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配偶者がカルトに入ったらどうしますか

1管理者:2002/06/29(土) 12:05

妻顕さんより、スレッドテーマのご提案がありましたので、スレッドを立ち上げます。皆様の活発な議論を期待いたします。なお、提案趣旨は以下の通りです。

わたしはHNそのままの境遇に居ります。自分の配偶者がカルトまたはカルトといわれる宗教団体に入ってしまったとき、あなたならどうしますか?どういう行動を起こしますか?と言うようなテーマでスレッドを立ち上げていただけませんでしょうか。できれば特定の団体の誹謗中傷にならない形で、ぜひ、お願いいたします。

2いちりん:2002/06/29(土) 12:12
う〜ん。具体的にどういう教団か、でないと語りにくいですね。
「カルト」という教団があるわけでもないし。
顕正会とか親鸞会とかをカルトというんでしょうかね。
アレフと顕正会では、ずいぶんと違うし。
自己啓発セミナーみたいなものもあるし。
まあ、八葉物流みたいな元金が倍になるというようなマルチ商法だったら、それよくないよといえるんだけど。

3つまけん:2002/06/29(土) 18:25
いちりんさん(こちらでは、様ではなく「さん」とお呼びするようですね)
スレッドを立ち上げていただきましてありがとうございました。
>具体的にどういう教団か、でないと語りにくいですね。
カルトの定義(蓮月氏HP)
(1)教祖の絶対化、(2)教団批判の禁止、(3)睡眠・食事の制限、
(4)高額の寄付、(5)情報の遮断、(6)長時間の労働、
(7)教祖のハーレム構造、(8)タテの構造、(9)訴訟の乱発
破壊的カルトの定義(カルト研究会)
 カルトとは何らかの強硬な信念、思想を共有し、その信念に基づいた行動を
熱狂的に実践するように組織化された集団のことをさす。
その中で特に真の活動目的を隠し、自らの利益追求のためにあからさまな欺瞞を行う
反社会的な集団のことをいう。

上記、いちりんさんや皆さんは周知のことと思いますが一応書いておきます。
ご自分がカルトだと感じる教団のことでもよいのではと思いますがいかがでしょう?
妻は初め創価学会に入りました。いつの間にかやめたと思ったら今度は
わけのわからない宗教団体に入ってしまいました。顕正会と分かったのは1年後です。
私自身は、ネットで顕正会に関する情報を収集、並行して(一回だけですが)
関東地区のある地方会館にもいってビデオを見ましたが浅井氏が信仰の対象である
ことが強く感じられました。神棚の中はいつの間にか空っぽ(学会?)、邪宗排除、
神社仏閣、菩提寺にも行かない、線香も上げない、などと言い出し、困りました。
結婚生活に支障をきたすことのない宗教なら黙っているつもりでしたが
このような信仰の仕方をしている者と長い間一緒に暮らすことは、私には到底
我慢できないことです。(私自身は宗教をやっていません)
「やばい」「洗脳されている」と感じたので、いつでも救い出せるように、実際に
自分も入会しました。本当にカルトかどうか自信なかったのと、入会しないと今後は
会館に出入りできないと思ったからでもあります。ただ、これでよかったのか
どうか自分では判断できません。
そのことに対するご意見などや、顕正会に限らず、ご自分の体験談でも書いていた
だければ、参考にさせていただきたいと思っています。
なんだかまとまらなくてすみません、よろしくお願いします。

4菊水護国:2002/06/29(土) 22:03
こんばんは。
元顕正会員「菊水護国」と申します。

カルトの定義につき、もう2つ、つけ加えさせてください。
(10)「現在を宗教上特別な時と結びつける」
(11)「そのため、そのときに生まれた信者に選民思想を植え付ける」

以上がカルトを脱した私の分析です。
顕正会の感想については後日、投稿します。

5菊水護国:2002/06/29(土) 22:07
ちなみに、日蓮正宗では「神社仏閣、菩提寺にも行かない、線香も上げない、」
等と言う事はありませんね。
私の家は禅宗ですが、今でも命日参詣は欠かしておりません。
また、他宗の神社仏閣周りは私の趣味です(一番、最近は東照宮かな)。

6つまけん:2002/06/29(土) 23:32
菊水護国さん、こんばんは。レスいただきましてありがとうございます
偶然ですが、私の家も禅宗です。ご住職は、若い頃永平寺で修行した方です。
お墓には、父母・ご先祖様の分あわせて15のお骨が入っています。
>他宗の神社仏閣周りは私の趣味です(一番、最近は東照宮かな)。
自分はあちこちドライブするのが好き(特に日光方面は大好き)なのですが、
最近、家族全員では行かなくなりました。というか、行ける場所が少ないですね。
できれば、顕正会が100万達成するまえに二人揃って脱会したいです。

7つまけん:2002/06/29(土) 23:56
>(10)「現在を宗教上特別な時と結びつける」
>(11)「そのため、そのときに生まれた信者に選民思想を植え付ける」
これを加えると、顕正会は半分以上該当してしまいますね。(笑)
ただし、(3)睡眠・食事の制限、(4)高額の寄付、左記を求められたことは
いまのところ、ありません。

8:2002/06/30(日) 04:40
情報収集のために入会したこと自体は悪くないアイディアだと思います。
だんなさんが入会したことで、「この人は私の気持ちをわかってくれる」と奥さんが思うだろうから。
真っ向から反対するよりはマシだと思います。

学会と宗門の分裂直後なら
  学会 → 宗門法華講
というコースはあった。この掲示版に来ている人は、そういう人が多いですね。

こういうコースも見かける。
  顕正会 → 宗門法華講
一応、顕正会は日蓮正宗の教義ですから。

ちょっと考えられないコース。
  顕正会 → 創価学会

創価学会から顕正会に移った、というのは、もう、バリバリですなあ。
創価学会の何が気に入らなかったのだろう。池田先生に魅力を感じなかったのかな。

別に、つまけんさんをオチョクリたくて、ふざけてカキコしているわけではありません。
家族にとっては大変な問題だろうな、と思います。

9犀角独歩:2002/06/30(日) 10:41

つまけんさん:

はじめまして。なかなか興味深いスレッドのご提案でした。
実は私は自分のサイトを運営している関係から、この手のアクセスをしてこられる方はメールだけでも多いときに月間200通を超えることがあります。もちろん石山系のみならず、キリスト教系を含め、深刻な社会問題であると認識しています。敢えて社会問題と言ったのは、これは宗教教義にかかる心情論であるというより、その奈返に心理学的要因、さらに社会的な背景に少なからぬ影響を受けていると思うからです。

特に本年は750ということもあり、石山系グループ・メンバー、及びご家族からのご相談で驚くほど、多く寄せられました。そして、多かったのが結婚を前提に勧誘を迫られること、次に当スレッドのご提案のパートナー、あるいはご家族が特定の議論の多い団体に入ってしまうということでした。

キリスト教系に比し、石山系グループの場合、特徴的なのは退会から次の入会となり、次々と各グループをサーフィンし続けるという点です。私はこれを“大石寺スゴロク”と呼んでいるのですが、結局、板曼荼羅・日蓮本仏論を基底に各グループを一周回り続けて、抜け出ることができず、家族は言いしれぬ迷惑と不幸を味わっているのに、本人は身入信者に「幸せにしてやる」ためというところに意識のすれ違いは実に深刻です。

お示しになっておられた蓮月さんの所に記されているカルトの定義は、たしか浅見定雄師(『マインド・コントロールの恐怖』訳者)か、滝本太郎弁護士(オウム問題その他)が仮設したものであったかと記憶します。

菊水護国さんの提出された2点も、たしかに議論の多い団体では常に見られる特徴ですね。

いずれも重要な判断肢であると思います。ところで「カルト団体はどこか」というのは、よくなされる議論ですが、私は個人的にカルトとは団体・個人を指すというより“状態”を指すものであると考えています。ですから、どの団体でもカルト的な状態は起こり得るし、反面、カルトと目される団体でもカルト性が見出せない部分もあり得るということです。
自分が特定の団体に所属している、特定の信仰をしているとき、そのなかの「カルト性はここである」と指摘できない信仰者があれば、その人は既にカルト性を帯びていると自己分析しなければならないというのは私の経験則です。しかし、これは宗教の正邪などという問題ではなくて、判断力に懸かる心的側面である点が理解されないと前に進めません。ここに横たわってる“絶対”神話によってもたらされる心理操作である点が理解されないと宗教問題として片付けられることになります。

要は信仰者各人が、自分の所属する団体のカルト性を斥け、健全な宗教的行為(特に精神面を含めて)を模索していくことが重要であると思います。もちろん、社会悪を実際に行う団体は解散させなければなりませんが、しかし、実は解散させたところで、信徒各個人の心に残るマインド・コントロールは消え去らない点はけっして忘れてはならないところです。

昨日、お子さんが法の花三法行の信者となり、献金のために多額の借金をしてしまったという親御さんの話を伺ったのです。「息子が法の花に夢中になっているとき、こんな団体、なくなってくれればいいと思った。けれど、実際になくなっても、結局、問題は何も解決されなかった」と肩を落としておられました。

パートナーや、知り合いが熱烈なカルト性を帯びるとき、どうしたらよいのか、これがここのテーマであると思いますが、私は一番重要なことは、問題を分割して考えることであると考えています。宗教問題、家族問題、経済問題、精神問題(心理問題)というように、複雑に絡み合った問題の糸を解きほぐし、整理すること。整理した段階で、その問題を生み出す要因を見極め、そこを根治することであろうかと思うのです。

以上の点はとても簡略に記せませんが、宗教という名目で一切を判断してしまうと、いつまで経っても問題は解決されないというのも経験則です。

当スレッドにおける活発な議論を期待します。

10犀角独歩:2002/06/30(日) 10:44

【9の訂正】

誤)奈返 身入信
正)奈辺 未入信

他にもあるかもしれません。ご判読いただければと思います。

11いちりん:2002/06/30(日) 12:14
つまけんさん

>「やばい」「洗脳されている」と感じたので、いつでも救い出せるように、実際に自分も入会しました。本当にカルトかどうか自信なかったのと、入会しないと今後は会館に出入りできないと思ったからでもあります。ただ、これでよかったのかどうか自分では判断できません。

実際に自分も入会したというところが、すごいですね。

やはり、実際にその会に入って、なにか体験してみないと(あるいは体験している人の顔くらいは、眺めてみないと)、真実のところはわからないということはあると思います。

宗教というのは、体験(つまり身体を使ってやってみる)しないと、わからないということは、あると思います。

顕正会が、カルトかカルトでないかは、自分の感性でとらえるのがいちばんだと思います。いくら、カルトの定義にあてはめてみても、あんまし意味はないように思います。



カルトであるとか、そうでないというのは、たんなるレッテルの問題ですから、問題なのは「強烈に依存する心」なんだろうなと思ったりします。

宗教のみならず、奉仕活動でも、家の掃除でも、ダイエットでも、勉強でも、インターネットでも、「どっぷりと依存してしまう」という心が問題であって、団体とか組織ではないかもしれない。

とくに宗教は「ここが真実だ」「ここがゼッタイだ」「他は間違っている」「ここしか救いはない」ということをいいますから、はまりやすい。

ただ、かつてそういうことを叫んだ宗教があっても、次第に、インポテ化してしまうので、アブなさと取れているわけですよね。

生きている宗教というか、伸び盛りの旬の教団は、どうしてもカルトっぽくなりますね。



その信仰とか組織のエネルギーに没入しているときは、もう「これがゼッタイ」「ここが正しい」「ほかは間違っている」という思いこみがすごいですから、なかなか脱却するのは難しいですね。

そうして、日蓮さんの教えには、そういう「独善・排他」のエネルギーに満ちているところがあるので、日蓮さんがすごいと思えば思うほど、顕正会に惹かれていくこともありますね。

もはや創価学会には、かつてのエネルギーも魅力もないし、法華講はインポテ化しているし、日蓮宗などの伝統仏教は、いわずもがなですし。

正しいと思いこめば思いこむほど、反対する人、説得する人は、みな「障魔」と位置づけられて、ますます「正しいから魔があらわれた」と思いこむ。「正しいから迫害されているのだ」=「迫害されているのは正しいからだ」という、思考の自動反応になりますね。

……などと書きましたが、つまけんさんは、誰かに相談に乗って欲しいというスタンスじゃないと思うので、つまけんさんにどうのこうのと言おうとしているのではなくて、カルトについてのわたしの雑感です。

12いちりん:2002/06/30(日) 12:30
宗教は、そもそもはカルトであるというのが、わたしの認識です。

神道やヒンドゥー教などの民族宗教は、ちと違いますが、世界宗教になっていったキリスト教も仏教もイスラム教などは、そもそもはカルトであったろうなと思います。

日本の仏教でも、日蓮さんの教団などは、当時は、もうカルトそのものでありましたでしょうね。
創価学会なども、昭和四十年代の頃までは、カルトみたいなものだと思いますね。

宗教が生きていて、旬なときは、まさにカルトである。そう思っているわけです。
そうして、信徒が増えて、さまざまな層に広まっていくと、やがてカルチャーになる。カルト→カルチャーとみています。

それは、いちめんインポテ化していく過程でもありますよね。形だけはある。けど、もはや伸び盛りのエネルギーがないと。まあ、日本の伝統仏教は、みんなインポテでありますね。
創価学会も、やがてはインポテ化していきます。

顕正会は、かつてもの創価学会の姿と、とてもよく似ています。
だから、エネルギーの密度がとても高い。もちろん、独善・排他のエネルギーの密度も高い。

わたしが、顕正会の本部に行って驚いたのは、若い女性が多かったことです。若い女性が多い団体は、のびているんだなあと思いますね。若い女性、若い人は、ほかに遊びに行くとこがたくさんありますからね。ほかに行くとこがなくて、集まっているんじゃない。そういう人たちが、わざわざ集まるには、やはり魅力があるんだろうなと思います。

オウムも幸福の科学も、会合に何度も参加しましたが、やはり若い人たちが多かったです。

伝統仏教などは、もう年寄りばかりですね。お寺の集いに、若い人が集まるというのは、聞いたことがない。インポテ化した宗教には、若い人は魅力は感じない。

13菊水護国:2002/06/30(日) 12:36
つまけんさん

(3)睡眠・食事の制限
(4)高額の寄付
以上2点について、言います。顕正会では「折伏」という名の「勧誘活動」が主流になってしまうと、それこそ、不眠不休不食事で走り回る姿が多いです。直接的には(3)とは言えんでしょうが、結果としては(3)になってます。

(4)についてですが、彼の会では「広布御供養」が年に1回、上限8万円で徴収されます。上限を決めるのが、清純な証拠と言いますが、実は皆が上限に併せる基準を作ってます。しかも実は8万円以上でも受け取るのです。
さらに機関紙を毎年切り替えますが、班員の分を立て替え数十万円払っていた方もいます。退転者が出ても、誓願がありますから減らす事は出来ないのです。
確かに、オウムのように「全財産供養」等ということはありません。しかし、実は毎年定期的に金を徴収したほうが、長い目で見れば有利なのはお分かりかと思います。

14犀角独歩:2002/06/30(日) 12:47

> 3

ちょっと、余談ですが、9の破壊的カルトの定義はカルト研究会ではなく、脱カルト研究会(JDCC-Japan De-Cult Council)のものです。

http://www.cnet-sc.ne.jp/jdcc/

あと、既にご存じかもしれませんが、洗脳とマインド・コントロールは厳格には区別されます。

【洗脳】『洗脳(brainwashing)』とは、一九五一年にジャーナリストのエドワード・ハンターがつくった用語である。彼は、朝鮮戦争で捕虜になったアメリカの兵士達が突如として彼らの価値観と忠誠の対象を逆転させ、彼らが犯した架空の『戦争犯罪』を信じるようになる現象を説明する(マインド・コントロールの恐怖から)

【マインド・コントロール】(マインド・コントロールとは)個人の人格(信念、行動、思考、感情)を破壊してそれを新しい人格と置き換えてしまうような影響力の体系(システム)のことである。多くの場合、その新しい人格とは、もしどんなものか事前にわかっていたら、本人自身が強く反発しただろうと思われるような人格である。(同)

