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西洋史

1とはずがたり:2006/12/02(土) 18:08:31
地理的範囲:西洋人が開拓した新大陸アメリカや地中海世界として歴史を共有する中東史や西洋の植民地となったアフリカなどもここへ入れてしまって良かろう。
時間的範囲:余りに最近の話は各当該スレに。それ以前なら地球上が現在の陸地構成に成った以降ならいつでも可。

3とはずがたり:2006/12/04(月) 01:59:08
中世ヨーロッパが決して追い越せなかった,その癖自分らがその正統な後継者であると僭称するギリシャ・ローマの古典古代である。

1901年発見ナゾの構造物、紀元前2世紀の計算機だった!
http://www.zakzak.co.jp/top/2006_12/t2006120117.html

 ギリシャ南部アンティキチラ島沖で見つかった紀元前2世紀のものとみられる青銅製の塊が、足し算や掛け算などの四則計算ができる精巧な装置だったことが1日までに分かった。英国の研究者は「世界最古の計算機と言えるかもしれない」と話している。

 ロイター通信によると、装置は月食や日食がいつ起きるかや、月と太陽の位置も予測。これを上回るほど精巧な装置は1000年以上、発明されなかったという。

 装置は1901年に沈没船から発見。歯車でつくった複雑な構造物であることは分かっていたが、用途は謎のままだった。ギリシャと英米両国の科学者らが高解像度のエックス線撮影で内部構造を分析、断片を組み合わせ復元に成功した。

 復元に携わった英カーディフ大のマイク・エドムンズ教授はロイター通信に「こんな精巧な装置をつくっていたとは驚きだ」と話した。(共同)

ZAKZAK 2006/12/01

4とはずがたり:2007/01/13(土) 21:02:44
2006年3月 7日 (火)
世界史レッスン
似たもの王妃 1819年
http://bbkids.cocolog-nifty.com/bbkids/2006/03/post_2a49.html
〜アントワネット没後26年〜

5とはずがたり:2007/01/17(水) 03:52:08
フランスの戦後共和制を一貫して支配した意識は不安と懼れであったように思う。

2007/01/15-23:07 仏首相、英国との合併を提案=50年代、スエズ危機などが背景−機密文書
http://www.jiji.com/jc/c?g=int&k=2007011501003

 【ロンドン15日時事】フランスのギー・モレ元首相が在任中の1950年代、英国のアンソニー・イーデン首相(当時)に対して両国の合併を提案していたことが、英機密文書で明らかになった。BBC放送が15日報じた。
 それによると、モレ氏は56年9月10日にロンドンを訪れ、エリザベス英女王を元首として両国を統一する案を打ち明けた。同氏は、英国による第1次、第2次両大戦の功績、福祉国家を確立させたことを称賛するなど「英国びいき」だったという。
 BBCは、仏政府が当時、激化するスエズ危機への対応に追われていた上、国内ではエジプトのナセル大統領(同)が支援するアルジェリアの分離独立の脅威にさらされていたことを挙げ、モレ氏は、英国と強力な「対ナセル体制」構築を希望していたと分析している。

6とはずがたり:2008/01/15(火) 11:50:26
イタリア軍はなぜ弱いのか?
http://2chart.fc2web.com/itaria.html

7とはずがたり:2008/01/15(火) 11:52:54
>>6
おもろい。何処迄裏取れる事実なんでしょーかね。

真面目なドイツ人と日本人が戦争するから悲惨な事になるんだ。
皆イタリア人の不真面目さを見倣わないとあかんね。

8とはずがたり:2009/02/06(金) 20:18:48
オランダ総督
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E7%B7%8F%E7%9D%A3

オランダ総督(オランダそうとく、蘭:stadhouder, 英:stadtholder)は16世紀?18世紀のネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ王国の前身)における各州の首長。狭義にはその中でも特に有力なホラント州の総督(ゼーラント州など他の州の総督も兼ねた)を指す。しかしながらヨーロッパにおける称号で日本語で総督の訳語を充てるのは、植民地の長官を表す例が多く、オランダ総督はそれとは異なる存在であるため、「総督」ではなく「統領」と訳される場合もある。

もとは15世紀以降、ネーデルラント17州を統治していたハプスブルク家の君主が、有力なネーデルラント貴族を(本来の意味での)総督(あるいは知事)に任命し、各州の統治を委ねたことが起源である。ネーデルラント随一の貴族であり、後に八十年戦争を主導したオラニエ公ウィレム1世も、はじめはスペイン王フェリペ2世によって総督に任じられていた。

1568年に始まる八十年戦争でネーデルラント各州はフェリペ2世に対し反乱を起こし、やがて北部7州は新たな君主を戴くことなく連邦共和国として独立を果たした。連邦共和国の体制においては、7つの州の議会それぞれが君主に代わって自ら総督を指名した。総督は州の首長として議会を主導し、法の執行を監督し、役職者の任免を行なった。総督の地位は初期を除けばほとんどオラニエ=ナッサウ家の当主であるオラニエ公、およびその傍系ナッサウ=ディーツ家の世襲であった。ウィレム1世以来歴代のオラニエ公のほとんどは、連邦の7州の中心的存在であるホラント州の他4〜5の州の総督を兼ね、残りの州の総督はウィレム1世の弟ナッサウ=ディレンブルク伯ヨハン6世の家系であるナッサウ=ディーツ家が占めた。ホラント州とゼーラント州の総督(ウィレム1世以来常に兼任された)は慣習的に連邦議会から陸海軍総司令官にも任命されており、その権力は大きく、実質的に君主に近い存在であった。

こうした総督=オラニエ公の権勢に対して反発する勢力もあり、イングランド王を兼ねたウィレム3世の総督時代(1672年 - 1702年)を挟んで1650年から1747年の間に、2度にわたって主要な州で総督を置かなかった時代があり、無総督時代と呼ばれる。しかし1747年、オーストリア継承戦争に巻き込まれてフランス軍の侵攻を受けた連邦共和国は、イギリスの後押しもあって、ウィレム4世を7州全ての総督に指名し、その地位の世襲を宣言した。この全州総督の地位はウィレム5世に継承され、フランス革命戦争の中で連邦共和国が崩壊する1795年まで続いた。

マウリッツ (オラニエ公)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%84_(%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%8B%E3%82%A8%E5%85%AC)

マウリッツ・ファン・ナッサウ(オラニエ公マウリッツ、Maurits van Nassau-Siegen, Prins van Oranje, 1567年11月13日 - 1625年4月23日)は、オランダ総督。オラニエ公ヴィレム1世の次男で、父の死後、スペインとの八十年戦争において中心的な役割を果たした。
 死に臨んで、「2プラス2は4である。」ということを自己の信条にしたほどの合理主義者であったとされる。また、自らの軍隊に徹底した訓練を行うとともに、そのマニュアル化を行った。これがヨーロッパ各国の軍隊に多大な影響を与えたことから、「軍事革命」とも評価される。

日本との交渉
1609年(慶長14年)日本(江戸幕府)に進出したオランダ東インド会社はマウリッツをオランダ「国王」とする書簡を駿府で前将軍(大御所)徳川家康に提出し、朱印状による交易を認められた。以後、オランダ東インド会社はオランダ総督を「国王」とするフィクションを維持することになる。

9とはずがたり:2009/02/06(金) 20:40:48
オラニエ=ナッサウ家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%8B%E3%82%A8%EF%BC%9D%E3%83%8A%E3%83%83%E3%82%B5%E3%82%A6%E5%AE%B6

オランダ総督からオランダ国王へ

オラニエ公ウィレム1世は八十年戦争において中心的指導者となり、その子孫からも優れた軍事指導者を輩出して、オランダの独立と発展に貢献した。ウィレム1世と兄に協力したナッサウ=ディレンブルク伯ヨハンおよび彼らの子孫は、ネーデルラント連邦共和国各州の議会あるいは連邦議会が任命する総督(統領)職をほとんど世襲し、君主に近い地位を占めた(歴代のオラニエ公は、連邦の7州の中心的存在であるホラント州の他4〜5の州の総督を兼ね、残りの州の総督はヨハンの家系が占めた)。総督・オラニエ公ウィレム3世が名誉革命によりイングランド王位につくと、1代限りではあったが両国は事実上の同君連合を組んだ。ウィレム4世以降は全州の総督を兼ね、その地位を世襲することが公式に認められた。

フランス革命が起こるとオランダにも余波は及び、フランス軍の侵攻を受けて連邦共和国は崩壊し、ウィレム5世は総督の座を追われた。すでにオラニエ=ナッサウ家と共和国の政治体制に対して国民の不満が渦巻いており、フランスの侵攻はオラニエ=ナッサウ家追放の絶好の機会であった。以後ナポレオン1世の没落まで、オランダはフランスの支配を受けた。当初フランスは解放者として受け入れられていたが、ナポレオンがフランス皇帝となると、次第に不満が募って行き、オラニエ=ナッサウ家の復権の機会を与えてしまう事となった。

ウィーン会議によって南ネーデルラントを併せたオランダ王国(ネーデルラント連合王国)が成立すると、かつての総督の子孫は立憲君主国の国王として君臨し、現在に至っている。なお、南ネーデルラントは1830年にベルギー王国として独立した。また、オランダ王はルクセンブルク大公を兼ねていたが、1890年に同君連合を解消し、ルクセンブルク大公はナッサウ家の別系統であるナッサウ=ヴァイルブルク家が継承した

10とはずがたり:2009/03/14(土) 21:29:01

シリアで9000年前の井戸発見 浄水目的は世界最古か
03/14 12:47
http://www.shizushin.com/news/environment/science/2009031401000195.htm

 シリア北東部の新石器時代の集落遺跡「テル・セクル・アルアヘイマル」で約9000年前に使われていた井戸の遺構を、東大総合研究博物館の西秋良宏教授(先史考古学)らのグループが14日までに発見した。飲料水など「浄水」が目的とみられ、西秋教授によると、この目的の井戸としては世界最古の可能性がある。同グループは「人類の衛生概念の発展を示し貴重」としている。
 グループによると、9000年以上前の井戸の発掘例は世界でわずかしかなく、浄水を得ようとした井戸では約8000年前の古代パレスチナ地方のものが最古とされていたという。
 井戸は昨年8月、約4ヘクタールの集落跡北部で発見。直径約2・5メートル、深さ約4メートルで、底部には儀礼に使われたと推察される直径10−20センチの円形の石器10数個が置かれていた。遺構の約100メートル先にユーフラテス川の支流があることから、単に水を得ようとしたのでなく、浄水を求めたと判断した。
 人類が農耕・牧畜で定住化を進めた約9000年前の北メソポタミア地域では、住居の床を入念に掃除した跡が見られるなど、衛生概念が発展しつつあったといい、西秋教授は「集落の人口が増え、疫病などを恐れ、きれいな水を入手しようとしたのではないか」と話している。(共同)

11とはずがたり:2009/12/21(月) 11:23:02
地中海世界更には印度欧羅巴語族の範囲も西洋としよう。

発掘:粘土塊にくさび形文字…ハンムラビ王時代の「封泥」
http://mainichi.jp/photo/archive/news/2009/11/16/20091117k0000m030037000c.html

テル・エル・ダバ遺跡で発見された、バビロニアの印影が残る粘土塊=エジプト考古最高評議会提供
ttp://tohazugatali.web.fc2.com/kodai/TKY200812100199.jpg

 【カイロ和田浩明】バビロニア(現在のイラク中・南部)のハンムラビ王(在位紀元前1792〜1750年)に仕えた高官の印影が残る粘土塊を、オーストリアの研究チームがエジプト北部のテル・エル・ダバ遺跡で発掘した。エジプト考古最高評議会が15日発表した。バビロニアのくさび形文字アッカド語が使用されており、「エジプトで発見されたものでは最古」(同チーム)という。

 粘土塊は、物資の数量管理などに使用された「封泥」で、物資を入れた箱やつぼなどの入り口に付けられたとみられる。同評議会は「バビロニアからの交易品か贈り物の封印ではないか」と推定している。

 ハンムラビ王は世界最古の法典の一つと言われる「ハンムラビ法典」を整備した。テル・エル・ダバ遺跡はカイロ北東約120キロのナイル川三角州にあり、紀元前18世紀ごろから約100年間エジプトを支配した「ヒクソス」と呼ばれるアジア系異民族の拠点だったとみられている。

 オーストリアの研究チームは今回の発見について「ヒクソスが広範な対外関係を持っていた証拠だ」と説明している。

毎日新聞 2009年11月16日 19時42分(最終更新 11月17日 2時47分)

13とはずがたり:2010/02/09(火) 04:22:06

イラン、大英博物館と断絶…ペルシャ遺物巡り
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20100208-OYT1T00997.htm?from=main1

 【テヘラン=久保健一】イラン政府は7日、古代ペルシャ帝国の遺物「円筒印章」を貸与する約束を守らなかったとして、大英博物館との交流関係を断絶したと発表した。

 イラン側によると大英博物館は、昨年9月に予定していた貸与を再三にわたり延期、テヘランでの展示会が中止に追い込まれた。大英博物館側は、印章について新発見があり、調査が必要になったためとしている。イラン政府による改革派弾圧で、英イラン関係が悪化した影響もありそうだ。「円筒印章」は、アケメネス朝ペルシャのキュロス大王が紀元前539年のバビロン征服の際に製作を命じたとされ、信教の自由や奴隷禁止をうたった「世界最古の人権宣言」と言われる。
(2010年2月8日22時59分 読売新聞)

14とはずがたり:2011/05/12(木) 15:10:08

千年王国ビザンツ
http://www2.nkansai.ne.jp/users/mips/html/byzanz.html

15とはずがたり:2011/07/04(月) 23:46:21

最後の皇帝の長男が死去 O・ハプスブルク氏
http://www.47news.jp/CN/201107/CN2011070401001080.html

 オットー・フォン・ハプスブルク氏(同氏のホームページhttp://otto.twschwarzer.de/より・共同)

 【ウィーン共同】第1次世界大戦まで中欧に広大な領土を有したオーストリア・ハンガリー帝国最後の皇帝の長男で、元欧州議会議員のオットー・フォン・ハプスブルク氏が4日、ドイツの自宅で死去した。98歳。同氏のホームページで関係者が明らかにした。死因は不明だが、2年前に階段から落ちて以来、体調が万全ではなかったという。

 欧州融合を訴える「汎欧州運動」を唱え、1979年から20年間、欧州議会議員を務めた。

 地元メディアによると、12年、オーストリア東部ライヒェナウ生まれ。16年に父親のカール1世が皇帝に即位したことにより、皇太子となった。
2011/07/04 22:09 【共同通信】

16とはずがたり:2011/10/07(金) 01:37:56
そっか,王制が残るスペインには未だ公爵とかがいるんだな♪

財産目当てを否定 スペインの公爵夫人、全財産3570億円を譲渡し結婚 
2011.10.7 00:23
http://sankei.jp.msn.com/world/news/111007/erp11100700260000-n1.htm

 保有財産が最大35億ユーロ(約3570億円)とされるスペイン南部セビリアの公爵夫人(85)が5日、25歳年下の公務員と結婚式を挙げた。新郎が財産目当てに結婚しようとしていると疑われたため、夫人は子供6人に全財産を生前贈与、身一つで3度目の結婚に踏み切った。

 新婦は世界で最も多い40以上の称号を持つとされるアルバ公爵夫人カイエターナさん。新郎はマドリード在住の公務員アルフォンソ・ディエスさんで、フランス公共ラジオによると、60歳。2人は公爵夫人が死別した2番目の夫を通じて知り合い、3年前から交際してきたが、子供たちやスペイン王室などが結婚に反対。

 このため、夫人は7月、全財産の生前贈与を発表、ディエスさんも相続権を放棄するとの文書に署名したため、フアン・カルロス1世国王が9月、結婚を認めた。(共同)

17とはずがたり:2011/10/25(火) 21:22:11

古代ローマ遺跡を空爆の盾に=カダフィ派、軍事基地設営−リビア
http://www.jiji.com/jc/movie?p=top358-movie02&s=378&y=&rel=j&g=phl
2011年9月13日
 リビアの首都トリポリの西約70キロに位置する古代ローマ時代のサブラタ遺跡の円形劇場が、カダフィ大佐派の軍事基地として利用され、銃弾で損傷していたことが28日分かった。円形劇場は北アフリカ最大規模で、同遺跡群は1982年にユネスコの世界遺産に登録されている。
 カダフィ派は、リビア内戦で軍関連施設に猛爆を加えた北大西洋条約機構(NATO)軍が遺跡を標的にできないと踏み、アフリカ系雇い兵を含む部隊約1000人を数カ月にわたり駐留させた。サブラタ観光警察幹部のアブドル・カマル氏によると、カダフィ派は遺跡からロケット弾を発砲したり、自動小銃を乱射したりしたが、反カダフィ勢力は遺跡の損壊を恐れて応戦しなかったという。このため、弾痕はカダフィ派の銃弾によるものという見方がある。
 世界遺産を空爆の盾にしたことは、カダフィ派のなりふり構わぬ戦術を裏付けるものとして、地元では非難の声が上がっている。【時事通信社】

18とはずがたり:2012/02/03(金) 22:45:49
鉄血宰相ビスマルクの肉声発見、初めて甦る
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20120202-OYT1T00892.htm

 【ベルリン=三好範英】19世紀のドイツ統一を導いた鉄血宰相ビスマルク(1815〜98年)の肉声を録音した蓄音機のロウ管が米国で発見された。

 再生された声は小さく、しわがれているが、鉄血宰相の肉声が120年余りの時を隔て、初めてよみがえった。

 2日付フランクフルターアルゲマイネ紙などによると、「肉声」が発見されたのは米ニュージャージー州で保存されている発明王エジソン(1847〜1931年)の実験棟内で、木箱の中にロウ管が残っていた。

 ビスマルクの肉声録音を巡っては、エジソンの助手が1889年、蓄音機の宣伝のために万博開催中のパリを訪れた際、ドイツにも足を延ばし、同年10月に独北部ハンブルク近郊のビスマルクの自宅で録音したとの記録は残っていた。ただ、録音したロウ管の所在が不明だった。

 今回、発見されたロウ管を調べた研究者が録音内容から「ビスマルクの肉声」と断定した。録音は75秒で、74歳のビスマルクはドイツ語の歌に加え、フランス国歌なども歌っている。現存する唯一の肉声とされ、ビルト紙は「驚きの発見」と伝えた。

(2012年2月3日07時28分 読売新聞)

19とはずがたり:2012/05/09(水) 08:05:47

機関車トーマスシリーズの舞台はソドー島と云う架空の島だが,このソドー島と云うのは実在のマン島を含むイギリス国教会の教区名に由来するのだそうな。で,正式にはイギリス国王家領で英連邦領ではないのだそうな。

因みにスペインとフランスの共同主権下(正確にはフランス大統領とスペインのウルヘル司教を国家元首とする)のアンドラ公国だが,現在は独立国家化しているようだが,やはり行政区が教区単位と成っている様だ。

ソドー島
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%89%E3%83%BC%E5%B3%B6
成立の過程
「汽車のえほん」シリーズが巻を重ねるにつれて、作者のオードリー牧師の許には設定の矛盾について質問する愛読者からの手紙が多数届くようになった。これらに答えるための矛盾のない設定を考えるうちに、牧師は体系的な架空の舞台設定を考案し始めた。

折りしも教会の仕事でマン島を訪問したオードリー牧師は、その島を管轄する教区の名が「ソドー・アンド・マン教区」であることに気づいた。教区名からは、あたかもマン(島)と並んで「ソドー(島)」という土地が実在するようであるが、これに対応する特定の島や土地はない[1]。オードリー牧師は、マン島とイギリス本土の間に位置する「ソドー」という名前を持つ架空の島こそが、物語のための完璧な舞台環境であると考えた。

[1]
「ソドー・アンド・マン教区」のSodor の起源は、「南の島」を意味するノルド語のサドレイヤル(Sudreyjar)あるいはサドレイス(Sudreys)である。中世にはマン島やヘブリディーズ諸島などの島々を指す呼称で、オークニー諸島・シェトランド諸島など「北の島」と対比されるものであった。1154年、マン島を含む「ソドー」の島々を管轄する「ソドー教区」が設立されるが、その後の変遷により教区の管轄はマン島地区のみとなった。この過程でかつての「ソドー」の意味も失われ、16世紀初頭には、「ソドー」がマン島そのものを指すものと考えられたり、マン島西岸・ピール (Peel, Isle of Man) に所在する陸繋島(マン島の歴史的な中心地で、かつては王城が置かれ、現在も司教座聖堂がある)・セントパトリック島 (St Patrick's Isle) を指すものとみなされたりするようになった。マン島を管轄する教区の名は「ソドー教区」「マン教区」「ソドー・オア・マン教区」と揺らぎが生じたが、17世紀後半以降「ソドー・アンド・マン教区」となった。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c5/Kingdom_of_Mann_and_the_Isles-en.svg

マン島
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%B3%E5%B3%B6
概要
法的にはグレートブリテンおよび北アイルランド連合王国の一部でもなく、イギリス連邦 (commonwealth) の加盟国でもなく、自治権を持ったイギリスの王室属領 (Crown dependency)である。通貨はマンクス・ポンド。マンクス銀行により独自の通貨が発行されている。為替レートはイギリスポンドと同じ。イングランド銀行、スコットランド銀行などで発行されたイギリスポンドも国内で問題なく通用する。外交・軍事はイギリス王室に委ねるという法律がある。公用語は英語。マン島語は20世紀初頭、最後の日常的な話者が亡くなったが、1970年代以降、言語復権運動から現在は約1700人のマン島語識者(自己申告)がいる。イギリスからの独立意識の高いマン島では、英語に次ぐ公用語として位置づけられ、国民にはマン島語による教育の機会も与えられている。

行政、法律
イングランド法のベースとなった独自の法律を持ち、立法権を持つ立法議会と下院、行政権を持つ政府がある。法案は英国女王またはその代理である総督によって裁可される。外交と軍事は英国政府に委任しており、その代金を毎年支払っている。

20とはずがたり:2012/05/09(水) 08:06:04
>>19-20
地方政府
マン島の地方自治体制度は、古来よりあるキリスト教の教区(parish)分割にもとづいている。首都ダグラスは、バラ(borough)という行政区分になっており、自治体(municipal corporation)によって治められている。

Diocese of Sodor and Man
http://en.wikipedia.org/wiki/Diocese_of_Sodor_and_Man

アンドラ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9

歴史

8世紀、シャルルマーニュがピレネー山中においたスペイン辺境領の一つ、ウルヘル伯領を起源とする。

のちにウルヘル伯より宗主権を獲得したウルヘル司教と、司教から条件付きで領主とされたフォワ伯爵家との間に争いが起き、調停案として1278年、両者を対等の共同統治者とする宗主契約が結ばれた。その後フォワ伯の権限は、ガストン4世の死後に歴代のナバラ王に伯位とともに受け継がれ、フランス王となるブルボン家のアンリ4世に帰した。王政廃止後はフランス大統領がこれを引き継いだ。

1993年、アンドラは新憲法を制定、ウルヘル司教とフランス大統領を共同元首とする議会制民主主義を敷き、正式に独立国家となった。同年7月、国際連合に加盟した。

21とはずがたり:2012/10/09(火) 13:50:41
>第一次世界大戦終了後、オスマン帝国に代わってトルコ共和国が誕生するに当たり、ヨーロッパ諸国との間に「ローザンヌ秘密協定」が交わされた。トルコは今後100年間、地下資源の開発を行わないというものだ。
そんな密約ほんとにあったの!?

『これから50年、世界はトルコを中心に回る』佐々木良昭
2012年10月7日(日)12:20
http://news.goo.ne.jp/article/president/bizskills/president_7280.html
(プレジデントオンライン)

トルコと聞いて、「東西の文明が交錯する観光の国」をイメージする方も多いと思うが、実はトルコには、私たちが知らないもう一つの顔がある。

GDPが7%台で推移。富裕層が増加し、たとえば高級外車・フェラーリの予約台数がうなぎ上り。イスタンブールの地価もここ5年間で3倍に急上昇。「第二ボスポラス海峡」の建設計画にともない、海外からの大規模な投資マネーが流入中。

おわかりのように、疲弊する西欧諸国を尻目に、この国は目覚ましい経済発展を遂げているのだ。

中東研究の第一人者・佐々木良昭氏が、本書を通じてその大躍進の背景に迫った。

「有能な労働市場、自由な投資環境、整備されたインフラなど、上昇気流を支える要因は各種あげられますが、特筆されるのが、トルコの地下資源でしょう」

第一次世界大戦終了後、オスマン帝国に代わってトルコ共和国が誕生するに当たり、ヨーロッパ諸国との間に「ローザンヌ秘密協定」が交わされた。トルコは今後100年間、地下資源の開発を行わないというものだ。

「その協定が、2023年には期限切れを迎えるのです。となれば、特にトルコ南東部の豊富な原油や天然ガスが脚光を浴びるはずです」

10年後には、トルコは世界的な資源大国としてクローズアップされる可能性が大きいというのだ。

そしてもう一つ。これからのトルコを予測するうえで軽視することができないのがエルドアン首相の存在だ。

「09年1月にダボスで開催された国際会議の席上で、彼はイスラエルのパレスチナ弾圧を激烈な口調で非難しました。これで男を上げ、彼は今や中東のスーパースターです」

従来は、アラブ&中東に関連した国際会議といえばエジプトのカイロで開かれるのが慣例だったが、今では舞台をトルコのイスタンブールに移している。

では、日本のビジネスマンは、そんなトルコとどう付き合えばいいのか?

