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漫画・ライトノベル以外の書籍スレ

1真ナルト信者:2017/02/08(水) 19:12:46 ID:???
漫画・ライトノベル以外の書籍なら純文学でも文庫でも新書でもレピシ本でも攻略本でも難しい本でもOK
感想を書いたり、内容をまとめたりとかしてみたらどうでしょう

335修都:2022/10/03(月) 20:12:46 ID:zAErYo6E
舩田善之「キタイ・タングト・ジュルチェン・モンゴル」
唐とモンゴル帝国との狭間の時代→多国体制、盟約の時代。キタイ(契丹)・ジュルチェン(満洲)が覇権国家として国際秩序の安定を主導
10〜13世紀、東アジアの覇権はキタイ、ジュルチェンを経てモンゴルへ
東北ユーラシアにおける政治と南北交通の重心は東へ移動、間隙を縫ったのがタングト→モンゴル高原の覇権を握ったテムジンは、1205〜09年、タングトを屈服させる
→モンゴルとジュルチェンは長い交戦、戦乱の時代が続くが覇権はモンゴルへと
クビライの時代、クビライは唯一のカーン位を保持するが、各ウルスの自立傾向が進む→各ウルスの統治に介入することはなく、帝国はウルスの連合

336修都:2022/10/04(火) 20:10:36 ID:zAErYo6E
井黒忍「宋金元代の華北郷村社会」
金代から家族の歴史が記された石碑が増える
宋代依頼、人口増加が継続。金代において山地や丘陵地の開発が加速。灌漑水利開発も進展→石碑には人々が村を基礎として結束を強める姿が描かれる
金元代、地縁的集団が基本単位となる中、村々に信仰の中心となる村廟が成立→村の信仰の伝統が石碑を通して後世に継承される
水利に関しての権利や主張も石碑に刻まれている

337修都:2022/10/05(水) 20:10:19 ID:f50dInU2
伊藤正彦「江南郷村社会の原型」
宋代、職役の重役化→土地所有額と成丁数の多い人戸から賦課される→大家族世帯の減少→族人が分散してゆく過程で族譜編纂
郷役賦課・負担→義役という社会組織を結成。人戸が結集し、穀物・金銭を共同出資し、共同の役田を設置し、その収益で役費を援助
宋・元朝以来の動きに商業的農業とは無縁の江南郷村社会の原型がある

338修都:2022/10/06(木) 19:56:27 ID:f50dInU2
金文京「士大夫文化と庶民文化、その日本への伝播」
本来、反権力、脱政治、超世俗的存在であったはずの隠遁は、時代と共に権力、政治、世俗と融和的になり、批判的視点を失う
宋代は士大夫、士人(官僚、またはそれを目指す人)の時代であると言われているが、実は隠遁の時代であった→在野の隠遁の士が重視される
隠遁の本来の場所である山林の大自然が都会に持ち込まれる→庭園文化の誕生。水墨山水画の誕生
官途につくことのできない多くの不遇士人は隠遁のポーズをとりながら、世俗の中で活動するようになり、山人と称し、称された
山人の生業→売薬。詩文などを献上し援助を得る。医術。音楽。書画。占術。法術。飲茶
鎌倉、室町期、宋元の最新文化、山人的・文人的な文化など新たな文学や朱子学などがもたらされた。人的交流は遣唐使の時代をはるかに凌駕した
→宋元代のサブカルチャーから生まれた山水画や茶道などが日本に伝来して、文化の主流になった
東アジアの近世は、社会階層の多様化が進み、中国の士大夫、士人、日本の武士、朝鮮の両班など中間的な知識階級が勃興、さまざまな文化を生み出した

339修都:2022/10/10(月) 18:13:37 ID:f50dInU2
山崎覚士「「五代十国」という時代」
907年4月18日、朱全忠は即位し後梁朝を建てた→後唐→後晋→契丹第2代皇帝が華北王朝の皇帝として君臨(大遼)→後漢→後周。華北王朝の直接支配する領域は中国と呼ばれた
華南で独自政権を築き上げたのは呉・呉越・閩・楚・蜀・漢→呉は乗っ取られて唐になる。呉・唐・蜀・漢は皇帝を称して華北王朝と対抗した。華北王朝より特別待遇を受けたのは呉越
分裂時代でも天下秩序は存続した。また、天下外で新たな国家構造を模索する国家・国家秩序が芽生える時期でもあった(契丹)

340修都:2022/10/11(火) 19:56:21 ID:f50dInU2
徳永洋介「宋代官僚制の形成」
北宋前半期、令の規定する官制は職責を失っても形骸を保っていた。律令官制の本質に関わる箇所には手をつけず、皇帝直属の行政機関を現状に即して再編していた
元豊の官制改革→既存の行政組織を大幅に分割、併合、改廃。官名と職務が一致する官僚組織に改めた

341修都:2022/10/12(水) 20:46:08 ID:f50dInU2
渡辺健哉「元の大都」
クビライは国号の典拠を経典に求めた→観念的な名称を国号としなければ、多様なエスシティや階層の心理的合一を図れないと制定に関わった人々が判断
北京地区が初めてチャイナプロパーの国都となるのが元の大都
漢族式の校祀に対してモンゴルは消極的→儀礼施設の建設は後回し。しかし儀礼施設の建設を拒んだわけではない
遊牧諸政権は季節に応じて移動を続ける→元朝も冬の大都と夏の上都(内モンゴル自治区)を移動している

342修都:2022/10/13(木) 20:02:40 ID:f50dInU2
川村康「法構造の新展開」
唐後半、戦乱と社会変動が律令格式の編纂の継続を不可能にした→社会変動への対応は制勅
漢人王朝では、刑罰法の基本法典は実質的には唐律であり続けた。非刑罰法では基本法典が唐令から『天聖令』へ変遷
遼は、遊牧民に適用する法と漢人に適用する律令があった→金王朝で漢人王朝の法構造へ→元王朝は漢人王朝の法構造に冷淡。元には単行指令があるだけで法典が存在しない
征服王朝では唐律は現行法ではなかったけれども、参照価値をもつ中核的存在であり続けた

