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「今の教え」と「本流復活」を考える・挨拶板

445さくら:2011/09/21(水) 07:11:55 ID:6tmMyXBA
>信と理は両輪であるべきだと思います。

こう義春さまが、仰るように、信とは、何をどう信じることか、それを理、でどう理解していくか、このことは、私にも、やはり、重要なことだと思えるのですよね。

雅宣総裁は、その事を「真理を分かる」とは、どういうことなのか、というテーマで、小閑雑感、の中で、慎重に、考察されていました。もう少し、生長の家ではこれについても考えて良いかな、と思っていました。

ちなみに、雅宣総裁の一挙手一投足、それがどうした、というのは、私にはあまり重要ではないのですよね、たぶん、それ程に、愛情がないのかもしれません、すみません、笑。
一つの、与えられた課題、として、自分の信や、理に、ヒントを与えて下さっているように、受けとっているところがあります。だから、雅宣総裁の文章に、教えてもらうことがあっても、私は、雅宣派、というわけではありません。「今の教え」を支持しているわけではありません。
では、そこで、自分の信仰をどう考え試すか、それだけは、考えてはいます。


大風呂敷…
これは、雅春先生の、大きすぎる、愛のことでしょうか、

人間は神の子である、という偉大な、そして、全ての人に分かりやすく、愛深く、これ程あらゆることに行き届いた真理で、全ての人類を救われた。それ以上の愛を、私は生長の家に触れるまで知りませんでした。
だから、雅春先生は、私の人生の最も敬愛すべき師となり、これが私の信、となったと言えると思います。
そして、私の信となったことで、雅春先生からも、自立、しなければならないとも同時に思われました。自立することが、雅春先生の教えを、本当に生かすことだと思いました。自立とは、どういうことなのか、これも自分で考えていかなくてはならないことです。


自分に、信の部分で、迷いはなくても、人や世の中を動かしているのは、何であるか、この迷いの正体というか、やはり仕組みは、慎重に考察の必要はあると思っていました。組織、国家、宗教団体とか…人の信仰というものまで、何がそれを動かしているのか。

初心者さまや皆さまが議論されていた、シニフィアンの暴走の危険性は、私には理解を助ける大きなヒントになりました。今のゴタゴタの原因の理解もそうと言えます。
ただの言語学の迷い、とは受け取れなかったのですね。

「真理を求めて迷っている人」には、今は、この信の部分、理の部分、両方を知る必要は、あると思います。
そして、信とは、何か、理とは何か、この本質も見分けることは、大変重要だと思います。


復興Gさま、いつも、適切なご指摘で、大変勉強させて頂いています。

言葉、にすれば、全ては相対化されてしまうのでしょうか。
やはり、信仰の部分は、言葉ではなく、自分の内の信を実行し、そこにできる道、しか、示すものがないという気も改めていたしました。


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