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立ち話・雑談スレッド

1副管理人Z★:2010/11/25(木) 22:35:03
特にテーマを絞らないフリートークのスレッドです。

127エキストラオ:2011/01/16(日) 20:36:50
★日蓮大聖人の教えは『人間主義ではないですよ』

★日蓮大聖人の教えは人間主義ではありません』

★現代に『人間主義』と云う都合のよい言葉を当て嵌めたい

という人間が居るだけでしょう。

日蓮大聖人と 人間主義・・まったく無関係です。

/////////////////////////////////////////////////////////////////////

128堅皇:2011/01/16(日) 22:41:00
>>エキストラオさん

確かに仏法は人間が作ったものではありますが
『人間主義』って事ではないとは僕も思いますね。
また仏法とは価値創造にありとの考えも違うと思います。

何れにせよ創価学会は仏法を何らかの目的のため利用しようとしたと言うのが始まりって事ですかね。

129釈子・創価門流:2011/01/16(日) 23:32:58
「大日本皇道立教会」ですか。
  久しぶりに聞きましたね。
確か、日蓮正宗の人々が創価学会員に変わって、反論提起していた事を思い出しました。

 確か、戸田第二代会長が時習館の生徒?に「南朝の正統」を話した事を何かの書籍で見た記憶がございます。
ただ、その内容は「楠正成」を正しいと思えばという内容だったかなと。

130堅皇:2011/01/17(月) 14:46:29
>>釈子・創価門流さん

お久しぶりです。
僕は釈子・創価門流さんにはいろいろとお伺いしたい事はあるんですけどね。
で、その際たるものが釈子・創価門流さんが何故に創価に拘るかと言う点ですね。

あちらでは僕の発言を「板を汚す」と表現されましたから退去させていただきましたが
どのみちアクセス禁止や制限が頻繁にあるところはあまり好きではないと言うのもあります。

創価思想は僕は仏法ではないと思っているんですね。
もっとも諸法実相という観点から入り口は仏法でなくてはいけないという拘りはないのですが
自らが実相だと名乗った時点で法華経を第一と捉える事ではなくなり
また法華経を捨てているとも思えます。

もっとも題目が法華経の題目ではなく法華経とは釈迦の法華経と捉え
捨て去りなさいと言うのが日寛教義ですから
その時点で題目が法華経の題目では無くなってしまって
法華経を捨て去っている行為だともいえるんですけどね。

131釈子・創価門流:2011/01/17(月) 18:23:38
>>130
堅皇さん

・ではなく法華経とは釈迦の法華経と捉え捨て去りなさいと言うのが日寛教義
⇒日蓮正宗の「日蓮本仏論」は、本仏・釈迦牟尼仏の垂迹として存在する「本仏・日蓮」なんですね。
  「捨て去る」の意味が違うと私は考察します。
・創価思想は僕は仏法ではないと思っているんですね
⇒訳経僧 鳩摩羅什が『法華経』を『妙法蓮華経』八巻として訳し、その『妙法蓮華経』の訳し方が"正しい"と言う論理に立ち、
  日蓮大聖人は、天台大師・妙楽大師などの釈を基にし、己流の解釈をした訳です。
 創価学会の三代会長諸師が、その教えを基にし、己流の解釈及び論を以って成り立つのが「創価思想」であると私は考察します。
  なので、「仏法ではない」と言う意・論は堅皇氏が思ってる分には、よいのではと。

132堅皇:2011/01/17(月) 23:19:00
>>釈子・創価門流さん

> 訳経僧 鳩摩羅什が『法華経』を『妙法蓮華経』八巻として訳し、その『妙法蓮華経』の訳し方が"正しい"と言う論理に立ち、
> 日蓮大聖人は、天台大師・妙楽大師などの釈を基にし、己流の解釈をした訳です。

これはその通りですね。
純然たる釈迦の教説のみを仏法と名づけるならば日蓮の南無妙法蓮華経は仏法ではありませんね。
それ以前に法華経が歴史上の釈迦の説法ではないとすれば
これもまた仏法と呼ばれる物ではありませんから。
事実、法華経を語るにはあまりにもヒンズー教の影響を否定せざるものでも有りますから。
それ以前の釈迦が説いたとされる仏法もその影響下を避ける事はできませんからね。

その理を持ってすれば僕が考える創価思想は仏法に当たらないのではと言うとは的を外していますね。
創価思想は単に西洋の人文主義を取り入れているだけであり
仏法自体が人文主義から成り立っているわけですから創価思想も立派に仏法と呼ばれるものかもしれません。

ただそれでは『法華経』とはなんなのかと言う話になりますね。
釈子・創価門流さんの中では日寛教義の様に
釈迦が説いたとされる法華経と日蓮の南無妙法蓮華経は別の法門であるというお考えなのでしょうか?

僕は日蓮が唱えた題目とはまさしく法華経の題目の事を指していると思っています。
つまり釈迦の法華経だの天台・妙楽の法華経といった立て訳があるとは考えておりません。
法華経と理が異なる時点でそれはもう法華経と呼べるものではないと思っています。

ではその法華経の理とは何かと言うことですが
それは諸法実相であり本因妙ではない、久遠実成であり久遠元初ではないと言う事だと思います。
理が異なる時点でそれはもう法華経とは呼べなくこれを蔑ろにする事で
法華経をいくら用いてもそれは真言宗と同様に法華経を盗んでいるものと考えています。

釈子・創価門流さんの中での法華経の定義があればそれをお聞かせいただきたいです。

133釈子・創価門流:2011/01/17(月) 23:58:10
堅皇さん

⇒『妙法蓮華経』の釈を、天台大師・妙楽大師などがされ、更に、その「釈」を用いたり・用いなかったりしながら
日蓮大聖人が現して行く。
 原版→訳経僧 鳩摩羅什→大乗人師・論師→日蓮大聖人と「釈」がされ、「法華経」が幾つものフィルターを通り、今の私たちに届いている。
「定義」と言うのは何でしょうか?
 記した一連の流れの中で生まれた解釈が「法華経の定義」と捉えるか・捉えないかです。

 「法華経と理が異なる時点でそれはもう法華経と呼べるものではないと思っています」←御自身で選ばれては?

134釈子・創価門流:2011/01/18(火) 00:08:32
>>127
エキストラオさん

・★日蓮大聖人
⇒「日蓮大聖人」とは、富士門流の方ですか?
 何処の宗団ですか?
  立ち位置如何で、お答え方を変えてようかなと思いまして。

135堅皇:2011/01/18(火) 00:32:36
なるほどですね。

その中で創価思想が法華経と中枢であるとのご判断なのですかね。

僕は日蓮が言うように法華経の肝は方便品を経ての寿量品にあると思うので選んでいるわけです。

それは方便の必要性
「諸法実相」実相とは諸々の法の中に存在していると言う事。
また、諸々の法とはそれぞれ方便であると言う事。
「久遠実成」釈迦が仏とは言ってもインドにおいてはじめて悟りを得た始成正覚ではない。
つまりは仏とは突然世に現れたものではないと言う事。

これだけに置いても物凄く素晴らしい考えだと思っていますから。
この考えを中心に据えるだけで全ての法や思想を取り入れることが出来ますからね。

そうすればキリスト教やイスラム教の思想ですら取り入れることが可能ですからね。
それぞれの思想が単独の実相ではなく、全てが仏に導くための方便であると捉えたら。
また、それぞれの思想の整合性の中に実相があると互いに捉えればそこからは戦争は生まれませんから。

戦争が生まれるのは自分たちの教えこそが実相であり唯一の正義であると捉えるから争いが起きるわけですからね。

また、それぞれの神と呼ばれる存在もその時突然現れたというものではなく
「久遠実成」と捉える事によりいわゆる世を司る神や御本仏と言った存在がなくなりますからね。

僕はもう仏法だけに拘るつもりも無いのですが
世界各国のあらゆる思想、宗教の中にこの法華経と同様の理にたどり着いた思想と言うものがあるのかなと考えます。
少なくとも仏法内、日本国内に置いて法華経より優れた法は無いのではと思って
法華経の題目を信じて唱えているわけなのですが。

136堅皇:2011/01/18(火) 00:48:57
ですから僕の中ではあるゆる思想の持ち主であっても僕にとっての敵と言う概念は無いんですね。
あらゆる考え方は自身の目的である実相に到達すべき上での方便であると捉えていますから。

学会員さんであれ日蓮正宗を信じておられる方でも敵ではありません。
ただ、自身の考えこそが万民に通じる実相であると押し付けてくる人たちには
違うのではないかと言う必要はありますけどね。

日蓮の行った折伏と言うのもこのような感覚だったのではないかと思います。

ともかく日蓮正宗も創価学会も日蓮が本仏だとか我々が唯一の正義であるとか言っている時点で
法華経を捨てているのではないかと思っているわけですね。

僕の考えはまーそんな感じと言うことです。

137エキストラオ:2011/01/18(火) 11:00:38
★わたしは 日蓮正宗の信者ですから・・・

結論として楠の板で 成っている御戒壇様をそのまま 人法一個の

本佛 日蓮大聖人と信仰しています。  ここから外れることは

ありません。法華経の捉え方は 究極ここに、極まるわけです。

信じる人とそうではない人々の間には 縁というものがありますから

強く曳かされる側に 系統していくのは当然でしょう。とにかく

縁の問題という事になりますよ。ともあれ 如何なる縁にてあっても

最期は強いほうに 曳かされていきますから、とにかく『縁』つまり

『下種』ですね・・日蓮大聖人の題目そのまま末法の法華経に『縁』

した者たちが最期はその法華経の渦に組み込まれていく・・故に・・

順縁なり逆縁なりでも 結構な話であります。  ま・・言ってみれば

一度被爆したものが最期までその影響下に置かれるのだというようなもの

でしょう。・・というように池田大作さんも 最期は帰命の途につかざる

を得ないと思いますから、去るものは追わずというスタンスは定着している

と思いますね。

//////////////////////////////////////////////////////////////でわ。

138エキストラオ:2011/01/18(火) 11:09:34
★電灯の二月じゃなかった・伝統の二月・・折伏じゃなかった・・・
会員勧誘は進まないかも・です。////////////////////////////////////

139堅皇:2011/01/18(火) 13:12:56
>>エキストラオさん

> わたしは 日蓮正宗の信者ですから・・・

学会員さんにしても日蓮正宗の信徒さんにしてもこの辺は関しては
生真面目といえばそうなんでしょうけど
義理堅いと言うべきか日寛さんの「師弟不二精神」と言うべきか
理由が信者だからと言うのはかなり窮屈な思考なのかなとも思いますかね。

もっとも僕の信仰動機も日蓮という人が凄いと思ったからと言うのもあるから人の事は言えないんですけどね。

ただおかげで会長さんがどうとか歴代の法主がどうとかと言う事は
まるっきり最初から眼中に無かったと言う事はありますね。

御戒壇様も人法一個も本佛日蓮大聖人も日蓮の意志とは反していると言うのを感じた段階で
直ぐにこの考えとはサヨナラ出来たという感じではありますね。

ただ、そこまで日蓮と言う人を信じる事が出来た背景には
日蓮正宗の日蓮本仏論があってこその側面があったからかもしれませんし
その部分では自分とっては良い方便となったのかなとは思いますけどね。

ただ今現在の考えとすれば僕は日蓮本仏論は有り得ないと思っています。

140エキストラオ:2011/01/18(火) 19:25:24
★それでいいんじゃないのですかね・・・どう捉えようとも本人の因縁
だと思うし、理屈だけでは人は動きませんからね。心変わりは人間なら
また、いつしか起こり得るわけですし、その時はその時で考えればいい
事でしょう。

いろいろと変わりますからねひとは。
若い頃の考えと・年老いてからの考えは多少なりとも変化していきますよ

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141堅皇:2011/01/18(火) 23:03:31
>>エキストラオさん

どう捉えようが良いですよね、また考えが変わる事があっても。
二世、三世・・・はともかくとして
学会員さんに関しても正宗の方に関しても先祖代々の宗派を捨てて信仰している人が大半ですから。

良いと思ったら良いと思うものを信仰する、信仰は自由ですからね。
「日蓮正宗の信者ですから」と言う理由だけなら
義理やなんかで縛り付けられているような印象を受けて何だか可哀想に思えたのでと言う話です。

特に学会員さんは直ぐにご恩返しと言う事を口にしますけど
先祖に対して改宗する事が恩返しとの判断で今の宗派を選んだのではないかなと思いましてね。

普通に自分自身が納得しているのであれば別段問題はないのですがね。

142エキストラオ:2011/01/19(水) 23:36:54
★学会員がご恩返しというのですか????

