したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

現代人が納得できる日蓮教学

351犀角独歩:2005/10/22(土) 09:55:11

―350からつづく―

学会はようやく重い腰が上げつつありますが、まだまだ不十分です。石山はもはや絶望的、問題外でしょう。器物・呪術・隷属に囚われて、公共性など、かけらほど考えていません。信者は、ですから、そのようなものに興味を懐かず、閉鎖性は更に高まり、比例して差別観は高まるばかりです。この現況は彫刻問題と共に深刻です。
日蓮宗全般は、緩慢ながら、それでもようやくと動き始めています。

宮沢賢治の話が出ましたが、わたしは賢治の菩薩観は不軽菩薩を超え、大乗菩薩道であると記しました。この菩薩道を、弘教と宗教典礼に限定すれば、信者は隷属化し、宗教集団以外のことはしなくなります。しかし、本来の菩薩道とは、あらゆる意味における利他行であるはずです。六度万行、八正道で培われた心身で、社会に対して、非信者に対して、何をしているのか、換言すれば、公益性が今後の宗教の是非を計る尺度になるとわたしは考えています。

わたしはいつも引用する岩本師が引いた一節があります。
杉本苑子氏が記された『西国巡拝記』の一節です。

「坊さんのすべてが、もう一度、出家しなおしたら、どんなにすばらしいことかと思う。皮肉などで決してない。実感である。
 三十三カ所霊場とは限らない。日本の寺々にはともすると、草創の古さ、寺格の高さ、皇室はじめ過去の権力者にどれほどの庇護や帰依をうけたかを、とくとくと語り、あたかもそれを寺の誇りとするごとき傾向をまま見かける。しかしそんなことが、寺の名誉でも威信でもないことはあきらかである。もし寺院が、それなりに矜持(きんじ)を持つとすれば、仏の智、仏の愛を、どれだけ積極的に民衆のなかに弘通し、彼らの悩みを救ったかという一点にしぼられるはずである。過去はもちろん、現在も未来も、立派にそのつとめを果たし得る自信、そしてその実績――。寺院の誇りはこの一事に尽きる。伝統や寺歴を、問題外にするのではないが、そういうものはあくまで第二義のはずと思うのだ。かたちはでんとかまえているが、ひっくり返してみたら下のほうが腐りかけていた南瓜……。そういう哀しい存在に、寺院が成り下がることを、日本の民衆は一人として望んでいないのである」

> イメージ化、神秘化を脱却…オリジナルな日蓮教学ではなくなってしまうのでしょうか。

話を戻せば、この点を乾闥婆さんは、漫荼羅受容という側面から仰ったわけですね。
わたしは日蓮の漫荼羅図示は、弟子としての允可証であったと考えています。
ですから、拝む対象であるとはいまは考えていません。
オリジナルの日蓮教学が何であったのか、それが明瞭ではない現実があります。

日蓮の心象は、仏のみならず、神を信じ、それら神仏が悪国・悪人を亡ぼす神秘の世界に生きていたのでしょう。この点を現代に当てはめていくことには困難を感じます。しかし、結果がイメージ、神秘からの卒業であっても、よいとわたしは考えます。

仏教にも造詣の深い精神科医・高橋紳吾師は、釈迦が最も忌避したものは執着であるといい、舎利であれ、経典であれ、援用すれば漫荼羅であれ、それらに執着することを象徴(シンボル)の病と評しました。(『超能力と霊能者』岩波書店)
これはまた、空の問題、道の問題とも密接に絡みますが、いずれにしても、世界全般から見る仏教の一つのスケールを意識した師の記述は参考になります。また、新宗教新聞の編集長廣橋隆師が、カルト問題を新宗教という視点から語ったパネルディスカッションを聴講したことがあったのですが、ここで、仰るような点を宗教からのぞくことが脱カルト運動のように扱われることがあるが、果たしてどうか、「悩ましい問題」とコメントしていたのを覚えています。

やや、話が横道に逸れ、適切な返レスになっていない点をお詫びします。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板