も補っているとわたしには映じます。つまり、より利他の本質的な部分で法華経典における菩薩思想より勝っていると思えるという意味です。故にわたしは「彼の法華経」と記しました。
342
:
犀角独歩
:2005/10/20(木) 15:57:21
―341からつづく―
> 現代人が納得できる日蓮教学…別の言葉での置き換えは、しなければならない…西洋哲学…言語学…
なるほど。そのようにお考えですか。僭越ながら記せば、わたしはこのお考えとは違います。仰るようなやり方は、仏教が中国に渡った段階で行われたことと同じですね。所謂「格義仏教」です。創価学会的な解釈法であるといってもよいと思えます。
しかし、他の文化圏の思想の語彙を使えば、それは、その思想の範疇から出られないことになります。ですから、必要なことは、仏教が、就中、日蓮仏法の「言語」から構築されたものでなければ、オリジナルとは言えないと、わたしは考えます。(ここでいう「言語」とは、おことわりするまでもなく、話し書く言葉という一般の意味より、もっと広義です)
実際のところ、中国に輸入された仏教は、挌義を経て、経典漢訳のために、新漢字を作りながら、遂に中国仏教となっていきます。この時点では、もはや、他の「言語」思想で説明する必要はなくなりました。独自化であり、完成系と言えるでしょう。文化となったということだと思います。21世紀の日蓮を考えるのも同様の道程であると、わたしは考えるわけです。
もっとも、日蓮の教えといわず、大乗仏教自体がシンクレティズムの結晶に違いありません。しかし、この点は不可逆的です。日蓮の「言語」で説明されるようになれなければ、、他「言語」思想範疇に吸収されて終わってしまうと思うわけです。それは恰も、ブッダがヒンドゥー教の化身の一人として吸収されて、衰退したように、です。ですから、21世紀に通用する日蓮は、自分たちの「言語」を確保した形以外では滅するというのが持論です。
わたしは創価学会などで「仏教哲学」という言葉の使用を嗤います。なぜならば、仏教は哲学ではないからです。哲学でないものを哲学で説明することは、その本質理解を枉げてしまいます。ですから、日蓮の原型を素描する必要をこの掲示板で訴え続けてきました。哲学、現代思想で日蓮を考えようとするやり方は、特に初期の創価学会から、見られますが、これは牧口氏という教育学者が創立者であることと関連するのでしょう。創価教育学会でも、また、『折伏教典』でもそうですが、この牧口価値論、人生地理学から、日蓮仏法を捌くという編述が多く見られましたが、やがて、姿を消し、日蓮から考えるようになっていったことは、日蓮という範疇からすれば好ましいことであったわけです。同様に、生命論という大正時代の流行からも卒業できることを願っています。
こちらの掲示板でもお馴染みの‘Nichiren Shonin Gohonzon Shu O'Mandalas by St. Nichiren’では、御御本尊、お漫荼羅が、音写されて翻訳されずに定着しています。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/001.html
多くの理解は自国語でなすほかありませんが、以上のような形が日蓮の‘文化’化ということで、日蓮門下の基本的スタンスにならなければ、他思想で解釈されて別のものとなってしまうでしょう。(もちろん、本尊は密教もしくは、儒教、漫荼羅も然りという、前段の考証はあります。しかし、ここは日蓮が摂取した既存思想という意味です)
その意味で、西洋哲学その他で解釈することにわたしは反対の立場です。もちろん、乾闥婆さんのお考えを否定する意図はありません。そのような方向で議論しませんかという、いわば、お誘いです。また、そのようなスタンスで、当スレを進めてきたつもりです。
343
:
犀角独歩
:2005/10/20(木) 15:57:50
―342からつづく―
> 非漢字圏の人々が「南無妙法蓮華経」と唱える…文字曼荼羅に向かい、漢訳された法華経を、日本語の音で読む
この件を考える点で、わたしは(1)現代日本人と鎌倉時代人、(2)漢字圏、(3)非漢字圏の三つに分けて考えてきました。
(1) 既に記したことですが、大野晋師の研究によれば、旧い日本語には、ハ行(h-a〜o)の濁音はバ(b-a〜o)ではなく、パ(p-a〜o)であり、それがふぁ(hu-a〜o)を経て、今の音になったといいます。これを裏付ける証拠は『御義口伝』にあります。パンナコッタさんとの遣り取りでも挙げた「薩達磨分陀利伽蘇多攬」の‘分陀利伽’です。これを現代語で「読めば、「ふんだりか」となります。合成語ですから、その前の「達磨」に続く場合は‘濁る’わけです。では、「ぶんだりか(bundarika)」かと言えば、そうではなく、これは、もちろん、「プンダリカ(pundarika)」です。多分、当時もそのように読まれていたのでしょう。しかし、現代の発音とは齟齬が生じます。故に「ふんだりか」と読んで逃げているわけでしょう。大野説を裏付けています。
また、たしか、平家物語の研究で研究で言われるようになったことですが、たとえば‘蝶’は「てふ」、‘今日’は「けふ」と旧い仮名で書かれ、これを「ちょう」「きょう」と読みますが、当時は、書かれたとおりに読まれていたと言います。蝶は、あくまで tehu であり、今日はあくまで kehu ということです。
さらに、ワ行の「ゐ(wi)、う(wi)ゑ(we)、を(wo)」といういまでは「いうえお」としか読めない失われた母音も、別の発音であったことが指摘されます。
以上の点を総合すると、日蓮が「めうほうれんぐゑきやう」と書けば、‘meu-poh-renguwe-kiyah’という読みが、当時の発声をより近く表したことになり、現代とは著しく異なっていることになります。
「どうでもいい」と言えば、それまでですが、お題目を行とする立場からすれば、その発声は大問題であるとわたしには思えます。
(2) わたしは中国語、朝鮮語、ともにまるでダメですが、この国の人々が、日本・日蓮を意識せず、「南無妙法蓮華経」と発声したとき、どうなるのでしょうか。また、乾闥婆さんが仰るよう、法華経を読経するとき、日蓮の出生国の側であるわれわれからすれば、まるで違うお経を唱えている感じとなるでしょう。これを受容できるかどうか。日蓮出生国側としては、原型が崩壊する違和感があるでしょうか。
(3) これが非漢字圏になると、本来に日本(というかヤマト?)にとって、外来文化である漢字を、先のGohonzon、O'Mandala のように、日本語読みで伝播するというのは‘文化’的には、まさに日蓮文化といったところでしょうか。しかし、先に言った現代読みと、日蓮の時代の読みの相違が横たわります。
> 曼荼羅を翻訳して図顕するのでは、何か、根本的に違ってしまう
そうですね。だいたい、梵漢一致というコンセプトがまず壊れます。
不可能だと思えます。
やや脱線しますが、日蓮漫荼羅を書写するのに「仏滅度後二千二百三十余年」が不文律になっていることに、わたしは不思議を感じてきました。小野文著師に、「末法の始め500年は日蓮聖人の時代のこと」と言われ、わたしは目が覚める思いがしました。
もちろん、仏滅年代の問題はありますが、それを取り敢えず置いて、日蓮の教学は末法の始め500年に限定された教学大綱があり、その後は、まったく違う意味を持ちます。それにも拘わらず、「仏滅度後二千二百三十余年」で時間が止まってしまっています。
個人的には、この日付を毎年、更新したらどうかと思っています。まあ、しかし、それでは、日蓮‘書写’漫荼羅として、成り立たないのでしょう。
先に、れんさんと、石山上古本尊では、「書写」の有無が話題になりましたが、書写では「二千二百三十余年」、図示では加算という別分けがあって然りという気がしないでもありません。まあ、勝手な提案と言うことになるのでしょうが。しかし、700年以上も、「二千二百三十余年」感覚のままで、末法の始めをやっていることが、日蓮原理主義から脱却できない大きな要因になっていると思えます。
話がやや拡散しましたが、当スレ「現代人が納得できる日蓮教学」、換言すれば、人々は、何に疑問を懐いているのかという点の、踏み台にしていただければ、と存じます。
344
:
乾闥婆
:2005/10/21(金) 01:27:55
>>341
犀角独歩さん。
懇切丁寧なレス、ありがとうございます。
>池田氏崇拝の完全化、もしくは日蓮を相対化し間口を広げ、彫刻から日蓮真筆漫荼羅へ、日寛から汎仏教への転換か、その折衷しか道はないように思えます。
そうですね。しかし創価学会はなかなか「本門戒壇の大御本尊」を捨てません。組織の中心にいる世代のことを考えれば、捨てられないのでしょうが、もしかすると、まだ強い未練があるのではないかと思うこともあります。1997年に発売された『日蓮大聖人の思想と生涯』(第三文明社)は会館でも販売されていますが、「本門戒壇の大御本尊」に触れていませんし、巻末の年表にも記載されておりません。これは画期的なことだと当時は思ったのですが、結局その後弘安二年十月十二日が学会の関連書籍から消えることはありませんでした。すべてのほとぼりが冷めたときに(そんな時が来るかどうかは分りませんが)、学会はもう一度宗門と寄りを戻したいと考えているのではないかと危惧します。確かにそのような事態よりも犀角独歩さんが言われるとおり「日蓮を相対化し、教祖崇拝でいく」ほうが、よいように思えます。しかし「池田氏崇拝の完全化」の究極は、池田氏自身が曼荼羅を図顕することなのでしょう。そちらの方向へ振り切れてしまうことも同時に危惧します。
>より利他の本質的な部分で法華経典における菩薩思想より勝っていると思えるという意味です。故にわたしは「彼の法華経」と記しました。
よく腑に落ちました。宮澤賢治は自身の身で法華経を読んだのでしょう。その表現として『雨ニモマケズ』はあるのだと思いました。それはまさに法華経を身で読んだならではの「彼の法華経」であるのだと思います。
345
:
乾闥婆
:2005/10/21(金) 01:28:36
>>342
>しかし、他の文化圏の思想の語彙を使えば、それは、その思想の範疇から出られないことになります。ですから、必要なことは、仏教が、就中、日蓮仏法の「言語」から構築されたものでなければ、オリジナルとは言えないと、わたしは考えます。
確かにその通りなのです。蓮祖の生きた、その時代のまさに言説の中において、蓮祖を見なければ、正しく見えないし、オリジナルとも言えないと、私も思います。しかし逆に、オリジナルなものが、現代人に納得を得られるものであるのかは、難しく思うのです。もちろん、納得をされるために、事実をゆがめることは許されませんが、現代人はやはり現代の言説の中に生きているのであり、その「言語」の中に、いやおういなく中世日本を生きた蓮祖をおかざるを得ないのだと思います。もちろん西洋哲学の範疇において、日蓮仏法を見ようというのではなく、そのような西洋哲学であるとか言語学であるとか、また科学的歴史的基礎知識といったことを、私たちは前提として持っており、そのような視点はいやおうなく入り込んでこざるを得ない、ということです。
>哲学でないものを哲学で説明することは、その本質理解を枉げてしまいます。
その点はよく分かります。創価学会の中にいて、いつもいらだたしく思っていたのは、この仏法の正しさは、いずれは科学で証明されうる、といった態度です。今は少なくなったと思いますが、ほとんど私には信じがたい態度で持って、そのような確信している人たちは多かったように思います。宗教は宗教であり、科学とは別の範疇に属するものであると、強く思っておりました。哲学に関して、そのような強い割り切りを私は持っておりませんでしたが、おそらく犀角独歩さんが言われていることは、そのようなことに近いのではないかと感じました。
>その意味で、西洋哲学その他で解釈することにわたしは反対の立場です。
そのような意味でありましたら、もちろん同意いたします。
>そのような方向で議論しませんかという、いわば、お誘いです。また、そのようなスタンスで、当スレを進めてきたつもりです。
了解いたしました。
346
:
乾闥婆
:2005/10/21(金) 01:28:59
>>343
>この件を考える点で、わたしは(1)現代日本人と鎌倉時代人、(2)漢字圏、(3)非漢字圏の三つに分けて考えてきました。
それぞれの分類における諸問題点の提示、ありがとうございます。頭が整理されました。
私は宗教のその地域の色を強く担った固有性というものは、許容されるべきだと思っています。蓮祖の宗教が日本の言語文化に固有のものとしてあることは、何もおかしくないし、何も卑下すべきものではないと思います。創価学会が世界公布と言っても、日本という枠組みを取り外して考えることは無理ですし、そうすべきではないと考えます。他の地域には他の地域に固有の宗教があり、それでいいのだと思います。むしろ恐れるべきなのは、地域の固有性を踏みにじるような、絶対的な宗教という幻想であると思っています。現代と中世の時間の隔たりは、また別次元の問題として残るとは思います。
「仏滅度後二千二百三十余年」は確かに、時間が止まっていますね。指摘されると確かに首をひねります。いつまで経っても末法は始まったばかりですね。
347
:
犀角独歩
:2005/10/21(金) 14:29:24
乾闥婆さん
> 池田氏自身が曼荼羅を図顕…危惧
「危惧」ですか。わたしは、一つのカードとして、別段、そのようになったとしても「可」と思います。創価学会がこれをやらないできたのは、本尊書写は(血脈を受けた)法主一人の権能であるという石山アナウンスを墨守するからでしょう。また、それに従ってきた歴史的経緯があるからでしょう。ナンセンスと考えます。
現段階では物的証拠を握っているわけではありませんが、戸田氏も一遍首題を書いたという話はまことしやかに囁かれています。田中智学しかり、宮沢賢治しかり、日蓮を究極的に詰めていくとき、実際に漫荼羅を書写してみることは、わたし個人としては、否定されることとは考えていません。ただ、写真に撮った漫荼羅が印画紙に焼いたり、コンピュータのモニターに映るだけでは本尊足り得ないように、各人が写した漫荼羅が本尊足り得るかどうかという問題があるだけです。漫荼羅を書くことが「謗法」だというのは、ただの思考操作に過ぎません。
わたしは何度も書いてきました、池田氏は他に類例を見ないほどの合理主義者です。わたしがここで書いてきたことは先刻ご承知でしょう。承知のうえで、数百万人の創価学会が不信を抱いたり、学会路線を踏み外さない‘さじ加減’を正確に見極め‘小出し’をしてきたのでしょう。これは「池田氏が」というより、「宗教法人創価学会が」といったほうが、より適切なのかも知れません。
会員は、その時その時の‘指導’に踊らされますが、実際の創価学会の方向性は、そんなところにはないでしょう。長期数十年計画の、自分たちの行き着く方向性は見極めていることでしょう。しかし、そこで一番の大きな問題になっていることは何かという点に、わたしは目を向けてきました。ただし、それは単なる創価学会批判などと言う感情論ではありません。
