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西洋史

1とはずがたり:2006/12/02(土) 18:08:31
地理的範囲:西洋人が開拓した新大陸アメリカや地中海世界として歴史を共有する中東史や西洋の植民地となったアフリカなどもここへ入れてしまって良かろう。
時間的範囲:余りに最近の話は各当該スレに。それ以前なら地球上が現在の陸地構成に成った以降ならいつでも可。

92とはずがたり:2018/10/15(月) 23:24:47

■合理的、人道的な共同体を形成したイスラム教

岡本隆司・京都府立大教授

 ――イスラム教には今日、原理主義や過激派が繰り返すテロ行為で、他者を排斥する非寛容な宗教というイメージが強いです。聖戦(ジハード)を唱え、武力で勢力を拡大しました。

 しかしイスラム教は「偶像崇拝」を否定し、「奇跡」を説かないなど、当時では最も合理的な宗教でもありました。唯一神(アラー)の前では平等な同胞で、聖俗・位階の区別もありませんでした。人道的な共同体を形成して、既存の諸宗教をしのぐ魅力があったのです。

 歴史的にみて、後のオスマン帝国などイスラム教の政権は法制度上、異教徒を抱合することを前提にしていました。オスマン帝国のケースでは、イスラム教の普遍性に加え、東ローマ帝国やギリシャ正教など在地の正統性も兼ね備えて、多数派ではないトルコ系の支配を可能にしました。欧米中心の歴史観からだけでは、史上の本質的なイスラム像は見えてきません。

 ――東アジアにも普遍性を持った政権が誕生しました。

 中国では人口の多い農耕の「漢民族」と軍事力で勝る遊牧の「胡族」が融合し、胡漢一体政権の「唐」が成立しました。事実上の建国者、太宗李世民は胡族の鮮卑の血統を引いていました。漢人向けには名門貴族「李氏」を名乗る一方、胡族に対しては「天可汗(テングリ・カガン)」でした。

 遊牧民と定住民は生態系・慣習の違いから互いに補完しあう関係にあります。その仲立ちをするのが商業です。唐は中央アジアのソグド商人の交易活動もコントロールして、広域の経済圏と支配圏を確立しました。

 ――アジア史的には遊牧、農耕の両民族に商業を抱き合わせた政権がグローバルな普遍性を帯びるのですね。13世紀に誕生したモンゴル帝国も同じ構図です。

モンゴル帝国は史上初めて、本格的なグローバリズムを達成した政権ともいえます。このときは石炭の大規模な活用という一種のエネルギー革命をはじめ、「唐宋変革」という一大技術革新も経て、新たな段階に達していました。ユーラシア大陸の大部分を覆った版図の広さだけではありません。行政や経済の分野でも世界的な基準を示して実施しました。

 初代のチンギス・カンが率いたのは、ほぼ純粋な遊牧軍事集団でした。しかし急激な版図の拡大を支えたのは、シルクロード東方のソグド系ウイグル商人と西方のイラン系ムスリム商人といった、いわば当時の国際資本です。税務・文書を扱うウイグル人や契丹人が行政を担い、ムスリム商人が経済改革を進めました。

 ソグド系とイラン系は、自らの通商圏を東西に拡大させていっそう大きな利潤を得る一方、モンゴル帝国も商人資本の資金力や情報力を利用して、征服統治をすすめていったのです。そのためそうしたソグド系・イラン系の使うペルシャ語が国際共通語でした。

 ――モンゴル帝国のグローバリズムは、具体的にどんな内容だったのでしょうか。

 まず「首都圏」の建設があります。1つの都城ではなく、圏域を広げて城郭都市を互いに有機的に結合させました。遊牧民の移動と都市機能の組み合わせですね。その中間一帯に生産施設や軍事拠点を設け、統治の中枢機能を集中させました。