【マインド・コントロールを解く八つの鍵】
第一の鍵 親密な関係と信頼関係をきずく
第二の鍵 目標重視のコミュニケーションをする
第三の鍵 人格のモデルと作りあげる
第四の鍵 カルト以前の人格に触れる
第五の鍵 現実世界をいろいろな角度から眺めさせる
第六の鍵 間接的な情報を与えて、思考停止の作用をさける
第七の鍵 カルトの外でしあわせな未来を思い描かせて、恐怖の教え込みを解く
第八の鍵 マインド・コントロールとは何か、また破壊的カルトの特徴とは何かを具体的に説明してやる。

ただし、現在、マインド・コントロールという語が適切かどうか自体も議論になっています。社会的心理学でいえば社会的影響力で説明するべきことであるという意見もあります。いずれにしても集団心理に係る問題であることは変わらないでしょうが。(同)

15犀角独歩:2002/06/30(日) 13:29

> 11

いちりんさんのカルトからカルチャー、面白い視点であると思います。
カルトという言葉を日本に具体的に将来したのは、やはり浅見定雄師であると思うのですが、この訳出に紹介に当たって、整理すると以下のように話されていました。。

・カルトという言葉はもともとは宗教上の用語
・本来はラテン語で宗教儀礼一般を表すもので、ぜんぜん悪い意味はなかった
・アメリカ英語では半世紀のあいだに、特定の教え・教祖に熱狂するタイプの、比較的閉鎖的で小さな集団を指す傾向ができたが、この時点でも、善いことをしている・悪いことをしているという基準はなかった。
・やがてアメリカでは80年代の終わり頃から、破壊的なことをする団体を指すように変わっていった
・カルトはいまは問題のある宗教を指す言葉
・アメリカ英語ではさらに、反社会的・反人道的なことをする宗教以外の団体にも適用
 商業カルト -commercial cult-
 心理カルト(教育カルト-educational cult-
 心理療法カルト-psychotherapeutic cult-
 政治カルト-political cult-など
・詐欺商法をする集団、自己啓発セミナーを名乗って暴利をむさぼる団体、過激な政治信念から破壊活動をする団体もカルトと呼ぶようになった
 以上が“カルト”という言葉の意味の変遷(日本脱カルト研究会第1回公開講座、当日メモから)

また、ここのスレッドのテーマとは離れますが、宗教の持つ神秘性といったものがなくなることに新宗教新聞編集長の廣橋氏が懸念を表明したことがありました。

いちりんさんがインポテ化と表現した宗教のカルティックな面の変遷については、精神科医の高橋伸吾師(日本脱カルト研究会代表理事)は、

「宗教は成熟するとパトスを失う。パトスを失うと人々を魅きつけられなくなる」
パトスがない団体は滅んでいく。しかし、パトスがあるから伸びるとカルト問題が積算する…(第2回公開講座、当日メモから)

と述べていました。

(パトス[(ギリシヤ) pathos]
〔哲〕〔受動の意〕外界を受容して内面に生まれる心的状態。感情・感動・情熱など。無記・無方向であることから知性(ロゴス)と対比され、一時的であることから持続的習性(エートス)と対比される。)

16犀角独歩:2002/06/30(日) 13:50

○集団健康度チェック

日本脱カルト研究会のサイトに『集団健康度チェック』という自己、ならびに第三者が集団の健康度をチェックできるページがあります。【判定】をクリックした段階では点数が表示されるだけで送信されません。まあ、できれば送信して破壊的カルト・マインド・コントロール研究の日本の第一人者・西田公昭師の研究に協力していただければとは思いますが。

ご家族、パートナーがメンバーの心の健康度をチェックするのに、特に役に立ちます。
こちらのサイトに来られている信仰者の方々も試しにどうぞ。

集団健康度チェック
http://www.cnet-sc.ne.jp/jdcc/GHI/index.html

資料収集の中間報告
http://www.cnet-sc.ne.jp/jdcc/GHIweb/ol002_nishida.html

17つまけん:2002/06/30(日) 16:05
あさん、こんにちは

>だんなさんが入会したことで、「この人は私の気持ちをわかってくれる」と奥さんが
>思うだろうから。

ご指摘の通りだったようで、ネットで集めた顕正会の情報を印刷して渡しましたところ
読んでくれましたよ。もっとも、そのまえに顕正会の本を何冊か取り寄せさせて、
わたしはそれをすべて読みましたが。。。
これはあたりまえですが、批判するだけなら、されたほうは話も聞かないと思うの
です。本を読んだことやビデオ放映会に参加したことで、少なくとも顕正会員である
妻の思考回路は理解できました。

>創価学会の何が気に入らなかったのだろう。池田先生に魅力を感じなかったのかな。

私たちには障害を持つ子がいるのですが、学会の方が来て、「あなたの前世が悪い・
育て方も」というようなことを言われたみたいです。
一生懸命育てているんですけどね。。。そんなこともあり、指導者である池田氏の
ことも嫌いになったようです。

>別に、つまけんさんをオチョクリたくて、ふざけてカキコしているわけでは
>ありません。家族にとっては大変な問題だろうな、と思います。

今度は御書講義に行こうと思っています。浅井氏がどんなことを言うか楽しみです。
あとでよく調べてみて、間違いを見つけたら密かに笑うとか。。。
要はあせらず、あまり深刻にならず、自分も楽しめればいいなと思っています。

それにしても、お題目って(とくに女性のは)とても耳に心地よいものですね。
聞いているとゆったりとした気分になります。
理屈ぬきで、妻がはまる気持ちが分かるような気がします。

18つまけん:2002/06/30(日) 16:13
みなさん、レスありがとうございます。
>9から>16まで、これからゆっくり読ませていただきます。

19:2002/06/30(日) 17:10
>17

そおぉぉぉなんですか。池田先生を嫌いになっちゃったんですか。
それなら、浅井先生も嫌いになっちゃう可能性もありますから、希望が持てますな。

つまけんさんは、もう、ご存知かもしれませんが、このサイトを開いていらっしゃる方も、お身内に障害を持った方がいらっしゃいます。
「心のリハビリしてますか」 いわたち せいごう
   http://www.geocities.co.jp/Berkeley/4549/open.html

20つまけん:2002/06/30(日) 17:35
犀角独歩さん 
はじめまして。つまけんともうします。
冨士門流信徒の掲示板を半月くらい前から読むようになり、ほぼ同時期に犀角独歩さんの
サイトをいつでも見られるように登録させていただきました。ありがとうございます。
>信仰者各人が、自分の所属する団体のカルト性を斥け、健全な宗教的行為
>(特に精神面を含めて)を模索していくことが重要であると思います。
>宗教という名目で一切を判断してしまうと、いつまで経っても問題は解決されない
まさに、そのとおりだと思います。私自身は、なぜ、彼女(彼)は宗教団体に入ったのか、
そのことを考えるようになってから、一歩前進できました。

21犀角独歩:2002/07/01(月) 01:42

> …犀角独歩…サイトをいつでも見られるように登録…

そうですか、ありがとうございます。

日々雑記をよろしく
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/zakki_01.html

あと、顕正会現役の方、退会後法華講になった方との会話録
『「日蓮聖人は富士山本門寺戒壇義を述べず』
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/s_w_d_dis.html

ご参考にしていただければ、幸甚です。

22つまけん:2002/07/01(月) 16:57
いちりんさん

>宗教は、そもそもはカルト  ---中略---
>信徒が増えて、さまざまな層に広まっていくと、やがてカルチャーになる。
>カルト→カルチャーとみています。

cult→cultureですね。なるほど。。
逆に考えるに、「カルトのままで残る=信者が増え続ける=ことは難しい」と読めます。
すこし安心するところではありますが、(独善・排他の)エネルギーを保ったまま
どのくらいまで大きくなれるものだとお考えでしょうか。
また、実際、何人集まればカルトと呼ばれなく(呼ばれ難く)なるのでしょう。
彼の会のことだけではなく、こちらのほうも興味あります。
沿おうか学会における教義の変遷とも信者の増加と無関係ではないと思います。

23つまけん:2002/07/01(月) 17:00
21と22は仕事場PCからです。すみません。
沿おうか→創価の誤りです。

24つまけん:2002/07/01(月) 18:10
菊水護国さん

(3)睡眠・食事の制限、
>顕正会では「折伏」という名の「勧誘活動」が主流になってしまうと、それこそ、
>不眠不休不食事で走り回る姿が多いです。直接的には(3)とは言えんでしょうが、
>結果としては(3)になってます。
仰ることはよくわかります。会では最末端の妻の夫(つまけん)を折伏(に臨席)
したのは、浅井氏のすぐ後列に座る壇上の女性でした。なんと、大幹部自ら。。。
このことから推察するものです。

4)高額の寄付
>(4)についてですが、彼の会では「広布御供養」が年に1回、上限8万円で徴収されます。
>上限を決めるのが、清純な証拠と言いますが、実は皆が上限に併せる基準を作ってます。
>しかも実は8万円以上でも受け取るのです。
>さらに機関紙を毎年切り替えますが、班員の分を立て替え数十万円払っていた方もいます。
>退転者が出ても、誓願がありますから減らす事は出来ないのです。

これは、現在八十数万人(公称)の会員分の収入が顕正会にあるということでしょうか。
半分で計算しても年間約350億円になります。我が家では二人で機関紙ひとつですが。

余談ですがつまけんが地方の顕正会館に行った時、車椅子の老婦人に対する、会員の
とても親切なる行動に感激した事をご報告します。更にいえば、会館の敷地周辺に、
たばこの吸殻などありませんでした。
このことがあったからこそ、最後までビデオを見ることができました。

25つまけん:2002/07/01(月) 18:18
菊水護国さん

(10)「現在を宗教上特別な時と結びつける」
(11)「そのため、そのときに生まれた信者に選民思想を植え付ける」

(10)は、その通りだと思います。「選民思想」について、大体しかわかりません。
 具体的には、どういうことでしょうか。

26犀角独歩:2002/07/01(月) 18:30

横レス、失礼します

> 何人集まればカルトと呼ばれなく(呼ばれ難く)なるのでしょう

破壊的カルト・マインド・コントロール状態というのは、いわば異常心理というべき状態です。ですから、どんなに規模が大きくなろうと小さかろうと、基準とすべきは心理面であると思います。私はカタカナがあまり好きではないので、破壊的カルト・マインド・コントロールを、端的に第三者心理操作と呼ぶことにしています。つまり、これは目的のために費やされる個人的な努力がいつの間にか、第三者の利益に置き換えられる心理操作ということです。

幸せになりたい、だから、一所懸命に活動する、お題目を唱える、それがいつの間にか組織の拡大のために使われることになる。仏様に出した供養、実は組織と指導者のポケットに入ってしまう。病気が治りますよ、幸せになりますよ、金持ちになりますよと言われて、はたと気が付いたときには自分は少しも変わっておらず、それまで自分がしてきた労力は組織と指導者の利益にされてしまっている構造、これが第三者心理操作でしょう。これには組織の大小は関係ないと私は思っています。

ここで問題になってくるのは西山茂師風に言えば、草創期の熱狂性、呪術性を失うころ、ある程度の規模があれば、社会的な存在となる。その段階では、初期の霊的な部分は失われているわけです。社会的認知を得るために教義を再編成するわけです。このとき、カルティックな要素は損なわれることになる。しかし、実はカルティックなものにしか宗教を見出せないニーズというのは宗教市場には必ずあるわけです。それを補完する新しい教団が出きるというわけです。これが新宗教の次に新々宗教が生み出されるというのが西山師の分析であると私は受け止めています。つまり、創価学会のカルティックなパワーが減少したときに、それを補完するために登場したのが顕正会であるということになります。私のように創価学会の草創期を知っている者からすれば、顕正会は40年前の創価学会とそっくりです。違う点を言えば、親族で固めるような真似を池田さんはしなかった点ぐらいでしょう。

もう一点、大きく違う点は少なくても池田さんは戒壇堂と言うことはできた正本堂を造るまでにこぎ着けた。けれども、顕正会は絶対に、ここにこぎ着けない点です。なぜならば名前こそ、顕正会は日蓮正宗を名乗っていても法律上では日蓮正宗とは縁もゆかりもないわけです。戒壇堂を作れても、容れる本尊を持っていないわけです。「仏作って魂入れず」ならぬ、お堂を造って入れる本尊なしという状態です。つまり、今の顕正会員の熱誠はすべて無駄になることははっきりしているわけです。それなのに、国立戒壇建立のためにと、尊い個人の信仰心と労働力、人生の時間、財産までもつぎ込まされている、私は本当に気の毒であると思います。

私は、よく顕正会員と会うことがあります。そのときに私はいつも聞くことがあります。「戒壇の本尊て、本当に大石寺にあるの?」、すると相手はびっくりして「あるに決まっています」と答えるわけです。「見たことがありますか?」、そう聞くと「ありませんけれど…、あるんです」と、こんな会話になります。憲法改正だ、国会決議だ、国立戒壇と篤く語るその人は、その戒壇に安置すべき本尊を見たこともないわけです。つまり、組織から伝えるままに、心の中で肥大化したイメージだけしかないことに本人は気付いていないわけです。

できもしない目標を恰も真実のように信じ込まされたうえに、さらに宿命転換であるといったこれまた日蓮聖人の教えでないものを、教えであると信じ込まされたうえで、到達不能の目標と、自分の目標をオーバーラップさせられて活動に熱中させられているわけです。これは第三者心理操作と呼ぶ以外のない自体であるように私には思えます。ただ、各人の切なる思いで唱える題目の効験は、では、ないかと言えば、それはあるでしょう。しかし、それは○○会だからあるのではなくて、会や、宗派に関係なく、各人の持つ信仰心によってもたらされるものであるはずです。ところがその個人の力を、恰も組織が正しい団体であるから引き出されたと、また個人の力による部分を“もって行かれて”しまうわけです。つまり、組織のおかげとすり替えられてしまうわけです。これが第三者心理操作の部分であると私は思っています。これは組織がいくら大きくなってもなくならない部分です。組織というものは大きくなればなるほど、虚仮威しが効くようになるわけです。そして、魅入られていくという仕組みがあります。カルト性は減少したとしても、虚仮威しが効く分、真実みが帯びるという新たな問題が持ち上がってくるわけです。

27犀角独歩:2002/07/01(月) 18:36

> 会員のとても親切なる行動に感激した事をご報告します。更にいえば、会館の敷地周辺に、
たばこの吸殻などありませんでした

私は福祉の現場を常に見ていますが、記されるようなことは、極めて当然なことで、常に見かける私の日常です。
しかし、反面、会員のご家族から家庭生活の著しい乱れを指摘する声は多く寄せられています。
いわば、「会館、会合という場では」という限定的な振る舞いもあり得るでしょうね。

28つまけん:2002/07/01(月) 20:35
あさん

>「心のリハビリしてますか」 いわたち せいごう
> http://www.geocities.co.jp/Berkeley/4549/open.html

このサイトは初めて見ました。家族にも印刷して見せたいと思います。
ありがとうございました。

29犀角独歩:2002/07/01(月) 20:38

改めて、言葉で読んでびっくりしたんですが、なんですか、この「広布御供養」というのは。

仏の十号の一つに「応供」というのがあります。供養に応えるという仏の徳を称えたものです。これを富士門では仏以外は供養を受けられないと解釈するのは通途のことです。

戒壇の本尊を仏と解釈するのは、富士義であるけれど、そもそもその戒壇の本尊をもってもいない顕正会が何で御供養を受けているわけでしょうか。富士義違反も甚だしい。これは富士義を見直す以前、その富士義の正当に違反していると言うことです。この金を浅井さんの一族が恣にしているわけですか。恣にしていないとすれば、会計監査とはどうなっているのでしょうか。御供養という富士義を利用した集金は、信じられない逸脱です。

昭和52年度路線の折、池田さんは「在家も供養を受けられる」とやったために会長職を辞任する羽目になったわけです。これが現石山の当然の在り方でしょうね。

さらにまた、広布とは、どういうことなのでしょうか。広宣流布する、国立で戒壇を立てると言っているのに、なんで広布=戒壇堂という教義裁定に基づいて金銭を集めることが正当化されているのでしょうか。