創価学会のアキレス腱は、日蓮でいくのであれば、結局のところ、自前本尊を持てないという一点に問題があることは明白です。
創価学会の最大の弱点は、石山型の日蓮を担いでしまったことです。
日蓮を追い求めていけば、必ず、日蓮真筆漫荼羅に行き着きます。
それは恰も、宮沢賢治の童話、詩、そして、人生に興味を懐き、賢治を追い求めていくとき、ついに『雨ニモマケズ』の詩、その精神に行き着き、そして、通常の詩集では割愛されているにもかかわらず、その詩の最後に記された漫荼羅に行き着くようなものです。
しかし、ここで石山「日蓮」は大きな障壁になります。しかも、それを壁に作ってしまったのは、まさに昭和30年代の創価学会でした。しかも、先にも記したとおり、いまの創価学会はこの宮沢賢治の断末の筆跡、漫荼羅を認めたことを肯定するキャパはないわけです。そして、さらに深刻なことは、先にも記したとおり、日蓮真筆漫荼羅を一切、否定した立場にあるということです。日蓮真筆漫荼羅を無視した日蓮など、まさに魂なき日蓮であって、日蓮とは言えません。
しかし理念としての日蓮であれば、漫荼羅は要らないとも言えます。
ところがいまの創価学会は日寛書写漫荼羅を使っているわけです。ここに矛盾があります。
乾闥婆さんご自身、この本尊に拠っていらっしゃるとのことで、以下、申し上げるのはやや気が引けます。しかし、決して、乾闥婆さんの信仰、また、その様を侮蔑しようなどということではなく、純粋に論考として記します。日蓮真筆漫荼羅に比べれば、日寛本尊など、巨匠の書画と、小学生の筆字ほどの差があるでしょう。いや、もっとあります。天地雲泥の差です。
今後、創価学会が変わらず、漫荼羅本尊でいくのであれば、実は道は二つしかないでしょう。一つは池田氏が書くこと、もう一つは、適当な日蓮真筆漫荼羅によるかです。そうしなければ、会員は欺けても、仏教界の冷笑は已まないからです。もっとも、池田氏が漫荼羅を書けば、「新興宗教」のレッテル貼りの思う壺、となれば、わたしは日蓮真筆による以外道はなしと読みます。
結局のところ、日蓮を追い求めるとき、必ずや、日蓮真筆漫荼羅への思いは喚起するわけです。しかし、その漫荼羅は日蓮宗各寺院に格護されているわけです。その宝蔵寺院を「邪宗日蓮」と侮辱し、攻撃してきてしまった創価学会は、この漫荼羅に行き着く方途を自ら閉ざしてしまった。その閉ざしてしまったところからしか、着想、方向性を定められないところに、結局、創価学会が、「日蓮」に至れない大きな要因があるわけです。
文化芸術に興味を示す創価学会が、日蓮の筆という日蓮信仰者が追い求めて已まない宗教と芸術の昇華の精緻・日蓮真筆漫荼羅から、目を背けることでしか成り立っていないことは如何にも残念なことです。
348
:
犀角独歩
:2005/10/21(金) 14:29:51
―347からつづく―
また、日蓮真筆に関する知識の欠如が、いまだにあの彫刻を日蓮原本であるとする見識眼のなさでしか成り立たない迷信を罷り通らせているわけです。
> 宗教のその地域の色を強く担った固有性というものは、許容されるべき
随方毘尼ということですね。
写本遺文『月水御書』のなかに一度、現れるところです。
この点に、なんら異見はありません。
> 地域の固有性を踏みにじるような、絶対的な宗教という幻想である
このお考えには、もちろん、賛同します。ですから、「唯一絶対、最高の宗教」ということ自体が幻想であるということも意味するのでしょう。
また、地域の固有性は認めるが、他の宗教の固有性は認めないということが矛盾しないと考えるのは宗教者ぐらいのものでしょう。結局、ここでポイントになるのは、他の固有性を認めるということですから、「アーメン」も「南無阿弥陀仏」も認めるとならなければ、この論法は不完全であることになります。つまり、大乗仏教でいえば、「寛容」が叫ばれる要因は、まさにここにあるのだろうとわたしには思えます。各人の固有さを損なわず、共存し続けるという在り方です。ところが、この考えは著しく日蓮の教えに違反することになるところに問題が生じてきたわけでした。戦後、日本社会でまた、このような宗教風土を作ってきたのもまた、創価学会であることは紛れもない事実です。
ただ、わたしはその批判をここに繰り返すことを目的にしているわけではありません。わたしが乾闥婆さんに、非漢字圏の信者につき、ご賢察をお尋ねした理由は、SGIに限らず、日蓮宗においても、海外で日蓮漫荼羅本尊を奉安し、題目を唱える信徒は実際にいるからです。漢字を理解できない方々です。しかし、実際には、信仰体験と歓喜も得ているのでしょう。わたしはこの点を否定しません。つまり、このような海外信徒の存在、また、顕正会員が、見たこともない「本門戒壇の大御本尊」に歓喜し、捨身布教に走る様も同様です。彼らに至っては日蓮真筆漫荼羅を完全に封鎖されているばかりではなく、自宅拠点、また、石山・学会からの転教者以外は、自宅に本尊すらありません。石山、学会信徒も、勤行唱題には本尊の「妙」の字を見ることが教えられ、諸尊勧請のためにその一々に目を凝らすこともありません。いや、それどころか、「御本尊のことを、とやかく考えること自体、謗法である」と信じ込まされているでしょう。
つまり、字で書かれているのにも拘わらず、漫荼羅は神秘化され、それを論じることをタブーとされ、イメージになっているわけです。このようにイメージ化された、現実の目の前にある漫荼羅本尊を見ない形で成立しながら、しかも法悦と体験を得る‘仕組み’に関して、わたしは着眼しているわけです。
日蓮が、あの10年間に図示した漫荼羅は現存を確認される限りで130幅足らず。実際に図示した数は、その倍数とも類推されるますが、そこから大きく外れることはないでしょう。しかしながら、当時の板東武者は8人1人ほどしか字が読めなかったという説もあります。庶民となれば、ほとんどが読めなかったのでしょう。
中尾師は、佐渡で日蓮が漫荼羅を顕わすのを見て、当地の人々は吃驚した、彼らは紙も文字も見たことがなかったから…という話をされていました。また、文字の読める弟子檀那にしても、それまで見たこともない文字で書かれた漫荼羅を日蓮から授与され、その意味がわからず戸惑い、また、それを説明する日蓮の遺文が散見できると講義されていました。
近日、当掲示板でも話題になってきましたが、そもそも、日蓮は、漫荼羅を本尊として、現代のように拝ませていたのか?という点は、実のところ、何もわかっていません。
その意味において、漫荼羅を‘見ない’イメージとして捉える人々は、漢字が読めない外国の信者、また字が読めなかった日蓮当時の信者方と、同じ心象にあるのかも知れません。
> 「仏滅度後二千二百三十余年」は確かに、時間が止まっていますね。指摘されると確かに首をひねります。いつまで経っても末法は始まったばかりですね。
そのとおりなのです。
わたしたちは、日蓮滅後700年、当時の換算では仏滅3000年、いま至れた結論からすれば仏滅2500年という時代を生きているわけです。
顕正居士さんが、かつて、いまの時代に日蓮が生きていたらという一文をご投稿くださったことがありますが、まさに、いま、ここに日蓮がいたらという視点で、時代を読み解くことは大いに意義のあることであると考えています。しかし、現実には、没した日蓮から700年を経た今日から、日蓮を見ることこそ、大切であるともちろん、思うわけです。
349
:
乾闥婆
:2005/10/22(土) 01:38:51
>>347-348
犀角独歩さん。
見事な創価学会の現状分析、ありがとうございます。非常に頭が整理されました。
>「危惧」ですか。わたしは、一つのカードとして、別段、そのようになったとしても「可」と思います。創価学会がこれをやらないできたのは、本尊書写は(血脈を受けた)法主一人の権能であるという石山アナウンスを墨守するからでしょう。また、それに従ってきた歴史的経緯があるからでしょう。ナンセンスと考えます。
>日蓮を究極的に詰めていくとき、実際に漫荼羅を書写してみることは、わたし個人としては、否定されることとは考えていません。
>漫荼羅を書くことが「謗法」だというのは、ただの思考操作に過ぎません。
もちろん私は曼荼羅書写を謗法とは思っておりません。ただ池田氏の立場で曼荼羅を書くということは、創価学会の究極の本尊となるであろうということ、そしてその究極の本尊を顕わした池田氏は本仏と扱われるに至るであろうということ、そのようなことを「危惧」したのでした。もっともいまの創価学会を大過なく池田氏死後に守っていくには、犀角独歩さんの言われるとおり、有効な一つのカードであるとは思います。また、そのようになってこそ創価学会は首尾一貫するのかもしれません。現状、その下地は組織内部において十分できていると思います。
>もっとも、池田氏が漫荼羅を書けば、「新興宗教」のレッテル貼りの思う壺、となれば、わたしは日蓮真筆による以外道はなしと読みます。
創価学会はその関連書誌媒体では、自身の評価を落としかねないほど、口汚く他者を罵ったりします。この組織は、どこか、世評を激しく気にする部分と、まったくその世評を感じとる感性をまったく欠いている部分とが、共存しています。池田氏曼荼羅書写は十分に踏み切る可能性はあるのではないでしょうか。気にしているとすれば、組織内部の者たちがついてくることができる、そのタイミングだけなのかもしれません。
>適当な日蓮真筆漫荼羅によるかです。
この可能性はあるのでしょうか。私は組織内部にいて、他山の日蓮真筆漫荼羅を持ってくることは、宗門とのよりを戻すことよりも、不自然な流れと映ります。
>ところが、この考えは著しく日蓮の教えに違反することになるところに問題が生じてきたわけでした。戦後、日本社会でまた、このような宗教風土を作ってきたのもまた、創価学会であることは紛れもない事実です。
そうですね。そこが私自身の内部でも矛盾するところです。それぞれの固有性を大事にする思いが、日蓮仏法への信仰を弱め、その信仰を強めようとすると、それぞれの固有性を有する世界を、心の中で消去してしまいます。
>つまり、字で書かれているのにも拘わらず、漫荼羅は神秘化され、それを論じることをタブーとされ、イメージになっているわけです。このようにイメージ化された、現実の目の前にある漫荼羅本尊を見ない形で成立しながら、しかも法悦と体験を得る‘仕組み’に関して、わたしは着眼しているわけです。
この御考察、うならされました。まさに、曼荼羅はモノとして、また文字として、ある以上に、関係性、仕組みとして、あるのですね。私はおそらく、このようなイメージ化、神秘化に、抵抗しているのだと思います。その抵抗の足がかりとして、この曼荼羅が図像ではなく、文字であることを強調し、意識しているのでしょう。私は主知的でありたいと思い、信仰を持つことと主知的であろうとすることは矛盾しないと、考えているのだと思います。しかしそれは曼荼羅の受容の実態にあっていないのかもしれません。識字率の低い時代での曼荼羅受容は、確かに非漢字文化圏の方々の曼荼羅受容と、条件としては重なりますね。
しかし現代人に納得される日蓮教学とは、そのようなイメージ化、神秘化を脱却したところに成り立つ何かであるのではないでしょうか。しかしそれはもはやオリジナルな日蓮教学ではなくなってしまうのでしょうか。
350
:
犀角独歩
:2005/10/22(土) 09:53:19
乾闥婆さん
> 池田氏の立場で曼荼羅を書く…創価学会の究極の本尊…池田氏は本仏…「危惧」
> この組織…世評を激しく気にする部分…感じとる感性をまったく欠いている部分
なるほど。ご賢察と拝します。
> 池田氏曼荼羅書写は十分に踏み切る可能性…気にしている…組織内部の者たちがついてくる…タイミングだけ
いまはどうだか知らないのですが、わたしが在籍していた頃は、池田氏は盛んに色紙を配っていました。(この代筆グループがあるのをあとから聞いて驚いたのですが)
そのなかで「妙」という揮毫があったわけです。わたしが話を聞いた石山の坊さんは、これだけでも略漫荼羅だということでした。そんなものかと思ったのです。わたし自身は色紙は色紙だろうという思いがあったからです。あと、これも確認したわけではありませんが、学会が模刻した板本尊に池田氏の自筆署名が彫り込まれていたといいます。模刻問題は、板に刻んだことより、この署名の法が問題だったといった坊さんがいました。その人は宝蔵に収められた板本尊を目で見て確認したといったのですが、その真偽はわかりません。
「妙」揮毫、板本尊に署名という事例は、ある意味、池田氏の欲求を示しているようで、その心象風景は如何ばかりであったのか、興味が惹かれます。この延長で、漫荼羅書写となるといえば、もちろん、短絡でしょうが。
> 他山の日蓮真筆漫荼羅を持ってくることは、宗門とのよりを戻すことよりも、不自然な流れと映ります。
そうですね。これはたしかに、現学会からは考えづらいことです。
ただ、八王子に牧口記念会館が建設された頃、創価学会が日蓮真筆漫荼羅を探しているという噂がまことしやかに流れました。そのために、真筆漫荼羅が動き、途方もない値段が付いた騒ぎがありました。この件は、ちょっと詳しくは書けませんが、しかし、実際に学会が探していたとすれば、この可能性はなきにしもあらずということでしょうか。
もう一つ、可能性があれば、それは漫荼羅離れということです。
学会を端から見ている側からすると、一番、驚くのはその簡易化です。表装をやめて一枚刷りにしたり、携帯本尊という流れは、それを本尊にしている人にとっては耳障りな表現かも知れませんが、まさに‘簡易化’です。
簡易化の行き着くところは廃止ということですが、この可能性はどうでしょうか。
もちろん、今日明日の話ではなく、10年20年というスパンでの見通しです。案外、池田氏書写・真筆漫荼羅使用より、こちらのほうが、可能性が高い気がします。
SGIなどは、かなり世界を意識しているわけですね。
先にも「空」という話題がありましたが、この点からすれば、特定漫荼羅への拘りは、仏教を理解しようとする側からすれば首を傾げることです。凡夫本仏が行き着くところは、己心本仏ですから、実は漫荼羅は対境としての十界も、己心十界覚知で事足りるとするというのは流れになります。廃止とはいかないにしても、重点が己心へ移行すれば、重要度が低下していくことはあると思えます。実際のところ、世界を意識すれば、漫荼羅が遠のくのではないのかという思いがわたしにはあります。
その傍証と言えるかどうかわかりませんが、勤行・唱題の重要度も学会では極端に下がってきました。その現れが、勤行の簡易化でしょう。この簡易化は、要するに、本尊に向かっている時間の短縮を意味するわけです。時短は結局、重要度の低下という心的作用をもたらします。一つの学会の方向性が看取できるようです。
> …現代人に納得される日蓮教学…イメージ化、神秘化を脱却…成り立つ何か
現代人が宗教に望むことに神秘性は依然として強く、ならばイメージかも否定されないのだと思います。ただ、その神秘性の質ということに科学文明社会は拘るわけでしょうね。要は「この教えは科学と矛盾しない。価額を超えたものだ」という口上です。
