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「今の教え」と「本流復活」を考える・挨拶板
437
:
初心者
:2011/09/20(火) 22:11:48 ID:4IaAZAME
義春さん
適切なるピン止め、ありがとうございます。ぼるぼ様のシニフィアンも、これにより、適切に
ピン止めされたことでありましょう。ピン止めされたなかで何が出てくるか。これが問題で
ありますね。
438
:
義春
:2011/09/20(火) 22:24:37 ID:iu5Ar./Q
初心者さま
有り難う御座います。
歴史に学ぶ日々を送っていると、これより更に残酷で、思い出すだけで
涙が溢れるような事があります…。
私は、もう他者を排除するような事を繰り返したくない…見たくもない…
その一心で書かさせて頂きました。
439
:
役行者
:2011/09/20(火) 22:42:34 ID:XDphrwd.
>ぼるぼさま
>暴走も危険も、どんとこい。釈迦さえ見捨てるよう な外道でも救ってしまう。これが、雅春先生の広げ た大ぶろしきなんである
その通りでございます。たぶん、ぼるぼさまは生長の家以外のところで、社会に貢献されているのだと思います。現象面での戦いに無常を感じた人間のもつ、何か温もりを感じます。
しかし、いま、我々が説いてるのは、個人の救いはもちろん、
・・・・・・
その後、続きを書こうとしたら、一緒に酒盛りをしてたはずの、初心者様と義晴さんに置いてきぼりをされました(>_<)お酒呑むと調子に乗っちゃうから・・・(-。-;)
失礼(p_-)
440
:
初心者
:2011/09/20(火) 23:51:23 ID:4IaAZAME
雅春先生がひろげた大ぶろしきだからといって、それだけで、どんとこい、といってすべてを
片づけてしまおうなんて、けっこう無責任な態度ですよね。
さくらちゃんがいってるように、それなら今のゴタゴタにしたところで、どんとこい、ですま
せてしまえばよいのですよ。なんでもかんでも、どんとこい、ですませてしまえばよいのですよ。
それが、なぜ、すますことができない人たちが、こんなにも大勢あらわれてきたのですか。
釈迦をさえも凌駕するという、雅春先生の大ぶろしきからはみ出た人たちが、なぜかくも多く
あらわれているのですか。雅春先生がひろげた大ぶろしきって、こんなにも小さなものだった
のですか。
どんとこい、って何なんですか。シニフィアンが暴走して、悲惨なできごとがあらわれてきても、
それでも、どんとこい、っていってればいいのですか。生長の家がカルトやセクトの餌食に
なっても、それでも、どんとこい、っていっていればいいってことですか。これが雅春先生の
大ぶろしきなのですか。
シニフィアンの暴走の危険性を理解し、それを止めようとする人たちは、それだけで、言語学に
引っかかって迷っている人たちになってしまうのですか。どんとこい、っていってる人って、何様
なのですか。そんなに偉い人なのですか。「信」とは、自分が人より偉いと信じることなのですか。
神は自己の内にある。そんなことは、わかりきったことだ。そもそも自己とは何か。自己とは、
実在宇宙そのものだ。実在宇宙のすべてが自分なのだ。そんなことはわかっている。偉そうに
いってもらわなくても、そんなことはすべてわかっている。
問題は、これもさくらちゃんがいっているように、世の中の仕組みなのだ。隠された構造なのだ。この構造について何を知っている?何を語れる?さあ、「迷っている」と人を見下している偉い
お方よ、それについて何が語れる?何を知っている?そんなことも知らないで、信を振りまわしたところで、人はけっして救えない。さあ、何を知っている。知っていることを語りたまえ。
441
:
うのはな
:2011/09/20(火) 23:54:06 ID:iM0b0bt6
元本部職員さんはどうしてるの?
初心者さんと元本部職員エンジェルは同世代かなと、思ってるのですが。。
442
:
うのはな
:2011/09/21(水) 00:26:29 ID:iM0b0bt6
● 事件が起こったとき、妙な言いがかりをつけて来たとき
その相手を憎んだり、腹を立てたりしてはならない。
それは、相手に宿る“キリスト”があらわれていないからである。相手の悪をみとめて、
それを憎んだり腹を立てたりしている限り、相手の悪は消えないのである。
みとめるものが顕れるのが“心の法則”であるからである。
現象悪をみとめず、その人の實相の“キリスト”をみとめて、拝み、尊敬すればよいの
である。實相の“キリスト”をみとめるということは、キリスト教的な表現であるけれども、
仏教信者ならば、相手に宿る“観世音菩薩”をみとめ、拝むようにすればよいのである。
相手の人が、姑であってお、嫁であっても、他人であっても同じことである。
良人や舅姑たちから何かいいつけられても、それを困難だと思ってはならない。
魂の向上に役立つところの仕事なのである。
低学年の生徒には易しい問題がテストとして与えられるが、高学年の生徒には難かしい
問題がテストとして与えられる。
それと同じように難かしい問題があなたに課せられるのは、あなたの魂がそのテストに
耐えることができると神が判断せられたからである。
あなたに与えられた問題であなたの力で解決できない問題はないのである。
その問題を超えることによって、あなたの魂はそれだけ進歩する。
問題を与えて下さった人を救世観世音菩薩だと思い、神想観中に感謝の念を
繰り返すと問題が好転する。
『幸福を開く鍵』 谷口雅春 先生著 より抜粋
443
:
復興G
:2011/09/21(水) 06:22:05 ID:yhDBe2kY
>>405
:義春様
>翻って考えてみますれば、私は2つの言葉が暴走している様に想います。
【中心帰一】と【実相独在】…この2つの言葉をピン止めしないといけない…と。<
私は、初心者様のおっしゃるソシュール言語学、シニフィアン、シニフィエなどの言葉の意味を咀嚼できないまま、ずっと別世界のようなところで【実相独在】を言って来ました。そしてやっと最近、どうしてもこれは元に戻って勉強し直さなければならぬと気がつき、理解を深めるための勉強を始めたところであります。
その間、義春様のたいへんなご努力による丁寧なご解説はとても有意義だったと、感謝しています。
そうして、今【実相独在】という言葉が暴走しているように思う、とおっしゃっていることを受け止めて、考えています。
私は、次のように考えます。
********
「独在」というのは、言葉にしてしまうと相対になってしまいますが、本当は、相対するものは何も無い、対立を絶しているから「絶対」というべきものなのです。しかし、この世界で表現されるもの(言葉を含む)には、絶対というものはない。「実相独在」というのも、言葉にした途端に「相対」的なものになってしまって、それはシニフィアンとして暴走する危険性を持ったものになってしまう。で、すでに暴走を始めている、という義春様の発言は、おそらくその通りであろうと、反省しています。
ところで、私は「スレッド(1)」の<376>あたりのところからの初心者様の発言をめぐっての論議を読み返しています。そうした中で、
>>587
で初心者様は、
>神は無限の表現力を持っています。
であれば、神の作品は無限の数になるはずです。
実相世界は、その無限の作品のなかのただの1作品にすぎません。
これでは少なくとも「実相世界独在」とはいえません。
ただの1作品である実相世界にどれほどの価値があるのでしょうか。<
と書かれているところがありました。
この、「実相世界は神の1作品」という考え方は根本的に違うと思います。
「実相世界」は、神自身、神そのものであり、「神こそ全ての全て」であって、「神の外にあるものなし」「実相世界の外にあるものなし」というのが真理であると思います。
それは、『新版真理』第7巻第1章(10頁)に
──────────
神が子供を生んだというようなのは、譬喩的な擬人的な、一種の小乗的な説き方でありまして、人間になぞらえて、そして判り易く、あまり哲学的な思索傾向をもっていない、人間的な愛情関係に於いて神を観たい人に、そういう説き方をするのであります。それでも間違ではないんですけれども、神様がこうして万物を生み出すというような考え方は最高の真理ではない。何故ならば、そのような考え方には、何処やらに相対的な(それ自身独立していないで他との関係に於いてある)あるものがあるからです。創造者と被造物とが対立している。……
──────────
とあって、華厳の相即相入の哲学──主観と客観は一つ、創造者と被造物とは一つというのが大乗の真理である、と書かれている通りであります。
********
(つづく)
444
:
復興G
:2011/09/21(水) 06:22:49 ID:yhDBe2kY
(つづき)
現象界にあらわれているものは、時間・空間というスクリーンに投影された影であります。神は時間・空間の中に出現したものではなく、時間・空間をも生み出したものであり、あらゆる対立を絶して、超えているから「絶対」と言い、「独在」と言えるのでしょう。それは本当は、現象の言葉では表現不可能なものだから、仏教(禅宗)では「不立文字」と言い、「説似一物即不中」(せつじいちもつそくふちゅう)とも言う。「説いて一物に似たるも即ち中(あた)らず」、何と説いても本当の処には的中しません、それはどんな言葉をもっても表現出来るものではないと言っているのです。
「実相独在」というのも、そう表現したときにもう「中(あた)らず」となっているのかも知れない。それを「ピン止め」しようとすると、ますます「中(あた)らず」となるようなことかも知れないと思います。
それは、初心者様がスレッド(3)の<609>で
>シニフィアンとシニフィエの用語なんだけど、これは特別な意味を持った言葉なんだよね。だから日本語に訳すことは不可能だと思うんだよ。……だから、シニフィアンとシニフィエは、べつの言葉で言い換えることはできないと、あたしは考えているんだよね。<
とおっしゃっているのも、同じようなことかも知れませんね。
そうして、「シニフィアン」という言葉も、意味がよく分からないまま、もしかしたら暴走を始めているんじゃないかという気もしますが、いかがでしょうか。
445
:
さくら
:2011/09/21(水) 07:11:55 ID:6tmMyXBA
>信と理は両輪であるべきだと思います。
こう義春さまが、仰るように、信とは、何をどう信じることか、それを理、でどう理解していくか、このことは、私にも、やはり、重要なことだと思えるのですよね。
雅宣総裁は、その事を「真理を分かる」とは、どういうことなのか、というテーマで、小閑雑感、の中で、慎重に、考察されていました。もう少し、生長の家ではこれについても考えて良いかな、と思っていました。
ちなみに、雅宣総裁の一挙手一投足、それがどうした、というのは、私にはあまり重要ではないのですよね、たぶん、それ程に、愛情がないのかもしれません、すみません、笑。
一つの、与えられた課題、として、自分の信や、理に、ヒントを与えて下さっているように、受けとっているところがあります。だから、雅宣総裁の文章に、教えてもらうことがあっても、私は、雅宣派、というわけではありません。「今の教え」を支持しているわけではありません。
では、そこで、自分の信仰をどう考え試すか、それだけは、考えてはいます。
大風呂敷…
これは、雅春先生の、大きすぎる、愛のことでしょうか、
人間は神の子である、という偉大な、そして、全ての人に分かりやすく、愛深く、これ程あらゆることに行き届いた真理で、全ての人類を救われた。それ以上の愛を、私は生長の家に触れるまで知りませんでした。
だから、雅春先生は、私の人生の最も敬愛すべき師となり、これが私の信、となったと言えると思います。
そして、私の信となったことで、雅春先生からも、自立、しなければならないとも同時に思われました。自立することが、雅春先生の教えを、本当に生かすことだと思いました。自立とは、どういうことなのか、これも自分で考えていかなくてはならないことです。
自分に、信の部分で、迷いはなくても、人や世の中を動かしているのは、何であるか、この迷いの正体というか、やはり仕組みは、慎重に考察の必要はあると思っていました。組織、国家、宗教団体とか…人の信仰というものまで、何がそれを動かしているのか。
初心者さまや皆さまが議論されていた、シニフィアンの暴走の危険性は、私には理解を助ける大きなヒントになりました。今のゴタゴタの原因の理解もそうと言えます。
ただの言語学の迷い、とは受け取れなかったのですね。
「真理を求めて迷っている人」には、今は、この信の部分、理の部分、両方を知る必要は、あると思います。
そして、信とは、何か、理とは何か、この本質も見分けることは、大変重要だと思います。
復興Gさま、いつも、適切なご指摘で、大変勉強させて頂いています。
言葉、にすれば、全ては相対化されてしまうのでしょうか。
やはり、信仰の部分は、言葉ではなく、自分の内の信を実行し、そこにできる道、しか、示すものがないという気も改めていたしました。
446
:
義春
:2011/09/21(水) 07:43:34 ID:iu5Ar./Q
復興G様
おはようございます。
お伺いの件ですが、「実相独在」…この言葉が相対的な世界である、
この世界に言葉として表現された時点で、「実相独在」も相対的になってしまいます。
それは復興G様の仰るとおりだと思います。
だから、シニフィアンは無理に言おうとするなら「相対的な世界に表現された言葉」
となろうかと思います。
そして何が恐ろしいかといえば、シニフィアン連鎖により、相対的な世界に
表現された言葉が、言葉を呼び、それが有り得ぬ動きをする…
それが、中世の魔女狩りや先にあげさせて頂いた、サヴォナローラを
生み出す素地になったかと思います。
だから、シニフィアンは言葉によってピン止めをされねばならないと
私は理解しております。
それに対して、シニフィエとは、潜在的な言葉を指し、このシニフィエの
一番奥に言葉で表現できないところの、本当の「実相独在」や「神」があるのだと
私は思います。
復興G様のおかげで、私もよりシニフィアン・シニフィエの理解が進み、
シニフィアンについて言葉のピン止めできるという機会が出来ました。
心から御礼申し上げます。有り難う御座います。
447
:
復興G
:2011/09/21(水) 09:43:24 ID:yhDBe2kY
>>445
:さくら様
>>446
:義春様
ご丁重なレス、ありがとうございます。
現象界には、「絶対」というものはない。「実相独在」という言葉も、相対的な世界である、この世界に言葉として表現された時点で、相対的になってしまい、シニフィアンとして暴走する危険性をはらんでいる。信仰の部分は、言葉ではなく、自分の内の信を実行し、そこにできる道、しか示すものがない──そういうことなんでしょうね。
でも、生長の家は「有言実行」ですから、あらゆる言葉を尽くして、現象の言葉にも表現しながら、信を実行して行きたいと思っています。
で、この掲示板では、前にお約束したように、「信仰/体験板」でまた、私の体験を語りながら、「実相独在」の真理に肉薄して行きたいと考えています。
その時は、ソシュールの言語学、「シニフィアン」「シニフィエ」のこともしっかり踏まえて書きたいと思い、まだ勉強中ですので、しばらくご猶予をお願いいたします。
ありがとうございます。
448
:
義春
:2011/09/21(水) 10:22:43 ID:iu5Ar./Q
>>447
復興G様
有り難う御座います。
復興G様のお話から、「実相独在」について更に学んでいきたく、
思っております。
これからも宜しくご指導・ご鞭撻の程、お願い申し上げます。
449
:
初心者
:2011/09/21(水) 10:40:53 ID:4IaAZAME
本音で語ることにいたします。敵をどこまでも追い詰めないではおかない、残虐な戦士で
あり続けるようとすることは、この場にはふさわしくないと考えます。
本音を申しますと、わたくしは、生長の家の方々に不快感を禁じえないでおります。よると
さわると、他者を「迷い」の物差しで測りたがる、いやらしい人々であると理解しております。
言語学を語ればどうなるか。それは、すべて予測できたことです。「あの人は迷っている」。
このひと言で片づけられてしまうことは、はじめから予測できておりました。他者を、ただ
ひとつの物差しで測ろうとする、あのいつもの、きまりきったいやらしい視線を、つねに
意識しながら、わたくしは書き込みを続けました。
その人たちは、言語学については、おそらく何も知らない人たちです。知らないことにたい
してさえ、「迷っている」と決めつけることのできる人たちなのです。「迷っている」と決めつけ
さえすれば、安心できる人たちなのです。知らないことにたいしてさえ、「迷っている」のひと
言で片づけて、それで安心を得ようとする人たちなのです。
これは非対称な関係なのです。わたくしからは、生長の家の人々の姿が見えております。
すべて丸見えであります。それにたいして、生長の家の人々は、わたくしの姿をどれだけ見る
ことができているのでしょう。ごく一部を見て、それがすべてだと考えておられるのではない
でしょうか。
「信」をやたらと強調しておられる方がおられます。なぜ「信」でなければならないのでしょう
か。知ってはいけないのでしょうか。どうしてもそれは信じなければならないものなので
しょうか。それは、きまりごととしての、真理の世界の法則なのでありましょうか。
信じようが、知ろうが、どちらでもよいではないですか。なぜそのことばかりを問題にする
のですか。なぜそれを問題にしなければ、気がすまないのですか。信仰は「信」でなければ、
落ち着かないのですか。誰もが「信」を基調に信仰しなければ、自分の信仰がゆらぐように
感じられるのですか。なぜそうやって、自分の立てた基準を押しつけようとするのですか。
もちろん、わたくしにしたところで、自分が立てた基準を押しつけようとしているでありま
しょう。しかしそれは、不安からそうするのではありません。そうしなければ、自分の信仰や
真理観がゆらぐと考えて、そうしているのではありません。雅春先生の教えがすべてでは
ない。このようなわかりきったことを、ただいっておきたいだけなのであります。
「信」だけで成り立つ信仰に、心の余裕はありません。「信」がゆらげば、それですべてが
終わりです。いちど手にした「信」を変化させることができますか。おそらくできないで
ありましょう、。知は変えることができます。いくらでも変えて、進化させてゆくことができます。
「信」は強度だけが問題になります。どれだけ強く信じられるか、。それだけが問題になります。
知のしなやかさや、変化への対応力が、「信」にはありません。「信」は、つねにひとところに
とどまろうといたします。
「信」だけで総裁先生と向き合うのは、不可能であると考えます。総裁先生と向き合うに
あたって必要とされるのは、しなやかで柔軟性に富んだ「知」であると考えます。「知」で
向きあうとき、総裁先生は魅力的な存在へと変化します。「信」だけでしか向き合えない
人たちが、問題を、必要以上に大きくさせてしまいました。
450
:
さくら
:2011/09/21(水) 10:57:57 ID:MwO0IqU.