でも一番の恩知らずは総か学会員ですよ・・・宗門の軒下を借りる形で入信
してきて 御法主に信伏随従 御戒壇様は究極などと言ってきたわけですから
ね。

単にあの指導者が 御法主の上にはどうしてもなれない・・しかも・
叱られるのがことのほかキライだった・・・

すべては其処から来ているものだとおもいますがね・・・つまり感情
がね・・地獄界の感情がかれの中で爆発してしまった・・・・
・・・という事なのでしょうね・・・解り易く言えば・・・・・・

会員は会員で『ちくしょうめ・おらたちの 親分コケにしやがって』
・・ただ・そのへんの・低次元の判断ですよ。
仏法のなんやらかんやらが解って創価学会に残った人なんかひとりも
いませんよ。

単なる感情論なんです。

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143堅皇:2011/01/20(木) 02:40:56
>>エキストラオさん

てか、僕は第二次宗門問題の際に創価学会に残った訳ですが
その残留理由は正宗には法主の絶対視があったからなんですよ。
正直言えば池田さんと日顕さんがどちらに指導者としてすばらしいかと言う発想はまるで無かったですね。

ホントに日蓮しか興味なかったですから
それでも当時の創価学会は充分アリだったんですけどね。

「白鳥の恩をば黒鳥に報ずべし・聖僧の恩をば凡僧に報ずべし」

とあるわけですから恩返しするとすれば仏法を知らない人であるとか
悩んでいる方に対してですよね。

に対して池田さんにご恩返しとかお守りをとか法主猊下に信伏随従ってのは
池田さんも日顕さんもどんだけ真っ黒い鳥でどんだけ凡僧なのかと思ったりするわけですね。
島流しにあってる話でもなかろうに。

それまでは池田さんや法主の事を上行菩薩の様な役目をする人と好意的解釈していましたが
師弟を前面に出してきたあたりで完全に萎えたと言うところです。
守んなきゃいけない師匠って良く解らないんですね。
そんなに懐が狭くヨボヨボなのかって、こっちはまだまだヨチヨチだってのにさ。

今となっては学会をやめたことによりいろいろと自身で仏法を学ぶ機会が増え
返って良かったというところではありますけどね。

144エキストラオ:2011/01/20(木) 12:21:18
★護んなきゃならない師匠ね・・・たしかにね・・わかんないね・
学会の師弟はね・異常ですよ・・なんの世話にもなってないはずの
人達がね・先生には御恩があるって言うんですよ・・・ねっ・・

確かに千円くらいずつ 小遣い貰った人達は居ますよ・・ピン札でね・
それを後生大事に取っておいて自慢する人がたくさんいますからね・

しかし・中には『なんだこの金だって おらたちが 寄付したものじゃ
ないのかっ』て憤慨していた会員も居たのは事実ですけど・・ね・・・

うちはね・・恩といっても御法主個人そのものに対しての信伏随従ではなく
袈裟衣を着て二乗台にて法要される御法主の信心に対しての信伏ですから・

二乗台から降りた御法主は凡夫僧であるわけ。という筋目の上からのまた
法を司る立場に対して・・・でしょうね。それ以上は個人的な関係のある
人々はそれぞれに 違うでしょ。尊敬の仕方はね。

恩といってもあくまでも『法』が大事だとするところからは逸脱しません
よ。

ところが学会は『人間イケダ大作』に対して これでもかというほどに、
尊敬を強要してますよ。明らかに『依法不依人』から逸脱していますがね
殆んどの人々が『あんなに勲章貰った先生は偉大だ』との理由で個人宣揚
の担い手になっていますよね。

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145エキストラオ:2011/01/20(木) 12:40:53
★堅皇さん・・師弟といっても、 僧の世界は ま言ってみれば
礼儀礼節の世界です。 僧の世界も俗の世界も 基本的には
同じでしょうけどね・///////////////////////////////////////

僧と俗では まったく違う世界ですからね・・・『四恩抄』にある
とおり・俗からみれば、僧に対しての恩は確かにあると 日蓮大
聖人もおおせですからね。

ですから個人的には自分の信心で すべてを拝していけば言い訳で
別に束縛されるなにものもありませんよ。

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146堅皇:2011/01/20(木) 17:03:03
>>エキストラオさん

> 僧の世界も俗の世界も

僧俗の捉え方が変なんじゃないですかね。
創価学会や日蓮正宗には僧俗和合たる変な言葉が蔓延していますがこんな言葉御書に載ってますかね?
俗との対義語は明らかに僧ではなく聖です。
僧は信じるもの全般に当てはまる僧伽の略称ではないですかね。

現代用語では一般に僧と言えば比丘・比丘尼といった出家者を指し
優婆塞・優婆夷と言った在家信者を俗と解釈されているところもありますが
これらを全て含んでの僧伽と言うのが本来の僧の意味だと思われます。

つまり破和合僧と言う場合は僧伽ではない不信者も含めての和合と言う事であると思われます。
日蓮はそもそも僧俗と言う言葉はほとんど用いておりませんね。

用いてないというと御幣がありますので1つ
「当世の僧俗多は人を本として経文を本とせず」てのを上げて見ますが
ここでの僧俗と言うのは俗である僧と言う意味であると思われます。
僧になったからといって直ぐに聖になるわけではないので
日蓮はよく「聖なる僧」とか「俗である僧」と言う表現は良く使われておりますからね。

つまり職業僧侶といえども聖僧か俗僧かは解らないと言う事ですね。
これが法主と言う立場であっても聖であるとは断言できるものではないと僕は考えますね。

特に日蓮正宗の法主は直ぐに総講頭罷免を口にしますので
これは破和合僧の破壊僧であると僕は捉えているという事ですね。

仏法にない文言「僧俗和合」と言う言葉が人を惑わす天魔の働きをしているものと思います。

147堅皇:2011/01/20(木) 17:22:34
> 二乗台から降りた御法主は凡夫僧であるわけ。

その割りきりがあるというのはいいかもしれませんね。
ただ二乗台に乗っているから信伏ってのはね。

もちろん教壇にだった講師の話は真剣に聞くと言う事は悪い事ではないと思いますし
いちいち茶々を入れるのもおかしいと思いますが
教壇に立ったからといって明らかにおかしなことを言えば信伏の必要もないと思います。

1つ宗門側を持ち上げるとすれば池田さんより日顕さんの方が
教学力はあるのではないかと言う事は思いますね。

ただ両者とも伏せているというか隠している事は多いと思います。
仏法における「秘密」と言うものは単に伏せると事ではなく
全てを明るみにして尚且つ解る人には解るといったものであると思います。
「雖近而不見」ってやつですね。

148堅皇:2011/01/20(木) 17:27:51
末端には理解できないであろうと隠し通すのは単なる傲慢だとも思えますね。
すべてを見せても解る人には解る、理解できない人は理解できない。
これが仏法上の「秘密」であり、これが道理ではないかと思いますね。

149エキストラオ:2011/01/20(木) 21:24:29
★日蓮大聖人を敬うとも『悪しく敬う』という事があります。しかし・
そのモノサシは無い。 学会も 我こそ台聖人直結だと言い張ってます
が・やはり・根拠は皆無である。

宮沢賢治も日蓮大聖人を慕ってはいたが、やはり『悪しくうやまう』
部類にはいっているかもしれないし・・

とにもかくにも、ぜんぶの人々が『私はこう思う』という『己義』で
あり、我見であることには 変わりないのですよね。

つまり『わたくしの所見』であるわけですよ。日蓮大聖人本人以外は
全部二人称三人称の立場の人々であるわけだね。だから私はどれ程の
見識を持った人々の言葉も信用しないのですよ。

日蓮大聖人本人以外に『本人の悟り』を共有すべき方途はないからです。
第三者第二者が彼の悟りこころのなかを見る事は『不可能』だからである。

猫があくびをしている。それを見た人が この猫は腹いっぱいで眠く成っ
たので、いまはただ眠る場所を探しているのだ・・・とは・・誰人も
断言できる人はいないのと同じである。

あくまでもこちら・自分の見識からみた判断以上のものではないからね。

隠す隠しているといってもね 日蓮大聖人の得道の方法は境智の二法
だけだしね・・信を持って題目を唱える・・カンタン至極なものだ・・
一切衆生が 救われるには シンプルでないと 一人も救われない事に
なってしまいますしね。 隠したりするほどの 複雑な仏法ならば・
あたしゃ・とっくに・御免蒙りますよ。

///////////////////////////////////////////////////////////////////

150堅皇:2011/01/20(木) 22:54:38
>>エキストラオさん

> 学会も 我こそ大聖人直結だと言い張ってますが・やはり・根拠は皆無である。

これに関して言えば日蓮正宗も同じくですね。
五老僧にしても日興さんにしてもそれはいえます。
二箇相承?
それにしたって根拠は何処にもありませんしこれ自体が日蓮正宗の己義、我見の域を出ていませんね。
故に僕は全部取っ払って考えていきたいわけです。

> 日蓮大聖人本人以外は全部二人称三人称の立場の人々であるわけだね。

もちろんそうですね、しかしヒントは隠されています。
それが日蓮が書いた御書であります。
また御書は諸経を元に書かれています。
ですから諸経を学べはその答えに近づくことが出来るのではないかと言う事です。

> 猫があくびをしている。それを見た人が・・・とは・・誰人も断言できる人はいないのと同じである。

確かにそうなのですが法華経にはそれを解く鍵が記されているという事
それが諸法実相と言う事。
猫があくびをしている瞬間だけを見た人だと答えを導き出す事は難しい。
しかしながらそこに至るまでの多くの確かな目撃者が居たらどうだろう。
更に猫があくびをする様々な条件を知り尽くした専門家が居たらどうだろう。
真実とはいかなくても限りなく真実に近づける答えを見つけることは出来るのではないだろうか。

ただそこで自身の固定観念を抱いたり専門家の声が絶対に正しいと思ってしまったらどうだろうか
真実は遠のいていくのではないかと言う事。

そういう意味で創価学会も日蓮正宗もこの法華経から少し外れた危険な思想であると感じるわけです。

151堅皇:2011/01/20(木) 23:09:44
秘密に関して言えば例えば曼荼羅に書かれている文字が秘密です。
それぞれそこに書かれている意味を理解しないと何故にこれ等の文字なのかと言う謎は解けませんからね。
もちろん謎なんかとかなくても良い、ただ曼荼羅に題目を唱えよというのが日蓮の趣旨ですが
でも理屈が解ればより深く信じる事が出来ますよね。
故に行だけでなく学も同時に推奨され、その両方を持ってして信を得るとの話なのですから。

御書や経文に置いてもこれは言えます。
現実に当て嵌めて、また自身が体験する事により謎が解ける納得するという事柄があると思います。
そういう意味で題目もまた秘密の1つであると言うこと。

題目の文字は誰にも隠してない言葉である
でもその本来の意味と言うものが秘密と言う事であると考えるわけです。

つまる所全てを公表しても解る人にしか解らない話でしょ。
これに対し日蓮正宗の中だけに伝わる秘密、秘伝書と言う類はこれに当たらない。
歴代法主だけが知りえる丸秘事項と言う事でしょ。
これは単に自分たちの権威を守るための道具であるとしか感じられないという話です。

152エキストラオ:2011/01/21(金) 11:00:31
★わたしは 組織の上の層の人々には無関心ですね。彼等がもし・
秘密を持っていたとしてもです。縁の無い者には『無縁』ですから
ね。 自分の手の届く所にあるもの・・それで充分だと考えています。

またそんなものが有っても知りたいとも思わないし知ったところで
無用ではないでしょうかね。

また『理屈が解ればより深く』とは思いませんね。信とは始めから
具わったものですからね。信力の場合色身不二です。

生まれたばかりの赤ん坊が教わる事なく母の乳を吸うのは色身不二
だからです。悪縁多くして基たる信が 偏屈してきますからね。

ここでいう善知識とは本宗から授かった御本尊ですね・私の場合ですが・・
日蓮大聖人は『余念なく』と・・仰せですが多くの人が この『余念』に
左右され翻弄され続けて逝きます。