まったくもって、改めて驚愕の極みです。

30つまけん:2002/07/01(月) 21:41
犀角独歩さん

>日々雑記をよろしく
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/zakki_01.html
>『「日蓮聖人は富士山本門寺戒壇義を述べず』
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/s_w_d_dis.html

拝見しました。
ご周知の通り現役顕正会員Sさんの掲示板は現在書き込み出来ませんが
過去ログが残っておりましたね。こちらのサイトはつまけんが一番最初に訪れた
所です。あのとき掲示板過去ログも見ておけば。。。と悔やまれます。
詮無いことですが、Sさんには、直接お聞きしたいことがあり一度メール
しましたが、返信いただけませんでした。
あと、こちらに、ご本人の書き込みがありました。
http://8603.teacup.com/saiou_horse/bbs
こちらのサイトは、Sさんのサイトの次に顕正会の情報を仕入れたところです。

いままで、いろいろなサイトを訪れましたが、サイト運営者の方には、失礼な書き込み等
たくさん、ご迷惑をおかけしました。いまは、申し訳ない気持ちでいっぱいです。
この場をお借りしてお詫び申し上げます。ごめんなさい。

31つまけん:2002/07/01(月) 22:00
広布御供養について、妻に質したところ「8万円寄付した・もうしない」
とのことでした。。。

32犀角独歩:2002/07/01(月) 22:17

つまけんさん:

記すまでもないことですが、私は奥様は本当に純粋な信仰心から、お子さんのことを思い、そして、ご主人を思って、広布御供養なるものを為されたのだと思います。そして、日々唱題行に励まれているのだと思います。私はそのことを本当に尊いことであると思います。奥様のお気持ちも痛いほど、わかる気がします。


ただ、悲しいかな、その善意が直接、お子さんのためにならず、組織のためになるとしたら、もっと直接的にお子さんのために時間を使い、そして、お金を使うべきであると、私は思います。

でも、本当に私は思うのです。お子さんは、自分のために組織活動をしてくれるより、自分のために自分のことをやってくれるほうが遙かにうれしいはずです。

先にも記しましたが、私は常に福祉の現場に関わっているのですが、そこでいつも感じることは、人は、世界解平和だとか、ボランティアには気がいくのに、たとえば近しい親戚に障害者の家族があっても、そこに気をやることは少ないのです。それは、たぶん、身内の身勝手で、近しいところに障害者がいることで、恰も自分たちが被害者のような感覚をどこか懐いているところがあるからです。私がもっとも力を入れて、相手に非を説くのはこのようなときです。

もっとも近しいところからの福祉は、他の介在を為さず、直接、そのご本人に報いることが一番、ご本人のためですよね。

インカでは障害者は神の使いとして崇められたと言います。仏像、尊像に刻まれる数多の芸術は人と違った形状を持つ方々をモデルにしています。インドにも、そのような障害者を神の使いと見なす信仰があったと指摘したのは、自ら障害を持たれているM師という法華経の研究者でした。

私はつまけんさんのお子さんを神様のお使いと崇めます。どうか、このお子さんにこそ、供養することが仏教であることを、奥様がご理解できるようにお導きください。

僭越な書き込みをしたことを謹んでお詫び申し上げます。

33つまけん:2002/07/01(月) 22:33
金の出所は障害者給付金=税金です。上の独歩さんのかきこみ後で読ませていただきます。
すみません、きょうは酒飲んで寝ます。

34菊水護国:2002/07/01(月) 23:25
つまけんさん
浅井さんの論法を、箇条書きでで答えますね。
>(10)は、その通りだと思います。「選民思想」について、大体しかわかりません。
 具体的には、どういうことでしょうか。

①つまり浅井さんは「21世紀こそ広宣流布」と言う事を言います。
②そして「学会、宗門、正信会は全て国立戒壇の御遺命を捨てたから、
③顕正会のみ大聖人の御遺命を護る唯一の団体である。
④故に、顕正会に縁出来た会員こそ、大聖人に選ばれた会員
ということになります。
これは選民思想の典型です。
これの、特徴は「我々こそ大聖人に選ばれた者である。選ばれなかった者は我々より劣る者である」
となり、異常な他者への差別を生みます。

35犀角独歩:2002/07/02(火) 04:54

私の知っている重度障害者の娘さんを持つお母さんは、1日、4時間の唱題を30年間も続けていました。そして、ほとんど毎日のように活動に明け暮れていました。定期的にある供養には100万円単位でお金を出していました。家にいるときは題目を唱えてばかりで家事もせず、娘の世話もしていませんでした。それはそうですね、4時間、題目を唱えていたわけですから。それ以外は活動に出ていましたから、1人、家に残されていました。

お母さんは娘を何とかしてあげたい、彼女の言い方によれば、「宿命を転換して幸せにしてあげたい。だから一所懸命に題目を上げて、活動するんだ」ということでした。

けれど、30年、経っても何も変わりませんでした。娘の障害が治ることもありませんでしたし、主婦としての仕事は信仰活動のために家庭は顧みられず、家の中はあれ放題、そして、旦那さんが稼いできたお金は広布のためといって供養され、残ったお金もすべて活動費に使ってしまいました。

修繕するお金もないままに老朽化した家と、年老いた母、年老いた障害者の娘さんだけが残りました。

唱題に充てた1日に4時間もの時間、活動に充てた時間、そして、生活を切りつめてすべて出してしまったお金があったら、もっと娘のために有意義な人生を送れたものを、と私は思ったのです。

これは偽らざる、ある富士の教えに国立戒壇と広宣流布に半生を翻弄された親子の物語です。

36犀角独歩:2002/07/02(火) 06:04

このスレッドのテーマに基づいて、以下の書籍を推薦します。

『カルトから家族を守る』(毎日新聞社)
『親は何を知るべきか』マインド・コントロール研究会編(いのちのことば社)

37犀角独歩:2002/07/02(火) 06:09

『親は何を知るべきか』の抜き書きは、先に紹介されていた『心のリハビリしてますか』にあります。

http://www.geocities.co.jp/Berkeley/4549/oyahanani.html

38犀角独歩:2002/07/02(火) 06:20

○破壊的カルトの八つの特徴(F・G・ジンバルドー師)

(1)グループの中で指導者は自分自身を崇拝させ、特別な使命をもっていると教える。
(2)指導者は自分と教義に対して絶対的な服従を求める
(3)指導者は大きな権力をもち、しばしばカリスマ的である。それによってメンバーたちに魅力を感じさせ、彼らの行動を管理する
(4)破壊的カルトは、指導者をひたすら信じる人々によって成り立っている。そしてメンバーを経済的、政治的な分野にも進出させる
(5)グループの本当の目的を隠している
(6)人の善意を利用する
(7)メンバーたちに自分は特別なのだと感じさせるように仕向ける
(8)破壊的カルトは人間の五つの基本的欲求を満たしているように感じさせる
 1身の安全の欲求 2所属の欲求 3社会的要求 4精神性の欲求 5依存の欲求
(『親は何を知るべきか』P21)

39犀角独歩:2002/07/02(火) 06:28

○「入信=依存」問題に向き合う7つの原則

(1)冷静な初期対応を行うこと
(2)本人との対話のチャンスを断ち切らないこと
(3)説得より、むしろ、自然な対話を行うこと
(4)「入信=宗教依存」の心理的メカニズムを知ること
(5)家庭内だけで解決しないこと
(6)奪回後の精神的ケアを見越して行動をとること
(7)子ども(また入信した家族)の人間としての人格を認めること
(『カルトから家族を守る』P112)

40犀角独歩:2002/07/02(火) 06:31

【39の訂正】

誤)(6)奪回後の精神的ケアを見越して行動をとること
正)(6)脱会後の精神的ケアを見越して行動をとること

41犀角独歩:2002/07/02(火) 06:41

転載文ばかりですが、もう一つだけ

○入会の共通項

(1)きっかけ ―― 本人は悩みを抱えていました(自身、人生、社会、家庭等)。
(2)時期(タイミング) ―― 悩みをもった心理状態で破壊的カルトから、タイミングよく誘われます。
(3)本人は自分の欲求が満たされるかもしれないと思います。このグループを通して悩みの解決や目標を得られると思わせるのです。
(4)その時はまだ入るつもりはありません。
(5)本人は誘われるときに、
 ・誘ってくれる人を断る理由はないと考えます(あまりに親切なので)。
 ・相手が破壊的カルトのメンバーとは知りません
 ・十分な情報を与えられないので、自ら判断できません。
 ・場合によっては組織の本当の名前を知らされません。
(6)最初から明確で十分な情報を与えられていれば、ほとんどの人は入信しなかったでしょう。
(『親は何を知るべきか』P34)

42つまけん:2002/07/02(火) 10:26
犀角独歩さん

>私はつまけんさんのお子さんを神様のお使いと崇めます。
>どうか、このお子さんにこそ、供養することが仏教であることを、
>奥様がご理解できるようにお導きください。

ありがとうございました。
改めて顔をみてみると、屈託なく、我が子ながら見ているだけで
心が洗われる思いです。心に染みるお言葉をいただきました。

43アネモネ:2002/07/02(火) 10:45
皆様、お久しぶりでございます。
つまけんさん、はじめまして。法華講に籍を置くアネモネと申します。

久しぶりの書き込みですので、この場をお借りして私の近況を書かせて頂きます。
30万登山が始ってからは全くお寺に行く気がしなくなってしまいました。とうとう最近ではお寺の方から、登山や寺院参詣の勧誘のお電話や家庭訪問を受ける立場になってしまっています。時間の許す範囲で、掲示板で勉強したことや、常々私自身が疑問に思っていることなどを正直に打ち明けています。相手の方からは当然のこと「日蓮正宗の信心とはいえない」と叱責されています。でも私は「それなら、日蓮正宗の信徒でなくてもいいと思ってます」と返しています。最後には「本当に地獄に落ちるよ」と言われていますが、掲示板で勉強させていただいたお陰もあって、脅迫されたって今の私の気持ちは変わりません。いわばそれが今の私の信心の形となりました。

掲示板をロムする時間も段々とれなくなっていたこの間ですが、「差別と仏教〜摩り替えられた釈迦の教え」(亜紀書房 河合廣仙著)という一冊の本を読みました。もう20年以上も前に書かれた本です。兵庫県の曹洞宗の僧侶が同和問題を通して仏教教団が犯してきた歴史的責任に目を向けた内容でした。曹洞宗は特に差別戒名のお墓が多かった一方で、当時の座主が国連の席で日本の差別に関して問題発言をしたことに端を発して書かれたものでした。以下、印象的な箇所の抜粋をさせて頂きます。ここでは同和問題について取り上げた形の記述となっていますが、差別問題の象徴として捉えて読んでいただければと思います。
**********
「日本社会における部落差別の現実問題も、江戸時代の封建政治による権力支配の結果だとして捉えるだけでなく、その封建意識を一層強化し、特に差別意識を民衆の心に浸透せしめたのは仏教であったと認識を新たにすべきであります。その思想的内容はいうまでもなく、誤った因果の教え、宿業・輪廻説を複雑化し絡めて説く教説で、今なおこの歪曲した教説の布教は行われているのであります。」

「曹洞宗をはじめ各宗のこの問題に対する仏教者の取り組み方は、極めて低調で誠意あるものとは思われません。今、日本は物心両面にわたる現代文明の先進国ですが、先進諸国民の近代精神としての基本的人権・自由・平等の観念が果たして、仏教者にはどこまで理解され身についているのであろうか疑わざるを得ません。仏教でいう平等を得手勝手に曲折し、近代精神としての基本的人権・平等の観念と同質のものであるかのように解釈してすませ、深く考察探求することなく、表は平等裏は差別と使い分けしている事が、現実の具体的問題たる部落差別についての認識の欠如となり、それらが直ちに同和問題へのその場を糊塗する退嬰的な対応となってあらわれているのであります。」
**********
実はこの著者の方は、こうした言論がもとで自分のお寺の檀家信徒の圧力を受け、ついには住職の座を追われているそうです。最大の抵抗勢力の実働部隊は、座主を中心とした上層部よりもそれを支える信徒たちだったようです。だけど私はこの本を読む限りにおいては、たとえ曹洞宗であっても、この方に真の僧侶の姿を見る思いがしました。と同時にこうした問題は、今の自分自身の問題でもあるような気がしました。

44アネモネ:2002/07/02(火) 10:47
(つづき)
私のところにお電話や家庭訪問に来られる方の大半は、代々の法華講の方です。彼らに言わせると、どうやら成仏とは死んで再びこの信心をする家に生まれてくることらしいのです。そこに生まれた子供が「福子」と言われるのもその理屈からなのでしょう。言い換えれば代々の法華講とは、過去世で徳を積んで成仏した結果で今日に生まれたということにもなるでしょうか。その論調は、代々の法華講だけではなく、学会を脱会して入講した方々によっても支持されきています。顕正会もそういう意識が根底にあることでしょう。
代々その家が守り伝えてきたものには当然誇りがあるわけで、それを汚すつもりは毛頭ありません。また特に嫌気がさすほど、そのことを露骨に鼻にかけられたわけでもありません。だけどよくよく考えるならば、その誇りからくるなにげない優越意識が「選民思想」へと発展し、やがては「差別意識」をつくりだすエネルギーとなっていることにも気づくのです。まさしくそんなものこそお釈迦さんが否定されたはずの、カースト制度を支えるバラモン思想そのものではなかったのかと思います。
入信以来「そういう命」「そういう宿業」「そういう罪障」そんな言葉を耳にすること久しく、しかもそれは組織のトップが言っているから正しい、組織のみんなが言っているから尚正しい、体験で語られる如く正しい、だから自分もそれを言うことが正しくて、言わなければ間違ってしまうといった空気がお寺の中に満ちています。そして私はそんな集団心理からくる感覚のねじれや麻痺がほとほといやになりました。まさしく心理操作だと思います。私はそんなものはないと思ってきました。ところが、その感覚にいつしか私自身も馴染んでしまっているのではないかという兆しを感じ、いやになってしまいました。
本来、そのような感覚の麻痺やねじれからくる心の囚われを解放してくところに、宗教が示す教えの目的があったはずなのに、心を解放するどころか、一層がんじがらめに人々を苦しめてしまっている。頭のどこかではその不健全さに気がつきながらも、もしも本当に正しくて地獄に落ちてしまってはと恐れ、その不健全さにみんなで目をつぶって従っていこうと集団で流れていく。もとをたどっていくと、最初のなにげない優越感やステイタス感覚のはじまりが、カルトを支えている根底的な意識エネルギーなのだと思います。私に関して言えば、もとより日蓮聖人が好きで尊敬していただけに、「日蓮大聖人の正統な流れ」というフレーズを受けて、優越意識が自分の中にも芽生えていたかもしれないと思うようになりました。しかし一皮向けば、それこそ真の誇りではなく、ただの心の貧しさや卑しさに他ならなかったことに気が付きました。

45アネモネ:2002/07/02(火) 10:48
(つづき)
つまけんさんが、心ならずも入信までされて奥様を救い出そうとされているお気持ちに、大変胸が熱くなり、久しぶりの書き込みをいたしました。
きっと、創価学会で感じた差別意識をそう遠くない将来に、顕正会の中でも奥様自身が肌で感じられるときがくるかもしれません。私はそんな気もします。そのときこそ、いつもそばで本当に自分のことを心配して見守ってくれていた夫の深い愛情を知り、宗教が目指す遥か遠くのテーマなどではなくて、すぐそばにいる家族こそが本当にかけがえのない幸福のありかだったことに気が付かれるといいですね。
差別や偏見ではなく、女性は、その置かれた状況がどうであれ家庭の中で孤独な精神状態に陥りやすいです。心の閉塞感や寂しさ、社会に置き去りにされたような焦燥感を感じ、そんな心の空洞を、宗教が掲げる遥か遠い美しい大義名分で埋め合わせようとしてしまうのかもしれません。そんな現実逃避のひとときも、厳しい人生を生きていくうえでは時には良薬となって必要かもしれません。だけど集団心理に嵌ったときには、知らず知らずに良薬はアヘンと化し、気がつけば朝から晩までそれなしでは生きられないほど、現実の生活に戻ることが出来なくなってしまうものなのでしょう。その虚構の世界こそ自分の求めていた人生だと思い込み、そこに生きることこそが自己実現だと思い込んでしまう。はたと気がつけば、私もそんな状況に陥りそうになっていました。
本人は心の空洞を抱えているわけですから、これは家族の支えでしか救えないかもしれませんね。生意気なことを書き連ねたかもしれませんが、どうかあせることなく、奥様を見守っていてあげて下さい。ひとりの主婦経験者の女性として、心からそう願います。

