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西洋史
83
:
とはずがたり
:2017/11/16(木) 15:09:39
>>79-83
大仏帝国を夢想する
と、このように、ヨーロッパの七年戦争と連動して北米とインドで繰り広げられた英仏の戦いを概観してみると、海洋国家として首尾一貫していたイギリスに比べ、大陸国家と海洋国家という2つの側面で逡巡が繰り返されたフランスは不利だったことがわかる。フランスは2つの植民地戦で負けるべくして負けたのである。
ただ、そうはいうものの、パリ条約でイギリスが北米とインドの覇権を得たことは、その後の世界史に非常に大きな影響を及ぼした。
それは、もし七年戦争でフランスが勝利していたらと歴史にイフをかけてみればすぐに明らかになる。北米とインドにおけるフランスの勝利により、フランスは余剰人口のはけ口を北米とインドに見出すことができたので、パリへの人口集中は起こらず、したがってフランス革命も起こらなかったはずである。ブルボン王朝がいまも続き、フランスは王国のままであったろう。
反対にイギリスは17世紀にエンクロージャー・ムーブメントなどでマルクスのいう原始的蓄積(農民が土地から切り離され、労働力しかもたないプロレタリアとなること)が行われているにもかかわらず、植民地を失ったため余剰人口のはけ口がなくなり、プロレタリアがロンドンに溢れ、イギリス革命が起こったかもしれない。さらにマルクスの予言したとおりに、イギリスに初の共産主義政権が誕生していた可能性もある。となると、スコットランド、アイルランドは独立し、イギリス連合王国は空中分解していた可能性が強い。優秀なインド木綿の輸入超過に苦しんだイギリスが一計を案じて、綿花をアメリカに運んで安価な原料供給地とし、自国の綿織物工業の育成につとめるというようなことはなかっただろう。アメリカ綿花がなかったらイギリスに産業革命は起こらなかったはずだし、インドの綿織物工業が解体されることもなかったにちがいない。従って大英帝国も成立せず、19世紀はパクス・ブリタニカならぬパクス・フランカの世紀となっていたと思われる。
また、中国茶のこれまた輸入超過に業を煮やしたイギリスがインドのダージリンやアッサムなどの土地を選んで茶を栽培し、中国からの輸入を減らすと同時に、インド茶を北米への重要な輸出商品とすることができたのも2つの植民地を領有していた賜物(たまもの)である。
さらにいえば、インドを失ったフランスが紅茶消費国とならなかったことも七年戦争の影響だし、フランスがわずかに残された西インド諸島産のコーヒーに依存するコーヒー愛飲国となったのもパリ条約の結果なのである。そればかりではない。インドと北米がフランス植民地にとどまった場合、まちがいなく世界の共通語はフランス語になっていたものと思われる。となると、天の邪鬼(あまのじゃく)な私は専攻としてフランス文学ではなく英文学を選んでいたかもしれない。
と、このようにパラレル・ワールドが簡単に描けるのだから、七年戦争こそは現在に至る世界史の分水嶺であり、18世紀から21世紀にかけての世界史を完全に変えたのである。
鹿島 茂
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