これが解ったら次が知りたくなる・・これも余念の餓鬼界のあらわれで
しょう。そんな事しているうちに自分の人生は終わってしまいます。

境と智の冥合こそ究極の修行だと思っています。いわく『本地難思』と

天台いわく『本地難思の境智の妙法はしゃくぶつの思慮に及ばず如何に
いわんや菩薩凡夫をや』・・・・と日蓮大聖人もこれをひかれておおせ
ですよね。

私も含めて 末法のすべての人人はこの『しゃくぶつですら思慮できな
いという』ものを 理解したり慮ったり 解説したりはできない・・
と・・言ってるわけですからね。

それにしたがうだけです。それに対向して自分なりの悟りは不可能です
。いわく『不可思議・心行所滅・言語道断』の法ですからね・
ほかにはどうしようもないわけです。

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153エキストラオ:2011/01/21(金) 11:15:52

★日蓮正宗はある意味・ある人々にとっては危険な思想かもしれません。
しかしそれは悪いという同じ意味ではありませんね。毒も使い方によっては
大きな薬になりますからね。

わたしの場合末法の法華経は日蓮大聖人の御戒壇そのまま題目ですからね。
そういう意味では 末法無縁の釈尊の法華経はラーメンのスープくらいの
感覚です。あれば便利だが無くても困るというくらいでしょうか。

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154堅皇:2011/01/21(金) 16:38:16
>>エキストラオさん

> これが解ったら次が知りたくなる・・これも余念の餓鬼界のあらわれで
> しょう。そんな事しているうちに自分の人生は終わってしまいます。

これは確かに的を射てますね。
全てを知り尽くそうと思ったらそれこそ八万法蔵を
習いつくさなければならなくなりますからね。
となると何のため題目を唱えるかって話にもなりますからね。
法華経や諸経の智慧を活かすために唱える題目であるわけですから。

ただ言えるのは創価学会が近頃何だか変だゾと言うのが発端で
また創価学会対日蓮正宗の口論(法論と呼べる物ではない)を見て
なぜなぜみんな題目唱えているのにこんな口汚い論争してるのと思って
その原因を探ったのが切っ掛けみたいなものですから。

疑問がなければもともと御書なんてものは広げたりしませんでしたからね。
あまりにも創価、正宗共におかしいと感じたから自分で調べてみようと思ったわけです。

でもっておかしいと思える箇所をおかしいでしょと言ったところで
全く聞く耳を持たない様子ですからね。
信じるって行為は別の方向へ行くともう止めようがないんだなと言うのは感じます。
まさに「宗教はアヘン」なんだと思います。
不幸な状態に陥ってもおそらくそれが気持ちいいんだろうなって。

> 日蓮正宗はある意味・ある人々にとっては危険な思想かもしれません。

その自覚があるのであれば取り敢えずは大丈夫なんだと思います。
エキストラオさんは意外と割り切っている部分も多く見受けられるんで。

ただあえて言わせていただくと創価がおかしい事も去ることながら正宗も同様におかしいと思いますけどね僕は。

155エキストラオ:2011/01/21(金) 17:20:36

★おかしいところを おかしいと言ったところで〜〜

一緒に共感してくれというなら・お付き合いもしますがね・・
ほんとはね・・そうだそうだそのとおりだと・言ってもはじまり
ませんからね・・

私の場合・・『臨終只今にあり』と題目を唱えることに尽きます。
日蓮大聖人は『臨終の時を待って御覧ぜよ』と おおせになり・
信仰の究極は臨終ですよ。 

まず仏法を学せんものは臨終を先に学すべしと・・台聖人様も、
おおせですからね・・ 若い者が いや俺はまだ若いから先で
いいわ・という問題ではありません。ね。

学会の指導者も現在では高齢者所在不明のようですし・・
いくら・勲章貰っても 最期だけは誤魔化せませんからね・・
これは臨終只今という 覚悟の信心を積み重ねていかなければ
ジタバタしますからね・・だれでも。若い者ほど あがくらし
いですよ。

オレの最期はこんなはずじゃなかったと・・・・・・

/////////////////////////////////////////////////////////////////

156堅皇:2011/01/21(金) 22:23:02
>>エキストラオさん

ちゅうか臨終が最後だと思っているからジタバタするんですよ。
仏法は三世を顕し無始無終といくども言ってるんですけどね。
終わりがないと言うなら焦る必要はないと思うんですけどね。

現在所在不明の高齢者さんですが物凄く現世に対する執着が強いですね。
もちろんそれ自体は悪い事ではないですけど
今世を精一杯生きるという観点では。

ただ何かが違うと思いましたね、学会の葬式に出て彼の出したとされる弔電を聞く限りでは。
単に迫り来る死が怖いという印象は受けましたね。

僕は思うんですが人間はどう死ぬかを考えるよりどう生きるかを考える方が建設的だと思いますね。
仮にそこで死が訪れても納得行く人生を過せるのではないかと思います。

素晴らしき臨終と言う事に力点を置くということは何処となく念仏思想の匂いがするんですね。
明日死んでも満足だという思いで毎日生きていけばそれで構わないと思います。
もちろん如説修行は大切な事なのですがそれは何のためであるかと言う事。

臨終時や来世を目的に考えるという事は違うんじゃないかなと思っています。
もっとも今身を潜めている指導者さんの様な現世欲ともまた違う
特に会員が考えている日顕さんとのご長寿対決と言う事自体が
物凄く不毛さを感じられずにはいられないんですね。

157エキストラオ:2011/01/22(土) 21:19:55

★長寿対決ね・初めて聞きましたね・・日蓮大聖人は臨終を学ぶというのは
一番最初に持ってきていますね。それを深く学ぶ事は 質の高い生き方・・
つまり菩薩行ができるということです。京阪君のように『オレはこういう立場
で頑張ってるんだ・それも先生のおかげだあ〜』みたいな人生に『価値』は
まったくありませんがね。

ですからどう死ぬかという事ではなく 衆生所遊楽の行き着くところが・
臨終のすがたでなければいけない。

ところで日蓮大聖人はなんと言っているのか? 結局は『一切衆生南無妙法蓮華
経と我も唱え他をも勧めんこしこそ今生人界のおもひでなるべき』とおおせの
とおりですよ。つまり題目行と折伏行以外は『無益なり』の教えのままです。

ですから臨終は最期だとおもうのではなく 生のはじまりと捉えるから・
一番大事な 継ぎ目の節にあたるわけです。

ともあれ・学会の指導者は とりわけ臆病でしたから、今頃 音沙汰がな
いと言う事は・相当に ジタバタしているのではないかと容易に想像が・
つきますね。

とりわけ私は日蓮大聖人がそうしろと仰せですから そのとおりにしていく
だけですね。『臨終ただいまにありとさとりて〜〜』ですよ。ほかの誰でも
なく日蓮大聖人様の教えですから。

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158堅皇:2011/01/23(日) 01:24:16
>>エキストラオさん

> ところで日蓮大聖人はなんと言っているのか? 結局は『一切衆生南無妙法蓮華
> 経と我も唱え他をも勧めんこしこそ今生人界のおもひでなるべき』とおおせの
> とおりですよ。つまり題目行と折伏行以外は『無益なり』の教えのままです。

つまるところ創価と正宗の違いって何処にあると思います?
どちらも上の条件には当てはまってますからね。
正宗の方たちはその理由がニセ曼荼羅にあると判断されているようですが
僕はその見解が違います。

僕が考える理由はご祈念文(ご観念文)にあると思っています。
学会が現在のご祈念文になったのは2004年です。
この年を境に学会の情勢は激変してますね。
会員数の減少や一般的に確かめやすいのは公明党の投票数の低下ですかね。
それより何より組織内の雰囲気が変わってきて、気持ち悪いくらいの池田さん中心の組織へと変貌してきています。
本尊に問題があるのであればこの波が1990年以降に来るはずですが
この時の創価学会は完全に上り調子でありその片鱗は見えません。
ですから僕は問題は曼荼羅にはないと考えています。

159エキストラオ:2011/01/23(日) 17:26:59

★なるほどね・・・私は『感応妙の原理』により いくら精巧に創られた
ニセ物本尊でも やはりニセ物を拝めば ニセ物の感応妙に応じて 現在の
ような 例えば京阪君のような 偏頗な人間が出来上がっていくのだと、
思っています。

また観念文に問題ありとする考えかたは 確かにあるとは思いますが、やはり
対境となる本尊から影響を受けることは間違いありません。

池田大作氏の ごく最近の表情は 如是相との方便品に有る如く みられた
相ではありませんね。二度と見たくないほどの激変ぶりは館内から『うおー
ーーっ』と どよめきが立つくらいに衝撃的です。

ですからもう二度と 以前のようなスタイルで 会員の前に登場することは
出来ないでしょうね。この人の生き方はそっくりそのまま・生きてきたよう
にしか 死ねないでしょう。   おわかりですね。

非情に哀れではないでしょうか。公明党の総得票数から 会員数の激減は、
目を覆うばかりですが、これとて 隠しようがありませんしね。ですから
この会に対して 目を剥くほどの事は もはや ありませんよ。自然消滅
の道を突っ走ってますからね。

もはや会員の御観念文は 感謝しまぁ〜〜すぅ・・から 先生の御健康に
集中しているらしいですが・誠に 滑稽な話です。

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160堅皇:2011/01/24(月) 00:56:06
>>エキストラオさん

> 対境となる本尊
本尊が対境と言う事ですか。
悪いけどこの考えは日寛教義になるので僕は信じません。

で、対境って事は本尊と境地冥合すると言う話ですね。
これって真言曼荼羅の理ではないですかね。
対する日蓮の曼荼羅は法華経の虚空会の付嘱の儀式を表現したものだと思われます。
衆生が仏と一体となるのではなくあくまでも智慧を授けると言うものであります。

つまり衆生が仏となる概念が既に真言と法華経では違うんですね。
仏とは仏と境地冥合する事ではなく法という智慧を得て仏に成るということですね。
この時点で真言は仏法の理から外れていると思いますし法華経は理にかなっている。
つまり日寛さんは日蓮の法華曼荼羅を真言曼荼羅の理を説いている事になるかと思います。

この「対境となる本尊」と言う考え方が一子相伝というか法水瀉瓶と言った思想を生み
曼荼羅は法主しか書写する事はできないと言う考えになったのだと思います。
というか曼荼羅書写が法主だけとなったのは何時頃からなのでしょうか
少なくとも日興さんや日目さんの時代ではまだそんなルールもありませんでしたし。
ともかく「対境となる本尊」という理は真言の曼荼羅の理だと思います。

ちなみに対境を対鏡と言い出したのは創価学会ですかね。
対鏡なんて言葉は仏法にはありませんしこれは翻って自分が仏と言う事ですかね。
となればこれは禅の理に近い気がします。

ともかく僕は法はあくまで法であると捉えていますのでオカルトではなく理論的に考えていきたいわけです。
法主が書くから効果があるという考えはあまりにもオカルト過ぎると判断しています。

161堅皇:2011/01/24(月) 01:05:40
失礼、
×翻って自分が仏と言う事ですかね。

○翻って自分が本尊と言う事ですかね。

と表現した方が良かったですね。

162エキストラオ:2011/01/24(月) 13:04:40

★大聖人の御本尊は『未曾有』ということであって天台の理とは違うと思います。
自行化他にわたるという点でも相違点はありますよ。

ともあれ『信を以って入る』以上でも以下でもないと思っています。
日蓮大聖人おおせのごとく『事の事を行ずる』ということで 納得しています。

法主が書くからオカルト・という考え方は確かにもっともだと・普通の人々は
考えて当然でしょうね。

『誰が書いた本尊も 全てがまったく同じもの』というかんがえが 変化しまし
た。本や手紙のように単なる書いてある内容がわかればよいという 利便的な、
利用としてのものならば 確かにそれでいいものと考えます。しかし本尊と成る
と 単なる書いてある文字によって人生の未知の部分の影響も受けるかもしれな
いという懸念があります。今の我々の感覚からすれば 未知の影響は殆んど・解明
されてないことだらけです。そこの部分に焦点を当てて考えるときに。

未だ 世間の人々は知っているとは思えない 最先端の科学からの報告が私の
アテンションを捉えました。それは量子物理学の話になり 甚だ僭越ではあります
が、『量子物理学の未解明の分野のひとつに量子エンタングルメントという
性質があります。』  これは電子や光子という原子内粒子同士が一度接触すると
其の後 どれだけ離れても〔何億光年の隔たりがあっても〕その粒子同士は、認識
し合い影響〔afect〕を 互いに及ぼすという〔behave〕振る舞いが発見された事で
す。