時間がなくて、ちょっとだけ。
初心者さま、あなたの言われる、知のフロンティアの世界は、
私には理解はしきれませんが、世界観は、共感できる部分、あります。
私にとっては、信も、フロンティアだと感じてます、
言葉が適切か、分かりません。
疑っても、否定しても、迷っても…
やはり、信にも、フロンティアが、ある気がするのです、
感覚的でごめんなさい。
ではまた。
451
:
初心者
:2011/09/21(水) 11:14:24 ID:4IaAZAME
復興G様
疑問があります。生長の家の人々は、なぜかくも実相の独在にこだわり続けるので
ありますか。実相は独在でなければならいなという理由を何かお持ちなのですか。
どうしても実相は独在でなければならないと、このように考えてなければならない
理由が、どこかにあるということなのですか。
わたくしに関心があるのは、実相があるとかないとかではなく、それが独在であるとか
そうでないとかでもなく、なぜ実相は独在でなければならないと考えるのか、という
ことであります。何がそうさせているのか。生長の家の人々をして、何が、実相の独在を
求めさせているのか、ということであります。
求めさせているのは、シニフィアンの連鎖であり、それを支配するシニフィアンの法で
あるのではないかと、わたくしは考えます。生長の家の方々は、シニフィアンの連鎖を
逃れ、シニフィアンの法による支配からも逃れることができているのでしょうか。言葉を
使っていながら、言葉の支配からは逃れることができている。生長の家の方々は、こうした
超人的ともいえる技術を、すでに身につけておられるのでありましょうか。
452
:
初心者
:2011/09/21(水) 11:36:54 ID:4IaAZAME
さくらちゃんへ
何を信じるか、ではなく、何を信じたいか、が先にあるのではないですか。
人は信じたいものを信じる。こういうことではないですか。
信じたいものをはじめに決めさせてしまう。何がそうさせるのか、その仕組みを、わたしは
知りたいと思います。そこにこそフロンティアがあると思います。
信がフロンティアであるというのは、適切ではないと考えます。信とは、追い詰められた
心理状態です。これしかない、と思わせる心理状態です。対立するふたつの概念を、人は
信じることができません。人にできるのは、対立する概念を知ることだけです。
信を基調にする人々は、対立する概念を受け入れることができません。つねにそれを
排除しようとするはずです。対立する概念を受け入れないかぎり、フロンティアは
広がらないのではないでょうか。対立する概念のすべてを迷いであると切り捨てて、
ひとつところに安住の地を求めているかぎり、フロンティアが広がる可能性は、ほとんど
ないと考えます。
信の世界を生きる人たちは、信じるべきものを、最初から決めているように考えます。
信じたいものを信じようと努力しているだけのように感じます。信じてしまえば、そこが
終着点です。あとは、信を守ることだけを考えるようになります。信がおびやかされ、
それを失ってしまうことを、必要以上に怖れるようになります。対立する概念を受け入れて、
フロンティアを広げようとする勇気や柔軟性は、もはやどこにも残されていないのでは
ないでしょうか。
信の世界。それは、はじめから結果がわかっている世界なのではないでしょうか。
453
:
さくら
:2011/09/21(水) 12:25:37 ID:MwO0IqU.
さて、さっきの、続きを…と思ったら、戦闘モードの初心者さまから、早速つっこみが〜。
ちょっと、私の言葉の使い方に、つっかかりがありましたか、知に対して、信、これも、暴走したのかも。なんて、言葉をつかったら、良いですか、笑。
言いたかったのは、私は、今の、宗教団体の仕組みのなかでは、信(この言葉が適切か、わからないのですが、)のフロンティアは、不可能ではないか、と考えてますよね。
生長の家の場合ですと、もともと、宗教ではなく、言葉の創化力を駆使して、人類光明化を企てた団体でしたよね、
それで、言葉の正体は、あなたが明らかにした通りです。いつでも、暴走の危険はあった、それでも、雅春先生は、やらざるを得なかったのですよね、
そこに、使命があられて、神霊のご加護がありましたが、
だからと言って、そこにも、信の根拠を見いだすのは、違うと思えるのですよね。どんな高級な神霊でも、それを、信の根拠にするのは、大変危うい、とも思うのですね。
何を信じたいか、など、正直、私にはないです。まず、宗教ありき、ではない、と思うからです。
たしかに、恐れは、ありますよね、フロンティア、だから。
でもそれは、失う恐れ、では、ないのですよね。
…っていうか、初心者さまの、お相手は、やだ、笑。
454
:
役行者
:2011/09/21(水) 12:30:57 ID:XDphrwd.
皆さん、少し視点を変えます。
「信」には、「盲信」という言葉もあります。行き過ぎると、洗脳なのではないでしょうか・・・何事も、行き過ぎるのはよくないかと存じます。
それから、シニフィアンの連鎖をとどめるのは、もっと、平たい言葉でいえば、現象処理です。もう、ここまでいろいろな例を挙げて初心者様をはじめ、説明しているので理解して頂けるかと存じますが、現象面において、「真理の言葉」の暴走を防ぐということです。
そのファンダメンタルがあってこそ、真の宗教の本当の意義があるのではないでしょうか?
雅春先生は、「信」とは、実相に入る込むことだ。という表現をされてました。言葉は、我が内に向けて発して、神の中に入って、神に包まれて、「信」なのではないでしょうか?雅春先生に対して仰ぎ奉りの「信」。 これは、雅春先生が一番、厭がっていたことと存じます。
我が内なる神に、「信」、そして、言葉の力が、それを強固にしてくれる。
言葉が、外に向かうと、盲信になる可能性を秘めてます。
どんな素晴らしい聖者に対しても、その方に「信」が向かってしまったら、それは極論をいうと「盲信」でないかと、そう存じております。
455
:
さくら
:2011/09/21(水) 12:42:45 ID:MwO0IqU.
私も、宗教には、苛立ちがあるのですよ、
それは、何か、フロンティア、の限界に対する、苛立ち、だったのでしょうか。
456
:
初心者
:2011/09/21(水) 14:41:38 ID:4IaAZAME
>…っていうか、初心者さまの、お相手は、やだ、笑。
やだ!ほかの人にはいってもいいけど、あたしにだけは、こんな言い方はしないで。
あら、どうしたのかしら。あたしったら、さっきまでとは、モードがちがっちゃったみたい。
いいわ、モードなんて、あとで戻せばいいんだから。さくらちゃんの気持ちをつなぎ
とめるのが、先決よ。
そうよ、そうだったのよ。うっかりしてたわ。さくらちゃんの信には、フロンティアがあった
のよ。そうなのよ。フロンテロイアはあったのよ。
さくらちゃんは、最初に何を信ずるべきを決めたりはしなかったわよね。行動して、考えて
みて、それから信ずるべき対象を見いだすのよね。そして、いちど見いだした対象であっても、
信じる価値がないとおもえば、すぐにでも捨て去ってしまえる人なのよね。
あたしも、そうやって捨てられたのだった。そのことを思いだしたわ。
さくらちゃんにはフロンティアがあったのよ。あたしもいつか、フロンティアになりたい。
457
:
さくら
:2011/09/21(水) 14:43:57 ID:MwO0IqU.
なるほど、初心者さまが、言ってるのは、
ある、仕組みの中の、信ということですね、
分かりました、
458
:
さくら
:2011/09/21(水) 14:50:35 ID:MwO0IqU.
え?
だれですか?…この、上に書いてる初心者、っていう人、
捨てた覚えも、拾った覚えも、ないんですけど〜、笑。
私のフロンティアは、私だけが、知ってて、守るから、
いいんです、笑。
459
:
復興G
:2011/09/21(水) 15:01:47 ID:yhDBe2kY
>>451
:初心者様
>疑問があります。生長の家の人々は、なぜかくも実相の独在にこだわり続けるのでありますか。実相は独在でなければならいなという理由を何かお持ちなのですか。<
私は、「実相は独在でなければならい」とこだわっているつもりはありません。
「実相は独在である」と堅く信じているだけです。
現象界はすべて相対的にあらわれる世界で、生滅常なき世界であります。だからこそ面白い、という見方もできます。しかし、私は根源なる「絶対」の世界、実相世界の独在を信じます。
初心者様は、スレッド(1)の<588>で、
>ここでは「空」について述べます。
わたくしのいう「空」は、何もないという意味ではありません。
ドリームタイムでは、すべてが一体化され、あらゆる区別が存在しません。
そこは、分離も分割も不可能な世界であり、すべての存在者が混然と一体化された世界であります。
こうした世界は、現実世界の根源でありますが、しかしそれがどういうものかということを、言葉で説明することはできません。(中略)
仏教者は、この「語られぬタオ」を「空」と呼んできました。
ドリームタイムを「空」と呼ぶことに問題はないかと存じます。<
と述べられており、「すべての存在者が混然と一体化された世界」を、現実世界の根源として認められているのですね。
それは、「実相世界」と極めて近似した世界であると思われます。
しかし、初心者様は、「実相世界には嫌悪感をもつ」とおっしゃる。それについて、スレッド(1)の<413>あたりから、役行者様などとのやりとりで詳しくいろいろおっしゃっているようですね。その時に読む時間がなかったので、これからじっくり勉強させていただきます。そして、私が「実相は独在である」と堅く信じる根拠について、できるだけ言葉を尽くして申し述べさせていただきます。
今しばらくのご猶予をください。
460
:
初心者
:2011/09/21(水) 15:25:26 ID:4IaAZAME
そうなのです。ある仕組みのなかの信なのです。
仕組みによってつくられる信。このように言い換える
こともできそうでありますね。
461
:
初心者
:2011/09/21(水) 15:27:07 ID:4IaAZAME
復興G様
>この、「実相世界は神の1作品」という考え方は根本的に違うと思います。
「実相世界」は、神自身、神そのものであり、「神こそ全ての全て」であって、「神の外にあるものなし」「実相世界の外にあるものなし」というのが真理であると思います。
疑問がいくつかありますので、以下に列挙いたします。
神はなぜ「実相世界」だけを創造なさったのでしょうか。ほかには何にひとつとして創造なさら
なかった。これは事実なのでしょうか。
もしも事実であるとすれば、創造主である神は、なぜ創造を手控えられたのでありますか。
しかも、神は、「実相世界」を創造なされたにもかかわらず、それを相対化なさらなかった。
だとすれば、神はなにゆえに「実相世界」を創造なさったのでしょうか。相対化する必要も
ないものを、神はなにゆえに創造なさったのでありましょうか。
そして、神が時間と空間を創造なさったことで、現象世界だけが相対的世界として出現しま
した。「実相世界」でさえも相対化される必要がなかったにもかかわらず、存在しないはずの
現象世界だけが相対化された。これはいったい、なにを意味しているのでありましょうか。
存在しないはずの現象世界だけを相対化することで、なにが得られるというのでありましょうか。
それと、最新の物理学では、宇宙の本質は2次元の平面であると考えられているようです。
宇宙は、2次元の平面によって虚構され、映し出された立体映像であると考えられているよう
なのですね。現代物理学が説くように、宇宙の本質が2次元の平面であるとすれば、神が
空間を創造なさったという説明は成り立たなくなるように思います。
この点にかんして、雅春先生よりも早い時代を生きたルドルフ・シュタイナーは、2次元の平面に
エーテル界が作用するとき、そこに3次元の世界が出現すると、このような興味深いことを
すでに述べていたといいます。雅春先生は、2次元の世界から3次元の世界が出現するという
ことにかんして、言及されておられるのでしょうか。もしも言及されてなかったとすれば、
宇宙の本質にかんしては、シュタイナーに1日の長があるようにも思います。
もしも、いっさいの言及をなされてなかったとすれば、雅春先生は、はたして真実を説かれて
いたのかという疑問が出てまいります。宇宙の本質が2次元の平面であるとすれば、雅春先生
は、そのことに気づいておられなかったのでありましょうか。
雅春先生が説かれていた現象世界とは、わたくしがいつも述べておりますような、差延と
パースペクティブによって虚構された、実在しないはずの宇宙のことでありますね。
わたしがいう、実在宇宙、それはつまり2次元の平面宇宙のことでありますが、これに
かんしては、なぜ重要視なさらなかったのでありましょうか。実在しない宇宙だけではなく、
実在する宇宙についても説かれるべきであったと考えております。
462
:
復興G
:2011/09/21(水) 15:36:55 ID:yhDBe2kY
>>454
:役行者様。
まったく、お説の通りであると思います。
463
:
初心者
:2011/09/21(水) 15:49:09 ID:4IaAZAME
さくらちゃんへ
よく気づきましたね。そうなのです。はじめに信ありき、ではなくて、構造ありき、なのです。
信じたいものを、人は自由に選ぶことができません。人は、構造によって選ばされてしまう
のです。
人は、構造によって支配されていますが、多くの人は、そのことに気づいていません。
そのために、ほんとうは、構造によって選ばされているにもかかわらず、自分で選んでいると
錯覚します。わたくしは、この構造を知りたいと思っているのですよ。構造を知ることによって
しか、真理に接近することはできないとも考えているのですよ。
面白いことに、生長の家で構造に言及すれば、「それは迷いだ」とさげすまれます。構造に
よって支配されているにもかかわらず、それに言及すれば、迷いにされてしまうのですね。
生長の家の人々に「迷いだ」といわせているもの。じつはそれも構造です。
構造を語らずして真理を語ることなかれ。わたくしは、このように考えます。
464
:
さくら
:2011/09/21(水) 17:38:34 ID:6tmMyXBA
人が、信を、選ばざるを得ない構造、これを知りたかったですよね、
やはり、どこにいても、自分が支配されているもの、構造を知らないといけないのですよね。
やっぱり、信仰、信、ということについて、もっと慎重に考えて行かないといけない、
ということを改めて、感じます。
宗教にいて、この信、の構造の中にいる人は、ある状態で「幸福」
を感じている、これも、構造の中に幸福感、なのか。
やっぱり、物理とか、哲学とか必要ですか。
・・20年くらいかけたら、理解できるのかな。
465
:
復興G
:2011/09/21(水) 17:45:22 ID:yhDBe2kY
>>461
:初心者様。
お答えします。
>(1)神はなぜ「実相世界」だけを創造なさったのでしょうか。ほかには何にひとつとして創造なさらなかった。<
それは、事実ではありません。「創造なさった」と、過去形で書かれていますが、神の創造は過去のことではなく、今、自分を通して創造されつつあると言えます。「実相世界」はすでに完成済みとも言えるけれども、永遠に未完成で、今創造し続けているとも言えると思うのです(矛盾するようですが、そうなのです)。「(実相を)信じてしまえば、そこが終着点」ではなく、そこが出発点となって、無限創造に向かう、フロンティアを広げようとする勇気の根源となるのが「実相生命」であると私は感じています。創造主である神は、創造を手控えられたなどということはありません。
>(2)しかも、神は、「実相世界」を創造なされたにもかかわらず、それを相対化なさらなかった。<
これも、過去のことではなく、「今」のことであります。「相対化」は、現象に展開するときにあらわれる仮の形式であります。あくまで一即多・多即一なのであります。
「現象は存在しない」というのは、鏡に写した姿は影であって、本当には存在しない、というような意味であります。
>(3)そして、神が時間と空間を創造なさったことで、現象世界だけが相対的世界として出現しました。<
「時間と空間」は、現象世界の認識の形式として仮にあらわされたもので、本来存在しない、「無」であります。「実相世界」は、その「無」の奥にあると申しますか、現象界にあらわれる一切万物発生の枢機を握る根源の「久遠の今・此処」にあります。それは「相対化される必要がなかった」というよりも、「相対化」以前の、「対立を絶した」という意味の「絶対」の世界なのであります。すべては過去のことではなく、「今」のことであります。
>(4)それと、最新の物理学では、宇宙の本質は2次元の平面であると考えられているようです。宇宙は、2次元の平面によって虚構され、映し出された立体映像であると考えられているようなのですね。<
宇宙の本質、実在(実相)宇宙というのは、次元を超えたところにある。無次元にして無限次元の世界にある、というのが本当でしょう。2次元だ、3次元だ、時間も一つの次元と数えて4次元だとかいうのは、認識の形式のことであって、本来「無」である、それを超越したものが神であり、実相生命である。それが私の「信」であります。
神こそ渾(すべ)ての渾て、
神は渾てにましまして絶対なるが故に、
神の外にあるものなし。
神は実在のすべてを蔽う。
存在するものにして
神によって造られざるものなし。
・・・・・・
生命は時間の尺度のうちにあらず、
老朽の尺度のうちにあらず、
却って時間は生命の掌中にあり、
これを握れば一点となり、
これを開けば無窮となる。
・・・・・・
空間も亦決して生命を限定(かぎ)るものにはあらず、
空間は却って生命の造りたる『認識の形式』にすぎず、
生命は主にして空間は従なり。
・・・・・・(聖経『甘露の法雨』)
であります。
466
:
役行者
:2011/09/21(水) 18:12:04 ID:XDphrwd.
