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現代人が納得できる日蓮教学
341
:
犀角独歩
:2005/10/20(木) 15:56:13
乾闥婆さん
ご丁重なレス、有り難うございます。
> 池田氏の死後、何を持ってその組織の求心力…日蓮仏法を振りかざすしかなくなる
そうですね。ただ、わたしは日蓮を振りかざすためには、そこに必ず真筆漫荼羅が、ついて回ることになる点で、創価学会教学は、条件を欠いていると思えます。日蓮を煎じ詰めていけば、最終的に日蓮真筆漫荼羅へ引力があります。それは非漢字圏の人々であっても同様なのだろうと思います。しかし、これを結果的にすべて斥けた形になっています。「すべて」というのは、唯一、認める「三大秘法の御本尊」をあの彫刻とすれば、あれは真筆ではなく、第二に偽物であるからです。つまり、いまの創価学会は、日蓮真筆漫荼羅の一切を否定して、成り立っているわけです。これには限界があるでしょう。
また、「三大秘法」を言い、二箇相承を肯定していれば、最終的に富士戒壇論、富士=大石寺という問題にもぶち当たり、富士大石寺が聖地であり続ける矛盾を解消することは出来ません。これはまた、日寛を担いでも同様です。
結局のところ、立正佼成会のように、日蓮を相対化し、教祖崇拝でいくしかないのだろうと思います。立正佼成会は裾野の広いボランティアで社会に開いていますが、創価学会は公明党という政治活動です。宗教が政治に手を出すことは、政治の転覆が=宗教の転覆となる構造を孕むことになるので、わたしは危険だと思うわけですが、教祖崇拝(宗教)と政治活動(対社会)という二本立て以外では、既に専従3万人、周辺30万人とも言われる創価学会で生計を立てる人々の生活を保障することは出来ない経済構造も出来上がっている以上、致し方がないのでしょう。
池田氏崇拝の完全化、もしくは日蓮を相対化し間口を広げ、彫刻から日蓮真筆漫荼羅へ、日寛から汎仏教への転換か、その折衷しか道はないように思えます。
> 『雨ニモマケズ』…詩中の「デクノボー」を常不軽菩薩に…
ええ、よく言われる解釈です。しかし、わたしはこの解釈は一部分的であると思います。何故ならば、不軽菩薩は「但行礼拝行」であって、人助けをするような実践をしないからです。むしろ、「デクノボー」の特徴は、もっと広義の菩薩道です。『勧持品二十行の偈「為斯所軽言 汝等皆是仏 如此軽慢言 皆当忍受之」の訓読について』でも、この点に基づき記しましたが、法華経の菩薩の特徴は「いからず」「相手を、やがて仏になると敬う」という二大特徴を有します。これはしかし、不軽菩薩に限ることではありません。法華経に登場する菩薩に共通した特徴です。
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/doppo_001.html
しかし、法華経の菩薩にも限界があります。何か。法華経の菩薩の菩薩行は経典流布を弘教に、菩薩道を限定してしまう点です。しかし、大乗(と言われる)仏教全般における菩薩行は我が身を供養する実践であるわけです。賢治の「デクノボー」は、この菩薩まで立ち入っています。彼の『雨ニモマケズ』は、最後に一尊四士漫荼羅を図します。その諸尊に「南無」を冠し、帰命から捨身を陳べたものであるにも拘わらず、ある面、法華経の菩薩の欠点も補っているとわたしには映じます。つまり、より利他の本質的な部分で法華経典における菩薩思想より勝っていると思えるという意味です。故にわたしは「彼の法華経」と記しました。
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