こういう次元の問題は今後の量子物理学がさらに発展していくことにより、
『本因下種』というのは とらえどころの無いものから 手の届く 見える形の佛の
『諸仏智慧甚々無量』の一端が垣間見えてくるのです。いってみれば・今の
創価の皆さんに此の事を説明するのは 『江戸時代の人々に特殊相対性理論を説明する
のと同じくらいに無謀な事』は・私は知悉しています。

ここで お分かりのように 同じ物を創るといってもその物質に接触した人物の十界十如
一念三千の情報の全てが創られたものとの共有情報を同一にするということです。
これを『量子エンタングルメント』〔非局在性〕と呼ばれています。

これをここで 発表するのは 堅皇さんがあえて創価から出られたというある意味の
『求道者』であるという理由だからです。もちろん創価のみなさんには・
『驚天動地』であり かかわりたくない事実である事は知悉しているので・
あしからず。

とにかく・700年前の日蓮とは そういった〔relates〕拘りのない人々で
創られた『モノ』には 本物の『日蓮』とは まったく無関係のそういう
『別物の情報の封印された量子で充たされた本尊』ということになり・

それを我々は『魔札』ともいわざるを得ない・・・ということです。

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163エキストラオ:2011/01/24(月) 15:48:36
★つまり法主が帯びている日蓮という量子原子粒子が 書写された御本尊に大きく影響
している・・・

他人が書いたものはあくまで他人の情報原子粒子光子量子の分配によって
振る舞いが成される・・・ということです。

もしも麻原彰晃が本尊書写したとしても それは『同じものでなく』
麻原の量子原子粒子に その本尊はAFECTINGされるということだ・・

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164堅皇:2011/01/24(月) 17:49:51
>>エキストラオさん

完全に法華経や日蓮を捨てて日寛教の信者さんと言うところですね。
学会員さんも同じですが
本因妙とか独一本門の義は念仏の「横超の誓願」の理を知れば同じだと言う事が解るんですけどね。
日寛さんの曼荼羅の解釈は先に示した通り真言曼荼羅の理と同義。
ちょっと法華経を読んで他宗と比較すれば直ぐに解るんですけどね。

そりもそのはず正宗系の方々は御観念文で毎日歴代法主の言ってる事が真実だと祈願してますからね。
この凝り固まった思想から離れられるわけがない。
全ての正宗系の独善性、異常性は全てこの御観念文によるもので説明が付く。

さて、それぞれの御観念文の意義は日蓮は何処で説いているでしょうか。
その殆どが真蹟から外れたものであったり日寛教義を基にしたもの。
そもそも勤行の意義とは何か

月水御書にはこうある。
「されば常の御所作には方便品の長行と寿量品の長行とを習い読ませ給い候へ、」と

"習い"読ませ給い候へとある訳ですから現在の様に暗に音読すればよいと言う事ではない。
暗に音読するのは南無妙法蓮華経と言う題目に関してです。
完全に日寛教学による話のすり替えですね。

暗に音読した後に法華経から外れた「歴代法主真教」の教義を観念し続ければ否が応でもおかしくなりますよ。
法華経と言う経典を理解して良くよく読めばは暗に信じるための理論が書かれた経典です。
この法華経を読んだ後におかしな御観念文を読めば簡単に「歴代法主真教」や「池田真教」ってものが出来上がると言う話ですね。

165堅皇:2011/01/24(月) 17:56:21
ちなみに麻原彰晃が本尊書写しても本尊にはなりますよ。
それは犯罪者である数学者が顕した数式も理にかなっているものであれば
立派に数式としての意義がなせると言う事です。

数式が合っているのに犯罪者だと間違った答えが導き出されると言うのであれば
それはもうオカルト以外なんでもないという話です。

逆に言えばどれだけ良い人が話した事でも全て正しいとは言い切れないと言う話ですね。

166エキストラオ:2011/01/24(月) 20:24:37

★同様に 堅皇さんの考えも全て正しいとは言い切れないという話しです。

そのように『凡夫たる人の 語ることは全て 正しくはない』という大前提で

私の受け止めは成り立っています。ので悪しからず。

犯罪者の数式に叶っている・・と云う意味と私の 先ほどの話は 噛みあいませんね。

という事で 無理に理解は求めません。人には得て不得手があるのは・

当然ですからね。

要するに『成仏を願わなくても学問として仏教はまなべます』からね。

肩肘はらずに 気軽に行きましょう。オカルトで結構ではありませんか。

オカルトではダメだという前提で話しをするとそういう事になりますね。

いのちの問題ですからね・既成の答えは不要なんです。求めているものが

ある者にとってオカルトだった・ようだった・・これもありですよ。

肯定・否定だけのモノサシでは計れないものもありますからね。

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167エキストラオ:2011/01/24(月) 20:29:00

★量子物理学のはなしを堅皇さんにしたのは 間違いでした。済みませんが
無かった事にしてください。  現証にはしかず・・でした。
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168堅皇:2011/01/24(月) 21:03:48
>>エキストラオさん

別に僕の話を信じて欲しいと言う気持ちはないですね。
逆に僕の話を鵜呑みにされても困りますからね。

そうではなく誰それの話に固執することはないのではないかと言う話です。
それが法華経が教えてくれた真実である諸法実相ですからね。

それに対して学会は池田さん一人に固執しているし
日蓮正宗は日蓮正宗で歴代法主と言う人たちの考えだけに固執している。
これが問題ではないかと言ってるわけですね。

それもこれも基本に置いて考えている教学が
日蓮でもなく法華経でもなく日寛さんにあるからではないですかと言ってるわけですね。

169エキストラオ:2011/01/24(月) 21:21:26

★ 堅皇さんにとってそれは大事な事なのでしょうけれども・私にとっては
別に大した問題ではないのです。 悪しからず。

ただ・歴代法主が替わるので、なにか特別な問題でもない限り安泰ですよ。
令法久住という観点からいえばね・・

しかし・池田さん一人に固執というのは 問題がありますよ・世襲とか
外の方法で 権力の引継ぎをしていかないと 後々大きな禍根を組織が
遺すことになりますからね。

それを承知で 今まで池田氏ただ一人のお山の大将に甘んじて来てしま
ったのは・あそこの体質がそうだからでしょう。
どのみち成るようにしかならないんだからね・・じっと静観もこれまた
いいのではないかといった具合ですね。

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170堅皇:2011/01/24(月) 21:54:05
>>エキストラオさん

考え方の違いや信じるものが違う事に関してとやかく言うつもりはないですから。
これは信教の自由の範疇です。

ですから正宗の方が歴代法主を信じたいんだとか
学会の方が池田さんこそが信心の根本だと言う事に対して無理にやめさせるような無粋な事は考えません。

ただ一応に正宗も創価も根本が日蓮だの法華経だのと主張してくるから困るんです。
君たちの信じているものは日蓮でも法華経でもなく歴代法主や池田さんだって思想だってね。

どっちが日蓮の思想に近いかと言う討論の場で日寛さんと言った人の言葉を交えるのがどうかしていると思うわけですね。
ともすれば正宗側も戸田さんや過去の池田さんの言葉なんかも用いてくる。
これだと確かに創価学会と言う組織の思想の矛盾点は付けるが
自身の正当性の証明には成り得ませんからね。

こんなやり取りを終始やりつくしているので創価と正宗の討論は見てて不毛だと感じるわけです。

ハッキリと双方「歴代法主真教」や「池田真教」だと言ってくれるとスッキリするんですけどね。

171エキストラオ:2011/01/24(月) 23:48:00

★まあ・それは無理でしょうね。文部省届けがそう出ていますからね・

面倒でしょう。信徒たちは・ほぼ御戒壇様を信仰しているわけですから

学会の言うように御法主を拝むなんてことはありませんからね。もともと

御戒壇さま・・で・・通ってきた宗派です。堅皇さんがどうしてもスッキリ

したいというのなら、掛け合ってあげてもいいですが、おそらく門前払い

になるのがオチでしょう。根本は御戒壇様・・これだけのことです。

私はね。 ある意味で・学会が題目根本・御書根本と謂いますがこれは・

根本の乱用でしょう。そんなに根本ばっかりあるから迷ってしまうわけ

です。////////////////////////////////////////////////////////////

172堅皇:2011/01/25(火) 01:00:27
>>エキストラオさん

> 掛け合ってあげてもいいですが

の言葉だけでも、なかなか僕の趣意を捉えていて頂いているものと思います。
つまるところ法華経の根本である題目と言うのが
本当に御戒壇様を信仰する事なのか?と言う事なのですから。
これを言ってるのはどう考えても日蓮ではなく日寛さんって人だろと言う話です。

ですから学会が正宗とはなれたことに関しては何も不満もなければ不信もなかった。
ただ離れてみて解った事は学会は法華経の題目を根本にしようとしているのではなく
単に法華経の題目を使って池田さんと言う人物を根本にしようとして
組織を大きくしようとしているだけなのではないかと思って組織から退会させていただいたわけですね。

組織のリーダーなんていうものは正直誰がやっても構いません
そんなものなりたい人がなればいいのではないかと言うのが僕の考えです。

正宗教義には日蓮の思想にはない唯一人の人、唯一つの物を重んじる思想があります。
つまるところ池田さんはこの部分に蜜を感じたんだと今は思いますね。
おそらく池田さんは第一次宗門問題の時点で同じように日寛教学の誤りに気が付いた。
でもそこで改革を訴えると師匠の戸田さんの思想を否定する事になる。
そこで逆に利用してやろうと考えたのだと思います。

本尊模刻問題はハッキリ言って池田さんの確信的行動で正宗の識ある上層部も
あれ自体が本尊と成りえることも充分に承知の上だと思っているとも推察できますね。
あのままでいたら法主以外が作った曼荼羅でも充分に本尊と成りえる証明になってしまっていたからですね。
学会が第二次以降直ぐに曼荼羅の制作に踏み切れた事も納得出来る話です。
つまるところ正宗は学会本尊をニセモノと揶揄してますが識ある上層部はこれをニセモノとは認識していないと思いますね。

173堅皇:2011/01/25(火) 01:08:52
単純に言ってしまえば日寛教義がそもそも日蓮の本義ではないと言う事ぐらい
学会上層部も正宗上層部も完全に周知の事実で直接話をするならば何を今更と言う話でしょう。

知らないのは一般学会員と未だに御戒壇様を信じている法華講さんぐらい。
上の考えている事は日寛教義をどう自分たちが利用し会員を丸め込めるかぐらいでしょう。

上手く丸め込む事ができれば後は兵隊達が存分に戦ってくれるという感じですかね。

174エキストラオ:2011/01/25(火) 10:16:45

★いいですね・・・それでもいいんですよ。キセルみたいなもんでも・・

1222年出現の日蓮大聖人と1900年代生まれの私が いればそれでいいん

です。その間取り次ぐのはすべて凡夫ですからね・それをとやかく云っても

無意味でしょうね。

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175エキストラオ:2011/01/25(火) 15:22:43

★うまく丸め込むというのは・なかなかいいものです。私も学会員を

丸め込んで 法華講に 帰命させる・・これはなかなかの快感です。

その元学会員が あんな所からぬけられて本当に良かった・・・・・

と・体験発表させる所までくると・なかなか気分のいいものです。

本人も喜び・丸め込んだ私も喜ぶ・・利他ですね。これは・

本当の意味での価値創造ですよ。 いまの創価学会にはないもの

ですね。

//////////////////////////////////////////////////////////////////

176エキストラオ:2011/01/25(火) 15:29:31

★つまり広宣流布といっても 大多数の人々を うまく丸め込む
ということですから・ ただ『丸め込む』という言葉の響きが・
ニュアンス的に 良くない様な気もしますが・私は気にしません
ね。

日蓮正宗の教えを信じ込ませて丸め込む・・なんと素晴しいでは
ありませんか。

それを兵隊が勝手にやってくれる・・そして徳を積み・罪障も
消せる・・・ 実に理想的社会の実現です。

/////////////////////////////////////////////////////////////////

ですから 創価も そのうち・日蓮正むねに丸め込まれる世の中になり
ます。  ま・・こんなところですかね。

・・・・・////////////////////////////////////////////////////////

177釈子・創価門流:2011/01/25(火) 18:23:21
>>176
パッチワーク板マンダラ、相伝書パクリ、本仏デッチアゲ・・・
「日蓮正むねに丸め込まれる世の中になり」←なる訳ない(爆笑)