「トルコにはオスマン帝国のDNAを感じさせるタフ・ネゴシエーターが多い。

幸いにも親日的な国家なので、パートナーとして非常に心強い存在。中東&アラブ進出の橋頭堡役が期待できます」

本書では、日本人がトルコ人ビジネスマンとパートナーシップを組む際の心構えにも言及している。

※すべて雑誌掲載当時

(江本正記=文 工藤憲二=撮影)

22とはずがたり:2013/02/12(火) 15:06:07

>ローマ法王が死亡以外で退位するのは、1415年のグレゴリウス12世以来、およそ600年ぶりです。

>ドイツ人としては約1000年ぶりに即位。

>法王の任期途中での退位は約700年ぶり。

任期途中での退位に記事によって100年の差があるけどまあそれでも長い西欧の歴史を感じさせますね。
で,根比〜べが始まりますねぇ〜♪

ローマ法王が異例の退位表明、約600年ぶり
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20130211-00000039-jnn-int
TBS系(JNN) 2月11日(月)23時25分配信

 ローマ法王のベネディクト16世が今月末までで法王を退位すると表明しました。法王が自ら退位するのは、およそ600年ぶりのことです。

 「私は高齢のため、もはや体力が自分の職務を果たすのには適していません」(ローマ法王 ベネディクト16世)

 ローマ法王庁によりますと、ベネディクト16世は11日に開かれた枢機卿会議で85歳という高齢のため、体力や精神力が衰えたとして、今月28日までで法王の座を退くことを表明しました。

 ローマ法王が死亡以外で退位するのは、1415年のグレゴリウス12世以来、およそ600年ぶりです。ベネディクト16世はドイツの生まれで、2005年4月から第265代法王に就任していました。

 退位表明を受けて、バチカンでは、来月末までに新たな法王を決める選挙、「コンクラーベ」が開かれる見通しですが、後任が選ばれるまでは「法王不在」という異例の事態になりそうです。

 「もはや職務を遂行する強さがないという決断を、私は最大限尊重する」(ドイツ メルケル首相)

 「彼はイギリスとの関係強化のため、精力的に取り組んだ」(イギリス  キャメロン首相)

 また、アメリカのオバマ大統領も、「2009年にバチカンを訪問したことを懐かしく覚えている。法王に感謝と祈りを捧げる」との談話を発表しました。(12日04:24)
最終更新:2月12日(火)13時6分



ローマ法王が高齢理由に退位表明、任期途中は700年ぶり
ロイター 2月11日(月)23時15分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130211-00000043-reut-eurp

2月11日、ローマ法王ベネディクト16世(85)は、職務遂行に必要な精神的、肉体的な力がなくなったとして、退位する意向を表明した。バチカンで9日撮影(2013年 ロイター/Alessandro Bianchi)

[バチカン市 11日 ロイター] ローマ法王ベネディクト16世(85)は11日、職務遂行に必要な精神的、肉体的な力がなくなったとして、退位する意向を明らかにした。法王の任期途中での退位は約700年ぶり。

【写真】ローマ法王が退位表明

法王は枢機卿会議で、「この行動の重大さをよく理解している。率直にここで、法王の座を退くことを宣言したい」とラテン語で表明。職務遂行には「精神と身体の力が不可欠だが、ここ2─3カ月間衰え、私に委ねられた職務を十分全うすることができなくなったと認識せざるを得なくなった」と説明した。

ローマ法王庁(バチカン)の報道官によると、法王は28日1900GMT(日本時間3月1日午前4時)に退位し、新法王は早くて3月24日の聖枝祭の日に選出され、復活祭までには引き継ぎが行われる見通し。世界中から枢機卿がシスティーナ礼拝堂に集まり、選挙会議「コンクラーベ」を開催し、秘密投票によって新法王が決まる。

法王は2005年4月19日、前法王ヨハネ・パウロ2世の後を受け、ドイツ人としては約1000年ぶりに即位。キリスト教の伝統的なアイデンティティーを再確認する姿勢に立ち、保守派から称賛された。ただ、改革に背を向けているとして批判の声もあった。

また任期中には、聖職者による児童への性的虐待が次々と明らかになり、法王がアイルランドでの事件について、正式な調査を行うよう指示し、司教数人が辞任する事態になった。さらに、2012年には法王の執事による機密文書流出事件も起きた。

定期的に外国訪問を行った法王は、ナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)が行われたポーランドのアウシュビッツ強制収容所も訪問。自らを「ドイツの息子」だとして祈りをささげた。

23名無しさん:2013/02/26(火) 13:41:01
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24Gawsaizrinusa:2013/03/18(月) 09:27:34
ナイキには金銭的な詳細は明らかにされなかったが、アナリストは、28億ドルのナイキのクレジットを30%までの事業の収益成長率を実行しているときにナイキのメンバーシップは、2011年に55%増加したと言われていますが。元未満の重量を量った。 靴を実行してパフォーマンスとして販売されパネルは<a href=http://viviennewtu9vt.shopcentral2013.com/vivienne-westwood-バッグbag-r7fuvxp-10.html>vivian westwood 財布</a> ンズのペアを見つけることに苦労しています。

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25とはずがたり:2013/11/10(日) 01:40:28

ユダヤ人差別深刻化=3割が国外移住検討―EU調査
http://news.goo.ne.jp/article/jiji/world/jiji-131109X680.html
時事通信2013年11月9日(土)16:43

 【ベルリン時事】欧州連合(EU)の欧州基本権機関は8日、域内のユダヤ人を対象とした世論調査で、過去5年間で差別が深刻化したとの回答が76%に達したことを明らかにした。

 調査によると、自分の国で反ユダヤ主義は大きな問題となっているとの回答は66%。過去1年間で言葉による嫌がらせを受けた人は26%で、今後1年の間に暴力を受けるのではないかと懸念している人は33%に上った。また、29%は身の危険を感じて他国への移住を検討したことがあった。

 自由回答では「反ユダヤ主義との戦いはますます絶望的になっている」(ハンガリーの60代女性)、「インターネットには反ユダヤ主義の言葉があふれている」(フランスの40代男性)と不安を訴える声が相次いだ。同機関はEU各国に対し、インターネットの監視を含めた対策強化を呼び掛けた。

26とはずがたり:2013/11/27(水) 12:42:59

今度は外交袋開封=英、スペインに抗議
http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&amp;k=2013112600986

 【ロンドン時事】英外務省は26日、イベリア半島南端の英領ジブラルタルとの国境で、スペイン当局が英国の外交封印袋を開封し、外交関係に関するウィーン条約に違反したとしてスペイン政府に正式に抗議したことを明らかにした。
 報道によると、「事件」は今月22日発生。配達業者がジブラルタルからスペインへ陸路で外交封印袋を運ぼうとしたところ、スペイン当局が開け、中身を調べた。
 英外務省スポークスマンは「公的通信と外交封印袋は不可侵だ」と不快感をあらわにした。スペイン側に説明を求め、返答次第で「さらなる行動」を考慮するという。
 両国は、戦略的要衝であるジブラルタルの領有をめぐって対立。最近も、スペイン船がジブラルタル領海を侵犯したとして、英側が駐英スペイン大使を呼び抗議している。(2013/11/26-22:55)

27とはずがたり:2013/11/27(水) 12:47:41

軍創設、核兵器は撤去=英スコットランド独立白書
http://www.jiji.com/jc/c?g=int&amp;k=2013112600972

 【ロンドン時事】英スコットランド自治政府は26日、来年9月に実施される英国からのスコットランド独立の是非を問う住民投票を前に、独立時の構想を記した白書を公表した。自前の国防軍を創設し、英核戦略を担うトライデント・ミサイルを域内から撤去するという。(2013/11/26-22:27)

28とはずがたり:2014/01/29(水) 22:55:57

さらばユニオンジャック?=NZ首相、国旗変更の方針
http://news.goo.ne.jp/article/jiji/world/jiji-140129X431.html
時事通信2014年1月29日(水)17:03

 【シドニー時事】ニュージーランドのキー首相は29日、記者団に対し、「国旗変更が望ましい」と述べ、ユニオンジャック(英国旗)が描かれた国旗を変更する考えを示した。閣議決定した上で、年内に予定される総選挙に合わせて国民投票を実施し、新国旗採用の是非を問う方針だ。

 現在の国旗には、南十字星を表す四つの星のほか、英連邦の一員として左上に英国旗が描かれている。オーストラリア国旗とも構図が似ており、混同されることも多い。

 首相は「個人的には(新国旗の図柄には)シルバーファーンがふさわしいと思う」と語った。シルバーファーンはシダの一種で、先住民マオリにゆかりが深い。その葉をあしらった記章は国技であるラグビーのNZ代表オールブラックスのユニホームにも描かれている。

 英連邦加盟国では、1965年にカナダが英国旗が描かれた国旗を変更し、「メープルリーフ(カエデの葉)旗」を採用した例がある。

29とはずがたり:2014/03/23(日) 09:52:22
現代政治は兎も角独立とか歴史的な経緯が深い西欧関係はこっちにしてみよう♪

ベネチアもイタリアから独立?=ネット住民投票で6割賛成
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201403/2014031800130

 【ジュネーブ時事】世界的観光地のベネチアがあるイタリア北東部ベネト州で17日までに、同国からの分離・独立を問う「ネット住民投票」が始まった。結果に法的な拘束力はないが、投票を主導したグループは、政府に不満を持つ住民の「民意」を盾に、独立へ立法作業を進めるという。投票は21日まで。

 ベネト州の政党や独立を訴えるグループが投票を提案。ウクライナ南部のクリミア半島でロシア編入を問う住民投票が実施された16日、ネット上で受け付けを始めた。現時点で約6割が賛成しているという。(2014/03/18-09:03)

ベネチア独立に89%賛成=模擬投票、法案策定目指す−イタリア
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201403/2014032200092

 【ジュネーブ時事】イタリアの観光地ベネチアがある北東部ベネト州の独立の是非を問う「ネット住民投票」が21日締め切られ、企画団体は投票者の89%が独立を支持したと発表した。結果に法的拘束力はないが、団体は今後、独立に向けた法案づくりを目指す。

 模擬投票はウクライナ南部のクリミア半島で行われたロシア編入を問う住民投票と同じ16日から開始。ANSA通信によると、同州有権者の約7割に当たる230万人以上が参加した。
 企画した地元政党などのグループは、ベネト州が中央政府から受け取る財政資金は、徴収される税収より少ないと主張。政府の景気対策や汚職防止対策も不十分だと不満を強めている。
 ただ、住民投票による地方自治体の分離・独立はイタリア憲法に抵触する可能性が高く、同国メディアの関心は小さい。(2014/03/22-08:29)

30とはずがたり:2014/03/23(日) 18:18:50
俺としてはどちらにも利害はないのだけれど独立できた方が摩擦や対立のマイナスは大きいだろうが独立を見てみたいと云う思いが大きい。。

英国でもネット炎上“言論封殺”…スコットランド独立、意見を言えぬセレブたち
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/entertainment/snk20140323525.html
産経新聞2014年3月23日(日)18:03

 欧州でいま大きな話題を集めているのがスコットランドの独立問題です。スコットランドはイングランド、ウェールズ、北アイルランドとともに英国を構成している非独立国のひとつなのですが、そのスコットランドが英国から独立するかどうかを決める住民投票が約半年後の9月18日に実施されるのです。

 その住民投票を前に、英国ではエンターテインメント業界の多くの著名人が独立について賛成・反対に別れ、メディアを通じて忌憚(きたん)のない意見を述べ、世論を大いに盛り上げています。

 エンタメ界の著名人がこの問題に関して声を上げ始めたのは、ロンドン出身の世界的なロック歌手、デヴィッド・ボウイさん(67)の発言がきっかけでした。

 2月24日付英紙デーリー・テレグラフ(電子版)などによると、2月19日にロンドンで開かれた英国最高峰の音楽賞「ブリット・アワーズ 2014」で、ボウイさんは男性ソロ・アーティスト賞に輝きました。

 しかし当人は欠席だったので、有名ファッションモデルのケイト・モスさん(40)が当人のこんなメッセージを代読したのです。

 「ケイトは金星で、僕は火星です。1日の終わりに受賞の一報が聞けて大変うれしいです。ありがとうございます。そしてスコットランドよ、われわれとともにいてください」

 このメッセージに大喜びしたのがデーヴィッド・キャメロン首相(47)でした。首相は「(授賞式の模様を)テレビで見ていたんだが、僕はボウイのスピーチ内容を聞いて喜びの声を上げたよ」と率直な胸の内を吐露し「多分、彼のような人物がスコットランド(の人々の心に)到達できるのだろう。私にはできない」と絶賛したのです。

 英国の全人口約6300万人のうち、スコットランドはわずか約500万人ですが、経済や軍事、文化面で多大な役割を担っています。また、沿岸部にある海洋油田の石油埋蔵量は欧州随一です。そのためキャメロン政権は独立支持の動きの拡大を恐れています。

 実際、首相は2月7日の演説で「スコットランドはわれわれの家です。それが引き裂かれるのは見るに堪えません」と嘆き「スコットランドを失えば、英国の名声と影響力は地に落ち、別の国となってしまう。電子メールやツイッターで独立反対票を投じるよう呼びかけてほしい」と国民に訴えました。

 またジョージ・オズボーン財務相(42)は2月13日の演説で、スコットランドが独立を選べば英国の通貨であるポンドを使い続けられなくなると明言。独立後もポンドを使いたいスコットランドの行政府を牽制(けんせい)しました。

 こうした一連の動きに呼応する形で飛び出したボウイさんの発言ですが、これに猛然と反論したのが、人気スパイ映画シリーズ007で知られるスコットランド出身の映画スター、ショーン・コネリーさん(83)でした。

 3月3日付のロイター通信によると、昔から賛成論者として有名なコネリーさんは3月4日付の英誌「ニュー・ステーツマン」(電子版)に「スコットランド人として、生涯スコットランドと芸術を愛してきた者として、独立への機会を見逃す手はない」といった賛成論を寄稿し「独立は世界の注目を集め、映画や創造的な産業で新たな雇用を創出する」と訴えました。

 さらに現在、カリブ海のバハマ在住のコネリーさんは、独立が実現すれば帰郷する可能性についても触れました。

31とはずがたり:2014/03/23(日) 18:19:21
>>30-31
 この2人の“対決”を機に、エンタメ界の他のセレブ(有名人)たちが続々と意思表明。3月10日付ロイター通信によると、英国のオーディション番組で美声を響かせ、一躍、世界のスターとなったスコットランド出身の女性歌手、スーザン・ボイルさん(52)は「スコットランド人であることは誇りに思いますが、私は民族主義者ではありません」と明言。一方、スコットランド出身のベテラン女優、エマ・トンプソンさん(54)は「独立による利点が不明」として独立反対を表明しました。

 しかし、その後“賛成・反対”で対立し合うのを好まないセレブが増え出しました。

 スコットランド出身のテニス選手、アンディ・マレーさん(26)は「自分の個人的な考えを公に明かすることは避ける」と表明。さらに、自分はスコットランドには住んでいないため投票に参加できないことから、自分の考えを公表することには意味がないと付け加えました。

 また、スコットランド生まれのコメディアン兼司会者、ビリー・コノリーさん(71)は、独立の是非をめぐる議論について「泥沼には足を踏み入れたくない」と述べ、住民投票にも行かないと宣言しました。

 五輪で英国最多となる6つの金メダルを獲得した自転車競技選手でスコットランド生まれのクリス・ホイ選手(37)は昨年「スコットランドが独立すれば、将来の五輪出場選手が(五輪で)トップに立つことは困難だと分かるだろう」と述べる一方「私は自転車競技選手であり、政治家ではない」として、賛成・反対のどちらに投票するかについてのコメントを拒否しました。

 サッカーのイングランド・プレミアリーグ、マンチェスター・ユナイテッドの前監督で、スコットランド出身のアレックス・ファーガソンさん(72)は、自らの考えは明らかにしませんでしたが、スコットランドの英国残留を支持するキャンペーンに寄付をしたと報じられました。

 何だか奥歯に物が挟まったような発言が目立ちますが、理由は簡単。いわゆる“ネット民”による過激な攻撃を恐れて、みんなはっきりモノが言えなくなっているのです。

 実際、ボウイさんの発言に独立賛成派のスコットランドの民族主義者(でも左派です)は、彼が現在、英国ではなくニューヨーク市に住んでいることもあって、ネット上で「傲慢」「火星へ帰れ、クソ野郎」などと口汚い非難や人格攻撃の投稿を繰り返しました。

 これに対し、左派活動家で独立賛成派、つまりボウイさんを攻撃しているネット民と同じ考えの歌手ビリー・ブラッグさん(56)が「(ボウイさんの意見は)この問題の論議を活発化させる」と歓迎の意向を示し、沈静化を図ろうとするなど、ちょっとした騒ぎになりました。

 また、ロックユニット、ユーリーズミックスのボーカル担当でスコットランド出身・ロンドン在住の女性歌手アニー・レノックスさん(59)も、当初は熱烈な独立支持者でしたが、独立反対派からの執拗(しつよう)な“ネット攻撃”を受けた結果「性急な愛国感情に振り回されるべきではない」と、自身の主張を後退させました。

 こうしたセレブを標的としたネット民による過激かつ執拗な攻撃に、独立を標榜(ひょうぼう)する左派の地域政党「スコットランド国民党」は「どこからの意見でも、それについて議論の場を形成することを歓迎する」とのコメントを出し、気に入らない意見をネットで封殺しようとする動きを牽制(けんせい)しました。

 ところで、英国の世論調査機関ICMの今年1月の調査によると、独立反対は49%、賛成は37%、未決定は14%で反対が大きく上回っていました。

 この結果は、独立は決して良いことばかりではないということを知っている人も多いことを裏付けています。実際、独立すれば、スコットランド側は当然ながら新たな債務を引き受けることになるため、多くの人々が税負担の増加を強いられます。景気が悪化するのは間違いありません。さらに英通貨ポンドが使えなくなるとすれば大事です。

 とはいえこの結果、昨年9月の同調査と比べると、反対数は同じでしたが、賛成は5ポイント増え、未決定は5ポイント減っていました。今後、世論が賛成に大きく動く可能性もないとはいえない状況です。

 いずれにせよ、国民は難しい判断を迫られるわけですが、それだけに、ネットによる“言論封殺”のような愚かな行為は互いに憎しみしか生み出さないということに気付くべきだと思います。(岡田敏一)

 【プロフィル】岡田敏一(おかだ・としかず) 1988年入社。社会部、経済部、京都総局、ロサンゼルス支局長、東京文化部などを経て現在、編集企画室SANKEI EXPRESS(サンケイエクスプレス)担当。ロック音楽とハリウッド映画の専門家。京都市在住。

32とはずがたり:2014/03/23(日) 18:45:12
ブーランジェ将軍事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%A7%E4%BA%8B%E4%BB%B6

ブーランジェ将軍事件( - しょうぐんじけん)とは、第三共和政治下のフランスで1886年から1889年にかけて起こった、反議会主義的・反共和主義的政治運動である。ブーランジェ事件、ブーランジェ運動とも呼ばれる。
事件直前のフランスの情勢[編集]

普仏戦争の敗北によって課せられた賠償金[1]及び一大鉱業地帯であるアルザス・ロレーヌ地方の喪失のためにドイツに対する敵愾心が高まっていく傾向にあった。また、1882年に起こった金融恐慌のために、それまで上昇傾向であった景気が低迷し、工業生産はアメリカ・ドイツ[2]に抜かれて世界第4位に転落する有様であった。また、帝国主義による植民地支配は拡大し、外債によって対外投資が増大するという問題点もあったことに加えて、ドイツでは時の宰相であるビスマルクがフランスを孤立させる外交方針を展開していた(ビスマルク体制を参照)ことから、対独ナショナリズムの高揚と強い政府を求める声が主張されていた。
しかしながら当時の多党連立政権は明確な対策を打ち出すことができず、与党に対抗すべき社会主義政党も離合集散を繰り返しており広範の支持を得ることはできていない状況であった。一方王党派はブルボン朝支持派とオルレアン朝支持派の間に対立があり、こちらもまとまりを欠いていた。

ブーランジェ将軍の登場
1886年1月、シャルル・ド・フレシネ(fr:Charles de Freycinet)内閣[4]の陸軍大臣としてジョルジュ・ブーランジェが登用される。
ブーランジェは時勢が共和派に有利となっていると判断し、彼らに迎合するかたちで兵制の民主的改革や王族の軍隊からの排除を行った。また、ドゥカズビル(fr:Decazeville)炭鉱における争議に対して軍隊の出動を求められた際には坑夫に同情的な態度を装い、議会において共和制護持の演説を展開し、共和主義者、特に急進派からの支持を大きく受け、「共和的将軍」としての名が高くなった。

復讐将軍
1886年12月には内閣がルネ・ゴブレ(fr:René Goblet)に交代したが、ブーランジェは陸相に留まった。1887年4月20日独仏国境における緊張が高まった。ブーランジェは対独強硬論を主張し、ビスマルクをして独仏の友好にとって最大の危険人物と言わしめた。これによりブーランジェは対独を含めた排外的国民的感情を掌握し、「復讐将軍」「ビスマルクを尻込みさせた男」として人気を博し、右翼側からも広く受け入れられることとなった。

更迭と予備役編入以後

1887年5月、内閣がモーリス・ルーヴィエ(fr:Maurice Rouvier)に交代すると、ブーランジェの異常な人気を背景にした武断政治化に恐れをなした[6]政府は、彼をクレルモン=フェランの軍団司令官に任命し、パリから遠ざようと試みた。パリの民衆はこの処置に不満を抱きデモが繰り返され、7月8日の出発の際にはリヨン駅に1万人を超える群集が集まったほどである。

その直後、大統領グレヴィの女婿ヴィルソン(fr:Daniel Wilson)によるレジオンドヌール勲章売勲スキャンダル(fr:Scandale des décorations)が発覚。ルーヴィエ内閣は総辞職、グレヴィ自身も辞職せざるを得なくなった[7]。これにより政府の権威は失墜し、これに反比例するように、ブーランジェに対する期待感が大きくなっていった。

王党派への接近

この情勢を見て取ったブーランジェは、ひそかに王党派やボナパルティストの指導者たちと会合を行い、反共和主義勢力とよしみを結ぶようになった。
彼が予備役に編入されて被選挙権を得ると、彼の周囲には「国民委員会」と自称する組織[8]があらわれ、下院の補欠選挙が行われる度にブーランジェを候補者として推したてるようになった。

選挙での圧勝・クーデター未発

ブーランジェは「議会解散、立憲議会、憲法改正」の三つのスローガンを掲げ、1889年1月27日にセーヌ県で行われた選挙に出馬、共和各派統一戦線の候補者に八万票の大差で圧勝した際には5万の群集が集まり、彼にクーデターの実行を指嗾するまでになった。
ブーランジェ派の指導者たちは、当選決定の1月22日夜にブーランジェをエリゼ宮殿まで行進させ、示威行動とともに独裁権を奪取する計画を練っていた。が、肝心のブーランジェ本人が実行をためらったため計画は瓦解し、フランス共和制は危機を脱した。その後、ブーランジェに逮捕状が発せられ、関係する組織は起訴されることとなった。身の危険を感じたブーランジェはベルギーに亡命し、彼を支持した勢力は急激に衰えていくことになる。

33とはずがたり:2014/03/23(日) 19:07:25
ドレフュス事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%AC%E3%83%95%E3%83%A5%E3%82%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6

ドレフュス事件(ドレフュスじけん、仏: Affaire Dreyfus)とは、1894年にフランスで起きた、当時、フランス陸軍参謀本部勤務の大尉であったユダヤ人、アルフレド・ドレフュスがスパイ容疑で逮捕された冤罪事件である。

背景
普仏戦争に敗れた結果、鉄鉱石と石炭の豊富なアルザス=ロレーヌを失い、莫大な賠償金を課せられたフランス経済は大きな困難に直面した。
国内経済の不振で資金は有利な海外投資に向けられ、ロートシルト(ロスチャイルド)などのユダヤ系の金融資本が国民の零細な貯蓄を投資に引き入れ、東ヨーロッパなどへの投資を行った。しかし、1882年には金融恐慌が発生し、多くの投資銀行が破産に追いやられた結果、貯蓄をなくした人々は金融界を牛耳るユダヤ人への憎悪を昂らせた。
一方、保守派と軍部はドイツに対する報復と熱狂的な愛国主義を煽り、1880年代後半には、ドイツへの復讐を叫ぶブーランジェ将軍が右翼・軍部の支持の下に独裁政権の樹立を図る事件を起こし失敗していた(ブーランジェ事件)。

このような第三共和政の不安定な状況の中で起きたのが、1894年のドレフュス事件である。同年の9月、フランス陸軍情報部は、パリのドイツ駐在武官邸からフランス軍関係者内に対独通牒者がいることを示すメモを入手した。フランス陸軍参謀本部は漏洩した情報を知りうる立場にいた人物達の調査を行い、筆跡が似ているとして、参謀本部付きのユダヤ人砲兵大尉、アルフレド・ドレフュスを逮捕した。しかし、具体的な証拠どころか、ドレフュスが金銭問題を抱えている、もしくは急に金回りが良くなったなどといった状況証拠すら欠いていたため、スパイ事件及びドレフュス逮捕の事実はすぐには公表されなかった。
この事実を反ユダヤ系の新聞「自由言論」がすっぱ抜きで大々的に報じ、ユダヤ人は祖国を裏切る売国奴であり、その売国奴を軍部が庇っていると論じて、軍部の優柔不断を糾弾した。慌てた軍上層部は、証拠不十分のまま非公開の軍法会議においてドレフュスに「有罪」の判決を下し、南米の仏領ギアナ沖のディアブル島(デヴィルズ島)に終身城塞禁錮とした。
ドレフュスは初めから無罪を主張しており、彼の誠実な人柄から無実を確信した妻のリュシーと兄のマテューらは、再審を強く求めるとともに、真犯人の発見に執念を燃やした。1896年、情報部長に着任したピカール中佐は、真犯人はハンガリー生まれのフェルディナン・ヴァルザン・エステルアジ少佐であることを突き止めた。しかし、軍上層部はフランス陸軍大臣のシャルル・シャノワーヌが再審に反対[1]したように軍の権威失墜を恐れてもみ消しを図り、ピカールを脅して左遷、形式的な裁判でエステルアジを「無罪」とし釈放した(エステルアジはイギリスに逃亡し、そこで平穏な生涯を終えた)。

その翌々日の1898年1月13日号の新聞「オーロール」は、一面に「私は弾劾する」という大見出しで、作家のエミール・ゾラによる大統領フェリックス・フォール宛ての公開質問状を掲載した。その中でゾラは、軍部を中心とする不正と虚偽の数々を徹底的に糾弾した。

世論は沸騰し、それまで細々と続けられてきたドレフュス支持の運動が一挙に盛り上る一方、各地でユダヤ人迫害事件が頻発した。ゾラも名誉毀損で告発されて有罪判決を受け、一時はイギリスへ亡命を余儀なくされた。ドレフュスらの再審を求める勢力は「人権擁護同盟」を結成して、正義と真理、自由と平等を唱え、軍国主義批判を展開した。反対派は「フランス祖国同盟」を結成して国家の尊厳、軍部の威信を力説した。

こうして事態はドレフュス個人の事件から、自由と民主主義・共和制擁護か否かの一大政治闘争の色彩を帯び始め、フランス世論を二分して展開された。その後、ドレフュスの無実を明らかにする事件(彼の有罪の証拠となったものが、偽造されたものであることが判明)が続いたため、軍部は世論に押されてやむなく再審軍法会議を開いた。しかし、ドレフュスの有罪は覆されなかった。
ドレフュスは時の首相により特赦で釈放されたが、その後も無罪を主張し続け、1906年、ようやく無罪判決を勝ち取って名誉を回復することとなった。この事件は軍の威信を傷つけ、軍部と保守派の力を大きく後退させ、その後のフランス軍の弱体化を招くひとつの大きな要因となったと考えられている。事件後のフランス軍は、植民地関連を除き単独での軍事的勝利を収めた経験を持たない。一方、ドレフュスを擁護した民主主義・共和制擁護派が、その後のフランス政治の主導権を握り、第三共和政はようやく相対的安定を確保することができた。

34とはずがたり:2014/03/23(日) 19:09:40
チャールズ1世 (イングランド王)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA1%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)

チャールズ1世(Charles I, 1600年11月19日 - 1649年1月30日)は、イングランド、スコットランド、アイルランドの王(在位:1625 - 1649年)。

幼年期
スコットランド王ジェームズ6世(当時はイングランド王位継承以前)の次男として、スコットランドのダンファームリンに生まれた。
話し始めることと歩き始めることが非常に遅かった。父ジェームズ1世も歩き始めたのが5歳以降とも言われている。チャールズの舌と下顎を結ぶ腱の一部の切除、金属製の長靴様の拘束具(補強具としての使用を意図した)の使用の提案を医師団がしたが、結局乳母の反対により、辛抱強い教育で代用された。10歳頃には普通の子どものように動いたり話したりできるようになった。
兄ヘンリー・フレデリック・ステュアートが亡くなったため、1612年にコーンウォール公とロスシー公に、1616年にプリンス・オブ・ウェールズに叙位された。

