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現代人が納得できる日蓮教学
330
:
小池
:2005/10/18(火) 21:12:40
【Ⅱ.教の違い】
梵本法華経
梵本法華経は菩薩の戒めから計り知れない寿命を持つ如来になるために、法華経典を弘める「菩薩行」を督励するもので、この経典は古代の東西を凌駕した「聖典信仰の系譜」にあるように思える。
経典は誰かが作ったものであるというより、神秘な存在として永遠の過去から存在しているというもの。
経典は仏が説いたというのが旧来の在り方だが、法華経ではむしろ経典が仏にしたというコンセプトが散見できる。
その経典は誰が作ったのかということには言及せず、神秘の存在というコンセプト。
舎利信仰、仏塔信仰、仏像信仰も肯定はされているが、その骨子は「経典信仰」にある。
ここでいわれる「法」は「教法」であり、宇宙の真理であるとか、心の有り様であるといったことを問題にしていない。
この法華経が教える菩薩の戒めこそ、唯一の教え(法)であり最高のものである、菩薩以下の衆生も菩薩道を行じて仏になるという。この菩薩は徹底した無抵抗、非暴力、不怒の菩薩。
天台
しかし天台はこの「法」を什訳方便品の「諸法実相」から心から整理していく。「説己心所行法門」(己の心に行ずる訪問を説く)という解説はそれを端的に物語る。天台が法という場合、それは心法であり、その観察を十界、十如、三世間から三千の止観禅として結実したという点で、梵本法華経のコンセプトと大きく異なる。天台の時点では一念三千という成句化はない。「言語道・断、心行・処滅」をモットーとした天台が、このように三千分類観察する心法をしかし、三千であるとするわけがなく、三千はまた一心として、非三千にして、しかも非一、亦三千にして、亦一とするのは、実に勝れた観点である。
ところが妙楽は、天台の言う一心を一念とし、三千という定数化を天台が簡んだにも拘わらず、一念三千とした。個人的にこの妙楽解釈は、天台から大きく後退したものと思う。
日蓮
日蓮に至っては、この妙法蓮華経という経題を末法付属の正体として、法華経典への南無ではなく、この五字への南無として、「南無妙法蓮華経」とし、漫荼羅という独自な境地を展開していった。
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