178堅皇:2011/01/25(火) 20:27:33
残念ながら正宗教学の基本ベースは謗法厳禁ルールの中で成り立っていますから
丸め込める範囲は内部の人間に限ると言う事ですね。
つまり自分の組織のトップに対しては絶対侍従関係で通じるけど
一旦袂を別れた相手に対してはそれはもう敵でしかなくなります。

丸め込むどころか待っているのは争いしか起きませんね。
兵隊同士が相手の兵士と戦う事しか考えることが出来なくなる。
この戦いは自分が朽ち果てるまで終わりはないですね。

179堅皇:2011/01/25(火) 20:43:40
> パッチワーク板マンダラ、相伝書パクリ、本仏デッチアゲ・・・

これがそのまま日蓮正宗の歴史ですからね。
自身の崇める御戒壇様が既にパッチワーク板曼荼羅ですから

パッチワークでも充分に本尊として成り得ることを既に学習していますからね。
これがばれてしまうと御戒壇様の権威も何も崩れちゃいますからね。
だから学会版の曼荼羅をニセモノと警告しているだけですよ。

パクリ、デッチアゲも常用手段。

これは日蓮正宗内では常識な話。
知らずにニセモノと騒ぎ立てるのは兵隊信者だけと言う話ですね。
日顕さんも池田さん同様、宗内の洗脳能力に長けていると思いますよ。

180エキストラオ:2011/01/25(火) 23:39:02

★ええ・・それでいいんです。そこへ行けば御戒壇様がおられる。
充分ですよね。

ただ・考えかたの違う人間は山ほどいますからね・・そう・一億人いれば
一億人・全部が考えかた微妙にちがいますからのぉ〜。

所詮は 同じくなるのはなにひとつありませんよ。世界が一つに・・・
ええ・絶対あり得ないことですからね。

パッチワーク・あれね・芸術ですよ・・素晴しいです。パッチワークの
先生を知っていますが感動しました。独自の世界があります。

ええ・・プライドはそれぞれにあるようですね。洗脳する人が居る・
つまり洗脳される人も居なくてはならないのですよ。 芝居ですからね
そのどちらも演じられるようで有れば結構人生は楽しいですよ。

ええ・お芝居ですね・・ここに登場してくる人物・それぞれが役者です
ね・・いい役者ですよ・・・成り切ってますからね。それぞれが仮諦の
すがたですからね。

到達点などというものは存在しませんよ・・写真のように停止した広宣
流布のすがたなんていうものもありませんよ。誰が決めるのでしょうか

此処に居る登場人物の全てが やがて・近い将来死に絶えていきますが
なにも残せませんし残りませんね。それを不毛ということも出来ますが
不毛=悪い事じゃない。しね。

あたしゃ 毎日が歓喜の中の大歓喜ですね・不思議と。なんにも不満は
無いしね・・イッパシのミニ指導者面した人観察してるのも楽しいです
よ。信心とは 『文句をあげつらう事でもなければ グチを言うことで
もありませんからね』

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181堅皇:2011/01/26(水) 00:06:57
エキストラオさんの場合
嘘だ〜〜っと言う話ではないですかね。
それはそれでいいんじゃないのと言うのは基本姿勢ですね。

第三者から見れば互いに自論になる訳ですからね。
御戒壇様がちゃんとパッチワークであると言うことを認識した上で信仰されているわけですから
それはそれで構わないと思います。

> あたしゃ 毎日が歓喜の中の大歓喜ですね

これは結構大事な事だと思います。
ただ歓喜じゃないのに大歓喜だと言い聞かせているとすれば
それはちょっと考え直した方がいいんじゃないですかと言う話ですからね。

それはとても見ていて痛々しい感じがしますからね。
如説修行の中でちゃんと衆生所遊楽を堪能しているかどうかです。
届きもしない衆生所遊楽をただひたすら夢見ての如説修行であれば
少し立ち止まり見つめ直す必要があるのかとは思うだけですから。

182エキストラオ:2011/01/26(水) 15:08:36

★ 御本尊に向かい奉りただ南無妙法蓮華経と唱える・これ以外に遊楽は
ない・・と 日蓮大聖人様は おおせです。

そのとおりです。過去の宿習により 歓喜を観ぜられない人が居るのも
また事実です。ただ強いて 説き聞かす・・化他行も自行も大切ですね。

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183エキストラオ:2011/01/26(水) 19:42:28

★ここの粛某くんてのは・驚くほど ノー天気だね・・・久しぶりに

大爆笑させてもらった・・・・いや・・アリガトアリガト・・・

庶民の苦悩救済だってさ・・・・

はははははははははははははははははははははははははははははははははっ・・

おかしいね。        

//////////////////////////////////////////////////////////////////////

184京阪電車でいこか ◆AIo1qlmVDI:2011/01/29(土) 01:39:52
>>183
「庶民の苦悩救済」を“しない”宗教だと認めたんか。なるほど。

さすが、人の死をもてあそぶ“信徒”(=トラオ氏)の所属する邪教だ。

185副管理人Z:2011/01/30(日) 21:37:23
188 :怖くて名乗れません:2011/01/27(木) 09:10:35
所や能と言っても依、用、化、証といろいろあって難しいです。
正しい使い方をご存知の方おられましたら教えてください。
よろしくお願いします。

186副管理人Z:2011/01/30(日) 21:38:17
189 :堅皇:2011/01/27(木) 11:22:07
>>187 >>188 所依とはそのまま依り所の事ですね。
で、能化とは指導者の事なので師と言う事です。

所化とは所依により得たものを伝えるという感じですね。

これを仏法に置き換えると
所依が法であり能化が仏であると言うこと。

ここで何故に所化が出てくるかといえば法は人がいないと広めれないからですね。
故に「人法共に尊し」と言う事ですね。
しかし人を依り所とはしてはいけないとするのが「依法不依人」
これはご本尊(法)が所依でありご本尊を教えてくれた能化(仏や師などと言った人)を依り所にしてはいけないと言う事ですね。

能証や所証と言うのは証と言う事ですから能証が成仏と言った証(果)であり所証が法として証したもの。

これらを踏まえて仏法とは如何様にして能化(仏)となるかを証した法であり所依となるものと言う事ですね。

しかし仏法では所依となる経文が山の様にある。
では一体どれを所依とするべきかと言う問いに日蓮はそれは法華経であると言ったわけです。

何故所依とすべき経文が法華経なのかといえば法華経のみが真実を明かしているからだと。
ではその真実とは何かといえばそれは「諸法実相」であると。
諸法がそのまま所依であり実相が能化と言う事ですね。

つまり法華経では所依を単なる法華経のみではなく諸法(一切の法門)が所依であるとしたからですね。
また日蓮は本因となる諸法が九界からなり本果である実相が仏界であるとも言っている訳で
ここで「九界即仏界」「煩悩即菩提」が成り立っているわけですね。
故に一切の法や人は決して捨ててはいけない、その全てが仏に成るための本因であるからだと言っている訳です。

187副管理人Z:2011/01/30(日) 21:39:07
190 :エキストラオ:2011/01/27(木) 13:39:53

★その本因たる 本化第一番の行法を 御戒壇様だったと いう事で
我々は信仰している訳です。 いやそれを 事もあろうに池田君は・
捨閉閣倣としてしまった訳です。

しかし有り難くも『金剛宝器戒』により・本因妙を一度下種されたが
最期 成仏の佛因は植えられたので・最期は救済されます。

有り難い事でございます。 合掌・・なむなむ ちぃ〜〜〜〜ん。

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188副管理人Z:2011/01/30(日) 21:39:43
191 :堅皇:2011/01/27(木) 16:33:18
>>エキストラオさん

> その本因たる本化第一番の行法を御戒壇様いう事で我々は信仰している訳です。

故に日蓮正宗は法華経を捨てたと言わざるを得ませんね。
法華経では所依となる本因は諸法だといってます。
諸法とは言うまでもなく釈迦が説いた八万法蔵の事ですね。

この諸法実相という真実に反しているのが真言と言う事になりますね。
真言はこの諸法実相を捨てて真言こそが実相だとしたわけですから。
つまり真言はこれまで積み上げてきた法を全て捨て去ってしまったわけですから。
対する法華経はあくまで諸法実相ですから法華経を第一に中心に据えれば密教経典に書かれている事も諸法の1つと捉え
法華経に組む入れることが出来るわけですね。

さて、そこで疑問が生じます日蓮も南無妙法蓮華経が本因である「本因妙」と言ったのではないか?
これはつまり南無妙法蓮華経が真言であると言う事で諸法を捨て去ったのではないかと。
また御戒壇様が本因たるものと考えるのは真言と同様なのではないかと。

いやいや「本因妙」たる言葉は日蓮の真蹟には全く残っていないというのが近年の調べで明らかになったこと。
現存するのは日時さんの書写物しかなく確固たる日蓮が書いたとする証拠は残ってないのですね。

そこで日蓮は法華経の諸法実相を否定すべき「本因妙」と言うものを本当に書いたと考えるか?
法華経第一と唱えた日蓮がそんな法華経の理を捨てる事を言うとは到底思えませんね。
故にこの「本因妙」と書かれている「本因妙抄」「百六箇抄」は世間一般で偽書扱いされているわけですね。
創価学会もこれに倣い最近では「本因妙抄」や「百六箇抄」を用いる事はありませんね。

未だにこの真言まがいの「本因妙」を平気で使っているのは日蓮正宗ぐらいです。
「本因妙」は日蓮正宗"だけ"に伝わる秘伝だそうだ、つまりはこの秘伝を使ったときから日蓮正宗は法華経を捨てたという事ですね。

189副管理人Z:2011/01/30(日) 21:40:22
192 :エキストラオ:2011/01/27(木) 17:44:15


★とりもなおさず・正宗は インド応誕の釈尊は 無縁の者くらいの
扱いですよ。ですから釈尊の法華経も日蓮大聖人から見れば・ものの
数ならず・・ですね。もちろん釈尊の法華経も去年のカレンダーくら
いの価値にしか見ていません。

末法の法華経は『御戒壇様』なんです。シンプルですよ・・でなきゃ
一切衆生の救済は不可能ですから。

疑問たら真言たら真蹟たら証拠たら理たらなんとか抄たら・一切不要
なんですよ。 そんなもんに拘りあっていたら・あっという間に人生
終わりますからね。

釈尊の法華経も諸法実相も まったく不要のガラクタですね・当方か
ら見れば・・・ですがね。ですから・ 信心の対象が全く違うという
のは・大変面白いですね。

3000年前の骨董品を撫でさすり大切にしている人々もいていいんです
またそういう方々が居ないとつまりませんからね。でも・ある人々に
は・そういう骨董品は『味噌汁の具』にもならん無価値なものです。

それを価値あるモノとして眺める・・それは自由な世の中なんですか
らね。  いや・有り難いことですよ。

私等流に言えば末法の法華経信仰は 御戒壇様信仰・・法華経を持つ
とは御戒壇様に身口意の三業で信仰する事ですよ。これを法華経を・
持つといいます。

日蓮大聖人様も『受けるは易く持つは難しされば成仏は持つにあり』
と・・実にシンプルですね。何を持つかは 其の人々ごとに違います
それを無理強いしない事です。

二座の御観念文は傑作です。 もう二度とこのような素晴しい御観念
文はつくれないでしょうね。 本地難思ですよ・・しかし・・
その本地を『我も得たり我も得たり』『オレもオレもわかっちゃった
ンだよん』という『タワケ者が末法には頻出することになっています
から』別に驚く事でもないわけです。

本地は『わかっちゃったから秘伝じゃないもん〜』と云う人がたくさ
ん居るわけですね。 いいですね・・しあわせで・といったスタンス
で眺めている人々もまた居るわけです。

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190副管理人Z:2011/01/30(日) 21:41:07
193 :しげきょん:2011/01/27(木) 19:13:12
坊さん丸儲けを許す体質の宗門とは違う創価学会です
坊さんの日蓮学はうまいようにて供養餓鬼の非難をかわすものです


194 :しげきょん:2011/01/27(木) 19:24:22
日蓮正宗は日蓮もどきもどきのくせに本物ぶるな!