このニーズに答えていくと、宗教は呪術化し、人を隷属させやすい形になりますね。
いくらニーズがあっても、このような宗教には警鐘を鳴らさなければなりません。
わたしが彫刻を批判するのもこのためです。
わたしは宗教は、呪術・隷属から、公益性の宗教への転化を目指すべきであると考えています。わたしが尊敬する浅見定雄師は常々「何を信じているのかを問題にするのではなく、何をしているのかを問題にする」と語ります。宗教団体が集める人員と金銭を、その宗教団体内のみの益とするのではなく、他に対して何をしているのかという点で評価を考えるということです。
351
:
犀角独歩
:2005/10/22(土) 09:55:11
―350からつづく―
学会はようやく重い腰が上げつつありますが、まだまだ不十分です。石山はもはや絶望的、問題外でしょう。器物・呪術・隷属に囚われて、公共性など、かけらほど考えていません。信者は、ですから、そのようなものに興味を懐かず、閉鎖性は更に高まり、比例して差別観は高まるばかりです。この現況は彫刻問題と共に深刻です。
日蓮宗全般は、緩慢ながら、それでもようやくと動き始めています。
宮沢賢治の話が出ましたが、わたしは賢治の菩薩観は不軽菩薩を超え、大乗菩薩道であると記しました。この菩薩道を、弘教と宗教典礼に限定すれば、信者は隷属化し、宗教集団以外のことはしなくなります。しかし、本来の菩薩道とは、あらゆる意味における利他行であるはずです。六度万行、八正道で培われた心身で、社会に対して、非信者に対して、何をしているのか、換言すれば、公益性が今後の宗教の是非を計る尺度になるとわたしは考えています。
わたしはいつも引用する岩本師が引いた一節があります。
杉本苑子氏が記された『西国巡拝記』の一節です。
「坊さんのすべてが、もう一度、出家しなおしたら、どんなにすばらしいことかと思う。皮肉などで決してない。実感である。
三十三カ所霊場とは限らない。日本の寺々にはともすると、草創の古さ、寺格の高さ、皇室はじめ過去の権力者にどれほどの庇護や帰依をうけたかを、とくとくと語り、あたかもそれを寺の誇りとするごとき傾向をまま見かける。しかしそんなことが、寺の名誉でも威信でもないことはあきらかである。もし寺院が、それなりに矜持(きんじ)を持つとすれば、仏の智、仏の愛を、どれだけ積極的に民衆のなかに弘通し、彼らの悩みを救ったかという一点にしぼられるはずである。過去はもちろん、現在も未来も、立派にそのつとめを果たし得る自信、そしてその実績――。寺院の誇りはこの一事に尽きる。伝統や寺歴を、問題外にするのではないが、そういうものはあくまで第二義のはずと思うのだ。かたちはでんとかまえているが、ひっくり返してみたら下のほうが腐りかけていた南瓜……。そういう哀しい存在に、寺院が成り下がることを、日本の民衆は一人として望んでいないのである」
> イメージ化、神秘化を脱却…オリジナルな日蓮教学ではなくなってしまうのでしょうか。
話を戻せば、この点を乾闥婆さんは、漫荼羅受容という側面から仰ったわけですね。
わたしは日蓮の漫荼羅図示は、弟子としての允可証であったと考えています。
ですから、拝む対象であるとはいまは考えていません。
オリジナルの日蓮教学が何であったのか、それが明瞭ではない現実があります。
日蓮の心象は、仏のみならず、神を信じ、それら神仏が悪国・悪人を亡ぼす神秘の世界に生きていたのでしょう。この点を現代に当てはめていくことには困難を感じます。しかし、結果がイメージ、神秘からの卒業であっても、よいとわたしは考えます。
仏教にも造詣の深い精神科医・高橋紳吾師は、釈迦が最も忌避したものは執着であるといい、舎利であれ、経典であれ、援用すれば漫荼羅であれ、それらに執着することを象徴(シンボル)の病と評しました。(『超能力と霊能者』岩波書店)
これはまた、空の問題、道の問題とも密接に絡みますが、いずれにしても、世界全般から見る仏教の一つのスケールを意識した師の記述は参考になります。また、新宗教新聞の編集長廣橋隆師が、カルト問題を新宗教という視点から語ったパネルディスカッションを聴講したことがあったのですが、ここで、仰るような点を宗教からのぞくことが脱カルト運動のように扱われることがあるが、果たしてどうか、「悩ましい問題」とコメントしていたのを覚えています。
やや、話が横道に逸れ、適切な返レスになっていない点をお詫びします。
352
:
乾闥婆
:2005/10/23(日) 01:35:34
>>350-351
犀角独歩さん。
仕事が忙しく、明日も仕事ですので、申し訳ありませんが、今晩は少なめなレスになります。
>簡易化の行き着くところは廃止ということですが、この可能性はどうでしょうか。
そうですね。そもそも勤行の簡略化の理由が、国外へのさらなる流布を視野に入れてのことでした。廃止にまで至るのか、分りませんが、創価学会がまさに日本の固有性、蓮祖の固有性を捨てることはありうるのかもしれません。
>この菩薩道を、弘教と宗教典礼に限定すれば、信者は隷属化し、宗教集団以外のことはしなくなります。しかし、本来の菩薩道とは、あらゆる意味における利他行であるはずです。
実践的な側面ではやはりこのような方向へ向かうことが望ましいのですね。
>オリジナルの日蓮教学が何であったのか、それが明瞭ではない現実があります。
>しかし、結果がイメージ、神秘からの卒業であっても、よいとわたしは考えます。
それらの点を探求する場として、この掲示板に参加させていただいております。時間を見つけ自身も学びながら、これからも皆様の書き込みに学ばせていただきたいと思います。ありがとうございました。
353
:
犀角独歩
:2005/10/23(日) 05:47:02
乾闥婆さん
やや長い議論にお付き合いいただきました。
有り難うございました。
お時間があるときにまた、お気軽にお声を掛けてください。
354
:
小池
:2005/10/23(日) 09:19:03
独歩さん
10月17日のブログで
>「法華経は三世諸仏説法の儀式也。…」…活発な議論となったが、ここには略す。…「三世というのは過去・現在・未来といった今言われるような時間軸ではない」…
と記されておりますが、原始仏教などでの釈迦の教説は来世については「無記」だったように思います。法華経等は三世観を記しているように思われますが、どのように理解すればいいでしょうか。
お教え頂ければ幸いです。
355
:
犀角独歩
:2005/10/23(日) 15:55:54
354 小池さん
> 原始仏教…来世…「無記」…法華経等は三世観を記している
原始仏教は伝承に基づくシャキャムニの言説を記、しかし、法華経は創作物語であるから、そこに齟齬が生じるのは当然のことだということでしょう。
しかし、ただ、一点言えることは、シャキャムニは、死後については無記ですが、それは文字どおり、無記だということです。あるともないとも言ってはいないと言うことです。
神格化された釈迦無尼仏は一切正遍智と神話化されますが、現実の釈尊はわからないことはわからない、わからないことに拘って時間を無駄にするより、いま現実の修行に励めというのが死の間際まで「修行者」と呼ばれたシャキャムニの姿であったということでしょう。
これは現在も同様であり、わかりもしないことを、さも、知っている如く雄弁に語る話は、対外は嘘だということです。わたしは確信ある言説というのは、要は嘘つきの詐弁であると考えます。
356
:
小池
:2005/10/23(日) 16:49:50
独歩さん
大変有難うございました。
死後についてあるともないとも言っていない現実の釈尊。対して三世観を記す法華経は創作物語。
ということですね。
357
:
犀角独歩
:2005/10/23(日) 17:11:38
やや、補足すれば、法華経は創作物語と片付けてしまうわけではなく、そのエッセンスは数百年、受け継がれてきた仏教徒の延長にはあるということでしょう。
ただ、それはシンクレティズムの要素を多分にはらんでいるということであろうと思います。
358
:
小池
:2005/10/23(日) 17:27:14
独歩さん
有難うございます。
としますと、創作物語と片付けるのではなく、「そのエッセンス」は役立つものもあるということですね。
シンクレティズムについて、また、仏教について、いつも紹介されている岩本裕師の本をよく読もうと思います。他にも立派な学者はいると思いますが、岩本師は本当にすごい学者だと思います。
359
:
犀角独歩
:2005/10/23(日) 21:42:26
小池さん
わたしも岩本師は非常に影響を受けたお一人なんですが、どうも学者、研究者には評判が悪いのです。しかし、よいところもたくさんあります。
師の「シンクレティズム」に関する説明は『佛教入門』(中公新書)179頁に載っています。まあ、ほかにもたくさん、あろうかと思いますが。
360
:
小池
:2005/10/25(火) 09:00:37
359 独歩さん
大変ありがとうございます。
「仏教入門」拝読してみます。
すばらしい先生ですね。いま観音について先生の本を読んでいるところです。
361
:
通りすがり
:2005/10/27(木) 23:52:53
岩本さんは、創価学会の教授ですね。日蓮聖人は、梵本を重視せず羅什が仏教哲学を集成した「妙法蓮華経」を釈尊の真意と捉え、「妙法蓮華経」に限るとします。日蓮聖人の哲学的なアプローチを認識しないと、その思想は理解できませんよ。
362
:
小池
:2005/10/28(金) 04:40:08
361 通りすがりさん
大変有難うございます。
>岩本さんは、創価学会の教授ですね。日蓮聖人は、梵本を重視せず羅什が仏教哲学を集成した「妙法蓮華経」を釈尊の真意と捉え、「妙法蓮華経」に限るとします。日蓮聖人の哲学的なアプローチを認識しないと、その思想は理解できませんよ。
このことについて、もう少し詳しく御説明頂ければありがたいです。
「梵本を重視せず…真意と捉え」という部分は、ここ100年あまりの仏教学の成果と照らしてどのように判断すればいいのでしょうか。
特に、「日蓮聖人の哲学的なアプローチを認識しないと、その思想は理解できません」という部分について、「日蓮聖人の哲学的なアプローチ」というのはどのような内容なのでしょうか。
363
:
犀角独歩
:2005/10/28(金) 08:11:59
やや、補足すれば、「哲学」と西周の達意訳の一つであって、その原語はフィロソフィー(philosophy)です。これはフィロ(philo)とソフィー(sophy)の合成語であって、直訳すれば「知への愛」とされるところです。日本に愛知県がありますが、この愛知とはまさに哲学を指していることになります。
仏教でも、知は重要な意味を持ち、経典から、敢えてその典型を求めるとすれば、般若経ということになるでしょうか。般若とは端的に言えば智慧だからです。しかし、仏教で言う般若は、哲学で言う知とは、やはり、かなり異なっています。
なにより、哲学の原意と、仏教が目指す行学はまるで違います。
殊に日蓮において、知を愛するという態度は特に顕著ではなく、妙法蓮華經への信を前面とし、久遠本佛釈迦牟尼佛と、それを説く法華経、末法適時の修行として妙法蓮華經唱題を主張するわけですから、哲学的態度とは意を異にしていることは明白です。
創価学会では「仏教哲学」という語彙を使いますが、これは元来、仏教と哲学という二分を一括した論じた言葉であったわけで、それが仏教の哲学を意味するようになるのは、近代の新造語に属するのであって、元より、日蓮とは無縁だからです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AC%E8%8B%A5
364
:
パンナコッタ
:2005/10/29(土) 01:06:14
小池さん、同じく補足的に、
例えば十如是を考えては如何でしょうか。妙法蓮華経方便品第二の重要な経文ですが、
梵本や正法華経にはありません。強いて言えば相・性・体・力・作に該当するものがあるかな
ぐらいでしょうか。
http://www.chuogakken.org/candana/0198_01.html
http://www.kosaiji.org/download/kyoten/index.htm
以前池田さんの発言に、
『さらに大聖人は、法華経の敵に対する心構えを教えておられる。
「願わくは、わが弟子等は師子王の子となって、群孤の笑われることがあってはならない。
過去遠々劫以来の日蓮のように、身命を捨てて強敵の過ちを顕しなさい」(御書1589㌻通解)
私たちの永遠の指針として、生命にとどめるべき一節である』
とあったのですが、原文の閻浮提中御書は、
【願はくは我が弟子等は獅子王の子となりて、群狐□□□ヽことなかれ。
過去遠々劫より己来、日蓮がごとく身命をすてて強敵の科を顕□す師には
値ひがたかるべし】
写本の誤読をそのまま引用して、指導しています。 このように厳正に見れば
蓮祖の教えではありませんし、この手の類が山ほどあるのが各教団の現実でしょう。
365
:
小池
:2005/10/29(土) 16:17:33
364 バンナコッタさん
大変有難うございます。
366
:
通りすがり
:2005/10/31(月) 21:46:22
日蓮聖人の行学は哲学的思想・仏教の説く哲学に強く裏付けられた上での「強信」です。仏教の説く哲学も、勿論現代の哲学同様に真理を探求したものが中心となります。宗教が哲学と違うところは、論理によって真理を探求するのみならず、その探求した真理を「悟る」ための実践を要求しているところです。
日蓮聖人のスタンスは、信を強調したもので哲学的なものには欠けると捉えている人や、正統なる仏教の信仰が高度の哲学に基づくものとの認識が無い方には、何を言っても価値無きものとなります。
367
:
犀角独歩
:2005/10/31(月) 22:15:27
通りすがりさん
ここは証明を以て論考していく場所です。
個人で日蓮の教学が哲学だというのであれば、どのような体系の、どのような哲学かと、論証したうえで述べるのが筋です。
あなたのような内容のないかけ声は、ただの張り子の虎に過ぎません。
当スレのテーマである現代人に通用するどころか、ただのハッタリといいます。
価値がないのは、かけ声だけ合って、説明がないことに基づきます。
大概のカルト理論がそうであるように、肥大した無思想な言説ほど、滑稽なものはありません。
まあ、説明してみることです。
368
:
パンナコッタ
:2005/10/31(月) 22:36:30
>366 の通りすがりさんの投稿は、暗に自分の>364 や 独歩さんの>363 を非難しているのかな。
と、すると哲学的に欠けるなどとは独歩さんは言ってませんし、
自分も、正統なる仏教の信仰が高度の哲学に基づくものなどとは言ってませんよ。
一体、探求した真理を悟る実践ってなんですか? 正統なる仏教の信仰ってなんですか?