46アネモネ:2002/07/02(火) 10:49
(つづき)
長くなりましたが、「able」という映画のことを昨日知りました。とても素晴らしいシーンの連続に見入り、私は神様からのお使いにどうしても会いたくて、この映画がとても観たくなりました。「able」についてのホームページをみつけましたので以下、映画の解説文を抜粋させて頂きます。
*********
映画『able/エイブル』は、ここ数年の映画の中で、とびぬけて魅力的な2人の登場人物を主人公にしたドキュメンタリーである。2人の少年には「知的障害」がある。この映画は、彼らが言葉も習慣も違うアメリカでそれぞれの可能性を広げていく冒険映画であり、日々の暮らしの中で彼らが周囲の人と信頼関係をつくっていく可能性を綴った日常の記録だ。カメラは丹念に優しく、2人のそれぞれに際立つ個性をすくいあげていく。私たちは、「障害者」という言葉で彼らをひと括りにしてしまいがちだが、彼らの個性は鮮やかに異なり、どちらも魅力的なキャラクターを発揮する。瞬間瞬間を楽しむのが上手で、見事なダンスを披露するゲン。イルカを触るのは嫌なのに、イルカを眺めているのは大好きなジュン。2人ともユーモアのセンスは抜群だ。この映画で、2人は堂々の主役なのだ。私たちは、彼らを見ながらふと思う。「知的障害」と「健常者」の違いとは何なのだろう、と。
(中略)
この映画を見ると、たくさんのことが話したくなる。「障害者」と「健常者」の違いということ。コミュニケーションのこと。家族のこと。友達のこと。アメリカという社会のこと。日本という社会のこと。人間の魅力、個性のこと。誰にもある可能性のこと。きっとたくさんの感じ方があり、たくさんの意見がある。たくさん話すことで何かが変わっていくことがある。
http://dsystem.jp/able-html/01mokuji.html『解説』より抜粋)

47つまけん:2002/07/02(火) 11:02
菊水護国さん

>選ばれなかった者は我々より劣る者である」となり、異常な他者への差別を生みます。

わかりました。ありがとうございます。

48つまけん:2002/07/02(火) 11:27
アネモネさん
はじめまして、つまけんともうします。
『able/エイブル』のことは妻が先日話しておりましたが、顕正会のことで頭が一杯で
うかつにもよく聞いておりませんでした。一つのことばかり考えているとだめですね。
妻は映画を見たようで、その後の彼女には少し変化を感じます。
よろしくお願いします。

49五月雨:2002/07/02(火) 12:48
つまけんさん はじめまして五月雨と申します。これまでのレスを拝見させて頂いて、つまけんさんのお優しさ、奥様、子供さんに対しての深い愛情に心打たれました。つまけんさんのようなご主人をお持ちの奥様は、本当にお幸せです。(羨ましい限りです。と言いつつ横の亭主見る・・・)
お子様が障害を持たれているとの事ですね。実は私も、私の子供も障害者です。障害者として子の立場、親の立場を経験しています。信仰の面では、二十数年前に学会に入りました。入信動機としては
やはり、自身の障害を悩んでの事でした。宿命転換出来る、その悪い足も治りますよと言われての入信でした。どうにかしたい一心で、言われるままに新聞啓蒙、選挙活動、学会活動に明け暮れて、その上に、入信後に生まれた子供が私と同じ病気でしたから、更に拍車がかかりました。信心第一にしていれば家庭も守られると信じ込まされ、何よりも活動優先の日々でした。学会を脱会して法華講に移っても同じです。新聞啓蒙と選挙活動の無い学会活動です。何か変とは入信当時から思っていましたが、疑ってはいけないという教義ですから、自分を騙し騙し今日まできてしまいました。カルト・洗脳・マインドコントロールについての議論が活発にされていますが、私には難しい定義はよく分かりません。けれど自分では全部にはまっていたと思います。現在はやっぱり変だと思ってお寺に行くのを辞めています。そして、やっと今自分の人生を取り戻し、自分の人生を生きています。そして二十数年ぶりに幸福感を味わっています。信心にのめり込んだ自分を振り返って見ると、アホちゃうかと一笑に付してしまいたい気分と、その時は真剣だったというそして、その真剣さを組織に利用されていたという腹立たしさに複雑な思いがしています。奥様も、お子さんの為に出来る事と真剣に考えられての行動かと思います。そのお気持ちは痛い程よく分かります。だけど、治す事だけが大切な事なのでしょうか。お子さんの障害の程度は分かりませんが、今は昔と違って良いリハビリもありますし、医学の発達もあるので障害を軽減する事は可能だと思われます。その上に信仰に頼って、治したいと思う気持ち。私もそうでした。ある日奇跡が起こると信じていました。でもその奇跡は起こりませんでした。奇跡を思う心の裏側に潜む障害者であることを否定する気持ち。嫌悪感です。今話題の“奇跡の詩人”のルナくんを思い出します。私はNHKの検証番組と彼の書いたものしか見ていませんが、自分の子供は障害者であって欲しくないというあの親の心の表れと見ました。五体満足の両親には、自身の子供が障害者である事の“受容”というのは中々大変な事だと思います。私も障害者でありながら大変でした。でも今息子を見ていると、精一杯自分の人生を楽しんで生きている。その尊さに気付かされるのです。障害があっても無くても自分自身の人生を、精一杯生きていく。人生を生きるということにその差別は無いのではないでしょうか。
つまけんさんも、奥様も子供さんの障害を否定をされているとは思いません。その上で子供さんの人生を一緒に楽しく過ごしていってあげてほしいなぁと思うのです。前述しましたように、私は障害者として子の立場、親の立場を経験していますが、大変なのは結局“子供”です。親の立場は楽です。手術して横たわる子を見て、可哀相にとは思っても痛いのは子供本人ですから。替わってやりたくても替われませんし。
まとまりの無い文章でゴメンナサイ。ともあれどんな境遇であれ生きていることは素晴らしいという人生を送りたいものですね。
また、池田センセーをお嫌いになられた奥様ですから遠くない将来に、現実に気付かれると思います。
 障害児教育に取り組んでおられる小児科の先生のホームページです。何か参考になることがあるかも知れません。のぞいて見てください。

スギケンのホームページ
http://web.kamogawa.ne.jp/~sugimoto/index.htm

50犀角独歩:2002/07/02(火) 13:35

障害者差別という側面から言えば、創価学会も顕正会も、その基本的な考えは大同小異ですね、残念ながら。

この点については「宿命について」のスレッドで、現役顕正会員の亀太郎さんと、さんざんやりました。つまけんさんは、半年ぐらい前からのロムということでしたが、お読みいただいているのでしょうか。

まあ、この議論は最後は「宿命」語の解釈でまったく噛み合わないまま終わった後味の悪いものでしたが、それより何より、差別の道具とされた仏教教義解釈が今も顕正会に流れていることを再確認させられて暗澹たる気持ちになったものです。

差別の説明原理になる仏教であれば、そんなものはそもそも害悪であって捨て去るしかありません。私は半世紀近く仏教との自負で生きてきましたが、敢えて、こう結論づけるしかありません。それでも、しかし、本来の仏教は「前世がどうだ」「未来がどうだ」などという無責任なことを言わず、身分・境遇・健不・体の具合の違いを論ずることなく、ともかく自分は自分であると自覚し、より善く生きることを教えたのが仏教であったと私は考えています。信じるものがどうであるとかなんとか、そんなことは枝葉末節なのであって、本来の仏教にはバクティ(誠信)といった絶対的信の強要なんかなかったわけです。
手を触れただけで死んでしまうようなか弱い虫も、誰にも負けない剛健な戦士も、なんら差別無く、共に今を生きる衆生であるというのがお釈迦様の考えであったと私は思っています。そういう本来の仏教の在り方に戻さなければ、間違いなく仏教は人々から見捨てられるでしょう。いや、既に見捨てられているのです。人を救うどころか相手にされなくなっているのでしょう。その中で無責任な現世利益を売り物にする熱狂性を持つ集団は、単に大きくなっていっているだけでしょう。しかし、大きくなることなど、何の意味もありませんね。

たとえ、どんな小さかろうと、たった1人のためにでも、誠意を尽くす役割をお釈迦様の教えが担えれば、それでよいでしょう。つまけんさんのように、五月雨さんのように。そのお心の中にしか、私は仏様が見えません。二十四文字の法華経は尊いと思うのです。

「我深く汝等を敬う、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」

私は皆さんを敬います。軽々しく見たり、自分のほうが優れているなどと思いません。
なぜならば、その尊いお心こそ、菩薩の道そのものであり、いつしか必ず自他共に仏様となって行かれることでしょうから。

51犀角独歩:2002/07/02(火) 13:53

スギケン師のHP、拝見しました。

ここで紹介されている書籍の著者に私の尊敬する知人が出ていました。
その方は、昨年、5歳の自閉症のお子さんを亡くされたのです。それ以前、カルト問題と戦いご本人は度々命を狙われていました。それなのに殺されることもなく、ようやくと落ち着いた矢先の、お子さんの事故でした。

先日、お会いした折、この執筆について語られ、「印税を自閉症と障害児のための基金にするんだ」と話されていました。社会に紹介もされない、自慢もしない、けれど、確実にどなたかの役に立つ尊いお気持ちであると思ったものでした。

52五月雨:2002/07/02(火) 15:15
犀角独歩様
 
<<インカでは障害者は神の使いとして崇められたと言います。仏像、尊像に刻まれる数多の芸術は人と違った形状を持つ方々をモデルにしています。インドにも、そのような障害者を神の使いと見なす信仰があったと指摘したのは、自ら障害を持たれているM師という法華経の研究者でした。

そういう事があったのですね。でも中には私の様に邪な障害者もいるので、神の使いというのは・・・
この前、高木美帆さんという女優さんが、テレビのコメンテータをしていて、こういう事を言っていました。障害を持つ人々を指して、「欧米ではchallenger人生に挑戦する人と呼ぶ」と。なるほど、私の障害者としての人生を振り返ってみると、全てにおいて挑戦していたような気もします。偏見、差別、無理解etc。大きな壁が立ち塞がらなかった事はありません。
神の使いと思っていただけるのは有り難いけれど、むしろ同じ人間として、ハンディキャップを持つ人間は常に人生にchallengeしている人と捉えて下されば、ありがたいなと思うのです。なお独歩さんの話を全面否定するものではありませんので、誤解無き様お願いします。

残念ながら、差別の心と言うのは人間の本能ですから、無くならないと思います。またそれに拍車をかけているのは、私の知っている日蓮仏法です。過去世に悪い行いをしたから今世で報いを受けている。だから信心頑張って、来世に元気な身体で生まれてくるんだと、今生きている現実を否定してしまう。こんな思考に陥っている時は生きてる事さえ空しいものでした。
独歩さんのように、障害者に対して思って下さる方が増えれば増えるだけ、私たちにとって住みよい社会になるのは間違いないように思えるのです。独歩さん、有難うございました。

53五月雨:2002/07/02(火) 15:52
アネモネさん  初めまして。五月雨と申します。私も取りあえず法華講に籍を置いています。九月には三十万登山にも参加する予定です。といっても私は、もう活動はしませんとハッキリ宣言しましたので、お寺には行っていません。活動しないというと、誰も家に来ません。それはそれはキッチリしています。まるで脱会したての頃に、学会員に受けた仕打ちと同じだと思いました。人と人との繋がりでの人間関係では無かったのだと思います。活動しない=退転者=地獄行きと思われているようです。
アネモネさんも、数々の疑問をお持ちの様ですね。私は難しい教義はよく分かりませんが、言ってる事とやってる事のあまりの違いようだけは分かりました。それに信心していて、楽しくないどころか、同信の輩だというのに中傷誹謗したり、嘘をついて人を陥れたり、泥棒呼ばわりしたり、信じられない人間の集まりに、信心する前に人間としてどうにかしたら、とずーと思っていました。こんな連中は理解不能とばかりに、役職も何もかも投げ出したのです。そしたら意外(?)な事に幸せが待っていました。
心が実に平穏になり、幸福感に満たされるようになったのです。そして何も縛られる事なく、全ての時間が自分のモノになったのです。今までは会合優先だったので、日曜日はほとんど遊びに行けませんでしたが、今は、夫婦でいろんな所へ遊びに行ってます。活動している時はケンカの絶えなかった夫婦ですが、返って夫婦円満になりました。
お寺に行かなくなって、「大罰もらうで」「イッセンダイになってしまう」「死ぬ時後悔しなや」等々の脅しという励ましの言葉を貰いました。勿論いい気持ちはしません。でもこのサイトで色々と勉強させて頂いてから、気持ちも軽くなりました。
今は、自分の人生が自分の手に帰って来た。そんな感じです。

アネモネさんにどうしろこうしろという気持ちはありませんが、同じ女性として私の経験した事を聞いて頂きたくてレスしました。失礼しました。

54犀角独歩:2002/07/02(火) 15:56

五月雨さん:

いちおう、誤解の無いように私も記しておきますね。
私がインカの例を紹介したのは、Challenger(この言葉を使いましょう)が「神の子である」という宗教めいた思想を喧伝するためではないのです。

精神が高度化された社会では、それまで排斥した人々、あるいは思想を受け入れるキャパを有するようになるという点を紹介したいがためでした。

極端な言い方をすれば、私の感覚の中には障害者も健常者もありません。しかし、Challengerを宗教というもっとも善意であるべき思想をもって差別する場合もあるでしょう。その場合には、インカのような事例を紹介することは大切であると考えています。

私は、仰るような障害者の方が住みやすい社会を作るという感覚もまた、一面の真理に過ぎないと思うのですよ。なぜならば、そのような社会は障害を持たない人にとって住みやすいとは限らないからです。ですから、すべての人が住みやすい社会を作るべきであると思っています。誤解を招きやすい表現ですが、障害者の生活が健常者の犠牲の上に成り立つような社会ではまだ不完全であると思います。

子どもの頃にこんなことがありました。近所に私より3歳年上の知能障害を持った男の子がいました。その子も私と同じ創価学会員でした。私は他の友人の反対を斥けて、そのこといつも遊んでいたのです。通常は、常に相手の親御さんが一緒で、そこで他の子どもたちと同じように接しているつもりでいました。

ある時、その男の子と2人きりになったのです。すると、その子が今までみたこともな険しい形相になったかと思うと、お膳の上に置かれていた南部鉄でできた重い灰皿を私の頭にめがけて投げつけました。怪我をした私の胸ぐらをつかみ、私の顔に唾を吐きつけました。相手は障害があるとはいえ、小学生の3歳の年齢差は体躯差に歴然としています。その時、そこのお母さんが帰ってきました。すぐに止めに入って、「いつも、この子はいじめられているから、自分より弱いと見做すと暴力をふるうことがあるの、ごめんなさい、ごめんなさい…」と、何度も私に謝ったのです。

私はその子に心から親切に接していたつもりでしたが、けれど、私の心には「何かが」欠けていたのだと思います。以来、40年の歳月が過ぎましたが、私は今でも、私に欠けている何かを探し続けています。

数年前のことですが、私はあるケースワーカーの方にお世話になったことがあります。お会いする前に、それこそ、何日間も何時間も電話で話し続け、本当に親身になって私の話を聞いてくれました。はじめてお会いしたのは電話ではじめて話してから何週間も経ってからのことでした。

