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現代人が納得できる日蓮教学

339犀角独歩:2005/10/19(水) 14:34:21

乾闥婆さん

> 正本堂で御開扉…もともと遠すぎて読めなかった…私は信仰をしてはいなかった

以前も、独学徒さんの開扉記を拝読したときも思ったのですが、わたしのような宝蔵、奉安殿、正本堂という堂宇を経てきた者にとって、800万人・500億円の供養をもたらした「本門戒壇の大御本尊」信仰は実感できます。しかし、世代を経、いまの創価学会の人々には、恰も日本の戦前に天皇が現人神と崇められていたのと同様、過去の物語になっているということを、わたしはなかなか実感できませんでした。

創価学会は石山のみならず、日蓮も卒業すべきであるとわたしは考えていますから、それはそれでけっこうなことなのでしょう。ただ、800万人を突き動かしたけじめは、被害者でありながら、加害者であるわけですから、総括はすべきであると考えます。もっとも、いまの規約を見る限りまだ遠い将来に属しそうですね。

> …宮澤賢治…雨ニモマケズ…手帳…曼荼羅

わたしは、これを「日蓮正宗創価学会」時代にはじめて見、当時は「謗法」と思ったものです。しかし、いまは、あの手帳に密かに書き懐中にあった思いがわかる気がします。
このように記すと誤解を生じるかも知れませんが、わたしは『雨ニモマケズ』というあの詩は、賢治が自分自身で紡いだ彼の法華経なのだと思います。

> 臨滅度時の曼荼羅…文字が作り出す世界…蓮祖の精神に素直に感動

同感です。
わたしがはじめて日蓮の文字というのを見たのは、国立博物館か何か展示された『立証安国論』でした。筆の毛先一本一本が確認できる筆致、墨色は黒は黒でも、濃厚な緑がかった色、700年を経た紙質…。真筆でなければ、けっして観じ得ない日蓮の魂をそこに見ました。

現代のように特にインターネット、プリンター等も発達し、肉筆というものを見る機会はめっきり減りました。しかし、文章は書いた本人の肉筆に真価があると思えます。その意味において、たしかに墨痕鮮やかに書される漫荼羅は、その文字文化の昇華、日蓮門下にとっては、その頂点にあるのだと思います。日蓮の真筆は、それを写真、製版印刷したものには遠く及ばない迫力、真跡を存しないまでも「日蓮がたましひをすみにそめながして」という件は、まさに真筆しか持ち得ないものであろうと考えます。

> よく見えもしない「本門戒壇の大御本尊」では、本当に用を成さない

一般のお宝は、案内に写真を出します。写真は写真であって、本物ではありません。しかし、ガイドにはなります。しかし、石山はそれをできない。できないなりの理由は彰往考来さんと話し合ったところで、当たりでしょう。

> 現代人が納得…文字…よく読めること…文字に過ぎな…人に作用…それ以上でもそれ以下でもないこと…

多分、日蓮はこの文字(有)を窓として、空を垣間見せようとしたのかも知れません。

やや、補足になりますが、ここのところ、空・有という議論が続いていますが、この前提は有といえば、無との対照、しかし、有無といえば、空との対照で、また、中と対照というのが議論の筋であろうかと存じます。日蓮を西洋哲学解きすると余計な要素が入り込み、かえってややこしくなると思えますが、如何でしょうか。もちろん、西洋哲学を斥けるという意味ではありません。別のものとして扱うということです。

一つ、お尋ねしたいのですが、文字は読めてはじめて、用を為すという点ですが、たとえば、SGIのように全世界の非漢字圏の人々にとっては、漫荼羅は読めないわけですが、このような人々には、この点、どのようにお考えになりますか。争論の意図はありません。少しこの点でもお考えを頂戴したいと思っております。


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