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西洋史

1とはずがたり:2006/12/02(土) 18:08:31
地理的範囲:西洋人が開拓した新大陸アメリカや地中海世界として歴史を共有する中東史や西洋の植民地となったアフリカなどもここへ入れてしまって良かろう。
時間的範囲:余りに最近の話は各当該スレに。それ以前なら地球上が現在の陸地構成に成った以降ならいつでも可。

44とはずがたり:2015/04/24(金) 17:28:14

ヴァルター・ラーテナウ
出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%8A%E3%82%A6 及び 臼井隆一郎『コーヒーが廻り世界史が廻る』中公新書1992

ヴァルター・ラーテナウ(Walther Rathenau, 1867年9月29日 - 1922年6月24日)は、ドイツの実業家、政治家、作家。ヴァイマル共和国初期に外相を務め、ソビエト連邦とラパッロ条約を締結したが、極右テロ組織に暗殺された。

経歴
実業家・文筆家

のちにAEG(「一般電気会社」)の共同設立者となるユダヤ人実業家エミール・ラーテナウの長男として、ベルリンに生まれる。1886年からシュトラスブルク大学およびベルリン大学で物理学、哲学、化学を学び、博士号を取得。1890年からはミュンヘン工科大学で機械工学を学んだ。当初彼は父親の仕事を継ぐことを嫌って芸術家、軍人、外交官への道を目指していたが、結局父親の仕事を受け継ぎ、1893年からAEG社によるビッターフェルトやラインフェルデンでの工場設立を担当した。1899年からはベルリンの商社の経営に参画した。1907年頃にベルリンの通運会社(商社と同じ?)から身を引いた彼は文筆に生きるか政界に進出するか去就に迷っていた。その頃ドイツは東アフリカ植民地での植民地経営に失敗し,再建の為に首相ハンス・フォン・ビューローは帝国植民地大臣ベルンハルト・ダルンベルクを東アフリカに派遣することにしたが,ダルンベルクは再建策を講ずる為に彼の最も信頼する友人であり,またドイツ経済界の最も優れた知性であったラーテナウに同行を求めた。そこでラーテナウはその求めに快諾し政界への第一歩を示すことになる。東アフリカでは原住民の価値を解き,現地でのコーヒー栽培の不利を指摘し,またドイツ人入植者がイギリスのジェントリー的な中間層気質に欠けていると指摘した。その後1912年にラーテナウはベルリンの商社の社長となる。AEG社監査役として1904年以降80社もの監査役を兼ねた。

ドイツ経済界で大きな役割を演じていたことは、彼がユダヤ系ドイツ人の有力経済人からなる「友愛協会」の会員に迎えられたことからも窺える。電機業界が不況を迎えた際はカルテル戦略で乗り切る手腕を見せ、1914年に第一次世界大戦が始まると、軍需物資供給組織の指導者として適役とみなされるようになる。国防大臣の下に戦時原材料局が置かれそのトップにラーテナウが就任して辣腕を振るった。例えばラーテナウの下に置かれた戦時栄養科はコーヒーの確保に奔走した。1915年に父が死んだが、最高顧問だった彼はAEG社の後継会長には就任せず、父の共同経営者にその地位を譲り、特権と「AEG総裁」という肩書きのみを受けた。

こうした実業家としての反面、彼は資本主義・物質主義万能の世の中に批判的な見解も持っており、文学によってそれを改善したいと考えていた。ジャーナリストのマクシミリアン・ハルデン(マックス・ハーデン)を支援してその週刊誌発行を助け、また同誌にたびたび寄稿した。最初の寄稿は1897年の「聞け、イスラエルよ」という論文で、近代のユダヤ人に対する異議申し立てだった。政治的にも倫理的にも、ヴィルヘルム2世時代の排外主義に反対の立場だった。またリベラルな市民の政治参加を目指し、自らもドイツ帝国の外交政策、特に植民地政策に影響を及ぼそうとした。

45とはずがたり:2015/04/24(金) 17:28:44
>>44-45
政治家

第一次世界大戦が始まると、彼はドイツが戦争をするには経済的準備が不足していると主張し、産業界に国家の注意を向けさせるために1915年3月まで軍事省戦時原料局長をしていた。この活動はドイツの物資不足を防ぐためとも、公共の福祉を目指す効率的な統制経済を実現するためとも言われる。経済に関するそうした考えを1917年の著書「来るべきことについて」でも表明している。彼はその目的のため大蔵省次官就任を目指したが失敗に終わり、軍事省を去った。のち1918年の終戦までAEG社の軍需物資生産監督に集中し、また戦後の非軍需物資生産の計画を立てていた。一方で1916年には軍事省の会議に出席して、他の産業界代表と共にドイツ軍占領下にあるベルギーの市民を強制労働のためドイツに連行することを主張している。

大戦が終了しヴァイマル共和国が成立すると、ラーテナウの政治への傾斜はさらに大きくなった。彼は経済専門家としてドイツ民主党(DDP)の共同設立者となり、「産業の社会化に関する委員会」の委員に就任。連合国との緊張緩和政策や交渉の手腕、そして国際的知名度が注目され、1921年5月にヨーゼフ・ヴィルト内閣に再建担当大臣として招聘された。大臣としてこの年10月にフランスとヘッセン州・ヴィースバーデンでヴィースバーデン協定を結び、賠償金の現物による支払いを定めた。直後に大臣を辞したが、ロンドンやカンヌで開催されたドイツ政府の外交交渉には参加している。翌1922年1月、ジェノア会議にドイツ代表として参加するため第二次ヴィルト内閣に外務大臣として招聘された。賠償金問題では成果を得られなかったが、成立間もないソビエト連邦とラパッロ条約を4月に締結、ドイツ外交の範囲を広げその価値を高めることに成功した(同時に連合国からは疑惑の目で見られた)。この条約は民族主義者からも歓迎され外相としての評価を高めたが、共産主義国家との提携は極右の忌むところとなった。

ラーテナウの墓
暗殺・死後

1922年6月24日、ベルリン近郊のグルーネヴァルトでオープンカーに乗っていたラーテナウは極右テロ組織コンスルに属する青年二名に狙撃され、頭部を撃たれて死亡した。犯人たちは翌月逃亡先で警官隊と銃撃戦の末に銃殺されて死亡した。狙撃犯を車で運んだ男は懲役15年、見張り役だったエルンスト・フォン・ザロモンは懲役5年の刑を受けた。また、ラーテナウの付運転手でコンスルの一員だったE・W・テーヒョフはラーテナウの暗殺計画を手助けをしたため懲役15年の刑を受けた。ザロモンとテーヒョフらは要人暗殺でヴァイマル共和政を揺るがすことを企んだが、却って共和政を護ろうという世論が高まり、のちに外相となりノーベル平和賞を受賞したグスタフ・シュトレーゼマンはラーテナウの外交政策を引き継いでいく。ヴィルト首相は国会での追悼演説で「敵は右側にいる!」と叫んだ。この事件を受けて共和国防護法が制定されたが、この事件の実行犯のような右翼ではなく共産主義者など左翼を対象にした法律だった。

ドイツの現代史家で評論家のゼバスティアン・ハフナーは1939年に「ラーテナウは20世紀のドイツの歴史で五本の指に入る偉大な人物であるのに、その伝記はろくにない。彼は貴族的でありながら革命家であり、理想主義的でありながら実業家であり、ユダヤ人でありながらドイツ愛国者であり、愛国者でありながらリベラルな世界市民であり、リベラルな世界市民でありながら千年王国の信者であり法の守護者だった」と評している。


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