王位継承

1625年3月、父の死去に伴い王位を継承した。6月にはフランス王アンリ4世の娘ヘンリエッタ・マリアと結婚した。しかし、カトリック信徒を王妃に迎えたことは反カトリック派の反感を買うことになった。
チャールズ1世は父同様に王権神授説を信奉し、議会と対立した。1628年、議会に「権利の請願」が提出され、課税には議会の承認を得ることを求められた。これに対しチャールズは、一旦は請願受託の署名を行うが、翌年議会を解散、議会の指導者を投獄し、専制政治を行った。

清教徒革命へ

この間チャールズは、カンタベリー大主教ウィリアム・ロードの助言で国教統一に乗り出し、ピューリタンを弾圧した。ロードの政策がスコットランドにも国教を強制するにおよんで、各地に反乱が起きた。1640年、スコットランドの反乱鎮圧のための戦費を得る目的で11年ぶりに議会を招集したが、議会は国王批判の場となった(短期議会・長期議会)。1642年1月、チャールズは反国王派の5人の議員を逮捕しようとして失敗、議会派と王党派の内戦が勃発した(イングランド内戦、ピューリタン革命)。

内戦は当初、互角あるいは王党派が優位であったが、オリヴァー・クロムウェル率いる鉄騎隊の活躍により、王党派が各地で打ち破られた。1646年5月、チャールズ1世はスコットランド軍に降伏し、囚われの身となった。一旦は脱出したものの、1648年11月に再び議会軍に投降した。

1649年1月27日、裁判によってチャールズの処刑が宣告された。1月30日、自らルーベンスに内装及び天井画を依頼したホワイトホール宮殿のバンケティング・ハウス前で公開処刑され、チャールズは斬首された。

35とはずがたり:2014/03/25(火) 02:39:27

ラトビア、ロシアの動き警戒…露系住民が3割
http://news.goo.ne.jp/article/yomiuri/world/20140323-567-OYT1T00181.html
読売新聞2014年3月23日(日)11:06

 旧ソ連から独立したバルト3国の一つ、ラトビアがウクライナ南部クリミア半島を編入したロシアの動きに警戒感を強めている。

 北大西洋条約機構(NATO)や欧州連合(EU)に加盟し、欧州陣営の一角としての地位を固めているが、帝政ロシアに占領された歴史があるだけでなく、プーチン政権介入の格好の口実になりかねないロシア系住民を多く抱えているからだ。

 「ここもクリミアのようにロシアの一部になればいい」。ラトビア第2の都市ダウガフピルスを訪ねると、バスターミナルでロシア系の男性(30)がロシア語で記者(工藤)に話した。

 失業中だというこの男性は、ラトビア語の試験を拒否しているため国籍はないという。ラトビアは独立後、「ラトビア化」を推し進めるためにラトビア語の試験に合格することを国籍取得の条件にしている。

 ロシア国境から約120キロ、首都リガよりロシア寄りのダウガフピルスは、約10万人の住民の8割が、ソ連時代の移住者やその家族たちだ。このうち無国籍者は約1万6000人に上る。バルト3国の中でも、ラトビアはロシア系住民の比率が約3割と最も高く、無国籍者も1割を超える。

36とはずがたり:2014/04/01(火) 21:30:08
確かに陰湿そうな顔だw

イメージ覆す…「陰湿な目」に反発 フランス革命ロベスピエール 顔復元
http://sankei.jp.msn.com/world/news/131222/erp13122211370002-n1.htm
2013.12.22 11:31

 フランスの法医学者らの研究グループが、フランス革命時の最高指導者の一人で「恐怖政治」を断行して約2万人を断頭台(ギロチン)に送って粛清したことで知られるマキシミリアン・ロベスピエール(1758〜94年)の顔を、デスマスクなどを元に3Dスキャンを使って復元した。(SANKEI EXPRESS)

 20日発行の英医学誌「ランセット」に発表されたが、これまで複数の肖像画が伝えたロベスピエールの端正なイメージとは異なり、復元した顔は、あばた顔で陰湿な目つきをしたものとなった。仏国内ではこれに、「政治的意図があり、歴史を捏造するものだ」などと左派系政治家らが反発。論議が巻き起こっている。

「あばたの痕跡確認」

 AP通信などによると、ロベスピエールの顔を復元したのは、法医学者のフィリップ・シャルリエ氏とフィリップ・フローシュ氏を中心としたグループ。ロベスピエールは恐怖政治を敷いた後、権力闘争に敗れて自らも断頭台の露と消えたが、シャルリエ氏らは、有名な蝋人形師のマダム・タッソー(1761〜1850年)が作成したデスマスクと不健康だったとされるロベスピエールに関する現存する複数の診断書を元に、顔を復元した。

 20日、パリ郊外のモンティーニュで会見したフローシュ氏は「精査の結果、ロベスピエールは自己免疫不全と類肉腫症(サルコイドーシス)を患っていたことが分かった。デスマスクからも、あばたの痕跡が確認された」と語った。複数残されているロベスピエールの肖像画は、いずれも目元がすっきりし、あばたが描かれているものもなかっただけに波紋を広げた。

 「革命における政府の基礎は徳と恐怖である」と述べたロベスピエールは、世界史的に粛清やテロの元祖と位置づけられ、忌まわしい政治家として認識される一方、左派、特に極左の政治家・活動家たちの間では、清廉で正義(徳)に殉じた政治家として崇められている。

左派政治家が反発

 パリ市議で極左政党幹部のアレクシス・コビエール氏は「この復元顔は、こういう顔であって欲しいと願う政治的メッセージであり、彼を貶めようとする意図がありありだ。ロベスピエールこそ社会正義のチャンピオンだ」と仏メディアに語った。

 フローシュ氏は「正確さには疑いの余地がない」と主張するが、タッソーが作ったデスマスクそのものに疑念を呈する見方もある。ソルボンヌ大学でフランス革命を研究する歴史学者のギヨーム・マゾウ氏は「処刑後、ロベスピエールの遺体は直ちに処分されたとみられており、タッソーがデスマスクを作る時間と機会があったのか疑問が残る。また、タッソーは王党派であり、左派のロベスピエールとは政治的にも対極にあった。意図的に偽物を捏造したとしても不思議ではない」と説いている。

 マゾウ氏はその上で、「真偽の判定は、中立を保ち、慎重に行う必要がある。ロベスピエールの人相がどうであったかは歴史的インパクトが大きいからだ」と警告した。

 復元された顔は、フランス革命、そしてロベスピエールがいまだに深く仏社会に波及力を保っていることを図らずも明白にした。

37とはずがたり:2014/04/09(水) 21:14:28

スペイン議会、カタルーニャの独立問う住民投票実施の請願を否決
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1116784031/7816
2014年04月09日 09:49 発信地:マドリード/スペイン

【4月9日 AFP】スペイン議会は8日、北東部カタルーニャ(Catalonia)自治州が提出していた分離独立の是非を問う住民投票の実施の請願を、反対299、賛成47、棄権1で否決した。

 独自の言語を持ち、スペイン内での自治権拡大を求めて長く闘ってきた歴史を持つカタルーニャ自治州は、住民投票を今年11月9日に実施する許可をスペイン議会に求めていた。

 だがラホイ首相は、スペイン憲法は同国の主権にかかわる住民投票は一地域だけではなく全国で実施しなければいけないと定めているため、住民投票は違憲であるとの見解を改めて示した。

38とはずがたり:2014/04/09(水) 21:14:49

ウクライナ東部、併合されたクリミアとの違いは薄い帰属意識
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1116784031/7817
2014.4.9 10:15

 ウクライナ南部クリミア半島に続き、同国東部でもロシアへの編入を求める動きが活発化している。背景には、歩んできた歴史に基づく社会、経済的な事情がある。

 東部地域は17世紀後半、ドニエプル川を境にロシア帝国の支配下に入り、正教が主な宗教となった。ロシアは19世紀後半から、ウクライナに対する徹底的なロシア語普及政策を進め、東部では今もロシア語を日常的に使用する地域が多い。2001年の国勢調査によると、ヤヌコビッチ前大統領の出身地ドネツク州では、人口の7割以上がロシア語を母語と考えている。

 公用語としてウクライナ語以外を認めないといった動きに、大きな反発を示すのはこのためだ。

 ロシアとの経済的な結びつきも深い。東部にはソ連時代から石炭、鉄鋼、機械などの重工業地帯があり、今もオリガルヒ(新興寡占資本家)が国の経済を牛耳る。2008年のリーマン・ショックを境に、この地域へのロシア資本の進出も相次いだ。

 とはいえ、ロシア語を多くの人が母語と考える東部で、民族としてのロシア系を自任している人々は少数派に属し、人口の6割を占めるクリミアとは状況は異なる。また、歴史的成り立ちからウクライナとロシアのどちらに属するかという帰属意識が希薄であることも特徴だ。

 先の国勢調査によると、ドネツク、ルガンスク両州では人口の4割近くが自らをロシア系だと考えているが、ハリコフでは約25%にとどまる。

 クリミア併合のときと比べると、ウクライナ東部に対するプーチン露政権の動きには慎重さもうかがえる。欧米の追加制裁で孤立化が深まるとの懸念も背景にあるとみられる。(佐々木正明)

39とはずがたり:2014/04/10(木) 15:44:51

骨董市で140万円で購入、実は34億円の価値
http://www.yomiuri.co.jp/world/20140410-OYT1T50075.html?from=ycont_top_txt
2014年04月10日 15時28分

 ロシア皇帝アレクサンドル3世が皇后マリア・フョードロブナに贈った「インペリアル・イースター・エッグ」が14日から、ロンドンで112年ぶりに一般公開される。

 宝石で飾られた台座に置かれ、スイスの老舗高級時計メーカーの時計が埋め込まれている。

 AFP通信などによると、エッグは長く行方不明だったが、数年前に米国のくず鉄業者が骨董市で発見。転売しようと約140万円で手に入れ、その後、インターネットで行方不明のエッグの価値を知ったという。ロンドンの業者が個人収集家のために購入。購入額は不明だが、約34億円の価値があるという。

 キリストの復活を祝うイースター(復活祭)では、卵は生命の象徴とされている。

2014年04月10日 15時28分

40とはずがたり:2014/05/26(月) 15:49:00
ややこしいなぁ。。分骨とかはないの?

2014年05月25日 15:49 発信地:ロンドン/英国
リチャード3世はレスター大聖堂に再埋葬を、英裁判所が判決
http://www.afpbb.com/articles/-/3015847?ctm_campaign=nowon

×英ロンドン(London)市内中心部ナショナル・ポートレート・ギャラリー(National Portrait Gallery)に展示されている、中世のイングランド王リチャード3世(Richard III)を描いた作者不詳の肖像画(2013年1月25日撮影、資料写真)。 (c)AFP/Leon Neal写真ギャラリーをみる

【5月25日 AFP】英中部レスター(Leicester)で見つかった15世紀のイングランド王、リチャード3世(Richard III)の遺骨をどこに再埋葬するかをめぐって発掘者とリチャード3世の子孫らが争っていた裁判で、高等法院は23日、発掘者が求めたレスター大聖堂(Leicester Cathedral)への埋葬を命じる判決を言い渡した。判決は、遺骨が発見されたレスターへの再埋葬を禁じる理由はないと明言し、「リチャード3世を尊厳ある方法で再埋葬する時期だ」と述べた。

 レスター大聖堂でレスター教区のティム・スティーブンズ(Tim Stevens)主教が判決内容を伝えると、人々は拍手でこれを歓迎した。同聖堂への再埋葬にあたって英当局は盛大な記念式典を計画しているものの、具体的日程は今のところ不明。

 英劇作家ウィリアム・シェークスピア(William Shakespeare)の戯曲の悪役として知られるリチャード3世は、1485年8月のボズワースの戦い(Battle of Bosworth)で死亡。埋葬場所は500年近く謎とされていたが、2012年9月にレスター市の駐車場建設現場で遺骨が発見された。

 考古学者らが骨をDNA鑑定したところ、リチャード3世の姉妹の子孫とDNAが一致。戦闘で負った傷や背骨の曲がった特徴も確認されたことから、遺骨がリチャード3世のものであると断定した。考古学者チームはレスター大聖堂への再埋葬計画を策定し、英政府と地元当局もこれを承認した。

 ただリチャード3世の子孫らは、故人の権力基盤だった北部ヨーク(York)のヨーク大聖堂(York Minster)への埋葬を要求。実質的にリチャード3世の支持者団体である「プランタジネット連合(Plantagenet Alliance)」は、ヨークへの埋葬が中世イングランド最後の王だった故人の希望だと主張した。リチャード3世はヨークで育ち、城塞の一部の資金を提供したとされる。

 ヨークとレスターの対立は英政府閣僚にまで波及。昨年には憎悪に満ちたメールを送り付けられたとしてヨーク大聖堂の幹部が警察に通報するなど、対立が激しさを増していた。(c)AFP/Danny KEMP

41とはずがたり:2014/05/27(火) 15:55:39

空港跡地再開発に「ノー」=「ベルリン大空輸」の舞台−ドイツ
http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&amp;k=2014052600453

 【ベルリン時事】ドイツのベルリンで25日、第2次大戦直後の冷戦時代に「ベルリン大空輸」の舞台となったテンペルホーフ空港跡地の活用方法をめぐる住民投票が行われ、市当局が計画したアパートや商業地区の開発計画が否決された。反対票は64%に達した。
 冷戦初期の1948年6月、旧ソ連統治地区に囲まれた西ベルリンへの陸路をソ連が封鎖。米英はテンペルホーフ空港に物資を空輸し、市民生活を支えた。同空港は2008年に閉鎖。10年から市民に開放され、週末はたこ揚げやバーベキューを楽しむ人たちでにぎわっている。
 計画では、3平方キロの敷地のうち、0.7平方キロに4700戸のアパートのほか、学校や図書館、商業施設を設置。残る2.3平方キロは公園として残す予定だった。(2014/05/26-14:38)

42とはずがたり:2014/08/19(火) 21:15:13
俺的にはこっちのスレ向けの記事である♪

<スコットランド独立>著名人も論争熱く 投票まで1カ月
毎日新聞社 2014年8月19日 11時51分 (2014年8月19日 16時06分 更新)
http://www.excite.co.jp/News/world_g/20140819/Mainichi_20140819k0000e030181000c.html

 【ロンドン小倉孝保】英国北部スコットランドの独立の是非を問う住民投票(9月18日)まで1カ月を切った。スコットランドやイングランド出身の著名人も独立を巡り賛成や反対を表明し、激しく対立している。

 独立を強く支持しているのはスコットランド出身の名優、ショーン・コネリーさんだ。映画「007」シリーズの初代ジェームズ・ボンド役のコネリーさんは「独立賛成運動はスコットランドの積極的な展望に重点を置いている」と主張。「独立は平等と民主的価値の基盤だ」と訴える。スコットランド人としての誇りを重視するコネリーさんは、スコットランドなまりの英語を話し続けている。

 さらに、ブラックジョークで人気を博すコメディアン、フランキー・ボイルさんや米ハリウッドで活躍する映画俳優、アラン・カミングさんらスコットランド出身者が独立支持を表明している。

 一方、独立に反対しているのが人気小説「ハリー・ポッター」の著者、J・K・ローリングさんだ。英南西部イエイト出身のイングランド人だが、スコットランド・エディンバラで「ハリー・ポッター」を書き、現在もこの街で暮らしている。

 ローリングさんは6月、独立反対キャンペーンに100万ポンド(約1億7000万円)を寄付したことを明らかにした。「独立は経済的にリスクが大きい」と主張している。

 また、英ロックバンド、ローリング・ストーンズのミック・ジャガーさんや歌手のスティングさん、車いすの理論物理学者、スティーブン・ホーキングさんら著名人約200人が先日、連名で独立反対を表明。歌手のデビッド・ボウイさんも独立反対を呼びかけている。

 このほか、サッカー・プレミアリーグのマンチェスター・ユナイテッド元監督のアレックス・ファーガソンさんや歌手のスーザン・ボイルさんら、スコットランド人としての誇りを持っている著名人の中にも独立に反対している人は多い。

 態度を表明していない人には、スコットランド出身で昨年のテニス・ウィンブルドン選手権で優勝したアンディ・マリー選手がいる。

44とはずがたり:2015/04/24(金) 17:28:14

ヴァルター・ラーテナウ
出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%8A%E3%82%A6 及び 臼井隆一郎『コーヒーが廻り世界史が廻る』中公新書1992

ヴァルター・ラーテナウ(Walther Rathenau, 1867年9月29日 - 1922年6月24日)は、ドイツの実業家、政治家、作家。ヴァイマル共和国初期に外相を務め、ソビエト連邦とラパッロ条約を締結したが、極右テロ組織に暗殺された。

経歴
実業家・文筆家

のちにAEG(「一般電気会社」)の共同設立者となるユダヤ人実業家エミール・ラーテナウの長男として、ベルリンに生まれる。1886年からシュトラスブルク大学およびベルリン大学で物理学、哲学、化学を学び、博士号を取得。1890年からはミュンヘン工科大学で機械工学を学んだ。当初彼は父親の仕事を継ぐことを嫌って芸術家、軍人、外交官への道を目指していたが、結局父親の仕事を受け継ぎ、1893年からAEG社によるビッターフェルトやラインフェルデンでの工場設立を担当した。1899年からはベルリンの商社の経営に参画した。1907年頃にベルリンの通運会社(商社と同じ?)から身を引いた彼は文筆に生きるか政界に進出するか去就に迷っていた。その頃ドイツは東アフリカ植民地での植民地経営に失敗し,再建の為に首相ハンス・フォン・ビューローは帝国植民地大臣ベルンハルト・ダルンベルクを東アフリカに派遣することにしたが,ダルンベルクは再建策を講ずる為に彼の最も信頼する友人であり,またドイツ経済界の最も優れた知性であったラーテナウに同行を求めた。そこでラーテナウはその求めに快諾し政界への第一歩を示すことになる。東アフリカでは原住民の価値を解き,現地でのコーヒー栽培の不利を指摘し,またドイツ人入植者がイギリスのジェントリー的な中間層気質に欠けていると指摘した。その後1912年にラーテナウはベルリンの商社の社長となる。AEG社監査役として1904年以降80社もの監査役を兼ねた。

ドイツ経済界で大きな役割を演じていたことは、彼がユダヤ系ドイツ人の有力経済人からなる「友愛協会」の会員に迎えられたことからも窺える。電機業界が不況を迎えた際はカルテル戦略で乗り切る手腕を見せ、1914年に第一次世界大戦が始まると、軍需物資供給組織の指導者として適役とみなされるようになる。国防大臣の下に戦時原材料局が置かれそのトップにラーテナウが就任して辣腕を振るった。例えばラーテナウの下に置かれた戦時栄養科はコーヒーの確保に奔走した。1915年に父が死んだが、最高顧問だった彼はAEG社の後継会長には就任せず、父の共同経営者にその地位を譲り、特権と「AEG総裁」という肩書きのみを受けた。

こうした実業家としての反面、彼は資本主義・物質主義万能の世の中に批判的な見解も持っており、文学によってそれを改善したいと考えていた。ジャーナリストのマクシミリアン・ハルデン(マックス・ハーデン)を支援してその週刊誌発行を助け、また同誌にたびたび寄稿した。最初の寄稿は1897年の「聞け、イスラエルよ」という論文で、近代のユダヤ人に対する異議申し立てだった。政治的にも倫理的にも、ヴィルヘルム2世時代の排外主義に反対の立場だった。またリベラルな市民の政治参加を目指し、自らもドイツ帝国の外交政策、特に植民地政策に影響を及ぼそうとした。

45とはずがたり:2015/04/24(金) 17:28:44
>>44-45
政治家

第一次世界大戦が始まると、彼はドイツが戦争をするには経済的準備が不足していると主張し、産業界に国家の注意を向けさせるために1915年3月まで軍事省戦時原料局長をしていた。この活動はドイツの物資不足を防ぐためとも、公共の福祉を目指す効率的な統制経済を実現するためとも言われる。経済に関するそうした考えを1917年の著書「来るべきことについて」でも表明している。彼はその目的のため大蔵省次官就任を目指したが失敗に終わり、軍事省を去った。のち1918年の終戦までAEG社の軍需物資生産監督に集中し、また戦後の非軍需物資生産の計画を立てていた。一方で1916年には軍事省の会議に出席して、他の産業界代表と共にドイツ軍占領下にあるベルギーの市民を強制労働のためドイツに連行することを主張している。

大戦が終了しヴァイマル共和国が成立すると、ラーテナウの政治への傾斜はさらに大きくなった。彼は経済専門家としてドイツ民主党(DDP)の共同設立者となり、「産業の社会化に関する委員会」の委員に就任。連合国との緊張緩和政策や交渉の手腕、そして国際的知名度が注目され、1921年5月にヨーゼフ・ヴィルト内閣に再建担当大臣として招聘された。大臣としてこの年10月にフランスとヘッセン州・ヴィースバーデンでヴィースバーデン協定を結び、賠償金の現物による支払いを定めた。直後に大臣を辞したが、ロンドンやカンヌで開催されたドイツ政府の外交交渉には参加している。翌1922年1月、ジェノア会議にドイツ代表として参加するため第二次ヴィルト内閣に外務大臣として招聘された。賠償金問題では成果を得られなかったが、成立間もないソビエト連邦とラパッロ条約を4月に締結、ドイツ外交の範囲を広げその価値を高めることに成功した(同時に連合国からは疑惑の目で見られた)。この条約は民族主義者からも歓迎され外相としての評価を高めたが、共産主義国家との提携は極右の忌むところとなった。

ラーテナウの墓
暗殺・死後

1922年6月24日、ベルリン近郊のグルーネヴァルトでオープンカーに乗っていたラーテナウは極右テロ組織コンスルに属する青年二名に狙撃され、頭部を撃たれて死亡した。犯人たちは翌月逃亡先で警官隊と銃撃戦の末に銃殺されて死亡した。狙撃犯を車で運んだ男は懲役15年、見張り役だったエルンスト・フォン・ザロモンは懲役5年の刑を受けた。また、ラーテナウの付運転手でコンスルの一員だったE・W・テーヒョフはラーテナウの暗殺計画を手助けをしたため懲役15年の刑を受けた。ザロモンとテーヒョフらは要人暗殺でヴァイマル共和政を揺るがすことを企んだが、却って共和政を護ろうという世論が高まり、のちに外相となりノーベル平和賞を受賞したグスタフ・シュトレーゼマンはラーテナウの外交政策を引き継いでいく。ヴィルト首相は国会での追悼演説で「敵は右側にいる!」と叫んだ。この事件を受けて共和国防護法が制定されたが、この事件の実行犯のような右翼ではなく共産主義者など左翼を対象にした法律だった。

ドイツの現代史家で評論家のゼバスティアン・ハフナーは1939年に「ラーテナウは20世紀のドイツの歴史で五本の指に入る偉大な人物であるのに、その伝記はろくにない。彼は貴族的でありながら革命家であり、理想主義的でありながら実業家であり、ユダヤ人でありながらドイツ愛国者であり、愛国者でありながらリベラルな世界市民であり、リベラルな世界市民でありながら千年王国の信者であり法の守護者だった」と評している。

46名無しさん:2015/05/31(日) 21:16:26
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150526-00010000-nknatiogeo-sctch
青銅器時代の若い女性のグローバルな生き方が判明
ナショナル ジオグラフィック日本版 5月26日(火)10時10分配信

 1921年、デンマークのエクトヴィズ付近で、非常に保存状態のよい青銅器時代の女性の遺体が発掘された。3500年前に16歳から18歳で亡くなったとされるその女性は、「エクトヴィズ・ガール」という名で知られている。新たな分析により、彼女は遠く離れた場所で生まれ、長距離を旅していたことが明らかになった。エクトヴィズ・ガールは、家でじっとしているタイプではなく、世界をわたり歩くコスモポリタンだったようだ。

 この研究は、『Scientific Reports』5月21日号に発表された。論文の筆頭著者であるデンマーク国立博物館の考古学者カリン・フレイ氏は、「現代人は、自らを高度に発展した人間であると思い、グローバル化を新しい現象のように考えています」と言う。「ところが先史時代の研究が進むにつれて、人類は大昔からグローバルに暮らしていたことが明らかになってきているのです」

 フレイ氏は、ストロンチウムという元素の同位体比の微妙なばらつきを分析する専門家だ。ストロンチウムは地殻中に広く分布していて、植物や動物の組織に蓄積する。この元素の同位体比は場所ごとに異なるため、体の各部位に含まれるストロンチウムを調べれば、その組織が形成されたときに地球上のどこにいたかがわかるのだ。「いわば、地質学的GPSですね」

 エクトヴィズ・ガールの各部位に含まれるストロンチウムを、ヨーロッパ北西部各地のストロンチウムと比較することで、いくつのときにどこで暮らしていたかを突き止められるのだ。

 生まれ育った場所は、歯のエナメル質に含まれるストロンチウムを調べれば分かる。歯のエナメル質は子供時代にのみ形成されるからだ。分析の結果、彼女はエクトヴィズから800kmも離れた、現在のドイツ南西部にあたる地域で生まれたらしいことが明らかになった。

 彼女が着ていた羊毛製の衣服の繊維は、場所を厳密に特定するのは難しいものの、ドイツのシュバルツバルト地方のものであるようだ(彼女は、なかなかおしゃれなブラウスとミニスカートを身につけて埋葬されていた)。

「エクトヴィズ・ガールはデンマークでは非常に有名で、デンマーク人は皆、学校で彼女のことを教わります」とフレイ氏は言う。「彼女は確かにデンマークで発見されましたが、とても国際的な女性でした」

 彼女が死ぬ前の2年間を暮らした場所は、毛髪と親指の爪に蓄積されたストロンチウムを調べれば分かる。分析の結果、彼女はその時期にデンマークと生まれ故郷の間を2度行き来していたという。

47名無しさん:2015/05/31(日) 21:17:04
>>46

この時代に交易経済の基礎が発展した
 今となってはエクトヴィズ・ガールが旅をした理由を正確に知ることは不可能だが、青銅器時代には部族間で盛んに同盟が結ばれていた。フレイ氏は部族間の同盟を強固にし、交易を安定させるために、彼女が北方の首長のもとに嫁いだのではないかと考えている。(参考記事:「青銅器時代の沈没船:黄金の腕輪」)

 英国の歴史保存団体「Historic England」で青銅器時代を研究しているジョナサン・ラスト氏は、今回の研究は「青銅器時代の社会システムの規模や、遠く離れた部族との接触や移動のあり方について、新たな疑問を投げかけるものです」とコメントしている。(参考記事:「地中海東岸の文明は干ばつで崩壊?」)

 さらなる証拠がないかぎり、エクトヴィズ・ガールが政略結婚のためにデンマークに嫁いできたと断言することはできない、とラスト氏は言う。「例えば、2つの地域を頻繁に行き来していたという事実は、彼女が政治の道具というよりは、むしろ自主性の高い人物だったと示すことにならないでしょうか?」

 デンマーク国立博物館の青銅器時代の専門家フレミング・カウル氏によると、北欧青銅器時代の女性たちは、首長の跡継ぎとなる直系男子がいない場合などには、政治権力を握ることもあったという。「この時代の女性たちが、ほかの部族に嫁ぐという形をとらずに、みずから部族間の交渉を行い、友好関係を結ぶことができた可能性はあります」

 エクトヴィズ・ガールが生きた時代には、旅人や客人を手厚くもてなす風習が生まれた。この変化が長距離の移動を可能にし、交易にもとづいた経済の基礎を作った。彼女もまた、こうした変化の恩恵を受けていたのかもしれない。

