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西洋史

97とはずがたり:2018/11/09(金) 12:01:09
一寸強引に云えば今はチュニジアの首都チュニスになっている訳か。それにしても北方のバンダル族なんてのがこんな所迄進出してきてるんだな。

カルタゴ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%B4
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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「カルタゴを建設するディド」(ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー画)
カルタゴ(ラテン語: Carth?g? または Karth?g?[1] カルターゴー、アラビア語: ?????? Qar??j、英語: Carthage)は、現在のチュニジア共和国の首都チュニスに程近い湖であるチュニス湖東岸にあった古代都市国家。地中海貿易で栄え、現在は歴史的な遺跡のある観光地となっているほか、行政上はチュニス県カルタゴ市として首都圏の一部を成す。

「カルタゴ」の名は、フェニキア語のカルト・ハダシュト(Kart Hadasht=「新しい町」)に由来するとされる。
カルタゴが建設された地形は、水深が浅く、錨を下ろしやすい入江があり、突き出した岬がある。これはフェニキアが港の建設をする条件に沿っている。カルタゴは地中海の東西のほぼ中央にあり、前8世紀頃にはイベリア半島のガデスからフェニキア本土のテュロス等へと貴金属を運ぶ航路の中間にあった。この位置が、カルタゴが繁栄する一因となった[2]。

フェニキア人の地中海の航路は反時計回りであり、イベリア半島から東へ向かう船は北アフリカの海岸沿いに進み、テュロスなどフェニキア本土から西に向かう船はキプロス、ギリシア、シチリア、イビサなどの島々を経由した[3]。

紀元前5世紀初頭より、カルタゴはこの地域の商業の中心地となり、それはローマによる征服まで続いた。カルタゴは、フェニキア人の古代都市や古代リビュアの諸部族を征服し、現在のモロッコからエジプト国境に至る北アフリカ沿岸を支配下におさめた。地中海においては、サルデーニャ島、マルタ島、バレアレス諸島を支配。イベリア半島に植民都市を建設した。

ポエニ戦争
ローマ軍が、メッシーナのカルタゴ軍を攻撃したことで、約1世紀にも渡るポエニ戦争が始まった。西地中海におけるローマの覇権を確定し、西ヨーロッパの命運を決めることになったこの戦いは、3つの大きな戦争からなる。

ポエニ戦争では、第二次ポエニ戦争でカルタゴの将軍ハンニバル・バルカがイタリア半島に侵攻し卓越した指揮能力を発揮し、ローマ陥落の一歩手前まで陥らせるなどの事態もあったものの、最終的にはローマが常にカルタゴに勝利した。第三次ポエニ戦争のカルタゴの戦い(英語版)によって、カルタゴは滅亡し、ローマの政治家・軍人であるスキピオ・アエミリアヌスの指示のもと、度重なるカルタゴの侵略への報復として、市民は徹底して虐殺され都市は完全に破壊された。このカルタゴ陥落の際にスキピオはカルタゴの運命を自国ローマの未来に重ね見たといわれている。再三災いをもたらしたカルタゴが再び復活することがないように、カルタゴ人は虐殺されるか奴隷にされ、港は焼かれ町は破壊された。陥落時にローマが虐殺した市民は15万人に上り、捕虜とした者も5万人にも上ったとされる。カルタゴの土地には雑草一本すら生えることを許さないという意味で塩がまかれたという。


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