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「今の教え」と「本流復活」を考える・挨拶板

508復興G:2011/09/24(土) 20:07:11 ID:yhDBe2kY

>>507 :初心者様。

>科学と宗教のちがいは、謙虚さにおいてあらわれます。

クリスチャンの賀川豊彦氏が、「反宗教運動」について次のように言っている言葉に、青年時代、感銘を受けたことを思い出しました。それは
「反宗教運動が起るなら、うんと起った方がよいのである。そんな波に破船するようなものであるならば、宗教として価値のないものである。私たちの宗教は生命宗教であるから、生命の続く間破壊されることがない。社会主義者などが宗教を破壊できると思うのも馬鹿げたことで、彼等はよほど近眼である。生命の破壊ができない以上、生命宗教が破壊できるものか。それは天に向って唾を吐くようなものである」

と。この賀川豊彦氏の姿勢は、謙虚なのでしょうか、傲慢なのでしょうか。私は、どちらかと言えば謙虚なのではないかと考えます。それは、「生命宗教」に対する自信、とも言えるでしょう。

生長の家は、やはり生命宗教であります。それは『生命の實相』第1巻冒頭「七つの光明宣言」の解説に
   ********
「生長の家」の目的はその宣言の第一条にありますように生命を礼拝し生命の法則に随順してみずからも生活し、推しひろめてはこの生活を他の人々にもできるだけ多勢の人に生きてもらいまして、しだいに全人類の生活を光明化することが目的なのであります。われわれが生命を礼拝し、こうした「生命」の法則にしたがって生活することを目標においていますのは、われわれがこの世界に「生命」を享けてきた事実から出発するのでありまして事実ほど力強いものはないのであります。……何ものを否定しましても、自分が生きているという事実は否定できないのであります。自分は生きているという事実はとりもなおさず自分自身が「生命」であるということであります。
   ********
とある通りであります。
そこから、スレッド「信仰/体験板」の<157>で義春様が引用されている「至上者の自覚の神示」にあるような
   ─────
自己が神だと悟ったら人間が傲慢になるように誤解したり、自己の本性が悟ったものを謙遜が足りぬと思う者は大変な思い違ひである。
斯くの如く創造する者は自己が神だと云ふ真理をまだ一度も悟って見たことがないからである。自己が神だと悟ったら人間は本当に謙遜になれるのである。
 本当の謙遜は『神の自覚』から来る。神を自己の本性に自覚しないものは、いくら謙遜らしく見えても、それは卑屈に過ぎない。卑屈と謙遜とを思い誤るな。
本当の謙遜とは『自己が神より出でた神の子である、従って神そのもののほか何者でもない』と云ふ真理を何らの抗らひもなしに承認することである。
此の真理を承認するものを謙遜と云ひ柔和と云ふ。
此の真理に逆ふ者を傲慢と云ふのである。すべての傲慢と意思張りとは『吾れ神なり』の真理を承認しないところの根本傲慢より分化し来るのである。
   ─────
ということにもなってくるのでありましょう。

さて、初心者様は「反証主義者」であられますか。
「できるだけ反証可能な言説で説明していただきたい」
とおっしゃっていますから。それでは、ご要望に応じて、できるだけ反証可能な言説で、

>現象以前の言葉とはどのような言葉なのでありましょうか。それは、現象界における言葉とは、どのような関係にあるのでありましょうか。<

というご質問にお答えしたいと思います。

たとえば、生命体のDNAに記された遺伝情報というのも、現象界における「コトバ」であると解釈してよろしいでしょうか。

その遺伝情報は、現象以前の言葉、すなわち神が心に描かれたアイディア、構図が、形の世界に天降って──すなわち具体化してきたもの、と言えるのではないでしょうか。


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