369
:
通りすがり
:2005/11/01(火) 00:24:21
この掲示板は八九三のような方が多いようですので真摯な談義は難しいようですね。小池さん、ネットサーフィンの上、またお逢いできることを楽しみにしています。
370
:
犀角独歩
:2005/11/01(火) 02:32:45
> 369
不誠実、というより、語るに足りる知識もない人間が、「真摯」云々は笑止千万。
去ると言うことなので、けっこうなことです。
よろしく逃げ去りください。
372
:
湛寂の潭に溺死
:2005/11/01(火) 03:53:58
現代人には日蓮どころか、ゴータマの仏教それ自体が納得不可能ではないだろうかと思う。
少なくとも私にとってはそうだ。
阿含経などによるならば、舎利佛、目連、阿難、迦葉など主だった弟子の多くは自殺しているらしい。
ゴータマ自身も自殺したと見る者もいる。
どこまでが事実であるかは無論、不明ではあるが、全くでたらめを書いているわけでもないだろうと思う。
悟りを得た者は自殺してもいい、ということらしい。
ゴータマの教えというのは、結局そういった方向性のものであるのは否定しようがないだろう。
生きることを否定しまいかねない教えというものは、終末思想とどれほどの差があるのだろうか。
客観的に見て、このような教団が現代にあったとしたらと思うと、私は正直ゾッとする。
我々は子供に、知らない大人についていってはいけないと教えるだろう。
それと同様に、我々は2500年前や700年前の、実際にはどのようであったか、
決してわからぬ人物を簡単に信用してついていってはいけないのではないか。
同時代に生きる人間を神聖視することを我々はそう易々と許さないだろう。
にも関わらず何故、同じ視線をゴータマにも日蓮にも向けない人が後を絶たないのだろうか。
2500年前、あるいは700年前という遠い昔に既に死んでしまってすでにこの世にいない人物が、
実際にはどう考えていただとか、こだわることにどのような意味があるのか。
意味があると確信ある御先輩がいらっしゃれば是非、ご意見を求めたい。
また、教義によっても伝承によっても思想によっても信仰によっても議論によっても
涅槃を得ることは出来ない、とスッタニパータには説かれているが、
これについても合わせてご意見を頂戴できたらと願います。
373
:
犀角独歩
:2005/11/01(火) 04:12:24
> 372
ごもっともなご意見であると思います。
シャキャムニとその弟子達が自殺をしたかどうかという点は、まさにわからないことに属しますが正木晃師も、指摘していましたが、初期仏教教団は、たしかに自殺を否定していなかったと思われます。
また、ここで議論をしてきたように、日蓮は刎頭(斬首)を肯定していたし、また、国が法華経を信じないのであれば、隣国が攻めることも肯定していました。つまり、非暴力主義などでは全くなかったわけです。
> 実際にはどう考えていただとか、こだわることにどのような意味
これはここでの議論とは少し論点が違います。
ここで論じられてきたのは、従来こだわられてきた形が、斯くも違うという点を闡明にすることに主眼があります。それは、つまり、過去にこだわった自己否定、そして、いまこだわり執着する人々への警鐘を、過去にこだわりを勧めた責任として論じているのです。
> 教義…伝承…思想…信仰…議論…涅槃を得ることは出来ない
これはスッタニパータのどの章句を挙げているのかわかりませんが、概ね、それが仏教というものでしょう。
ここで仰る「涅槃」とは何かということが問題になるのでしょうが、わたし個人の考えで言えば、八正道、四諦とは、「克服の方法」ということであり、恐れ、煩悩、恐怖、煎じ詰めれば死に行く苦悩を如何に克服するのかという方法として捉えています。そして、その意味において、この‘方法’は一定の効果があったと、現時点でわたしは感じています。
374
:
湛寂の潭に溺死
:2005/11/01(火) 04:40:44
>>366-367
仏教、哲学については、中村元氏はゴータマの教えを「実践哲学」と解説しているらしいです。
そして、それは体系成立以前のものとして、哲学体系と対比された形で示しているようです。
366氏がいうところの、真理を悟るための実践というのは、おそらくそのような、
涅槃の境地を得るための実践にかかるという意味での哲学のことを言いたかったのではないですか。
スポーツの天才の哲学や武道の達人の哲学に、体系やらを求めても詮無いようなものでしょう。
もっとも、そのような実践哲学の果てにある仏やら涅槃の境地とやら、
それが本当に求めるべき価値があるものなのかどうか、
そこが大事なのではないかと思うのですがね。
375
:
犀角独歩
:2005/11/01(火) 05:36:41
中村元師その他に、そのような用法の使用があることはわかっています。
しかし、「仏教哲学」という場合、創価学会には「仏教哲学大辞典」という成句、また、辞典があります。ここは富士門流信徒の掲示板で、取り分け、創価学会を含む大石寺の信念体系に基づく議論です。
また、この場合、近年の議論では、日蓮における内外相対という教学で、仏教以外の外(ほか)の教えを簡ぶわけですから、これを混同しては論じられないという前提議論があります。
いずれにしても、安直に他思想の用語を転用して説明すれば、原意を損なうので、それはやめようという話が前提になっています。この点については、既に記したとおりです。
また、当スレッドは、現代人が納得できる日蓮教学を考えているうえで、日蓮の原形、並びにその基本とされた法華経の原形を先ず素描してきたという経緯があります。
ここにおいて、哲学ということで説明するのであれば、その言うところの哲学とは何かという定義が先行しなければなりません。
一般的に「哲学」を辞典で引けば
てつがく【哲学】
〔(ギリシヤ) philosophia は知恵への愛・希求の意。西周(にしあまね)の訳語。賢哲の希求を表すために「希哲学」と訳したが、後「哲学」とした〕
(1)世界や人間についての知恵・原理を探究する学問。もと臆見や迷妄を超えた真理認識の学問一般をさしたが、次第に個別諸科学が独立し、通常これらと区別される。存在論(形而上学)、認識論(論理学)、実践論(倫理学)、感性論(美学)などの部門をもつ。(2)自分自身の経験などから得られた基本的な考え。人生観。
「社長の経営術には一つの―がある」
(三省堂提供「大辞林 第二版」)
(2)の用法はギリシャphilosophia からの転用であるわけですから、その本来の意味はギリシャ思想を淵源とします。となれば、日蓮の説明として当てはまらないといっているわけです。
いずれにしても、当スレッドは、現代人が納得できる日蓮教学というテーマから外さない投稿者の矜持を望んでいるわけです。
湛寂の潭に溺死さんの飛び込み参加は別段、拒みませんが、礼節を重んじてきた流れを大切にしていただきたいとお願いしておきます。
また、あなたが「涅槃」に意義なしというのであれば、それをここに説明すればいいわけで、単に不用だと繰り返しても、議論の場として相応しくありません。
また、議論自体が無意味であると思えば、投稿自体が相応しくないと言うことになります。ともかく、議論の流れを尊重していただくようお願いしておきます。
376
:
パンナコッタ
:2005/11/01(火) 12:24:01
湛寂の潭に溺死さん、
>スポーツの天才の哲学や武道の達人の哲学に、体系やらを求めても詮無いようなものでしょう。
たしかに自分もその様に思うのですけれど、嘉納治五郎や千葉周作といった人たちが成した功績は、
それまで名人や達人と呼ばれる人の技を理論体系化し、一般の人たちに普及させたという事実がある以上、
そうとも言い切れないと思います。
多少筋道から外れてしまいますが、参考としてテーラワーダ仏教の考え方を、
http://www.j-theravada.net/kogi/index.html
むろん、パーリ語訳が2500年前そのままなのか? と言った点もありますけど、
興味深く、非常に参考になろうかと思います。
377
:
パンナコッタ
:2005/11/01(火) 12:32:55
>369 通りすがりさん、
八九三みたいに、因縁つけていますか?
投稿に書かれていない事を指摘しただけですよ。更に、問いかけをしただけですよ。
378
:
湛寂の潭に溺死
:2005/11/01(火) 16:57:46
>>373
犀角独歩さん
早速のご回答ありがとうございます。
>これはここでの議論とは少し論点が違います。
>ここで論じられてきたのは、従来こだわられてきた形が、
>斯くも違うという点を闡明にすることに主眼があります。
>それは、つまり、過去にこだわった自己否定、
>そして、いまこだわり執着する人々への警鐘を、
>過去にこだわりを勧めた責任として論じているのです。
なるほど、おっしゃることはよくわかります。
>また、あなたが「涅槃」に意義なしというのであれば、
>それをここに説明すればいいわけで、単に不用だと繰り返しても、
>議論の場として相応しくありません。
ゴータマとその悟りを得た弟子達が、自殺するに至ったということは
最初に述べたとおりです。これ以上の説明は必要性を感じませんし、
繰り返そうとも、議論しようとも思いません。
日蓮は涅槃についても言及しており、ゴータマの教えを継承している、
そのことは事実でしょう。
だから私の意見はテーマに沿う形のものであっただろうと思います。
ともあれ、ご意見も頂戴しましたので私はひとまず満足しました。
ありがとうございました。
379
:
湛寂の潭に溺死
:2005/11/01(火) 16:58:11
>>376
パンナコッタさん
>嘉納治五郎や千葉周作といった人たちが成した功績は、
>それまで名人や達人と呼ばれる人の技を理論体系化し、
>一般の人たちに普及させたという事実がある以上、
>そうとも言い切れないと思います。
スポーツとその普及の意義は私も認めます。
しかしスポーツはスポーツであり、武術・武道とは別物です。
同じことは宗教にも言えるでしょう。
>むろん、パーリ語訳が2500年前そのままなのか?
