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西洋史
44
:
とはずがたり
:2015/04/24(金) 17:28:14
ヴァルター・ラーテナウ
出典:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%8A%E3%82%A6
及び 臼井隆一郎『コーヒーが廻り世界史が廻る』中公新書1992
ヴァルター・ラーテナウ(Walther Rathenau, 1867年9月29日 - 1922年6月24日)は、ドイツの実業家、政治家、作家。ヴァイマル共和国初期に外相を務め、ソビエト連邦とラパッロ条約を締結したが、極右テロ組織に暗殺された。
経歴
実業家・文筆家
のちにAEG(「一般電気会社」)の共同設立者となるユダヤ人実業家エミール・ラーテナウの長男として、ベルリンに生まれる。1886年からシュトラスブルク大学およびベルリン大学で物理学、哲学、化学を学び、博士号を取得。1890年からはミュンヘン工科大学で機械工学を学んだ。当初彼は父親の仕事を継ぐことを嫌って芸術家、軍人、外交官への道を目指していたが、結局父親の仕事を受け継ぎ、1893年からAEG社によるビッターフェルトやラインフェルデンでの工場設立を担当した。1899年からはベルリンの商社の経営に参画した。1907年頃にベルリンの通運会社(商社と同じ?)から身を引いた彼は文筆に生きるか政界に進出するか去就に迷っていた。その頃ドイツは東アフリカ植民地での植民地経営に失敗し,再建の為に首相ハンス・フォン・ビューローは帝国植民地大臣ベルンハルト・ダルンベルクを東アフリカに派遣することにしたが,ダルンベルクは再建策を講ずる為に彼の最も信頼する友人であり,またドイツ経済界の最も優れた知性であったラーテナウに同行を求めた。そこでラーテナウはその求めに快諾し政界への第一歩を示すことになる。東アフリカでは原住民の価値を解き,現地でのコーヒー栽培の不利を指摘し,またドイツ人入植者がイギリスのジェントリー的な中間層気質に欠けていると指摘した。その後1912年にラーテナウはベルリンの商社の社長となる。AEG社監査役として1904年以降80社もの監査役を兼ねた。
ドイツ経済界で大きな役割を演じていたことは、彼がユダヤ系ドイツ人の有力経済人からなる「友愛協会」の会員に迎えられたことからも窺える。電機業界が不況を迎えた際はカルテル戦略で乗り切る手腕を見せ、1914年に第一次世界大戦が始まると、軍需物資供給組織の指導者として適役とみなされるようになる。国防大臣の下に戦時原材料局が置かれそのトップにラーテナウが就任して辣腕を振るった。例えばラーテナウの下に置かれた戦時栄養科はコーヒーの確保に奔走した。1915年に父が死んだが、最高顧問だった彼はAEG社の後継会長には就任せず、父の共同経営者にその地位を譲り、特権と「AEG総裁」という肩書きのみを受けた。
こうした実業家としての反面、彼は資本主義・物質主義万能の世の中に批判的な見解も持っており、文学によってそれを改善したいと考えていた。ジャーナリストのマクシミリアン・ハルデン(マックス・ハーデン)を支援してその週刊誌発行を助け、また同誌にたびたび寄稿した。最初の寄稿は1897年の「聞け、イスラエルよ」という論文で、近代のユダヤ人に対する異議申し立てだった。政治的にも倫理的にも、ヴィルヘルム2世時代の排外主義に反対の立場だった。またリベラルな市民の政治参加を目指し、自らもドイツ帝国の外交政策、特に植民地政策に影響を及ぼそうとした。
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