>>462
復興Gさま
お役に立てて何よりです。
まあ、
>>459
>>461
については、懐かしいです(*^-^*)
また、宇宙論を語り合いましょう。
今度は、もっと、多くの方の参加を望みます。
私は、初心者様のシニフィアンとシニフィエ論に関しましては、完全同意です。大切なことです。
しかし、宇宙論に関しましては、いまだ未解決なのです。
復興Gさま!是非、独自の宇宙論を展開されて下さい。
楽しみにしおります!(^^)!
467
:
初心者
:2011/09/21(水) 18:24:39 ID:4IaAZAME
復興G様、丁寧な回答をいただき、ありがとうございます。
創造は今もおこなわれている。これはわかります。では、今この瞬間に何が創造されている
のかとなったときに、これまで存在しなかったものが、新たに創造されているという意味では
ありませんね。すでに創造されたものが、今また新たに創造されている。こういう意味である
と解釈してよろしいのでしょうか。
もしそうであれば、これは、神の創造というよりも、運動であると解釈すべきなのではないで
しょうか。創造であるとすれば、目的がどうしても問われねばなりません。神が実相世界を
創造して、それを相対化したとすれば、その目的は、神の自己認識のためであると解釈でき
ますが、相対化しなかったとなれば、自己認識という解釈は成り立たなくなります。
自己認識に代わる創造の目的。それが判然とはいたしません。創造ではなく、運動と解釈すれ
ば、そこに目的を持ち込む必要はなく、それが神のほんらいのあるべき姿と考えることが可能
かと存じます。
それと、2次元、3次元というのは現象世界を語る言葉でありますが、現象世界を語るに
おいては、どうしても必要な概念であります。そして、わたくしは、この概念を、現象世界に
限定してもちいております。
復興G様は、現象世界だけを語るための2次元や3次元の概念を、実相世界に拡張して、その
意味を論じておられるように感じますが、そのこと自体に意味があるとは思えません。しかも、
実在宇宙は現象世界であると、わたくしは考えます。実在宇宙とは、今この瞬間に存在する
宇宙です。わたしたちが見ている宇宙は、すべてが過去の宇宙であり、今この瞬間の宇宙で
はありません。今この瞬間の宇宙。それを想定したものが実在宇宙であります。
この意味で、実在宇宙は、たんに今の宇宙ということであり、現象世界です。実相世界とは
無関係です。雅春先生は、過去の宇宙については語られましたが、今の宇宙については、
いっさい語っておられないはずです。このことを問題にしておるのであります。雅春先生は、
今の宇宙をご存じでなかった。このように考えてもよろしいのでありましょうか。
468
:
初心者
:2011/09/21(水) 18:45:10 ID:4IaAZAME
復興G様、ありがとうございます。
復興G様は、#444の記事で「神は時間・空間の中に出現したものではなく、時間・空間をも
生み出したものであり」と書いておられますが、#465の記事では「「時間と空間」は、現象
世界の認識の形式として仮にあらわされたもので、本来存在しない、「無」であります」と
書いておられます。これらの言い回しのちがいが、いまひとつ理解できずにおります。
わたくしが、「神が時間と空間を創造なさった」と書きましたのは、復興G様の、神は「時間・空間
をも生み出した」との説明を受けたものであります。「生み出した」というのは、どういう意味
なのでありましょうか。しかも、これは、「生み出した」と過去形になっておりますが、創造は
過去ではない、との説明のあいだに矛盾が生じているようにも感じられます。こまかいこと
ではありますが、過去と今の関係で、いまいちどご教示いただければと思います。
469
:
初心者
:2011/09/21(水) 18:52:31 ID:4IaAZAME
>>459
復興G様
>と述べられており、「すべての存在者が混然と一体化された世界」を、現実世界の根源として認められているのですね。
それは、「実相世界」と極めて近似した世界であると思われます。
復興G様は、かつて、実相世界は、現象世界とは相似の関係にあり、そこには長身の美女も
いれば、酒も飲めるとご説明くださいました。わたくしのいう実在宇宙には、美女も酒も
存在することができません。そこは、すべてが混然と一体化した流体的世界であります。
美女や酒が存在する余地はどこにもありません。「近似した世界」とはどのような意味で
いっておられるのでありましょうか。
470
:
復興G
:2011/09/21(水) 22:39:30 ID:yhDBe2kY
>>467
:初心者様
>創造は今もおこなわれている。これはわかります。では、今この瞬間に何が創造されているのかとなったときに、これまで存在しなかったものが、新たに創造されているという意味ではありませんね。すでに創造されたものが、今また新たに創造されている。こういう意味であると解釈してよろしいのでしょうか。<
時空を超えたところですでに創造されているものが、時空の世界に顕れでてくる、ということですね。
>もしそうであれば、これは、神の創造というよりも、運動であると解釈すべきなのではないでしょうか。<
たとえば、画家が絵を描く。音楽家が作曲したり演奏したりする。それは、すでに画想、美のイメージが画家のうちにある、というのは神の創造された実相世界に無限の美のイメージがあるから出てくる。音楽も同じことである。
それを「運動」というのでしょうか。ちょっとよくわかりません。
>創造であるとすれば、目的がどうしても問われねばなりません。<
それは、眼に見えない世界にすでにあるものは、眼に見える世界にあらわし表現したいとおもうということでしょう。
>神が実相世界を創造して、それを相対化したとすれば、その目的は、神の自己認識のためであると解釈できますが、相対化しなかったとなれば、自己認識という解釈は成り立たなくなります。<
現象にあらわすことを「相対化」というならば、その通り、「神が実相世界を創造して、それを相対化した」と言ってよろしいでしょう。しかしその場合「相対化」とは、実相世界を相対化して現象世界と対峙させるというような意味ではありません。実相世界はあくまでも対立を超えている、絶対なるもので、現象は影に過ぎないものだと思います。
>相対化したとすれば、その目的は、神の自己認識のためであると解釈できますが、相対化しなかったとなれば、自己認識という解釈は成り立たなくなります。<
とおっしゃる意味は、「認識」というのは主観・客観「相対」でないとあり得ない、ということかと思いますが、「主観・客観 相即相入、一体」で自己認識は可能と私は思います。
>復興G様は、現象世界だけを語るための2次元や3次元の概念を、実相世界に拡張して、その意味を論じておられるように感じますが・・・・<
それは、「実相世界は久遠の今・此処にある」と言ったことでしょうか。「久遠の今・此処」とは、時空いまだ発せず、つまり次元を超えたところを意味しております。2次元や3次元の概念は、現象世界だけを語るための概念ではありますが、では実相世界には時間・空間はないのかといえば、そこから時間・空間が現れ出て来たのだから、実相世界にも時間・空間のアイディアが含まれている、とも言えると思います。
>実在宇宙は現象世界であると、わたくしは考えます。実在宇宙とは、今この瞬間に存在する宇宙です。わたしたちが見ている宇宙は、すべてが過去の宇宙であり、今この瞬間の宇宙ではありません。今この瞬間の宇宙。それを想定したものが実在宇宙であります。<
私は、現象世界は実在宇宙の影であって、「今この瞬間の宇宙」すなわち実在宇宙、ではないと思います。というのは、本源世界、実在宇宙は「一」でなければならないと思うからです。たくさんの天体があっても、それらがすべて「一」であるのが実相、実在宇宙であると信ずるからです。
言葉足らずですが、今日はこのくらいにさせてください。ありがとうございます。
471
:
復興G
:2011/09/22(木) 09:18:28 ID:yhDBe2kY
初心者様。
昨夜は疲れのため中途半端で終わってしまい、失礼しました。
あなた様との対話は、非常に意味のある果を結ぶことになるのではないかという期待感が湧いてきます。あわてることなく、じっくり腰を据えて対話、論議を進めてまいりたいと存じます。よろしくお願いを申し上げます。
さて、昨夜最後に書きましたことを少し補足しますと、
「すべては「一」の展開である。一即多であり多即一である」というのが、宇宙の本質・実相であると私は思っています。すべては「一」から出発した。それは、具体的にはビッグバンとなって展開してきたわけですが、時空の世界に展開し出てきた「多」は、元は「一」であり、今もあらわれは「多」であっても実は「一」である、というのが実相で、「対立」は本来ない。現象界にいかに対立や不調和があらわれて見えようとも、実相に於いては今も「一」であって、不調和はない、ということを私は信じているわけです。
ソシュールのいう「シニフィエ」と「実相」との関連については、これからソシュールを勉強し、考えてみたいと思っております。ご指導下さい。
さて、
>>468
で初心者様から
>わたくしが、「神が時間と空間を創造なさった」と書きましたのは、復興G様の、神は「時間・空間をも生み出した」との説明を受けたものであります。「生み出した」というのは、どういう意味なのでありましょうか。しかも、これは、「生み出した」と過去形になっておりますが、創造は過去ではない、との説明のあいだに矛盾が生じているようにも感じられます。こまかいことではありますが、過去と今の関係で、いまいちどご教示いただければと思います。<
とのご質問をいただいています。
神は「時間・空間をも生み出した」というのは、「神は時間空間の枠組みの中に生まれ出た(出現した)のではなく、主客が逆である」ということを明確にしたかったので、そういう表現を使いました。そこでは過去形を使いましたが、今も「時間と空間」を、現象世界の認識の形式として仮にあらわして、そこに「無限」を展開しつつあるわけですね。しかし、時空は本来存在しない、「無」であるから、時空の中に展開している現象はすべて「影」であって、本来「無」である、ということになると思います。
もっと言えば、私たち人間のいのちも神のいのちであり、人間の本質は時空の中に生まれ出てきたものではなく、時空を認識の形式としてつくりだし、その中に、神のいのちの表現口として、みずから出てきたものであると言えます。それが「神の子」ということでしょう。
次に、<469>で初心者様は、
私が<459>で、初心者様が以前「ドリームタイム」について語られたことを引いて、
『「すべての存在者が混然と一体化された世界」を、現実世界の根源として認められているのですね。それは、「実相世界」と極めて近似した世界であると思われます。』
と書いたことについて
>復興G様は、かつて、実相世界は、現象世界とは相似の関係にあり、そこには長身の美女もいれば、酒も飲めるとご説明くださいました。わたくしのいう実在宇宙には、美女も酒も存在することができません。そこは、すべてが混然と一体化した流体的世界であります。
美女や酒が存在する余地はどこにもありません。「近似した世界」とはどのような意味でいっておられるのでありましょうか。<
とのご質問をいただきました。
私は初心者様のおっしゃる「ドリームタイム」について十分な理解ができていませんので、不適切なことを書いたかも知れません。その点はご海容下さい。
「ドリームタイムでは、すべてが一体化され、あらゆる区別が存在しません。そこは、分離も分割も不可能な世界であり、すべての存在者が混然と一体化された世界であります。こうした世界は、現実世界の根源であります」
と書かれたところを読んで、「実相世界」と近似していると私は感じたのですが、間違っていたらごめんなさい。
472
:
さくら
:2011/09/22(木) 09:33:11 ID:6tmMyXBA
宇宙論で盛り上がってるとこ、割り込み、申し訳ございません、
初心者さまの記述に気がつきまして。
>「信」だけで総裁先生と向き合うのは、不可能であると考えます。総裁先生と向き合うに
あたって必要とされるのは、しなやかで柔軟性に富んだ「知」であると考えます。「知」で
向きあうとき、総裁先生は魅力的な存在へと変化します。「信」だけでしか向き合えない
人たちが、問題を、必要以上に大きくさせてしまいました。
これを、生長の家の方々は、どう考えているのでしょうか。
私も、雅宣総裁に対するに、このスタンスでありたい、と思っていたのですよね。
生長の家が産んだ雅宣総裁には、どんな解釈の余地があり、どういう可能性があるのか、とか…。雅宣総裁の出現というのも、一つ、興味深い(失礼な表現ですみません)可能性ある課題、として、それこそ柔軟に受け止められないか、と。どんな可能性かは、慎重に考えるべきですが…
また、今まで雅宣総裁に対する周りの対応やスタンスが違っていたら、雅宣総裁の暴走も、また違った形であった可能性もないでしょうか?