343修都:2022/10/15(土) 12:52:58 ID:f50dInU2
佐々木愛「中国父系性の思想史と宋代朱子学の位置」
宋代以降、気はガス状の物質で、自己運動し、天地の間を周流し、凝固して万物を構成し、生命や活力を与えるエネルギーを意味する
宋代以降、気という概念が儒教思想の最重要概念の1つになる。宋代においては父系男子でなければ祭祀権がないという観念は徹底してはいない
気の概念では、母系親族や姻族などの祭祀を否定・排除することはできない→気は否定排除の理論を構成することはできない。男女がともに並列して儀礼に参加するのが当然の規定であった
儒教思想が中国社会の父系制強化を牽引したのではない。社会の方が父系制を望み、その影響をうけて儒教の理論上無理な父気の優越を説く人物が出現した

344修都:2022/10/16(日) 13:08:49 ID:f50dInU2
矢木毅「高麗国とその周辺」
918年、王建が高麗国を建てる→高句麗の継承を謳った。年号は天授→中国の冊封に頼らないことを意味する。936年、朝鮮半島を統一
933年には、中国5代の唐から冊封を受けており、天授の年号を停止している→その後も中国5代、北宋の冊封を受けている→一方で、独自の年号を使うこともあった
993年、契丹が高麗に侵攻→994年、契丹に朝貢し、契丹の年号を使う。高麗と北宋の国交は途絶→高麗国王は契丹の冊封を受けながらも国内的には皇帝を気取るようになる
1070年、高麗から北宋に使者が遣わされ、1071年、北宋に朝貢→一方で、女真族の金朝とも軍事同盟
→金とは対等な関係だったが、金が遼(契丹)を破ると朝貢を要求される→現実的な情勢判断として、1126年、金に朝貢
→遼や金に服属していた時代、国内的には高麗国王は皇帝を気取っている
→モンゴル(元)の冊封を受ける→遼・金の時代とは違い、国内的に皇帝を気取ることはしていない→遼や金と違い、元は中国本土・天下を統一している

345修都:2022/10/17(月) 20:12:17 ID:f50dInU2
中島楽章「大交易時代のアジアの海域世界」
13世紀後半以降、モンゴル支配の時代、中国から西ユーラシアへ銀が流出→気候寒冷化とペスト大流行による14世紀の危機→銀流出途絶。ユーラシア全域で銀不足
15世紀末以降になると温暖化、ユーラシア各地で経済が拡大、ヨーロッパにおける銀生産も急増
1570年前後、朝貢・互市(交易)などの多様な貿易ルートが併存するようになる。16世紀中期以降、貿易利潤の集積と西洋式火器の導入により、東アジア海域では軍事国家が成長
16世紀中期以降、日本銀・アメリカ銀の生産急増とともに膨大な銀が海域アジアに流入。特に中国は産品需要により銀が最終的に流れ込む排水口となる

346修都:2022/10/18(火) 20:11:53 ID:f50dInU2
岡本隆司「清朝をめぐる国際関係」
16世紀まで、モンゴルを除くと明朝に自立的な政治勢力は存在しなかった→17世紀、南海上の「倭寇」後裔・大陸北東のジュシェン(女真)が自立的な勢力に
1644年、明朝は自滅→清朝に。清朝は明朝の制度をそのまま受け継いだ→明朝からの対抗勢力を一掃するのに40年かかった→海上勢力も制圧すると交易を認める
→明朝は朝貢一元体制だったので交易は密輸にならざるを得なかったが、清朝では交易(互市)は現地の人間に任せた
18世紀半ば、現在の中華人民共和国の領域が清朝の領域になる→難局に対処をくりかえした結果、モンゴル・チベット世界も併せることになったにすぎない
→多元的な勢力は、多元的なまま存続し、共存する体制になった。従前の慣例・構成に手をふれない
18世紀後半、西洋貿易が拡大し、膨大な銀が流入、未曽有の好況となった→爆発的な人口増加→未開地の開拓→開拓民と現地民の摩擦、治安悪化

347修都:2022/10/19(水) 19:54:27 ID:f50dInU2
岩井茂樹「明朝の中央政治と地域社会」
明朝を建てた朱元璋の課題→中華の恢復。モンゴル語、トルコ語などや遊牧騎馬民の風俗禁止。皇帝独裁体制
宋代以降、郷や村などを賦税課徴の単位としようとしていた→明代、里甲が基層組織として全国画一に編成された。里は百数十戸からなる
徴税運搬を行う糧長の公務は代行役に請け負われ私的な営利事業となる。里をまとめる里長の職も請け負われるようになった→職務の負担が大きく、代行者に請け負わせた方が得だった

348修都:2022/10/20(木) 19:56:29 ID:f50dInU2
大木康「明代中国における文化の大衆化」
宋代までの科挙では、文学的な能力、政治家としての資質が試された→明代から安易な文章でもよい試験になる。詩人の大衆化
明末から文人趣味の指南書があらわれる→文人趣味なども庶民の間へ伝わっていく。新興成金が指南書を求めた。明末、経済的先進地域である江南地方では印刷の普及で大衆伝達社会が成立
『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』などは明末に完成

349修都:2022/10/21(金) 20:11:27 ID:f50dInU2
杉山清彦「マンジュ大清国の支配構造」
マンジュ国を興したヌルハチは、1616年ハン位について金という国号を立てた→ホンタイジは1635年ジュシェンからマンジュに民族名を定め、36年皇帝位につき、大清国の国号を定めた
八旗制→それぞれをまとめる旗王たちの代表として皇帝がいる
支配は在来の統属関係を維持し、現地支配層を統治組織に組み込み間接支配するもの。マンチュリア、モンゴル、チベット、東トルキスタンには漢人の入植・移住を禁じる
清代、マンジュ人支配層内部の反乱は一切起こっていない→強い求心力と厳格な統制→マンジュ人が区別される存在であり続けることが必須→漢人との通婚禁止、居住地も区別
大清皇帝はマンジュのハン、明皇帝を継承した天子、モンゴルを従える大ハーン、チベット仏教の保護者、ムスリムを是認する君主である
大清王権の政治は、独裁的な権力をもつ皇帝が、身辺に集めた側近によって運営する側近政治であった→その体制を自らは統御できない幼帝となったときが西太后らの時代

