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西洋史

98とはずがたり:2018/11/09(金) 12:01:22
>>97
ローマによる征服後

古代ローマ時代のカルタゴのヴィラ
地味豊かで交易の要所でもあったカルタゴの故地には、カルタゴを滅亡させたローマによって併合されアフリカ属州となり、また都市カルタゴの有った場所には新たな植民市が造られた。最初の植民は紀元前122年に護民官ガイウス・グラックスによって企画された。この計画はローマにおいてグラックスの進めていた改革の支持票を獲得するための人気取りの意味合いも強かった。この計画の結果コロニア・ユノニア(ユノ植民市)として新たな都市が造られたが、ローマでのグラックスの失脚に伴いその後大規模な植民が行なわれることはなかった。

2度目はガイウス・ユリウス・カエサルによって計画され、アウグストゥスによって実行された。ユリウス・カルタゴ植民市として再建された都市は、以降アフリカにおけるローマの最も重要な都市として位置付けられ、ローマ帝国の西方でローマに次ぐ第2の都市となった。ローマの再建した植民市は2度ともカルタゴとは異なった名がつけられたが常にカルタゴの名で呼ばれつづけた。現在にまで残るカルタゴの遺跡のほとんどはこのローマ時代のものである。

ヴァンダルによる征服と東ローマ帝国による奪回
5世紀、ヴァンダル族(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AB%E6%97%8F:古代末期にゲルマニアから北アフリカに移住した民族。ローマ領外の蛮族による民族移動時代にローマ領内へ侵入して北アフリカにまで進軍し、カルタゴを首都とするヴァンダル王国を建国した。彼らが北アフリカに進出する前に一時的に定着したスペインのアンダルシア(もともとはVandalusiaと綴った)や、破壊行為を意味するヴァンダリズムの語源ともなっている。近代まではゲルマン系の部族と考えられていたが、現代ではポーランド地方のプシェヴォルスク文化に起源を持つスラブ系あるいはイリュリア系民族であったと考えられている。)の王ガイセリックがカルタゴを占領してこの地方にヴァンダル王国を建国。カルタゴはその首都となった。カルタゴの西ローマ帝国艦隊を拿捕したヴァンダル王国は、シチリア島、サルディニア島、コルシカ島などを征服。地中海における一大勢力となった。更にガイセリックは442年にはイタリアへ上陸しローマへ侵攻。ガイセリックはローマ教皇レオ1世の申し出を受け、ローマの破壊こそしなかったが、カルタゴより襲来したヴァンダル族によってローマは占領され、略奪を受けた。468年にはバシリスクス率いる東ローマ帝国艦隊を壊滅させた。

東ローマ帝国によるカルタゴ奪回の試みは何度か失敗したのち、ようやく6世紀になって征服に成功した。ローマ帝国の復興を企図していた東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世は、533年に西ローマ帝国の皇女の血を引くヒルデリック王がその遠いいとこであるゲリメルによって廃位されたことを口実として、ベリサリウスを将軍とする軍隊を派遣した(アド・デキムムの戦い)。ヴァンダル王国の軍隊はあっけなく敗北し、553年10月15日日曜日(9月14日という説もある)、東ローマ帝国軍は、カルタゴに入城した。略奪や虐殺は行わなかった。

こうしてカルタゴは再びローマ帝国の領土となったが、ムーア人の反乱が多発したため皇帝マウリキウスの時代に、カルタゴに総督府(英語版)が置かれ、イタリア半島のラヴェンナ総督府と並んで、帝国の西方における重要拠点として組み込まれた。

しかし、東ローマ帝国は、アラブ人の侵入を防ぐことができなかった。647年、ウマイヤ朝勢力がカルタゴを攻撃した。これは辛うじて退けたものの670年から683年にかけて、再び攻撃を受け、陥落した。698年には、アフリカ大陸にあった東ローマ帝国最後の拠点もウマイヤ朝が占領した(カルタゴの戦い(英語版))。そして、イスラム勢力の占領したこの時期よりカルタゴの荒廃は急速に進行し、ウマイヤ朝によってカルタゴの衛星都市であったチェニェスの跡にチュニスが築かれると、カルタゴは完全に放棄された。


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