 今後の研究で、エクトヴィズ・ガールが示唆する可能性はさらに広がりそうだ。「彼女はますますミステリアスな存在になりました」とフレイ氏は言う。「彼女は大昔に発見されましたが、これからさらに多くの事実を語ってくれることでしょう」

文=Brandon Keim/訳=三枝小夜子

48名無しさん:2015/05/31(日) 21:18:02
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150306-00010000-nknatiogeo-sctch
古代エジプト王の壮絶な死が遺骨から明らかに
ナショナル ジオグラフィック日本版 3月6日(金)10時11分配信

 謎のベールに包まれていたファラオの遺骨を分析した結果、暴力にまみれた壮絶なその最期が明らかになった。遺骨は2014年に発掘されたばかりだった。

 古代エジプトの王、セネブカイが生きたのは紀元前1650年から1550 年ごろで、遺骨が見つかったのはカイロから約480キロメートル南方にある聖地アビドスの埋葬地。2014年1月、まず4人のファラオの墓が見つかり、このうちの1人がセネブカイと特定された。

 最新の遺骨の分析結果では、複数の敵からアヒルのくちばしのような形をした青銅製の斧で殴打されていたことが判明した。骨まで到達した傷が18もあり、頭蓋骨と背中への打撃が致命傷になったことがうかがえる。

 米国ペンシルバニア大学の考古学者で発掘班のリーダーを務めるジョー・ウェグナー氏は、セネブカイは複数の敵から切りつけられるなど激しい攻撃を受け、命を落としたとみる。

骨が語るラストシーン
 ウェグナー氏のチームは、遺骨に残った傷の角度や位置を分析し、どのような状況で傷ができたのかを推測した。

 襲撃されたとき、王は馬に乗っていた可能性が高い。右の足首が切断されるほどの重傷を負い、大量出血したとみられ、両膝と両手の複数の傷からは激しい攻撃がうかがわれる。腰の傷は座った状態で受けたもののようだ。

 頭部の3カ所に斧による致命的な傷を受けた時には、セネブカイはすでに地面に落下していたとみられる。この傷のうちの1つは非常に大きな力によるもので、頭蓋骨に刃の形と厚さが跡となって残っていた。

 ウェグナー氏は、セネブカイは明確な殺意をもって襲撃されたとみている。政治的なライバルによる暗殺の可能性はあるものの、戦闘中かあるいは待ち伏せによる攻撃に遭って死亡したと同氏は考える。「傷からみて、戦闘訓練を受けた兵士の攻撃だったと思われます」

知られざる王の姿にせまる
 遺骨を分析したニュージャージー州ローワン大学のジェーン・ヒル氏とマリア・ロサド氏は、セネブカイの死亡時の年齢を35〜40歳と割り出した。当時の人としては非常に背が高く、約170〜183センチメートルほどあったことも明らかになった。

 セネブカイの時代は古代エジプトの第2中間期と呼ばれ、王朝は分裂し、富が失われた時代だった。セネブカイの墓は直径約150フィート(46メートル)のエリアの周辺に散在する7つの地下構造物の1つである。そのうちの4つから多くの遺骨が発見された。

 残りの3体も同じ時代のファラオの遺骨とされているものの、人物を特定できたのは墓壁に王であることを示す「カルトゥーシュ」と呼ばれる線が刻まれていたセネブカイだけだった。セネブカイの名はトリノ王名表と呼ばれるパピルスの文献に書かれている名前とも一致する。

 大腿骨や骨盤の遺骨には、セネブカイが長時間にわたり馬のような動物に乗っていたことを示す特徴がみられた。この頃、近東からエジプトへ馬が持ち込まれており、少し後の時代の記録からは王や有力な軍人が馬を使用していた事実が確認されている。

49名無しさん:2015/05/31(日) 21:18:27
>>48

ファラオが自ら戦った時代
 セネブカイ以外の遺骨の1つは、鍛えられた肉体を持つ男性のもので、左腕を頻繁に使っていた形跡がある。アーチェリーまたは戦闘訓練を行っていた可能性があり、これら7つの墓は戦士のファラオが分割統治していた時代を示しているのかもしれないとウェグナー氏はいう。

 この時期にアビドス王朝は、北部のヒクソスまたは南部のテーベに脅かされていたとされる一方、王朝内部にも軋轢があった可能性がある。

 セネブカイが死亡した場所や、統治した王朝の規模は不明だが、遺骨のすぐ近くに布があった様子からすると、死後すぐにミイラにされたのではないようだ。遺体はおそらく数週間、埋葬されずに置かれるか別の場所へ移された後、ミイラにされ埋葬されたとみられている。

 ナショナルジオグラフィック協会も支援するアビドス遺跡の発掘は今年夏に再開される予定だ。

文=Nick Romeo/訳=キーツマン智香

50とはずがたり:2015/06/16(火) 00:23:12
第一次世界大戦の影響で汚染された、知られざる立ち入り禁止地域。フランス「ゾーン・ルージュ(レッドゾーン)」
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52193942.html
2015年06月10日

51とはずがたり:2015/06/17(水) 12:43:21
なんで.5がフランスをからかう意味になるのかよく判らんけど。。

ワーテルロー200年記念」硬貨に仏が横やり
http://www.yomiuri.co.jp/world/20150613-OYT1T50073.html?from=yartcl_outbrain1
2015年06月13日 17時58分
 【ブリュッセル=三好益史】皇帝ナポレオン1世が大敗したワーテルローの戦いから200年となるのに合わせ、ベルギー政府は2・5ユーロ(約350円)の記念硬貨を発行する。


 当初はユーロ圏共通の記念硬貨の予定だったが、フランスの横やりでベルギー国内だけでしか使えない限定硬貨としてお目見えする。

 ベルギー政府は今年2月、2ユーロ記念硬貨の発行を発表したが、ナポレオン1世を英雄視する国民が多い仏側から「国民の反感を買う」などと抗議され断念。ユーロ硬貨は各国が独自デザインを採用できるが全加盟国の承認が必要なためで、鋳造済みの18万枚は処分に追い込まれた。しかし、ワーテルローの戦いは「歴史上、重要な出来事」だとして、ベルギー国内の限定硬貨で復活。額面を2・5にしたのは「フランスをからかう意味も込めた」(王立ベルギー造幣局報道官)という。

52名無しさん:2015/07/12(日) 09:35:41
西洋だけの話ではないですが、このスレで良いかな?

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150704-00075652-toyo-bus_all
ネアンデルタール人の謎、こうやって解いた
東洋経済オンライン 7月4日(土)6時0分配信

『ネアンデルタール人は私たちと交配した』(スヴァンテ・ペーボ /著)は、人類のルーツをめぐる最大のミステリーを古代ゲノム解読で突き止めた、スヴァンテ・ペーボ博士による回想記である。
本書の読みどころは、科学的な実験によって明かされる様々な事実の面白さのみならず、それを導き出すまでの長きに渡るプロセスも、余すところなく描いている点だ。「科学の営み」における光と影、その両面を知り尽くした分子古生物学者・更科 功博士の巻末解説を特別に掲載いたします。(HONZ編集部)

 私たち現生人類、すなわちホモ・サピエンスは、2番目に脳が大きいヒト族である。そのホモ・サピエンスのひとりが、地球の歴史上、いちばん脳が大きいヒト族であったネアンデルタール人に興味を持った。彼はまったく新しい方法を使って、これまでまったくわからなかったネアンデルタール人の行動を明らかにした。それは、私たちホモ・サピエンスとネアンデルタール人の性交渉である。ホモ・サピエンスとネアンデルタール人は、セックスをしていたのだ。

■ 両者の関係はどうだったのか? 

 数万年前に、私たちホモ・サピエンスとネアンデルタール人が出会った時に、何が起きたのか。石器の技術が伝わるといった文化的交流はあったらしい。おそらく物々交換も行われていた。もちろん、争うこともあっただろう。ネアンデルタール人が絶滅したのは、ホモ・サピエンスが虐殺したからだと推測する人もいるぐらいだ。しかし実は、両者が争ったことを示す明確な証拠は今のところない。希望的観測かも知れないが、両者の関係は、おおむね良好なものだったのではないだろうか。

 となると次に興味が湧くのが、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人の男女関係だ。ホモ・サピエンスとネアンデルタール人の体格は、ほぼ同じである。ネアンデルタール人のほうがガッシリしている分、体重はありそうだが、交配ができないほどの違いではない。ネアンデルタール人はヨーロッパという寒いところに適応したヒト族なので、おそらく色白だっただろう。ネアンデルタール人は、私たちから見ても、それなりに魅力的だったのだろうか。また逆に、ネアンデルタール人から見て、私たちはどういう存在だったのだろう。自分たちよりちょっと華奢で、ちょっと色黒で、上手に石器を作る手先の器用な人類といったところだろうか。本当にそんな両者が、交配することがあったのだろうか。

 こればかりは、いくら考えても仕方がないと思われていた。化石の形態を見てもはっきりしたことが言えない以上、これは永遠に解かれることのない謎だと考えられていたのだ。ところが、その謎が鮮やかに解けたのだ。

53名無しさん:2015/07/12(日) 09:35:52
>>52

■ 順風満帆ではなかった男が永遠の謎を解いた

 謎を解いたのは、スウェーデン人の分子古生物学者、スヴァンテ・ペーボである。彼とその仲間たちはネアンデルタール人のゲノムを明らかにして、私たちホモ・サピエンスのゲノムの中に、ネアンデルタール人の遺伝子が入っていることを突き止めたのである。『ネアンデルタール人は私たちと交配した』(文藝春秋)は、そんな彼の自伝である。しかしこれは、自伝以上のものでもある。なぜなら、新しい分野の先頭を歩いていく研究者の人生は、その新しい分野が発展していく姿そのものでもあるからだ。

 しかしペーボの研究生活は、順風満帆というわけではなかった。実はペーボには、若い時にエジプトのミイラのDNAを研究して失敗した、苦い経験があった。ミイラのDNAが見つかったという論文を発表したのだが、後にそのDNAは現代人のものであったことが判明したのだ。古代DNAの研究の難しさを身をもって知ったペーボは、それからは慎重になり、ナマケモノなどを対象として、地味ながらもきちんとした研究を続けていた。

 ところがそれが、ペーボの新たな苦難の始まりだったのだ(ちなみに「古代DNA (Ancient DNA)」と「化石DNA (Fossil DNA)」は同じ意味だが、古代DNAの方が一般的である)。

 私(更科)は、神奈川県の茅ヶ崎の近くにある私立大学で、非常勤講師をしている。もともとは短期大学だったせいか、敷地はそう広くないけれど小ぎれいで、周囲は木々の緑に囲まれている。とても気持ちのよいところで、行くのが毎週楽しみだが、駅から遠いのだけが、ちょっと不便である。最寄り駅が2つあるのだが、どちらもバスで30分近くかかる。しかもピークを外すと、バスの本数が少ないのだ。

 そろそろ木枯らしが吹き始めたある日、帰ろうと思って大学構内にあるバスロータリーに行くと、そこは学生であふれかえっていた。もう夜だったのだが、何か大学でイベントでもあったのかも知れない。長蛇の列がバスロータリーからはみ出し、大学の中心につながる通路にまで伸びている。遅い時間にこんなに混むのは珍しいので、学生も驚いたのだろうか、半分喜んでキャアキャア騒いでいる。まるでお祭りのようだ。まあ私は、うるさいのは嫌いではないので、周りでキャアキャア騒いでいるのは楽しいのだが、とにかく並ばなくてはバスに乗れない。

54名無しさん:2015/07/12(日) 09:36:16
>>53

 バスの間隔は20分から30分である。次のバスに乗るのは絶対に無理なので、乗れるのはその次か、さらにその次になるだろう。

 そういう状況になると、ちょっとズルイことをする学生が現れる。

 「知り合いの女の子を見つけて、入れてもらおうぜ」

 そんなことを言いながら、どんどん前の方に行ってしまう学生がいる。なんで「女の子」なのかはよくわからないが、女子学生の方が頼まれると断りづらくて、入れてもらえるということなのかも知れない。たしかに寒空の下で、1時間近くも待つのはつらい。でもほとんどの学生は、ズルをする人に文句を言うでもなく、正直に並んでいる。心の中では面白くないと思っている学生もいるかも知れないが、それでも正直に並んでいる。

 そんな学生を見ると、私はペーボを思い出すのだ。ペーボもやはり、バスを待って並んでいたのだ。冷たい風が吹きすさぶロータリーで、ズルをする学生に追い越されながら、正直に並んでいたのだ。それも1時間ではない。20年も並んでいたのだ。

■ いい加減な『ジュラシック・パーク』研究の流行

 時は1990年。ペーボのグループがせいぜい1万数千年前の古代DNAを研究していた頃のことだ。ある別のグループが、衝撃的な論文を発表した。なんと約2000万年前の植物の化石からDNAを抽出し、そのDNAの塩基配列を決定したというのだ。これまでペーボが研究してきた古代DNAよりも千倍以上も古い。しかも報告されたのは820塩基対もあるDNAだ。ペーボたちが報告してきた100塩基対程度のDNAよりもはるかに長い。世界はペーボたちの研究のことなどすっかり忘れて、この植物化石の古代DNAに夢中になった。

 さらにこの1990年は、『ジュラシック・パーク』という小説が出版された年でもあった。この小説では、植物の樹液が固まった琥珀の中から、蚊の化石が発見される。この蚊は恐竜の血液を吸っていたので、小説の中の研究者は、蚊の化石から恐竜のDNAを取り出すことに成功する。そして生きた恐竜を現代によみがえらせてしまうのだ。

 だが、この小説は、ただの夢物語では終わらなかった。この『ジュラシック・パーク』が映画化された1992年には、本当に琥珀の中のシロアリから古代DNAが抽出されたという論文が発表されたのだ。この琥珀の中のシロアリは、約3000万年前のものだった。そしてその後も、琥珀の中の昆虫からDNAが抽出されたという報告は続き、ついには1億年前よりも古いDNAまで報告されるようになった。

 だが、ペーボにはわかっていた。古代DNAを取り出すことは、とても難しい。化石の中にあるDNAのほとんどは、後の時代に混入したDNAなのだ。古代DNA専用のクリーンルームで細心の注意をはらって抽出しても、まだ不十分なのだ。さらにさまざまな工夫をして、混入しているDNAを除かなくてはならない。

 しかし、数千万年前よりも古いDNAを報告している論文はみな、そういう古代DNAの抽出には必須の手続きをまったく踏んでいなかった。はっきり言って、いい加減な論文だらけだったのだ。そもそも、そんなに古いDNAが残っているはずはないのだ。そもそも、そんなに長いDNAが残っているはずもないのだ。しかし世界は、いい加減な論文が報告し続ける衝撃的な結果に沸いていた。そしてついに1994年には、恐竜のDNAが報告されることになる。8000万年前の恐竜のDNAだ。もちろんペーボは反論したが、なかなか熱狂は収まらなかった。

55名無しさん:2015/07/12(日) 09:36:48
>>54

 このころのペーボの心中は、察するに余りある。ペーボは数万年前の古代DNAを抽出するにも大変な労力を使い、DNAの塩基配列も細かく検討して、やっとのことで正しいと思われる結果を導き出していた。だが多くのグループは、大した工夫もせずに1億年ぐらい前の古代DNAの抽出を試み、明らかに間違った結果を発表しては、世間の賞賛を浴びていたのだ。そんな風潮の中で、ペーボは疲れて反論をしなくなっていく。

 そして、たとえ世間の注目を浴びなくとも、自分の研究を地道にきちんとして、正しい結果を報告していこうと思うようになる。そう決意したペーボの姿を、私は慕わしく、また尊いものに思う。彼はどんどん人に追い越されながらも、正直にバスに並び続けたのだ。

■ ネアンデルタール・レースで大逆転

 しかしペーボの場合は、その後に大逆転がやってくる。ネアンデルタール人のゲノムの解読だ。絶滅した人類のゲノム解読レースはスリリングで、読んでいるだけで息苦しくなるほどだ。そしてこの分子古生物学における最大のレースで、ついにペーボは世界のトップに立つのである。

 そういう意味で、この本は読み物としてとても面白くできている。痛快な気分が味わえる。でも、もしもその大逆転がやってこなくても、地道に研究をするペーボの姿に共感するだけでも、この本を読む価値はあるだろう。

 古代DNAの塩基配列が初めて報告されたのは、1984年である。クアッガというシマウマの仲間の剥製から取り出したDNAの塩基配列が決定されたのだ。一応この論文の発表をもって、古代DNA研究のスタートとみなしてよいだろう。そして、ペーボの失敗であるミイラの古代DNAの論文は、その翌年の1985年に発表されている。ペーボは古代DNAの研究を最も早く開始した研究者のひとりなのだ。そして古代DNA研究の最大のヒットであるネアンデルタール人のゲノム解読を計画し主導した人物でもある。時期的にも、そしてその中心的な役割からも、ペーボの研究生活は、古代DNA研究の発展の歴史そのものなのだ。

 ペーボの人生は、古代DNAの研究の面白さだけでなく、いかがわしさにも翻弄されてきた。しかし、台風一過で空が晴れ渡るように、古代DNA研究のいかがわしさも、過去のものとなりつつある。

 そのいかがわしさを取り除いた最大の功労者が、ペーボなのだ。どうやら彼の研究生活は、ハッピーエンドで終わりそうである。

更科 功

56とはずがたり:2015/08/24(月) 23:25:32
パリ、革命以来のパン不足 販売店が一斉バカンス 市民は制度廃止に恨み節
http://news.goo.ne.jp/article/businessi/business/fbi20150824501.html
11:21フジサンケイビジネスアイ

 フランス革命(1789〜99年)の前夜、王妃マリー・アントワネット(1755〜93年)は、食べるパンがないと民衆がパリでデモ行進を始めると、「パンがないのなら、ケーキを食べたらよろしいのに」と語ったとされる。そのパリでこの夏、革命期以来実に225年ぶりにパン不足に見舞われている。オランド政権の規制緩和策の一環で、今年から、首都のパン店が自由に夏のバカンスを取れるようになり、8月に休業が集中してしまったためだ。一軒もパン店が営業していない地区も多数存在し、日本人が主食のコメにこだわる以上においしい焼きたてのフランスパンに執着するパリっ子たちの不満は、爆発寸前だ。

 ◆1790年から休業管理

 「パリは何というグロテスクな様態をさらしてしまったのでしょう。ある程度の混乱は予想されたが、ここまでひどいとは…」。フランスパンに関するブログを立ち上げているレミ・エリュインさんは仏メディアにこう語った。

 パリでは昨夏まで、約1100軒あるパン店のうち約600軒が、市当局によるバカンス取得管理の対象店になっていた。市当局が7月と8月に2〜3週間の休業をこれらの店に、年ごとのローテーションで強制的に割り振っていたのだ。どの地区でも常時、半数以上のパン店が営業している状態を確保するための制度で、休暇を取るパン店は店頭に「近所で開店中のパン店の住所」を明記した貼り紙をすることも義務づけられていた。許可日以外に休んだり、貼り紙義務を怠ると1日当たり11〜33ユーロ(約1500〜4500円)罰金が科せられるため、違反店は例年十数店にとどまっていた。

 この制度が始まったのはフランス革命の最中の1790年。その前年にパリは深刻な食料不足に陥り、多くのパン店が暴徒による打ち壊しを受けたため、安定的なパン供給を意図した措置だった。以来、王政復古やナポレオンによる帝政時代などを経ても昨年に至るまで、変わることのなかった世にも珍しい制度であった。

 ◆営業わずか3分の1

 ところが昨年、オランド政権は景気刺激を狙って、フランス伝統の小売店の「日曜休業法」の一部見直しなどとともに、この「首都におけるパンの供給を確保するための休暇規定」制度の廃止を決めた。

 「人生はバカンスのためにあり、バカンスのために仕事をしている」。これが大多数のフランス人に共通の考えであり、パリのパン店主たちも例外ではない。もともと、多くの国民が夏の間に5週間の法定有給休暇の大半を消化している中、2?3週間では短すぎるとして不満が多かったうえ、営業しても客が少ない8月に休めない年は嫌がられていた。

 当然の帰結として、パン店主たちは今夏、例年よりも多い4〜5週間の休暇を取り、時期も8月に集中してしまった。この8月下旬、パリで営業しているパン店は、全体の3分の1にも満たないという。

 ◆「来年は戻して」

 スーパーでもパンは売っているが、名物のバゲット(細い棒状のパン)をはじめフランスパンは焼きたてが命だ。

 36歳の芸術家の男性は英紙テレグラフに「やむなくスーパーで買ったけれど、やはりまずい。今年は、家で二度焼きして仕上げられるように、半焼きのパンも売っているが、なじみのパン店と同じ味は出せない」と語った。若い主婦は仏メディアに「みんなが好き勝手に店を休んだら、パリっ子はおいしいパンを食べられなくなるのがよく分かった。来年は元の制度に戻してほしい」と憤りを示した。

 豊かになったとはいえ、21世紀の現在でも、「パンがなければ、ケーキを食べる」というわけにはいかない。(SANKEI EXPRESS)

57名無しさん:2015/09/12(土) 11:39:01
>>52と同じく西洋だけの話ではない記事です。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150910-00010002-nknatiogeo-sctch
小顔のヒト属新種ホモ・ナレディを発見、南ア
ナショナル ジオグラフィック日本版 9月10日(木)18時24分配信

1500以上の化石、ヒトとアウストラロピテクスの特徴をあわせもつ
 南アフリカ・ヨハネスブルク郊外の洞窟でヒト属(ホモ属)の新種が発見され、ホモ・ナレディ(Homo naledi)と名付けられた。頭が小さく、部分ごとに原始的な特徴と現代的な特徴をあわせもつという。米ナショナル ジオグラフィック協会付き研究者で南アフリカ・ウィットウォーターズランド大学の古人類学者リー・バーガー氏らが、9月10日付け学術誌「eLife」に発表した。

 発見現場はヨハネスブルク北西およそ50キロにあるライジング・スター洞窟。この一帯は、20世紀前半に初期人類の骨が多数出土し、「人類のゆりかご」と呼ばれるようになった。研究チームは2013年以降ここで1550以上の骨を発見。これはアフリカ大陸では過去最大規模で、少なくとも15体分に相当するという。

新旧入り交じる特徴
 頭骨、顎、肋骨、多数の歯、それにほぼ完全な状態の足の骨。年老いた成人や未成年者の骨、さらには幼児のものとみられる小さな脊椎も見つかった。復元モデルを分析すると、部分的には驚くほど現代的な特徴を備えていたが、アウストラロピテクス属よりもさらに類人猿に近い、原始的な特徴も見られた。

 たとえば、手の骨のつながり方はとても現代的なのに、なぜか指だけは樹上で生活する動物のように曲がっていた。肩の骨も猿人に近い。脚の骨では、大腿骨のつけ根はアウストラロピテクス属と似ているが、下に行くにつれて現代的になる。足の形態にいたっては、私たちの足とほとんど区別がつかない。

「腰に線を引いて上は原始的、下は現代的と分けられそうでした」と、米デューク大学の古生物学者スティーブ・チャーチル氏は言う。「足の骨だけ見つけたら、現代のアフリカの奥地にいる狩猟民族の骨だと思うでしょう」

 だが、頭の骨は極めて原始的だった。全体的な形態はヒト属に分類できるほど進化したものだったが、脳容量はわずか500立方センチほどとホモ・サピエンスの半分にも満たない。大きな脳は、知能を頼りに生存するように進化した種の特徴であり、ヒト属の証しと言ってもいい。であれば、これはヒト属の骨ではないことになる。

「脳はとても小さいのに、それを支えている体は決して小さくはないのです」。成人男性は身長約150センチ、体重約45キロで、女性はそれより少し小柄だと推測された。「こうした証拠から、アウストラロピテクス属からヒト属に進化する移行期に位置する種と考えられます」と、バーガー氏は語る。

58名無しさん:2015/09/12(土) 11:40:20
>>57

なぜ洞窟の奥に人骨が?
 ライジング・スター洞窟の骨は、部分的にはホモ・エレクトス以上に現代人に近い。バーガー氏らは、明らかにヒト属に分類できると考えたが、ヒト属のどの種とも異なる特徴をもつため、新種だという結論に達した。地元の言語であるソト語で、星はナレディと言う。彼らはこの新種を洞窟の名にちなんで「ホモ・ナレディ」(星の人)と名づけた。

 ところで、このような洞窟の奥の入りにくい場所に、なぜ人類の遺体があったのだろう。
 そこが住居だったとは考えられない。石器や食べ物の化石などが一切ないからだ。骨はおそらく数百年かけて積み上げられているため、集団で洞窟に迷い込んだとする仮説も成り立たない。肉食動物が運び込んだのだとしたら、歯の痕がついた骨があるはずだが、それもない。バーガー氏らは、非常に突飛な仮説を立てている。

※ この発見についての詳細は、9月30日発売の『ナショナル ジオグラフィック日本版』2015年10月号で図解や写真を含めて詳しく紹介します。

文=James Shreeve

59とはずがたり:2015/12/21(月) 21:27:03
古代文明の歴史を覆すかもしれない!ロシアで発見された「シギルの偶像」は世界最古の木造彫刻であることが判明(共同研究)
http://www.excite.co.jp/News/odd/Karapaia_52206982.html

60名無しさん:2016/04/09(土) 21:41:56
西洋史かな?