350修都:2022/10/22(土) 20:11:23 ID:f50dInU2
柳澤明「清朝時代のモンゴル社会」
1636年、ホンタイジが皇帝を称する頃には漠南モンゴルの大部分の集団は大清の傘下に入った→清帝国は満洲人と漠南モンゴル人が連合し、漢人勢力の協力を得つつ、中国内地を併合した
1696年、康熙帝が漠北に親征→清帝国とロシア帝国の勢力圏がモンゴルでも接触→1728年、キャフタ条約で国境定まる
18世紀前半から、モンゴル語ができないモンゴル旗人(八旗に構成されたモンゴル人)が目立つようになる
1881年、サンクトペテルブルク(イリ)条約→ロシア人のモンゴル全域での商業活動が認められる→漠北モンゴルがロシアとの連携のもとに独立を果たすことになる背景の一つ

351修都:2022/10/25(火) 19:56:14 ID:f50dInU2
岡田雅志「近世後期の大陸部東南アジア」
18世紀、中国経済成長と人口の増加→流出人口の受け皿が東南アジア→東南アジア諸政権は、財政を立て直す機会として中国商人を歓迎→華人の現地経済への関与が強まる
大陸部西部のビルマ、中央部のシャム、東部の大越は大国化していく
日本の銅輸出制限→雲南〜内陸山地にかけての鉱山開発進展→移住集団と在来社会の間に対立

352修都:2022/10/26(水) 20:47:00 ID:f50dInU2
六反田豊「朝鮮時代の国家財政と経済変動」
朝鮮史上最も高度な中央集権的支配体制を実現した朝鮮王朝は、経済への管理・統制が一層顕著だった
朝鮮初期の国家財政は徹底した現物主義→商業的な物資調達は抑圧
15〜16世紀、農地開発→官人・士族層の私有地拡大
様々な形態で賦課されていた税物は15世紀末以降、米・綿布へ一元化されていく→米や綿布の生産拡大
大同法→100年かけて各種負担を地税化

353修都:2022/10/27(木) 19:29:08 ID:f50dInU2
松井洋子「近世日本の対外関係と世界観」
織田信長の天下は京都あるいは畿内を指す→信長後、日本全国を統一した秀吉は、ルソンや高山国(台湾)へ服属を求める書簡で統一は天命であるとしている
キリスト教に対峙する論理としては神国を持ち出す
秀吉の構想では明にかわって日本が中華となる→講和では秀吉は明の冊封を受けている→冊封が華夷秩序に入るものだと理解されていない
徳川政権が日本人と異国人を区別する指標となったのは住居や家族を持ち住み着いていること→支配領域に住み続ける人々が非キリスト教徒であることを証明することが制度化
徳川政権の対外関係の枠組みは関係修復が実現しなかった中国を中心とする華夷秩序の傍らに、日本中心の華夷の関係が存立しているというもの

354修都:2022/10/28(金) 19:47:17 ID:f50dInU2
太田淳「グローバル貿易と東南アジア海域世界の「海賊」」
マレー海域の貿易を主導したブギス人→オランダ東インド会社はこの貿易を敵視、攻撃→ブギス人のラジャ・アリはスカナダに要塞を備え貿易を行った
→オランダ東インド会社はラジャ・アリを海賊と呼んだ→しかし、海賊行為と商業活動が混然とした小規模な港市は数多くあり、スカナダだけがそうだったわけではない
実際のところ海賊は商業軍事集団であり、利益を長期的に得るために場合によって略奪か購入かを選んだ
イギリスの進出を警戒するオランダ→海賊の鎮圧は貿易促進のためであると同時に平和と秩序をもたらすために必要として植民地支配を正当化
→しかし、現地制圧のために海賊である現地有力者を近代的体制の中に取り込んでいる→海賊鎮圧のために商業軍事集団に独立国を与える

355修都:2022/10/31(月) 18:58:07 ID:f50dInU2
秋葉淳「オスマン帝国の諸改革」
19世紀、タンズィマート(改革)→課税の対象が地域ではなく個人に→免税特権を認めないことから有力者の反感、税負担が軽減されなかったことから農民層の不満
中央から地方に官吏を派遣し、評議会を組織してその協力のもと改革を進めた
1856年、官立学校が非ムスリムに開放される→オスマン国民の養成→しかし、非ムスリムには共同体の学校があり、外国の支援を受けた学校などもあったため政府の学校は魅力に乏しかった
1876年のオスマン帝国憲法公布と翌年の帝国議会開設はタンズィマート改革の一つの到達点→しかし、1878年ロシアとの対立で批判が高まると議会は閉鎖される
→スルタンのアブデュルハミトは専制体制→しかし、地方に官職が作り出され、在地の名望家や知識人が職に就いた→国家による統合と住民の国家制度への参入→地方社会のオスマン化
新しい教育→教育や儀礼などを通じて、また学校建築によっても地方社会もオスマン帝国の一部であるという事実を意識させる
マケドニアでは民族主義者の武装組織がゲリラ戦→オスマン政府は対処できず→この混乱の中でマケドニアに配属された将校の反乱から青年トルコ革命が始まる
19世紀の改革によりオスマン帝国の国家権力はかつてないほどに浸透した→しかし、マケドニアなどの農民が自らをオスマン国家の一員と意識したかどうかは疑わしい