ケースワーカー室にはじめてお会いしたとき、その方は、電動車イスに乗った、私よりも10歳も若い女性でした。私は、その時、眼から鱗が落ちるほど、驚いたのです。私の中に暗黙の内に「障害者は守るもの」という傲慢な心が福祉という名の下に潜んでいたことを実感したからです。その方は、私にとって、今でも大切な友人の一人です。

取り留めのないことを書いていますが、この障害という問題、実は、私も含めて、信仰者は後天的に重い心の障害を持っているのかも知れないと考えるところがあります。私は、その信仰の仕組みを、取り分け、仏教における差別という障害を取り除くために考えていきたいと思います。

私は重度心身障害児の施設に定期的に訪れるのですが、ここに入院する子どもたちの純粋な笑顔を見るとき、自分の中に欠けている何かをいつも実感するのです。そんなとき、私の精神は、まだまだ何の疑いもなく笑んでくれるあの子たちより、遙かに汚れ劣っていると痛感するのです。そんな思いで紹介したのがインカの話でした。

どこか、気に障るところがありましたら、お許しください。

55犀角独歩:2002/07/02(火) 16:09

54の補足です。

> インカの例を紹介したのは…思想を喧伝するためではない…

などと記したのは五月雨さんがそう言っているということでは、もちろん、ありません。
どうも、文章で書くと、自分の思いと、ぜんぜん違っても読めるようなことを気が付きもせず、記してしまいます。

哲学の問題は9割以上が文章表現の問題だと言った人がいましたがわかる気がします。

56つまけん:2002/07/02(火) 16:46

つまけんが顕正会に入会したのは、「内緒で顕正会に入会してしまったが、
不安、恐い、できればそばにいて欲しい」という妻の気持ちを感じたからです。
恥を晒しますが過去においては感情を抑えきれずひとりで物に当り散らしたこと
何度もあります。つまけんは宗教が大嫌いでしたから(すみません)、
従って彼女が私に内緒で入会した事自体は、当初は離婚覚悟だったと思います。
いまは彼女をそこまで追い詰めたのは私=つまけんであることを痛感しています。
彼女が夫の事をもっと信頼していれば、入会前に相談したはずです。
彼女が顕正会に入会してしまう前につまけん自身がすべき事たくさんありました。
あと、まさかそんなことはないと思いますが、誰にもつまけんのマネをして欲しく
ないです。配偶者に望んでもいけません。何度もいいますが、その前にすべきこと
たくさんあります。
上記、犀角独歩さんはじめ、皆さんの投稿して頂いた内容を拝見し強く感じたこと
を書きました。

57五月雨:2002/07/02(火) 17:02
犀角独歩さん

なにも気に障る事もありませんでしたが、、独歩さんの引用された文章の中に“神の使い”というものがありましたので、障害者のひとりとして、自分も範疇に入るのだろうか。こんなに邪な心を持った人間も障害者の中にはいるのにネと思いつつ、高木美帆さんの言葉を書いたわけです。自分の意図した事が、違う型で解釈されてしまう。それはある程度仕方の無い事かなとも思いますが、こうして指摘して書いて頂けるとそうじゃないんだと説明できるので助かります。少し、白状すると独歩さんのレスを利用しつつ、これを読んでいる人に、障害者を「challenger人生に挑戦する人と呼ぶ人もいる」と認識して貰うのが目的で・・・
ホント邪な人間でしょ。人間ちょっと長く生きているとこうなると言いつつ、日常生活に戻ります。(ごはん作らなくっちゃ)
独歩さん、嫌な思いをさせて申し訳ありませんでした。

58犀角独歩:2002/07/02(火) 17:48

五月雨さん:

私は、少しもいやな思いはしていませんよ。
また、「challenger人生に挑戦する人と呼ぶ人もいる」としっかり、認識しました。
でも、本当に、私は神の使いであると認識しています。
天台義になるのですが、法華経に声聞・縁覚の衆生が登場してきて、一面、否定されるような記述になっていますが、それを天台宗では、仏の教化を助けるために二乗の姿を取っているけれど、実は尊い仏菩薩である解釈するのです。この解釈が妥当かどうか、ということは置いておくことにして、止観行に鍛錬された当時の修行者には、一切の衆生を尊く仰ぐ境地を得られたが故に、このような解釈が許されたのであろうと想像しています。
この天台義は『破日蓮義』という日蓮仏法の批判書の中で紹介されるものです。

原文は漢文なので、転載はやめておきます(笑)

それにしても、もし五月雨さんが邪な神の使いであったとしたら、雪山童子が羅刹の正体を帝釈天と知らず半偈のために身を投じた故事を思い起こすことにしましょう(莞爾)

59五月雨:2002/07/03(水) 13:19
犀角独歩さん

<それにしても、もし五月雨さんが邪な神の使いであったとしたら、雪山童子が羅刹の正体を帝釈天と知らず半偈のために身を投じた故事を思い起こすことにしましょう(莞爾)

これって私は誉められているのでしょうね? (笑) アホな私は雪山童子の物語は知っていてもそれが意味する深いところは分かりません。分からない事は良い方へ受け取ってしまう都合のよい脳ミソの持ち主ですので、喜びましょう。

54の独歩さんのレスの体験された事を一晩考えていました。彼の心の中にあったものは、きっと虐げられている日頃の鬱憤だったのでしょう。独歩さんと二人っきりになった時に、ここぞとばかり日頃の鬱憤を独歩さんにぶつけてしまったのでしょう。きっと相手は自分より弱い子なら誰でも良かったのだろうなと思います。
 人間は、自分の経験をした事を通してしか理解出来ないそうですね。私も障害者偏見の中で色んな思いを経験したから、彼の心の片鱗が少しは分かるのかもしれません。独歩さんの接し方が悪かった、心構えに何かが足らなかった、そんな問題では無いように思うのです。これは、あくまでも私の個人的な意見です。独歩さんの真剣な思いに水を差すつもりで言っているのではない事だけはご了承下さい。
 障害者の願いというのは、普通に扱ってほしいという事になると思います。良い意味でも悪い意味でも。でも哀しいかな、そうはならないというのが実感です。仕方の無い事のように思えます。後は開き直るしかない気がします。自分自身の事を言わせてもらえば、少し前まで、障害者手帳での優遇を受けるという事に抵抗感があったのですが、今は常に手帳を携帯していて、どこかに入る時は、障害者割引は無いかと必ずチェックをし、掲示が無ければ窓口の人に有無の確認をしています。ただ図々しいだけのオバハン化とも言えますが、開き直りとも自分では思っています。

>信仰者は後天的に重い心の障害を持っているのかも知れないと考えるところがあります。・・・
 仏教における差別という障害を取り除くために考えていきたいと思います。

信仰者について、今まで見てきた人たちを思い浮かべてみると何か人格障害があった様にも思いますので、そうかもしれません。ここに大聖人様の仏法が、そういう人々の救いの糧であって欲しかったという思いがします。何故、大聖人様の仏法はここに生かされていないのかと疑問にも感じます。
 変な言い回し、意味不明瞭のところがありましたら、又ご指摘をよろしくお願いします。

60アネモネ:2002/07/04(木) 09:29
五月雨さん

はじめまして。レスありがとうごさいます。五月雨さんは関西の方なんですね。私も、関西出身なんですよ。もう関東に来て十数年になるので、私の関西弁はすっかり怪しげな感じになってしまいました。けど、やっぱりお友達としゃべるときは、関西弁がいいです。感情をこめやすいですし。緊張の糸も緩んでホッとします。

私も、お寺にほとんど行かなくなって、平穏な日々を送っています。家庭訪問やお電話も、そんなにしつこくしょっちゅうあるわけではないんですよ。時間をかけてお話しした方は、繰り返しおみえにはならないようですし。相手の方も立場上「地獄に落ちるよ」で締めくくるしかないんでしょうね。いやがらせのようなことは全然ないです。
突然の家庭訪問っていやだなぁと思うのですが、ときにはたまった新聞とメモ書きのお手紙の入った袋を持ってきてくれて、チャイムも押さずそっとドアに袋をにかけて帰られるような方もいます。メモにはお説教めいたことなどは何もなく、「お寺に行ったら新聞がたまってらしたようなので。お体を大切に」と一言。こういう家庭訪問はなんとなく心にとまります。だけどそんなに親しくもしていない方から、「ご本尊様を拝させてほしいから伺いたい」ってお電話がかかるのは権限を振りかざされたようでいやなものです。

私の場合、入信して八年ほどですが、もともと仕事の関係でお休みや自由な時間がとれるのが非常に不規則なんですね。御講や月例登山にはなるべく参詣してましたが、その他はまばらでした。そんなこともあって、次第に仕事について何かとお寺で言われるようになりました。
「参詣や活動がままならないような仕事の人は福運がない人だ」とか。
「唱題・折伏に励んで福運をつければ、信心(お寺活動)ができる仕事に就ける」とか。
「私だったら法のために転職をする」とかね。
いまどき職業による偏見めいた言葉を聞くとは、思いもよりませんでした。
私が今思いつく職業だけでも、救急医療、新聞記者、ホテル業の責任者、警察官、政治家、秘書、タレント業、マネージャー業など、自分の自由がきかない職業というのはたくさんあります。社会に生きていれば誰もが、様々な仕事の恩恵にあずかっているもので、そうやって社会が成り立っていると思うんです。なのに、お寺に来れないような仕事ということでひと括りにして、価値判断してしまうんですね。
まぁ、ここに書いたことは私の印象でして、極端な例かもしれません。だけどそういう傾向性を孕んでいると思います。
そういうことにクヨクヨと心が惑わされないためには、お寺から距離を置くのが一番いいなと思いました。
お寺から離れてしまうと、30万登山も、日蓮正宗のことも、本当に何も聞こえてこないものです。社会の中での存在はまるで感じられないですね。それを「爪上の土」にたとえられるのかもしれませんが、う〜ん、なんか違うような気もします。
私も限りある自分の時間を大切にしながら、ゆっくりと無理なく信仰の実践を模索していこうと思ってます。やっぱり漠然とした言葉になりますが、なによりもまず自分の人生と向き合っていくことから始るんだろうなって思います。
だけど、私はふと思うんです。カルト化した組織に拠り所を求めていくのはよくないけど、一方で、超高齢化社会になっていく中を自分が生きていくんだろうなぁと思うと、限りなく擬似家族に近づけるようなコミュニティの場は必要になってくるだろうなぁと。家族のあり方とか、そこに求める価値観とかは昔とは随分変わってしまい、ある意味で「老いを生きる」のが精神的にとても大変な時代になっていくのかもしれないと想像します。望んでも仕方のないことですが、それでもどこかで布教やお布施の強要などを見直して、地域の健全なコミュニティを目指すような組織のある方に目を向けてほしいなと願ったりもします。

Challengerって表現、いいですね。自然体でいて、それがそのままChallengerな生き方になっているんですものね。私の目に焼きついて「able」の映画のシーンを思い返しても、とてもマッチします。彼らの心は老いることがないんじゃないかとさえ感じましたよ。これからもよろしくお願いします。

61アネモネ:2002/07/04(木) 09:31
つまけんさん

>妻は映画を見たようで、その後の彼女には少し変化を感じます。

そうですか。羨ましい。一緒にご覧になれれば良かったですね。私は先日この映画のことを知ったときには、すでに近くでの上映が終わってしまってました。なんとか実家に帰ったときなどを狙ってぜひとも観たいと思ってます。
解説にもありますが、「彼は瞬間を生きるのがすごく上手だ」という表現が出てくるんです。ドキュメンタリーですから、つくられた演技ではなく、自然体の彼らの一瞬一瞬が写し出されているんですね。こんなふうに瞬間を生きられない私たちのほうが、本当は心の障害者なのかもしれないって確かにそう気付かされます。そういうメッセージ性のある映画でした。
でも、毎日をともに生活していると、そういう大事なことは見えにくくなると思います。家族のかけがえのなさって、近くにいるときには別段感じないものですよね。くだらないことで喧嘩ばかりしてたりして。でも遠く離れてみると、実感するもんです。一番心配してくれてるのは家族だなぁって。あまりに近すぎて、大切さが感じられない。それと同じじゃないでしょうか、きっと。


>つまけんが顕正会に入会したのは、「内緒で顕正会に入会してしまったが、
不安、恐い、できればそばにいて欲しい」という妻の気持ちを感じたからです。

奥様の内面は、このときから既に変わり始めているんじゃないかと思います。自分が抱えている心の寂しさを、他の誰でもないご主人が察知してくれたことは、何よりも嬉しいことだと思います。


>恥を晒しますが過去においては感情を抑えきれずひとりで物に当り散らしたこと
何度もあります。つまけんは宗教が大嫌いでしたから(すみません)、

宗教が嫌いというのは、今の時代ごく普通の感覚ですよ。私はむしろ、宗教組織に依存してその価値観だけで生きてしまっている人のほうが、普通の感覚を取り戻したほうがいいと思っています。少なくとも人に対して「地獄に堕ちるよ」と言える神経は普通じゃないですね。
「地獄に堕ちるよ」と言われた側は、気の弱い人ならものすごく気にして不安な心理状態にされてしまうかもしれません。その不安は脳に伝わって、なんらかのホルモンを分泌させるわけですから、そんな状態が続けば身体に悪影響を及ぼすとも限らない。「地獄に堕ちるよ」と不安を煽る言葉が、善良な人間の情緒を不安定にさせ、心身に支障をきたす結果を招くものなのではないかと。そういうことは、普通の神経の持ち主であればとっくにわかっていることですね。だから人に向かって言ってはいけない言葉だと心得て社会生活を送っているものだと思います。だけど宗教の世界の価値観になってしまうと、そういう良識が全く無視されて、言ってはいけない言葉が平気で用いられるわけですから、一般社会で概して宗教が敬遠されてしまうのは当然のことだと思います。


>従って彼女が私に内緒で入会した事自体は、当初は離婚覚悟だったと思います。
いまは彼女をそこまで追い詰めたのは私=つまけんであることを痛感しています。
彼女が夫の事をもっと信頼していれば、入会前に相談したはずです。
彼女が顕正会に入会してしまう前につまけん自身がすべき事たくさんありました。

ここに書いている心情を、そのまま奥様に伝えてあげてほしいなぁ。とっくにそんなご主人の気持ちには気付いているかもしれませんが、ちゃんと言葉にして伝えることは大事で、たとえば電話でもいいし、手紙でもいいし、メールでもいいし。そんななにげないご主人からのねぎらいやいたわりの言葉が、奥様の心の空洞を埋めていくものなんですね。
わかったようなこと書いてしまったかもしれません。気に障ったらすみません。

62つまけん:2002/07/04(木) 12:36
犀角独歩さん
「宿命について」のスレッドですが、一月くらい前に拝見しています。
プリントして、持っています。
特に、独歩さんがスレッドの中でお示しになった、学会の古い折伏経典について
印象に残っています。焼き鳥屋さんを経営する学会員の方とお話した時ですが、
「あなたは(十界の中では)餓鬼界にいる・地獄よりマシ」と言われたことを
思い出してしまいました。
------------------------------------------------------------------
地獄界――不具者、病者、狂人、ルンペン、邪宗教の坊主及び信者
餓鬼界――下級労働者、衣類住居まではとても手が届かず、毎日毎日の生活が
     食を得る為に働いているような人々。アルコール患者。拝金主義者。
     性格異常者。
畜生界――パンパン、不良、泥棒、スリ、その他犯罪者。兵隊、警官、拳闘家、
     将棋、碁を職業とするような、人と争う人間。
人間界――普通平凡に生活している市井人。
天界―――大金持、元の皇族、貴族、一国を動かしている大政治家、経済家、
     偉大な軍人等々。
声聞界――学者、研究家、学生等。
縁覚界――二宮尊徳の如く広く社会を利益した者。偉大な発明発見により広く
     社会を利益した者。例えばエジソン、ワット、湯川秀樹博士、支那に
     生れた孔子等。更に仏法を広め、衆生に救を与えた人々。
仏 界――日蓮大聖人(御本仏)、釈迦(迹仏すなわち影の仏)、天台(迹仏)、
     伝教大師(迹仏)等。(創価学会『折伏経典』42〜44頁)
------------------------------------------------------------------
お店で、ビール飲んでいるときにいわれました。
ご本人は40年くらい前から学会員ですので「人間界」(笑)5年前のことです。
美味しい焼き鳥屋さんで、今でも通っていますけど、今はそんなこと言いません。

