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西洋史
80
:
とはずがたり
:2017/11/16(木) 15:07:53
すなわち、ローは兌換(だかん)銀行券の発券銀行として「バンク・ジェネラル」を設立し、次にそれを中央銀行に組織替えすると、金保有量をはるかに超えた銀行券(紙幣)を大量に発行する。ついで、「東インド会社」を再建して、これを他の国策会社と合併してインド貿易と北米貿易を連結させた「フランス両インド会社」へと改組する。それと並行して、北米のフランス植民地ルイジアナに河口港ヌヴェル・オルレアン(ニュー・オーリンズ)を建設し、ミシシッピー開発を業務とするミシシッピー会社(「西インド会社」)を設立、その株式を大々的に売り出すことにする。しかも、株式は額面価格の国債による株式転換が可能としたため、人気が沸騰(ふっとう)。目先の欲にくらんだ人々は政府に償還義務のある国債を償還義務のない株式に転換したので、政府の負債(国債)は大幅に減少した。ミシシッピー会社の株券は額面の20倍となり、フランスの歴史初のバブルが発生、証券取引所だったカンカンポワ通りは押すな押すなの大賑(にぎ)わいとなった。ローは財務長官の座に上りつめ、銀行券を安倍首相と同じく「ジャンジャン」刷りまくったから、通貨供給量は4倍となり、フランス人は急にみんな金持ちになったかのような多幸感に酔いしれた。
だが、夢はいつかは覚める。ミシシッピー会社が幽霊会社だという噂が流れると、売りが売りを呼び、人々は銀行の窓口に殺到して兌換を要求したから、たちまちフランス初の取り付け騒ぎが起きる。かくて一瞬のうちにバブルは崩壊し、ジョン・ローは財務長官を辞任すると国外に逃亡、最後は尾羽打ち枯らしてヴェネチアで死んだ。
このバブル崩壊で、民衆はなけなしの財産を失ったが、逆に国債がほとんど償還されて収支が改善されたフランス国家は1720年代後半にはかつてないほどの元気を取り戻していた。つまり国家デフォルトにより財政再建が成ったのである。
そして、財政が元気を取り戻すと、フランスは自らが海洋国家でもあったことを突然に思い出すらしく、1720年代後半から海洋覇権の奪取に再挑戦することになる。ヨーロッパでの七年戦争終結まで続く、インドと北米における英仏戦争はこうして準備されたのである。
フランスの北米進出
フランス植民地として先行していたのは北米である。起源は、北米の北側を抜けるアジア航路の存在を信じたサン・マロ出身の探検家ジャック・カルティエがフランソワ1世の保護を受けて1534年から探検に出発、現在のモントリオールまで到達して、フランスによるケベック領有の道を開いたことに求められる。
フランスは1603年、アンリ4世に交易独占権を与えられたピエール・デュ・グァ・ド・モンがサミュエル・ド・シャンプランとともにセントローレンス川の水路が狭くなる地点にビーヴァーの毛皮を交易する都市ケベックを建設する。これが北米最大のフランス植民地ヌヴェル・フランスの始まりである。しかし、ケベック建設で一気に入植者が増えたかというと、そうはならなかった。
「先住民の手を借りることのできた毛皮交易は、ヨーロッパ人の人手を多くは必要とせず、加えてヴァージニア植民地のタバコのような魅力ある商品作物がなかったため、ヌーヴェル・フランスは入植者を引きつけることができなかったのである」(木村和男編『カナダ史』山川出版社)
ヌヴェル・フランスの入植者は1645年の時点でも600人、年季奉公人を入れても1000人足らずで近隣のイギリス植民地とは比べ物にならないくらい少なかった。理由はイギリス植民地が本国に居場所のないプロテスタントを積極的に受け入れたのに対し、ヌヴェル・フランスではルイ13世の宰相リシュリューが植民会社の特許状条項によってプロテスタント信仰を禁止したため、本国で住みづらくなったプロテスタントの受け皿とはならなかったことである。これが後々、フレンチ・インディアン戦争の敗因となる。
コルベールは重商主義政策の一環として植民の増加を図ったがヌヴェル・フランスでは極端に男女比が偏っていたので、「国王の娘たち」と呼ばれる770人の独身女性をヌヴェル・フランスに送ることにした。その大半はパリの孤児院の出身者で中には刈り込みにあって逮捕された娼婦もいた。アベ・プレヴォーの『マノン・レスコー』では詐欺容疑で逮捕されたマノンはアメリカに送られることになり、シュヴァリエ・デ・グリュがそれに同行するが、マノンはまさにこうした「国王の娘たち」の1人だったのである。
このようにコルベールはヌヴェル・フランスの植民の増加に心を砕いたが、換金性商品が毛皮に限られていたため人口は拡大しなかった。ヌヴェル・フランスの発展が始まるのは、1720年代以降、毛皮交易に代わって小麦取引が中心になってからである。だが、農業と商業が発展の兆しを見せはじめたころ、北米のフランス植民地全体に悲劇が襲う。ヨーロッパの戦争を反映したイギリス植民地との戦争である。
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