356修都:2022/11/07(月) 19:28:31 ID:QPJxpke.
井坂理穂「一九世紀インドにおける植民地支配」
東インド会社は19世紀前半までに、インド亜大陸の大部分を支配下においた→1857年、インド大反乱→ムガル帝国滅亡、1877年ヴィクトリア女王がインド皇帝に即位
18世紀後半のインドにおけるイギリスの司法→刑事訴訟はイスラーム法。民事訴訟はヒンドゥーにはシャーストラの法、ムスリムにはクルアーンの法
→それまでのインドでは、統一的な法が無かったが、ヒンドゥーとムスリムはそれぞれ同じ法が共有されることとなった
1780年イスラーム法に通じた人材育成のためのカルカッタ・マドラサ設立、1791年ヒンドゥー法に通じた人材育成のためのサンスクリット・カレッジ設立
→それまでの知の伝統を引き継ぎつつ、東インド会社の統治体制や権威を築くという会社の方針
19世紀半ば以降、社会・宗教改革運動→推進派、反対派ともに訴訟に関わる→統治のために導入された司法制度は、在地社会の状況にあわせて利用され、インド社会に根づいていった
インド各地でヨーロッパ人と現地のエリートの協力のもとに教育活動発展→在地の知の伝統を重視する人々と西洋の知を積極的に取り入れることを目指す人々の両者がいた
もともとインドのエリート層は複数の言語に精通している→英語はそのなかに加わった一つの言葉にすぎない→英語を重視する主張が優勢に
→ただし、英語教育を受けることのできた層は限られている→そのエリートたちが集う場としてインド国民会議→のちにインド独立運動を率いる
インドでは、在地社会の構造や慣習などを反映しながら多様な教育活動が展開。特定の宗教コミュニティやカーストと結びついた教育機関が存在
在地エリートは女子校を設立→イギリスによるインド社会批判のなかで女性の地位の低さが強調されていたから→しかし、そのエリート達も女性が過度に西洋化することは警戒

357修都:2022/11/08(火) 21:05:35 ID:QPJxpke.
石川亮太「朝鮮の経済と社会変動」
17世紀半ば1000万人程度であった朝鮮の人口は、18世紀末に1800万人程度でピーク、19世紀初めの大飢饉で1600万人程度まで急減
→18世紀末までの人口増加が環境制約を悪化させた可能性→燃料材の需要や耕地拡大による山林の荒廃
19世紀に多発した民乱は租税の過重や不公平への不満を引き金としたもの。人口圧が高まり耕作地も零細化していた
商業では市場の秩序を維持し商人の権力を保証する役割を公権力が集中的に担っていた
1876年日朝修好条規→交隣関係の回復であり西欧的な条約体制への参加という意識は希薄。日清戦争勃発まで、清朝との宗属関係と条約関係は矛盾をはらみつつ併存
朝鮮と日本では、衣料品と食料品の分業=綿米交換体制が植民地化を待たずして形成→食糧需給との摩擦→防穀令(穀物搬出禁止措置)
→商品米の一部が日本に向かい、価格の上昇→人々の窮迫、地域社会の緊張

358修都:2022/11/09(水) 19:48:38 ID:QPJxpke.
黒木英充「変容する「アラブ社会」」
オスマン帝国では、総督と都市民との間に暴力的紛争が発生しても、都市民はイスラーム法官を通じて正義を主張し、秩序を維持していた
→19世紀には、その法官も社会の柱石たりえなくなっていた。シリア内陸部では徴税請負が浸透しており、農村の矛盾は都市の暴動で解決されることがあった
→19世紀半ば以降、タンズィマート改革で徴税請負が廃止され、直接的徴税の仕組みが整うと、大規模な都市暴動はなくなった
エジプトでは奴隷軍人マムルークが支配層を形成し続けていたが、アルバニア出身のムハンマド・アリーはマムルーク有力者層を一掃し、徴兵制など近代国民国家に特有の制度を導入
→エジプトの事実上の独立国家化→ムハンマド・アリーの息子イブラーヒーム・パシャはオスマン政府からの解放者としてシリアに乗り込み占領。キリスト教徒・ユダヤ教徒を優遇した
→イギリスはロシア、オーストリア、プロシアと連合し、オスマンも従えてエジプト軍を攻撃、シリアから撤退させた
レバノンでは、マロン派(カトリック)・キリスト教徒・エジプト軍・フランスとドルーズ派(イスラム)・ムスリム・オスマン・イギリスが対立・内戦→内戦後、行政会議定員が宗派別に配分された
→これがレバノンの政治体制を規定する宗派主義の起源
ムハンマド・アリーの支配権が認められた1840年以降、オスマン政府の言論統制を嫌う知識人らはエジプトに渡った。レバノンは30〜40万人規模の人口のうち10万人程度が流出した
→人口増による土地所有細分化、日本・中国産の安価な生糸との競争に敗れたのが移住の主要因
19世紀から第一次世界大戦までは南欧・東欧から膨大な人口が新大陸に向かった時代であり、レバノン・シリアからの移民もヨーロッパ移民と同じくニューヨークやリオデジャネイロなどを目指した

359修都:2022/11/10(木) 19:48:05 ID:QPJxpke.
阿部尚史「イランの一九世紀」
19世紀、イランを支配したのはトルコ系のカージャール朝。シーア派信徒の守護者としての統治理念を正当性の根拠においた
中央ユーラシア地域をめぐるイギリスとロシアの覇権闘争→イラン=ロシア戦争→第一次ではイランはイギリス・フランスの支援を受けた→第二次でコーカサス南東部を失う
→トルコマンチャ―イ条約は関税自主権喪失など不平等な内容→以後、ロシアは圧力をかける存在となる
19世紀イランでは、民事司法は法学者の独自な法廷で解決されていた→強制執行には国家権力に協力してもらう
イランで近代化改革を始めたのは、アゼルバイジャン州総督アッバース・ミールザー→軍制改革など→ミールザーの死後、継続しなかった
19世紀後半以降、イランの近代的知識人はイスラーム以前の起源を研究→シーア派信仰と並んで現在もイランの国民意識として機能
イランのナショナリズムは伝統と近代が絡み合うなかで創り上げられていった