63つまけん:2002/07/04(木) 13:04
アネモネさん

>宗教が嫌いというのは、今の時代ごく普通の感覚ですよ。
じつは、「自分は宗教が大嫌い※だった※」などと書いてしまったので、
出て来にくくなっていました。助かりました。いまは宗教は嫌いでなく
お釈迦様の「八正道」を見ながら、「考える人」してます。
難しいことはわかりませんので、自分の都合の良いように解釈してます。

64つまけん:2002/07/04(木) 13:14
>62の訂正です
一月くらい前→先月中頃
40年くらい前→子供のころから
どうも、この頃時間の感覚がずれてますね

65五月雨:2002/07/04(木) 15:58
アネモネさん
 レス有難うございました。同じ関西人なのですね。今後ともよろしくお願いします。
アネモネさんは、入信してたった八年なのによく気付かれましたね。私なんか二十年もかかりました。組織の人達が、言われたという言葉を私もよく言ってました。当然だと思って。「地獄に落ちる」なんて平気に口にしていました。今、冷静になって思い返してみると、何て事を言っていたのだろうかと、冷や汗が出てきます。昨日も、同じ講の人と話していて、学会をダニ呼ばわりしているのを聞いて、とても嫌な気がしました。知らず知らずの内に、慈悲の仏法の実践をしているはずなのに、心の中は憎悪で一杯になっているのです。大聖人様が遺された教えは、人に対して憎悪を燃やす事では無いと思いのです。それが一体何なのか模索しているところです。
アネモネさんは、まだお若いのに随分先の事まで、考えられているのですね。「老いた時」の事を。
私は「老化」を感じる歳のくせに、あまり先の事は考えていません。長く生きられないだろうと思っているので無頓着でした。でも、老いた時に信心を基本概念もった人が集まってのコミュニティというのもいいですね。助け合いの精神で、最後まで他者への思いやりを持ちながら過ごす。理想です。

Challengerという表現に、ご賛同有難う御座います。私も初めてこの話を聞いた時、なるほどと思いました。障害者への理解は欧米の方があるようです。

66つまけん:2002/07/04(木) 15:59
五月雨さん
はじめまして、つまけんともうします。
>スギケンのホームページ
http://web.kamogawa.ne.jp/~sugimoto/index.htm
拝見しました。ありがとうございます。
息子が2年位前虫歯の治療をしたとき全身麻酔で3時間位かけて一気に行ったこと
を思い出しました。虫歯くらいでなんでこんなことに・目を覚まさなかったらどうしよう
と心配しましたが、治療前には先生自ら病院の中を1時間も子供と散歩してくださり、
おかげで無事に治療も終わり、私の病院に対するイメージは大きく変わりました。
大学病院のお若い先生でしたが障害児専門でいらっしゃいました。
先日もひどい嘔吐がありましたので息子を連れて家族で行って来ました。
車で片道1時間半。遠いです。スレッドとあまり関係ない話ですみません。

67五月雨:2002/07/04(木) 16:31
つまけんさん

レス有難う御座います。虫歯の治療、大変でしたね。でも心有るお医者さんで良かったですね。
一生医者の世話にならなければならない私達には、良い医者との巡り合わせというのは、良い信仰との巡り合わせ以上のものがあるような気がします。

68犀角独歩:2002/07/04(木) 21:34

つまけんさん:

> 宗教嫌い…

私は、つまけんさんの妻子を思われる気持ちは、まさに宗教そのものであると思います。ただし、宗教団体の論理ではないのでしょう。常々記しているのですが、宗教団体依存から卒業し、各人が自分の責任の許に宗教に目覚める時が、これからの時代であると思います。いわば、自分自身の宗教ですから、自分の等身大でよいわけですし、自分のためのオリジナルでもよいのでしょう。

特定の団体、特定の教義によらなければ地獄に堕ちるなどという虚(うつ)けた主張をする団体と個人の、そんな情けない発言こそが、地獄の相(すがた)を表すものであると笑い飛ばし、さて、聖人の祖意はいずこにと知り、そして、その祖意に固持しようなどと思わず、自分にとっての日蓮、自分にとっての宗教という個人の和が大きな仏教、あるいは宗教という総和になっていけばよいのだと思います。その中に「宗教は嫌い」という主張があっても何ら不思議はないと思います。

私は経験的に、宗教嫌いを自称する人の中にこそ、真の宗教というべきものを見てきました。

余談ですが、あの『折伏経典』、いまでは間違いなく発禁になるでしょう。まったくひどい内容ですね。しかし、言葉の表現を以下に変え、抑えようと、その根底に渦巻く他者蔑視を超克できたかと言えば、それは現在の学会員一人ひとりの言動、殊に石山やら、顕正会に対する発言を見ればわかるのでしょう。これはまた、顕正会とて同様です。石山も同様ですね。

世間一般はみんな同じと思っています。信者は「わかっていないからだ」と、こう操作されていますが、わかっていないのはメンバーのほうであるという恥ずかしさから、私は、ここに書いてきました。

各人が団体のために弁明する必要もないし、代わりに戦争する必要もないわけです。
道具にされない賢明な個人となっていくべきなのでしょう。

もちろん、功徳を得た、感激があった、生き甲斐を見いだせた、そんな実感があるから、信者は組織に依存するのでしょう。でも、よくよく詮じ詰めていけば、その利益を与えてくれたのは、実は組織ではなく、日蓮その人であり、そのお曼荼羅であり、その教義であったはずです。そして、お題目を唱えるという個人の努力であったのでしょう。

それなのに、教祖、ひいては仏教が与えてくれた利益を、「組織による」とすり替え、個人が唱えたお題目の功徳を「組織による」とすり替える仕組み、これが第三者心理操作ですね。

この心理的プログラムを見極められるとき、はじめて組織を介さない日蓮への思いが生じるのですよね。いわば直接、日蓮と会話することができるようになるのでしょう。

熱中しているメンバーに、この仕組みを理解させることは難しいかも知れません。でも、それを理解させてあげられるのは、慈悲の意味を探求し続ける、もっとも身近な一人の努力に負うしかないのですが、実は脱却以後の長い、ほんとに長い戦いがあることを十分に承知しなければならないのも事実ですね。

脱却は、ほんの入り口に過ぎないわけです。
いずれにしても、脱却も脱却後も、仕組みを充分に理解する“技術者”でなければ、正確な誘導はできないものです。たしかな誘導者になれる知識と技術の習得が必要なです。ご健闘をお祈りいたします。

69アネモネ:2002/07/08(月) 09:59
つまけんさん

>お釈迦様の「八正道」を見ながら、「考える人」してます。

「考える人」いいですね。
私は法華講をキッカケにはじめて仏教に触れましたが、そのことはすごく意義あることだったと思ってます。数年かけて所属した組織が一面でカルト的な教団だったということがわかりましたけど、自分自身がカルト的思考に陥らないように、この小さな頭で「考える人」であろうと心掛けてます。

>難しいことはわかりませんので、自分の都合の良いように解釈してます。

私もです。自分にとっては何が大切なことなのかを見出していこうと思ってます。

70アネモネ:2002/07/08(月) 10:00
五月雨さん

>アネモネさんは、入信してたった八年なのによく気付かれましたね。私なんか二十年もかかりました。

たぶん、まだ八年だったから早々に気がついたのだと思いますよ。むしろ20年組織にいらした五月雨さんが意識を変えることが出来たことのほうが、ものすごいことだと思います。
最初の2年くらいは私も熱中した信心に傾倒してましたが、私自身が俗世間との関わりを断ち切ることがなかったことが、おかしさに早く気がついた要因だったかなと思います。お寺では、それを「世法に染まる」と非難するものですが、それこそが心理操作なんでしょうね。
社会との関わりを遮断して、長期間にわたって洗脳され続ければ、私とてカルト的な思考からはなかなか抜けられなかったことでしょう。
専業主婦で、なおかつ宗教組織での人間関係しかない人は、おかしさに気付くことも出来ず、抜け出すことは大変なことだと思います。


>アネモネさんは、まだお若いのに随分先の事まで、考えられているのですね。

いえいえ。もう人生の折り返し地点に突入しようとしてます。
たまたま、地域の高齢者の方とお話する機会が多いんですね。関東近郊のこのあたりでは一人暮らしの高齢者が増えていますね。私にとっても、将来向き合う自分自身の問題でもあるんですよ。
組織依存とは、孤独なおばあちゃんたちにとっては、家庭のような拠り所でもあるんだろうなと思います。だから「まやかし」を認めない道を選ぶでしょうね。
カルト問題の解決には、社会的受け皿も必要になってくるのかなぁと、素人感覚で思ったりもします。
本当は、組織自らそのことに気付いて、自浄努力でもって健全な組織になってほしいと願ったりもしましたが、残念ながらとうていそれは望めないことのようですね。

71新橋ボンボン:2002/07/08(月) 19:14
ぼくはなんだか、文句を言いながら、それでも、組織から抜けられない、矛盾を変に思う。
おかしいと思えばやめればいいんだ。そうすりゃ、もう、無関係。
席があれば、連絡するのは、役を持った人間にとっては義務だもん。
上のほうで一字三礼さんという人が、人をだまして、信じることを進めんのは変て、書いてあったけど、おんなじだよ、いるなら出るか、改革する。いやならば、やめればいいだね。
組織を拝んでるんじゃないと書いてたのは独歩さんて方だっけ? 賛成!
組織がなくても信心はできるよ。ぼくはどこにも所属しないで、あっちこっちの坊さんの話を聞きに行ってるよ。なんだか、みんなおんなじようなことばっか、いっているけどね(爆)

72アネモネ:2002/07/08(月) 20:39
私のところにはほしろ幹部の方からは、お電話もなければ家庭訪問もないですね。役のある方の義務ならば、入れ替わり立ち代りいろんな人に押しかけられるよりは、代表して幹部の方が来られるほうが、私もよほど助かります。一度で済みますからね。
けど、組織を離れたって家庭訪問や電話はやめないでしょう。破門した学会の人のところに行ってるくらいですから。

73アネモネ:2002/07/08(月) 20:41
訂正
〔誤〕ほしろ幹部の方からは→〔正〕むしろ幹部の方からは

74五月雨:2002/07/09(火) 12:19
アネモネさん
 <<たぶん、まだ八年だったから早々に気がついたのだと思いますよ。むしろ20年組織にいらした五月雨さんが意識を変えることが出来たことのほうが、ものすごいことだと思います

うーん、そうなのかもしれませんねぇ。最初から変だなという気持ちがあったのに、20年の歳月がかかったのは、罰が当たる・地獄に落ちるの二文字にがんじがらめになっていたのでしょう。アネモネさんのご指摘のとおり主婦の世界は狭いので、そこからはみ出す事は中々です。
活動しないと「子供に現証出るよ!」とか「信心は馬鹿になった方が勝ち」とか言われ続けての20年間でした。でもその歳月は無駄になってしまいました。今は、その歳月を取り戻そうと色々と考えています。
 「世法に染まる」との非難があるそうですが、こちらでは「信心が無い」という言葉での非難があります。信心のバロメーターでもあって、それがあんたに見えるんかいとツッコミタイ事が何度あったか。「世法に染まる」って「何色に?」と聞いてみたい衝動にかられるのは、関西人だからでしょうか。

アネモネさんは疑問解決の為に、何か本を読んだりしていますか。お奨めの本がありましたら、教えて下さい。

75:2002/07/09(火) 23:19
     
     スレッドのテーマと関係無さそうなので、ヒソヒソ声で発言するでげす。
  
     アネモネさん、つぶやきスレッドの書き込み、読んでます。
     がんばってカキコしてください。

     五月雨さん
     「子供に現証出るよ!」とか「信心は馬鹿になった方が勝ち」、そーゆーこと言われたんですか。
     宗教教団って、表向き、なんだかんだキレイゴトばっか言ってますけど、
     裏では、そーゆーことを言って、人の心を縛りつけているのですね。
     あちき、S教団出身ですから、あの教団なら、そーゆーこと言うな、っていうのは、わかります。
               
     罰が当たるだの、地獄に落ちるだの……、クソー!!!

76犀角独歩:2002/07/10(水) 08:29

新橋ボンボンさん:

読み落としていました。私に賛同の意見を書かれていたのですね。有り難うございます。
なんだか人にけんかを売っているような文章(失礼/笑)ですが、私はあなたの仰ることはわかります。またしかし、やめられない人の心理もわかります。

私自身、脱会を決意してから、実際に届を出すのに10年を要しました。そのころの自分を自己分析しながら、種々、ここに書いてきたのです。組織をやめられないのは、たぶん、信仰という善の面に分類される価値観が、組織に対する依存を形成しているからであろうと思います。しかも、これは信仰的な見直しによっては、実は改善されないという側面をもっています。

ところが種々の形で現れる組織への不満…絶対であるといわれたはずが必ずしも絶対ではなかった、教義、組織運営、人間関係など…から、組織への不満が膨らみます。ついで、人はその不満を持っている自分自身の説明原理を考えることになります。一つの解決策として、より満足のいく組織への移動という非難行動を取ることもあるでしょう。

けれど、これでは、何も根本的な解決になっていません。いつしか、また、不満が噴出します。この不満は組織の不完全さなど、妥当性をもっている面はありますが、もう一面、その不完全な組織に居続ける理由については考えられません。しかし、この点こそ、実は重要なのだと思います。その意味において、あなたの指摘は実は的確なのかも知れません。

不満を持ちながら居続ける心理、結局これは“依存”という、本来の仏教が、そこからの脱却を教える心理要因が解決していないことを意味しているのであると、私は思います。この部分こそ、実は解決しなければ、真の安穏は訪れないのでしょう。

77問答迷人:2002/07/10(水) 11:13

皆さん、ご無沙汰しています。

近況報告を兼ねて、少しだけレスします。今日は台風で仕事のキャンセルが入って、時間が取れました。

去年は、法華講組織の中にいて、中心的な役職を持って活動していました。そして、改革したいと思って少し頑張ってみました。次々と疑問点を役員や御住職等に投げかけました。結果は、「宗門の方針と違うから、もう、君に役をやってもらうことはできないから降りてほしい」、と言われてしまいました。

お陰で、今は、何の組織的な束縛もなくなりました。自由にお寺に参詣してますが、誰からも、どうせよ、ああせよ、という声は一切掛かりません。御住職も、顔をみても、「仕事はどうですか」程度の話だけで、30万はおろか、登山のとの字も僕には言いません。気楽ですよ。組織の中にいる束縛される感覚は、現在は全然ありません。

とりあえず、当分は、こんな形で、日蓮聖人の教えを求めて行きたいと思っています。

それから、一講員さんから、依頼のあった、掲示板のチャートの件、少しずつ作業をはじめています。やはり、とりあえず、半月から一月ぐらいは掛かりそうです。仕事の合間、合間に、がんばって作っています。

78:2002/07/11(木) 01:44

犀角独歩さん
   深い、深い御意見っす。

問答迷人さん
   お久しぶりっすー!!!

A「課長、近頃、仕事に意欲が無くて……」
B「意欲が無いのか。お前みたいなヤツ、会社やめちまえ!」

A「女房が宗教やってるんだよ。オレ、宗教嫌いなんだ」
B「そんな女、離婚すりゃいいだろが!」

Bさんの言い方が乱暴だというのは、誰でもわかりますよね。
Bさんみたいに「活動しないヤツは信心が無い」と言って、信者を切り捨ててきたのが、宗教教団なんだ。
「イヤなら教団ヤメロよ」というのは、そういう宗教教団の言い方の、裏返しの言い方ではないのか?

