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「今の教え」と「本流復活」を考える・挨拶板
454
:
役行者
:2011/09/21(水) 12:30:57 ID:XDphrwd.
皆さん、少し視点を変えます。
「信」には、「盲信」という言葉もあります。行き過ぎると、洗脳なのではないでしょうか・・・何事も、行き過ぎるのはよくないかと存じます。
それから、シニフィアンの連鎖をとどめるのは、もっと、平たい言葉でいえば、現象処理です。もう、ここまでいろいろな例を挙げて初心者様をはじめ、説明しているので理解して頂けるかと存じますが、現象面において、「真理の言葉」の暴走を防ぐということです。
そのファンダメンタルがあってこそ、真の宗教の本当の意義があるのではないでしょうか?
雅春先生は、「信」とは、実相に入る込むことだ。という表現をされてました。言葉は、我が内に向けて発して、神の中に入って、神に包まれて、「信」なのではないでしょうか?雅春先生に対して仰ぎ奉りの「信」。 これは、雅春先生が一番、厭がっていたことと存じます。
我が内なる神に、「信」、そして、言葉の力が、それを強固にしてくれる。
言葉が、外に向かうと、盲信になる可能性を秘めてます。
どんな素晴らしい聖者に対しても、その方に「信」が向かってしまったら、それは極論をいうと「盲信」でないかと、そう存じております。
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