雅宣総裁の可能性?については、初心者さま他の方々とのやりとりでも、過去に言及があったと思いましたが…
内部でも、私はもっと話したいな、とは思いました。
ですから、正直なところ…復活派の方々のスタンスには、違和感を感じてしまいます。堂々巡りの監視、を続けているような箇所もあります、
やはり、そこには、ある「信」を守るための、恐れ、のようなものを、感じてしまいます。
他を排除してまで守りたい、「信」とは、なんなのでしょうか…。
信仰の幼い私には、先輩方の築かれてきた、生長の家の教えや組織にたいする想いや、そういう、いうに言えない様々な想いを察する力がないことは、申し訳ないと思います。教えられること学ぶことは本当にいつもあります。
でも、雅春先生の教えは、雅宣総裁にぶち壊されることに怒りを感じるような、恐れるような、そんな教え、なのでしょうか、とそのことには、どうしても、疑問を感じてしまいます。
a hopeさまは、ボードで、雅春先生は、雅宣総裁を、愛してるか、とお尋ねになりました。
正直に言いますと、私は、その問いを発せざるを得ない、a hopeさまの心情が、とても切なく感じました。純粋な信仰を求めていらっしゃったお心を、とても、切なく感じました。
なぜ、それを問いかけなければならない状況なのか、をやはり悲しく思っています。
この争い?のことを、考えると、私は、やはりどうしても、感情が先になってしまいます。
ですから、巻き込まれたくない想いが、でてしまいます。
話に割り込みして、すみません、
473
:
。。。。。サァです。
:2011/09/22(木) 09:52:48 ID:psrFh/ZU
さすが、復興G閣下は、幹部でおられます。「知」も「信」も深遠でいらして、
賢い初心者様のいい質問に丁寧に答えていらして、すごいですね。尊敬しちゃいます。
私は、幹部では、ありません。一信徒ですので、学ばせていただいております。
474
:
初心者
:2011/09/22(木) 10:50:41 ID:4IaAZAME
>>473
はあ様か、サァ様かは存じませぬが、あなた様を敵にまわすのは、わたくしにとって
得策ではないように感じます。待ち人来たる。そのような印象を持っております。
そのような謙遜した態度ではなく、能あるツメにかくされた鷹の正体を見せてはいただけ
ませんか。かつての生長の家には、あたな様のような方がたくさんおられたはずです。
今はその影も形もありません。
わたくしが求めているのは、ラカンのいう「主人のシニフィアン」です。この場において
「主人のシニフィアン」を生産すること。これが目的です。この20年間、「主人のシニフィアン」
からは、つねに距離をおいてきました。しかしそれも飽きてしまいました。
どうですか。この提案を受け入れていただいたうえで鷹の正体を見せていただく。このこと
に同意していただけますでしょうか。
475
:
はちみつ豆腐(ハァ&サァ)
:2011/09/22(木) 13:33:57 ID:psrFh/ZU
初心者様
今度は、私に振られますか。あなたの折角のご提案ですが、私は、それを受け入れることに、不同意です。
あなたは「かっての生長の家には、あなたのような方がたくさんおられたはずです」と、おっしゃっていますが、あなたが戦いたいお相手は、ワンポイントではなく、
「本流復活宣言の、いわゆる かっては、生長の家におられた方々を、ヒトマトメニされている」と、あなたのいままでの発言で感じております。
あなたは、雅宣総裁の親衛隊でおられますからね。
ですから、先日、わざわざお越し下さった元本部職員様やぼるぼ様に、聞くに耐えない失礼な発言をされたのです。
あのお二人の方々は、あなたに負けて帰られたのではありませんよ。あなたの刺々しい感じに「もう、話にならない。これ以上話したくもない」という
不愉快な想いを抱いて帰られたのです。
あなたのコトバを借りれば、ここのスレッドは、多くの方々が観ておられます。
あなたの発言が、今後に向けた例の「理解」に対するプラスになるか、マイナスになるか。
観ておられる方々の判断にゆだねられます。
閣下は、この空気をよまれて、80の身でおられるのに、今回は、何度も何度も愛深く、あなたの問いに答えてくださいました。
もう、充分ではないですか。少し、落ちつてくださいませんか。
476
:
はちみつ豆腐(ハァ&サァ)
:2011/09/22(木) 14:22:35 ID:psrFh/ZU
初心者様
私の親類は、多くいますが、その中で、すごく頭のいい人で、あなたのような難しいコトバを盛りだくさんで話す人がおりますが、その彼と私とは、今までに何回も雅宣総裁問題や生長の家のことを
議論した経験があります。ですが、まったく話はかみ合いませんでした。平行線です。
だからといって、互いに嫌いあってるわけではないのです。互いにいい点は、認め合っております。
あなたは、頭が良すぎるので、宇宙の果てまで考えぬかれるタイプです。私は、頭が単純なので、あなたのようには、考えられないタイプです。
タイプ別に生きる生き方がアルと思います。
だから、あなたと議論しても、平行線です。
私は、理屈ぬきで、神のひかりのなかで、暮らしている。寝ても覚めても、幸福感で満たされているのです。内にも外にも神がいるから。らく〜〜にいきてる。
望まなくても、祈らなくとも、必要なことは、向こうからやってきてくれる。いい宗教って、こうだな、と思います。自分がほほえんで周りに深切にしていれば、みなさん
生長の家に自然になってくれました。子供たちも孫も、誘わなくても、生長の家は、いい。と思ってくれてる。
雅春先生のおしえには、ほんもののもつ輝きがあるのです。悩みも、自然に消えるのです。いまの教えにそれが、ありますか?
そのほんものの教えに、戻したいというのが、本流のみなさまのお気持ちだと捉えています。
トキ様のお話だと、私の去った後の本部の運動には、百万運動というのがあり、名前は、知りませんでしたが、末端組織におりましたので、、10部一括とかやってましたけれどね。
その運動には、善い面と悪い面があったそうですから、それも今後の反省材料にして、今の教えではない、元の教えの運動を改善したあたらしい生長の家がうまれるといいな、と
われわれは、期待しているのです。
雅宣総裁が、久遠の今に立ち位置を変えて、和解にふみきれば、それが、一番ですけれどね。
このように、なっていることもいいことだとおもいます。
なるべきところへ、なるのではないでしょうか。
477
:
トキ
:2011/09/22(木) 15:16:08 ID:DVizAEi.
はちみつ豆腐(ハァ&サァ)様
ご投稿、ありがとうございます。掲示板へのお越しを心から歓迎申し上げます。
ご挨拶が遅れて、大変申し訳ありません。管理人のトキです。
よろしくお願い申し上げます。新しい参加者の登場を喜んでいます。
それと、挨拶が送れて、横レスになり、ごめんなさい。
百万運動が少し話題に上がっていましたが、私個人は、あの運動について高く
評価する部分もあれば、否定的な部分もあります。ただ、言えるのは、あの運動は
あの時代だから必要とされた運動だったと感じます。
同時に、「今の教え」についても、肯定できる部分も、否定できる部分もあると
は思いますが、信徒に受け入れられているとはいえないと感じます。
では、これから先はどうしたら、良いか、という議論が必要ですが、個人的には
百万運動以前の生長の家、例えば、吉田国太郎先生とか藤原先生などに着目をして
おります。一度、原点に戻ってみて、そこから考えてもよいかと思います。
しかし、これは、あくまでも個人的な考えですから、皆様のご意見を拝見
をしたいと願っています。
私は百万運動の崇高な精神を尊敬しているし、今の教えの柔軟さも大切に
思っています。しかし、それだけでは限界があると思っています。私個人は
「和解」ということを主張していますが、やはり、「和解」後の生長の家の
あり方についても、広く議論がされるべきだと思います。
この掲示板では、どの立場の意見でも、誰の投稿でも尊敬されるべきだと
思っていますから、今後もご意見を読めるのを楽しみにしております。
また、板の運営について、ご意見などありましたら、遠慮なく申し出て
下さい。
では、今後とも、よろしくお願いします。
合掌 ありがとうございます。
478
:
初心者
:2011/09/22(木) 15:26:24 ID:4IaAZAME
はちみつ豆腐様、ありがとうございます。
わたくしの刺々しい言葉はいらだちなのですよ。シニフィアンを暴走させてしまう人たちへの、抑えのきかないいらだちなのですよ。
なぜこのように安易に暴走させてしまえるのか。そのことにたいするいらだちなのですよ。
「観念的外来コトバ」。人を小バカにしたようなこの言葉こそが、中身のないシニフィアンの
暴走なのですよ。そのことをあきらかにされたために、元本部講師様は姿を消してしまわれ
たのではないですか。
「大スズメバチ」と大見得を切った人が、刺々しい言葉に傷ついただけで姿をくらますなどと
いうことが、あり得ますか?
それと、わたくしとでは議論が平行線になると、どうしてそのように決めつけてしまわれる
のですか。わたくしはこれまで、当掲示板においても、相手の意見が正しいと判断すれば、
その意見にしたがってまいりました。自分の考えを何が何でも押しとおすということは、やって
きてはおりません。
わたくしのタイプを勝手に決めつけられてはこまりますね。あなたは、わたくしの何をご存じ
なのですか。この掲示板に書き込んでいるわたくしが、ほんらいのわたくしであるとでも、
考えておられるのでしょうか。わたくしの知りあいが読めば、掲示板のわたくしは、つくられた
わたくしであることは、一目瞭然であります。
いっておきますが、これは、任務の遂行のためのひとつのキャラにすぎないのですよ。
ふだんのわたくしが、これとおなじキャラであると思ってもらっては、こまりますね。
あんがい、はちみつ豆腐様に近いのかもしれませんよ。
479
:
初心者
:2011/09/22(木) 15:52:24 ID:4IaAZAME
はちみつ豆腐様
それと、「主人のシニフィアン」についてですが、これは、あなたとならまともな会話が
できそうだと、そのような意味で使った表現であります。けっして「振った」わけでは
ありません。あなたの登場の仕方に戦略めいたものを感じ、それで、この人となら
まともな話し合いができると、そのように期待したのであります。
どうやら、期待は正しくなかったようでありますね。
480
:
うのはな
:2011/09/22(木) 16:02:26 ID:iM0b0bt6
はちみつ豆腐さま。
ハァとかサァとか、シニフィアンとか、なんですかそれ(笑)
入れ歯でもはずしてるの?
雅春先生の孫娘さんの主宰する女性会員からは足を引っ張られ、
初心者さんからはヤイヤイつっこまれてる元本部講師さんとともに
御同情申しあげます。
「スズメバチ」といったのがよくなかったのかもね。
ハチは一刺しすると死ぬというから(笑う)
クラブにいって、みんみのハイビスカスでも聴いてたらいいと思いますよ。
はちみつレモンビアでも飲みながら。。
481
:
うのはな
:2011/09/22(木) 16:43:29 ID:iM0b0bt6
他の批判を許さない本流宣言掲示板
それは規約にいろいろと細かいことがあるから、そのように思うだけで、
雅春先生も雅宣氏も谷口家全体、皇室不敬発言、女信者に低次元ないいがかり
をつけまくっている、生長の家の信者ではない人も、「こんな人がこの掲示板に来て
いいものでしょうか・」なんていってる人でも出入りを許したり、
前管理人から「あなたは味方を後ろから撃っているようなものだ、もっと規約を
よく読むように」と注意されながらも、あいかわらず余計なことをいいまくる
内偵調査局員みたいな信者でも出入りしている掲示板です。
他を受け付けないというのは正確ではないと思います。
逆にいえば、部外者でも「雅宣批判」してたらそれでいいという感じだから、
色んな人が書き込みやすい場所でもあると思います。
482
:
はちみつ豆腐(ハァ&サァ)
:2011/09/22(木) 16:57:00 ID:psrFh/ZU
任務の遂行とは?なにかの意味があることで、こういう役を演じておられるのですか。
私は、あなたが繊細なご性格で、実は、ロマンティストだということも存じています。
でも、私は、謙遜でなく、あなたと議論出来るような賢い頭脳をもちあわせていない、議論向きでない
自分であることも自分で知っています。
訊け君も同じことをよく言われますよね。相手の意見が正しいと判断すれば、、と
でも、自分の考えは、しっかりと固まっているから、なかなか考えは、かわるもんじゃないです。
それに、人間には、それぞれ「ときめく」ものが、ちがうのです。
あなたは、議論されることが「ときめく」。
私の「ときめき」は、別にあるので、それぞれ、互いに「ときめく」ことを実践して、心豊かに生きて行きたい。
人に意見を求め続けますと、なかなかいらだちは、おさまらないものでは、ないでしょうか
私は、生長の家以外の本も、すすめられた本で読みたいなと思った本は、読むことにしています。
いい本は、いい友でもありますね。
今、苫米地英人氏著書「人を動かす超話し方トレーニング。サブリミナルCDつき」が、アマゾンコムから届いた所です。
これを読んでから初心者様と話した方が、よかったかもね。もうちょっと、こちらの気持ちが伝わったかも。
この本の前に読んでいたものは、「ねじまき鳥クロニクル」村上春樹書です。こないだ、美容院へ髪をカットしてもらいに行ったら、
やってくれた人が、耳にピアスつけた若い男の美容師でね、めずらしく哲学を語る人で、家にテレビ置いてないっていう。初心者君を連想しましたよ。
やることたくさんあるからテレビ観る暇がないのだと。
物書きになりたい夢があるという。だから、お決まりの「夢は描き続けた人だけが、諦めなかった人だけが、実現するという話」をしたわけですが、
彼は、村上春樹の本は、おもしろいという話をしてくれてね。
「クロニクル」をすすめられました。で、読んでみたのです。ちょっと、私には、合わなかったけど。
いろいろと、きついこともいいましたけれど、初心者君のこと、私の中のスナフキンです。
議論は、やはり、あなたを説得するほどの能力がないのでご遠慮します。
私は、EM菌使った家庭菜園も、もう30年もまえからやってるし、あれこれ、自分なりのときめくものをもってるのです。
(はちみつ豆腐=木綿豆腐)
483
:
トキ
:2011/09/22(木) 17:21:51 ID:DVizAEi.
>>482
>>(はちみつ豆腐=木綿豆腐) 様
どうも、失礼をしました。すみません。
484
:
うのはな
:2011/09/22(木) 17:25:46 ID:iM0b0bt6
> 木綿豆腐(はちみつ豆腐)さま。
私の失礼なカキコミをお許しください。
村上春樹さんはエッセイ集でも、外国の短編小説の翻訳でも、いいのが
色々ありますよ。「クロニクル」とか「ノルウェイの森」とか、有名でない
小説のほうが「ジン」とくるものがあります。
彼はアメリカの大学でも教えてるみたいですね。
また機会があれば読んでみてください。横浜と木綿豆腐さんと村上春樹ファンより
485
:
初心者
:2011/09/22(木) 17:49:58 ID:4IaAZAME
木綿豆腐様
あなたは、わたくしを誤解しておりますね。はっきりと申しますが、わたくしは、少なくとも
この20数年間、人と議論したことは一度もありません。これは、はっきりと申します。議論
したことは、ただの一度もありません(口げんかみたいなことはありましたけどね)。
理由は、おそらく、わたくしが右脳人間だからでありましょう。右脳、左脳ということを言い
だせば、それは機能局在論だと非難されそうでありますが、あえて、右脳人間であると
いっておくことにいたします。
右脳というのは、演繹的な思考しかできないようです。演繹的とは、全体を大雑把に
見わたして、そのなかから解決を見いだそうとする思考パターンです。こうしたパターン
にたよっているかぎり、議論には不向きでありますね。
本質をずばりと言い当てる。これは、人より得意であるのかもしれません。しかし、理詰めで
物事を考えていくということは、苦手というよりも、苦痛でさえありますね。ですから、議論
は好みません。この掲示板でも、議論にはなっておりませんでしょう。
わたくしがやっているのは、シニフィアン狩りですよ。暴走するシニフィアンを狩る。これを
やろうとしておるところなのでありますね。暴走するシニフィアンは容赦なく狩る。これが
わたくしの任務です。もちろん、組織によって任命された任務ではありません。あくまでも、
個人的に仕向けたミッションでありますね。
それと、わたくしの考えは固まってはいませんよ。いくらでも変わりますよ。初心とは流動する
心です。オカルトであろうが、近代科学であろうが、ポストモダンであろうが、より好みはいた
しません。面白い考え方があれば、自分のものにいたします。
実相独在だって、べつにいいんですよ。ただ、「実相独在」といいづける人が嫌いなだけです。
実相は、あってもいいけど、なくてもいい。どっちでもいいです。ひとつことにひっかかっている
と心は流動しなくなる。ですから、これからも、面白い考え方に出会えれば、どんなふうにでも
変わっていけると思います。今はラカンとジジェクに夢中。そういうことであります。
それにしても、スナフキン?女子青年に「スナフキンみたい」といわれていた時期がありました。
EM菌も、大好きであります。気があいそうですね。
486
:
はちみつ豆腐
:2011/09/22(木) 17:59:52 ID:psrFh/ZU
うのはな様、助け舟、ありがと^^
そうですか。村上春樹書「ねじまき鳥クロニクル」は、最後まで読むとジンとくるんだね。中古・単行本で、1、2、3部とも買ったのですが、魅力的な読みやすいタッチで描かれていますね。厚い本。
じつは、まだ1部を読み終わったところです。今日、届いた方を先に読み、あとで「クロニクル」の1部、2部も読んでみます。
今日は、だいぶ背伸びして初心者君と会話したので、ちょい疲れ有り。
うのはな様と一緒にあのママのいるCLUBで、はちみつレモンビァでも、のみましょかW
ママのかけてくれるBJM
中島みゆきの曲は、しんみりして癒されますよね。大人の女の曲ですね。
487
:
はちみつ豆腐
:2011/09/22(木) 18:19:35 ID:psrFh/ZU
あとから、クロニクルの2部、3部も読んでみます、でした。
488
:
うのはな
:2011/09/22(木) 18:34:06 ID:iM0b0bt6
>>486
ねじまき鳥は、そんなに面白いものではなかったですよ。
村上春樹の短編集のようなものがおすすめです。
アメリカの作家の翻訳本も出てますが、それはユーモアもあって
泣くものがあったりしておすすめです。
村上春樹さんは早稲田大学で知り合った奥さんと学生結婚して、
二人でジャズBAR経営したりしている時、文学賞もらってデビューしたんですね。
だから、彼の小説にはビールやジャズが出てきてイイカンジですよ。
レモン入りビールも美味ですけど、淑女は無理せずココアとかトマトジュース
にされたほうがいいかもしれません。
雅春先生は「酒は飲まないほうがいいのだ」と、はっきり書かれてますから、
本部には内緒にしときましょう(笑)
489
:
九州男(くすお)
:2011/09/22(木) 19:58:12 ID:???