360修都:2022/11/11(金) 20:03:09 ID:QPJxpke.
宇山智彦「ロシアと中央アジア」
ロシアは、ユーラシア国家としての性格を当初から持っていた→ピョートル1世期(1682〜1725)以降、ヨーロッパ諸国に倣った改革を進める→近代化と専制権力の維持という二面性
中央アジアでは、住民のほとんどが異族人の身分に入れられ、現地有力者が帝国の貴族層に組み込まれることは一部の例外を除いてなかった
大部分がロシア支配下に入っていた中央アジア民族はカザフ人だが、カザフ草原東部はロシアと清に両属していた→ロシアはカザフ人に対する支配権を確立していく
ロシアは、草原地帯では安全な国境線を設けられないために領土を広げたが、占領地を守るにはその向こうも占領しなければ安心できないということになり、拡張を続けていった
英露は中央アジアでは、大国中心の国際秩序、帝国競存体制を作ろうとしていた
ロシアは、イスラーム法の適用範囲を限定し、文書主義・判例主義を導入した→ヨーロッパ諸国に植民地化、圧力を受けたイスラーム諸国と共通
イギリスのインド統治に比べ、ロシアは現地人協力者の育成・活用に消極的
ロシアが中央アジアに領土を得たのは安全保障上の動機によるところが大きく、利益を集めることを重視したイギリスとは大きく異なる
→1880年代以降は、モスクワなどの繊維産業を支えるために中央アジアでの綿花生産が急速に伸びる
ロシア帝国のヨーロッパ部は人口増加・土地不足に直面しており、20世紀に入る頃には中央アジアへの移住を奨励→現地民との緊張が高まる→知識人を中心に自治運動
→国民国家形成の萌芽。ソ連の時代を経て、実際に独立国家が成立していく

361修都:2022/11/14(月) 19:35:29 ID:QPJxpke.
小林亮介「一九世紀の清・チベット関係」
ダライ・ラマ政権の母体であるチベット仏教ゲルク派は新興勢力→カルマ・カギュ派の勢力を打ち破り、1642年ラサにダライ・ラマ5世を最高権威とする政権樹立
→カムの東半分やアムドには多くのチベット系在地有力者が割拠、多くはグーシ・ハーン一族の支配を受けていた
乾隆帝の時代は清とダライ・ラマ政権の関係が良好に保たれた時代→背景にアムドの僧侶達の活躍→以後の皇帝には、乾隆帝のチベット仏教への敬意は必ずしも継承されていない
ダライ・ラマ九世以降はラサの一握りの寺院出身の僧たちが摂政として代々大きな力を振るうようになる
カムの争乱→中央チベットに対する清の影響力後退、内地との交通が阻害された。ダライ・ラマ政権も四川からの茶の輸入が断絶した
→カムの秩序回復が必要→チベットはカムの多くの首長に服属を誓わせた→管轄をめぐり、ダライ・ラマ政権と清四川当局の間で紛糾→イギリスがヒマラヤ・チベットで情報活動
→ダライ・ラマ政権は英軍に敗北→ダライ・ラマ政権は反英姿勢を貫いたが、清内部ではチベット喪失の事態に備えてニャロンを四川省へ回収すべきという強硬論→実行
→清はもはやチベット仏教の護持者ではなかった→ただし、清も関係悪化は回避すべきと判断し、ニャロンを返還→ダライ・ラマ13世はロシアと接触→イギリスはラサへ進撃、ラサ条約締結
→イギリスの経済進出。しかし、ダライ・ラマ政権にとって最大の脅威は、清だった→清はチベットを支配しようとした→ラサに進軍、ダライ・ラマ13世はインドに逃れる
1912年に誕生した中華民国は清朝版図の継承を唱え、チベットにも新国家への参加を呼びかける→1913年ダライ・ラマは独立宣言

362修都:2022/11/15(火) 19:49:02 ID:QPJxpke.
小泉順子「近代シャムにおける王権と社会」
19世紀前半のシャムは活発な交易を行う多数の中国人を有し、米や塩など競争力のある輸出品を有する国とイギリスに思われていた
1826年、イギリスと条約締結→米、武器、アヘンを除く貿易→1855年、バウリング条約。イギリスはシャム船・中国船と同じ条件で貿易参入。アヘンは徴税請負人以外に販売すること禁止
→アヘン税は賭博税に次ぐ財源に
シャムは英領との国境制定には関心が薄かったが、ビルマやベトナムなどには軍事力を行使→カンボジアはベトナムとシャムの両方に朝貢
1852年、第二次英緬(ビルマ)戦争が始まるとイギリスが戦う様子を見せてほしいと希望。フランスとはカンボジアをめぐって交渉→1867年、フランスのカンボジアに対する保護権を認める
1893年、フランスと衝突、イギリスの介入も得られず、メコン川左岸は仏領となった→英仏両国が国境制定交渉を行い、シャム中核域の中立化を宣言

363修都:2022/11/16(水) 21:03:18 ID:QPJxpke.
村上衛「清朝の開港の歴史的位相」
18世紀の中国はかつてない規模の人口増大。しかし、農業の技術革新は緩慢で農業生産性の向上には限界
広州貿易に制限はなく、18世紀後半からの茶貿易発展で対欧米貿易が急速に拡大。貿易管理は困難になっていった。アヘン貿易も拡大し、銀流出を招き、中国経済の停滞を引き起こした
清朝は王朝創設期に設定された国家財政に拘束されていた→18世紀の物価の上昇により国家財政は縮小、小さな政府となっていった
→経費が不足していた地方政府は非公式の収入をおこなったが、それが不公平な徴税や腐敗を招いた
アヘン戦争後の南京条約→低関税による自由貿易が実現するはずだった→密輸と海賊により自由貿易は機能しなかった
貿易赤字は拡大し、銀と銅の交換レートは著しい銀高となり、農民や手工業者は打撃を受け、治安悪化→太平天国拡大の原因
イギリスは輸出拡大をねらい、フランスと第二次アヘン戦争を引き起こし、天津・北京条約で自由貿易を実現するための要求をほぼ実現した
密輸については、外国人税務司制度を導入し、概ね解決。清朝地方官がイギリスに依頼する形で海賊の掃討も進んだ
開港場は、業務を委託された欧米人を利用しつつ、中国におけるネットワークの中心となり、開港場システムが成立
1850年代後半から生糸と茶の輸出が本格化。国産アヘンの大量生産によってアヘンの輸入減少→1864年には貿易黒字。銀の流入をもたらし、中国経済復調。関税収入は増大し続けた
太平天国などの諸反乱による膨大な犠牲は人口圧を緩和した
東南アジアなどへの海外移民も大幅に拡大→19世紀後半以降、華南沿海諸都市は東南アジアからも米の供給を受けることが可能になり、食糧供給安定
中国の小農経営には制約が少なく、清末においても有利な商品作物を選択して作付けし、場合によっては移民先で生産を行い、多様な一次産品生産に貢献
華人は欧米や日本が開港場や植民地に張り巡らせた銀行などのインフラを利用してネットワークを拡大
開港場貿易を円滑ならしめたのは、開港前から存在した経済的制度であり、欧米の技術と制度をもとに生まれた開港場のインフラと結びついて開港場貿易の発展をもたらした
→しかし零細な生産体制に変化は無い→茶などの国際的な競争力の低下。外部の衝撃は内地に伝わらなかった
華人のネットワークは同郷・血縁関係をもたない人々には閉鎖的なネットワークであり、ましてや外国人は入り込めず租界に押し込められ、内地経済へのアクセスにはつながらなかった
義和団事件まで欧米は中国における権益を拡大したものの、影響力は点と線にとどまり、内地の利権構造に手をふれることは無かった
→イメージとは異なり、20世紀の世紀転換期、外国の影響力は中国内部に浸透するどころか、外縁に押し出されていく→日本のみが例外的に領域支配を拡大、内地への浸透を図る
→中国ナショナリズムと衝突することになる

