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現代人が納得できる日蓮教学

338乾闥婆:2005/10/19(水) 02:02:35
無徳さん、犀角独歩さん。

私は以前の経緯を知りません。

犀角独歩さんから無徳さんに対して、「本門戒壇の大御本尊」についての問いただしがあるということは、そのような議論がかつてあり、その曼荼羅をめぐる議論においての何らかの経緯が両者にあったのだろうと、理解いたします。

以前にも記しましたが、私は曼荼羅を道具であると思っています。道具は役に立たなければ意味がありません。

当時、月例登山会があり、何度も正本堂で御開扉を受けましたが、子供心にこれでは意味がないと思ったものでした。犀角独歩さんが言われるとおり、曼荼羅がさっぱり見えないからです。自宅に帰ると達師による曼荼羅があり、非常によく読め、ほっとしたものでした。蓮祖の曼荼羅は文字なのですから、読めなければいけません。読めない文字は意味がありません。今は実家を離れ寛師の曼荼羅であるのですが、実に不満です。字がつぶれていて読み取りにくいからです。

犀角独歩さんの「謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について」には目から鱗の落ちる思いをしましたが、実のところ精神的なショックというものはあまりありませんでした。ああ、やはり、そうなのか、といった思いのほうが強かったくらいです。もともと遠すぎて読めなかったものに、まさに、物に、私は信仰をしてはいなかったからです。

『仏教の思想5 絶対の真理<天台>』(角川文庫)に田村芳朗氏は宮澤賢治を紹介しつつ雨ニモマケズ手帳なるものの写真を掲載しております。そこに宮澤賢治による「曼荼羅」がありました。真ん中に「妙法蓮華經」、両脇に釈尊と多宝如来、その脇に四菩薩、汚いけれど、はっきりした字で書かれています。この写真を見たときに私ははっとしました。うまく言えませんが、ああ、そういうことなのだな、と思いました。そのとき私は「本門戒壇の大御本尊」から完全に自由になれたのだと思います。その後、大日蓮展で臨滅度時の曼荼羅を見たときもその文字が作り出す世界に、その蓮祖の精神に素直に感動しました。よく見えもしない「本門戒壇の大御本尊」では、本当に用を成さないと思いました。

現代人が納得する、とは、やはり文字なら文字で、よく読めること、そしてそれは文字に過ぎないこと、しかし文字は人に作用すること、それ以上でもそれ以下でもないこと、そういうことではないかと考えました。

とりとめもない感想を書き散らしました。お詫び申し上げます。

無徳さん。

><法華経が「有」の立場に立つことは、法華経が「信」を重視
することにも関係がある。信仰は実在を対象とするからである。>との論点に
は少々驚きます。私の考えでは有である実在を対象とするのであれば信を強調
する必要はなく、そもそも仏教を実在論的に理解することは現在では迷妄とさ
れているように思われますが如何なものでしょうか?

というよりも、実在を信じる、ということではないでしょうか。ですので「法華経は、なかんずく蓮祖は「空」思想と折り合えなくなってしまわないでしょうか」、すなわち、仏教とは言えなくなってしまうのではないでしょうか、といった私の問いであったのです。

ほとんどロムに近い私が言うのも変ですが、このままでは非常に残念ですので、よろしかったら、書き込みを続けられてはいかがでしょうか。言葉に対しては感情ではなく、言葉で対処するべきだと思います。


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