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「今の教え」と「本流復活」を考える・挨拶板

449初心者:2011/09/21(水) 10:40:53 ID:4IaAZAME
本音で語ることにいたします。敵をどこまでも追い詰めないではおかない、残虐な戦士で
あり続けるようとすることは、この場にはふさわしくないと考えます。

本音を申しますと、わたくしは、生長の家の方々に不快感を禁じえないでおります。よると
さわると、他者を「迷い」の物差しで測りたがる、いやらしい人々であると理解しております。

言語学を語ればどうなるか。それは、すべて予測できたことです。「あの人は迷っている」。
このひと言で片づけられてしまうことは、はじめから予測できておりました。他者を、ただ
ひとつの物差しで測ろうとする、あのいつもの、きまりきったいやらしい視線を、つねに
意識しながら、わたくしは書き込みを続けました。

その人たちは、言語学については、おそらく何も知らない人たちです。知らないことにたい
してさえ、「迷っている」と決めつけることのできる人たちなのです。「迷っている」と決めつけ
さえすれば、安心できる人たちなのです。知らないことにたいしてさえ、「迷っている」のひと
言で片づけて、それで安心を得ようとする人たちなのです。

これは非対称な関係なのです。わたくしからは、生長の家の人々の姿が見えております。
すべて丸見えであります。それにたいして、生長の家の人々は、わたくしの姿をどれだけ見る
ことができているのでしょう。ごく一部を見て、それがすべてだと考えておられるのではない
でしょうか。

「信」をやたらと強調しておられる方がおられます。なぜ「信」でなければならないのでしょう
か。知ってはいけないのでしょうか。どうしてもそれは信じなければならないものなので
しょうか。それは、きまりごととしての、真理の世界の法則なのでありましょうか。

信じようが、知ろうが、どちらでもよいではないですか。なぜそのことばかりを問題にする
のですか。なぜそれを問題にしなければ、気がすまないのですか。信仰は「信」でなければ、
落ち着かないのですか。誰もが「信」を基調に信仰しなければ、自分の信仰がゆらぐように
感じられるのですか。なぜそうやって、自分の立てた基準を押しつけようとするのですか。

もちろん、わたくしにしたところで、自分が立てた基準を押しつけようとしているでありま
しょう。しかしそれは、不安からそうするのではありません。そうしなければ、自分の信仰や
真理観がゆらぐと考えて、そうしているのではありません。雅春先生の教えがすべてでは
ない。このようなわかりきったことを、ただいっておきたいだけなのであります。

「信」だけで成り立つ信仰に、心の余裕はありません。「信」がゆらげば、それですべてが
終わりです。いちど手にした「信」を変化させることができますか。おそらくできないで
ありましょう、。知は変えることができます。いくらでも変えて、進化させてゆくことができます。
「信」は強度だけが問題になります。どれだけ強く信じられるか、。それだけが問題になります。
知のしなやかさや、変化への対応力が、「信」にはありません。「信」は、つねにひとところに
とどまろうといたします。

「信」だけで総裁先生と向き合うのは、不可能であると考えます。総裁先生と向き合うに
あたって必要とされるのは、しなやかで柔軟性に富んだ「知」であると考えます。「知」で
向きあうとき、総裁先生は魅力的な存在へと変化します。「信」だけでしか向き合えない
人たちが、問題を、必要以上に大きくさせてしまいました。


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