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現代人が納得できる日蓮教学

349乾闥婆:2005/10/22(土) 01:38:51
>>347-348

犀角独歩さん。

見事な創価学会の現状分析、ありがとうございます。非常に頭が整理されました。

>「危惧」ですか。わたしは、一つのカードとして、別段、そのようになったとしても「可」と思います。創価学会がこれをやらないできたのは、本尊書写は(血脈を受けた)法主一人の権能であるという石山アナウンスを墨守するからでしょう。また、それに従ってきた歴史的経緯があるからでしょう。ナンセンスと考えます。
>日蓮を究極的に詰めていくとき、実際に漫荼羅を書写してみることは、わたし個人としては、否定されることとは考えていません。
>漫荼羅を書くことが「謗法」だというのは、ただの思考操作に過ぎません。

もちろん私は曼荼羅書写を謗法とは思っておりません。ただ池田氏の立場で曼荼羅を書くということは、創価学会の究極の本尊となるであろうということ、そしてその究極の本尊を顕わした池田氏は本仏と扱われるに至るであろうということ、そのようなことを「危惧」したのでした。もっともいまの創価学会を大過なく池田氏死後に守っていくには、犀角独歩さんの言われるとおり、有効な一つのカードであるとは思います。また、そのようになってこそ創価学会は首尾一貫するのかもしれません。現状、その下地は組織内部において十分できていると思います。

>もっとも、池田氏が漫荼羅を書けば、「新興宗教」のレッテル貼りの思う壺、となれば、わたしは日蓮真筆による以外道はなしと読みます。

創価学会はその関連書誌媒体では、自身の評価を落としかねないほど、口汚く他者を罵ったりします。この組織は、どこか、世評を激しく気にする部分と、まったくその世評を感じとる感性をまったく欠いている部分とが、共存しています。池田氏曼荼羅書写は十分に踏み切る可能性はあるのではないでしょうか。気にしているとすれば、組織内部の者たちがついてくることができる、そのタイミングだけなのかもしれません。

>適当な日蓮真筆漫荼羅によるかです。

この可能性はあるのでしょうか。私は組織内部にいて、他山の日蓮真筆漫荼羅を持ってくることは、宗門とのよりを戻すことよりも、不自然な流れと映ります。

>ところが、この考えは著しく日蓮の教えに違反することになるところに問題が生じてきたわけでした。戦後、日本社会でまた、このような宗教風土を作ってきたのもまた、創価学会であることは紛れもない事実です。

そうですね。そこが私自身の内部でも矛盾するところです。それぞれの固有性を大事にする思いが、日蓮仏法への信仰を弱め、その信仰を強めようとすると、それぞれの固有性を有する世界を、心の中で消去してしまいます。

>つまり、字で書かれているのにも拘わらず、漫荼羅は神秘化され、それを論じることをタブーとされ、イメージになっているわけです。このようにイメージ化された、現実の目の前にある漫荼羅本尊を見ない形で成立しながら、しかも法悦と体験を得る‘仕組み’に関して、わたしは着眼しているわけです。

この御考察、うならされました。まさに、曼荼羅はモノとして、また文字として、ある以上に、関係性、仕組みとして、あるのですね。私はおそらく、このようなイメージ化、神秘化に、抵抗しているのだと思います。その抵抗の足がかりとして、この曼荼羅が図像ではなく、文字であることを強調し、意識しているのでしょう。私は主知的でありたいと思い、信仰を持つことと主知的であろうとすることは矛盾しないと、考えているのだと思います。しかしそれは曼荼羅の受容の実態にあっていないのかもしれません。識字率の低い時代での曼荼羅受容は、確かに非漢字文化圏の方々の曼荼羅受容と、条件としては重なりますね。

しかし現代人に納得される日蓮教学とは、そのようなイメージ化、神秘化を脱却したところに成り立つ何かであるのではないでしょうか。しかしそれはもはやオリジナルな日蓮教学ではなくなってしまうのでしょうか。


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