>と言った点もありますけど、
そのまま保持されていると考えるのは、すでに信仰の領域ですからね。
リンク先の「頼りになるのは覚者だけ」という項には
次のように書かれてありました。
>そんなわけで、2人は大変ありがたい存在でした。
>2人はお釈迦さまより先に亡くなったのですが、お坊さまたちが、
>お釈迦さまのそばに2人がいないのを見ると、何かすごく寂しく感じたそうです。
>我々が普段言う、普通の意味での「寂しい」ではなく、何というか、
>誰もいないような感じがするのだそうです。お釈迦さまが、
>彼らほどほめた人物は他にはなかったのです。
>とにかくお釈迦さまは出家者にとっての模範は、
>サーリプッタ尊者とモクレン尊者だと、繰り返して言われました。
このように、2500年も昔に死んだ男を、わざわざ現代人が理想化して
崇拝し、頼りにするよう説得するには、それをいじくりまわし、隠蔽し、
妄想することが不可欠だということ、そのことがよくわかります。
380
:
湛寂の潭に溺死
:2005/11/01(火) 18:33:38
>>375
>しかし、「仏教哲学」という場合、創価学会には「仏教哲学大辞典」という成句、また、辞典があります。
おっしゃりたいことはわかります。
>(2)の用法はギリシャphilosophia からの転用であるわけですから、
>その本来の意味はギリシャ思想を淵源とします。となれば、
>日蓮の説明として当てはまらないといっているわけです。
語源的にはそうかもしれません。
しかし、哲学はインドにもありますし、
インド哲学と仏教は大いに関連するのは周知のこと。
であれば、日蓮の説明として「哲学」という用語が当てはまらない
ということは必ずしも適当とは言えないはずです。
381
:
通りすがり2
:2005/11/01(火) 23:16:28
(1)世界や人間についての知恵・原理を探究する学問。もと臆見や迷妄を超えた真理認識の学問一般をさしたが、次第に個別諸科学が独立し、通常これらと区別される。存在論(形而上学)、認識論(論理学)、実践論(倫理学)、感性論(美学)などの部門をもつ。
仏教は哲学の上にある実践であることも、知らなかったのでしょうね。
382
:
こがね
:2005/11/02(水) 10:36:41
インド哲学って何でしょうか。
インドにそんな哲学学派があるんですか。
インド哲学という言葉は、イギリスがインドを統治した以降にヨーロッパでのインド思想の研究をするのに、哲学的なアプローチでするしかなかった結果生じた言葉じゃなかったですか。それが日本でもいわれるようになったことではなかったですか。
日蓮大聖人は自分の教えが哲学だとおっしゃっているわけですか。
鎌倉時代に日本で哲学が知られていたんですか。
仏教という大きな世界の中に哲学が入るのであって、哲学の中に仏教が入るという考えは本末転倒じゃないですか。
383
:
パンナコッタ
:2005/11/02(水) 11:47:14
繁盛していた頃の玄武館はスポーツだったのか? とか、講道館四天王ノコンデ・コマが
広めたのは果たしてスポーツだったのか? とかありますけど、主題からズレるので、やめておきます。
そうとも言い切れないと思います。 → そうとも言い切れない一面があると思われます。
の方がよいでしょうか。
さて、
この場合のインド哲学と称される物は、古ウパニシャッドの事でしょうか?
384
:
犀角独歩
:2005/11/02(水) 13:56:24
パンナコッタさん
湛寂の潭に溺死さん
そうなんですね。ですから、パンナコッタさんが仰るような視点ですね。
ここのテーマとは離れるので、この手の言い合いはやめたいのですが、ひとつの整理として記しておきましょう。
たとえば、仏教はヒンドゥー教かというとき、仏教側からすれば、「違う」という答えになるでしょうし、しかし、ヒンドゥー教徒からすれば「いや、ブッダはビシュヌの化身だからヒンドゥー教だ」と言うかもしれません。
この場合、ヒンドゥー教はバラモン教の発展したものですから、ヒンドゥー教はバラモン教であるという言い方は成り立つでしょうが、仏教は、バラモン教という思想世界で出来上がったものでせよ、独自発展していったものは、もはや、バラモン教ではないわけです。つまり、仏教は、バラモン教でも、ヒンドゥー教でもありません。仏教です。
日蓮は釈迦である、釈迦であるからビシュヌである、ビシュヌであるからヒンドゥー教だという説明は、ヒンドゥー教徒であれば、もしかしたら、言うかもしれませんが、日蓮本仏論という信念体系下の人で、自分の信仰がヒンドゥー教だと思っている人はいないわけです。
また、ヒンドゥー教徒に「あなたはヒンドゥー教か」と聞けば、「?」ということになるでしょう。彼らにとって、自分たちの信仰が「○○教」という認識はないからです。
同じように路傍のお地蔵さんを拝んでいるおばあちゃんに、「あなたの哲学は地蔵信仰ですか」、「哲学? なんのこと?」という答えが返ってくるでしょう。仏教を仏教として行じている人に、「哲学だ」と言っても、意味はなしません。
何度も記しましたが「哲学」とは西周がギリシャのフィロソフィーや達意訳した日本語であって、明治以前にこの言葉はなかったわけです。概念もなかったといってよいでしょう。比して日蓮は、鎌倉時代の人ですから、時代的にも、発生的にも、その教えを哲学ということはできないというのが、わたしの説明の骨子です。
しかしながら、明治時代に輸入された外来思想が「哲学」という新造語で定着したのち、この語彙は各種の分野で使用されるようになりました。いわゆる俗訛現象です。結果、人生哲学であるとか、スポーツ哲学であるとか、ひいては泥棒哲学、殺人哲学などという言葉も現出するにいたります。インド哲学、仏教哲学ということも、造語されたわけです。つまり、西周が意図したところからかなり広い範囲で俗訛したということです。
しかし、俗訛し、仏教の説明語の一つとなった哲学は、しかし、日蓮も意図していなかったし、釈迦も意図していなかった、ならば、ここは、厳格な証拠主義に基づいて論じ合う場所であるから、そのようなあいまいな言葉で説明すべきではないというのが、わたしの主張の趣旨です。
まあ、創価学会を中心に自分の信仰が哲学だと思っている人は、哲学だと思っている仏教なのでしょうが、以上の経緯から見るとき、日蓮の教えは仏教なのであって、哲学でないし、釈迦とソクラテスが、同時代の人であっても、はるか隔たった東西の極での話、これを一つのものとして論じるのはあまりにも乱暴なことでしょう。個人的、そう決定して論じたいのであれば、なぜ、仏教が哲学といえるのか、その定義をしっかりとした共通理解にたったうえでなければ、議論は成り立たないわけです。ですから、ケチだけつけるのではなくて、定義をしたらどうかと促したわけです。
385
:
パンナコッタ
:2005/11/02(水) 14:14:17
講道館四天王のコンデ・コマです。 失礼しました。
個人が古いベーダ教典を哲学と位置づけるのは別に構わないと思うのですが、
皆で議論し合う場で、前提となる定義を整理して認識しなければ議論は成り立たない
でしょう。 この場合、ちと噛み合っていないですね。ですから何かキーワードを
出して、個々のそれを掘り下げていくようなやり方のほうがいいかもしれませんね。
386
:
通りすがり2
:2005/11/03(木) 01:02:51
>382
「仏教は哲学の上にある実践」と言うのは、当然ながら「哲学>仏教」ではなく「仏教>哲学」ですよ。
387
:
犀角独歩
:2005/11/03(木) 01:48:41
1829年に生まれ、1897年に西周は没しました。それ以前に「哲学」という言葉はありませんでした。
西周が哲学と新造語したあと、種々のことを哲学という言葉で説明されることになりました。そして、その説明が定着もしたのでしょう。
しかし、その説明が定着したからと言って、仏教が哲学だということになりません。
それは生命という言葉が流行ったあとに、仏教を生命で説明したところで、仏教は生命論ではないのと同じです。
時系列から見て、物事を考えないと、以上のような稚拙な過ちを犯すことになるでしょう。また、このような程度の低い議論はせっかくの議論を妨げることも残念です。
388
:
湛寂の潭に溺死
:2005/11/03(木) 03:48:41
>>383
パンナコッタさん
>繁盛していた頃の玄武館はスポーツだったのか?
私個人の感覚から言わせていただければ、やはりどちらかと言えばスポーツ性が強かっただろうと私は思います。
玄武館と言えば千葉周作ですが、そこに籍を置いた山岡鉄舟を例に見ましてもそう思います。
彼は後に小野派一刀流、伊藤一刀斎十世を正式に継承した人物ですが、
しかしそれほどの人物であっても、生涯一度も真剣で人を傷つけたことがなかったと言います。
本物の伊藤一刀斎などと比較すると大変な違いがあると思います。
>講道館四天王ノコンデ・コマが広めたのは果たしてスポーツだったのか?
いえ、講道館四天王と呼ばれるのは、西郷四郎・横山作次郎・山田常次郎・山下義韶の四名であり、
前田光世はそれには含まれておりません。
講道館では他流試合を禁じていたため、それを破った前田光世は破門の身でした。
彼の弟子が後にグレイシー柔術を創始したことから見てもわかるように、
結果的に彼が縁となって広まったのは柔術であって、柔道ではなかったのだろうと思います。
ちなみに、私が374で言った「求めても詮無い」とは「体系化」ではなく「体系そのもの」です。
ネタ的に私の好むものであったため、誤解が生じていたことに気づくのが後になってしまいました。
議論をわき道に逸らしてしまったことについて、お詫び申し上げます。
389
:
湛寂の潭に溺死
:2005/11/03(木) 07:13:32
382 こがねさん
>インド哲学って何でしょうか。
インド哲学とは「ダルシャナ」のことです。
「見解」「ものの見方」「宗教」「学派」「哲学」などと訳されます。
>インドにそんな哲学学派があるんですか。
・ヴェーダーンタ
・サーンキヤ
・ヨーガ
・ヴァイシェーシカ
・ニヤーヤ
・ミーマーンサー
以上、六派あります。
>インド哲学という言葉は、イギリスがインドを統治した以降に
>ヨーロッパでのインド思想の研究をするのに、
>哲学的なアプローチでするしかなかった結果生じた言葉じゃなかったですか。
インド哲学という言葉自体は、無論インド人が言ったわけではないだろう、
元々インド固有の「ダルシャナ」という、宗教も包含した広義の概念があり、
それを西洋人は知り、インド哲学という名前をつけた、というだけではないか。
>日蓮大聖人は自分の教えが哲学だとおっしゃっているわけですか。
>鎌倉時代に日本で哲学が知られていたんですか。
>仏教という大きな世界の中に哲学が入るのであって、
>哲学の中に仏教が入るという考えは本末転倒じゃないですか。
私が言ってないことなので省略。
>>384
犀角独歩さん
>「哲学」とは西周がギリシャのフィロソフィーや達意訳した日本語であって、
>明治以前にこの言葉はなかったわけです。概念もなかったといってよいでしょう。
仏教の歴史を見れば、六派哲学との対決が数多く見られます。開目抄には、
「或は因中有果、或は因中無果、或は因中亦有果亦無果等云云。此外道の極理なり。」
と記されていますが、この因中有果はサーンキヤ哲学・ヴェーダーンタ哲学であり、
因中無果はヴェイシェーシカ哲学、因中亦有果因中亦無果論についてはジャイナ教のことです。
日蓮にとって宗教と哲学は固く結びついた分けることのできないものだったことでしょう。
しかし反面、スッタニパータには「(哲学的)見解を捨てよ」と記されていたりもします。
仏教と哲学の因縁は実に深いと私は見ています。
【撫斬り】日蓮正宗系の教義を徹底検証!その2
ttp://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1054740898/
こちらの2chのスレでは阿呆氏が本覚思想とサーンキヤ哲学の相似について疑義を
指摘したりしていますが、私はこのように、仏教を語る上で哲学というものはやはり
避けたりしないほうがやり易いのではないかと思っています。
それはそうと今回の書き込みで私は書き込みを止めようと思います。
お相手、ありがとうございました。
390
:
犀角独歩
:2005/11/03(木) 11:23:02
湛寂の潭に溺死さん
今回で書き込みは止めるそうですが、それでも一言記しておきます。
あなたがインド哲学と言ったもの、また日蓮の開目抄で引く例は哲学ではなく、本来の語彙で言えば「外道」でしょう。
しかし、この外道という言葉は俗訛して人を侮蔑するために用いる言葉になってしまったので、学術的説明、また、仏教においても、この語彙の使用はためらわざるを得ないと言う常識感覚が働いてきた経緯があります。そこで、代わりに使用されたのが「哲学」という言葉だったのに過ぎません。つまり、それは哲学でも何でもなく、現代語で言えば、自由思想家と言われた、仏教外の教団・学派の教えに過ぎません。
391
:
犀角独歩
:2005/11/03(木) 11:27:19
なお、「外道」とされた仏教外思想、また、仏教が実際に習合してきた外来思想との習合を考えるうえで、それら教義・思想を考えることを、わたしは何も否定していません。
ただ、何でもかんでも「哲学」だとしてしまうような記述は感心しないと言っているのに過ぎません。
392
:
パンナコッタ
:2005/11/03(木) 11:53:30
湛寂の潭に溺死さん、
自分の釣りの部分は、ご容赦願います。でも、どういう一面のある人かわかりましたので
好むネタに関しては別のスレで続けたいものです。 その時はよろしくお願いします。
哲学の投稿に関しては以前、”時系列に注意せよ”との投稿があり、その点を踏まえての一連の流れですので、
読む際の、押さえておきたいポイントだと自分は思っております。
393
:
とんび
:2005/11/06(日) 22:09:48
どこのスレッドに書いたらいいのか..と思いましたが、ここが一番近いと
感じました。
すでに、御書から離れて数年が経ち、遺文なども忘れてしまったものが多く
あります。顕正会を辞めて、自ら日蓮さんの本意は、どこにあるのかと..御書
を買って読みました。当然ながら、現代語ではないわけで、また仏語などわから
ない言葉が多いので、意味をくみ取ることは難しいわけです。
ひとつ聞きたいのですが、日蓮さんが、残された御書について、対告衆の違い
による差があるのか..ということです。
