ブーランジェ将軍の登場
1886年1月、シャルル・ド・フレシネ(fr:Charles de Freycinet)内閣[4]の陸軍大臣としてジョルジュ・ブーランジェが登用される。
ブーランジェは時勢が共和派に有利となっていると判断し、彼らに迎合するかたちで兵制の民主的改革や王族の軍隊からの排除を行った。また、ドゥカズビル(fr:Decazeville)炭鉱における争議に対して軍隊の出動を求められた際には坑夫に同情的な態度を装い、議会において共和制護持の演説を展開し、共和主義者、特に急進派からの支持を大きく受け、「共和的将軍」としての名が高くなった。
その直後、大統領グレヴィの女婿ヴィルソン(fr:Daniel Wilson)によるレジオンドヌール勲章売勲スキャンダル(fr:Scandale des décorations)が発覚。ルーヴィエ内閣は総辞職、グレヴィ自身も辞職せざるを得なくなった[7]。これにより政府の権威は失墜し、これに反比例するように、ブーランジェに対する期待感が大きくなっていった。