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160405-00046508-jbpressz-bus_all
メソポタミアの都市化を進めたのは「よそ者」だった
JBpress 4月5日(火)6時10分配信

 (文:村上 浩)

 都市は人を惹きつける。整備されたインフラがもたらす快適な生活、次々にもたらされる新たな出会い、世界に解き放たれる前の情報など、都市にはヒト・モノ・カネ・情報の全てが潤沢に存在しているのだから、都市への集中は当然の成り行きとも思える。事実、1950年に30%だった都市化人口率は現在50%にまで増加しおり、国連の予測では2050年には70%近くにまで及ぶという。

 もちろん、都市にはメリットだけでなく、希薄な人間関係や経済格差などのデメリットも存在するのだが、都市化の流れは強力なものだ。

 このように「陰」と「陽」の面を併せ持つ都市は、どのように誕生したのか。本書『都市の起源 古代の先進地域=西アジアを掘る』(講談社選書メチエ)では、世界最古の都市が誕生した約5300年前の西アジアに焦点を当てることでこの問いに答えを出していく。

 考古学的手法で世界最古の都市を分析することで、その誕生過程を「流れ」として捉えられ、現代を生きる我々が当然のものとして受け入れている「都市」「国家」「権力」の本質がより深く見えてくる。本書の考察を通して、都市の誕生にはどのような要素が必要だったのか、都市は人々の生活をどう変えたのか、古代日本でなぜ都市が誕生しなかったのかなどが明らかにされていく。

 著者は考古学的に検証可能な都市の必要十分条件として、「都市計画」「行政機構」「祭祀施設」を提案する。都市計画は城壁や目抜き通りなどのハード面、行政機構は市場や絵文字的な記号などのソフト面、祭祀施設は守護神を祀る神殿などの精神面に結びつけることができる。これら3つの条件全てを満たせば都市、一部を満たせば都市的集落、ほとんどないものが一般集落となる。

 世界最古の都市であるとされることの多いパレスティナのエリコには、街路や神殿が整備されていたかは不明であり絵文字の証拠も全くないため、都市とは認定されない。著者は、『旧約聖書』に登場するエリコが過大評価されてきたのは、ヨーロッパ研究者が聖書のエピソードに引っ張られていたためではないかと推測する。

■ 最初の都市に格差はなかった

 多くの考古学者が世界最古の都市と考えているのは、イラクのウルク遺跡とシリアのハブーバ・カビーラ南遺跡だ。7000年前頃から南メソポタミア南部のシュメール地方で都市化がスタートし、約5300年前にウルクが誕生した。

 世界初の都市が西アジアで成立した理由を知るためには、まずこの地の自然環境を知る必要がある。西アジアには死海地溝帯、ヨルダン川流域、メソポタミア平原などのように、低湿地・丘陵地・山麓地という多層的な地理的環境が広がっていた。多様な地形は野生種の栽培、ヤギ・ヒツジの家畜化、土器の発明などの多様な生活様式を発展させ、ユーフラテス・ティグリス両大河に広がる沖積低地での都市誕生へとつながっていくのである。

 都市化が始まったころの人々は、一夫一婦制を基本とした平等主義の社会を生きていたという。当時の家庭が一夫一婦制の核家族を基本としていたことは、墓に埋葬されている遺体の組み合わせや、住居設備の分析から確かめられている。また、共同墓地のどれもが画一的であり、副葬品から社会的格差を見出すことはできない。余剰食物を保存していた倉庫に鍵がなかったことも、資産の管理人の不在を示しており、当時の社会の平等性の現れと考えられている。

61名無しさん:2016/04/09(土) 21:42:28
>>60

 さらに、この時代には神殿も存在しており祭祀集団がいたものの、それは専門職としての神官ではなくパートタイム的な役割として担われていた。都市化の前半は、祭祀儀礼が人々を緩くまとめる求心力として働いていながら、社会的格差や階層化が未熟な段階にあった。

■ 「よそ者」の訪れで都市化は次の段階に

 都市化が始まったころ、地球規模の温暖化が西アジアの気候を大きく変えた。約6000年前のペルシア湾の海水面は現在より2メートルも高く、5500年前の海岸線は200キロメートルも内陸に及んでいた。

 このペルシア湾の海進はメソポタミア低地の耕作地を持続不可能なものとし、多くの人々の移動を促した。この移住者達が「よそ者」として、余剰食糧をふんだんに生産する能力をもった都市的集落にやってきたことが、都市化を次なる段階へ進めることとなる。

 「よそ者」の訪れは、多くの変化を伴っていた。劇的に増加した人口の需要を満たすために、さまざまな製品を専門的に大量生産する専業工人が誕生した。さらに、倉庫には鍵がかけられるようになり、その開け閉めに必要となる判子は祭司に預けられた。異なる価値観や技能を持った「よそ者」は、新たな技術や交易の機会だけでなく、社会の階層化をもたらし、都市化を加速させていく。

 同時代の日本は同じように温暖化による人口増加を経験しながら、都市化は進展しなかった。これは、利用可能な居住地域が豊富にあったため、「よそ者」が生まれることがなかったからではないかと著者は述べている。つまり、西アジアでは「上へ」と重層的に積み重なった居住面が、日本では「横へ」広がっていったということだ。

■ 西アジアには調和と共存の足跡が残っている

 本書では当時の人々の生活が他にも多くの視点から描写されている。これからの研究でより多くのことが明らかになることを期待したいが、イラクやシリアの情勢不安から、研究再開の目処が経っていない場合も多いという。著者は以下のような願いで本書を締めくくっている。

“調和と共存の足跡が、西アジアの地に残っていることに気づいてほしい。古代の人々は知恵を絞り、工夫を凝らして、少しでも快適な空間を構築していった。対立と競合を風土とする西アジアで、いかにして価値観のぶつかり合いを和らげて、共に暮らす道を歩いてきたのか。手掛かりはすぐそこに埋もれている。”
 この手掛かりが二度と手に入らなくなってしまう前に、著者の思いが現実のものとなることを願ってやまない。

 インダス文明の謎: 古代文明神話を見直す (学術選書)
作者:長田 俊樹
出版社:京都大学学術出版会
発売日:2013-10-10

 メソポタミアとインダスのあいだ: 知られざる海洋の古代文明 (筑摩選書)
作者:後藤 健
出版社:筑摩書房
発売日:2015-12-14

 都市の誕生: 古代から現代までの世界の都市文化を読む
作者:P・D・スミス 翻訳:中島 由華
出版社:河出書房新社
発売日:2013-08-13

 ◎本稿は、“読みたい本が、きっと見つかる!”書評サイト「HONZ」の提供記事です。

HONZ

62とはずがたり:2016/05/13(金) 10:05:21

2016年05月08日(日) FERMAT 池田純一 賢者の知恵
「超知性」が人類を滅ぼす日は来るのか?欧米人が真正面から危惧している文化的理由
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48597

63とはずがたり:2016/05/16(月) 12:06:34
北清事変迄蒸し返されたらイギリスの方が悪いなw
中国はがんがん礼を失すれば良い♪

英エリザベス女王の「中国は失礼」発言に中国反発
http://www.news-postseven.com/archives/20160515_412181.html
2016.05.15 07:00

 イギリスのエリザベス女王が昨年、英国を公式訪問した習近平国家主席ら中国政府代表団について、訪問対応の総指揮にあたったロンドン警視庁の警視長に「(一行は)とても失礼だった」と発言したほか、「あなた(警視長)は運が悪かったですね」などと述べたことが中国で大きな波紋を広げている。

 中国外務省スポークスマンは「昨年訪英の際、中英両国は中英関係の『黄金時代』の新たな段階をともにつくり上げるために一歩踏み出した」とコメントしたが、党機関紙「人民日報」傘下の国際情報紙「環球時報」は強く反発。社説で、エリザベス女王について、「中国のインターネットでは『西太后』との意見もあった」として、女王を清朝末の独裁者である西太后に例えるなどしたのだ。

 エリザベス女王の発言は、女王の生誕90歳を祝いバッキンガム宮殿で10日に開かれた園遊会で飛び出したもので、園遊会に招かれたルーシー・ドーシー警視長と女王の会話がBBCによって報じられた。

 女王は習氏ら一行について、「あの人たちは大使にとても失礼でした」と、中国駐在のバーバラ・ウッドワード英国大使に対する中国側の行動に言及。ドーシー警視長は「はい、とても失礼で、外交的ではありませんでした」と述べ、中国使節が会合の席を立って退場した一件について話すと、女王は「なんということでしょう」と答えた。

 この「会合の席」というのは両国間の国家行事に関するスケジュール調整を指すとみられ、中国側は英国側の言い分を聞かずに、中国側の都合だけを述べると、途中で退場したようだ。

 これらの英国側の発言に関して、環球時報の社説は「英国王室と中国外交部は中国の指導者の英国訪問は完全に成功しており、双方ともに密接に協力し、訪問に関する行事は順調に進んだ」と公式の見解を述べた。

 しかし、中国代表団の英国公式訪問について、中国のネットユーザーは当時、エリザベス女王を「西太后」に例えたほか、キャメロン英首相については、西太后の側近の宦官である「李中堂になぞらえていた」などと皮肉った。

 一方、今回の女王の発言騒動について、中国人のネットユーザーの意見として、「清朝末期に、イギリス軍ら8か国連合軍が北京に入った時、西太后も同じことを言った」 や、「こういう(英国の)貴族は誰を見ても失礼と思うのだろう」 などとのコメントがみられている。

64とはずがたり:2016/11/08(火) 14:44:33
パスカルの場合
http://www.asahi-net.or.jp/~VS6H-OOND/pascal.html

65とはずがたり:2016/11/08(火) 14:51:03

パスカル Blaise Pascal
http://philosophy.hix05.com/Pascal/pascal.index.html

66とはずがたり:2016/11/09(水) 12:34:11
独の大聖堂、立ち小便で礎石腐食…罰金2倍に
http://www.yomiuri.co.jp/world/20161026-OYT1T50095.html?from=yartcl_outbrain1
2016年10月26日 14時38分

 【ベルリン=井口馨】ドイツ南部ウルムにある、教会の塔としては世界で最も高いウルム大聖堂の礎石が、酔っぱらいらの立ち小便で腐食し、地元関係者が対応に追われている。

 独DPA通信などが報じた。

 ウルム大聖堂は1890年に完成した歴史的建造物で、シンボルの塔は高さ161メートル。街の中心部に位置し、周辺では頻繁にイベントが開催される。このため、酔客が大聖堂の壁際で隠れて用を足すことも多く、尿に含まれる酸や塩分で、土台にあたる礎石がダメージを受けているという。

 倒壊の恐れはないものの、汚物にまみれて異臭もひどいことから、関係当局は今年初め、罰金を2倍の100ユーロ(約1万1000円)に引き上げた。

2016年10月26日 14時38分

67名無しさん:2016/11/23(水) 16:09:42
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161122-00050017-gendaibiz-bus_all
まぼろしの帝国「カルタゴ」の謎〜ローマ史に並ぶ、もう一つの世界史 かつて地中海に覇を唱えた大国
現代ビジネス 11/22(火) 11:01配信

なぜカルタゴは栄えたのか
 「ヨーロッパ覇権以前」という概念が提起されて久しい。

 現代の「グローバル」な世界は大航海時代以降のヨーロッパ諸国による世界席巻によって形成されたように見えて、実は、それ以前にインド洋で、ユーラシア大陸で、既に張りめぐらされていた別の主体による地域間のネットワークを最終的に束ねたものにすぎない、との大胆な、しかし説得力のある仮説のことである。

 古代地中海世界についても「ローマ覇権以前」を考えるとすれば、そのローマ帝国ではない別の主体とは何か。西地中海についてはカルタゴ海上「帝国」を措いて他にはない。

 しかもカルタゴ「帝国」は本来東地中海のフェニキア本土からのフェニキア人の西方への植民によって誕生したのであり、全地中海的なフェニキア人の通商活動を背景としている。

 一つの構造体としての地中海世界はローマ以前にも、このフェニキア・カルタゴという糸によって貫かれる形で既に準備されていたのではないか――。

 このたび講談社学術文庫として刊行された『興亡の世界史 通商国家カルタゴ』(佐藤育子氏との共著)を執筆している間(原著は2009年9月刊行)感じ続けていた問題意識は、7年後の今、振り返って言葉にしてみれば結局このようなことになる。

 カルタゴと並ぶ私のもう一つの研究対象は、カルタゴ市(これは現在のチュニジアの首都チュニス市のごく近郊にあった)の後背地に広がっていたヌミディア王国という古代国家であるが、そのヌミディアの首都であったキルタ―ー現在のアルジェリアのコンスタンティーヌ市――を1980年代に初めて訪れた時、荒涼たる乾燥帯を望む峡谷の上に位置するこの都市の景観に圧倒されると同時に、古代にこのような北アフリカ内陸部に確固たる都市を出現させた諸力とは何だったろうかと思いめぐらさずにはいられなかった。

 その力の一つがフェニキア・カルタゴとつながった北アフリカの古代の商業網であることは明白である。キルタにはカルタゴ市本体にもある特異な宗教空間、トフェト(「幼児犠牲」がそこで行われたとも言われる)が存在したことが確認されている。

 その同じ力はイベリア半島南部にカディスやマラガのような港湾都市を連ねさせ、現在も鉱山地帯として有名なリオ・ティント流域を開発させ、サルデーニャを、コルシカを、マルタを、そしてシチリア島を、前八世紀にさかのぼって海洋拠点化させた。

68名無しさん:2016/11/23(水) 16:10:29
>>67

あり得たかもしれない世界史
 このフェニキア・ネットワークの頂点に立っていたのがカルタゴなのだが、地中海周辺に無数に分布していたフェニキア系の植民市の中でなぜカルタゴが中心とならざるを得なかったのか、という疑問に答えることが本書のもう一つの軸となっている。

 フェニキア・ネットワークは第一義的には交易網であるが、問題は経済的要因だけには還元し切れない。カルタゴは戦争の主体でもあった。「武器によって立つ者は武器によって滅ぶ」――この言葉はローマ帝国にももちろん当てはまるが、カルタゴ「帝国」にも同じようによく当てはまる。

 カルタゴは通商国家であると同時に、古代地中海でも目立った軍事強国であった。「商人=非軍事的」という図式は古代地中海世界の場合、あまり妥当しない。

 カルタゴが、特にシチリア島を舞台としてどんなに常に戦争に明け暮れていたか――その相手は「ローマ以前の地中海覇権」のもう一方のにない手であるギリシア人なのだが――は、本書の記述から理解されるであろう。

 同時に、フェニキア人の交易網の中で、前六世紀頃以降カルタゴが最大の結節点となっていく条件を問うていくと、そこには母市テュロスとの関係の問題、更には先述のカルタゴの宗教の問題が浮上して来る。

 佐藤氏の執筆部分はテュロス市をはじめとするフェニキア本土(シリア・パレスティナ)のフェニキア人の歴史を通観するとともに、植民市カルタゴの宗教についてポエニ語史料の分析を通じて光を当て、この問題に関する手がかりを与えている。

 ローマによるカルタゴ殲滅(前146年)は劇的であるが、そのことで地中海史はどう変わったのか、変わらなかったのか、ローマでなくカルタゴが地中海を統一することはあり得たのか、などなどローマ帝国成立直前の「まだカルタゴ人のいる風景」は世界史をめぐる様々な想念を呼び起こす。

 ポエニ戦争とハンニバルで有名なカルタゴをローマ史の文脈の中で考えるのではなく、逆にフェニキア・カルタゴを一つの展開軸とする地中海全史――その中にローマ史も包含され、そこから必然的にローマ帝国が生まれて来る――を考えるとしたらどうなるのか、このような問いが、読者のもとに届くことを願っている。

 読書人の雑誌「本」2016年11月

栗田 伸子

69名無しさん:2017/01/15(日) 08:48:10
http://www.afpbb.com/articles/-/3113052
ネアンデルタール人が食人、ベルギーの洞窟遺跡から証拠
2017年01月04日 12:53 発信地:ゴイエ/ベルギー

【1月4日 AFP】ネアンデルタール人がウマやトナカイを食べるだけでなく、共食いもしていたことを示す証拠が、ベルギーのゴイエ(Goyet)洞窟群の奥深くで発見された。

 発見した研究チームによると、約4万年前に生きていた成人または若者4人と子ども1人、新生児1人の人骨には、内部の骨髄を取り出すために切断、粉砕された明確な痕跡があるという。

 ベルギー人考古学者のクリスティアン・カセイヤス(Christian Casseyas)氏は、アルデンヌ(Ardennes)の森にあるこの遺跡内の渓谷の中腹に位置する洞窟をのぞき込みながら「ここで食人が行われていたことは、反論の余地がない」と話す。

 ゴイエ洞窟の人骨は、ネアンデルタール人が現生人類ホモ・サピエンス(Homo sapiens)に取って代わられ、地球上で絶滅を迎えつつあった頃の年代を示している。またネアンデルタール人は、ホモ・サピエンスとも交配していた。

 利口な現生人類によって絶滅に追いやられた原始的な穴居人と以前はみなされていたネアンデルタール人が実際には、死者の遺体を丁重に扱い、埋葬の儀式を行う洗練された人々だったことが、これまでの研究で明らかになっている。

 だが、ネアンデルタール人が死者を食べていたことを示す証拠も増えている。

 ネアンデルタール人による食人の事例はこれまで、スペインとフランスに存在した南欧のネアンデルタール人個体群でしか見つかっていなかった。

 ゴイエ洞窟群は、旧石器時代より住居として使われていた。全長250メートルに及ぶ洞窟の回廊部は、数メートル下を今も流れる小川のサムソン(Samson)川が石灰岩に穴を開けて形成した。

■骨髄を取り出す

 米カリフォルニア州立大学ノースリッジ校(California State University Northridge)の人類学者、エレーヌ・ルジェ(Helene Rougier)氏率いる国際研究チームは今回、ゴイエ洞窟で発見された人骨から、そこに居住していたネアンデルタール人が食人種だったことを証明した。

 人骨は「解体して肉を取り去るために」切断された痕跡を示していると、カセイヤス氏は指摘。ネアンデルタール人は「洞窟の入り口で見つかったトナカイやウマの骨を砕くのと同じ方法で、これらの人骨を粉砕していた。その目的は間違いなく、骨髄を取り出すためだ」と同氏は続けた。

 ルジェ氏はAFPの取材に、「実際に、ここで何人かのネアンデルタール人が死んで食べられたという結論を下すことができる」と語った。北欧でこのような証拠が見つかったのは初めて。同氏は2016年7月、ベルギーの洞窟に関する研究を英科学誌ネイチャー(Nature)系オンライン科学誌「サイエンティフィック・リポーツ(Scientific Reports)」に発表している。

「これらの人骨の一部は、フリント石器の刃を研ぎ直して切れ味を良くするための道具を作るのにも使われた」と、ルジェ氏は述べた。

 だが、食人行為が行われていた理由と、どの程度の規模で行われていたかについては、謎のままだ。

「組織的に行われていたのか。何らかの特別な時だけだったのか」とルジェ氏は問いかける。「この食人行為の背景にある理由をどのように解釈すべきか分からない。純粋に食べるための可能性もあるが、象徴的な行為だった可能性もある。理由は不明のままだ」と、ルジェ氏は話している。(c)AFP/Philippe SIUBERSKI

70とはずがたり:2017/02/01(水) 20:24:36
>イングランド王国(現在の英国の中心部分を占めるイングランド地方にあった)がフランスのノルマンディー公によって征服されたのが1066年。それから1千年近くにわたり、英国では王室制度が続いてきた。
征服されたのがイングランド王国ならその前だった王制だし寧ろその後がフランスの植民地(ノルマンディ公領)で王国ではなくなったんでわ?

wikiで調べてみるとノルマンコンクエスト以前は国として纏まりが無く,ノルマン王朝以降王国として纏まりが出てきたって感じかな。

エリザベス女王がトランプ氏を公式招待へ ──王室の占める位置とは
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/11/post-6420.php
2016年11月25日(金)18時10分
小林恭子(在英ジャーナリスト)

<勝手に中米英大使を「指名」したトランプに面子を潰されたイギリスのメイ首相は、それでも米英関係を断絶させるわけにはいかないと、エリザベス女王にトランプを招待してもらう奥の手に出た。でもいったいなぜ、ここで女王が出てくるの?>(写真はエリザベス女王にお辞儀をするメイ首相)

何故、英女王の出番になった?
 最近になって、英女王が次期米大統領ドナルド・トランプ氏を来年6月か7月、英国に招待するというニュースが出た。

 表向きは英米2国の関係強化だ。確かにそういう意図があるのだが、ほかにもわけがあった。

 11月9日、米大統領選の翌日、不動産王トランプ氏が当選したことが判明した。英国の知的エリート層は一時的にパニックに陥った。まさか、人種差別的、女性蔑視的暴言を飛ばすトランプ氏が当選するとは思っていなかったからだ。 

 メイ首相はトランプ氏の当選確定後間もなくして祝福のメッセージを送った。しかし、今月12日、ニューヨークを訪れた英国独立党(UKIP)のナイジェル・ファラージ氏が首相を差し置いてトランプ氏と面会してしまった。

 ファラージ氏は英国の欧州連合(EU)からの独立(=ブレグジット)をもたらした政治家だ。しかし、EUからの脱退を主張してきたUKIPは長い間泡沫政党と見られており、下院議員は一人しかいない。

 欧州議会議員のファラージ氏自身は下院選挙で何度も落選している。だが、トランプ氏とは親しい関係を築いてきた。トランプ氏の選挙運動に参加したことさえある。

「外国の政治家としては初」の会合を首尾よく達成してしまったファラージ氏。「メイ政権はファラージ氏に頼んで、トランプ氏との『仲介役』になってもらったらどうだろう?」-そんな声が出てきた。「ファラージ氏を駐米大使にしてもいいのでは?」とも。

 ファラージ氏に「先を越された」ことで悔しさいっぱいの政権が繰り出してきたのが、王室である。エリザベス女王は英国のヒエラルキーのトップにいる。この人以上に高い存在はなく、国内外の人気も抜群だ。ファラージ氏の上昇を止められるのはエリザベス女王しかいなったのである。

 英国民と王室の関係を振り返ってみたい。(以下、「EUマグ」に掲載された筆者の記事「英国で新王子が誕生」から一部を抜粋した) 

1000年近く続く王室制度
 イングランド王国(現在の英国の中心部分を占めるイングランド地方にあった)がフランスのノルマンディー公によって征服されたのが1066年。それから1千年近くにわたり、英国では王室制度が続いてきた。

 例外はクロムウェル父子が護国卿として実権を握った共和制(1649-59年)のみだ。

 英国は現在、立憲君主制を取る。「君臨すれども統治せず」の原則は、国王の権限を制限したマグナ・カルタ(1215年)、権利の章典(1689年)などを経てこの形となった。

 エリザベス女王(90歳、在位1952年ー)は英国の元首であるほかに、16カ国の主権国家(英連邦王国)の君主であり、54の加盟国からなる英連邦および王室属領と海外領土の元首、英国会の首長でもある。

 在位は64年となり、ウィンザー朝(1917年ー)の第4代君主。ウインザー家の家系をたどると、18世紀にドイツからやってきたハノーバー朝で、ドイツ系の王族が現在まで続いている。

71とはずがたり:2017/02/01(水) 20:24:57
>>70-71
皇室との違いは
 立憲君主制の英国と、天皇陛下が国の象徴となる皇室とでは政治に干渉しない点で共通しているが、異なる点も多い。例えば日本の場合は皇統に属する男系の男子が継承するが、英国では女性も王位を継承できる。

 英国では1960年代以降、より自由で柔軟な価値観が浸透し、親、会社の上司、そのほか社会のエスタブリッシュメント(支配者層)への敬意の念が薄れて行った。

 社会通念や価値観がより自由化、柔軟化した英国では王室批判のドキュメンタリー、新聞記事、ジョークは日常茶飯事だ。

 欧州のほかの国の王室ではほとんどが立憲君主制をとり、男女にかかわらず最初に出生した子供に次の元首となる権利が与えられるようになっている。

 エリザベス女王の公務の代表的なものとして、下院の会期オープニングの儀礼がある。毎回、女王が施政方針を読み上げる。

 実際にはこれは官邸が書き、女王が読む形をとっている。

 週に一度、首相との会合を持つ。この中で話された内容は一切外に漏らしてはいけないことになっている。

 政権交代の際には辞任する首相がバッキンガム宮殿に向かい、政権終了を報告する。入れ替わりに入ってくるのが次の首相候補だ。女王は「女王陛下の政府」を形成するよう、依頼する。

人気度は?
 複数の世論調査で王室への支持率はおおむね、高い。王室を廃止して共和制にしようと思う国民は「20%ほど」と言われている。唯一、批判が高まったのは、ダイアナ元皇太子妃がチャールズ皇太子との離婚後、自動車事故で亡くなった時(1997年)。エリザベス女王はスコットランドのバルモラル城に滞在しており、しばらくの間、国民の前に姿を現さなかった。

 メディアを通じて国民の不満感が伝わると、女王はロンドンに戻った。宮殿の前に積まれた、ダイアナ元妃を追悼する花束やメッセージに王室の家族全員が圧倒された。いかにダイアナ元妃が国民に深く愛されていたかが伝わってきた。

 女王はテレビで国民へのメッセージを流した。「女王として、そして一人の祖母として」の追悼の言葉だった。ここでまた、英国民はエリザベス女王の下に一つにまとまったのである。

[執筆者]
小林恭子(在英ジャーナリスト)
英国、欧州のメディア状況、社会・経済・政治事情を各種媒体に寄稿中。新刊『フィナンシャル・タイムズの実力』(洋泉社)、『英国メディア史』(中央公論新社)、『日本人が知らないウィキリークス(新書)』(共著、洋泉社)

※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。

トランプ「異例の招待」に英国民猛反発でエリザベス女王の戸惑い
Donald Trump State Visit Puts Queen in ‘Very Difficult Position'
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1401100637/1175
2017年2月1日(水)17時06分
コナー・ギャフィー

72とはずがたり:2017/02/14(火) 12:29:10
>外から持ち込んだカカオ豆を生産させるため、英国は巧妙な仕組みを作り出しました。まず、現地人に人頭税などの税金を課します。しかし、植民地化以前のアフリカでは貨幣がほとんど使用されていなかったため、現地人は税金の支払いに困ります。払わなければ、逮捕・投獄されるのは、目に見えています。そのなかで英国人はカカオの苗木などを現地人に提供し、生産されたカカオ豆を買い上げることで、現地社会に貨幣を流通させていきました。これによって、英国は税金を集める一方で、カカオ豆の生産を促していきました。そして、現地人が生産したカカオ豆は、英国が設立した専売公社(マーケティング・ボード)が独占的に買い上げ、輸出していったのです。
穢い事し続けてきた欧州は直接謝る事をせず進歩的な欧州による移民の受入と云ふ形で現在も贖罪していると云えなくもない。

ガーナは「チョコレートの国」か? チョコレートにみる「矛盾との向き合い方」
http://bylines.news.yahoo.co.jp/mutsujishoji/20170214-00067648/
六辻彰二 | 国際政治学者
2/14(火) 9:37

日本では一般的に、アフリカの国は、その国名すらほとんど知られていないことが珍しくありません。そのなかで、「ガーナ」は例外的に、少なくとも国名に関しては、知名度のある国の一つです。その「功績」が、あの製菓メーカーの商品名にあることは言うまでもなく、バレンタインが近づくにつれ、あちこちの広告でその名を目にする機会が増えます。

しかし、アフリカ研究を専攻し、ガーナを題材に博士論文を書いた身からすると、ガーナが「チョコレートの国」としてのみ認知されていることには、やや複雑な思いがあります。現在、ガーナの最大の輸出品は原油で、カカオ豆ではありません。そのうえ、ガーナは確かに世界第二のカカオ豆生産国ですが、現地ではチョコレートもココアもあまり消費されていません。

そのスウィートさと裏腹に、チョコレートにはビターな影がつきまといます。それは誕生から現在に至るまで、形を変えながらも一貫しているといえます。

なぜヨーロッパでチョコレート生産が盛んなのか
授業でよく学生に問いかけることの一つに、「ベルギーやフランスでチョコレート生産が盛んなことを、おかしいと思わないか」という質問があります。カカオ豆は熱帯性の作物で、寒冷地の多いヨーロッパではほとんど生産されていません。それにもかかわらず、これらの国でチョコレート生産が一大産業となっているのは、植民地主義の遺産に他なりません。

カカオ豆はもともと中南米原産の作物で、15世紀の大航海時代にスペイン人によってヨーロッパに伝えられ、チョコレートは18世紀頃までに貴族や富裕層、中間層にまで広まっていました。しかし、チョコレートがヨーロッパの庶民レベルで大量に消費されるようになった転機は、19世紀の産業革命にありました。

近代以前のヨーロッパは、世界的にみて貧しい土地だったといえます。寒冷地が多く、土地がやせているため、大量に商品を生産するための原料となる農作物は多くありませんでした(実際、ヨーロッパ原産の農作物は数えるほどしかない)。さらに、人口も多くなかったため、大量に商品を売りさばくために必要な消費者の頭数にも限界がありました(現在でも人口が1億人を超えるのはドイツだけ)。そのなかで、資本主義経済と科学技術だけが発展したために、ヨーロッパ諸国は原料の供給地および独占的な市場として植民地を確保するため、海外進出を加速させたのです。