立正安国論や開目抄、観心本尊抄、報恩抄、法華取要抄など、対告衆が四条殿
や富木殿であっても、公にされるべき類の御書と、上野殿・四条殿・富木殿御返
事のように、手紙の返事として個人的に書いたと思われる御書では、その意味合
いが違ってくるでしょうか。
394
:
パンナコッタ
:2005/11/07(月) 00:15:01
とんびさん、
参考にですけど、検索目的ならやはり御書システムの導入がよいと思います。
導入に関しては、お勧めスレに紹介されていましたのでそちらを参考に。
語彙の検索を初め、御書を年代別・対合衆別・クラス別に並べられて、
それぞれに解説文もあり非常に便利です。
395
:
犀角独歩
:2005/11/07(月) 09:43:11
とんびさん
パンナコッタさんも勧められていますが、これはやはり、御自身の判読で掴むことが肝心だと思います。
>対告衆…意味合いが違ってくる
当然のことだと思います。
日蓮自身が、個人に宛てた手紙類をあとから集めて‘御書’と評し、万人の教学の糧にされるようになると考えていたのかというと、そんなことはないだろうと思います。消息文は、あくまで対機説法でしょうから、すべてを矛盾して見えるところもあるでしょうし、また、相手の立場、了解(りょうげ)の浅深の違いで書き分けもあったろうと思います。
一方、立正安国論は奏進勘文で公に提出したわけですから、広く読まれることを意識していたでしょう。
撰時抄などは対告衆のない説法の草案だといいます。
注法華経は身延の墓所寺に置き、輪番の弟子が、その期間、研鑽することを最終的には意図されたものであったのでしょう。
しかし、以上のそれぞれの相違があるにせよ、それを受け継いだ人々は、また、日蓮とは違った思惑でそれを受け止めてきたのだと思います。
396
:
小池
:2005/11/12(土) 15:12:17
独歩さん
ご無沙汰しています。
岩本師の「仏教入門」「布施と救済」「岩本裕著作集1」「同2」を読み、大変勉強になりました。誠に有難うございます。
一点、教えて頂ければありがたいのですが、観心本尊抄で「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等この五字を受持を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたまう」とありますが、南無妙法蓮華経には、釈尊の因行果徳がすべて含まれているという理解でよいのでしょうか。それとも妙法蓮華経はあくまで経題なので、このような解釈にはならないとみればいいのでしょうか。
397
:
犀角独歩
:2005/11/12(土) 15:41:15
396 小池さん
少しくお久しぶりです。
黙々と読書されていらっしゃったのですね。敬服します。
> 南無妙法蓮華経には、釈尊の因行果徳がすべて含まれているという理解でよいのでしょうか。それとも妙法蓮華経はあくまで経題なので、このような解釈にはならない
悩ましい問題です。
日蓮聖人の教学的立場は当然、含まれると考えたのでしょうし、それを信仰する人々もそうなのであろうと思います。
また、このような結論は、法華会通・一仏統一からの結論でしょうから、法華経を無謬とする教学的姿勢に基づくわけでしょう。
当掲示板でも、皆さんが語られているように、唱題の行は、実体験と確信をもたらしています。(わたし自身も個人的にそんな体験は勿論あるわけですが)それを肯定すれば、以上のような結論は是といえるのだろうと思います。
ただし、わたしは、この点について、やや慎重です。
ここでは、妙法蓮華経が象徴(シンボル)となってしまっているので、台釈からすれば「言語道・断、心行処・滅」(言語という方法論から断絶、精神活動の滅した処)という境地、また、空、無我と、これでは齟齬を来たすのではないのかという疑問です。
また、社会心理学的な分析に係れば、これは「個人的リアリティ」とされるところで、一般を納得させる内容にはなっていません。
もっとも、宗教的な境地が、科学的分析で説明されるかどうか、一考を要する点はあるのでしょうね。しかし、わたしは対他的に、この「個人的リアリティ」という万人共通・再現性を証明できない‘真実’を確信をもって語る蛮勇は俄かに生じません。しかし、それを全面的に否定するということでもありません。
まさに悩ましい問題であろうかと存じます。
398
:
小池
:2005/11/12(土) 16:36:11
独歩さん
大変ありがとうございます。
>ここでは、妙法蓮華経が象徴(シンボル)となってしまっているので、台釈からすれば「言語道・断、心行処・滅」(言語という方法論から断絶、精神活動の滅した処)という境地、また、空、無我と、これでは齟齬を来たすのではないのかという疑問です。
「妙法蓮華経が象徴(シンボル)となってしまっている」についてですが、これはどのような意味合いでしょうか。経題が象徴になっているというこどてしょうか。お教え頂ければありがたいです。
また、「言語道・断、心行処・滅」とは、南無…経が言語で表出できない神秘的なもの、不可思議なものということから、言語で究極の一法である南無…経は解説不能ということでしょうか。
天台は漢訳法華経その他の経々を見、そこに一代五時八経、妙法華を釈尊の究極の経ととらえたと推測しますが、このような経典理解の仕方からすれば、そのようにも考えられると存じますが、世界的な現代仏教学では、経典は個別的に成立したのではないかというふうに把握されているように推測されます。そうしますと、梵本法華経をもって釈尊の出世の本懐ととらえることは難しいのかなと思われますがいかがでしょうか。
>社会心理学的な分析に係れば、これは「個人的リアリティ」とされるところで、一般を納得させる内容にはなっていません。
仰せのとおりだと私も思います。「個人的リアリティ」の世界はなんら否定しません。岩本師は、日蓮は晩年に至るまで密教的色彩から脱却できなかったと述べられていましたが、伊豆流罪の折の伊東氏の病気平癒を祈念したことにみられるように呪法的(大変言葉が悪くお詫びしますが。あるいは聖人の口傳か否か執行師の指摘されるところではありますが、「御義口傳」の陀羅尼品での説明のような?)な力は南無…経にあるのではないかとも思われますがいかがでしょうか。
399
:
犀角独歩
:2005/11/12(土) 19:23:23
398 小池さん
> 経題が象徴になっている
ええ、そのとおりです。
たとえば、「小池さん」という名前はたしかにご本人を指すものでしょうが、ご本人そのものではありません。
妙法は法を示すものでしょうが、法そのものではなく、名前です。
しかし、この名前そのものが法そのものと取って代わるという象徴化が、ここにあります。
> 言語で究極の一法である南無…経は解説不能
わたし個人としては、妙法蓮華経はお経の題名であると考えています。
しかし、日蓮は、この五字の中に法はもちろんのこと、その功徳、因果の一切が納まると考えたのでしょう。その意味において、妙法蓮華経を法そのものと取られ得ていたように窺えます。そして、その法は言語音声(ごんごおんじょう)もしくは題目の文字そのものであるとも考えていたようにも思います。
日蓮はこれを妙法蓮華経の五字で完全に顕現したという立場で、では、そこに籠められた意味はとなれば、宝珠とされる一念三千ということであり、一念三千は久遠釈尊の証明であると共に、自分自身の仏種が、熟・脱して成仏の本懐を遂げることの証であるという道筋がそこにあるのだと思います。その意味において、日蓮にとっては解説不可能というのと少し違うかも知れません。
「声仏事を為す」という教学的な姿勢は、実際に表現も、認知も可能である故に、理ではなく、事であるというわけです。
しかし、わたしは妙法蓮華経は、羅什が、(松山師の説を籍りれば)雑一阿含で既に漢訳成句になっていた「妙法」を転用し、蓮華と併せて経題に充てた造語であるわけで、それが言語の究極か?ということになれば、人為による翻訳と成句が、究極の法を策定できるはずもないという思いがわたしにはあります。
> 梵本法華経をもって釈尊の出世の本懐ととらえることは難しい
もちろん、そのとおりだと思います。
法華最勝という教学的な姿勢は、もちろん、天台に見られるところでしょうが、この時点で、真言の経典も出揃っていたわけでもなく、ある面、天台の生きていた時代は、経典の制作と翻訳が“同時進行”であったわけです。仮に内容から、その粋を競うにしても、出揃っていない時点での話ですから、実際的にその裁定は不可能ということになるでしょうか。
> 呪法的…「御義口傳」の陀羅尼品での説明のような?)な力は南無…経にある…
あると思います。
より厳密に言えば、信じ、行じる側が、南無妙法蓮華経を呪にも、法にもし、効験もあらたかにもなるのでしょう。
ここまでくると、しかし、法華最勝、題目最高というより、「信」という精神作用が及ぼす効果の問題に立ち入ることになりますが、わたしは、この一切を諸宗、諸経、諸教、もしくは諸師を媒体とする各人の潜在能力から考え、それは触媒的な役割で、実現は各人に係ることではないのかのかと考えております。
400
:
小池
:2005/11/12(土) 22:43:31
独歩さん
大変ありがとうございます。
>たとえば、「小池」という名前はたしかに本人を指すものだが、本人そのものではない。
妙法は「法」を示すものだが、「法」そのものではなく、名前である。
しかし、この名前そのものが「法」そのものと取って代わるという象徴化がここにある。
再確認ですが、妙法(経典名である妙法蓮華経)は、「法」そのものではなく、「法」を指し示している名前(経題)にすぎない(少なくとも梵本法華経では)のに、名前(経題)が「法」そのものに取り代っている、だから経題が、経題名だけという意味から「法」に取り代っている時点で一種の象徴化がなされているという意味合いでよろしいでしょうか。
>わたし個人は、妙法蓮華経は経題名であると考えている。
しかし日蓮は五字の中に「法」はもちろんのこと、釈尊の功徳、因果の一切が納まると考えた。その意味において、妙法蓮華経を「法」そのものと取られ得ていたように窺える。その「法」は言語音声もしくは題目の文字そのものであるとも考えていたようにも思う。
おわかりであれば教えて頂きたいのですが、日蓮は、なぜ経題名である「妙法蓮華経」を「法」そのものととらえたのでしょうか。何か経題名を「法」ととらえるだけの根拠なりがあったのでしょうか。
>日蓮はこれを妙法蓮華経の五字で完全に顕現したという立場で、では、そこに籠められた意味はとなれば、宝珠とされる一念三千ということであり、一念三千は久遠釈尊の証明であると共に、自分自身の仏種が、熟・脱して成仏の本懐を遂げることの証であるという道筋がそこにあるのだと思います。その意味において、日蓮にとっては解説不可能というのと少し違うかも知れません。
一念三千論は難しすぎて私にはわからないものですから、もしよろしければ、「これ(法か?)を妙法蓮華経の五字で完全に顕現した…そこに籠められた意味は宝珠とされる一念三千であり…一念三千は久遠釈尊の証明であると共に…自分自身の仏種が熟・脱して成仏の本懐を遂げることの証であるという道筋がある…」について、更に解説頂けますでしょうか。
>「声仏事を為す」という教学的な姿勢は、実際に表現も、認知も可能である故に、理ではなく、事であるというわけです。
これは、唱題成仏ということでしょうか。
>しかし、わたしは妙法蓮華経は、羅什が、(松山師の説を籍りれば)雑一阿含で既に漢訳成句になっていた「妙法」を転用し、蓮華と併せて経題に充てた造語であるわけで、それが言語の究極か?ということになれば、人為による翻訳と成句が、究極の法を策定できるはずもないという思いがわたしにはあります。
梵語のサッダルマ・プンダリーカ・スートラではなく、正法蓮華経でもなく、妙法蓮華経という表現だけが究極の法(言語の究極か?)ということが「(羅什等の)人為による翻訳と成句が究極の法を策定できるはずもない」のではないかということなのですね。
>より厳密に言えば、信じ、行じる側が、南無妙法蓮華経を呪にも、法にもし、効験もあらたかにもなるのでしょう。ここまでくると、しかし、法華最勝、題目最高というより、「信」という精神作用が及ぼす効果の問題に立ち入ることになりますが、わたしは、この一切を諸宗、諸経、諸教、もしくは諸師を媒体とする各人の潜在能力から考え、それは触媒的な役割で、実現は各人に係ることではないのかと考えております。
南無経の力は、「法華最勝、題目最高というより「信」という精神作用が及ぼす効果の問題…になり、…(その)実現は各人に係ることではないのか…」につきまして、非常に重要なことがらを述べられているように思いますので、もう少しご説明頂けないでしょうか。
401
:
ラスカル
:2005/11/13(日) 12:01:42
浅くて説明にならないかもしれませんが、一念三千の法は色心不二・依正不二を表す学識であって悟りの基礎になる前提でしょう。私は単純に蓮から始まり妙に終わる事が法華経の極意と思います。現世利益に例えると「一念三千の法を蘇生復活させる蓮華=妙法蓮華=若くてキレイになる事」誰もいつでも健康にありたいと考えるでしょう。どこの団体も総合仏教化で解り辛いと思うのは私だけでしょうか。文字曼陀羅は時空の移り変りを書いた本尊。
402
:
犀角独歩
:2005/11/13(日) 13:07:32
小池さん
> 「法」に取り代っている時点で一種の象徴化がなされているという意味合いでよろしいでしょうか。
そのような趣旨で記しました。
> 日蓮は、なぜ経題名である「妙法蓮華経」を「法」そのものととらえたのでしょうか。何か経題名を「法」ととらえるだけの根拠なりがあったのでしょうか。
日蓮が題目を法ととらえたか?という点についてですが、やや、わたしの記し方も悪かったかも知れませんが、真跡遺文の範囲では、そのような断定には必ずしもなっていないと思えます。むしろ、一念三千(三千諸法)法門を裏んだ五字・上行所伝付属の正体という意味であろうかと存じます。法本尊という成句がありますが、これが日蓮に由来するのかは微妙な問題であろうかと存じます。なお、一念三千は衆生の心法ですから、万有引力の法則などといった自然科学がいう法則、また、国家政治で言う法律とは、意味を異にします。しかし、日蓮解釈の時代に入ると、妙法五字は直ちに法理の如く認識されるにいたり、現在ではまさに「宇宙に遍満する妙法」とまで言われる如くで、宇宙生命を律する法理の様相を呈しています。
