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現代人が納得できる日蓮教学

319無徳:2005/10/18(火) 00:42:52
竹田青嗣氏の『近代哲学再考』によれば、まずはギリシャに於いてターレス
やヘラクレイトス等のミレトス学派によって『存在の謎』が提出され、続いて
パルメニデスやゼノンと言ったソフィスト達によってパラドックスと言う『言
語の謎』が自覚的に作り出されたとされています。

つまり、『言語の謎』とはギリシャ哲学発祥の頃から提起されていた古くて
新しい謎と言うことになります。さらに近代哲学においてはその『存在の謎』
や『言語の謎』を人間の厳密な認識の可能性を問うと言う形で『認識論』が
哲学の主流となりますが、現代哲学にいたってそれが『言語論的転回』とな
って、再び『言語の謎』へと姿を変えて再登場することになったとされてい
ます。

つまり、これらの事柄を私なりに解釈すれば、世界の存在や人間の存在さら
には自己の存在と言ったアプリオリな謎は、釈尊が無記として語らなかった
謎であり、人間の認識能力を超えた謎でもあると言えましょう。

しかし、人間は様々な問いを発せずにはおれない存在でもあり、したがってそ
の問いを立てるにしても、その問いに答えるにしても言葉を使用する事が唯一
の方法といえます。(身振り手振りも言葉の一種)しかしながら、アプリオリ
な難問(謎)を言葉によってコミュニケイトすることは原理的に無理がありま
すから、人間は巧みな比喩や物語を屈指して伝えようとしたのが、宗教におけ
る教義でありそれを記述したのが経典でありましょう。

したがって、言語なるものは本来的に限界を有するものであり。パラドックス
を抱えた存在と言って過言ではないといえます。現代思想の領域では言語の分
析を通じてギリシャ哲学以来の形而上学批判を展開していますが、竹田青嗣氏
も指摘しているように、現代哲学の『言語論的転回』はもともとはヨーロッパ
近代哲学の形而上学的「話法」に対する対抗として生じてきたが、カントがは
っきり示したような<答えの出ない問いを果てしなく問い続けること>という
意味で捉えるならば『言語論的転回』も『言語の謎』と言う形而上学的な有り
様と言わざるを得ません。


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