364修都:2022/11/17(木) 20:46:30 ID:QPJxpke.
谷本雅之「日本経済発展の始動」
17世紀、近世日本は人口が顕著に増加→耕地面積の大幅な拡大。城下町の建設・拡充→18世紀に上限→肥料(魚肥)となる水産資源を求めて蝦夷地へ
18世紀、民間需要の拡大・成熟→海外との技術知識の交流は極めて乏しい→日本列島内での技術知識の普及。農村への生産の場の移動
関税自主権が無いという意味でも開港によって自由貿易が始まった→新たな生産受容(生糸)と中間投入財の供給源(輸入綿糸)
→1870~80年代以降、ヨーロッパの産業技術移転→1890年代半ば、国産綿糸による国内市場の輸入代替達成
農家は自家労働力の戦略的な配分先として工場労働を選択→繊維大工場も小農経営の論理の中に位置づけられている
維新政府の果たした役割は、西欧の産業技術導入。明治維新後の実際の産業発展を主導したのは民間
中央財政は軍事支出に傾斜。物的インフラや人的資本の形成で地方政府による財政支出の果たした役割は大きい
地方財政の基盤は在地の資産家の担税力→19世紀以降の農村・地方経済の活性化の中で影響力を強めた豪農が地方資産家・名望家層

365修都:2022/11/20(日) 15:41:56 ID:QPJxpke.
鶴島博和「中世ブリテンにおける魚眼的グローバル・ヒストリー論」
ローマ属州時代のブリテンでは淡水魚や沿岸の漁労が活発。魚食は一般的でなかった→8世紀、司教ウィルフリドが南サクソンで漁労を教えた
→漁業のためには防腐剤の塩が必要→製塩のためには燃料が必要→森から資源を切り取る。海岸線から目の前のある所までの水域は所領に属していた→漁場の成立
1000年、出土する海水魚の魚骨が急増。この時期は、温暖化が進み人口が増加した→鰊漁が主要産業に
中世のイングランドは塩の一大生産地。人間に必要な塩を除いても相当の余剰が発生しており、余剰が鰊漁を支えた
鰊漁師たちは武装集団であり海賊行為におよぶ可能性がある→海事に関する役務を課し、見返りとして漁業権を保証する

366修都:2022/11/21(月) 21:04:39 ID:QPJxpke.
藤井真生「帝国領チェコにみる中世「民族」の形成と変容」
現在のチェコの領域に国家が登場したのは9世紀後半→ボヘミア統一→東フランク王国(後の神聖ローマ帝国)が進出→970年代、支配を受け入れる→ボヘミア大公領
→ボヘミアは部族連合から国として認識される政体に成長→チェコ族からチェコ人へ
チェコ東方はモラヴィアで別の領邦→皇帝への奉仕で遠征するとボヘミア人とモラヴィア人は一括して扱われる→チェコ人という区分。聖ヴァ―ツラフ崇敬でも両者は共通している
14世紀、ボヘミアの人口の6分の1はドイツ人植民者であったという→宮廷の高官、各地の領主層から都市の上層市民までが「外国人」を嫌悪の対象とした→外国人は「ドイツ人」とほぼ同義
1306年、9世紀以来続いてきたボヘミア王のプシェミスル家が断絶→国外勢力が入り乱れ、王位継承をめぐる争い→皇帝の長子を迎える→ルクセンブルク朝→チェコの貴族は2度の反乱
かつて、異端とされたフス派はチェコ人固有の信仰・思想とされた→実際はチェコ内部で等しく受け入れられたわけではない
フス派がチェコ語で説教などをおこなったのは重要だが、ラテン語やドイツ語でもチェコ人説教師は活動していた。フス派に参加するドイツ系住民も多数いた

367修都:2022/11/22(火) 21:02:14 ID:QPJxpke.
五十嵐大介「西アジアの軍人奴隷政権」
1000年から1500年頃まではアラブ系やイラン系ムスリム住人とは言語的にも民族的にも文化的にも遊離した外来の支配者集団が西アジアを支配
→支配の基盤はイクタ―制。徴税権を軍人に委ねる→イクター制で獲得した富をウラマー(イスラーム知識人)に寄進する
マムルーク朝(1250〜1517)はマムルーク(軍人奴隷)のみが支配層を占めていたわけでも、軍人奴隷という出自が重視されたわけでもなかった
有力軍人が実力でスルターン位を獲得した時代→カラーウーンの息子ナースィルが絶対的な権力を確立し、彼の血縁者が世襲した時代→ナースィル期を実力で変えようとした時代
→実力でスルターン位に就くことが確立した時代。これらの時代にマムルーク朝は分けられる
→ただ、実力で即位しても前任者と姻戚関係を結ぶことは地位に正当性を与える一つの手段だった
イスラーム法では、男性は4人まで妻を持てたが、15世紀のエジプト・シリアでは、一夫一婦制が主流→スルターンにもその波。妾を持たないスルターンもいた→ペストの流行もあり、少子化
→実力でスルターンになる背景には少子化があったのでは

