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西洋史

93とはずがたり:2018/10/15(月) 23:24:59
>>91-93
■多元的・重層的な支配構造を求めたアジア政権

 ――世界的な寒冷化に伴う「14世紀の危機」で、モンゴル帝国は崩壊しますが、後世にどんな影響を与えたのでしょうか。

 「ポスト・モンゴル」の時代に入ってもティム―ル朝やムガル朝、清朝、オスマン帝国などの統治は、モンゴル帝国と共通しています。主として軍事・政治を担う草原遊牧起源の支配者、経済・文化の中心となる在地の農耕定住民、双方の事情に通じたエリートが両者をつないで統治を成立させるのです。

 アジアのように乾燥と湿潤、遊牧と定住が交錯する環境では、異なる慣習の中で多元的に共存せざるを得ません。円滑な統治をすすめるには、複数の正統性と普遍性を組み合わせた重層的な体制が必要だったのです。

 ――対照的なのが西欧、とりわけその西端の英国ですね。自然環境としてはユーラシア大陸のような広大な草原がなく、騎馬を駆使して長距離移動が可能とする機動的な遊牧民族も存在しません。基本的には農耕と定住が中心です。

 モンゴル帝国の時代、英国で成立していたのは「アンジュー帝国」ですが、領域は今の日本よりもやや広いにすぎません。英国の王権は矮小(わいしょう)な領地をくまなく巡回して、戦争と課税の協力を仰がねばなりませんでした。それを制度化して、治者と被治者をともに縛るシステムが「法の支配」です。上が下を治め、下が上を制する議会制も生まれました。治者と被治者の上下一体、双方向のシステムです。

 常に軍事費の捻出に悩まされていた英国は、国債を発行し、中央銀行を創設しました。官民一体のシステムで財政金融が巨大化しました。さらに潤沢にマネーを動かすために信用制度が確立し、背任に対する制裁が実行できる「法の支配」が不可欠になりました。狭い領土の中で政治・軍事・財政・金融が密接に結びついて一体化し、産業革命を迎えたのです。

■「法の支配」の解釈が根本的に異なる西欧とアジア

 ――「法の支配」に対する考えが英国など西欧とアジアでは根本的に異なるのですね。

 アジアの政権は重層的で、政治・経済をそれぞれ多元的な主体が分担していました。厳密な意味で官民一体の「法の支配」が機能しないのです。法律的諸制度がないために金融的な「信用」も手近な仲間内にしか行き届かず、貸借はあっても事業投資という概念は育ちませんでした。かつて世界史の主流だったアジアが西欧の勃興を許すことにつながりました。

 ――東端の日本はどういう位置づけになりますか。

 カール・マルクスの「資本論」には幕末日本が「忠実なヨーロッパの中世像を示してくれる」として登場します。日本列島には遊牧・農耕の二元世界は存在せず、農業生産優位の一元社会でした。一方で東アジアに近接し漢語圏に属する特異な立ち位置にあります。

 それなのに日本人は「欧米中心」の観念に従順で、なおかつ安易に日本を東アジアと見なす既成概念から抜け切っていません。日本は東西のアジア史とは異なる経験をしてきたという認識からスタートしないと、アジアと欧米との間の緊張も、アジアと日本と認識のズレもうまく制御できないことになるでしょう

 (聞き手は松本治人)


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