うのちゃん(笑)お久し振りです。
くすおです。
スズメバチはミツバチなどと違って何回刺しても生きてるハチだぜ
たぶん・・・
○○というインチキ臭い名前の人が雅宣と同じ臭いがするので
ああ
コイツとは話にならない不毛だぁーーと
思ったんだろーよw ほれ、
私は右脳人間・・あれぇーーっ?どこかにいたぞ
知ってる人間は大笑いさ
20年議論したことがないって
どこの毒才者だよ。 議論なんてだれもしたくないキャラだし
女の子にも弱いのがとっても・・何だかマンマでばればれで悲しいね。
広報部長!!トキまお疲れ様です。台風で停電はしませんでしたかぁー
なんて
冗談もたまには言いたいおれでした。 ゴメンネまーちゃん。
490
:
初心者
:2011/09/22(木) 20:40:43 ID:4IaAZAME
あたしって、面と向かっていわれる暴言は好きなのよ。
もっと言って〜。
491
:
さくら
:2011/09/22(木) 20:57:47 ID:6tmMyXBA
ずるい、わたしにも、言って〜、
492
:
九州男(くすお)
:2011/09/22(木) 20:59:10 ID:???
はっはははっ
冗談を暴言と捕らえるのが
とっても
とっても
雅宣っぽいねwwwケラケラwww
ああもう九時だ
焼酎飲んで かあちゃんと あれ をヤランバ
493
:
初心者
:2011/09/22(木) 21:11:50 ID:4IaAZAME
面白い冗談です。
マジで笑っております。
494
:
トキ
:2011/09/22(木) 21:40:17 ID:DVizAEi.
九州男様
ようこそ、お越し下さいました。
おかげさまで、台風の被害はなかったです。感謝、感謝です。
しかし、教区の人間がこんなことをしているとは誰も思わないで
しょうね。自分でも不思議です。しかし、イソベの次は、広報部長ですか(笑)
実は、私がお世話になった大先達が、ご自分の死期を悟り、私を
病室まで呼び出したことがあったのです。その先達は、谷口雅春先生
の直弟子でしたが、霊感の強い方でした。私が病院に着くと、人払い
をして、小声で私に言いました。
「私が死んだ後、生長の家は大変なことになる。そのときは、君、
頼むぞ」
そのほかにも、たくさん遺言を承ったのですが、ここでは省略します。
で、そのときは、まさかこんな騒ぎになるとは思わず、「ハイ」と言った
のですが、今にして思えば、その先生、今回の件を予見していたみたいです。
ですから、私が管理人をしているのも、自分の力ではないと考えています。
どうぞ、今後とも、ご指導のほど、お願いいたします。
合掌 ありがとうございます。
495
:
九州男(くすお)
:2011/09/23(金) 00:17:36 ID:???
トキさま・・・乱入した者に暖かいお言葉恐縮です。
縮んではいませんがw
霊感ですが・・・ある人にはあるんですよねー
雅宣さんと○○にはなさそうですがww
博多にも総裁(雅春先生)特別賞をいただいた
恵子先生がおられますよ。広島のおばばが総裁賞もらった時代の話です。
この先生はしゃれにならんほど多くの人を救っておられました。
見えるんだそうです。その人のご先祖様が・・・
俺も救ってもらいました。本当に昔はすごい先生がおられたものです。
まだ生きておられますが・・・
雅宣さんが見えてしまって・・・ご自宅に引きこもってしまわれました。
広報のなんたら新聞にw
「あの人は今」とかのコーナー作って取材してください
ははは
無理かーーー
ところでトキさんの師匠はどなたでしょうかね。すごい人なんでしょうね。
その人が
お前頼む・・・なんて
やっぱり広報の部長じゃあないようですねwwwごめんね山岡くんwww
496
:
九州男(くすお)
:2011/09/23(金) 00:54:48 ID:???
実は先ほど愛国掲示板wで衝撃的な情報を知り・・・
うーーん
書き込んでしまいました。
和解を目指しているトキさん・・・
申し訳ない。
しかし、
ショック療法でもしないと・・・和解の道は開かれないと
僕は
思うんですよ。
497
:
トキ
:2011/09/23(金) 09:08:04 ID:v4BvNyIU
九州男様
ご丁寧なお返事にこちらこそ、恐縮いたします。
山岡・・・・・ではなくて、トキです。
こちらは、本当に縮んでおりますが。
ブラジルの件、驚きました。残念な話ですね。少し総裁も心配のしすぎかな
と感じます。もし、谷口貴康先生が反旗を翻すつもりなら、もっと早くにブラジル
で一旗あげたと思います。このような過剰反応は、かえって逆効果だと思います。
今確かに、ネットを中心に、総裁への誹謗中傷があふれています。だから、総裁が
神経質になるのは、理解はできます。
しかし、批判者の中には、話ができる人もいると思うのです。
そして、谷口貴康先生は、その「話ができる人」の一人だと思うのです。
総裁のお考えでは、ブラジルで谷口貴康先生が「暴走」するのを心配をされ
ているとは思います。また、谷口家の恥部が明らかになるのを嫌う部分もある
と思います。
が、その点は、まず、谷口貴康先生と話し合うべきだと思うのです。
また、話し合える環境を作るべきだと思います。信徒の立場から言うと、
生長の家の総裁が、兄弟姉妹と喧嘩をしているのは、しゃれにならんで
すから。
歴史の本によれば、本願寺が東西に分裂したのは、門主の兄弟の争いが原因で
それに時の秀吉とか家康とかが、うまく介入したのが原因みたいです。
それが原因で、本願寺は東西に分裂し、両者はうまく政権に統制化におかれて
しまいました。
ここは、やはり良識ある態度で、両者が臨んでほしいです。
九州男様は、すぐれた見識と人生経験を持った先達と拝察します。
今後とも、ご指導のほど、お願いします。
合掌 ありがとうございます
498
:
初心者
:2011/09/23(金) 10:23:47 ID:4IaAZAME
復興G様、昨日はたいへん失礼な言い方をしてしまいました。
「実相独在」にたいする嫌悪感。これにまたしても言及してしまいました。
シニフィアンの暴走にたいする嫌悪感。これを20年以上も持ちつづけております。
「実相独在」は暴走しています。嫌悪感はやみそうもありません。
構造について書きます。これはそうとうにやっかいな問題ですが、理解もまたやっかい
であるやもしれません。
実相。これは、ラカン的には「対象a」と定義されます。欲望を生み出すもの。それが「対象a」
であると理解してください。
「実相」という言葉からさまざまな欲望が喚起されます。実相をおがむ。これも欲望です。
おがむことで、なんらかの欲望を実現しようとしています。
「対象a」は自我とむすびつきます。自我は「発話の主体」ともいわれます。言葉のネットワーク
上に存在する「言表の主体」とは区別されます。言葉のネットワークによってつくり出される
世界を、ラカンは「象徴界」と呼んでいます。
「対象a」と自我は強くむすびついています。このむすびつきによってつくり出される世界が
「想像界」です。「想像界」は個人神話でもあり幻想でもあります。それだけに、より強く自我に
作用します。
「言表の主体」をたんに主体と呼ぶことにいたします。主体は「象徴界」に存在します。
「象徴界」における他者を「対象A」と呼ぶことにいたします。「対象A」は「象徴界」に君臨し、
主体を支配します。
わたくしがここで説いているのは、主体と「対象A」との関係です。説こうとしているのは、
つねに、主体と「対象A」との関係であると理解しております。
主体と「対象A」とのむすびつきは、より強固にむすびつけられている、自我と「対象a」との
関係によって断ち切られます。わたくしの言葉は、生長の家のみなさまという自我と、実相
という「対象a」との強固なむすびつきによって、つねに断ち切られる運命にあります。
わたくしの言葉は、自我と「対象a」との強固なむすびつきによって、つねに疎外されます。
わたくしは「象徴界」について語っておりますが、みなさまは「想像界」について語られる
ばかりであるような気がいたします。
「想像界」を語るものは、「象徴界」を否認します。
「象徴界」を語るものは、「想像界」を嫌悪します。
シニフィアンの暴走。それはおそらく「想像界」でおきるものであります。
シニフィアンの暴走である「実相独在」を、わたくしは嫌悪するよりほかに、なにもしようが
ありません。
499
:
復興G
:2011/09/23(金) 11:42:57 ID:yhDBe2kY
>>498
:初心者様。
>実相。これは、ラカン的には「対象a」と定義されます。欲望を生み出すもの。それが「対象a」であると理解してください。
「実相」という言葉からさまざまな欲望が喚起されます。実相をおがむ。これも欲望です。おがむことで、なんらかの欲望を実現しようとしています。<
「欲望」には、
(1)英語で“want”、「欠けている」という意味から「欲する」という意が生まれた、と言われている「渇望」、“desire”とういうようなもの。
(2)内からわき起こる“urge”(駆り立てるもの、表現欲)というようなもの。使命感ともいうべきもの
の2面がある(2種類というようにはっきり区別できるものではないでしょうが)と思います。
「実相」から欲望が喚起されるとすれば、それは後者の(2)の方でしょう。
あなたが「シニフィアンの暴走」を食い止めなければならないと感じてこられた、というのも「内からわき起こる使命感」で、それは「実相」に根ざしたものであると私は思います。
実相は神であり、すべての全てであって、「神の外にあるもの無し」「実相の外にあるもの無し」というのが本当の実相であります。「対象a」というような、「想像界」の個人神話であり幻想でもあるようなものは、まことに幻想であって、それは「実相」ではありません。
「実相」を嫌悪する、といわれるのは似て非なる実相、幻想の実相であって、真の実相ではないと、私は思います。
真の実相にはすべてがあり、すべて充足してるので、上記(1)の欲望はいらないのです。「神は愛なり、ただ与う」だけでよろしいのであります。そこには「自己犠牲」もなく、ただ喜びのみがあるという世界、それが実相であって、私はそういう「実相独在」に命をかけて行こうと思っております。
あなたが『「実相独在」は暴走しています』とおっしゃっているのは、幻想の、似て非なる実相という言葉が暴走している、ということなのでしょう。
今日はこれから、菩提寺での彼岸会先祖供養のつどいに出かけます。
500
:
初心者
:2011/09/23(金) 13:27:49 ID:4IaAZAME
復興G様、ありがとうございます。
わたくしは、実相を嫌悪しているのではありません。想像界において、実相をもてあそんでいる
人々を嫌悪しているのです。
想像界は、想像的世界です。なんでも思いどおりになる世界です。真理の言葉を自在に
あやつり、真理を望むように解釈できる世界でもあります。
わたくしは、実相イコール「対象a」といっているのではありません。想像界においては、実相は
「対象a」として機能しているということを申し上げているのです。
真理に接近しようと思えば、ラカンのいう「現実界」に接近する必要があるはずです。「現実界」
こそが、究極のシニフィエであると考えることもできます。わたくしの見るところ、生長の家の
人々で、「現実界」に言及している方はおられません。
復興G様は、真理の言葉を自在にあやつっておられますが、ほかの言葉、たとえば哲学や
自然科学、社会学や言語学の言葉は自在にあやつることができないにもかかわらず、なぜ
真理の言葉だけは自在にあやつれるのか、その理由をお考えになられたことがあります
でしょうか。
わたくしは、それが想像界における言葉であるからこそ、自在にあやつれるのだと思います。
想像界を出て、象徴界を突破し、「現実界」に接近したとしても、おなじように、言葉を自在に
あやつる自信がおありでしょうか。
わたくしには、とてもその自信がありません。わたくしが語る言葉は、そのほんどが象徴界
における、可能なかぎりピン止めされた言葉であります。ピン止めされた言葉は、シニフィアン
の法によって制約されます。復興G様のように、自在にあやつることは不可能であります。
もちろん、わたくしとて、かつてのように、想像界にたちもどれば、復興G様のように自在に
真理の言葉をあやつることができるようになるでありましょう。しかし、もどる気はありません。
わたくしは、「現実界」に向かわねばならないのです。
501
:
復興G
:2011/09/23(金) 21:18:39 ID:yhDBe2kY
>>500
:初心者様。
>真理に接近しようと思えば、ラカンのいう「現実界」に接近する必要があるはずです。「現実界」こそが、究極のシニフィエであると考えることもできます。わたくしの見るところ、生長の家の人々で、「現実界」に言及している方はおられません。<
ラカンのいう「現実界」というのは、
「空虚で無根拠な、決して人間が触れたり所有したりすることのできない世界の客体的現実を言う」
そして
「現実とはけっして言語で語り得ないものであるが、同時に人間は現実を言語によって語るしかないもの」(Wikipedia)
だそうで、これは一般常識や生長の家で言っている「現実界」とはとはかなり違うもののようですね。むしろ、生長の家でいう「実相」に、「けっして言語で語り得ない」という点では似たもののようにすら感じられます。
ジャック・ラカンに関しては、ネット検索(Wikipediaその他のサイトなど)で、現実界・象徴界・想像界といった用語についても一応勉強してみましたが、
「実際のラカン理論の有効性証明は現在においても不明なままである。また理論自体、日本ではしっかりと研究されているわけではない。」
──だそうで、「大雑把に本質をずばり言い当て」れば、そのような理論は100年後には泡のごとく消え去っているものではないかと思われます。
今日はわが家の菩提寺で秋の彼岸会のつどいが行われたのに参加し、「観音経」(法華経の観世音普門品)や「般若心経」などを一斉読誦してきました。釈迦の教えは説かれてから2千数百年後の今日でも生き続け、人々に安心と救いをもたらしています。次々に現れてはあぶくのように消えて行く理論を追いかけるより、そういう永遠生命をもった宗教の真髄を究めることの方が、よほど意義があると私は思っています。
論議が噛み合わなくて申し訳ありませんが、それが私の答えです。
502
:
初心者
:2011/09/24(土) 08:17:49 ID:4IaAZAME
復興G様、ありがとうございます。
ラカン理論の有効性というのは、精神分析の分野においてということだろうと思います。
フランスなどでは、臨床の現場でも応用されているようですが、日本では活用されていない、
というだけで、真理探究や哲学としてのラカン理論は、ヨーロッパではとくに権威をもって
語られているように思います。
精神分析じたいが、脳科学の進歩や薬物療法、認知心理学の勃興などによって、すでに
臨床の現場からは姿を消しつつあるようです。このような状況で、ラカン理論の精神分析的
な有効性は重要視されていないのは当然でありますから、そのことをもって「いずれ消え去る」と判断なさるのは早計かと存じます。
ラカン理論は、ソシュールの言語学がベースになっています。これは、生長の家にとって脅威
であると考えます。生長の家は、いまだソシュールに言及さえしていません。そのソシュールの
理論を発展させたラカン理論は、生長の家の教義をおびやかすのに、十分な威力を持つものと
考えます。
「いずれ消え去る」という言説じたいが想像的であります。世界的には、どうなのでしょう。
哲学や真理探究の分野で、雅春先生の教えと、ラカン理論と、どちらが広く流布しているので
ありましょう。どちらが、一般に認知されているのでありましょう。
わたくしは、個人的には、ラカン理論の有効性をきわめて高く評価しております。「現実界」
とは、わたくしのいう、Dブレーンをベースにしたホログラムであるはずです。生長の家の
教義では、このあたりのことどもについては、きわめて単純な説明しかできないような
気がいたします。
ラカンは、「無意識は言語のように構造化されている」と発言して、世界的に名をはせた
人物であります。ここでいう言語とは、寄る辺なき他者が寄る辺なき他者に向かって語る
言葉と定義されております。欲望の他者性。これが、ラカン理論におていは、きわめて重要な
概念であるかと考えます。
503
:
初心者
:2011/09/24(土) 08:49:50 ID:4IaAZAME
復興G様
わたくしにはひとつの疑問があります。生長の家の人々は、不可知な存在であるはずの
神についての質問には、それがどのような問いかけであったとしても、流暢に答える
ことができますね。なぜそのように答えることができるのか、それが不思議に感じられる
のであります。
宇宙の果てはどのようになっているのか。宇宙の大きさは有限であるはずなのに、なぜ
外に出ることはできないのか。時間と空間はなぜ連続しているのか。光速度不変の法則
の意味とはなんであるのか。情報は、なぜ光の速さを超えて運ばれることがないのか。
空間に詰め込める情報の量にはかぎりがあり、その限界は、空間の体積ではなく、表面積に
よってきまるとすれば、それはなぜなのか。物質とは、そもそも何であるのか。無限次元とは
何を意味するのか。3次元空間にあらわれてない余剰次元はどこにあるのか。重力とは何な
のか。電気の正体とは何であるのか。
生長の家の方々は、こういった質問にはほとんど答えることができないにもかかわらず、
神にかんしての質問にだけは、なぜか流暢に答えることができます。これはどうしてなので
しょう。神という不可知であるはずの存在については明確に語ることができるにもかかわ
らず、ほかのことにかんしては、ほとんど何も語ることができないのは、なぜなのでありましょうか。
神は不可知の存在であります。神について何を語ろうとも、その真偽があきらかにされる
ことはありません。何を語ろうとも、それが正しいとも間違いであるとも決めつけることは
できません。生長の家の方々は、原理的に真偽があきらかにできないことどもについては、
何もかも、よくご存じであります。これが不思議なことに思えるのであります。
504
:
初心者
:2011/09/24(土) 10:34:23 ID:4IaAZAME
復興G様、ありがとうございます。
ラカンについていえば、その中心課題のひとつは、「人間は何によって思考させられている
のか」との問いかけであろうかと思います。それはまた、「何によって信じ込まされている
のか」の問いかけでもあるはずです。
問われているのは、「信の構造」です。「信」を無批判に受け入れ、そこからスターするのが
生長の家です。ラカンは、それよりもさらに深い問いかけをいたします。信の構造を問います。
もちろん、この問いかけじたいがラカンの目的ではないはずです。人間と「対象A」との関係。
これは、ラカンによって、想像を絶する複雑で語られることになります。この複雑さに、生長の家
はついていくことができないはずであります。
100年後に消え去る?何が消え去るのでしょうか。人間は言語によって支配された操り人形
である。こうした思想が、ラカンの根底にはあります。これはいうまでもなく、現代思想の中心
テーマでもあります。ただ、ラカンの場合は、単純ではありません。
人間は言語によって支配された操り人形である、という現代思想の主張に、生長の家は
どのように答えるのでありましょうか。これは、すでに提出された問題です。今この瞬間に
問われている問題なのです。この問題を、100年後に消え去るかどうかという問題に
すり替えることはできません。解決するか、無視するか。ふたつにひとつであります。
生長の家は、これまで徹底的に無視してきました。
人間と言語の関係。これを実相の観点から答えれば、どのように説明されるのでありましょう
か。実相だけにたより、なんでもかんでも実相で説明することしかできない生長の家は、ラカン
の前では、あまりにも無力な存在に映るのであります。
505
:
復興G
:2011/09/24(土) 11:33:00 ID:yhDBe2kY
初心者様。
>502
にお答えする前に、今日のニュースから。
*******
ニュートリノ「光より速い」
名大など観測 相対性理論覆す?