368修都:2022/11/23(水) 19:24:29 ID:QPJxpke.
小澤実「異文化の交差点としての北欧」
スウェーデンを出自とする東方へ拡大した北欧人が東方ヴァイキング。東スラヴ人らを核とした集団がルーシ。ビザンツ帝国と関係を深めた集団がヴァリャーギ
9世紀、ノルウェーヴァイキングが拡大し、ブリテン諸島北部沿岸部と北大西洋諸島は北欧人が定住する空間に
グリーンランド植民(15世紀に放棄)→鷹の産地、シロクマの産地、セイウチの産地(牙が貴重)
中世アイスランドは「サガ」と総称される特異な文献を大量に生産した→一定程度以上の事実が物語の核になっている。異集団(中東や新大陸など)との接触と交渉が描かれている

369修都:2022/11/24(木) 19:13:38 ID:QPJxpke.
黒田祐我「レコンキスタの実像」
イベリア半島北に分立したキリスト教諸国が展開したアンダルス(イスラーム支配域)に対する軍事活動は十字軍運動の西方戦線
イベリア半島の征服では、既存のモスクを再利用する方法が採られた→教会へ転用→キリスト教が都市景観の主役であることを明示する
ムワッヒド朝が1212年の敗北後、内紛によって瓦解していくなか、大レコンキスタと称される征服活動が遂行されていく→この時期でもモスクは教会として再利用される
→大聖堂を建て直す事例もこの時期にはある
13世紀半ば、イスラームのナスル朝はカスティーリャ王の家臣として振る舞いつつ友好関係を維持しようとした。ナスル朝でも西欧化が進行した
1492年、グラナダ降伏でナスル朝は滅亡。約800年続いたアンダルスの終わり→それでもモスクは教会として再利用された

370修都:2022/11/25(金) 19:58:47 ID:QPJxpke.
三浦徹「宗教寄進のストラテジー」
イスラームのワフク→寄進(寄付)する行為
ワフクは11世紀以降に活発となり、一般民も家族や宗教・慈善を目的としてワフクを行っていた
ワフクの目的→来世での救済。名声・名誉の獲得。墓所の確保。財産の継承→財産の継承目的での寄進はヨーロッパではほとんどみられない
ワフクは市場経済的な合理性をもつ→ワフクの管財人は寄進財の収益を使って新たな財をワフクとすることができる。ワフクの特徴は、任意の規模で寄進や経営ができること

371修都:2022/11/26(土) 15:46:22 ID:QPJxpke.
久木田直江「「女性の医学」」
キリスト教では、人間が病から回復するには改悛と罪の赦しが不可欠と考えられた→キリストを霊的な医師、薬剤師と考える伝統
同時に西洋中世はギリシア医学を継承している→宇宙をマクロコスモス、身体をミクロコスモスと捉えて人体の働きを説明する。4大元素説→病気の原因は体液バランスの崩れ
4大元素説→男性は優れた性質、女性は劣った性質
キリスト教会は、霊の在り方において男女は平等であるとしながらも、人間の罪はエヴァに始まるという認識に縛られていた
神学者はヴァージニティ(処女性)を魂の救済と結びつけ、純潔を憧憬。古代以来、月経は有害と受けとめられ、女性蔑視の思想を先鋭化させた
中世における治療者のイメージは圧倒的に女性→しかし、女性に学問的権威が与えられることはない
女性の医学の男性化→女性医師が書いた女性の身体と健康に関する『トロチュラ』の大多数の写本は女性の生殖機能に関心を持つ男性読者に所有されていた

372修都:2022/11/27(日) 13:17:38 ID:QPJxpke.
辻明日香「イスラーム支配下のコプト教会」
アラブの支配者たちはエジプトで、村落共同体の内的自治に干渉することはなかった。キリスト教徒やユダヤ教徒は自治権を与えられた→ジズヤ(人頭税)を支払う限り教会法に従ってよい
8世紀、イスラーム教への改宗が増える→税回避目的→コプト教会(エジプトのキリスト教会)は殉教者の教会というアイデンティティを確立していく
教会とイスラーム政権との関係は良好とは言い難かったが、コプト(イスラーム支配下のエジプト人キリスト教徒)を官僚として積極的に登用
マムルーク朝期にはコプトの総司教は影の薄い存在になり、政権と教会の間を取り持つ信徒らが改宗していくと教会は窮地にさらされる
マムルーク朝の1301年、ズィンミー取締令→キリスト教徒は青、ユダヤ教徒は黄色のターバンを着用
→抵抗があったが、14世紀後半になるとターバンはキリスト教・ユダヤ教の証として誇りをもって受け入れられるようになる

373修都:2022/11/28(月) 19:55:59 ID:QPJxpke.
佐々木博光「中世のユダヤ人」
13世紀以前、ユダヤ人は商業特権によって保護されていた→13世紀以降、特権が剥奪され、やがて都市を退去させられる
→ユダヤ人の地位低下は11世紀末には始まっており、十字軍に襲撃されている。また、キリスト教徒のこどもの失踪や殺害があるとユダヤ人に嫌疑がかかった
→ユダヤ人の儀式にキリスト教徒のこどもの血が使われているという言い伝え
ユダヤ人は地域社会の一員として、キリスト教徒と共生関係にあった。しかし、激しい差別にさらされての共生→その共生もやがて破綻