白黒2元論はカルトの始まり、というコトワザがある……(?)
2つに1つ、そのどちらかを選べ、ということ自体が、おかしいのではないのか?
そんなに簡単に選べないから、これまで、この掲示板で、スッタモンダ話し合ってきたのではないのか?
新橋ボンボンさんのおっしゃり方に、傷ついた人がいたのではないかと、心配になっています。

79犀角独歩:2002/07/11(木) 04:16

あ さん:

どうも。

でも、私は新橋ボンボンさんもさりげなく簡単に書いているけれど、このような結論になるまでに、長い苦しみがあり、たくさんのことを乗り越えてきたのではないかと思うんですよ。ただ、私も含めて「言い方」にはお互い注意したいと思います。

まあ、そんなルールは守って、新橋ボンボンさんも、気軽に議論に参加されればと思います。

それにしても、あさんの、ステレオ・タイプに関する視点、ほんとにそのとおりであると思います。

80五月雨:2002/07/11(木) 09:54
あ さん
 私が組織の中で言われ続けてきた事は、やはりかなりヒドイ事だったのですね。とはいうものの あ さんの驚きのコメントを読んでその重大さに気付きました。コンナコトイワレタッケと何気なく書いたけれど、事の重大さに気付かなかった自分はここまで鈍感になっていたのかとショックを受けました。入信する時に姑が「罰が当たるような信心はせん方がええよ」と言ったのが何よりの真理かも知れません。“忠告も聞かず悪い嫁でした、お義母さん。”と謝りたい気分です。

新橋ボンボンさんのレスは、誰に言われたのか想像はついても誰宛でなかったので、何も言いませんでしたが、はっきり言って傷付きました。猊下を呼んでカマシて頂きたい気分でした。でも あ さんが的確なご意見を言って下さり救われました。この二日間何だか嫌な気分で過ごしてきたのですが今日は良い一日が送れそうです。有難うございました。

81アネモネ:2002/07/11(木) 11:56
五月雨さん

>信心のバロメーターでもあって、それがあんたに見えるんかいとツッコミタイ事が何度あったか。「世法に染まる」って「何色に?」と聞いてみたい衝動にかられるのは、関西人だからでしょうか。

ほんまやわ。さすが!するどい。

>アネモネさんは疑問解決の為に、何か本を読んだりしていますか。お奨めの本がありましたら、教えて下さい。

いやー、本を読んでいない自分に気がつき、あせりました(汗)。
疑問解決の為に読んでる本て何やろうと、いろいろ思い返しているうちにすっかり書き込みが遅れてしまいました。ごめんなさい。

実は入信するときに最初に読んで、今でも繰り返しよく読む本は、創価学会が版元で出した青少年向けの訳がついている「立正安国論」なんですね。白文は当然読めませんし、下し文でも意味をつかむのがおぼつかないので、私が読むのにはちょうどこの本が良かったです。本当はここに書くのは大変おこがましいので、書こうか書くまいか悩みましたが、でもまぁ実際に迷ったときにいつのまにか開いているのはこの本なんですね。
最近では、下し文のほうでも段々と読めるようになってきまして、創価学会の訳と対比しながら「これはもしかして心理操作してるんとちゃう?」なんて面白いことに気がつくとこともあったりしますよ。でも仏教をきちんと学んでだ上で読んでおられる方からみれば、「立正安国論」の何がわかってんねんって叱責されそうですが‥(冷汗)。

そういうことはともかくとして、なぜ仏教を知らなかった私が「立正安国論」にストレートに感動を覚えてしまったのかなぁと、ちょうど良い機会なので自分なりに分析してみました。入信前からの私のものの考え方によるところが大きいのではないかなと思ったんですね。
自分自身の人生をずっと遡って、ものの考え方の土台になっているのは何かというと、こちらの過去のレスにも書いていることなのですが、私はもともとはクリスチャンだったのでどうしても聖書の言葉かもしれないなと思うんですよ。(これも冷汗)
ちょっと余談ですが、よく考えてみると、私、教会にもまだ籍が残ったままなんですよ。御受戒のとき気にはなったのですが、「十年以上も行ってないなら、わざわざ届を出すこともないですよ」なんて言われたのをいいことに、籍のある教会は関西で遠いし「まぁ、いっか」と、結局今もそのままになってます。随分といい加減なもんです。
それはそれとして、もちろん今は、天地創造の神がいるなんてとうてい信じてないですよ。ただ正直なところ、聖書の言葉はやっぱり今でもどことなく染み付いているんですね。これはどうしようもなく私の考え方の原点になっているようです。たぶん、払拭しきれないキリスト教的思考でもって、日蓮正宗や法華講をみてきて、いろいろ違和感を覚えたんだと思います。もちろんキリスト教がいいわけではないんです。私自身、キリスト教とてそんな深い教義を勉強したわけでみありませんし、ただ、少なくとも教会の中では、足の引っ張り合いや、強い上下関係はなかったんですね。組織のトップへの絶対服従みたいなのもなかったですしね。
というわけで、同じように「立正安国論」についても恐らく私は、キリスト教的思考でもって読んでいるんじゃないかなと思いますね。説明になってないかもしれませんが‥。
そのうえで非常に共鳴を覚えたの本がありまして、ずっと前にどこかのスレッドでも書きましたが、無教会派クリスチャンの内村鑑三が書いた「代表的日本人」の「日蓮上人」です。

入信した頃は随分自分の中に染み付いたキリスト教的なものを排除しようと努力したんです。だけども、今はそういう今ある自分を否定しないことにしました。変に無理をしても結局ひずみみたいなものが出てしまう気がするんですよ。だから、私は五月雨さんの二十年間についても、全てを否定することはないと思うんです。まやかしの多い指導の中からも、何かしらつかんでいらしたからこそ、またそのまやかしにも気付かれたのでしょうし、私のまだまだ知らない仏教に、長く親しまれていた期間なのですから。貴重ですよ。
失敗のない人生なんてあり得ませんし、それより失敗を繰り返さないことがより大事で、もっと大事なことは失敗を恐れないことじゃないでしょうか。それこそ「Challenger」ですよね。そう思えば、人の失敗にも寛容になれるんじやないかと。なんか偉そうですが、これは自分に言い聞かせる意味で書いてます。

82アネモネ:2002/07/11(木) 11:57
(つづき)
とはいえ、聖書も内村鑑三もあんまり推薦するわけにもいかないので、もう少し考えてみました。
ここ最近で自分の意識変革に最も役立ったものは?と考えてみると、実は書物ではなくて、NHKで放映された「ギリシャ文明」というアメリカで制作されたビデオなんです。古代アテネにおいていかに民主政治が発生していったのかという流れを、学者の解説を交えながらとてもわかりやすく構成されたものでした。今にして思うと、このビデオには非常に影響を受けてしまいました。特に最後に出てくるソクラテスの「精神の世界」というのにすごく感銘を受けましたね。「考える」ということを大事にすることは、人間が本来持っている「理性」を導くことであるといったことを、ソクラテスが国法に従って処刑を受け入れることでもって民衆に示すんですね。考える自分であろうとするってこと、このビデオを観てから特に強く思うようになりました。
やや誇張した表現になりますが、そこに写し出されたソクラテスの考え方や生き方の中にも、日蓮聖人を見る思いがしたんですよ。このビデオが示すもっと奥深い本質をつかむためには、プラトンが書いた「ソクラテスの弁明」を読むのが一番いいのでしょうが、私にとっては難しそうなのでまだ読んでないです。いつか読みたいと思ってますが。
そしてそのビデオを観たのとちょうど同じ頃に、こちらの掲示板にも参加させてもらいにがら、自分の意見も書いたり、また反論も頂きながら、ひとつひとつお寺のことを知って、段々と目が開かれた感じがしますね。こちらの掲示板は本当に感謝です。

今、問答迷人さんがこれまでの議論から導かれたことをチャートにして下さっているそうですが、それ、すごくいいなぁって思います。お寺の人の中でも、私の疑問などを一緒に考えて下さる方も幾人かいるのですが、近い将来チャートが出来たらプリントアウトしてお渡ししたいなと思ってます。私自身の頭の中も整理されるでしょうしね。

長くなって申し訳ないですが、最近読んだ本についていえば、このスレッドに前にも書いた「差別と仏教〜摩り替えられた釈迦の教え」(亜紀書房 河合廣仙著)です。
それからもう一冊。五月雨さんは既にご存知かと思いますが、脳障害の詩人・日木流奈くんが書いた「ひとが否定されないルール−妹ソマに残したい世界」(講談社刊)、これは目から鱗でした。彼の言葉の使い方がすごくチャーミングなんですね。ちょっと抜粋します。

「私は言葉に自分の心を乗せ続けました。それは詩となって現れ、私は私が伝えたい想いをただ楽しんで語り続けました」

「どこにいても<自分の思い>がどこにあるかを問うて生きたとき、どこにいても、だれといても、心が平安になると伝えたいのです」

一歳に満たない妹のソマちゃんが、食べ物をグチャグチヤにしたり、物を投げたりしている姿について、「実験に忙しい」と表現しているんですが、どこを読んでも流奈くんの観察眼とか感性とか表現力はただならないなぁと思いました。
実はこれNHKスペシャルで観たのがキッカケで知った本なんですよ。ひないだの「able」もそうですが、私はとにかくテレビをよく観てますね。もしかしたら、結局テレビが疑問解決のツールだったのかな?なんて思うくらい。でもこれも心理操作される危険性を孕んでますし、うーん、なんか参考にならなくて、ごめんなさい。

でも、五月雨さんはお姑さんが近くにいらっしゃるのですね。もしかするとどんな書物よりも、親身になって心配してくれている身近な人のさりげない言葉こそ、大きいかもしれないですね。苦言は特にそうかもしれません。そのときはムッとしても、後からその言葉の重みに気付くこと多いですね。

83アネモネ:2002/07/11(木) 12:08
あ さん

はじめまして。アネモネです。
あ さんのカキコ、うまいこと書いてるなぁと、私、唸りました。
それから、心温まるヒソヒソ声聞こえました。励ましてくれて嬉しかったです。ありがとうごさいます。

84問答迷人:2002/07/11(木) 14:26

アネモネさん お久しぶりです。

掲示板ご参加の皆さん こんにちは

一講員さんから提案のあったチャートの件、掲示板を覗いてくださる方の便宜の為に作りたいと思っています。なるべく、単純、明快なものにしたいと思います。今は、資料整理してますので、出来上がりについて、こういうものがほしい、というご意見があれば、皆様のご意見を承りたいと思います。よろしくお願いいたします。

85問答迷人:2002/07/11(木) 14:35

あ さん

僕も、創価学会、そして法華講という団体に所属してきて、カルト的思考に慣らされてきました。いま、組織活動の責任から一切開放されて、晴れ晴れとした気持ちです。

>2つに1つ、そのどちらかを選べ、ということ自体が、おかしいのではないのか?

とのご指摘、僕もそのとおりであろうと感じます。思考方法にまで、カルトの影響が染み付いているかと思うと、ぞっとしますね。折々にお気づきの点、その都度、ご指摘いただけるとありがたいです。今後とも、よろしくお願いいたします。

86犀角独歩:2002/07/11(木) 17:29

「生活上の決定はほとんどリーダーが行っていた。メンバーは、自己を捨て、従順であるようにすすめられていた。こういう形の依存症は、その人の自己というものを低く評価させ、その人が個人として発達しようとする願望と能力を妨げる」(マインド・コントロールの恐怖 P309)

87犀角独歩:2002/07/11(木) 17:53

一字三礼さん、皆さん:

○服従・代理状態、責任の喪失。そして権威。さらに緊張(服従の心理から)

【服従】服従は、不平等な人間関係から生じ、かつそれを存続させる。したがって、その究極の表現において、ファシズムの理想的な規制メカニズムである。人間の不平等を基礎としている政府の哲学が、服従の絶対的美徳に高めるのは、論理的以外の何ものでもない。服従行動は、ヒエラルキー社会構造の情況のなかではじまり、その結果、上位の者と下位の者とのあいだで行動が区別されるようになる。上位グループと下位グループの概念を強調し、さらに、ブーツをカチッと鳴らして即座に命令を遂行する迅速かつ印象的な誇り高い服従を重視することが、第三帝国のトレード・マークであったのは、偶然ではない。

【最初の社会関係】服従 児童発達の研究者たちがずっと以前から認めているように、『最初の社会関係は、権威の指示を認識し、それに屈服する関係である』(イングリッシュ、1961)

【指導者と服従】服従の心理は、より大きなヒエラルキーのなかで、その単位がどの位置に配置されるかには左右されない。忠実な国防軍(ヴエールマハルト)の、アドルフ・ヒトラーへの心理的適応は、最下級の歩兵の情感への心理的適応と相等しく、組織を通じてそれは同じである。最高の指導者の心理だけが、別の説明原理を必要とする。

【服従の本質】個人が自分を他の人の要望を実行する道具と見なすに至り、したがって、自分の行動の責任が自分にあると思わなくなることが、服従の本質である。


【代理状態】権威組織にはいった個人は、自分自身を自分の目的のために行動しているのではなく、他人の要望を実行している代理人と見なすようになる。ひとたび個人が自分の行動をこの観点から考えるようになると、彼の行動および内的機能様式に深い変化が起こる。この変化はきわめてはっきりしているので、個人は、この態度の変化によって、ヒエラルキーに組込まれる前にいた状態とは別の【状態】におかれたのだと言うことができよう。わたしはこの状態を【代理状態】(agentic state)と呼 ぶことにする。それは、個人が自分自身を他人の要望を遂行する代理人と見なしている状態である。この用語は、【自主性】、すなわち、個人が自分自身を自分の意志で行動している見なしている状態と対比して用いられるよう。

【責任感の喪失】代理状態のもっとも重大な結果は、個人が自分の指図している【権威に対して】は責任を感じるが、権威に命じられた行為の内容【については】責任を感じなくなるということである。道徳は、消滅するのではなく、根本的に違った点に集中される。従者が感じる恥や誇りは、自分が権威に求められた行為をどれほどうまくやったかということで決められる。

【権威】権威とは特定の状況のなかで知覚された社会的コントロールの起点である。その状況が、当該の権威になじむと見なされる命令の範囲を限定する。一般に、コントロールをする人物の機能と、彼が出す命令の性質のあいだには了解可能な何らかのつながりがなければならない。

【服装】ある与えられた場面における権威を知らせるために服装が使われることが多い。
【緊張】緊張は、二つまたはそれ以上の対立する反応傾向が同時に存在しているために生じると考えられる。
    理論的にいえば、自立的に機能できる存在がヒエラルキーに組み込まれたときには緊張が生じやすい。
    緊張の徴候はすべて、権威が個人をまざりっけのない代理状態に移すことができなかったことを示す証拠である。(以上、ミルグラム著『服従の心理』からの抜粋)



組織に違和感を感じ、かつ、そこに居続ける方々は、権威者からの服従に屈しない心理状態にあるといえるかもしれません。この場合、その心理的な特徴は上述の緊張となって現れていることが多いのではないでしょうか。

しかし、反面、実際に脱会をし、その組織に抗しようとする人から見ると、いまだ責任の喪失と捉えられる特徴を引きずっていると見られるところがあるかもしれません。(これは批判ではありません。客観的な観察です)

私の知人である、オウム脱会者の一人は、幹部にまで昇り300人もの勧誘を行いました。彼は脱会後、自分が勧誘した一人ひとりの家を回り、組織に残っているメンバーの脱会を勧めて歩きました。筆舌に尽くせない家族からの罵倒を受けながら、彼は実行しました。彼は信者ではない、自分自身を取り戻すと共に喪失していた責任を果たすために、その苦難を忍びました。