191副管理人Z:2011/01/30(日) 21:41:44
195 :堅皇:2011/01/27(木) 21:34:04
>>エキストラオさん

シンプルなのは良いんだけどその「御戒壇様」って
日禅さんの曼荼羅のパッチワークですよね。
構造を言えば学会の日寛曼荼羅と同じ作りとなりますから
確かに本尊と言えば充分に本尊に成り得ると言う話ではあるんですけどね。

それとも日蓮正宗にとっての大聖人って日禅さんとなるのか
はたまた「御戒壇様」ってのも血脈相承の儀式というものがあるものか
それこそ法主だけが知りえる秘伝と言うやつですね。

であればそろそろ古くなってきた「御戒壇様」は新しいものにお取替えになる日もくるかな。

諸法実相という法華経の理が不要のガラクタで
パッチワークの「御戒壇様」がそれ程大事ならばそれはそれで良いでしょう。

192副管理人Z:2011/01/30(日) 21:42:33
196 :エキストラオ:2011/01/27(木) 22:19:27


★此処ではパッチワークの云々という表現は少数派ですね。でもいいんです
。なにかを 拠り所として 人は生きているのですからね。

日興上人が 身延沢から お運びになられた御戒壇様・・はなしだけでも、
感激しますよ・私はね。

人は信じたい・・そこから入るのですよ。何故か・『有り難い』とおもう
からなんですよ。これを初随喜といいます。一念信解ともいいます・・
此れだけ有れば成仏できると 日蓮大聖人はおおせです。何故か????????

法が偉大だからです。 学問ある者も無い者も 富ある者も無い者も・
老若男女 悪人善人無差別に救われなきゃ大乗とはいいませんからね。

もう理はいいんですよ・・『事の事を行ずる』 これが本物ですね・
少なくとも私はこう信じているわけですよ。 信じられない人に信じろ
といっても・無理です。

有り難いと思えないものに有り難いと思え・・・無理ですね。
秘伝・儀式・血脈相承・素晴しい言葉ですよ・・

・・なあむぅーーーーー・・ちぃ〜〜〜〜ん・・・

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193副管理人Z:2011/01/30(日) 21:43:10
197 :怖くて名乗れません:2011/01/28(金) 05:23:35
>>187 >>188のものです。
訳あって名乗れません。皆さんすみません。
堅皇さん、エキストラオさん、はじめまして、そしてお答えいただきありがとうございます。とくに堅皇さん、目からウロコです。感激です。勉強になりました。ありがとうございました。

また、これもちょっと気になっちゃって。
諸法と実相を違う角度で見えたりします、これって私だけでしょうか?
諸法がたえず変化する無常に属しているように。
実相がその諸法の奥に、つまり変化する層があってその層を越えてさらに奥に常に安定してというか、常住?とか普遍とか、それが実相?

寿命のうえからは無常に属するみたいですが、寿命間の範囲では、
地球を例にすると、地表からマントルまで?変化する層に属しているような部分と、
一番中心(核)が、ジョウジュウエクウ?は、あるとしても安定している部分。
これを地球の諸法と実相でみるなら中心の核が実相でその他が変化する層に属する諸法?
人間の体なら心臓が実相でその他が変化する層に属する?
じゃ人間の心では諸法と実相は?、心と密着してるのが迷いと悟り、客観でいうと無明と法性(意識からみて)、十界はここでは触れませんが、とにかく安定、常住?普遍?なものを獲得するために、知る、手に入れるために頑張っているということを、考えたりします。科学は、わかっていないところはあるにしても、「これが真実だ」が、どんどん変わっていきますよね。宗教もその範疇なのでしょうか?
こんな考え方はどうなのでしょう?

自己紹介もなしなので、そろそろこのへんで失礼します。ご迷惑おかけしました。
副管理人Zさん、寛大なお心、感謝いたします。ありがとうございました。

194副管理人Z:2011/01/30(日) 21:43:44
198 :堅皇:2011/01/28(金) 06:48:29
>>エキストラオさん

初随喜と一念信解は残し諸法実相は不要のガラクタですか、その辺の選択基準が良く解らないけど。
となると「諸法実相抄」もガラクタと言う事ですかね「実相は必ず諸法」と言ってるんですけどね。
日蓮正宗としては捨てときますか「本因妙抄」は大事だから取っておくとして。

あらためて四箇の格言を見るとこれらは悉く諸法実相から外れているわけですね。
例えば念仏、これは諸法には他力の浄土門と自力の聖道門と二つの法門と立て別けて
聖道門は大変だから浄土門で仏と成りましょうというお話。

当然念仏では聖道門と呼ばれる諸法は捨てられちゃいますので諸法から捨て去られてしまいます。
また、自力を捨て他力だけを求めるわけですから自ずと助けを乞うばかりの信心となってしまいます。
「念仏無間」とは日蓮もなかなか上手い表現をしたものだと感心させる言葉ですね。

仏法は自行化他の両輪ですからやはり諸法の分断と言うのはいけませんね。
「実相は必ず諸法」大事な言葉です。

ところでこの「二つの法門と立て別けて」ってどっかで何か聞いた事がありますね。
あーそうだそうだ「文底独一本門」だ。
なになに?日蓮の題目と釈迦の法華経と二つの法門があり釈迦の法門は捨てなさいとの話。
これって明らかに「実相は必ず諸法」に反してないか、日蓮は本当に「文底独一本門」なんて事を言ったのか。
こいつもどうやら日蓮正宗だけに伝わる秘伝って奴らしい、この秘伝って奴はどうも信用できない。
これは単なる日寛さんの我見という奴ではないかなと言う事ですね。

日時さんの「本因妙」にしろ日寛さんの「文底独一本門」挙句の果てには物質が所依となる「御戒壇様」。
何処まで日蓮の意を変え法華経の理を捨て去ろうとするのか
これでどう日蓮正宗が正当な血脈を相承してると言えるのかと言う話ですね。

195副管理人Z:2011/01/30(日) 21:44:18
199 :堅皇:2011/01/28(金) 06:49:19
>>197 怖くて名乗れませんさん

お話を伺っていると恐らく南無妙法蓮華経が諸法実相の実相だと思われていると思います。
これこそ日蓮正宗が用いた大謗法である「本因妙」と言う考え方です。
題目はあくまで法華経の題目(タイトル)であり「本因妙」と言った真言でも念仏でもありません。
南無妙法蓮華経は実相ではなく諸法の1つです。
あえて言うなら究極の諸法とでも言いましょうか。

これは法華経を読むと理解できますが法華経は爾前権経で説き明かした結論のみを羅列してある経典です。
仏法は本来宗教では無かったんですね、それを法華経が信じる事を取り入れて宗教にしたわけです。

理屈は簡単ですね。
法華経は爾前権経と違い何故と言う理由を一切説かず結論しか説いてないんです。
つまりは理由には一切触れずただ説かれた内容を暗に信じなさいと言う経典なんですね。
理由を書かないなんてなんて酷いと思われるでしょうが
理由が知りたければ爾前権経を読んでみればいいだけですからね。
読めば何故に法華経が正しいかが解ります、これが信を得るための行学の二道の理論ですね。

ですから法華経を得るには法華経を信じるか爾前権経を学ぶかのどちらかでいいわけですね。
ただ、一口に爾前権経を学ぶと言っても爾前権経は八万法蔵とあるわけですから学びきれないですよね。
だから手っ取り早く法華経を信じればよいと言う事なんです。

更に法華経で説かれた一念三千の法門を使い、この法華経の題目を信じる事により
経文である法華経を得る事になり法華経を得ると言う事は八万法蔵すべてを得ると言う事になります。
それもこれも法華経が爾前権経と全く外れる事無く同じ理で説かれているからと言う事に尽きるんですね。

更に日蓮の描いた曼荼羅に唱える題目は法華経以後の密教経典や日本の神々の教えまでも諸経と見なし
その題目の力とは実に寛大なものだと言えます、それこそ諸仏知恵 甚深無量ですね。

196副管理人Z:2011/01/30(日) 21:44:56
200 :怖くて名乗れません:2011/01/28(金) 10:20:06


★信を得るための行学の二道・・これはこれは 初耳。
法華経は随自意の法門ですが、成仏得道の法を説いていない大欠陥があります
日蓮大聖人の法華経はいきなり随自意ですよ・下種だから本因といいますね。

法華経を得ると言う事は『有り難いと思う一念』これだけです。
凡夫の我々がどちらの法華経を選ぶかなんていう問題じゃない。
一大事因縁を受けて初随喜を起す。それだけのことですね。信心というのは。

日蓮大聖人は『いのちすでに一念にすぎざれば』と・刹那の一念以外には
いのちなんてもんは無いんだとはっきり仰せです。

日蓮大聖人は久遠の本佛ですから、我々が選ぶなんて資格はありません。
ただ与えられたものを 理由も無くありがたいと思う・・これが信心ですね

でなければ、一切の衆生はすくわれませんからね。御本尊を顕す前に
草木成仏を日蓮大聖人は説かれていますね。これは言っておかないと・
楠の板が 佛になるということを知らせておく必要があったからです。

板だ・物だ・だから信じないという事を言わせないためですね。
『当世のならいそこないの学者夢にも知らざる法門なり』といわれた
のはそのためですね。

天台曰く『草にも木にも成る仏なり』を言われたのは草木成仏を信じ
させんがため・それだけのことですよ。

これは非情の成仏なりとも言われています。これを知らない人々を
『所詮 妙法蓮華経をしらざるゆえに迷うところの法門なり』

信じらんなあぃ〜〜と驚く人々を日蓮大聖人は『惑耳驚心』として・
笑っています。そしてそれらの人々は『一色一香』と罵ったりもする
とね・・・・

当然でしょう。日蓮大聖人様が言う『当世の学者』のレベルにも達し
ない・人々が 此処にも十万していますからね。『当世の学者』が・
夢にも知らざる事を・ここに登場する 人物が『あーでもねぇこー
こーでもねぇー』さわいでいるのですからね。

釈尊の法華経は未完成の欠陥法門ということになります。
『我本行菩薩道』といったのが最後のクライマックスですからね・
オラが成仏できた事の行法は 伏せたままですからね。
ですから中身は空っぽ・・なんですね。

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197副管理人Z:2011/01/30(日) 21:45:38
201 :堅皇:2011/01/28(金) 12:14:39
>>200 怖くて名乗れませんさん

> 法華経は随自意の法門ですが、成仏得道の法を説いていない大欠陥があります

まさしく真言が陥った過ちですね、また同じ罠に嵌ったのが日蓮正宗と言うところでしょう。
つまるところ爾前権経での未顕真実は法華経でも確固たる成仏のための本因を明かさなかったではないか
と言うご指摘ですね。

いやいや、法華経はちゃんと真実を明かしましたよ諸法実相「実相は必ず諸法」とね。
そもその実相とは何か、仏とは何かと言う事ですが
仏とは即ち悟りであり悟りと言うものはあくまで個人個人の内の中にあるものです。

人間の興味関心と言うのは人それぞれであり願いや希望も人それぞれです。
誰に強要されるものでもなくそれこそ桜梅桃李であるわけです。
あれが食べたいあれを知りたい何処へ行きたい何をしたいその目的を全て叶えるのが
仏であり悟りであるわけですからこれを顕す事は誰にもできない行為であり
それが解ったと言う人は大嘘つきであると言う事です。

本因を固定してしまうと言う事は結果も固定してしまう事になり
自分が思い願う結果は得られなくなってしまう事なのです。

法華経方便品でどうしても教えてほしいと懇願する舎利弗に対して釈迦はやめようと諭す訳ですが
舎利弗ほどの智慧ものに何故と言う話となります。
それもそのはず実相とは人の数ほど存在し、またその一人一人の中に数え切れない実相があるのですから。
故に「実相は必ず諸法」でなければならないと言う事ですね。

法華経はこの諸法実相を明かした事により自身が思うままの望みや願いが叶う如意宝珠を手に入れたということですね。

198副管理人Z:2011/01/30(日) 21:46:14
202 :堅皇:2011/01/28(金) 12:15:23
> 天台曰く『草にも木にも成る仏なり』を言われたのは草木成仏を信じ
> させんがため・それだけのことですよ。

では、草木成仏を通して物質も仏と成ったと仮定しましょう。
しかしこの物質は能化であって所依ではありませんね。
仏と成るにはあくまでも能化である仏に依って仏に成るのではなく
あくまでも所依である法に依って仏と成るわけですから物質を中心に考えるのは誤りと言えますね。