ただ、わたしは確実に言えることは、日蓮の時点で既に妙法五字がシンボル(象徴)になっていたということです。しかし、これは一般的な見地からの表現ですから、その信仰圏で言えば、「法」といえなくもないかも知れません。
> …一念三千論…成仏の本懐を遂げることの証
何度か繰り返し記していますが、一念三千は妙楽の成句で、天台(章安)の段階では見られません。いわば、この時点でもまず一念三千という成句のシンボル化があったとわたしは批判的に見ています。
それはともかく、では、日蓮が妙法蓮華經を信仰したのは、そこに一念三千という宝珠が裏まれる所以ですが、この一念三千を通じて、日蓮が確信したことは己心仏界所具ということで、より簡潔に言えば、自身成仏の証と見たからでしょう。また、一切衆生成仏の証と見たという意味で記しました。
> 唱題成仏ということでしょうか。
この唱題成仏は、当掲示板でも引用されますが、実は、わたしはあまり意識してきませんでした。富士宗学要集で見ると、この用例は日因の言として一度あるばかりです。
ただ、これは他門下でも使用される成句なので、門下一般の認識としてこのような考え方は古くからあったようです。唱題が遊楽である、また、唱題が九識であると言った類の用例は、写本遺文の範疇と思えます。しかし、日蓮が言う成仏とは、真跡遺文に限れば、文字どおり、成仏であるように思えます。
> …「(羅什等の)人為による翻訳と成句が究極の法を策定できるはずもない」のではないかということなのですね。
そのように考えます。
> 「法華最勝、題目最高というより「信」という精神作用が及ぼす効果の問題…になり、…(その)実現は各人に係ることではないのか…」につきまして、非常に重要なことがら…
ここを記しはじめると、さらに富士門流信徒という枠からはみ出していきますが、過去10年、種々の宗教と信者を見聞するに就き、その各人が感じる法悦、効験、体験、経験…、まあ、言葉はどのようなものでもよいのですが、その類の心身への影響は、何も唱題に限ったことではなく、ありとあらゆる信仰下で見られることであると率直に認めざるを得ないというのがわたしの結論です。これはまた、功徳・罰と言われるところでも同じです。
殊に学会を含む石山門下では、「実証は正しい信仰にしかない」というテーゼがあるのですが、実はこれは実際に複数の信仰体験者を観察するとき、疑問視せざるを得ないわけです。
以上のような精神作用、ひいては心身作用を何と呼べばよいのか決し得ませんが、ともかく、そのような効果は、教えの邪正によるというより、その個人の信じ込む力によって引き出されるものであって、実は、その要因は人側にあるというのが、わたしなりの結論だということです。
しかし、では、教えは何でもよいのかということになりますが、ここで、わたしはまったく違う点から選択肢を現在は有さなければならないと考えます。これは、先の本化ネットの学習会で仏教タイムス編集長・工藤師も語ったことですが、今日的な課題として、宗教は人権意識から、解釈整理されなければならないとわたしは強く考えます。差別の原因、暴力の原因、戦争の翼賛等、人権を侵害する原因となる宗教はまさに邪教として排斥されていかなければならないと考えると言うことです。
403
:
小池
:2005/11/13(日) 18:20:18
402 独歩さん
大変有難うございます。何回も読んでいるのですが、やはり難しいです。
以前の内容も合わせて、考えて見ます。
有難うございます。
404
:
とんび
:2005/11/29(火) 22:27:53
パンナコッタさん、こんばんは。
御書システムのご紹介ありがとうございます。
桐がなかったので、購入し、御書システムを導入しました。
まだ使い方がよくわかりませんが、これは凄いですね。
それから、無料で提供しているところが、また凄いし頭が下がります。
日蓮宗関係のところで提供しているのかと思いましたが、興風談所とありま
すので日興上人の門流・富士門流信徒の方々がかかわっているのでしょうか。
405
:
とんび
:2005/11/30(水) 00:56:04
適当なスレッドがないので、ここに書きます。
縁があって、松本修明さんとお話をし、この書を勧められました。
この方は、元創価学会の幹部だったらしいですが、今は、どわすれしましたが、
西山本門寺か、いやたしか北山本門寺の住職であったと思います。
「南無妙法蓮華経要義」という本です。
しばらくは、この本を土台にしていきたいと思います。また、三枝充悳著の仏教
入門、中村元訳のブッタの言葉なども、あわせて読もうと思っています。
この方は、大石寺の日寛上人の教学的な解釈を批判しています。
ある意味、創価学会・顕正会・妙観講などの団体が出てきたのは、日寛さんの
責任であるということを言われていたように思います。
日寛さんは、正宗では、日興・日目上人に次ぐぐらいの聖僧であり、伝記・
神話たぐいのことがいい伝えられていると思います。六巻抄があるから大石寺は
正しいのだ..ということなのでしょうか。
それは、さておき、この書の中で、
南無妙法蓮華経の解説書が法華経
法華経の解説書が御書
御書の解説書が、天台・妙楽の論釈
とあります。
たしかに、道理や筋は通っていると思いますが、天台・妙楽..などにまで
及ぶと、途方もないことだと感じてしまいます。
興門流を名乗るなら、日興遺誡置文に「当門流に於ては...間有らば台家を
聞くべき事」ということで、しかるべきなのでしょうが。
ただ、この本の法門については、言葉が難しいので、すぐにはわかりませんが、
法門以外のことについては、示唆の富む有用な言葉がありました。気持ちがリフ
レッシュしたようなところがあります。
南無妙法蓮華経の解説書が法華経
法華経の解説書が御書
御書の解説書が、天台・妙楽の論釈
このことについて意見がありましたら、よろしくお願いします。
406
:
犀角独歩
:2005/11/30(水) 01:13:51
とんびさん
松本修明さん…西山本門寺か、いやたしか北山本門寺の住職
違います。
南無妙法蓮華経の解説書が法華経
法華経の解説書が御書
御書の解説書が、天台・妙楽の論釈
逆でしょう、まったく。
法華経を解釈したのが天台、妙楽。
その天台妙楽の釈を説明したのが御書です。
法華経が南無妙法蓮華経の解説書に至っては、申し訳ありませんが、もはや、お話になりません。
ご存じなのかどうかわかりませんが、妙法蓮華經とは羅什が訳した法華経(Saddharmapundarikasutra)の漢訳名、つまり、お経の名前です。
もし、松本さんの言い方からすると、経典の題名に南無をつければ、経典の本文が解説しているということになります。
これでは日本の法律は、六法全書という題名を説明していると言っているようなものです。
まあ、しかし、松本さんがいっているようなことは、さして真新しいものでも、オリジナルなものではありません。よく聞くずっこけた解説では目にします。
407
:
パンナコッタ
:2005/11/30(水) 10:55:42
とんびさん、
導入されましたか。 では、OPの冒頭タイトルを見て、立正安国論の国の字が”国構えに民”などと
いっている人たちを笑ってあげましょう。(^o^) 以下は「本文」を見ていって書き分かれている事を
チェックしていってください。 色々使えるので是非、ご活用していって下さい。
興風談所は正信覚醒運動の際、石山から分かれた正信会系の研究機関で、富士門流系ですね。
408
:
とんび
:2005/11/30(水) 22:53:50
書き込むスレッドが、ここが一番適当と思いました。
松本さんのことについては、のちほど発言します。
法華経について。
私は、創価学会版の法華経開結の文庫本を持っていましたが、ひさしぶりに
読もうと思ったら、見つからなくなってしまった。あらたに買おうかとも思
っています。ですので今、原文がなく引用はできません。
私の、うすら覚えの範囲でいうと、法華経が最勝・第一であるというのは、
二乗作仏と久遠実成をあかしていること。そして竜女の成仏とダイバダッタ
が成仏の記別を受けること。
簡単にいうと、法華経を信ずる人は(すべての衆生は)必ず成仏できるから、
最も尊い。また法華経を信ずることでしか成仏できない..ということでしょ
うか。
どうなんでしょう。
真偽の問題がある三大秘法抄では、法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給ひて
候は、此の三大秘法を含みたる経にて渡らせ給へばなり。秘すべし秘すべし。
と書いてあります。三大秘法を含んでいるから尊いのでしょうか。
正宗では、南無妙法蓮華経が下種ですから、南無妙法蓮華経に縁すると、
いつか必ず成仏するということだったと思います。法華経を説いて過去の
下種を悟らせる...。
ということならば、法華経と縁をしても必ず成仏できるわけがないという
ことでしょうか。
正宗崩れ、なのでなんですが、時代背景があり、釈尊の時代は、そもそも
法華経に縁をするということは、過去に南無妙法蓮華経が下種されているから
だということになりますか。
そして、今の世では、余経も法華経も詮無し、ただ南無妙法蓮華経云々、と
いうことで、法華経の意味をくみ取って信じたとしても成仏できない..と
いうことでしょうか。
409
:
犀角独歩
:2005/12/01(木) 15:01:12
> 法華経…原文がなく引用はできません。
原文であれば、現宗研のサイトにあります。
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/bunken.htm
ただし、これが春日版であるかどうかは確認しておりません。
> …二乗作仏と久遠実成…竜女の成仏とダイバダッタ
が成仏の記別を受ける
この記述はある程度、門下教学に筋に則っていますが、二乗作仏は二乗記別です。実際に変成男子で成仏をしたのは竜女です。提婆達多も未来成仏の記別です。
> 法華経を信ずる人は(すべての衆生は)必ず成仏できる
法華原文から読むと、実はこのような筋にはなっていません。
過去の罪業の罪を法難に遭うことによって消滅することによって、長命を得るということです。成仏は、釈尊による記別よるという脈絡です。
> 法華経を信ずることでしか成仏できない
法華経における「信」とは以信得入、以信代慧ということであり、ここで、諸仏以外は決して了し得ない智慧を信をもって入り、代えるというのが本来の意味です。
> 三大秘法を含んでいるから尊いのでしょうか。
三大秘法は日蓮の造語とは言い切れないでしょう。
> 正宗では、南無妙法蓮華経が下種ですから、南無妙法蓮華経に縁すると、
いつか必ず成仏する
細かい修正となりますが、「妙法蓮華経の五字‘を’下種」です。
> 法華経を説いて過去の下種を悟らせる
これは石山で言う脱益仏法における法華経解釈です。
末法は本巳有善の下種をされていない衆生だけであるから下種をするというのが石山教学です。
> 法華経と縁をしても必ず成仏できるわけがない
いえ、教学的な姿勢としては、法華経と縁をしなければ成仏しないと言う立場です。
> 正宗崩れ
こんなふうに自身を表現する必要はありません。
わたしも「学会くずれ」と顕正会から名指しで批判を受けていますが、‘くずれた’という自覚はありません。学会に納得がいかないから辞し、また、石山にも納得がいかないから辞したということです。むしろ、一段広い見地に進んだという自覚です。
> 釈尊の時代は、そもそも法華経に縁をするということは、過去に南無妙法蓮華経が下種されているからだということになりますか。
繰り返しますが、「南無妙法蓮華経を下種」ではなく、「妙法蓮華経の五字の下種」です。
久遠下種を題目下種ととらえるという点では、慎重にならざるを得ません。通常は仏種でしょう。
> 余経も法華経も詮無し、ただ南無妙法蓮華経云々…法華経の意味をくみ取って信じたとしても成仏できない
禄内写本「今末法に入ぬれば余経も法華経もせん(詮)なし、但南無妙法蓮華経なるべし」の一節ですね。まあ、日蓮の遺文と目されるのでしょうか。
法華経の意が汲み取れるのは、唯仏与仏ですから、そこで以信得入という教学的な態度が生じるのでしょう。
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等、此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう」(本尊抄)ということですから、こうなれば、法華経典によらずとも五字受持で事足りるという教学的態度が日蓮には見られます。
410
:
とんび
:2005/12/01(木) 21:38:16
犀角独歩さん、ていねいなレスありがとうございます。
>原文であれば、現宗研のサイトにあります。
言葉が、適当でありませんでした。
法華経開結と書きましたが、記憶によると、真訓両読妙法蓮華経並開結だったと
思います。漢文は意味が良く汲み取れないので、訓読文となりますでしょうか。
記憶違いなら申し訳ないですが、竜女(畜生界の象徴か)は、権経では、男子に
なってから成仏が許されましたが、法華経では、竜女(女人のまま)のまま成仏の
記別を受けたのではないかと、思います。
>法華経における「信」とは以信得入、以信代慧ということであり、ここで、諸仏以外は決して了し得ない智慧を信をもって入り、代えるというのが本来の意味です。
どちらも聞いたことは、ありますが、正宗時代はあまり縁のない言葉でした。
智慧第一の舎利弗すら智慧では成仏できなかった。法華経を信ずることによって何かを悟り
成仏できたのか、ただ何もわからなくても信ずるだけで成仏できたのか。
日蓮さんは、御書で「ただ信ずることだけ」で成仏できると言っていたような。
四信五品抄あたりだったでしょうか。
>三大秘法は日蓮の造語とは言い切れないでしょう。
言葉として最初に述べたのは、日蓮さんだと思いますが、御書の中で、経文のおもてに
現前なり...とかの意味のことをいっているのでしょうか。
>細かい修正となりますが、「妙法蓮華経の五字‘を’下種」です。
話が、展開してしまいますが、南無妙法蓮華経と妙法蓮華経との違いがあろう
かと思います。日蓮さんは、御書の中で、五字・七字と併記している遺文もあり
ますが、厳密にいうと御書の中で、日蓮さんは、南無妙法蓮華経と妙法蓮華経と
の区別をしていたのでは..とも推測されます。曼荼羅と本尊のように。
御本尊の主題が、南無妙法蓮華経です。なぜ妙法蓮華経の主題でなかったので
しょうか。これは、松本さんから言われたことですが、「南無妙法蓮華経に南無
しているのだ」ということで、私たちの信心は「南無南無妙法蓮華経」である..