軍事力をもって支配したうえで、それらの土地から農作物や天然資源を輸入し、そして自分たちが作った工業製品を独占的に売りつける。これが植民地支配の基本的な構図でした。もっとも、「自分たちの利益のために外の土地を支配する」というのは、いくらなんでも聞こえが悪いため、そのためにヨーロッパ人たちは高尚な理屈をひねり出しました。「『未開・野蛮な』アジアやアフリカを『文明化する』ことが『文明人たる白人の責務』である」と、半ば本気で語られるようになったのも、この頃でした。もちろん、これは外聞の悪さを覆い隠すための、理論武装以外の何物でもありませんでした(これは日本と同様ヨーロッパでも「植民地支配は悪いことばかりでなかった」という言い分の源流になっている)。

ともあれ、植民地支配はヨーロッパ発展のステップとなり、それにともない華麗な文化が花開くことになりました。英国といえば紅茶の国ですが、これは茶葉の生産地だったインドを支配し、ケニアなどアフリカの植民地でもその生産を奨励した結果、可能になりました。現代の日本で、特に2月14日前後にスポットがあたるベルギーやフランスのチョコレートも、植民地主義の遺産という意味では、ほぼ同様といえます。補足すれば、紅茶やチョコレートに付き物の砂糖も、アメリカ大陸において奴隷制のもとで大量に生産され、輸出されたことで、ヨーロッパで普及していきました。

73とはずがたり:2017/02/14(火) 12:29:25
チョコレートが結ぶガーナとベルギー
ベルギーでは1894年に「カカオが成分の35パーセント以上を占めること」を定めた法律ができ、産業としてのチョコレート生産がほぼ確立されました。その後、1912年には、現在ベルギーを代表するチョコレート企業の一つであるノイハウスが、焙煎したナッツ類を混合させたプラリネを初めて世に送り出すなど、花形となる企業や商品も誕生。ベルギーは一躍チョコレート王国となったのです。

ただし、ベルギーは国力が小さく、英仏などとの植民地獲得競争にも出遅れたため、アフリカでの植民地はルワンダやコンゴなど、ごく少数にとどまりました。また、これらの土地は、カカオ豆生産に必ずしも適しません。そのため、ベルギーは英仏などの植民地からカカオ豆を輸入することで、チョコレート生産を活発化させたのです。

ベルギーのカカオ豆の輸入元の一つが、英国の植民地だったガーナ(英国人の当初の目的は金の採掘だったため、植民地名は「ゴールドコースト(黄金海岸)」というミもフタもないものだった)でした。ガーナでのカカオ豆生産も、やはり19世紀からの英国による植民地支配のもとで本格化しました。逆に言えば、それ以前のガーナの人々にとって、カカオ豆は全くといっていいほど馴染みのないものでした。

外から持ち込んだカカオ豆を生産させるため、英国は巧妙な仕組みを作り出しました。まず、現地人に人頭税などの税金を課します。しかし、植民地化以前のアフリカでは貨幣がほとんど使用されていなかったため、現地人は税金の支払いに困ります。払わなければ、逮捕・投獄されるのは、目に見えています。そのなかで英国人はカカオの苗木などを現地人に提供し、生産されたカカオ豆を買い上げることで、現地社会に貨幣を流通させていきました。これによって、英国は税金を集める一方で、カカオ豆の生産を促していきました。そして、現地人が生産したカカオ豆は、英国が設立した専売公社(マーケティング・ボード)が独占的に買い上げ、輸出していったのです。

こうしてガーナでは、現地人がカカオ豆をほとんど消費しないままに、その生産だけを行い、しかし利益の多くを英国が吸い上げる仕組みが完成しました。これはガーナ以外のアフリカの国でも、カカオ豆以外の農産物でも、ほとんど同様でした。

こうしてみたとき、チョコレート生産が植民地主義の遺産の象徴であることは確かで、そこには数多くの人々の苦難が凝縮されています。チョコレートは、それ自体に負けず劣らず、黒い歴史を背負っているといえるでしょう。

チョコレートと現代の「奴隷制」
現代でも、チョコレートには黒い話がつきまといます。なかでも、チョコレート産業は児童労働と人身取引の温床として、しばしば取り上げられます。

2014年段階で、コートジボワールとガーナのカカオ豆生産は、世界全体約60パーセントを占めます。しかし、これらの国のカカオ栽培の現場では15歳以下の子どもが数多く働いており、そういった子どものうちコートジボワールでは40パーセントが、ガーナでは10パーセントが、それぞれ学校に通っていないとILO(国際労働機関)は報告しています。

そのなかには、親の仕事を手伝っている子どもだけでなく、親の借金のカタとして、あるいは誘拐されて、売り飛ばされてきた子どもも含まれます。とりわけ、世界最大のカカオ生産国であるコートジボワールでのそれは深刻で、米国務省は同国のカカオ産業で10万人以上が無給労働や性的虐待などをともなう「最悪の形態の児童労働」のもとにあり、このうち約1万人を人身取引の犠牲者と試算しています。その「調達先」は国内だけでなく、マリやブルキナファソなどの周辺国からも、日本円に換算して一人当たり5000円ほどで売られてきているとみられます。アフリカはかつて白人により奴隷貿易の憂き目に遭いましたが、現代ではむしろアフリカ自身によって人間の商業取引が盛んに行われているのです。

ただし、外部もこれと無縁ではありません。2015年、スイスに本社のある世界的な食品メーカー、ネスレの系列に属する、コートジボワールの260のカカオ農園で、18歳未満の労働者が56名いることが発覚し、このうち27名は15歳未満でした。

カカオ栽培はもともと人手が頼りで、児童労働が蔓延しやすい環境にあります。そのため、ネスレをはじめとする世界のチョコレートメーカーは、米国議会の呼びかけに応じる形で、2001年に「最悪の形態の児童労働」をなくすために努力することを申し合わせました。しかし、申し合わせに法的拘束力はないため、その後もチョコレート産業では児童児童がしばしば報告されており、ネスレの件は一つの例に過ぎません。また、現地政府がこれに加担する、あるいは少なくとも見て見ぬ振りをすることも稀でなく、コートジボワールでは2010年にカカオ産業をめぐる汚職を報じた3人のジャーナリストが当局に逮捕されています。

74とはずがたり:2017/02/14(火) 12:29:45
>>72-74
矛盾を「断つ」のではなく「ほぐす」忍耐
こうしてみた時、チョコレートは世界の矛盾の縮図とさえ映るかもしれません。

ただし、チョコレートそのものを忌避しても、拒絶しても、その暗い歴史が覆ることは決してありません。また、目立つ特定の企業や業界の商品をボイコットしたとしても、それは必ずしもチョコレートにまつわる問題を解決するとは限りません。開発途上国に蔓延する貧困や政府の汚職、企業活動に対する規制などの問題がそのままであるなら、人身取引や児童労働の現場が他の企業・業界に移動するだけで終わりかねないのです。つまり、複雑に入り組んだ問題に直面するなかで、万能の特効薬はないと言えるでしょう。

そのなかで重要なのは、言い古されたことではありますが、まず知ることしかありません。逆に、問題の複雑さにしびれを切らして、一気呵成に問題を解決しようとすれば、副作用だけが大きくなりがちです。フランス革命で「反革命的」とみなされた人々が「貧者に対する哀れみのために」相次いで断頭台の露と消えたことも、世界のあらゆる問題を一刀両断に解決する方法として「イスラーム国家の樹立」という処方箋を示した「イスラーム国」も、そして「安全のためなら何をしても許される」と豪語するトランプ氏も、この点では同じです。

「一刀両断」を目指す人々に欠けているのは、「万能でない人間が考えることに100パーセントの正解がない」ことを認める謙虚さと言えるでしょう。人間社会につきものの矛盾と向き合うためには、無理やり「断つ」のではなく、「ほぐす」努力が必要なことを、甘くてほろ苦いチョコレートは語っているのかもしれません。

六辻彰二
国際政治学者
博士(国際関係)。アフリカをメインフィールドに、米中関係から食糧問題、宗教対立に至るまで、分野にとらわれず、国際情勢を幅広く、深く、分かりやすく解説します。

75とはずがたり:2017/03/27(月) 22:59:37
「中間層の没落」とともに国家は衰退に向かう
トランプは「歴史の教訓」に逆らっている
http://toyokeizai.net/articles/-/161616?utm_source=goo&amp;utm_medium=http&amp;utm_campaign=link_back&amp;utm_content=related
中原 圭介 :経営コンサルタント、経済アナリスト 2017年03月09日

古代ギリシャ以来の歴史は、中間層が疲弊すれば国家の衰退は避けられないことを教えてくれる(写真:Pakhnyushchyy / PIXTA)
歴史を振り返ってみると、かつて軍事・経済・文化で隆盛を誇った国々の多くが、中間層の没落をきっかけとして衰退し、最後には滅んでいきました。そこで今回は、歴史から中間層の重要性を学ぶために、都市国家として栄えた古代ギリシャの事例を見ていきたいと思います。

ギリシャの気候は、夏は暑く乾燥し、冬には少量の雨しか降らない地中海性気候に属しています。おまけに陸地には山が多く、大河や平野に恵まれていないため、穀物の生産には適していません。しかし、この地理的特性は、オリーブ・ブドウなどの果樹栽培や羊の牧畜には適していました。

ブドウ酒やオリーブ油は、作るのに特別な風土と技術を必要としただけでなく、貯蔵がとても簡単だったので、瓶に入れて長期のあいだ保存することができました。そのまま遠く離れた国や地域に運搬することができたため、ギリシャの特産物として高価な貿易品となり得たというわけです。

古代において、ギリシャの諸都市でブドウ酒とオリーブ油が特産物として作られ始めると、ユーラシアの内陸に住む人々、特に貴族や富裕な人々がこぞってそれらを求めるようになりました。ギリシャ産のブドウ酒とオリーブ油は貿易船が運航する地中海沿岸だけでなく、遠くロシアや中央アジアまで運ばれ、大量の穀物や貨幣と交換されるようになったのです。

貿易で利益を得た農民が繁栄を支えた

そのようにして、ブドウやオリーブを栽培する農民は、内陸部との貿易で莫大な利益を得られるようになりました。内陸部からギリシャへ穀物や金銭が大量に流入し、それに比例するようにギリシャの各々の都市国家(ポリス)の人口は増えていき、その後の繁栄の基礎を築いていったというわけです。

ブドウ酒やオリーブ油を生産する中小農民は、当時のポリス社会では理想的な市民として評価されていましたし、彼ら自身もそのように自覚していました。彼らは内陸部との貿易に積極的に参入して豊かになっただけでなく、忙しくない時期にはポリスの政治や行事にも奉仕者として参加していたからです。

そのうえで、中小農民は農産物の売り手としてだけでなく、生活必需品の買い手としても経済活動に参加するようになり、ポリス社会に経済的な豊かさを広めていく役割を果たしていました。そのような姿は、かつての米国の豊かな中間層に重なるところがあるように思われます。

鋳造貨幣が発明されて間もない紀元前650年頃、ポリス間における戦争の手法に重大な変化が起こることになります。武装した歩兵(重装歩兵)の密集軍団による新しい戦法、すなわち密集隊形(ファランクス)戦法が発明されたのです。それは、青銅製の兜(よろい)、鎧(かぶと)、すね当てを身に着け、青銅製の盾と鉄製の槍(やり)を持った重装歩兵が横一列に並んで突撃するというものでした。数千の重装歩兵が一団となって一斉攻撃を加えれば、たとえ貴族による屈強な騎兵隊であったとしても、あっという間に蹴散らされてしまったのです。

76とはずがたり:2017/03/27(月) 22:59:49

それまでの戦争の主力は騎馬を利用する貴族でしたが、重装歩兵による戦法が圧倒的に有利であると知れ渡るようになると、ギリシャの各ポリスは市民からの徴兵を行い、できるだけ大規模な重装歩兵部隊をつくって訓練しなければなりませんでした。そのような環境下で、自費で武具を買いそろえて兵隊として活躍できる資質を持っていたのは、遠隔地との貿易で富裕になった農民、すなわち中小農民と呼ばれる人々だったのです。

彼らこそ、現代でいうところの「中間層」に位置する人々でした。彼らはギリシャの外から金銭を稼いでポリスへ税金を支払っていたうえに、それまで騎馬で戦っていた貴族に代わり、市民としてポリスの軍隊の主力となっていったからです。富裕な中小農民がポリスの財政・経済・軍事の中心となって、ポリス社会の隆盛を支えていたというわけです。

戦闘における連帯感が民主制を生んだ

興味深いことには、新しい戦法の発明は、各ポリスのギリシャ人に強い連帯意識を芽生えさせるというメリットまでもたらすようになりました。なぜなら、重装歩兵が密集して戦うための技術を身に付けるには、集団が連帯感を持って長い時間の訓練をしなければならなかったからです。

ギリシャの各ポリスが戦争で強かったのは、また、文明的にも経済的にも栄えたのは、そのような強い連帯感を基礎として、各々が自分たちのポリスに奉仕するという気持ちにあふれていたからです。それは、国家としても、社会としても、そこに住む人々の気持ちが一体感を保っていたということを意味しています。

高校の世界史の教科書などでは、市民(農民)が戦争で重要な役割を果たし政治的発言力が高まったため、歴史上で初めて、民主政という考え方が誕生することとなったと述べられていますが、私は民主政が誕生したもうひとつの大きな理由は、ポリスでの市民の連帯感にあったのではないかと考えています。古代アテネの政治家ペリクレスが当時の民主政について語った有名な演説がありますので、その一節をご紹介しましょう。

「私は敢ていうが、ポリス全体が安泰でさえあれば、個人にも益するところがあり、その益は、全体を犠牲にして得られる個人の幸福よりも大である。なぜならば、己れ一人盛運を誇っても己れの祖国が潰えれば、個人の仕合せも共に失せる」

「われらの政体は他国の制度を追従するものではない。ひとの理想を追うのではなく、ひとをしてわが範を習わしめるものである。その名は、少数者の独占を排し多数者の公平を守ることを旨として、民主政治と呼ばれる」(トゥーキュディデース、久保正彰訳『戦史』岩波文庫より)

その当時のアテネ、ひいてはギリシャの民主政治の特徴とは、成年男性市民の全体集会である民会が多数決で国家の政策を決定し、できるだけ多くの市民が政治に参加することを求められたということです。そのような政治制度の誕生によって、ギリシャの各ポリスでは宗教に縛られない自由な考え方が生まれ、文化面では合理主義的な哲学や数学などが発達しました。その後、ギリシャの文化は、ローマの文化や14世紀のイタリアから始まるルネサンスの規範となっていくことになります。

紀元前500年〜紀元前480年の間に3回にもわたる大国ペルシャとの戦争に勝利したギリシャの諸都市国家は、当時の世界で最も繁栄を極めていた文明であるといえるでしょう。しかしながら、その繁栄は50年余りしか続きませんでした。アテネを中心とするポリスの連合であるデロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネソス同盟のあいだで、紀元前431年に植民地をめぐって悲惨な戦争が勃発してしまったのです。

長年にわたる従軍で農民が経済的に疲弊した

ペロポネソス戦争はギリシャ域内で30年近くも続いたため、ギリシャの各々のポリスは衰退していくのが避けることができませんでした。というのも、中小農民が長年にわたって従軍せざるをえず、そのあいだに農地が荒廃してしまったからです。農産物収入を失った農民は、生活のために金銭を必要としたので、借金に借金を重ね、最後には土地までも失ってしまったのです。

77とはずがたり:2017/03/27(月) 23:00:03
>>75-77
貨幣経済が発達するにつれて、没落した農民は小作人や奴隷といった身分に転落していくかたわら、富裕な貴族や一部の大商人は農民が手放した土地を買い取り、ポリスの人々のあいだでは絶望的なまで経済的な格差が拡大していきました。その結果として、富裕な貴族や一部の大商人は大土地所有者となり、政治・経済の支配者として君臨していく一方で、小作人や貧民は不満を募らせて大土地所有者に強く対抗していくようになったのです。富裕な人々が支持する党派と貧民層が支持する党派の争いに発展し、裏切りや暗殺、追放などが横行することになり、ポリス社会の強みであった「国家のもとに奉仕する」という人々の心やまとまりは、ペロポネソス戦争が終わる頃には見事に失われてしまったというわけです。

国防の要であった豊かな中小農民が経済的に疲弊して従軍できなくなると、重装歩兵の密集集団による戦法は使えなくなりました。そこで各々のポリスは兵隊として傭兵を雇うようになったのですが、主として雇われたのは異民族や土地を失った没落農民などでした。当然のことながら、傭兵では強い連帯感やポリスへの忠誠心を持って戦うのは困難であり、ポリスの軍事力はかつてと比べると著しく弱まってしまいました。

そのような折の紀元前4世紀後半に、ポリスをつくらなかったギリシャ人の一派である北方のマケドニア王国では、フィリッポス2世のもとで財政と軍政の改革を進めます。そしてとうとう紀元前338年には、マケドニアはカイロネイアの戦いでギリシャ連合軍に圧倒的な勝利を収め、ギリシャ全域を支配することに成功したのです。戦意の低い傭兵を主力とするポリスの軍隊は、自国民で組織したマケドニア軍の敵ではなかったというわけです。

このように歴史を振り返ってみると、古代ギリシャの黄金時代は豊かな中間層の出現とともに生まれ、中間層の喪失によって終わりを迎えたということがわかります。豊かな中間層の喪失は、貧富の格差を拡大させ、国家の分断を引き起こし、国力を衰退させていったのです。

古代ギリシャは歴史上で初めて、豊かな中間層が失われると、軍事的にも政治的にも経済的にも国力が衰退していくという教訓を、後世の人々に如実に示した事例であるといえるでしょう。中間層が失われた国は滅びる。現代においては滅びるということはなくても、衰退は避けられない。それが歴史の教えるところなのです。

分断するアメリカは歴史的な危機を迎えた

昨今のアメリカでは、グローバル経済の進展や金融危機の後遺症などを経て、豊かな中間層から貧困層および貧困層予備軍に転落する人々が増える一方で、富が一部の支配者階級に集中するという傾向が強まってきています。2011年に「ウォール街を占拠せよ」をスローガンとして全米各地で行われた反格差デモ活動に象徴されるように、アメリカではすでに国家の分断が起こり始めているといえるでしょう。

さらに悲惨なことに、トランプ政権が誕生したことによって、人種による差別や対立という新たな国家の分断も起こってしまっています。トランプ大統領は移民・難民の入国を制限・停止するという方針をテロの危険性を和らげるための措置だと強弁していますが、それよりもヘイトクライムが横行していることのほうが、アメリカ社会の分断をいっそう促しているので大問題であると思われます。

歴史的な見地から判断すれば、経済格差と人種差別という複合的な国家の分断にさらされているアメリカの現状は、国家としての歴史的な危機を迎えているといっても過言ではないでしょう。アメリカが20年後、30年後に繁栄を享受できているか否かは、まさに国家の分断を回避できるかどうかにかかっているというわけです。

78とはずがたり:2017/11/01(水) 12:30:16

宗教改革500年で式典=メルケル独首相、多様性尊重訴え
時事通信社 2017年11月1日 06時01分 (2017年11月1日 12時15分 更新)
http://www.excite.co.jp/News/world_g/20171101/Jiji_20171101X183.html

 【ベルリン時事】ドイツの神学者マルティン・ルター(1483?1546年)の宗教改革の始まりから500年となる10月31日、ゆかりの地、独東部ウィッテンベルクで記念式典が開かれた。出席者らは世界を大きく変えた歴史的節目を振り返った。
 地元メディアによると、父が牧師だったメルケル首相は式典で演説し、「われわれは寛容であることが欧州の精神だと学んだ」と述べ、宗教の自由や多様性を認めていく重要性を改めて強調した。

79とはずがたり:2017/11/16(木) 15:07:26
もしも七年戦争でフランスが勝っていたら……――学校では学べない世界近現代史入門
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171115-00004732-bunshun-int&amp;pos=1
11/15(水) 11:00配信 文春オンライン

北米、インドでの植民地戦争でイギリスが敗れていたら
大英帝国ではなく大仏帝国ができていたかもしれない

◆◆◆

 1984年に在外研修でパリ第三大学のマックス・ミルネール教授のゼミに出ていたときのこと。完璧なフランス語で発表するインド人の女子学生と親しくなり、なんでそんなにフランス語がうまいのかと尋ねてみると「だって、私、ポンディシェリー出身だから。フランス語は母国語(マザー・タング)なのよ」という答えが返ってきたので驚いた。インド史はおろか世界史にも疎かった私は1947年のインド独立までポンディシェリーを始めとするフランス植民地がインド亜大陸に数カ所残っていたことを知らなかったのである。

 このときの驚きが大きかったので、フランス領インドというものに興味を持つと同時にインドの領有を巡って英仏で18世紀に戦われたカーナティック(カルナータカ)戦争について調べ始め、さらには北米での英仏植民地戦争であるフレンチ・インディアン(正式にはフレンチ・アンド・インディアン)戦争、およびそれらと連動して行われたヨーロッパ大陸での七年戦争そのものにも強い関心を抱くようになった。そして、これら18世紀の英仏植民地戦争の勝敗が、その後の英仏の運命を大きく変えたことが見えてきた。

ルイ14世、植民地経営に乗り出す
 フランスが新大陸やインドにおける植民地貿易に本格的に参入したのはポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスに比べるとずいぶんと遅く、ルイ14世の親政開始4年目の1664年のことである。財務長官コルベールが重商主義に基づき、1604年に創設されながら機能していなかった「フランス東インド会社」を国策会社として改組・再建し、英蘭との競争に乗り出したのである。

 コルベールは重商主義を強力に推し進めるために、原料(綿糸)の供給地として、またフランス製の贅沢(ぜいたく)品の消費地としてインドを開拓するしかないと信じて、「東インド会社」に莫大な資金を注ぎ込んだのである。

 その結果、フランス東インド会社は後発であるにもかかわらず、イギリス東インド会社、オランダ東インド会社の牙城に食い込むことに成功し、これらの有力な対抗馬にまで成長した。国策会社として豊かな資金を用いてインド洋に浮かぶブルボン島(現レユニオン島)、フランス島(現モーリシャス島)を中継基地として整備できたことが大きかった。さらに、インドの拠点として藩王からインド東海岸のポンディシェリーを買い取り、ベンガル地方にもシャンデルナゴルを確保することができた。幹部に元オランダ東インド会社平戸商館長だったフランソワ・カロンを迎え、ポンディシェリー商館長にフランソワ・マルタンなど貿易実務に長けた人材を配置したこともあり、貿易量は急速に拡大した。

 ところが1682年にヴェルサイユ宮殿がほぼ完成し、宮廷の移転が完了したころから風向きが変わる。財政逼迫(ひっぱく)を理由にヴェルサイユの追加工事に首を縦に振らないコルベールに対して大王が不満を募(つの)らせ、彼のライバルである陸軍大臣ルーヴォワに寵愛(ちょうあい)を移したのである。コルベールがそのショックで1683年に死ぬと、「東インド会社」は総会で清算され、新会社として再出発することとなった。

 しかし、東インド会社が立ちいかなくなった最大の原因は1680年代からフランスの野心が海洋覇権ではなく大陸覇権へとシフトしたことである。いいかえると、ルイ14世のアドヴァイザーがコルベールからルーヴォワに変わったことにより、ルイ14世の自己表現対象が築城から戦争に移り、海外覇権は関心の埒外(らちがい)に置かれてしまうのだ。

 さらに事態を悪くしたのは、秘密結婚していたカトリック過激派マントノン夫人の差し金でルイ14世が信教の自由を保障したナントの勅令を1685年に廃止してしまったことである。これにより、コルベールが育成した産業の担い手であったプロテスタントが国外に追放され、フランスは貴重な人的資源を失うことになる。

 1715年にルイ15世がわずか5歳で即位すると、摂政となったオルレアン公は財政再建のためスコットランドから流れてきた元銀行家で殺人犯のアヴァンチュリエ(山師)ジョン・ローが勧める「システム」を採用する。

80とはずがたり:2017/11/16(木) 15:07:53

 すなわち、ローは兌換(だかん)銀行券の発券銀行として「バンク・ジェネラル」を設立し、次にそれを中央銀行に組織替えすると、金保有量をはるかに超えた銀行券(紙幣)を大量に発行する。ついで、「東インド会社」を再建して、これを他の国策会社と合併してインド貿易と北米貿易を連結させた「フランス両インド会社」へと改組する。それと並行して、北米のフランス植民地ルイジアナに河口港ヌヴェル・オルレアン(ニュー・オーリンズ)を建設し、ミシシッピー開発を業務とするミシシッピー会社(「西インド会社」)を設立、その株式を大々的に売り出すことにする。しかも、株式は額面価格の国債による株式転換が可能としたため、人気が沸騰(ふっとう)。目先の欲にくらんだ人々は政府に償還義務のある国債を償還義務のない株式に転換したので、政府の負債(国債)は大幅に減少した。ミシシッピー会社の株券は額面の20倍となり、フランスの歴史初のバブルが発生、証券取引所だったカンカンポワ通りは押すな押すなの大賑(にぎ)わいとなった。ローは財務長官の座に上りつめ、銀行券を安倍首相と同じく「ジャンジャン」刷りまくったから、通貨供給量は4倍となり、フランス人は急にみんな金持ちになったかのような多幸感に酔いしれた。

 だが、夢はいつかは覚める。ミシシッピー会社が幽霊会社だという噂が流れると、売りが売りを呼び、人々は銀行の窓口に殺到して兌換を要求したから、たちまちフランス初の取り付け騒ぎが起きる。かくて一瞬のうちにバブルは崩壊し、ジョン・ローは財務長官を辞任すると国外に逃亡、最後は尾羽打ち枯らしてヴェネチアで死んだ。

 このバブル崩壊で、民衆はなけなしの財産を失ったが、逆に国債がほとんど償還されて収支が改善されたフランス国家は1720年代後半にはかつてないほどの元気を取り戻していた。つまり国家デフォルトにより財政再建が成ったのである。

 そして、財政が元気を取り戻すと、フランスは自らが海洋国家でもあったことを突然に思い出すらしく、1720年代後半から海洋覇権の奪取に再挑戦することになる。ヨーロッパでの七年戦争終結まで続く、インドと北米における英仏戦争はこうして準備されたのである。

フランスの北米進出
 フランス植民地として先行していたのは北米である。起源は、北米の北側を抜けるアジア航路の存在を信じたサン・マロ出身の探検家ジャック・カルティエがフランソワ1世の保護を受けて1534年から探検に出発、現在のモントリオールまで到達して、フランスによるケベック領有の道を開いたことに求められる。

 フランスは1603年、アンリ4世に交易独占権を与えられたピエール・デュ・グァ・ド・モンがサミュエル・ド・シャンプランとともにセントローレンス川の水路が狭くなる地点にビーヴァーの毛皮を交易する都市ケベックを建設する。これが北米最大のフランス植民地ヌヴェル・フランスの始まりである。しかし、ケベック建設で一気に入植者が増えたかというと、そうはならなかった。

「先住民の手を借りることのできた毛皮交易は、ヨーロッパ人の人手を多くは必要とせず、加えてヴァージニア植民地のタバコのような魅力ある商品作物がなかったため、ヌーヴェル・フランスは入植者を引きつけることができなかったのである」(木村和男編『カナダ史』山川出版社)

 ヌヴェル・フランスの入植者は1645年の時点でも600人、年季奉公人を入れても1000人足らずで近隣のイギリス植民地とは比べ物にならないくらい少なかった。理由はイギリス植民地が本国に居場所のないプロテスタントを積極的に受け入れたのに対し、ヌヴェル・フランスではルイ13世の宰相リシュリューが植民会社の特許状条項によってプロテスタント信仰を禁止したため、本国で住みづらくなったプロテスタントの受け皿とはならなかったことである。これが後々、フレンチ・インディアン戦争の敗因となる。