日蓮が本仏とする日蓮正宗も釈迦を本仏と捉える日蓮宗も
能化である仏を所依とする考えでどちらも誤りであると言わざるを得ませんね。

こと日蓮が御本仏と言うのもやはり日蓮正宗にしか伝わらないものであり
日蓮自身は唯一言も自分が御本仏などと言う言葉は発してはいません。
その全てが歴代法主という方たちの創作話、妄想話であると言うことです。

どこまでこの日蓮正宗と言う教団は法華経を蔑ろにして謗法を犯せば気が済むのでしょうか。
嘘に嘘を積み重ねた結果、自分たちも何が嘘かホントかも解らなくなってしまったのではないでしょうか。

禅は経文を無視して己が仏であり真実であるとしました。
結果、規範とする法を忘れ何が真実かが自分でも解らなくなってしまう。
「禅天魔」とはまさしくこの禅の有り様を見事に付いた言葉だと思います。

次々に秘伝と称して己の思うままに法を改ざんしていった日蓮正宗にも見事に適合する言葉だと思います。

199副管理人Z:2011/01/30(日) 21:46:49
203 :エキストラオ:2011/01/28(金) 16:01:25


★物質中心という考えかたは偏頗ですよ。生の成仏死の成仏ですからね。

未曾有の大曼荼羅なりと日蓮大聖人はおおせですからね。有り難い事です

御戒壇様・そのまま一大事因縁なんです。禅はどこまでも禅のことですね

私達には無関係なんです。法華経から得るものは何一つありません。

豆腐のおからみたいなものですから・ま・少しは栄養がありますが・それ

くらいのものですね。能化も所化ももはや不要なんです。御戒壇様即・

善知識です。それ以上のものは不要なんです。歴代法主に執着していては

肝心の一大事因縁を亡失してしまいます。『諸法も実相』もただのことば

です。ことばを所依とした宗教はすべて妄想の宗派でしょう。妙法は・

言語道断ですからね・一旦遮しなければ到達できないのが妙法です。

諸法という言葉に囚われて言語の概念の夢の中に遊ぶ胡蝶の夢・・・

これがいい例ですね。御戒壇があり題目がある・ここには如何に誰人

も改竄の余地はありません。 言語に執着する事が不幸の原因です。

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200副管理人Z:2011/01/30(日) 21:48:01
204 :エキストラオ:2011/01/28(金) 16:18:32


★本因を固定しても結果も固定してしまう事にはなりませんね。なぜなら

本因とは成仏の種子ですから一切を開いていく功徳がありますね。

それは日蓮正宗で叶えられるということです。人それぞれに種々の謗法が

ありますから・誰でも私のようになれることではありません。世界の機根

も違い衆生の機根も違う異国の法華経を現在に振り回す愚は 当然の如く

末法の衆生には 不適であり 消化不良のもとになります。妙法は・つまり

大良薬ですから 末法の衆生にのみ処方されるものですね。ガイドライン

としての釈尊の法華経としてみれば『旨からずといい服せぬ者あり』・・・

ともあり・しかりですね。 そう・・釈尊の法華経は末法の法華経つまり

日蓮大聖人の法華経・を説明する分において・つまり流通分において・

かすかに 役立つ程度なんです。その証拠に歴代御法主を根本とする信徒

は一人も日蓮正宗にはおりませんね。

/////////////////////////////////////////////////////////////////

201副管理人Z:2011/01/30(日) 21:48:54
205 :エキストラオ:2011/01/28(金) 16:20:46
?
200と201は エキストラオでした。ゴメンネゴメンネ・・・//////////////


206 :エキストラオ:2011/01/28(金) 16:23:06
・訂正200はエキストラオ・・//////////////////////////////////////////

202副管理人Z:2011/01/30(日) 21:50:11
207 :エキストラオ:2011/01/28(金) 16:35:55


★日蓮大聖人が末法の御本仏とは名乗りませんね。当然ですよ。御内証
を・外に向って御示しあそばされたが・御戒壇様という未曾有の大曼荼羅
この国に立つべし・・これでチョンです・・あえて 自ら宣言する必要な
どは有りませんね。 これ言ってしまったら末法の衆生から総スカンされ
ます・御本仏ですから御存知でしたね。 此れは御本仏としてすごい判断
だと思います。 一般のミーちゃんハーちゃん相手にそれは言いません。

我々と御本仏が同格だとカン違いするところから・間違いは起きています
つまり・慢心の上からホトケを見ちゃいますからね。それを

寿量品の最期に『以常見我故 爾生僑恣心』とあり 常に慢心で法門を

弄び学する者が出て来る事が説かれてます。まさしくそのとおりでしょう

//////////////////////////////////////////////////////////////


208 :エキストラオ:2011/01/28(金) 16:44:41


★・・管理人様。  京阪君がなにを血迷ったか・音楽スレッドに

怨念のうえから 個人様の誹謗中傷と・・呪いの言葉を書き込んで

居られるようです。 ええ・私は結構ですから 『とらおスレッド』に

移動しておいてください。ええ・わたしは太っ腹ですから気にしません

彼には優しく対応 お願いします。私も彼の人間的成長を『御祈念』

させて頂きます。

/////////////////////////////////////////////////////////////////

203副管理人Z:2011/01/30(日) 21:50:49
209 :しげきょん:2011/01/28(金) 21:47:14
日蓮災い教が  災い転じて福と為す=宿命転換の祈りだよ
創価にあるのは 日蓮災い教変じて日蓮バラモン教に落ちた
宿命主義者のトラオ君はほどほど救いようが無い

204副管理人Z:2011/01/30(日) 21:51:20
210 :エキストラオ:2011/01/28(金) 21:56:48


★大丈夫ですよ・しげちゃん・・あなたに救ってもらおうとは思いません

ぷっ・・・/////////////////////////////////////////////////////////

205副管理人Z:2011/01/30(日) 21:51:55
211 :京阪電車でいこか ◆AIo1qlmVDI:2011/01/29(土) 01:35:50
>>210

人の死をもてあそぶ最低人間のトラオさん。

ご本尊さまも、そんなあんたを“救って”くれないだろうね。

ご愁傷さま。

206副管理人Z:2011/01/30(日) 21:52:33
212 :堅皇:2011/01/29(土) 06:35:53
『以常見我故 爾生僑恣心』
常に我を見ることが出来なければ僑恣の心が生じる。(法華経はいらないんじゃなかったっけ)

我見ってのは自分だけの偏った考えって事ですから
それだけに捕らわれるなと言う事ですね、それが慢心に繋がると。

要するに俺の解釈に従わないとは何たることだこの罰当たりがと言ってるのが我見であり
また自分だけの偏った考えに捕らわれているのも我見と言う話。
常に自身の考えを顧みてニュートラルにすれば我見に捕らわれる事もなく慢心にも陥らないという事ですね。

ちなみに僕は日顕さんは賢い人だということは認めてますよ。
日寛さんもおそらく人々を救おうと思った中での結論だと思っています。
ただ、これに関して言えば法然さんも同様だと思います、なんせ「智慧第一の法然房」と呼ばれたくらいですから。
どれだけ賢いと思える人でも、また人の為にと思った行為でも結果としてそれが仇となることであれば
やはり従うわけには行きませんね、極々当たり前の話ですね我見に捕らわれるのは嫌ですから。

正直僕は全然自分の事を賢いとは思ってません、ただ法華経をニュートラルな気持ちで読んでいるだけですからね。
また日蓮の真蹟とされる部分とそうでない部分、更には日寛さんの教義をそれぞれ見比べてみると
日蓮の真蹟の部分は法華経の理(言語ではなく)と悉く合致しているのに対し
そうでないものや日寛教学は悉く法華経の理から外れているものであったということですね。
また、それらの理は日蓮が異を唱えた念仏、真言、律、禅の理と悉く合致していたと言う話ですね。

法華講であるエキストラオさんが日寛教義により法華経から得るものは何一つありませんと思うのは大いに結構です。
僕は法華経は捨てるべきではなくあくまでも法華経の題目を捉えるべきだと思うだけですから。

またまた要らない物が増えてきましたね諸法実相に次ぎ能化も所化も不要なんですか
それは人など要らないということですね、大切なのは物質である御戒壇様だけだと。

207副管理人Z:2011/01/30(日) 21:53:06
213 :堅皇:2011/01/29(土) 06:37:09
>>しげきょんさん

> 日蓮災い教変じて日蓮バラモン教に落ちた宿命主義者のトラオ君

これは日蓮正宗の事を指していると思いますが
具体的にどう災いなのどの部分がバラモンか教なのか教えてください。
俺には創価との違いが全く区別が付かないのですが。
出来れば感情論ではなく具体的且つ理論的にお願いします。

また日蓮正宗は「宿命主義者」なのですか?
そもそも宿命という表現は創価学会が用いている表現なので良くその意味が解りかねます。
加えて

> 災い転じて福と為す=宿命転換の祈りだよ

とのことですが災い転じて福と為すと宿命転換では少し理が違うような気がしますが宿命転換の意味を教えてください。
宿命とは宿る命と書きますがここで言う宿命とは「業」の事なのでしょうか
「生死一大事」の事でしょうか「出世の本懐」の事でしょうか。
これを転換すると言う事ですから酒屋に生まれた人間が八百屋を始めるというような話でしょうか。

208副管理人Z:2011/01/30(日) 21:53:40
214 :しげきょん:2011/01/29(土) 08:00:34
宿業とは無明のものの見方じゃ悪業のこと指すのよ
しかし法性の場合つまり妙法蓮華教の場合の立場からは
毒(悪業)変じて(薬、成仏の果)となるものよ
悪業を悪業と捉えるのは邇前教以前の教えなのよ

209副管理人Z:2011/01/30(日) 21:54:13
215 :堅皇:2011/01/29(土) 08:29:20
なるほど、宿命は宿業と言う事で宜しいですね。

ちなみに業とはカルマ、つまり行為の事ですね。
更に宿業と言えばその前世に行った善悪の行為が現世で報いとして宿る事。

基本人は「煩悩即菩提」を求める人が大半ですから
業と聞くと直ぐに悪業を連想してしまうと思いますが
業とは行為のことであり悪業に対し善業も当然あるわけです。

過去の悪業により報いを受けると言うのであれば善業も結果として現れるのも必然ですね。
じゃなければ善根を積む必要が全くなくなってしまいますからね。

とすればやはりこの宿命転換との言葉、やはり使い方が確実に間違っています。
「災い転じて福と為す」に当て嵌めるならせめて「悪業転換」とするべきか?

ただそれでもやはり不完全で悪業にも様々な種類が存在します。
「悪業転換」となるとコソ泥をやめて強盗にするというのも「悪業転換」になりますから。

何れにせよ「災い転じて福と為す」と「宿命転換」はイコールで繋げないものであると言えますね。

210副管理人Z:2011/01/30(日) 21:54:47
216 :エキストラオ:2011/01/29(土) 15:32:14


★しげちゃん・・感情的に成るのは良くないそうです。

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宿命の転換・・これも創価の造語の部類でしょうね。大聖人直結も・・

師弟不二も・・みんな・・流行を狙った造語です。 しげちゃん

それに妙法蓮華教 というのは教えですか・初めて目にしましたが

何でも造語の人にかかると 訳がわからなくなりますね。

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211副管理人Z:2011/01/30(日) 21:55:22
217 :エキストラオ:2011/01/29(土) 15:45:17


★しげちゃんが 池田君に 下駄を預けて 思考を停止して生きている・

それも宿業なんですね。日蓮大聖人は

『鷺の白きもからすの黒きもみな強く先業のつよく染みける〜』と・・

おおせですよ。外道はしらずして自然自然と言い張るともおおせです。

『霧島研修道場にかつて沿うか王国なる講想があり・財政難や・地元の

住民パワーで実現できなかった経緯がありましたね。強く池田君の・・

要望がありましたが、実現できてたら今頃大変でしたね。 日本一の・

三災七難の多い場所になっていますからね。 被災された方々には・

御心痛・お察しいたします。  それもこれも・元〔原因〕をたどれば

○○本尊を頭から湯気立てて 拝むという 乱国の一大原因があるから

です。指導者が戦闘に立ち・日蓮正宗総本山に対しお詫びして懺悔滅罪

を願い出れば これ等の七難は悉く 解決するでしょう。

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212副管理人Z:2011/01/30(日) 21:55:57
218 :堅皇:2011/01/29(土) 16:22:12
さてさて、エキストラオさんもしげきょんさんもこんな言葉尻捉えて
面倒くさいこと言ってるなと思っておられると思います。