ということです。
ここのところ、南無妙法蓮華経と書いてある違文と妙法蓮華経と書いてある違文
が、全くの同じか、深く読めば違うのか..。わかる人がいましたら、ご教示下さい。
>末法は本巳有善の下種をされていない衆生だけであるから下種をするというのが石山教学です。
正宗に縁をしたので、そのような解釈になりがちですが、正式には、浅井顕正会教ということに
なるでしょうか。
今年の、冬に法華講の方から折伏を受けました。顕正会では、下種を受けて信じないと、すぐに
無間地獄に堕ちる..と言っていましたが、法華講の方は、そうは言っていませんでした。
勤行の作法も顕正会のそれは、アレンジしてあり、すでに当時日蓮正宗顕正会と名乗っていながら、
既に、教義は、別のものだったのかと思います。
国立戒壇の意義については、顕正会の方が、本来の正宗の意義に近いのでしょう。
>教学的な姿勢としては、法華経と縁をしなければ成仏しないと言う立場です。
このあたり、過去に参考にするべきログ・発言があるでしょうか。
>繰り返しますが、「南無妙法蓮華経を下種」ではなく、「妙法蓮華経の五字の下種」です。
久遠下種を題目下種ととらえるという点では、慎重にならざるを得ません。通常は仏種でしょう。
私は、今まで、南無妙法蓮華経の七字と妙法蓮華経の五字を同一視していましたが、どうも
考えた方がいいかもしれませんね。
ただ、私は、法門は苦手なのです。
羅什の訳した、法華経が妙法蓮華経という題名ですから、法華経=妙法蓮華経と解する人も
いるのでしょうね。
411
:
犀角独歩
:2005/12/01(木) 22:15:51
とんびさん
> 竜女(女人のまま)のまま成仏の記別を受けた
違います。
提婆達多品に「龍女の忽然の間に変じて男子となって、菩薩の行を具して、即ち南方無垢世界に往いて宝蓮華に坐して等正覚を成じ、三十二相・八十種好あって」とあるとおりです。
>智慧第一の舎利弗すら智慧では成仏できなかった。法華経を信ずることによって何かを悟り
成仏
期別を受けたのです。
> 日蓮さんは、御書で「ただ信ずることだけ」で成仏できる
まあ、そういうように解釈することもできるかもしれませんね。
> 三大秘法…最初に述べたのは、日蓮さん
とんびさんはあまり御書に詳しくないようですね。真蹟が遺っているものと遺っていないものがあります。その確実に遺っている御書にはないので確実に日蓮が言ったとはいえないということです。
>>細かい修正となりますが、「妙法蓮華経の五字‘を’下種」です。
これに日蓮の遺文にあります。
「題目之五字を以て下種」(曾谷入道殿許御書)です。
> 南無妙法蓮華経と妙法蓮華経との区別をしてい
していたでしょうね。
> 曼荼羅と本尊
この意味は解しかねます。
> 主題が、南無妙法蓮華経です。なぜ妙法蓮華経の主題でなかったので
しょうか。
そんなことは当然でしょう。日蓮が妙法蓮華教に南無をしていたからです。
> 松本さん…私たちの信心は「南無南無妙法蓮華経」
これは松本さんの考えであって、日蓮とは関係ありません。松本教といったところでしょう。
> 国立戒壇の意義については、顕正会の方が、本来の正宗の意義に近い
‘近代の’ということでは、そういえるでしょうね。正確に言えば、戸田城聖氏のということです。
> 法華経が妙法蓮華経という題名ですから、法華経=妙法蓮華経と解する人も
いるのでしょうね。
日蓮は「法華経の題目」「題目の五字」と書き残していますから当然のことです。
題目とは現代語で言えば題名ということです。
とんびさん、経・釈・御書が事実認識の基本です。もっともらしく聞こえる言葉、説得力のある発言に騙されてはいけませんよ。
わたしの半世紀の経験則、「確信ある発言は大概、嘘である」ということです。
412
:
犀角独歩
:2005/12/01(木) 22:27:40
【411の訂正】
>期別
>記別
「舎利弗、汝未来世に於て、無量無辺不可思議劫を過ぎて、若干千万億の仏を供養し、正法を奉持し菩薩所行の道を具足して、当に作仏することを得べし。号を華光如来」(譬喩品)
未来成仏ですから、記別です。
413
:
とんび
:2005/12/01(木) 23:55:56
犀角独歩さん、こんばんは。
まさに、そのことをレスしようと思っていました。
法華経では、舎利弗は、遠い将来に於いて仏となるであろうと書いてあったと
思います。
日蓮さんは、即身成仏を説いたのではなかろうか..と思っています。
話がややこしくなりますが、印度応誕の釈尊は、聖人であっても、姿形は普通の
人と同じであったと思います。
ただ、経典では、三十二相八十種ごう?の人間離れした仏として顕れていると思い
ます。
考えがまとまりませんが、舎利弗は、法華経を聞いて悟り、即身成仏をした。
そして、その後菩薩として生まれ変わるが、将来、仏として(印度応誕の釈尊のように)
大衆に崇め奉られることがあるであろう..ということでしょうか。
犀角独歩さんのおっしゃる通り、御書や経典には詳しくありません。
天台や妙楽の釈にいたっては、読んだことすらありません。
いずれは、日蓮宗の方の話を聞きたいと思っています。
妙法蓮華経並開結の文庫本を探すのが、手間取りそうなので、ネットから
注文してしまいました。
今、持病の腰痛がでてきてしまいました。
414
:
パンナコッタ
:2005/12/02(金) 00:48:22
とんびさん、
蛇足ですが、妙法蓮華経なら御書システムに収録されていますよ。
法華をクリックしてみてください。
415
:
犀角独歩
:2005/12/02(金) 01:13:52
とんび 投稿日: 2005/12/01(木) 23:55:56
犀角独歩さん、こんばんは。
> 日蓮さんは、即身成仏を説いたのではなかろうか
随所に説いています。
> 印度応誕の釈尊は、聖人であっても、姿形は普通の人
> …経典では、三十二相八十種ごう?の人間離れした仏
そうでしょうね。歴史上の釈尊は人間ですし、経典の釈尊は創作ですから、そうなるでしょう。
> 舎利弗は、法華経を聞いて悟り、即身成仏をした
ですから、繰り返しますが、まだ成仏はしていません。未来成仏の記別(約束・予言)をされたということです。
> 日蓮宗の方の話を聞きたいと思っています。
聞かれるとよいでしょう。ただし、わたしは日蓮宗ではありません。
> 持病の腰痛がでてきてしまいました。
御大事になさってください。
416
:
犀角独歩
:2005/12/02(金) 10:45:35
真跡遺文に見られる‘即身成仏’に記述を挙げておきます。
薬王品得意抄,文永2年(1265)44歳
「華厳経の法界唯心・般若の十八空・大日経の五相成身・観経の往生より、法華経の即身成仏勝れたるなり」
法華題目抄,文永3年(1266)1月6日45歳
「伝教大師となのらせ給ひて、秀句と申す書を造り給ひしに「能化所化倶に歴劫(りゃっこう)無し妙法の経力にて即身成仏す」と竜女が成仏を定め置き給へり。而るに当世の女人は即身成仏こそかた(難)からめ、往生極楽は法華を憑(たの)まば疑ひなし」
開目抄下,文永9年(1272)2月51歳
「華厳・真言経等の一生初地の即身成仏等は、経は権経にして過去をかくせり。種をしらざる脱」
日妙聖人御書,文永9年(1272)5月25日51歳
「竜女が即身成仏も、摩訶波闍波提比丘尼の記別にあずかりしも…」
祈祷抄,文永9年(1272)51歳
「霊山会上にして即身成仏せし竜女」「子を念ふ志深かりしかば、大海第一の宝如意宝珠をもむすめにとらせて、即身成仏の御布施にせさせつれ」
木絵二像開眼の事,文永9年(1272)51歳
「法華を悟れる智者、死骨を供養せば生身即法身なり。是を即身といふ。さりぬる魂を取り返して死骨に入れて、彼の魂を変じて仏意と成す。成仏是なり。即身の二字は色法、成仏の二字は心法、死人の色心を変じて無始の妙境妙智と成す。是則ち即身成仏なり。故に法華経に云はく「所謂諸法如是相 死人の身 如是性 同じく心 如是体 同じく色心等」云云。又云はく「深く罪福の相を達して遍(あまね)く十方を照らしたまふ。微妙の浄き法身、相を具せること三十二」等云云。上の二句は生身得忍、下の二句は即身成仏。即身成仏の手本は竜女是なり。生身得忍の手本は純陀是なり」
曽谷入道殿許御書,文永12年(1275)3月10日54歳
「真言師等が所談の即身成仏は、譬へば窮人の妄りに帝王と号して自ら誅滅を取るが如し」
撰時抄,建治元年(1275)6月10日54歳
「世尊は二乗作仏・久遠実成をば名字をかく(秘)し、即身成仏・一念三千の肝心其の義を宣べ給はず」
「真言法中の肝心の文あやまりなり。其の故は文証現証ある法華経の即身成仏をばなきになして、文証も現証もあとかたもなき真言の経に即身成仏を立て候」
四条金吾釈迦仏供養事,建治2年(1275)7月15日55歳
「画木に魂魄と申す神(たましい)を入(い)るゝ事は法華経の力なり。天台大師のさとりなり。此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり」
報恩抄,建治2年(1275)7月21日55歳
「経の音義に云はく「弘法大師帰朝の後、真言宗を立てんと欲
し、諸宗を朝廷に群集す。即身成仏の義を疑ふ」
417
:
犀角独歩
:2005/12/02(金) 10:46:10
―416からつづく―
始聞仏乗義,建治4年(1278)2月28日57歳
「天台云はく「妙は不可思議に名づく」等云云。又云はく「夫一心乃至不可思議境の意此に在り」等云云。即身成仏と申すは此是なり」
「末代の凡夫此の法門を聞かば、唯我一人のみ成仏するに非ず、父母も又即身成仏せん」
千日尼御前御返事,弘安元年(1278)7月28日57歳
「第五の巻に即身成仏と申す一経第一の肝心あり」「伝教大師の此の事を釈し給ふには「能化所化倶に歴劫無し。妙法経力即身成仏す」等」
神国王御書,弘安元年(1278)歳
「善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵等の三三蔵は一切の真言師の申すは大日如来より五代六代の人々、即身成仏の根本なり等云云。日蓮勘へて云はく、法偸みの元師なり、盗人の根本なり」
大学殿事,弘安元年(1278)五七歳
「日蓮疑って云はく、法華の天台・妙楽・伝教の心は大日経等の即身成仏を許すや」「不空の造と云ふに云はく「唯真言法の中にのみ即身成仏するが故に是に三摩地の法を説く。諸教の中に於て欠いて書せず」と」
大田殿女房御返事,弘安3年(1280)7月2日59歳
「即身成仏と申す法門は、諸大乗経並びに大日経等の経文に分明に候ぞ。爾らばとて彼の経々の人々の即身成仏と申すは、二つの増上慢に堕ちて必ず無間地獄へ入り候なり」「大乗経の煩悩即菩提・生死即涅槃の即身成仏の法門は、いみじくをぞたかきやうなれども、此はあえて即身成仏の法門にはあらず」
「今法華経にして、有余・無余の二乗が無き煩悩・業・苦をとり出だして即身成仏と説き給ふ時、二乗の即身成仏するのみならず凡夫も即身成仏するなり」「華厳・真言等の人々の即身成仏と申し候は、依経に文は候へども、其の義はあへてなき事なり」「釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌・竜樹菩薩・天台・妙楽・伝教大師は、即身成仏は法華経に限るとをぼしめされて候ぞ。我が弟子等は此の事ををも(思)ひ出にせさせ給へ」「此の論は竜樹の論となづけて候。此の論に云はく「唯真言法の中にのみ即身成仏する故に是三摩地の法を説く。諸教の中に於て欠(か)きて書せず」と申す文あり」「但し不審なる事は、大論の心ならば即身成仏は法華経に限るべし」「大論にそむいて真言の即身成仏を立つる上、唯の一字は強しと見へて候」「譬へば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」等云云。此の釈こそ即身成仏の道理はかゝれて候へ「即身成仏の手本たる法華経をば指しをいて、あとかたもなき真言に即身成仏を立て、剰へ唯の一字をを(置)かるゝ条、天下第一の僻見なり」「天台智者大師の文句の九に、寿量品の心を釈して云はく「仏三世に於て等しく三身有り。諸教の中に於て之を秘して伝へず」とかゝれて候。此こそ即身成仏の明文にては候へ。不空三蔵此の釈を消さんが為に事を竜樹に依せて「唯真言法の中にのみ即身成仏する故に是の三摩地の法を説く。諸経の中に於て欠きて書せず」とかゝれて候なり。されば此の論の次ぎ下に、即身成仏をかゝれて候が、あへて即身成仏にはあらず。生身得忍に似て候。此の人は即身成仏はめづらしき法門とはき(聞)かれて候へども、即身成仏の義はあへてうかゞ(窺)わぬ人々なり。いかにも候へば二乗成仏・久遠実成を説き給ふ経にあるべき事なり。天台大師の「於諸経中秘之不伝」の釈は千旦千旦。恐々」
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