 コルベールは重商主義政策の一環として植民の増加を図ったがヌヴェル・フランスでは極端に男女比が偏っていたので、「国王の娘たち」と呼ばれる770人の独身女性をヌヴェル・フランスに送ることにした。その大半はパリの孤児院の出身者で中には刈り込みにあって逮捕された娼婦もいた。アベ・プレヴォーの『マノン・レスコー』では詐欺容疑で逮捕されたマノンはアメリカに送られることになり、シュヴァリエ・デ・グリュがそれに同行するが、マノンはまさにこうした「国王の娘たち」の1人だったのである。

 このようにコルベールはヌヴェル・フランスの植民の増加に心を砕いたが、換金性商品が毛皮に限られていたため人口は拡大しなかった。ヌヴェル・フランスの発展が始まるのは、1720年代以降、毛皮交易に代わって小麦取引が中心になってからである。だが、農業と商業が発展の兆しを見せはじめたころ、北米のフランス植民地全体に悲劇が襲う。ヨーロッパの戦争を反映したイギリス植民地との戦争である。

81とはずがたり:2017/11/16(木) 15:08:47
 七年戦争よりも早く1754年に始まったフレンチ・インディアン戦争で、真っ先に被害を受けたのは、ヌヴェル・フランスとは別に形成されたフランス植民地アカディア(現在のノヴァスコシア、ニューブランズウィック、プリンスエドワード諸島など)である。アカディアには1633年頃からラ・ロシェル出身者300人が入植し、沼沢地を埋め立てて苦心のすえに開拓地を築いた。イギリス植民地ジェイムズタウンと隣接していたこともあり、ヨーロッパで戦争が起きるたびに支配者が目まぐるしく交替したため、住民は自らをアカディア人と名乗り、英仏どちらにも属さない自主独立路線を歩むことにしたが、フレンチ・インディアン戦争が始まるとこうした中立路線も意味をなさなくなる。

「彼ら(イギリス軍)は一七五五年ボセジュールなどシグネット地峡にある砦を攻略したが、この成功を契機に、彼らがこれまで腐心してきたアカディア人の処遇の最終的決着に踏み切った。同年八月ノヴァスコシア総督チャールズ・ローレンスは約一万五〇〇〇人のアカディア人にたいして強制追放を命じたのである。その結果、同年中に三〇〇〇人以上が土地や財産を没収されて十三植民地に離散した」(前掲『カナダ史』)

 ロングフェローの『エヴァンジェリン――アカディアの恋物語』が伝えるこのディアスポラにより、アカディア人たちはヌヴェル・フランスやフランス本国、あるいはルイジアナ植民地に散っていった。ルイジアナに移ったアカディア人たちは現在アケイディアナと呼ばれる土地に定着し、ケイジャンという独特の料理を生み出した。

 フレンチ・インディアン戦争はというと、こちらは前半はモンカルム将軍率いるフランス軍優位で推移した。フランス軍が軍事顧問団方式でインディアンの部隊を組織し、圧倒的に少数の自軍と同盟させて奇跡的勝利を勝ち得たのである。

 ところが、大敗北の知らせがイギリス本国に届くと、ホイッグ党のウィリアム・ピット(大ピット)の強硬外交派がニューカッスル内閣を組織し、1758年に大規模な正規軍を北米に送り込むと同時に、フランス艦隊が出撃できないように大陸封鎖を行った。

 これに対し、ヨーロッパの戦いに戦力を集中したいフランスはヌヴェル・フランスを救うために増援軍を送るのに消極的だった。

 結局、この本国政府の姿勢の差がもろに北米での戦闘に影響を与えることになった。1758年、難攻不落のルイブール砦が陥落、翌年にはヌヴェル・フランスの中心都市であるケベックの砦が陥落して勝敗は決した。1760年9月に総督ヴォドリュイユ侯が降伏文書にサインしてヌヴェル・フランスはイギリスの軍政下に置かれることとなった。そして1763年のパリ条約でフランスはミシシッピー以東の北米植民地をイギリスに割譲、ミシシッピー以西のルイジアナもスペインに譲渡し、北米植民地をすべて失うことになったのである。

インドの運命を決めた英仏決戦
 それでは、七年戦争に連動した植民地の戦いのもう一方の極であるインドでの戦争はどのように展開していたのだろうか?

 フランスはジョン・ローのデフォルトで国債が帳消しになり、国力が回復すると1730年代からポンディシェリーを拠点にイギリスの「東インド会社」と激しい鍔(つば)ぜり合いを演じるようになる。

 英仏の東インド会社の違いは、イギリスのそれがあくまで民営であったのに対し、フランスのそれは国策会社の色彩が強かったことに尽きる。そのため、フランス東インド会社の軍隊はフランス本国から派遣されたフランス領インド総督の指揮下に置かれ、実態的にはフランス植民地軍と同じだった。

 このフランス・インド総督軍とイギリスの東インド会社の軍隊がインドの地方の太守国の内紛に介入して三次にわたって戦ったのがカーナティック戦争である。

 カーナティック戦争では、第二次の戦争までは、フランス領インド総督ジョゼフ=フランソワ・デュプレックスの総指揮によりイギリスの東インド会社軍に対して有利に戦いを進めていた。

 デュプレックスはフランス東インド会社の総書記をつとめた父親の勧めで1720年に「フランス両インド会社」に就職、ポンディシェリーに赴任すると、たちまち頭角を現し、1742年にはフランス領インド総督に任命された。

 デュプレックスが採用した軍事方針は、軍事顧問団方式でインド人歩兵にフランス式の操銃訓練を施して、フランス人将校の指揮下に置くというものである。こうして組織化された現地軍は騎兵中心のインド諸侯軍を撃破し、これを配下においたり、同盟を組んだりして、イギリスとの対決に備えた。

82とはずがたり:2017/11/16(木) 15:09:27

 具体的には第一次カーナティック戦争(1744〜1748)ではマドラスの戦いでイギリス軍を撃破してマドラスを占領、第二次カーナティック戦争(1749〜1754)でも、ニザーム王国やカルナータカ太守国の内紛に介入して、ロバート・クライヴ率いるイギリス東インド会社軍と互角の戦いを展開したが、1754年に突如、デュプレックスが本国政府によって召喚(しょうかん)されたことで情勢は混沌としてくる。

 本国政府は、出先機関であるインド総督府と東インド会社が戦線を拡大し、膨大な資金をつぎ込んで戦争を継続していることを憂慮し、戦争よりも貿易と判断して、独断専行の廉(かど)でデュプレックスを本国に召喚したのである。

 このデュプレックス召喚はインド戦争に破局的影響を及ぼした。それは七年戦争と連動して起こった第三次カーナティック戦争(1758〜1763)で鮮明となる。

 もっとも、デュプレックスが召喚された後でも、フランス・インド総督軍はなお大きな戦力を保持しており、勢力圏はイギリスと拮抗していた。ところが、1757年に起こったプラッシーの戦いで勢力バランスが大きく崩れる。フランス・インド総督軍が支援したベンガル太守軍がクライヴ率いる東インド会社軍に完敗し、ベンガル地方は完全にイギリスの勢力下に置かれてしまったからである。とはいえ、教科書の記述にあるようにプラッシーの戦い1つでインドにおける英仏の戦いに決着がついたわけではない。プラッシーの戦いではフランス・インド総督軍の損害は軽微で、いまだに多くの領土と軍隊を保持していたからだ。

 インドにおける英仏の戦いに決着がついたのは第三次カーナティック戦争後半の1760年、本国政府海軍からの大増援を受けたイギリス東インド会社軍がヴァンディヴァッシュの戦いでフランス・インド総督軍を完膚(かんぷ)なきまでに破ったときのことである。この戦いでもヨーロッパ戦線で苦戦を強いられていたフランス本国政府が増援部隊を派遣できなかったことが運命の分かれ目となった。

 1763年2月にパリ条約が締結され、フランスはポンディシェリーとシャンデルナゴルを除くインド領をすべて失った。その後、フランス領インドは両都市を拠点に細々と貿易活動を続けたが、1947年のインド独立を機にインドに返還されたのである。

83とはずがたり:2017/11/16(木) 15:09:39
>>79-83
大仏帝国を夢想する
 と、このように、ヨーロッパの七年戦争と連動して北米とインドで繰り広げられた英仏の戦いを概観してみると、海洋国家として首尾一貫していたイギリスに比べ、大陸国家と海洋国家という2つの側面で逡巡が繰り返されたフランスは不利だったことがわかる。フランスは2つの植民地戦で負けるべくして負けたのである。

 ただ、そうはいうものの、パリ条約でイギリスが北米とインドの覇権を得たことは、その後の世界史に非常に大きな影響を及ぼした。

 それは、もし七年戦争でフランスが勝利していたらと歴史にイフをかけてみればすぐに明らかになる。北米とインドにおけるフランスの勝利により、フランスは余剰人口のはけ口を北米とインドに見出すことができたので、パリへの人口集中は起こらず、したがってフランス革命も起こらなかったはずである。ブルボン王朝がいまも続き、フランスは王国のままであったろう。

 反対にイギリスは17世紀にエンクロージャー・ムーブメントなどでマルクスのいう原始的蓄積(農民が土地から切り離され、労働力しかもたないプロレタリアとなること)が行われているにもかかわらず、植民地を失ったため余剰人口のはけ口がなくなり、プロレタリアがロンドンに溢れ、イギリス革命が起こったかもしれない。さらにマルクスの予言したとおりに、イギリスに初の共産主義政権が誕生していた可能性もある。となると、スコットランド、アイルランドは独立し、イギリス連合王国は空中分解していた可能性が強い。優秀なインド木綿の輸入超過に苦しんだイギリスが一計を案じて、綿花をアメリカに運んで安価な原料供給地とし、自国の綿織物工業の育成につとめるというようなことはなかっただろう。アメリカ綿花がなかったらイギリスに産業革命は起こらなかったはずだし、インドの綿織物工業が解体されることもなかったにちがいない。従って大英帝国も成立せず、19世紀はパクス・ブリタニカならぬパクス・フランカの世紀となっていたと思われる。

 また、中国茶のこれまた輸入超過に業を煮やしたイギリスがインドのダージリンやアッサムなどの土地を選んで茶を栽培し、中国からの輸入を減らすと同時に、インド茶を北米への重要な輸出商品とすることができたのも2つの植民地を領有していた賜物(たまもの)である。

 さらにいえば、インドを失ったフランスが紅茶消費国とならなかったことも七年戦争の影響だし、フランスがわずかに残された西インド諸島産のコーヒーに依存するコーヒー愛飲国となったのもパリ条約の結果なのである。そればかりではない。インドと北米がフランス植民地にとどまった場合、まちがいなく世界の共通語はフランス語になっていたものと思われる。となると、天の邪鬼(あまのじゃく)な私は専攻としてフランス文学ではなく英文学を選んでいたかもしれない。

 と、このようにパラレル・ワールドが簡単に描けるのだから、七年戦争こそは現在に至る世界史の分水嶺であり、18世紀から21世紀にかけての世界史を完全に変えたのである。

鹿島 茂

84とはずがたり:2017/11/27(月) 20:01:47

英海軍がバッキンガム宮殿の警護に、衛兵交代式357年の歴史で初
AFPBBNews 2017年11月27日 14時20分 (2017年11月27日 16時00分 更新)
https://www.excite.co.jp/News/world_g/20171127/Afpbbnews_112055.html

【11月27日 AFP】英ロンドンにあるエリザベス女王(Queen Elizabeth II)の公邸、バッキンガム宮殿(Buckingham Palace)で26日、名物の衛兵交代式に英国海軍(Royal Navy)が登場し、357年に及ぶ交代式の歴史上初めて警護任務を引き継いだ。

 世界中から訪れる観光客に人気の衛兵交代式は通常、赤い制服がトレードマークの近衛歩兵連隊が行う。交代式の歴史は1660年にチャールズ2世(Charles II)が王政復古をとげた際にさかのぼるが、海軍が警護任務を引き継ぐのは今回が初。海軍兵士が王宮の警護を担当するのは実に400年以上ぶりとなる。

 英国は2017年を「海軍の年(Year of the Navy)」と位置付けており、今回、海軍は祝賀行事の一環としてバッキンガム宮殿の警護任務を一時的に引き継いだ。

 交代式では、選抜された48人の水兵らが海軍伝統の紺色の制服を身にまとって初めての行進に臨んだ。海軍本部で1か月にわたって複雑な交代式の手順を訓練してきたという。

 27日には、この48人を含む86人の海軍兵士が初めてウインザー城(Windsor Castle)の護衛任務を担うほか、今後数週間かけてロンドン塔(The Tower of London)やセント・ジェームズ宮殿(St James's Palace)でも護衛を担当する。(c) AFP/AFPBB News

85とはずがたり:2018/01/18(木) 08:59:58


この件に関して俺はギリシャに批判的で国号ぐらい好きに名告らせてやれやと思ってたけど「アレクサンダー大王の唯一の後継者という主張」なことしてたんか(;´Д`)

マケドニア国名論争にピリオド? ギリシャと作業部会/国連も仲介再開
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180117-00000067-san-eurp
1/17(水) 7:55配信 産経新聞

 【ベルリン=宮下日出男】「マケドニア」の国名を採用するマケドニア共和国に対し、国内に同様の名の地方を持つ隣国ギリシャが反発してきた対立をめぐり、両政府間で解決に向けた機運が高まってきた。双方は今年に入り、作業部会の設置を決めたほか、国連による仲介交渉も17日に再開する。約四半世紀に及ぶ“論争”に終止符が打たれるのか注目される。

 問題はマケドニアが1991年の旧ユーゴスラビアからの独立時、アレクサンダー大王が大帝国を築いた古代王国に由来する「マケドニア共和国」を国名としたことが発端。北部に「マケドニア地方」を抱えるギリシャは領土的な野心を示すものだと猛反発し、マケドニアは国連に加盟した際に「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」という暫定名称の使用を迫られた。

 両政府が解決に向けて動き出したのはマケドニアで昨年5月、ザエフ首相率いる左派政権が誕生したのが契機。ギリシャの反対で阻止されてきた北大西洋条約機構(NATO)や欧州連合(EU)への加盟を目指すザエフ氏は「アレクサンダー大王の唯一の後継者という主張は放棄する」などとし、柔軟姿勢を示しはじめた。

 ギリシャも「(マケドニア政府が)極端な立場を捨てた」(政府報道官)と歓迎。今月11日には両国外相が会談し、解決に向け作業部会の設置を決めたほか、17日に米国で始まる国連仲介交渉などを通じて積極的に取り組むことを確認。国連のニミッツ特別代表も15日、「双方に前向きな機運がある」と期待感を示した。

 マケドニア側は今夏までの決着を目指し、新たな国名案がメディアで取り沙汰されるが、国内では国名変更への抵抗は強い。一方のギリシャでも、どんな形であれ「マケドニア」の表記が使われることに反対する世論が7割近くを占め、政府間で合意できても解決までは曲折が予想される。

86とはずがたり:2018/01/18(木) 14:02:21
2018年01月16日 18:46短縮 URL139
フランス市民、40万人がロマノフ王朝時代の未払いの国債の支払いをロシアに求めている。未支払い額は総額300億ユーロにのぼる。
https://jp.sputniknews.com/russia/201801164476049/
スプートニク日本

1867年、ロシアの複数の鉄道会社は、金を担保とした国債の市場公開を開始。その後30年にわたり、フランスの投資家たちはロシアの鉄道敷設プロジェクトに総額150億フラン(現在の換算で530億ユーロ)を注いだ。

出資者らは一部を除いて利益は得られなかった。理由は、社会革命の翌年の1918年、ロシア政権についたウラジーミル・レーニンがロマノフ王朝の負債を放棄する布告に署名したため。1997年、ロシアはフランスとの間に、ロシアは帝政時代の負債をすべて支払ったとする合意を結んだものの、当時の債権者の後継者約40万人はこれに納得せず、支払いを求めている。

扇動ポスターに見るソ連史
c 写真:
扇動ポスターに見るソ連史
ある債権所有者の友人のクリスチアンヌ・ルドワイヤン氏は、ラジオ・フランス・アンテルナショナル局(RFI)からのインタビューに次のように語っている。
「従祖父が私たちにたくさんの書類が入ったファイルを私たちに手渡したのは1974年。その時、聞かされた話はこれはいつか必ず全額支払われる。すべての利益が君たちのものになるということだった。」
国債は総額は300億ユーロに達する可能性がある。RFI放送は、「1997年、仏露で結ばれた合意に基づき、ロシアが3億3千万ユーロを超える国家債務を支払った後となっては、こうした希望(支払いをとりつけること)は一切持てない」との見方を示している。ところがフランス人債権者のほうは、この問題を解決済みとは見なしていない。

国際ロシア公債所有者協会のサニタス会長は、「ロシアは破産宣告をしていないし、そうした状況では全くない。国債には有効期限はなく、ロシアは支払わなければならない。それがルールだ」と強調している。

関連ニュース

87とはずがたり:2018/04/01(日) 19:45:17
なんか無理無理だけど面白いw

連載
鈴木貴博「経済を読む目玉」
数千万円の預金を使わない日本の高齢者たち…経済停滞の原因に関する歴史的考察
http://biz-journal.jp/2018/02/post_22284.html
文=鈴木貴博/百年コンサルティング代表取締役

 若い方はご存じないかもしれないが、1980年代に「イギリス病」という言葉が流行したことがある。60年代ぐらいまで安定した経済発展を遂げ世界の大国だったイギリスが、70年代以降経済的に停滞したことを憂いてつけられた病名だ。アメリカのみならず日本にも経済的に抜かれ、慢性的な不況に悩まされたイギリス国民は自らの経済を「イギリス病に罹っている」と嘆いたのだ。

 それと同じ意味で日本もその後「日本病」にかかり、中国にも経済的に追い抜かれてしまった。その間、イギリスはイギリス病から抜け出して再び経済発展に転換できたことから、日本の経済再生のヒントはイギリスにあるのではないかといわれている。

 そのような視点で私もイギリスの近代経済の歴史について研究しているのだが、今回のコラムはそのひとつのトピックとして、16世紀から19世紀の絶好調だった当時のイギリス社会の話をしてみたい。最後まで読んでいただくと現代の日本と関係する話だと謎が解けるはずだ。

ジェントルマン

 さて、イギリスという国は基本的に階級社会で、今でも王族の下に貴族の階級があってそれなりに高い地位を占め、それなりに社会から尊敬されている。16世紀から19世紀までそのさらにひとつ下の階級として力を持っていたのが地主などの階級であるジェントリで、貴族の称号を持つ領主とともにジェントルマンと呼ばれた。日本やアメリカではジェントルマンといえば一般男性(ただしきちんとした人)のことを指すが、イギリスではジェントルマンは上流階級のことを指すのである。

 さて、この伝統的なジェントルマンにはひとつの社会的ルールがあった。ジェントルマンたるものは、働いてはいけないのだ。ここが現代の支配階級との大きな違いである。

 現代社会の上流階級はたとえ数百億円の資産を持っていたとしても、企業経営者として働いたり、政治家に転身したりして身を粉にして働くのが常である。その理由は、現代社会では「権力は資産だけからは得られない」からである。金融資産が100億円あるから支配階級にとどまれるわけではなく、オーナー経営者だったり有力政治家だったりするからこそ社会を支配できる。これが第2次世界大戦後の民主主義というものである。

 そうではなく、生まれながらにして支配階級だったという時代のジェントルマンは、権力を保持するために領主として「働く」必要はなかった。逆に「働いている者はジェントルマンではない」とみなされたのである。

88とはずがたり:2018/04/01(日) 19:45:27

 この時代、農作物を生産するのは領民である小作人であり、そこから年貢を徴収するのは領主の手下たちである。家の中のこまごまとしたことは執事以下の屋敷内のスタッフがすべて行ってくれる。となると、ジェントルマンは意外と暇である。
 とにかく仕事は領民がすべてやってくれるし、生活に困ることもない。「もし自分がそうなったら?」と考えてみると、暇を持て余しそうである。

 そこで近代のジェントルマンたちが何をしていたかというと、2つあり、ひとつはとにかくお金を使って消費する。もうひとつが投資話に花を咲かせることになる。

 イギリスにはノブレスオブリッジ(貴族の責務)という言葉があって、財産を持つものはきちんとお金を使わなければならない。夏は避暑地の別荘に家族だけでなく使用人を引き連れて移動し、そこでたくさんお金を使う。ロンドンにも頻繁に出かけ馬車や宿などの旅費でたくさんお金を使う。身なりもきちんとして高価な毛織物を購入する。

 イギリスではパブなども階級別になっていて、ジェントルマンはジェントルマン階級が入るべきお店でしかビールを飲むことはできない。庶民のパブなら5分の1の値段でビールジョッキを注文できるからといって、安いお店に入ることは許されず、わざわざ高いお店でビールをたしなまなければいけないのだ。

 ちなみにこの名残が高級ホテルに完備されているミニバーである。われわれ日本人は「なぜ缶コーラ1本が500円もするのか!」と憤慨して、ミニバーを使わずにコンビニで購入したコーラのペットボトルを部屋に持ち込むのであるが、イギリスのジェントルマンはそんなことはしない。ザ・ペニンシュラやザ・リッツ・カールトンといった格のホテルに泊まるのがノブレスオブリッジであり、そこに置いてある500円のコーラを飲むのもノブレスオブリッジとして当然の習慣として振る舞うわけである。

ジェントルマンのポストがなくなった

 話を戻すと、ジェントルマンの経済社会におけるひとつめの役割が、消費することでイギリス経済を循環させることにある。そしてもうひとつの役割が投資である。近代になるとジェントルマンの間では海外投資話が活発になる。

 この時代、ジェントルマンたちはロンドンのコーヒーハウスに集って投資話に花を咲かせる。海外に向かう商船に投資して、貿易で儲けることがジェントルマンの財産運用として重要になってくるのである。世界最大の損害保険会社ロイズは、このコーヒーハウスで貿易保険が考案されたことに発祥している。

 このようにジェントルマンたちが「植民地経営」を始めたことは、現代的視点から見るとその是非が問われる論点ではあるが、のちのちジェントルマン階層の変質をもたらした。
 というのは、ジェントルマンの家庭でも次男以下の兄弟については、その地位をどうするかという問題がついてまわっていたからだ。最初は家を継ぐことができないジェントルマンの次男は弁護士や医者といった知的職業に就くことでジェントルマンに準じた地位を得ることができた。ところがそういった職業が世襲されていくと、新しいジェントルマンの次男や三男のポストがなくなってくる。

89とはずがたり:2018/04/01(日) 19:45:40
>>87-89

 それと植民地経営が結びついて、ジェントルマンの次男たちはアメリカやインドなどの植民地の管理者として赴任するようになる。

 最終的に大英帝国の植民地が全部独立してジェントルマンのポストがなくなっていくのと機を同じくしてイギリス社会はイギリス病にかかっていくわけだが、それはさておき、今の日本がこの歴史から学べることはなんだろうか?

日本のジェントルマン

 現代社会の日本で、大英帝国のジェントルマンのように「働かなくてもよくて財産を持っている階層」とは、ひとことで言えば豊かな高齢者である。実際、日本の個人金融資産の大半は高齢者が所有している。

 よく「日本人の平均預金額が1000万円だ」というようなニュースがあって、「誰がそんなに持っているんだ!」と話題になるが、あれは大半の日本人が数百万円か数十万円の預金しか持っていない一方で、高齢者が数千万円の預金を持っているからだ。

 その日本のジェントルマンである高齢者には未来に不安がある。だからお金を節約してなるべく預金を使わないようにしている。せっかく数千万円持っている金融資産についても、フィナンシャルプランナーの勧めで、60歳を超えたらリスク資産である投資には回さずに、安定資産である銀行預金にしておくのがいいと教えられる。

 だから日本のジェントルマンは近代イギリスのジェントルマンと違い、お金も使わないし、投資もしない。ここに日本が1990年代以降、イギリス病から抜け出せないひとつの理由があるように思えるのだが、みなさんはどう思われるだろうか?
(文=鈴木貴博/百年コンサルティング代表取締役)

●鈴木貴博(すずき・たかひろ)
事業戦略コンサルタント。百年コンサルティング代表取締役。1986年、ボストンコンサルティンググループ入社。持ち前の分析力と洞察力を武器に、企業間の複雑な競争原理を解明する専門家として13年にわたり活躍。伝説のコンサルタントと呼ばれる。ネットイヤーグループ(東証マザーズ上場)の起業に参画後、03年に独立し、百年コンサルティングを創業。以来、最も創造的でかつ「がつん!」とインパクトのある事業戦略作りができるアドバイザーとして大企業からの注文が途絶えたことがない。主な著書に『ぼくらの戦略思考研究部』(朝日新聞出版)、『戦略思考トレーニング 経済クイズ王』(日本経済新聞出版社)、『仕事消滅』(講談社)などがある。

90とはずがたり:2018/09/25(火) 09:58:20
なんとリヒテンシュタイン城がカリオストロの城のモデルとなったそうな。
で,しかもこれはリヒテンシュタインにはないらしいw

で,カリオストロはモールスブラウンの小説にも登場してたけどもともと実在の詐欺師だそうな

で,脚本に矛盾は俺も直ぐに気付いたけどまあ演出完璧だしだからああだこおだいわないけどな。

リヒテンシュタイン城
https://www.google.co.jp/search?biw=1905&amp;bih=1544&amp;tbm=isch&amp;sa=1&amp;ei=AQV4W7ySKJDs-Qab7YmACQ&amp;q=%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%86%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3%E5%9F%8E&amp;oq=%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%86%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3%E5%9F%8E&amp;gs_l=img.3..0l3j0i30k1j0i24k1l6.1012464.1018505.0.1018941.25.25.0.0.0.0.135.2378.16j8.24.0....0...1c.1j4.64.img..5.16.1649.0..0i4k1j0i4i10k1j0i4i24k1.0.QU-BoWr2s2o#imgrc=xhBw2YdpzKf8BM:

リヒテンシュタイン家
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%86%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3%E5%AE%B6

カリオストロ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD

2016-10-15 なぜ『ルパン三世 カリオストロの城』の話は矛盾しているのか?
http://d.hatena.ne.jp/type-r/20161015

92とはずがたり:2018/10/15(月) 23:24:47

■合理的、人道的な共同体を形成したイスラム教

岡本隆司・京都府立大教授

 ――イスラム教には今日、原理主義や過激派が繰り返すテロ行為で、他者を排斥する非寛容な宗教というイメージが強いです。聖戦(ジハード)を唱え、武力で勢力を拡大しました。

 しかしイスラム教は「偶像崇拝」を否定し、「奇跡」を説かないなど、当時では最も合理的な宗教でもありました。唯一神(アラー)の前では平等な同胞で、聖俗・位階の区別もありませんでした。人道的な共同体を形成して、既存の諸宗教をしのぐ魅力があったのです。

 歴史的にみて、後のオスマン帝国などイスラム教の政権は法制度上、異教徒を抱合することを前提にしていました。オスマン帝国のケースでは、イスラム教の普遍性に加え、東ローマ帝国やギリシャ正教など在地の正統性も兼ね備えて、多数派ではないトルコ系の支配を可能にしました。欧米中心の歴史観からだけでは、史上の本質的なイスラム像は見えてきません。