 経済面では商業の流通過程からの徴税システムを確立しました。モンゴル政権の保護下にあった数多くの商業資本がそのまま官庁化し、商業利潤の一部を税収として上納しました。政権に近い大手企業に一括して徴税を担当させることが、政権側にも商人側にもコスト最小の簡便な方法だったのです。

 通貨政策では銀建て紙幣の発行です。銅銭や絹布に代わる通貨としての紙幣発行は以前から始まっていましたが、問題は発行した紙幣の信用維持でした。モンゴル政権では財政・政務を取り仕切る国際資本が、銀を裏づけとしつつ紙幣の発行・回収を調整し、需給の均衡を保つことで、紙幣の価値を維持したのです。

93とはずがたり:2018/10/15(月) 23:24:59
>>91-93
■多元的・重層的な支配構造を求めたアジア政権

 ――世界的な寒冷化に伴う「14世紀の危機」で、モンゴル帝国は崩壊しますが、後世にどんな影響を与えたのでしょうか。

 「ポスト・モンゴル」の時代に入ってもティム―ル朝やムガル朝、清朝、オスマン帝国などの統治は、モンゴル帝国と共通しています。主として軍事・政治を担う草原遊牧起源の支配者、経済・文化の中心となる在地の農耕定住民、双方の事情に通じたエリートが両者をつないで統治を成立させるのです。

 アジアのように乾燥と湿潤、遊牧と定住が交錯する環境では、異なる慣習の中で多元的に共存せざるを得ません。円滑な統治をすすめるには、複数の正統性と普遍性を組み合わせた重層的な体制が必要だったのです。

 ――対照的なのが西欧、とりわけその西端の英国ですね。自然環境としてはユーラシア大陸のような広大な草原がなく、騎馬を駆使して長距離移動が可能とする機動的な遊牧民族も存在しません。基本的には農耕と定住が中心です。

 モンゴル帝国の時代、英国で成立していたのは「アンジュー帝国」ですが、領域は今の日本よりもやや広いにすぎません。英国の王権は矮小(わいしょう)な領地をくまなく巡回して、戦争と課税の協力を仰がねばなりませんでした。それを制度化して、治者と被治者をともに縛るシステムが「法の支配」です。上が下を治め、下が上を制する議会制も生まれました。治者と被治者の上下一体、双方向のシステムです。

 常に軍事費の捻出に悩まされていた英国は、国債を発行し、中央銀行を創設しました。官民一体のシステムで財政金融が巨大化しました。さらに潤沢にマネーを動かすために信用制度が確立し、背任に対する制裁が実行できる「法の支配」が不可欠になりました。狭い領土の中で政治・軍事・財政・金融が密接に結びついて一体化し、産業革命を迎えたのです。

■「法の支配」の解釈が根本的に異なる西欧とアジア

 ――「法の支配」に対する考えが英国など西欧とアジアでは根本的に異なるのですね。

 アジアの政権は重層的で、政治・経済をそれぞれ多元的な主体が分担していました。厳密な意味で官民一体の「法の支配」が機能しないのです。法律的諸制度がないために金融的な「信用」も手近な仲間内にしか行き届かず、貸借はあっても事業投資という概念は育ちませんでした。かつて世界史の主流だったアジアが西欧の勃興を許すことにつながりました。

 ――東端の日本はどういう位置づけになりますか。

 カール・マルクスの「資本論」には幕末日本が「忠実なヨーロッパの中世像を示してくれる」として登場します。日本列島には遊牧・農耕の二元世界は存在せず、農業生産優位の一元社会でした。一方で東アジアに近接し漢語圏に属する特異な立ち位置にあります。

 それなのに日本人は「欧米中心」の観念に従順で、なおかつ安易に日本を東アジアと見なす既成概念から抜け切っていません。日本は東西のアジア史とは異なる経験をしてきたという認識からスタートしないと、アジアと欧米との間の緊張も、アジアと日本と認識のズレもうまく制御できないことになるでしょう

 (聞き手は松本治人)


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