何故こんな事をくどくど言うかとすれば正宗も創価も南無妙法蓮華経が本因妙だ文底独一本門だのと
題目が実相だとか自分たちの組織の考えや指導だけが実相だのと考えているから言ってるんですね。
法華経では実相は諸法の中にあるといっています。
日蓮もまた「実相は必ず諸法」と言っている訳ですからこれを信じれないかと言う事なんですね。

更にこの諸法は全て方便であるとも言っています。
つまり南無妙法蓮華経も自分たちの組織の教義や指導も全て方便として捉えていて
幾つかの方便を集めその中で実相を探ろうとすれば問題はないのですが
これ自体が実相と考えると本当の実相と言うものを見誤るぞと言いたいわけですね。

解りやすい例を出しますとハンムラビ法典。
これは正宗、創価も共通して邪経と判断されていますよね。
その代表的な言葉「目には目を、歯には歯を」これは思想自体が誤りであると思っていますよね。
この言葉の趣意は「毒を持って毒を制す」と同意義ですよね。
しかしこの理論があながち使えないかと言えばそうでもありません。
例えば免疫治療等ではこれで効果が得られるわけですね。
ただすべての事柄に当てはまるわけではないのでこれ自体を実相と捉えるのは誤りだと言う事ですね。

つまりどの様な言葉も実相ではなく諸法の1つであり方便の1つであると捉えれば活かす事が出来ると言うことです。
その為にはあらゆる法は諸法の1つと捉え法華経を中心とすることにより実相を得るためのパーツと捉えるべきだと。

この観点で言えば文底独一本門という題目が実相とする考えも
題目を唱えされるための方便の1つと捉えればその効果を得る事が出来るが
これ自体が実相と捉えてしまい大事な諸法を全て捨ててしまえば本当の実相を見誤ると言う話です。
本当の実相を得たいと言うのであれば常に法華経を中心に法華経の題目を唱えなければいけないと言う事ですね。

213副管理人Z:2011/01/30(日) 21:56:38
219 :堅皇:2011/01/29(土) 16:22:42
ですからそもそもが日蓮の題目と釈迦の法華経と言った隔たりなどありません。
法華経はあくまで法華経です、題目はあくまで法華経の題目であり
日蓮も「法華経こそ第一」と言っています。
この法華経を釈迦の法華経と言い放ち全て捨ててしまうのは全くの論外。

日蓮の言葉、御書には法華経を中心に据える為の方便を諸法を通じて沢山書かれています。
当然これらの言葉も全て実相ではなく諸法の1つです。
諸法の全ては法華経を中心に据えてこそ初めてその意味が理解でき実相が得られると言うものですね。

ですから日蓮も題目自体が文底独一本門であり実相であるなんて事は一言たりとも発していないわけです。
その全てがそれぞれの実相を導き出すための方便であると言う事。
「実相は必ず諸法」諸法実相という真実を明かしている法華経を第一に捉えないと
たとえ題目を唱えていても全くの無益であると言っている訳ですね。

仏法は実相に導くための限りなく実相に近い方便ですから
その理に合わない造語を勝手に突っ込むなと言う話ですね。

> 師弟不二も・・みんな・・流行を狙った造語です。

いやいや、師弟不二は創価造語ではなく日寛さんが作られた造語ですよ。
その元凶はやはり日蓮正宗にあるって事です。

214副管理人Z:2011/01/30(日) 21:57:15
220 :エキストラオ:2011/01/29(土) 16:38:36


★ 法華経は 遠くは 不軽菩薩の所持していた法華経から・釈尊の法華経

そして・末法の衆生には・機根・国土・時・というものに叶うべく末法の、

法華経があります。それを『味噌もくそも一緒くた』にしたところに、元々

の誤りがあります。末法の法華経は日蓮大聖人の御戒壇様ただひとつです。

3000念前の薬品は 賞味期限が切れて カビの臭いがします。どころか・
毒になってしまいます。 道理と言うものはこんなもんです。だれもが
納得できる道理ですね。

釈尊の法華経しかも・漢字に訳されて風味が抜けただけでなく・漢字の
ただ・『諸法実相』という 観念論のしかも俗諦の範疇のもので・人は
救われようもありませんね。

『諸法実相』は今・煮ても・焼いても 食用にはなりません。
太陽の出る国・・日本という名前に連なった『日蓮』という御本仏により
末法の人々は救済されるのです。

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215副管理人Z:2011/01/30(日) 21:57:48
221 :エキストラオ:2011/01/29(土) 16:47:24



★師弟相対は・出家の場合言うことがまま・あるが・

『俗の中で俗の上下を分け隔てるための師弟不二なんてものはあり得ません』

それ以外だと・俗の中ならば いけばなの中の世界なら在ってもよさそうで
すが・やはり生花の世界でも『師弟不二』などと とち狂った言い方はありま
せんでした。ね。

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216副管理人Z:2011/01/30(日) 21:58:23
222 :エキストラオ:2011/01/29(土) 17:08:36


★日蓮大聖人の悟りを・御本尊に顕した・これは内道でみていかないと
つまり・創価学会は外道で拝してきたので・大きな間違いが生じてきたのである。

日蓮己心の法を本尊に顕した・・・その悟りの内容は境智冥合の題目でしか
受け取る事は出来ない。諸法実相も 釈尊の二個人的日記の一行でしかない
ものですね。その執着が・無明の根源になります。所詮釈尊は我々には・
全くの無縁の仏です。しかも日蓮大聖人から見れば劣応仏でしか無い訳です

個人的に釈尊が好きだ嫌いだの範疇のモンでしょう。
ただ成仏には有縁の佛によらなければなりません。ここには釈尊のファン
がいる事も事実ですが、少数派です。 でも少数派は居なければ困るとい
う事もあります。 物の大小・遠近・などには・それらの 位置関係が・
必要だからですね。

文字をもたなかつた当時の人の教えが・必ずしも正確に末法へ伝わったと
いえる各章は如何なる学者も 検証することは不可能です。なのにそれでも
釈尊がすきな人々はいて当然です。 そこの世界が居心地がいい人にとって
は・・・です。しかしそれが正当性があるかと言えばそれは・無関係ですね

いかにしても・親を意識して生まれてきたものが居ないように・それは・
宿縁ということです。  麻原彰晃に有縁の人々はたくさんいました。
知能指数には関係無い事です・それを宿縁と大聖人はおおせです。

大聖人を 好きだといっている人が居てもやはり・いう事を聞かないとい
う・つまり『悪しくうやまう』といった・日蓮大聖人ファンは多いもので
す。 ファンでも・『如説修行のひとは稀な理』と・やはり日蓮大聖人も
おおせの通りですね。

私はありがたくも大聖人の仰せの如く『如説修行』させてもらっています
それで・今このように幸せなのです。これが・実証なのですね。

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217副管理人Z:2011/01/30(日) 21:58:59
223 :しげきょん:2011/01/29(土) 17:49:50
一体誰が流行語大賞を狙ってるんですか?
そんな人はいません
またテラオ君の妄想が始まりましたね
創価被害妄想病のテラオ君妄想と言えば妄想で折伏薦める
日蓮妄想宗の折伏ノルマの妄想達成がありますね
テラオさんも坊主に妄想たたきこまれたのでしょうか?
?なところです日蓮妄想宗は現実に折伏できない法華講があふれて
ネットの世界にあぶれてますよ

218副管理人Z:2011/01/30(日) 21:59:34
224 :エキストラオ:2011/01/29(土) 18:09:33


★流行語大賞?????   しげちゃんさ・・・一度病院へ行くがいいよ。

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219副管理人Z:2011/01/30(日) 22:00:10
225 :堅皇:2011/01/29(土) 18:57:43
さてさて「日蓮己心の法を本尊に顕した・・・その悟りの内容は境智冥合の題目」とな。

では境智冥合とはなんぞや
ざっと御書検索を掛けてみてヒットしたのが「当体義抄」と「御義口伝」の僅か2件。
「御義口伝」は日興さんの筆によるもで「当体義抄」はこれもまた真蹟が存在しないと言うではないか。
またまたこれも日蓮正宗による法の改ざんの1つなのですかね。
調べれば調べるほど日蓮正宗の謗法行為が濃厚となって行きますね。

はい、日蓮を本仏と捉えそれに対して境智冥合とはもうこれは確実に
所依(法)を無視して能化や所化(人)に依るという依法不依人に反してますね。

てか日蓮大聖人御書全集自体が日蓮の真蹟か否かをそっちのけで
『味噌もくそも一緒くた』なんですけどね。
毎日そのくそを食ってるもんだからもう味噌がどんな味なのかも解らなくなってしまったかな。

日蓮妄想宗の教義を未だに大事にしている創価学会も法華講と同様に妄想病ですね。

220副管理人Z:2011/01/30(日) 22:00:44
226 :堅皇:2011/01/29(土) 19:05:49
改めて日蓮正宗の御観念文を読み直してみると
日蓮の真蹟に存在しない文言がてんこ盛りですね。
せっかくの勤行唱題した後にこのような「くそ」をふんだんに毎日掻き込んでいたら
そりゃー味噌の味も解らなくなりますよね。

221副管理人Z:2011/01/30(日) 22:01:17
227 :しげきょん:2011/01/29(土) 22:14:20
ちびにっけんが文句言うなよおまえこそ病院に行け

222EUPA:2011/02/05(土) 07:03:59
世界の閉塞感は、やはり宇宙開発があまり進んでないからかも知れません。
宇宙のイメージは、暗い。生きるのが大変。このイメージを払拭できればと思うのですが。
月や太陽系の星に石油に相当するエネルギー資源が発見されたり、
過去のスタートレックの映画の中に、死んだ星を地球と同じ惑星に変える話なんか。
それよりいまだに解明されていない重力について、解明されれば人間の生活は、一変しますよね。(重力を操作できれば。)
宇宙の中に人間が楽に暮らせる(人間が暮らせる環境という意味で。)地球のような星々を人間自ら作っていく。
今は夢物語ですが、そのようになって行けば、人間はもう少し楽観的になれるのになと、思ったりします。

223EUPA:2011/02/05(土) 07:37:30
人生を攻略する、壁を打ち破る法は、ないでしょうか?
・あらゆるものには必ずスキがある。
スキを見つけて、そこからなし崩しに、攻略、制覇していく。この考えは?
動物が獲物を捕らえるのもスキを突く。スポーツ、武道でも。
そういう発想は、学問、勉強、ひいては人生、人生の壁も打ち破る、対象にあるものは、必ずスキがある。
もしかすると、智慧というのは一見、目に見えないスキを発見しているのかも知れません。
人生勝利の実相は、スキを見つけて、そこからひらく。
こんな発想を考えたりします。
古代ギリシャの英雄アキレスにも弱点(スキ)があった。

224EUPA:2011/02/05(土) 07:46:06

難、攻略の智慧もスキにあるのかも知れません。

225EUPA:2011/02/05(土) 08:17:30
連投、すみません。
三障四魔だって、多くのスキがあることを賢者は知っているのかも知れません。

名聞名利と一番になることの違いは、なんなのでしょう?
名聞名利は、悪いというイメージですが、これもそうなのかも知れません。
(人生崩壊のスキあり)

226堅皇:2011/02/05(土) 10:47:34
>>EUPAさん

全ては目的がなんなのかと言う話ですね。
また、その目的を達成した後その次の目的は何なのかと言う話にもなってきます。

一番になるため、これを目的に掲げるとするのは良しとしましょう。
では、その一番を手に入れたときその次の目的とは一体何なのでしょうか。
また、自分が何故に一番になろうとしようとしたのかその目的は一体何処にあるのか。

よくよく考えると一番になると言う事は1つの通過点でしかないと言う事。
一番になるのは他に何かを得る為の手段の1つであった事に気付かされるものだと思います。

「名聞名利」とはこの一番になるとか名声を得たいと言う事が目的になってしまってると言う事なのですね。
もちろん「名聞名利」を得ようとする事も一番を目指すと言う行為もけして悪いことではありません。
むしろ前に進もうと思う前向きな姿勢から発するものです。

ただ「名聞名利」は何かを行う為の1つの手段として捉えるか
「名聞名利」自体が目的となってしまうのかココに判断が分かれるものであるといえます。

「名聞名利」だけに溺れると自分が何をやろうとしていたかすら解らなくなってしまうと言う事です。


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