という見出しで、
「素粒子ニュートリノが飛ぶスピードは光より速い──。遠方より飛来するニュートリノを観測している名古屋大などの国際研究チームが23日、光より速いものはないとするアインシュタインの相対性理論の前提を覆すような測定結果を発表した。測定結果の正しさが証明されれば、現代物理学に根底から見直しを迫ることになる成果で、大きな反響を呼びそうだ。」
*******
という記事(日経新聞より)が載っていました。
科学的理論というのはそのように、次々と新しい事実が発見されたりして変わって行くものであります。アインシュタインの相対性理論のように、一般に認知されている理論だって、根底から覆される可能性がある。いわんや……と、私は思っております。
ソシュールの言語学というのは、現象界の言語についての理論でありますが、新約聖書ヨハネ伝の冒頭に
「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神なりき。この言は太初に神と偕に在り、万(よろず)の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命(いのち)あり、この生命は人の光なりき。」
とある言(ことば)というのは現象があらわれる以前の、言語以前の「ロゴス」、想念であって、ソシュールの言語学の範疇には入らないものでありましょう。
そして上記ヨハネ伝の記述で
「言は神なりき」
と過去形になっているのは、現象界の言葉は神から離れていることもある、というのは、ソシュールの用語をもって言えば、シニフィアン(相対的な世界に表現された言葉──義春様の解説)がシニフィエ(潜在的な言葉。その一番奥に言葉で表現できないところの、本当の「実相独在」や「神」がある──同上)から離れて暴走している、ということになるのかも知れません。
その、「言は神なりき」を「言は神なり」にするのがあらゆる宗教の使命であり、生長の家の運動でもあろうかと思われます。
しかし、ソシュールを持ちださなければ教義が不完全ということもなければ、「ラカン理論は、ソシュールの言語学がベースになっています。これは、生長の家にとって脅威である」などということはあり得ません。
あなたは<498>で
>「実相独在」は暴走しています。
と断定されているけれども、それではまるで、ソシュールやラカンの説を絶対化して、それが暴走しているように感じられます。
506
:
復興G
:2011/09/24(土) 12:54:09 ID:yhDBe2kY
>>504
:初心者様。
>人間は言語によって支配された操り人形である、という現代思想の主張に、生長の家はどのように答えるのでありましょうか。<
「人間は言語や社会構造によって支配された操り人形」ではない、ということは生長の家が最初から説いていることであります。それに答えていないのが、人間は言語によって支配された操り人形である、というソシュールやラカンなどの主張なのではないですか。
神は、コトバによってすべてを造り給うた。人間は神のいのちの噴出口として、今、神の自己実現として、コトバの力で運命をつくり、創造活動をして、生きている、生かされている。
では、「神の操り人形、奴隷」か? 否、「神の奴隷」でもなくて、自由が与えられている。コトバ(想念)の力によって、神の作り給わない病気や不調和のようなことも、仮に幻の如くにではあるけれども現象界に作り出すことができる。
「社会構造」の外側には「神の構図、構造」がある。
社会構造は、神の構造に包含されている、というのが大所高所から観た真理でしょう。
おおざっぱに言えば、そういうことではないかと思います。
人間と言語の関係。これは、大ざっぱに言えば上記のようになりますが、現実の対話では、まことに複雑な問題になるとも言えます。たとえば、「現実界」と言ったって、ソシュール言語学で言う「現実界」と、一般常識で言う「現実界」、生長の家で言われる「現実界」は全然違うようですから。それを、「現実界」という言葉の定義をピン止めしないまま、議論しあっても、すれ違いばかりで、話にはなりません。「実相」と言っても、一般常識として使われている「実相」という言葉と、生長の家で「実相独在」という「実相」とでは、意味しているものが違います。だから安易に「実相」とか「実相独在」という言葉を使うべきではありません。その点では、しっかりソシュールの言語学をふまえなければならないと思います。
しかしまた、それは「シニフィアン」とか「シニフィエ」という言葉についても同様だと思います。「シニフィアン」とか「シニフィエ」という言葉をきいて、意味が分かる人がどれだけいるでしょうか。意味が通じなければ何の意味もありません。聞く人に、わかるように言う努力が必要だと思います。それはお互い様です。
まあ、気長に対話を続けてまいりましょう。
507
:
初心者
:2011/09/24(土) 14:43:04 ID:4IaAZAME
復興G様、ありがとうございます。
アインシュタインの相対性理論は、光より速く飛ぶものはない、と否定しているのであり
ましょうか。タキオンという仮想粒子は想定されていましたが、これによって相対性理論が
否定されたのかどうかを、わたくしは存じておりません。
相対性理論とは、光より速く情報は伝達されない、ということであったと、わたくしは、素人
ながらに理解しております。ニュートリノによって情報が伝達できるのかどうか。それが問題で
あるような気がいたします。それから、すでに相対性理論に矛盾する実験は過去にもおこな
われております。それはパラドックスであるがゆえにEPRパラドックスと呼ばれていることは、
すでにこちらの掲示板に書いたとおりです。
相対性理論は、いわれているほどに絶対化されているのでありましょうか。それはあくまでも
理論であり、原理とは呼ばれておりません。科学は、このあたりの言い方は、ある程度は心得て
いるような気がいたします。
科学と宗教のちがいは、謙虚さにおいてあらわれます。科学は、教義の書き換えを、いとも
簡単におこなうことができます。宗教には、それができません。教義の書き換えを以って、
科学を否定することばできません。むしろそれは、科学の特権であり、宗教にたいする
優越性であるともいえます。教義をかたくなに守り、書き換えることのできない宗教と、
いとも簡単に書き換えてしまえる科学の、はたしてどちらに優越性があるのでありましょうか。
科学的真理は変化します。変化できるがゆえに科学は進化することができるのであります。
宗教的教義が変化しないですんでいるのは、それが想像的であるがゆえなのではない
でしょうか。想像界においては、矛盾は存在しません。想像界では、虚構を寄せ集めることで、
矛盾を解消しつづけることができます。宗教はつねに、そうした想像界において生き延びよう
とします。宗教は、矛盾なき想像界においてしか生き延びることはできないと、わたくしは
考えます。
科学的真理が変化を余儀なくされるのは、それが想像的ではないからであります。科学は
つねに「現実界」に肉薄しようとします。「現実界」。それは、わたくし的には、Dブレーンを
ベースにするホログラムであると、そりあえずそのように定義しておきます。
「現実界」に肉迫しようとして変化を余儀なくされる科学と、想像界にひきこもることで
変化をこばむ宗教と、どちらが信頼できるのかということですね。科学は変化するがゆえに
信頼できなのではなく、宗教は変化しないがゆえに信頼できない、という見方もできるという
ことでありますね。
復興G様は、宗教的言説をつぎからつぎへとくり出してこられますが、それができるのは、
それらの言説が、反証不可能であるからではないですか。科学は、反証できない言説を扱い
ません。科学が扱うのは、反証可能な言説だけであります。
復興G様は、なぜそのように、反証できない言説ばかりをくり出してこられるのでありましょう
か。わたくしは、反証可能な言説だけをもちいているつもりであります。それにたいして、復興G
様は、反証不可能な言説だけでおうじておられます。
反証可能な言説をもちいるわたくしにたいして、反証は十分に可能であり、それによって復興G
様は反証を試みておられます。それはそれでよいのでありますが、復興G様の言説が反証
不可能な言説によってしめられているかぎり、わたくしに反証のチャンスはほとんどないという
ことがいえると思います。これが正常なやりとりであるといえるのでありましょうか。
ひと言おうかがいたしますが、現象以前の言葉とはどのような言葉なのでありましょうか。
それは、現象界における言葉とは、どのような関係にあるのでありましょうか。できるかぎり
反証可能な言説で説明していただきますことを希望いたします。
508
:
復興G
:2011/09/24(土) 20:07:11 ID:yhDBe2kY
>>507
:初心者様。
>科学と宗教のちがいは、謙虚さにおいてあらわれます。
クリスチャンの賀川豊彦氏が、「反宗教運動」について次のように言っている言葉に、青年時代、感銘を受けたことを思い出しました。それは
「反宗教運動が起るなら、うんと起った方がよいのである。そんな波に破船するようなものであるならば、宗教として価値のないものである。私たちの宗教は生命宗教であるから、生命の続く間破壊されることがない。社会主義者などが宗教を破壊できると思うのも馬鹿げたことで、彼等はよほど近眼である。生命の破壊ができない以上、生命宗教が破壊できるものか。それは天に向って唾を吐くようなものである」
と。この賀川豊彦氏の姿勢は、謙虚なのでしょうか、傲慢なのでしょうか。私は、どちらかと言えば謙虚なのではないかと考えます。それは、「生命宗教」に対する自信、とも言えるでしょう。
生長の家は、やはり生命宗教であります。それは『生命の實相』第1巻冒頭「七つの光明宣言」の解説に
********
「生長の家」の目的はその宣言の第一条にありますように生命を礼拝し生命の法則に随順してみずからも生活し、推しひろめてはこの生活を他の人々にもできるだけ多勢の人に生きてもらいまして、しだいに全人類の生活を光明化することが目的なのであります。われわれが生命を礼拝し、こうした「生命」の法則にしたがって生活することを目標においていますのは、われわれがこの世界に「生命」を享けてきた事実から出発するのでありまして事実ほど力強いものはないのであります。……何ものを否定しましても、自分が生きているという事実は否定できないのであります。自分は生きているという事実はとりもなおさず自分自身が「生命」であるということであります。
********
とある通りであります。
そこから、スレッド「信仰/体験板」の<157>で義春様が引用されている「至上者の自覚の神示」にあるような
─────
自己が神だと悟ったら人間が傲慢になるように誤解したり、自己の本性が悟ったものを謙遜が足りぬと思う者は大変な思い違ひである。
斯くの如く創造する者は自己が神だと云ふ真理をまだ一度も悟って見たことがないからである。自己が神だと悟ったら人間は本当に謙遜になれるのである。
本当の謙遜は『神の自覚』から来る。神を自己の本性に自覚しないものは、いくら謙遜らしく見えても、それは卑屈に過ぎない。卑屈と謙遜とを思い誤るな。
本当の謙遜とは『自己が神より出でた神の子である、従って神そのもののほか何者でもない』と云ふ真理を何らの抗らひもなしに承認することである。
此の真理を承認するものを謙遜と云ひ柔和と云ふ。
此の真理に逆ふ者を傲慢と云ふのである。すべての傲慢と意思張りとは『吾れ神なり』の真理を承認しないところの根本傲慢より分化し来るのである。
─────
ということにもなってくるのでありましょう。
さて、初心者様は「反証主義者」であられますか。
「できるだけ反証可能な言説で説明していただきたい」
とおっしゃっていますから。それでは、ご要望に応じて、できるだけ反証可能な言説で、
>現象以前の言葉とはどのような言葉なのでありましょうか。それは、現象界における言葉とは、どのような関係にあるのでありましょうか。<
というご質問にお答えしたいと思います。
たとえば、生命体のDNAに記された遺伝情報というのも、現象界における「コトバ」であると解釈してよろしいでしょうか。
その遺伝情報は、現象以前の言葉、すなわち神が心に描かれたアイディア、構図が、形の世界に天降って──すなわち具体化してきたもの、と言えるのではないでしょうか。
509
:
復興G
:2011/09/24(土) 20:13:34 ID:yhDBe2kY
↑誤字訂正です。
「至上者の自覚の神示」 で
×斯くの如く創造する者は
○斯くの如き想像をする者は
でした。訂正お願いします。
510
:
復興G
:2011/09/24(土) 20:27:49 ID:yhDBe2kY
上記「至上者の自覚の神示」には、ほかにも少し誤字があることに気がつきましたので、『ご守護(神示集)』に載っている新仮名遣いで、引用文全体を再掲載させていただきます。
─────
自己が神だと悟ったら人間が傲慢になるように誤解したり、自己の本性が神だと悟った者を謙遜が足りぬと思う者は大変な思い違いである。斯くの如き想像をする者は自己が神だと言う真理をまだ一度も悟って見たことがないからである。自己が神だと悟れたら人間は本当に謙遜になれるのである。
本当の謙遜は『神の自覚』から来る。神を自己の本性に自覚しないものは、いくら謙遜らしく見えても、それは卑屈にすぎない。卑屈と謙遜とを思い誤るな。本当の謙遜とは『自己は神より出でた神の子である、従って神そのもののほか何者でもない』と言う真理を何らの抗らいもなしに承認することである。此の真理を承認するものを謙遜と言い柔和と言う。此の真理に逆う者を傲慢と言うのである。すべての傲慢と意地張りとは『吾れ神なり』の真理を承認しないところの根本傲慢より分化し来るのである。
─────
511
:
義春
:2011/09/24(土) 20:51:59 ID:SjZg29/2
>>510
復興G様
初心者さまとの議論の最中ですが、誤字訂正して頂き、真に有り難うございます。
真に恥ずかしく赤面の至りであります。これから精進いたし、その様な事なき様に致します。
これからもご指導、ご鞭撻の程、宜しくお願い申しあげます。
最後になりますが、初心者さま、復興G様の議論に入りましたこと、重ね重ね、お詫び申し上げます。
義春拝
512
:
復興G
:2011/09/24(土) 22:23:53 ID:yhDBe2kY
>>511
:義春様
いろいろ教えて頂き、ありがとうございます。
勝手に引用させていただき、すみませんでした。
ありがとうございました。
513
:
初心者
:2011/09/25(日) 12:29:33 ID:4IaAZAME
復興G様、ありがとうございます。
わたくしのここでの主張のひとつは、「宗教は想像的である」ということです。これは
異論の余地がないこと考えます。いちど立てられた教義が変わることはない。宗教とは
こういうものだと思います。
変わらないですんでいられるのは、それが想像的だからだ、ということを主張しています。
科学は想像的ではありません。矛盾が生じれば、変わらざるを得ないのです。宗教は、いくら
矛盾が生じても変わる必要はありません。なぜなら、宗教とはつねに想像的であるからです。
科学の謙虚さというのは、自分を変えることができるという意味での謙虚さであります。
なにが何でも変わろうとしない。これを謙虚さの欠如といたしました。
それから、わたくしがやろうとしていることは「反宗教運動」なのでありましょうか。
わたくしの主張が「反宗教的」であると感じられるのでありましょうか。であるとすれば、
それはなぜでありましょう。わたくしが真理を否定しているように見えているからで
ありましょうか。
