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現代人が納得できる日蓮教学
342
:
犀角独歩
:2005/10/20(木) 15:57:21
―341からつづく―
> 現代人が納得できる日蓮教学…別の言葉での置き換えは、しなければならない…西洋哲学…言語学…
なるほど。そのようにお考えですか。僭越ながら記せば、わたしはこのお考えとは違います。仰るようなやり方は、仏教が中国に渡った段階で行われたことと同じですね。所謂「格義仏教」です。創価学会的な解釈法であるといってもよいと思えます。
しかし、他の文化圏の思想の語彙を使えば、それは、その思想の範疇から出られないことになります。ですから、必要なことは、仏教が、就中、日蓮仏法の「言語」から構築されたものでなければ、オリジナルとは言えないと、わたしは考えます。(ここでいう「言語」とは、おことわりするまでもなく、話し書く言葉という一般の意味より、もっと広義です)
実際のところ、中国に輸入された仏教は、挌義を経て、経典漢訳のために、新漢字を作りながら、遂に中国仏教となっていきます。この時点では、もはや、他の「言語」思想で説明する必要はなくなりました。独自化であり、完成系と言えるでしょう。文化となったということだと思います。21世紀の日蓮を考えるのも同様の道程であると、わたしは考えるわけです。
もっとも、日蓮の教えといわず、大乗仏教自体がシンクレティズムの結晶に違いありません。しかし、この点は不可逆的です。日蓮の「言語」で説明されるようになれなければ、、他「言語」思想範疇に吸収されて終わってしまうと思うわけです。それは恰も、ブッダがヒンドゥー教の化身の一人として吸収されて、衰退したように、です。ですから、21世紀に通用する日蓮は、自分たちの「言語」を確保した形以外では滅するというのが持論です。
わたしは創価学会などで「仏教哲学」という言葉の使用を嗤います。なぜならば、仏教は哲学ではないからです。哲学でないものを哲学で説明することは、その本質理解を枉げてしまいます。ですから、日蓮の原型を素描する必要をこの掲示板で訴え続けてきました。哲学、現代思想で日蓮を考えようとするやり方は、特に初期の創価学会から、見られますが、これは牧口氏という教育学者が創立者であることと関連するのでしょう。創価教育学会でも、また、『折伏教典』でもそうですが、この牧口価値論、人生地理学から、日蓮仏法を捌くという編述が多く見られましたが、やがて、姿を消し、日蓮から考えるようになっていったことは、日蓮という範疇からすれば好ましいことであったわけです。同様に、生命論という大正時代の流行からも卒業できることを願っています。
こちらの掲示板でもお馴染みの‘Nichiren Shonin Gohonzon Shu O'Mandalas by St. Nichiren’では、御御本尊、お漫荼羅が、音写されて翻訳されずに定着しています。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/001.html
多くの理解は自国語でなすほかありませんが、以上のような形が日蓮の‘文化’化ということで、日蓮門下の基本的スタンスにならなければ、他思想で解釈されて別のものとなってしまうでしょう。(もちろん、本尊は密教もしくは、儒教、漫荼羅も然りという、前段の考証はあります。しかし、ここは日蓮が摂取した既存思想という意味です)
その意味で、西洋哲学その他で解釈することにわたしは反対の立場です。もちろん、乾闥婆さんのお考えを否定する意図はありません。そのような方向で議論しませんかという、いわば、お誘いです。また、そのようなスタンスで、当スレを進めてきたつもりです。
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