 ――東アジアにも普遍性を持った政権が誕生しました。

 中国では人口の多い農耕の「漢民族」と軍事力で勝る遊牧の「胡族」が融合し、胡漢一体政権の「唐」が成立しました。事実上の建国者、太宗李世民は胡族の鮮卑の血統を引いていました。漢人向けには名門貴族「李氏」を名乗る一方、胡族に対しては「天可汗(テングリ・カガン)」でした。

 遊牧民と定住民は生態系・慣習の違いから互いに補完しあう関係にあります。その仲立ちをするのが商業です。唐は中央アジアのソグド商人の交易活動もコントロールして、広域の経済圏と支配圏を確立しました。

 ――アジア史的には遊牧、農耕の両民族に商業を抱き合わせた政権がグローバルな普遍性を帯びるのですね。13世紀に誕生したモンゴル帝国も同じ構図です。

モンゴル帝国は史上初めて、本格的なグローバリズムを達成した政権ともいえます。このときは石炭の大規模な活用という一種のエネルギー革命をはじめ、「唐宋変革」という一大技術革新も経て、新たな段階に達していました。ユーラシア大陸の大部分を覆った版図の広さだけではありません。行政や経済の分野でも世界的な基準を示して実施しました。

 初代のチンギス・カンが率いたのは、ほぼ純粋な遊牧軍事集団でした。しかし急激な版図の拡大を支えたのは、シルクロード東方のソグド系ウイグル商人と西方のイラン系ムスリム商人といった、いわば当時の国際資本です。税務・文書を扱うウイグル人や契丹人が行政を担い、ムスリム商人が経済改革を進めました。

 ソグド系とイラン系は、自らの通商圏を東西に拡大させていっそう大きな利潤を得る一方、モンゴル帝国も商人資本の資金力や情報力を利用して、征服統治をすすめていったのです。そのためそうしたソグド系・イラン系の使うペルシャ語が国際共通語でした。

 ――モンゴル帝国のグローバリズムは、具体的にどんな内容だったのでしょうか。

 まず「首都圏」の建設があります。1つの都城ではなく、圏域を広げて城郭都市を互いに有機的に結合させました。遊牧民の移動と都市機能の組み合わせですね。その中間一帯に生産施設や軍事拠点を設け、統治の中枢機能を集中させました。

 経済面では商業の流通過程からの徴税システムを確立しました。モンゴル政権の保護下にあった数多くの商業資本がそのまま官庁化し、商業利潤の一部を税収として上納しました。政権に近い大手企業に一括して徴税を担当させることが、政権側にも商人側にもコスト最小の簡便な方法だったのです。

 通貨政策では銀建て紙幣の発行です。銅銭や絹布に代わる通貨としての紙幣発行は以前から始まっていましたが、問題は発行した紙幣の信用維持でした。モンゴル政権では財政・政務を取り仕切る国際資本が、銀を裏づけとしつつ紙幣の発行・回収を調整し、需給の均衡を保つことで、紙幣の価値を維持したのです。

93とはずがたり:2018/10/15(月) 23:24:59
>>91-93
■多元的・重層的な支配構造を求めたアジア政権

 ――世界的な寒冷化に伴う「14世紀の危機」で、モンゴル帝国は崩壊しますが、後世にどんな影響を与えたのでしょうか。

 「ポスト・モンゴル」の時代に入ってもティム―ル朝やムガル朝、清朝、オスマン帝国などの統治は、モンゴル帝国と共通しています。主として軍事・政治を担う草原遊牧起源の支配者、経済・文化の中心となる在地の農耕定住民、双方の事情に通じたエリートが両者をつないで統治を成立させるのです。

 アジアのように乾燥と湿潤、遊牧と定住が交錯する環境では、異なる慣習の中で多元的に共存せざるを得ません。円滑な統治をすすめるには、複数の正統性と普遍性を組み合わせた重層的な体制が必要だったのです。

 ――対照的なのが西欧、とりわけその西端の英国ですね。自然環境としてはユーラシア大陸のような広大な草原がなく、騎馬を駆使して長距離移動が可能とする機動的な遊牧民族も存在しません。基本的には農耕と定住が中心です。

 モンゴル帝国の時代、英国で成立していたのは「アンジュー帝国」ですが、領域は今の日本よりもやや広いにすぎません。英国の王権は矮小(わいしょう)な領地をくまなく巡回して、戦争と課税の協力を仰がねばなりませんでした。それを制度化して、治者と被治者をともに縛るシステムが「法の支配」です。上が下を治め、下が上を制する議会制も生まれました。治者と被治者の上下一体、双方向のシステムです。

 常に軍事費の捻出に悩まされていた英国は、国債を発行し、中央銀行を創設しました。官民一体のシステムで財政金融が巨大化しました。さらに潤沢にマネーを動かすために信用制度が確立し、背任に対する制裁が実行できる「法の支配」が不可欠になりました。狭い領土の中で政治・軍事・財政・金融が密接に結びついて一体化し、産業革命を迎えたのです。

■「法の支配」の解釈が根本的に異なる西欧とアジア

 ――「法の支配」に対する考えが英国など西欧とアジアでは根本的に異なるのですね。

 アジアの政権は重層的で、政治・経済をそれぞれ多元的な主体が分担していました。厳密な意味で官民一体の「法の支配」が機能しないのです。法律的諸制度がないために金融的な「信用」も手近な仲間内にしか行き届かず、貸借はあっても事業投資という概念は育ちませんでした。かつて世界史の主流だったアジアが西欧の勃興を許すことにつながりました。

 ――東端の日本はどういう位置づけになりますか。

 カール・マルクスの「資本論」には幕末日本が「忠実なヨーロッパの中世像を示してくれる」として登場します。日本列島には遊牧・農耕の二元世界は存在せず、農業生産優位の一元社会でした。一方で東アジアに近接し漢語圏に属する特異な立ち位置にあります。

 それなのに日本人は「欧米中心」の観念に従順で、なおかつ安易に日本を東アジアと見なす既成概念から抜け切っていません。日本は東西のアジア史とは異なる経験をしてきたという認識からスタートしないと、アジアと欧米との間の緊張も、アジアと日本と認識のズレもうまく制御できないことになるでしょう

 (聞き手は松本治人)

94名無しさん:2018/10/17(水) 00:25:01
http://ki-topo-ka.com/impact/11143/

黒人が「人間だと思われてなかった時代」の画像がヤバすぎると話題に・・・・・(画像あり)


sssp://img.5ch.net/ico/nida.gif
アフリカの黒人が「奴隷」であった時代の、ヤバすぎる ”輸送方法” をまとめたギャラリー。まるでモノのように敷き詰め、積み重ねられた人間たち・・・。[8]images

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95とはずがたり:2018/10/19(金) 16:58:41
https://twitter.com/pishi12a/status/1052445496487358464
ぴし。
@pishi12a

ドイツ文学専攻の友人に、「新大陸発見以前のドイツ人は何食ってたんだ? 麦とか支配階級しか食えんだろ?」と聞いたところ

「そら豆」が主食だったらしい

『だから「ジャックと豆の木」って昔のドイツ辺りを知るための重要な童話なんだぜ』
とのこと

23:25 - 2018年10月16日

96とはずがたり:2018/10/22(月) 22:43:04
桜田一家って何?ってずっと思ってたw

サグラダ・ファミリア 133年ぶりに「建設許可」
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181020/k10011679301000.html?utm_int=all_side_ranking-access_002
2018年10月20日 18時36分

スペインのバルセロナで建設が続くサグラダ・ファミリア教会は世界的な観光名所として知られますが、実は、133年間にもわたってバルセロナ市から建設許可を得ていない状態でした。このほど、教会が日本円にして46億円余りを市に支払うことでようやく許可が下りる運びとなりました。

アントニオ・ガウディの代表作「サグラダ・ファミリア教会」は、136年前の1882年に着工し今なお建設が続けられていますが、スペインのメディアによりますと、133年前にはバルセロナ市から建設許可を得ていない状態になり、そのまま現在に至ります。

理由は、教会の建設場所が着工当時は別の自治体で、その後バルセロナ市に合併された際どういうわけか建設許可が更新されなかったためだということです。

「無許可建設」という指摘に対し、教会は「バルセロナ市から連絡がなかった」と説明していましたが、市と2年間にわたって協議した結果、このほど、市に3600万ユーロ、日本円にして46億円余りを支払うことで市から建設許可が下りる運びとなりました。

教会が支払うのは、長年にわたって滞納する結果になった税金などに当たりますが、市は、それを教会に隣接する道路の補修や地下鉄から教会への新たな出口の整備など教会建設への支援に充てるとしています。

97とはずがたり:2018/11/09(金) 12:01:09
一寸強引に云えば今はチュニジアの首都チュニスになっている訳か。それにしても北方のバンダル族なんてのがこんな所迄進出してきてるんだな。

カルタゴ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%B4
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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「カルタゴを建設するディド」(ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー画)
カルタゴ(ラテン語: Carth?g? または Karth?g?[1] カルターゴー、アラビア語: ?????? Qar??j、英語: Carthage)は、現在のチュニジア共和国の首都チュニスに程近い湖であるチュニス湖東岸にあった古代都市国家。地中海貿易で栄え、現在は歴史的な遺跡のある観光地となっているほか、行政上はチュニス県カルタゴ市として首都圏の一部を成す。

「カルタゴ」の名は、フェニキア語のカルト・ハダシュト(Kart Hadasht=「新しい町」)に由来するとされる。
カルタゴが建設された地形は、水深が浅く、錨を下ろしやすい入江があり、突き出した岬がある。これはフェニキアが港の建設をする条件に沿っている。カルタゴは地中海の東西のほぼ中央にあり、前8世紀頃にはイベリア半島のガデスからフェニキア本土のテュロス等へと貴金属を運ぶ航路の中間にあった。この位置が、カルタゴが繁栄する一因となった[2]。

フェニキア人の地中海の航路は反時計回りであり、イベリア半島から東へ向かう船は北アフリカの海岸沿いに進み、テュロスなどフェニキア本土から西に向かう船はキプロス、ギリシア、シチリア、イビサなどの島々を経由した[3]。

紀元前5世紀初頭より、カルタゴはこの地域の商業の中心地となり、それはローマによる征服まで続いた。カルタゴは、フェニキア人の古代都市や古代リビュアの諸部族を征服し、現在のモロッコからエジプト国境に至る北アフリカ沿岸を支配下におさめた。地中海においては、サルデーニャ島、マルタ島、バレアレス諸島を支配。イベリア半島に植民都市を建設した。

ポエニ戦争
ローマ軍が、メッシーナのカルタゴ軍を攻撃したことで、約1世紀にも渡るポエニ戦争が始まった。西地中海におけるローマの覇権を確定し、西ヨーロッパの命運を決めることになったこの戦いは、3つの大きな戦争からなる。

ポエニ戦争では、第二次ポエニ戦争でカルタゴの将軍ハンニバル・バルカがイタリア半島に侵攻し卓越した指揮能力を発揮し、ローマ陥落の一歩手前まで陥らせるなどの事態もあったものの、最終的にはローマが常にカルタゴに勝利した。第三次ポエニ戦争のカルタゴの戦い(英語版)によって、カルタゴは滅亡し、ローマの政治家・軍人であるスキピオ・アエミリアヌスの指示のもと、度重なるカルタゴの侵略への報復として、市民は徹底して虐殺され都市は完全に破壊された。このカルタゴ陥落の際にスキピオはカルタゴの運命を自国ローマの未来に重ね見たといわれている。再三災いをもたらしたカルタゴが再び復活することがないように、カルタゴ人は虐殺されるか奴隷にされ、港は焼かれ町は破壊された。陥落時にローマが虐殺した市民は15万人に上り、捕虜とした者も5万人にも上ったとされる。カルタゴの土地には雑草一本すら生えることを許さないという意味で塩がまかれたという。

98とはずがたり:2018/11/09(金) 12:01:22
>>97
ローマによる征服後

古代ローマ時代のカルタゴのヴィラ
地味豊かで交易の要所でもあったカルタゴの故地には、カルタゴを滅亡させたローマによって併合されアフリカ属州となり、また都市カルタゴの有った場所には新たな植民市が造られた。最初の植民は紀元前122年に護民官ガイウス・グラックスによって企画された。この計画はローマにおいてグラックスの進めていた改革の支持票を獲得するための人気取りの意味合いも強かった。この計画の結果コロニア・ユノニア(ユノ植民市)として新たな都市が造られたが、ローマでのグラックスの失脚に伴いその後大規模な植民が行なわれることはなかった。

2度目はガイウス・ユリウス・カエサルによって計画され、アウグストゥスによって実行された。ユリウス・カルタゴ植民市として再建された都市は、以降アフリカにおけるローマの最も重要な都市として位置付けられ、ローマ帝国の西方でローマに次ぐ第2の都市となった。ローマの再建した植民市は2度ともカルタゴとは異なった名がつけられたが常にカルタゴの名で呼ばれつづけた。現在にまで残るカルタゴの遺跡のほとんどはこのローマ時代のものである。

ヴァンダルによる征服と東ローマ帝国による奪回
5世紀、ヴァンダル族(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AB%E6%97%8F:古代末期にゲルマニアから北アフリカに移住した民族。ローマ領外の蛮族による民族移動時代にローマ領内へ侵入して北アフリカにまで進軍し、カルタゴを首都とするヴァンダル王国を建国した。彼らが北アフリカに進出する前に一時的に定着したスペインのアンダルシア(もともとはVandalusiaと綴った)や、破壊行為を意味するヴァンダリズムの語源ともなっている。近代まではゲルマン系の部族と考えられていたが、現代ではポーランド地方のプシェヴォルスク文化に起源を持つスラブ系あるいはイリュリア系民族であったと考えられている。)の王ガイセリックがカルタゴを占領してこの地方にヴァンダル王国を建国。カルタゴはその首都となった。カルタゴの西ローマ帝国艦隊を拿捕したヴァンダル王国は、シチリア島、サルディニア島、コルシカ島などを征服。地中海における一大勢力となった。更にガイセリックは442年にはイタリアへ上陸しローマへ侵攻。ガイセリックはローマ教皇レオ1世の申し出を受け、ローマの破壊こそしなかったが、カルタゴより襲来したヴァンダル族によってローマは占領され、略奪を受けた。468年にはバシリスクス率いる東ローマ帝国艦隊を壊滅させた。

東ローマ帝国によるカルタゴ奪回の試みは何度か失敗したのち、ようやく6世紀になって征服に成功した。ローマ帝国の復興を企図していた東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世は、533年に西ローマ帝国の皇女の血を引くヒルデリック王がその遠いいとこであるゲリメルによって廃位されたことを口実として、ベリサリウスを将軍とする軍隊を派遣した(アド・デキムムの戦い)。ヴァンダル王国の軍隊はあっけなく敗北し、553年10月15日日曜日(9月14日という説もある)、東ローマ帝国軍は、カルタゴに入城した。略奪や虐殺は行わなかった。

こうしてカルタゴは再びローマ帝国の領土となったが、ムーア人の反乱が多発したため皇帝マウリキウスの時代に、カルタゴに総督府(英語版)が置かれ、イタリア半島のラヴェンナ総督府と並んで、帝国の西方における重要拠点として組み込まれた。

しかし、東ローマ帝国は、アラブ人の侵入を防ぐことができなかった。647年、ウマイヤ朝勢力がカルタゴを攻撃した。これは辛うじて退けたものの670年から683年にかけて、再び攻撃を受け、陥落した。698年には、アフリカ大陸にあった東ローマ帝国最後の拠点もウマイヤ朝が占領した(カルタゴの戦い(英語版))。そして、イスラム勢力の占領したこの時期よりカルタゴの荒廃は急速に進行し、ウマイヤ朝によってカルタゴの衛星都市であったチェニェスの跡にチュニスが築かれると、カルタゴは完全に放棄された。

99とはずがたり:2018/11/09(金) 12:05:03
なかなか素敵なフェニキアの宗教の様であるw

フェニキア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%82%AD%E3%82%A2
フェニキア(古代ギリシャ語: Φοιν?κη、Phoinik?、ポイニーケー、羅: Phoenices、Poeni、ポエニ、英: Phoenicia)は、古代の地中海東岸に位置した歴史的地域名。シリアの一角であり、北は現シリアのタルトゥースのあたりから、南はパレスチナのカルメル山に至る海岸沿いの南北に細長い地域であって、およそ現在のレバノンの領域にあたる。

フェニキア人は、エジプトやバビロニアなどの古代国家の狭間にあたる地域に居住していたことから、次第にその影響を受けて文明化し、紀元前15世紀頃から都市国家を形成し始めた。紀元前12世紀頃から盛んな海上交易を行って北アフリカからイベリア半島まで進出、地中海全域を舞台に活躍する。また、その交易活動にともなってアルファベットなどの古代オリエントで生まれた優れた文明を地中海世界全域に伝えた。

レバノンからカルタゴ等へ進出

紀元前9世紀から紀元前8世紀に、内陸で勃興してきたアッシリア(メソポタミア北部→ペルシャ)の攻撃を受けて服属

紀元前9世紀に北アフリカに建設された植民都市カルタゴは、フェニキア本土の衰退をよそに繁栄を続けていたが、3度にわたるポエニ戦争の結果、共和政ローマに併合されて滅んだ。

言語
フェニキア人は系統的には様々な民族と混交していたが、アフロ・アジア語族セム語派に属するフェニキア語を話し、現存する言語ではヘブライ語と同じカナン諸語(英語版)に属する。先祖はセム系のアモリ人の一派が小アジアから北シリアに移住したことに始まるといわれている[5]。

彼らがフェニキア語を書き表すために発明したフェニキア文字は、古ヘブライ文字・アラム文字・ヘブライ文字・ギリシャ文字・アラビア文字など、ヨーロッパ・西アジアの多くの言語で用いられる起源となった。 ギリシア文字がフェニキア文字を元とすることから、フェニキア文字はアルファベットのルーツとされる。

カルタゴの人々(en:Punics)の話していたフェニキア語はポエニ語(英語版)と呼ばれてローマ時代にも存続したが、やがてベルベル人のベルベル語や、イスラム教とともにやってきたアラビア語に飲み込まれ、消滅していった。

2015年06月20日
フェニキア、カルタゴに蔓延した悪魔崇拝
http://jesusadvent.net/archives/1031609494.html

フェニキア人は、悪魔崇拝の歴史の流れを追っていく上で非常に重要な民族です。神から呪いを受けたカナン→フェニキア→カルタゴというように、悪魔崇拝が引き継がれていっているためです。フェニキアの当時の記録を見ながら、悪魔崇拝について確認していきましょう。

紀元前1500年頃、地中海東岸を支配した「フェニキア人」という民族がいました。彼らは海辺の町として発展し、海上交易で栄えた商人たちであり、港や都市を建設する職人たちでもありました。その商品や職人たちの作品は王侯貴族の垂涎の的だったのです。今日にアルファベットを伝えたのはフェニキア人でした。旧約聖書の中では彼らの町の名前である、ツロ(ティルス)やシドンがたびたび登場します。

100とはずがたり:2018/11/09(金) 12:05:19
>>99
レバノン杉の商いで栄える
フェニキア人は、レバノン杉の交易によって栄えました。レバノン杉は名前に「スギ」が付いていますがマツ科の木です。この木は「香柏」と呼ばれ、すばらしい香りを放ちました。古代のレバノン地方に産したいろいろな硬材の中でも、レバノン杉はその耐久力と芳香によってとびきりの最高級品でした。古代の神殿の内装材として、これにまさるものはありませんでした。現在でも「レバノン」の国旗にはこのレバノン杉が用いられています。

旧約聖書によれば、栄華を極めたイスラエルのソロモン王は、フェニキアのツロの王ヒラムに相当な量の小麦とオリーブオイルを与えるかわりに、レバノン杉を手に入れたのです。このレバノン杉で、彼はエルサレム神殿を作りました。宮の内側の壁から床、そして天井にいたるまで、香柏の板を貼りめぐらし、その上を純金で覆ったのです。フェニキアの中でもツロは、森林の力を背景に、さかんにエジプトやイスラエルと交易し、繁栄を誇りました。

また、染色した贅沢な紫の布地も有名です。貴金属に鉱物、象牙、スパイス、ウールなど、様々な品物を取引きし、栄えました。

フェニキアの宗教
フェニキアの宗教では、男神バアルとその妻のアシュタルテを拝んでいました。フェニキアの王の名前にはたいてい「バアル」がつき、アドニバアル(わが主はバアルなり)、アビバアル(わが父はバアルなり)、バアルバザル(バアルの下僕)、アブダシュタルト(アシュタルテの下僕)といった名を名乗るほど、バアル信仰と結びついていました。

バアルに仕える人々はどのように神に求めていたのか、旧約聖書に書かれています。イスラエルの預言者エリヤとバアルの預言者がカルメル山で競い合いました。バアルの預言者たちは「剣や槍で自らの体を傷つけ、血を流し、激しく飛び回り、狂ったように叫び続けて」神にしるしを乞うた、とあります。

その「神」は、豊穣や海の平穏、安産などを約束する代わりに、幼児の生贄や神官との売春などを求める、神の仮面をかぶった悪魔の使いでした。つまり、フェニキアではバアル神、アシュタルテ神の偶像崇拝という「悪魔崇拝」を行っていたと言えます。

フェニキアに古くからあった宗教慣習に神殿での売春がある。とくにアシュタルテ信仰と結びついていた。キュプロス島キティオンで発見された前5世紀の碑文では、売春を行う男女の両方がアシュタルテ神殿の職員として列挙されている。ギリシアの歴史家ヘロドトスもキュプロス島にこの習わしがあったことを遠まわしに述べており、地元の女性たちが願掛けや神へのお礼のために自ら申し出たとしている。若い未婚の処女も参加していたとされるこの習わしは、キティオン、アマトゥス、パポスなどにみられるキュプロス島のアシュタルテ信仰の大きな特色だったようだ。

アシュタルテが身近な信仰の対象だったことは、他のタイプの裸体の女性の座像や立像からも知られている。フェニキア領内では、天然の洞窟や岩屋にもアシュタルテが祀られた。アドゥルンの南、ワスタの岩屋の壁は女性性器を表した落書きで飾られており、この女神の民間信仰のかたちをありありと伝えている。アシュタルテを祀ったたくさんの洞窟が、のちに聖母マリアの神殿に発展した。
聖母マリアの像を拝むことは、もともとこのような悪魔崇拝が元になっていることを忘れてはいけません。

フェニキアの宗教を引き継いだカルタゴ
カルタゴの経済にはもう一つ重要な産業がありました。奴隷の売買です。この人間の労働力の商いはフェニキア人から受け継がれました。

海賊行為も奴隷売買の有力な商路になった。フェニキア人は悪名高い人さらいだった。古い文献によると、不運な女性と子供がよくねらわれた。

101名無しさん:2018/11/22(木) 21:22:17
https://gigazine.net/news/20180822-burial-shows-herders-community-spirit/

2018年08月22日 16時00分 メモ
5000年前の共同墓地から「社会階層のないコミュニティ」が存在した痕跡が見つかる

by Carla Klehm

ある程度の人間が寄り集まってコミュニティを作るようになると、コミュニティ内における貧富や能力の差によって社会階層が形成されるようになるもの。権力の有無や性別、年齢による格差は、紀元前の社会においても生み出されていました。大がかりな共同作業を行う上では一定のヒエラルキーが存在しているほうが有利かもしれませんが、東アフリカのケニアで見つかった5000年前の共同墓地からは、「社会階層を持たないものの大規模な共同作業を行うコミュニティ」が存在した痕跡が発見されています。

Kenya burial site shows community spirit of herders 5,000 years ago | Science | The Guardian
https://www.theguardian.com/science/2018/aug/20/kenya-burial-site-shows-community-spirit-of-herders-5000-years-ago

ケニアの北西部に位置するトゥルカナ湖は、水鳥の大規模な生息地である上に数百万年前の人類の化石も発見される場所であり、トゥルカナ湖一帯を含むトゥルカナ湖国立公園群は世界遺産にも登録されています。ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校の准教授を務める人類学者のエリザベス・ヒルデブランド氏は、そんなトゥルカナ湖の近くにあるロサガム北柱遺跡で10年以上にわたって発掘調査を行っています。

102名無しさん:2018/11/22(木) 21:23:10
>>101

ロサガム北柱遺跡には4000〜5000年ほど昔の人々が建造した、巨石によって示された直径30mほどの広場が存在しています。広場の中央には空洞が作られており、その中には少なくとも580体以上の遺体が寄せ集まって埋葬されており、共同墓地として使用されていたと考えられているそうです。

農耕社会では共通の歴史や文化にもとづいて大きなモニュメントが建造され、家族を超えたコミュニティ全体の結束を強めていました。より大規模なコミュニティを作ることで、人々は技術や文化を大きく発展させることができますが、同時にコミュニティ内での格差が生まれやすくなるのも事実です。

by Katherine Grillo

ところが、ロサガム北柱遺跡で発見された広場を作ったのは農耕民族ではなく、移動しながら牧畜を行う遊牧民だったとのこと。農耕民族以外がコミュニティを作り、大規模なモニュメントを建造していること自体も珍しいそうですが、ヒルデブランド氏らは「埋葬された遺体の状況からして、このコミュニティには社会階層らしきものが存在していた痕跡がない」ことに注目しています。

遺体はいずれも密接に寄せ集められた状態で空洞の中に収められていて、権力者らしき遺体だけが隔離された場所に納められているということもないそうです。また、大人や子ども、男性も女性も等しく手の込んだ装身具に身を包まれており、特定の遺体だけが華美に飾られている痕跡もありませんでした。

トゥルカナ湖周辺を含む東アフリカでは、メソポタミアやエジプト、アジアで組織的な農業が行われるようになった時代でも、人々が十分な食料を得るためには牧畜が最も適していたため、農耕社会が発達しなかったとのこと。ヒルデブランド氏は、「農耕社会が発達するに従って社会階層が形成され、特定の人々が権力を握って富を増やし、貧富の差や健康状態にも差が現れるようになりました。一方で、遊牧民が形成した社会にも同様の変化が現れたのかどうかは、非常に大きな謎です」と述べており、ロサガム北柱遺跡はこの謎を解くヒントになるかもしれないとしています。

by aocrane

ロサガム北柱遺跡で発見された広場がどのような役割を果たしていたのか、詳しいところは判明していませんが、遊牧民が集合してお互いの持つ情報を交換する場として使われていたのではないかと考えられています。周辺地域の情報をコミュニティに属するほかの遊牧民から仕入れることは、自分自身が食べるものを探すためにも、家畜を養うためにもとても重要なことでした。

また、共同墓地が作られて使用されていた時代、トゥルカナ湖周辺では降水量が減少し、トゥルカナ湖自体が小さくなっていくという環境の変化に遊牧民は直面していた可能性があるとのこと。それにもかかわらず、幼い子どもまで丁寧に装身具で飾られてから埋葬されていることから、コミュニティの構成員は末端まで大切にされていたことがわかります。

最終的にこの広場や共同墓地を作った遊牧民のコミュニティがどうなったのか、詳しいことは判明していません。共同墓地の使用は突然終了してしまいましたが、それは予期せぬことではなく、コミュニティによって予定されたものでした。コミュニティの構成員は遠くから石を何度も往復して運んできて、フタをするように共同墓地の上に敷き詰めていったとのこと。「その後にコミュニティがどうなったのかはわかりません」と、発掘調査に参加しているフロリダ大学の考古学者であるキャサリン・グリロ氏は語りました。


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