わたくしは、復興G様が語ってくださる言葉はすべて存じております。すべてわかっておる
つもりであります。すべてを理解したうえで、それでも不満足なのであります。もっと上が
ある。より洗練された真理がある。感情だけでなく、知性をさえも満たしてくれる真理が
ある。このように考えております。
20年ぶりにもどった生長の家で語られている言葉は、20年前となにもかも同じでありました。
なにひことつとして前進していない、20年前の言葉そのものでありました。復興G様は、「信は
終着点ではない」といわれましたが、とてもそのようには思えません。20年前となにも
変わっていない。すでにここが終着点なのです。
この20年間に、わたくしはさまざまなことを学び、それなりに自分を変えてきたつもりで
あります。20年前とはあきらかに異なった自分がおり、あきらかに異なった言葉があります。
復興G様に申し上げます。反証できない言葉を使う。これが宗教です。反証できないがゆえに、
どんなことでもいえてしまう。これが宗教です。それは想像的世界です。なにもかもが想像的
であり、想像だけですべてがたりしてしまう世界であります。わたくしは、これを真理とは
認めません。
復興G様は、DNAは生命のコトバであるといわれました。わたくしは、DNAは受信機であると
考えております。復興G様のいわれる「生命のコトバ」を受信するための装置であると考えて
おります。では、「生命のコトバ」はどこに記されているのでしょうか。それを推測するには
科学の力が必要となります。それはつまり、情報はどこに書き込まれているのかということです。
ベッケンシュタイン限界によれば、情報には大きさがあります。1プランク長(10のマイナス35
乗メートルほどの長さです)の2倍の長さの正方形の平面に、1ビットの情報が記されている
可能性があります。こうした情報がDブレーンに書き込まれていると考えることができそうです。
すると、DNAの情報は、DNA本体ではなく、Dブレーンに書き込まれており、その情報は、
Dブレーンがつくり出したDNAという仮想の受信機を媒介として、現象界における生命現象
としてあらわれてくる、という予測が成り立つのではないでしょうか。
復興G様は、「その遺伝情報は、現象以前の言葉、すなわち神が心に描かれたアイディア、構図
が、形の世界に天降って──すなわち具体化してきたもの、と言えるのではないでしょうか」と
いわれましたが、これでは反証のしようがありません。わたくしのいう「洗練された宗教」の
意味を少しでも理解していただけたらと思います。これはけっして「反宗教運動」ではありません。
514
:
復興G
:2011/09/25(日) 15:19:44 ID:yhDBe2kY
>>513
:初心者様
>わたくしのここでの主張のひとつは、「宗教は想像的である」ということです。これは異論の余地がないこと考えます。いちど立てられた教義が変わることはない。宗教とはこういうものだと思います。<
それには、明らかに異論の余地があります。
まず、正しい宗教とは、人間が教義を立ててつくるものではない、ということです。そのことは、『生命の實相』第1巻「初版のまえ書き」に、
*******
「生長の家」の生きる道は私が肇めた道ではない。おおよそ、宇宙に生命が発現するかぎり、そこに道があり、法則がある。この道こそ「生長の家」の生きる道である。「道」とは宇宙にミチ(満ち)て存するコトバ(生命の波動)であり、遍在する大生命の創化の原理であるから、それはいかなる宗派とも衝突しないで、またいかなる宗派の人々といえどもふみ行わねばならぬ生活の原理である。かくのごとき生活の原理を私は諸君に代ってインスパイアされて発表するのである……言い換えればかくのごとき役割をわたしは大生命から振り当てられたにすぎない。その発表機関が月刊雑誌『生長の家』である。『生長の家』に発表される思想のインスピレーションの根元が本当の生長の家本部であって、それは神界すなわち「実相の世界」にある。
*******
と書かれているとおりであります。
>いちど立てられた教義が変わることはない。宗教とはこういうものだと思います。<
──すべて、現象界のあらゆるものは、変化しないものはありません。人間だって、細胞は常に新陳代謝して新しい細胞と入れ替わります。「変わらない」でいることなんか、できません。しかし、「変わる」のは現象、肉体であって、コアなる人格は変わらない。宗教も、時代や社会環境の変化に応じて、説き方は変わります。しかし、宇宙の法則、根本真理は変わりません。それは、『生命の實相』第1巻「頭注版に序して」に、
*******
生命の科学は、生命の現象をとらえて研究する、つまり現象としての生命をとらえるのである。現象としての生命は条件の変化によっていろいろのあらわれ方をする。すなわち生まれて生長し老衰し病み死する。すなわち現象生命は無常である。しかしかくのごとく移り変わるものは実在ではない。本当に実在するものは変化するものではなく変化するその奥にある常住のものでなければならない。変化ということが可能なためには、換言すればAがBに変化することが可能なためには、AがBに変化しながらしかもAとBとを通じて変化しない本体がなければならない。変化しない本体がなくて、Aが消えBがあらわれたならば、AとBとは無縁の別々のものであって、AがBに変化したとは言えない。AがBに変化しながら、その変化の奥に変化しない“常住の本体”があるのである。変化してあらわれているAとBとは現象であり、その奥にある“常住の本体”が「実相」である。わたしたちは生まれ、生長し、老い、病み、死する……換言すれば変化するけれども、そして生まれたときの肉体細胞は、生後十五年もたてば全然新しい細胞と変わっていると生理学は教えている。すなわち生理学によれば十五年前のその人と十五年後の今日のその人とは肉体は全然別物であるけれども、その人の人格は同一人格として継続しており、十五年前のその人の行動に対する責任を十五年後のその人が負わなければならないのは、人格の継続は、肉体の継続ではないからである。これがわたしの“生命の実相”哲学において「人間は肉体ではない」ということの意味である。肉体が変化しても、その奥にあって死滅しないで継続している実在としての生命を、わたしは“生命の実相”と名づけたのである。そしてそれこそが“人間の真物(ほんもの)”であるのである。
*******
とある通りであります。
(つづきます)
515
:
復興G
:2011/09/25(日) 15:20:31 ID:yhDBe2kY
(続きです)
あなたは、「宗教は想像的である」とおっしゃいます。
「想像的」とはどういうことですか。一般に言われるのは「空想的」というような意味であります。しかし、「空想的」ということは「変わらない」ということとは結びつきません。あなたのお好きなジャック・ラカンの理論で「現実界」「象徴界」「想像界」と分けた場合の「想像界的」ということだろうかと想像してみましたが、ラカンのいう「想像界」とは
「人であれば誰しも漠然とイメージできるけれども、その正確な描写となると大変な労力を要するような、言語(象徴界)に縛られている世界であり、なおかつわれわれが思っているものから成っている。この想像界も、けっして現実界と一致することなない」(Wikipedia)
だそうで、よくわかりませんが、あなたは「現象界を超えたもの」とは「想像的」なもの、と決めつけておられるようですね。私は、「実相」とは、現象以上に確乎たる存在で、「想像的」なものとは思っておりません。そういう「実相」に思い至らなかったラカンから見れば、宗教は想像界のものと映ったかも知れませんが、私は「実相」を説く宗教が「想像的」だとは思っていません。
>復興G様は、「信は終着点ではない」といわれましたが、とてもそのようには思えません。20年前となにも変わっていない。すでにここが終着点なのです。
この20年間に、わたくしはさまざまなことを学び、それなりに自分を変えてきたつもりであります。20年前とはあきらかに異なった自分がおり、あきらかに異なった言葉があります。<
とあなたがおっしゃるのは、あなたが私の変わり様をご存じないからだと思います。「信」そのものが深まって、大いに変わってきたと思います。それは客観的に見て、他人様がそうおっしゃってくださいます。まさに「信」は出発点だと思います。
>復興G様は、DNAは生命のコトバであるといわれました。わたくしは、DNAは受信機であると考えております。復興G様のいわれる「生命のコトバ」を受信するための装置であると考えております。では、「生命のコトバ」はどこに記されているのでしょうか。それを推測するには科学の力が必要となります。それはつまり、情報はどこに書き込まれているのかということです。<
それはすでに、科学の力で明らかになっています。DNAは、デオキシリボ核酸という、高分子生体物質であって、それがそのまま「生命のコトバ」でなく、そこに書き込まれている情報が「生命のコトバ」であります。
DNAは二重螺旋構造をもつ核酸の一種で、塩基はアデニン、グアニン、シトシン、チミンの四種類(A, G, C, Tと略す)があり、その配置・結びつき方の違いによって情報は書き込まれているということです。それは「生命のコトバを受信するための装置」ではなく、すでにそこには情報が書き込まれてあるのです。だから推測や予測ではなく、解読することができているのです。
なお、私は初心者様が「反宗教運動」をなさっているとは全く思っておりません。賀川豊彦氏の「反宗教運動」について書かれた文章を引用したのは、本当の「信」をもつものは「変わることを恐れない謙虚さを持っている」、ということの例として思い浮かんだから、だけでありまして、あなたの主張が「反宗教的」であると感じたということではありません。誤解されたとしたら、お詫びいたします。
>もっと上がある。より洗練された真理がある。感情だけでなく、知性をさえも満たしてくれる真理がある。このように考えております。<
ありがとうございます。私もそれには同意いたします。私も結構変わってきたとは思いますが、まだまだこれからです。すでに最高の悟りを得たなどとは決して思っておりませんので、これからもご指導をよろしくお願いいたします。
ありがとうございます。
516
:
初心者
:2011/09/25(日) 16:47:45 ID:4IaAZAME
復興G様、ありがとうございます。
ブラックホールは、ホーキング放射によって蒸発すると考えられています。ブラックホールの
蒸発にともなって、なかにあったはずの情報も消え去る運命にある?
情報は消えてはならない。これが物理学の鉄則であるようです。では、ブラックホールの
情報はどうなってしまうのでしょう。
情報は、わたくしたちが予想しているような場所にあるのでしょうか。DNAに情報が書き込ま
れている?これは本当でしょうか。本当に、予想された場所に情報は書き込まれているので
しょうか。それなら、ブラックホールのなかにあると予想される情報は、ブラックホールの蒸発
とともに消え去ってしまうのでありましょうか。
物理学の世界では、禅問答よりもはるかに不可解で面白いことがおきています。しかも、
ソシュールの言語学は、これに、さらに過激な解釈をつけくわえます。Dブレーンから、この
世界がつくられるには、言語の働きが不可欠であると、わたくしは考えます。こうした思想は、
今にはじまったことではなく、仏教は、はるか昔にそのことに気づいていました。
ラカンを理解するのは簡単ではありません。それは、きわめて複雑で難解な思想です。
真理もまた単純ではありません。面白いほどに単純ではありません。雅春先生の言葉だけ
では、その複雑さは表現できないと、わたくしは考えます。ラカンは、雅春先生が教えてくだ
さらなかったことを、いくつもいくつも教えてくれます。
世界はどのように成り立っているのか。それを知るには、物理学だけでは不十分です。
人間存在の秘密。現象世界の秘密。それらを嗅ぎまわる必要があるように思います。ラカンは、
その秘密をさぐる手かがりを提供してくれます。ほかの人がけっして提供してくれない手がかり
を提供してくれます。ラカンのように考えることで人間存在の秘密をかぎまわる。それがいま
のわたくにとっていちばん面白いことなのです。
わたくしは、この楽しみを自分ひとりのものにしたいと思います。みなさまに語るのはやめる
ことにいたします。復興G様、ありがとうございました。現実の世界で復興G様とお会いした
なら、わたくしは復興G様を尊敬できたことだろうと思います。
517
:
復興G
:2011/09/25(日) 18:16:05 ID:yhDBe2kY
>>516
初心者様。ありがとうございます。
去られるのですか。
平行線のままで終わってしまうのは大変残念です。
しかし、このまま論議をつづけても、平行線を交わらせることは、すぐにはできないのでしょうね。
でも、根本においては、同じ宇宙に、そして同じ星 地球に、さらに同じ国 日本に時を同じくして生き、同じ「生長の家」という教えに触れた者同士として、今すぐに平行線が交わらなくても、深いところでは間違いなく並々ならぬ深い因縁で一つにつながっている命の兄弟であると思います。
初心者様がおられなくなったら、私も大変さびしいし、この掲示板も間違いなくさびしいものになってしまいますが、それも定めなのかなあ──私は私の信念を曲げることはできませんから──と、感じています。
無理に引き留めるわけにも行きませんので、またお目にかかれる時を楽しみに、それぞれ精進してまいりましょう。
とても密度の濃い、すばらしい一時を過ごさせて頂いて、私も生長できました。たいへん、たいへんありがとうございました。
518
:
復興G
:2011/09/25(日) 18:25:42 ID:yhDBe2kY
追伸です。
私の今の思い──
「実相独在に命をかけて生きる」とは、ただ無我の愛を行じて行くことだ、ということです。
ありがとうございます。
519
:
トキ
:2011/09/25(日) 19:03:05 ID:BlE9Vn1Q
初心者様
本流掲示板時代から、お世話になっているので、このたび、急に去られる
のは、本当に寂しいです。
生長の家を去られてから20年を経て、再び教団にこのような形で関られ
たのですが、さすがに深く鋭い洞察で、感心をしておりました。この掲示板の
当初の目的は、どんな内容もどの投稿者も自由に討論ができる、という場の
設立でしたが、初心者様は、その目的の達成に大きな貢献をされたと感じます。
心から、感謝と敬意を表します。
初心者様のご投稿は、多くの人たちに刺激を与えたと思います。
その意味で、初心者様も教団の方ではないですが、生長の家を愛しておらえる
と思います。
私個人も、これからも初心者様のご文章を拝見したいので、少し休んでから
また再登場をお願い申し上げます。
合掌 ありがとうございます
520
:
義春
:2011/09/25(日) 23:12:30 ID:SjZg29/2
初心者さま
掲示板を去られると聴き、呆然として涙を流しております。
初心者さまには、本当にお世話になりました…貴方とお話する事が楽しみでありました。
哲学という、私にとって、一番苦手とする分野が如何に大事か、そして、歴史と哲学を結びつけて頂きました。
それだから、私にとって師だと思ってます。その気持ちはこれからも変わる事もありません。
そして、単純な気持ちを書くと、渋い顔をされるかもしれませんが…
私は貴方という方が好きでもあります。
何と申しますか…その文面から流れる真剣で真摯な生き方、人に対する、ほのかな温かさに…。
まぁ…理由付けすれば、そんな所なのでしょうが、ぶっちゃければ理由はありません。
好きだから好きなのです。
最後になりますが、出来ましたら、又、戻って来てくださいね!心からお待ち申し上げております!