88犀角独歩:2002/07/12(金) 00:27

自分が信仰であると思っていることの大半が、心理的操作に関わることであるという現実を受け入れることは困難なことなのでしょうね。

89五月雨:2002/07/13(土) 20:53
アネモネさん
励まして頂きまして有難うございます。どうしても性格上過去の事にくよくよしてしまいます。でも“ホンマにドアホ”な事ばかりしてきたものだから、ついつい愚痴ってしまいます。申し訳ないです。ここにひとつ懺悔して、忘れたい事があります。実は、聖教新聞は池田先生のお手紙だから、十年配れば宿命転換出来る、なーんてたわ言を信じて六年半も配っていました。ホントにアホ丸出しです。その他世間に迷惑かけた数々の選挙違反等々お詫びしたい気持ちです。その時は真剣で、間違っているとは露知らずでしたが気付いた今、顔から火が出るどころか、炎がボーボー出ている感じです。アネモネさんは最初から法華講に縁されて幸せでしたね。組織の論理が国法に勝ると思った事はありませんでしたが、結果的にそうなっていました。独歩さんが引用されていたミルグラム著『服従の心理』は全くその通りだと思います。自身の頭で考えている気で考えていない恐ろしさ。それに気付かない怖さ。実感しています。
本もいろいろとご紹介していただきまして、有難うございます。捜してきて、おいおい読んでみたいと思います。ルナ君の本は立ち読みしました。大人の書いた前書きが随分長いなと相当読んだところで、本文だったと気付きびっくりしました。ものの取りようは十人十色ですね。「ギリシャ文明」に興味は無かったのですが、今度放映がある時は見てみます。
親の説教と何とかは後から効くという諺があった様に思います。二十年たって効きました。
遅すぎですね。でもそういうひと言があったから、全ての疑問の取っ掛かりになったのかも知れません。

90犀角独歩:2002/07/13(土) 22:14

私の尊敬する精神科医・高橋紳吾師の名言(1)

・考え方からの脱却の困難さ
 人がなにかを信じるということはとてつもないエネルギーを必要とするものであるが、その信じていたものを捨てるという作業は、さらにその何倍もの労力を必要とするのである。もっと正確に言うと、なにを信じていたのかが問題なのではなく、獲得されたものの考え方(思考パターン)が癖になっていることが問題なのだ。この歪んだ認知、すなわちカルト根性から自由になること、これがしばしばひどく困難のである。(『超能力と霊能者』岩波書店 P195)

・宗教家の真偽
 むかしから真の宗教家とにせの宗教家の区別がさまざまに試みられてきた。はっきりと区別することは困難だというのが大方の結論である。しかし大まかに次のような区別が可能となる。高い支配性や野心的な言動はにせ預言者の印である。それは自尊心と周囲からの認知・尊敬にたいする欲求に由来するからだ。それらは、しょせん哺乳動物の縄張り意識と、霊長類の支配−被支配の関係が変形したものにすぎない。(同 P127)

・信教の自由の矛盾
 考えてみると、信仰者は熱心であればあるほど自分の信仰する意外のものを認めず、他宗教を否認ないし攻撃するということがしばしばおこり、信教の自由という法体系によって守られるまさに信仰者自身が、心情的には信教の自由からもっともとおい位置に立ってしまうという矛盾を呈することになる。(同 P2)

◎子供のために、カルトからの脱却

・妄想症の伝染
 精神科医は物理的に子供をカルトから分離させなければ洗脳を解くことは難しいということを知っている。我々は二人組精神病、感応精神病と呼ばれる、妄想症の患者の妄想が第三者に「うつった」病態の治療経験を積んでいるからである。(「二人組精神病と洗脳」『イマーゴ』1993年9月号)

91いちりん:2002/07/15(月) 00:43
高橋紳吾さんのことば、とっても啓発されますね。

92犀角独歩:2002/07/15(月) 18:30

○高橋紳吾師の名言(2)

・依存
 俗な言い方であるが、人の弱みにつけこむとは、不幸で弱っている相手の心理状態をさらに揺さぶって、不安定にし、もはやその人を頼るしかないという気持ちにさせるということである。(『超能力と霊能者』現代の宗教8 岩波書店 1997年2月5日 第1刷 P108)

・カルト教団
 攪乱やリスク・トーク、情報操作などの詐欺的な伝導“形式”にあることを強調しておきたい。布教のパワーにだけたよってなんらの信仰的深まりをもたない、正確にいえば人格的な成熟を助けない、否、むしろ成熟を妨げ、心を隷属させるだけの破壊的カルトへの警戒を続けることが、本来的な意味での信教の自由を守ることにつながるということを強調しておきたい。(同 P198)

・富士門の精神鑑定の例
 小田晋先生は、1960年代の同教団信者であった病者が、独特の教条主義“正法(しょうぼう)と三障四魔(さんしょうしま)の闘争”を機に犯罪へ至った鑑定例を取り上げています。教義のもつ反対集団への敵意が反社会行動として放散される場合があること、および同宗派の有するヒエラルキー構造が組織と個人の葛藤を招き、危機犯罪の副次的原因となりうることを指摘しました。(『日本脱カルト研究会報』第5号 P10)

  (上記とは別ですが、小田晋師の講演は以下で読むことができます
   http://www.genshu.gr.jp/DPJ/kyouka/01/01_1_106.htm

・青少年のカルト入信と“世界没落体験”の関係
 青年期に初発する精神分裂病に「世界没落体験」という症状がある。急性期に現れる妄想で「世界が今や崩壊に向かっている。いやすでに崩壊した。森羅万象のことごとくが生命を失った。最後の審判が開始された。世界革命が勃発した」などの、周囲の世界の劇的変化が絶対的な妄想確信をもって迫ってくる特有の妄想である。この妄想の際には不安と同時に昂揚感や宗教的啓示が現れ、世界の崩壊と同時に新しい未知の世界の誕生が予告され、しばしば世界の中心にある自分が至上者と一体化するという宗教的恍惚感が生じ、ときに救済妄想にいたる。精神病の初期には、自己の内部が崩壊していくカタストローフの感覚があり、しばしば患者は「自分が誰かわからない、狂ってしまいそうだ」と表現するが、この内的カタストローフが外界に全面投影されて生れるのが、世界没落体験である。一般に思春期は、自己のアイデンティティを形成していくうえで、危機的状況にある。「自分とは何者か」、「何処からきて何処へ向かうのは」、「何をすればよいのか」と真剣に悩む。世界没落体験は分裂病特有の症状というより、思春期を含めて、人が精神的危機状態にあるときに親和性を示す普遍的な心理的メカニズムなのである。(『超能力と霊能者』P218)

◎「祈りとして叶わざるはなし」という言葉を信じる前に

・祈祷性精神病
 森田療法(神経症にたいする禅を応用した心理療法)の創始者である森田正馬教授が1915年に称えた心因性の精神病で「加持祈祷もしくは類似した事情からおこって人格変換・宗教妄想・憑依妄想などを発し、数日から数か月にわたって経過する特殊な症例」で森田は「祈祷性精神症」と呼んだ。(同 P92)

・長時間の会合、祈りを続ける精神力は強盛な信仰なのか
 精神医学に常同症(ステレオタイプ)という概念がある。これはかなり進行した精神分裂病者にしばしば見られる現象で、同じ動作や行為をいつまでも繰り返す意欲の調節障害という症状である。見かけは同一意志が持続して、長く同じ動作や行動を反復持続しているように見えるが、これは意志が強固であるためではなくて、むしろ意志の調節力ないし支配力が弱まったため、大脳に本来そなわっていた精神−運動性のメカニズムが統制から解除されて自動的になり、意味のない反復となって現れたと解される現象である。常同症は行動のみならず、表情、姿勢、言語、書字などにも現れる。(同 P68)

 ※以上、見出しは私が適宜付したものです

93犀角独歩:2002/07/15(月) 18:51

【90、92の補足】


○唱題が祈祷になることは危険ではないのでしょうか、SGIアメリカ日蓮正宗をカルトの一つに挙げたハッサン氏は以下のように警告しています。

 過度の(長時間の)瞑想や唱えごとの技法を毎日使うように教え込まれた人々は、心理的にも生理的にも、マインド・コントロールの中毒になりやすい。このような精神の蒸留作用は、脳の化学物質の強烈な放出をうながし、それは分裂した意識状態をひきおこすだけではなく、不法な薬物が作りだすのと似た『昂揚』感をひきおこす。これらの技法を数年にわたって用いた元メンバーの何人かは、激しい頭痛、不随筋の痙攣、記憶力・集中力・決断力のような認識能力の減退などを含め、広範囲にわたる有害な副作用が残ると報告されている。(『マインド・コントロールの恐怖』P3)

 メンバーに対して過度の瞑想や唱えごとや『布告』(超スピードで祈りを唱えること)や異言を要求するグループに長いこと入っていた人々については、そのカルトをやめてから少なくとも、一年間は、その人の意志でないことが起きると予想しておく方がいい。私がかかわったなかで、こんな訴えをした人々がおおぜいいる ―― ふつうの会話をしている最中に、突然、ある言葉の途中で、ふと気がつくと、カルト時代に長年やっていた心を麻痺させるテクニック、つまりある言葉を無意識に唱えるというテクニックを使っていたというのである。(同 P10)

94犀角独歩:2002/07/15(月) 20:46

いちりんさん:

ご存じだと思いますが、高橋師は、当初、仏教を専攻していたようでした。それで仏教を極めるために精神医学に踏み込み、現代に至っているといいます。いわば、カルト問題の最適任者であろうかと思います。また、もう一人、紹介した小田晋師も代々の日蓮宗檀家。このお二人の研究がもっと日蓮門下、取り分けカルト問題との関わりでは、啓蒙されるべきであろうかと思っています。

95一字三礼:2002/07/16(火) 00:18

>87

読み落しておりました、申し訳ありませんでした。
たいへん詳しく御説明いただきありがとうございました。

富士門や新宗教でよく見かけるタイプの強信者は、心理操作によるものが多いのですね。
社会心理学で、これほどまでに説明出来るのが驚きです。

では、宗教者の持つ信仰に対する確信と、カルト的刷り込みによった確信とではどのような所に違いが出るのでしょうか。
それとも、信仰に対する確信という状態そのものが、心理学では否定的に捉えられているのでしょうか。

96アネモネ:2002/07/16(火) 02:24
五月雨さん

独歩さんが小田晋師を推薦されているようなので、ご紹介に躊躇した本をもう3冊ご紹介いたします。とてもわかりやすく書かれてますから、気分転換に読めると思いますよ。

「なぜ、人は宗教にすがりたくなるのか」小田晋著 (三笠書房刊)
『「日本人の依存」を精神分析する−健康な依存、病的な依存』小田晋著 (大和書房刊)
「日蓮に学ぶ、明日を生きる智恵」北川紘洋著 小田晋監修 (はまの出版刊)

特に、「なぜ、人は宗教にすがりたくなるのか」は私自身が入信して一年ほどの頃に読んだ記憶があります。今取り出してみると随分たくさん付箋をつけて、マーカーをひいてありますね。これはお勧めできると思います。
読みながら、「ありゃ、これって日蓮正宗のことやわ」なんてとこが、いくつかあったような記憶があります。たぶん、その本に啓発されて次に、『「日本人の依存」を精神分析する−健康な依存、病的な依存』を読んだのではなかったかと思いますね。けど、日蓮宗檀家の人とは知りませんでした。

97犀角独歩:2002/07/16(火) 04:57

一字三礼さん:

> 宗教者の持つ信仰に対する確信と、カルト的刷り込みによった確信とではどのような所に違いが…

“確信”、難しいテーマですね。信仰者の確信とカルトの刷り込みの確信に差があるとすれば、前者が個人的に得たものであるのに対して、後者は第三者によって植え付けられたものであると言った差異であろうかと思います。けれど、私は前者の確信に対しても悲観的です。

マインド・コントロール研究の第一人者・西田公昭師は『マインド・コントロールとは何か』(紀伊國屋書店)のなかで、個人的リアリティを説明して、

 たとえどんなに強い確信であっても、それは個人的な経験や推論によって何となく感じているリアリティ感覚によって支えられているにすぎない。そのことをさして、個人的リアリティという。(P81)

と記しています。私は確信と聞くと、真っ先に『立正安国論』の一節を思い出します。

人の心は時に随って移り、物の性は境に依って改まる

宗教的な確信が到達困難な肯定されるべき境地であるか否か、今のところ、私は決しないことにしておきます。方や、カルト的刷り込みに基づく確信について、いくつか、実践者の発言を紹介します。

まず、ここのところ紹介してきている高橋紳吾師は『宗教病理と犯罪』という講演のなかで

 妄想とは何かと言いますと、指標は三つあります。Karl Jaspers によれば「間違った考え」「強い確信」「訂正不能」とされています。妄想は仏教用語の読みでは「もうぞう」と言うそうです、多少意味が異なりますが。精神病理学的に、妄想の言語構造論的分析をすると、簡単に言うなら「妄想とは欲望が変形したものだ」となります。

と話しておりました。決して前言を翻さない強い確信、それが事実であると証明できないとすれば、精神病理における妄想であるというわけです。信仰者として考えさせられる定義であろうかと思います。

オウム真理教問題では命まで狙われた実践者・弁護士である滝本太郎師は

「よいことをする」つもりで行うから、実はよりおそろしいのです。「悪意の殺人には限度があるが、善意の殺人は限度がない」のです。「人は、宗教的確信にたったときほど、完璧に喜んで罪を犯す」のです。(『日本脱カルト研究会報』第5号 P15)

と言います。カルト問題を扱ってきた弁護士ならでは発言です。
また、オウム信者の心理に触れ、

「麻原の教えは間違いだった。けれど、あのときのクンダリニー・ヨーガの成就は本物だったかもしれない。それなりに自分は他心通もあるし、宗教的確信を得たはずだ」と思うわけです。実は、そうではないことが社会と適応できないことでわかります。これが辛いのです。するとオウム真理教に戻ったほうが、よほど楽になります。現役さんに「残っているのは楽だからだろう」と言うと「そうです」と返答されて、がっくりすることがあります。実は「修行のためだ。救済のためだ」ではなくて、「こちらにいるほうが楽だ」という人がいるのです。(同 P29)

と、あれだけ間違っていると言われるのに、オウム真理教に居続けるメンバーの心理を見事に分析しています。これは、どのグループにも当てはまるでしょう。

○○の教えは間違いだった。けれど、あのときの○○の成就は本物だったかもしれない。…宗教的確信を得たはずだ」と思うわけです。実は、そうではないことが社会と適応できないことでわかります。これが辛いのです。すると○○に戻ったほうが、よほど楽になります。現役さんに「残っているのは楽だからだろう」と言うと「そうです」と返答されて、がっくりすることがあります。実は「修行のためだ。救済のためだ」ではなくて、「こちらにいるほうが楽だ」という人がいるのです。

○○の部分に自分の所属する集団名、そして宗教的経験を入れて考えてみると客観論になります。

妄想か確信か、その分別に、果たして宗教的・カルト的の隔壁があるでしょうか。

98犀角独歩:2002/07/16(火) 15:40

> 小田晋師…日蓮宗の檀家…

そうなのです。先祖伝来、270年も檀家とのことでした。
それだけに日蓮仏法に係る分析は実に適役ということになります。もちろん、偏狭な宗派意識を持つような人ではありませんから、日蓮宗の立場で石山系の批判などというケチな真似をすることもありません。

私が驚くのは加持・祈祷には肯定的であること。また、宗教の持つ霊性を認知しながら、それを“消毒”されてしまった仏教(あるいはキリスト教)は欠けた部分が生じていると指摘していること。宗教の持つ霊性と日常の往復のあるところでは精神分裂病の発症率が低いことを指摘していること、つまり、“祈り”の重要性を認めていること、けれど、そのコントロールの困難さも併せて指摘いること、傾聴に値する学者の一人であると思います。

99犀角独歩:2002/07/16(火) 21:19

> 98

【補】

小田師の講演『世紀転換期の宗教家:カルトとマインド・コントロールを反面教師として』
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/kyouka/01/01_1_106.htm

について、やや思うところを拙サイト『日々雑記』に記しました。
仏教再考―犀角独歩
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/
『日々雑記』宗教脱会者にロジャース法カウンセリングは役立たない?
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/zakki_01.html#020716

ご意見をお聞かせいただければ有り難く存じます。

100犀角独歩:2002/07/19(金) 13:16

スレッドを立てることを希望されたつまけんさん、お元気でいらっしゃるのでしょうか。

101つまけん:2002/07/19(金) 13:57
犀角独歩さん

しばらくです。こちらも元気です毎日見てますよ。気にかけて頂きまして
ありがとうございます。


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