521
:
復興G
:2011/09/26(月) 14:00:44 ID:yhDBe2kY
(ご挨拶)
トキ様、皆様。
この板は「挨拶板」で、趣旨は
「初めて書き込みをする人や、生長の家について相談がある人が利用するために開設しました。……書き込みに少し自信がない、という方は、この板をご利用下さい。」
ということでしたのに、板の趣旨に反した論争みたいなことに暴走してしまっていました。お詫びを申し上げます。
振り返ってみますと、この挨拶板で初登場され印象に残っていますのは、143で「一観覧者A」として登場された さくら様、338 の琴音様、388〜389の「460」様などでした。これらの方々は、真剣に道を求めて生長の家に期待しながら、現実の生長の家の組織や運動などには失望したり恐れを抱いたりされた方々であったかと思います。
初心者様は、この「挨拶板」で初登場されたわけではなく、特別、別格の深いものを追究されてきた方だと思います。
こういった方々を含め、多様な個性と経験・知識などを備えた方々を、「闇なべ」とも賞されるように──あ、“称される”の誤変換でしたが、そのままでもよろしいかと思います──多様な方々を包容し自由な発言を受け入れてきたこの掲示板の意義は大きいと思います。
谷口雅春先生は、「現象本来無し」「実相独在」というお悟りから、神仏耶をはじめ善き教えはみな一つの「実相」から出たものだから、真髄は一つに帰するという「万教帰一」の真理を説かれました。そしてこれまでは「不立文字」、現象の文字や言葉をもって語ることはできないとされてきた悟りの真髄を、誰にでもわかりやすいような「言葉の力」で「仏を大量生産する」という夢と理想をもって『生長の家』誌を発刊され、たくさんの人々を救い、日本国家の危機をも救って来られました。これはまことに偉大な功績であったと思います。
しかし一面では、特に戦後光明化運動の「新体制による組織運動」が始まってから、真理の言葉が空転し、「シニフィアン(形式言語)の暴走」が起こったために、犠牲者といいますか、傷ついて組織から離れ、教えからも離れて行く人が出てきたことは否めない事実だと思います。
ですから、388〜389の「460」様の発言なども、その事実に対するとても貴重な警告だと思います。
今までの生長の家の体験談と言えば、真理の実証となる成功体験談ばかり語られることが多かったと思いますが、「成功物語より失敗例から学べ」という「失敗学」を提唱されている畑村洋太郎氏に学ぶ必要もあるでしょう。
そういう意味で、しっかりと過去の生長の家の運動を検証し直すことが大切ではないかと言われる、この掲示板管理者トキ様のご意見は、まことに正鵠を射たものだと思います。
私は、「実相独在」への信を貫きながらも、「実相独在」という言葉はできるだけ使わずに、自分の今までの信仰・運動体験を、「成功物語より失敗例から学べ」という「失敗学」の立場で振り返り、ゆっくりと、しばらく連続で「信仰/体験板」に書かせて頂きたいと考えております。
なお、このたび初心者様との論争のようになった初めのところ、<459>で
>スレッド(1)の<413>あたりから、(初心者様と)役行者様などとのやりとりで詳しくいろいろおっしゃっているようですね。その時に読む時間がなかったので、これからじっくり勉強させていただきます。そして、私が「実相は独在である」と堅く信じる根拠について、できるだけ言葉を尽くして申し述べさせていただきます。今しばらくのご猶予をください。<
と書いていたのですが、その猶予がないまま直ちに次々と反論や質問などを投げかけられたので、論議は噛み合わないまま一方的な言葉の投げつけ合いのようになった場面が多かったと思います。「急(せ)いては事をし損じる」という諺がありますから、失敗を教訓にして、これから上記の価値あるスレッドもじっくりと読み返し、少しスローで行きたいと思います。よろしくお願いいたします。
522
:
トキ
:2011/09/26(月) 15:46:53 ID:W4PkIrQA
>>521
復興G様
すばらしいご文章をたくさんご提示くださり、深く感謝申し上げます。
初心者様との対話は、初心者様はもちろん、多くの閲覧者の方々にとって
きわめて有益で、生長の家の信仰の深化にも役立ったと感じます。
本流掲示板ではないですが、教団内部では、復興G様のような卓越した講師の
ご指導を受ける機会が減ってきたので、現役の信徒の皆様にも喜ばれたと感じます。
ご多忙とは拝察しますが、個人的にも、復興G様のご文章は勉強になりますので、
信仰・体験板でのご指導を楽しみにお待ちしております。
板の趣旨と違う点は、ぜんぜん、気にされないで下さい。すばらしい内容でした。
合掌 ありがとうございます
524
:
琴音
:2011/09/27(火) 18:37:39 ID:i5DMTaRw
おひさしぶりです。琴音です。また戻ってきてしまいました。
今、生命の実相 2巡目です。そして現皇室の知識を仕入れてきました。
そして、今日皆様方が残してくださったコメントを読みました。
温かくお声がけしてくださっていて、ほんとに嬉しかったです。
今までやってきた他宗教(霊波之光)が御祓い宗教なことで、
生命の実相の中でお祓い的なものはよろしくないとあったので、
そちらをやめて、日本神道の神様を中心にしていこうと
思って霊波をやっている伯母と話すと、喧嘩になりました。
「霊波ではひとことも「人間は神の子」って言っていないでしょう。
だから、合わないと思うの」
「違うわよ、神から頂いた霊魂を肉体に宿し云々」
人間は神の子、という考えって宗教者に共通だと思ってたんですが、
違ったんですね。
人間は低いものだから努力して上がっていく、
そのためには神につなげてくれる教祖が必要、という考え方の伯母と
宗教論争になりました。。。
もう辛いので、霊波之光はやめて、
生長の家に入ろうと電話をかけましたら、
「個別の相談には3000円が必要です」
あ、お金かかるんですね。
やっぱりお断りしました。
ちょっと宗教団体不信です。
525
:
トキ
:2011/09/27(火) 19:11:04 ID:o1hPfnBg
>>524
琴音様
こんばんは。お帰りなさい。ご投稿を心から歓迎申し上げます。
いやー、本当にお会いできて、うれしいです。ありがとうございます。
でも、教化部に電話をして、個人相談に3000円請求されたのですか。それは
驚きです。ちょっと、首を傾げますね。ご気分を害された点は深くお詫びしま
す。(これをご覧の教団幹部や職員の皆様、考えてくださいね。)
生長の家の場合、「誌友会」と言って、各家庭を解放して、無料で勉強する
会合が各地で定期的に開催されています。ですから、教化部に電話をして、
お住まいの地域の誌友会の日程や連絡先を聞いてみたらよいと思います。どこでも
大歓迎されると思います。なお、会場リーダーの性格などで、会場の雰囲気があう、
合わないはありますから、複数の会場の、「誌友会」に参加して、自分にあう会場
を見つけることをお勧めします。(つづく)
526
:
トキ
:2011/09/27(火) 19:33:54 ID:o1hPfnBg
(つづき)
あと、「霊波之光」の件ですが、無理をされることはなくて、辞めて親族に
波風を立てるぐらいなら、辞める必要もないと思います。逆に、おばさんから
言われたからと言って、生長の家をやめる必要もないですけどね。
それよりも、普段の行いを高めるとか、表情を明るくするとか、特に伯母さん
には今まで以上に親切にするとか、とにかく生長の家の本で学んだ事を実践され
たら良いと思いますよ。特に伯母さんを「神の子」として拝むのも大切な修行
だと思います。
とにかく、笑顔で、明るく、生き生きと、深切(生長の家では”親切”をこう
表現します)にすれば、伯母さんとも仲良くできますよ。
応援をしております。がんばってください。
527
:
トキ
:2011/09/27(火) 19:53:10 ID:o1hPfnBg
少し話しがずれますが、この「個人指導」の問題は、大切だと感じます。
以前は、教化部でも、個人指導をしていた時期があったのですが、誰もこない
日があるかと思うと、逆に相談が集中する日があったりして、うまくいかないケース
が多かったのです。それで予約制になったりして、だんだんと制限が出てくるように
なりました。あと、個人指導は、時間的にも拘束されますし、力量のある講師でない
と難しいです。何時間も面白くもない話をひたすら聴くので、終わるとフラフラにな
ります。昔は、生長の家にも力量、人格とも優れた講師が多かったので、個人指導も
できましたが、最近は、そういう講師も少なくなりました。そのため、個人指導をし
たくても、出来ないという事情もあります。
しかし、自殺者が3万人もいる、というこの現状を見ると、税制面で優遇措置を受けて
いる宗教法人は、やはり個人指導には対策を考えるべきだと思います。最近は、本部も
メールでの相談を受け付けているとの事ですが、他にも電話相談など、窓口を広げるべき
かと思います。
今は、電話の転送なども簡単ですし、IP電話もあります。例えば、いのちの電話では
ないですが、相談電話の番号を決めてしまうとか、電話も転送で講師の自宅へ転送され
るようにするとか、あとは相談の講師もリレー制で担当を決めるという方法もあります。
職員ではなくても、地方講師が分担すればよいかとも思います。
また、複数の教区で講師を出し合えば、負担も軽減すると思います。
私の周囲にも、教化部の個人指導が契機で入信し、講師にまでなった人は何人もいます。
難しい問題(嫌がらせ、ストーカー問題などの危険性)もありますが、やはり宗教法人と
して、前向きに対応をするべきかと考えています。
528
:
義春
:2011/09/27(火) 19:54:46 ID:SjZg29/2
>>524
琴音様
お帰りなさい!…って3000円って…高ッ!と思ったのですが…まぁ…個人相談とか
申し込んだ事がないので、実際の所は分かりませんが、大変驚いております。
何と申しますか…信徒として、申し訳ない気持ちでいっぱいであります。
それで伯母様の事ですが、私もトキ様と同じく御無理される必要はないかと想いますよ。
まぁ…私も母が信徒じゃないのですが、あんまり信仰心の押し売りも嫌なので、
自分自身の行いで分かって貰おうとしていたら、信徒じゃないのに、甘露の法雨が枕元に
あったり、いつの間にか雅春先生の本読んでました。まぁ…信徒じゃないのですけどね。
だから、のんびりでも良いと想いますよ。
自分自身の行いって言っても、明るく元気にどんな事があってもへこたれない!だけでしたけど…。
本当に素朴で特別な事をせず、当たり前を大事にしていただけでした。
だけど、それだけでも、分かってくれる…人って不思議だなぁ…と想います。
雑文になってしまい、申し訳ありません。ご参考になれればと想います。
529
:
トキ
:2011/09/27(火) 20:07:41 ID:o1hPfnBg
>>528
義春様
適切なアドバイス、ありがとうございました。
そうですね。無理をすることもないと思います。あ、それと、
琴音様、よかったら、女子会も覗いてみてください。歓迎されると
思います。
530
:
義春
:2011/09/27(火) 20:07:46 ID:SjZg29/2
>>527
トキ様
ご意見、同感であります。
生長の家から少し話がずれてしまいますが、ご容赦ください。
これは1つの実例になります。私が癌闘病前に、父との事で家からあちこちを放浪していた時、
最後に頼ったのが、自殺予防センターでした。私の場合は特殊な例でしたから、
センターの方もかなり悩んでましたが、とある左翼の人に相談して、
私をそこに行くように、提案なさいました。そこで母に救われたのですが…
少し話を聴いてあげるだけで生きれる人もいると自分の体験から確信しています。
そして、まぁ…複雑な気持ちになりますが、そういった弱者保護に重点を置いているのは、
左翼なんですよね。私も悩んだ挙句、生きる為に、一時頼らざるを得なかったくらいなのですよ。
でも、そういった人たちが魂のケアまで出来るかと言うと…難しいと想います。
だからこそ、生長の家で、そういった事に乗り出していけば、本当に素晴らしいと想います。
531
:
トキ
:2011/09/27(火) 20:36:02 ID:o1hPfnBg
>>530
そうですね。生長の家の活動家といわれる人たちも、数字に見える部分、例えば
講習会の参加者や普及誌購読者の数には、燃える人がいるのですが、こういう地道な
活動は、苦手だという人も多いです。
でも、本当は、そういう地道なことをメインにしないといけないのではないか、
と思いますね。いろんな声もありますが、そういうことを考えるべき時期にきている
と思います。
532
:
義春
:2011/09/27(火) 21:13:16 ID:SjZg29/2
>>531
まぁ…大変、地道な事の積み重ねですね。自殺者問題は…
駆け込み寺→魂のケアときたら、最後は公的機関と協力しないといけません。
いつまでも駆け込み寺にいてもらう訳にはいかないですから…。
ただそうなってくると役所の手続きになりますが、アレはめんどくさい事、この上ありません。
実務の積み重ねになります。左翼の人たちはその辺がうまいのですよね(^_^;)
そこまでやらないといけないから、大変ではありますが、それがないから、大変な事態になっているとも言えます。
533
:
琴音
:2011/09/27(火) 21:16:17 ID:A1KptDZw
トキさま
丁寧なお返事ありがとうございます。
「誌友会」そうですよね。そういうのを教えてほしくて、
お電話したのですが、練成会?とか講和会とかを勧められました。
話しの内容から、参加者増やしたいだけだなって思って、
もう電話するのが嫌になりました。
私は調布なので、きっと近くにいらっしゃると思うんですけども・・・。
霊波については、伯母さんすごくショック受けてました。
でも生長の家を知る前に、既に霊波に対して不信を抱いていて、
神棚が飾ってあることすら嫌になっていたので…。
(自分で買い求めたのですが。。)
一神教で、お寺のお守りとか神社参拝もタブーになってるので、
「どっちもやる」っていう事自体が伯母さんには受け入れられないだろう
と思います。
とにかく、少しずつ生命の実相で言われていることを実践していきたいなって
思います。
534
:
義春
:2011/09/27(火) 21:16:33 ID:SjZg29/2
>>532
あっ、これは身寄りのない人の場合ですね。まぁ…自分自身がそれに近かったので、
それをモデルにしがちです(汗)真にお恥ずかしい話です(汗)
535
:
a hope
:2011/09/27(火) 21:18:25 ID:MNrNIsM2
琴音さま
おかえりなさい。
ここには、頼りになる紳士だけでなく、優しい女子もおりますので、
安心してくださいね。
女子会は、今、恋ばなで、盛り上がっております。
よろしかったら、遊びに来てくださいね。
話題はなんでも、構わないんですよ!
また、お会いできて本当にうれしいです。
536
:
琴音
:2011/09/27(火) 21:32:38 ID:A1KptDZw
義春様
こんばんは。お返事ありがとうございます。
やっぱり信徒の方でも3000円は高いのだな、と安心しました。
日々の行いから、周りの方が関心をもってくださるのは
素晴らしいですね。
なにも言葉という形ではなくて、自分から発せられる光で
相手を感化できるようになれたらいいなあと思いました。
関係ないですが、
甘露の法雨、長いですよね…
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