374修都:2022/12/17(土) 18:01:46 ID:QPJxpke.
寺嶋秀明「狩猟採集民の世界」
アフリカは地球上のどこよりも早く人類が登場し、今日まで生き抜いてきた大陸→多様性
現在のピグミー人口は、およそ20~30万人で、世界で最も多い狩猟採集民。今日では生活のあり方は一様ではない→小柄なのは森林に適応したからではないかという説
アフリカ狩猟採集民では、男は狩猟、女は採集といった分業が普通→ただし、女も参加する狩猟や女だけの漁もある。男も採取を手伝うし、子守する。ほとんどが一夫一婚
食物はバンド(生活集団)全体に分配される。バンド内は平等主義、個人や家族の自立が尊重される。元来リーダーはいないが、現在、行政上の理由で名目的に代表とされる人がいる
バンド内での争いの有効な解決方法は、バンドを離れること→ほとぼりがさめると戻ってくる。バンド間にも優劣はない
このようなあり方は、世界各地の狩猟採集社会で認められる
テレビで砂漠の狩猟民と紹介されてきたサン(ブッシュマン)は、実際は草や灌木におおわれた砂の大地に住んでいる→外来勢力の迫害によって極限的な環境に追いやられたが生き抜いてきた
→1970年代から始まったボツワナ政府の定住化政策で試練の時代→原野に分散して自由に暮らしていたのが、指定された地区に集住して暮らすことになった
数千年かかった熱帯雨林への農耕民進出→ピグミーとの混血。ピグミーは農耕民を通して鉄器やバナナを入手した→農作物と森の産物との交換→ピグミーの農耕民への隷属化には至らなかった

375修都:2022/12/18(日) 13:53:13 ID:QPJxpke.
坂井信三「トランスサハラ交易と西アフリカ諸国家」
サハラが砂漠化するにしたがってアフリカ南北の交流は制限されていった。7世紀のイスラーム勢力による北アフリカ征服以後、サハラ越え交易→南北の人種的・文明的対比は鮮明
希薄な人口、低い生産力、文字記録の不在などのためサハラ以南は未開とみなされた
トランスサハラ交易の上に立って統一交易国家が繫栄した時代がアフリカにはあった(マリ王国など)→マリが衰退すると政治権力が拡散していく

376修都:2022/12/19(月) 19:31:53 ID:QPJxpke.
鈴木英明「沿岸部スワヒリ世界の形成と展開」
1世紀半ばには沿岸部スワヒリ(アフリカ東岸)で渡海者男性と現地女性との通婚が一定程度あり、そうした人々が媒介者となって遠隔地交易が展開されていた
11世紀前後、アフリカ大陸東部沿岸は海洋資源や海上活動に高く影響されている→サンゴやマングローブを建築に用いる→内陸部との文化的紐帯は弱まる
18世紀までの沿岸部スワヒリ世界は外部と接触する機会も相手も限られていた→19世紀、ブー・サイード朝がザンジバル島に拠点形成
→欧米商人の大陸沿岸での商業活動を認めない一方、ザンジバル島ストーン・タウンからの輸出を無税にし、一極集中を試みる
沿岸部の港町では象牙などの需要が増加するに伴い、沿岸部の人々がアフリカ奥地まで赴くようになる→沿岸部と内陸の長距離交易網
沿岸部からの奴隷輸出は19世紀に最盛期。奴隷は他の商品と異なり、ザンジバル島を経由しなかった
奴隷供給については、奴隷狩りと同程度に自らや家族を奴隷として売ることで生き延びようする事例も少なくなかった
1880年代以降、植民地化が進んでいくとザンジバル島は商業の中心で無くなっていった
1879年、ザンジバル島とペンバ島で奴隷制廃止→解放証明書を受け取ったのは全奴隷の1、2割→元奴隷は納税の義務、居所と収入源を証明する必要
→奴隷たちにとっては、自由身分と奴隷身分を天秤にかける行為だった

377修都:2022/12/20(火) 19:57:52 ID:QPJxpke.
網中昭世「植民地主義の展開」
アフリカの植民地建設初期の抵抗と弾圧は第一次世界大戦前後まで続いた。植民地軍や警察の側にもすでに相当数のアフリカ人が組み込まれていた
イギリスとオランダ系アフリカーナーとの南アフリカ戦争後、イギリスはアフリカーナーの共和国トランスヴァ―ルとオレンジ自由国を軍政下に置く
→1910年、2つの共和国とケープ、ナタール植民地をそれぞれ州として南アフリカ連邦成立。ドイツの植民地だった南西アフリカは第一次世界大戦後、南アフリカの委任統治領となる
→1946年、南西アフリカを事実上併合。南部アフリカでは、第二次世界大戦後、脱植民地化に逆行した植民地国家が形成された
南アフリカはイギリス植民地最大の金産地であった→南部アフリカでは1920年代には、金産地への移民労働を経験することが一人前の男として確立する儀礼とみなされていた
農村部では生産手段を奪われて鉱山の労働市場に参入せざるを得ない→移民労働システムの廃止を求めはしなかった
南アフリカでは、2017年時点でも白人所有の農地がアフリカ系南アフリカ人に移転されたのは10%程度

378修都:2022/12/21(水) 21:06:50 ID:QPJxpke.
武内進一「中部アフリカ」
中部アフリカの熱帯雨林周辺部には、植民地期以前、数多くの国家があった→16世紀以降、大西洋奴隷貿易が本格化すると奴隷獲得のための戦争や混乱で、これらの国々は衰退
熱帯雨林では、集権的な王国は成立しなかった
ルワンダの内戦でクローズアップされたトゥチとフトゥは社会階層を含意する言葉→トゥチが貧困化すればフトゥ、フトゥが豊かになればトゥチ
ルワンダ王国周辺部の人々がそうした自己認識を強く持つこともなかった→19世紀後半、トゥチの支配が強まると集団間対立が起こるようになる
中部アフリカ北部にはイスラームを受容した王国が多数存在したが、熱帯雨林地域への浸透は限定的。ヨーロッパ勢力の侵入も遅れた
コンゴ自由国を誕生させたベルギーのレオポルド2世はアフリカ人に狩猟・採集させ、低価格でゴム・象牙を買い付けた
→1890年代以降、ゴムの採集は義務化され、量を集められなければ刑罰が科せられた→糾弾の国際世論が高まると1908年正式な植民地であるベルギー領コンゴとなった
→ベルギー領コンゴではコンゴ自由国の反省からアフリカ人の保護と生活改善がうたわれた→中部アフリカでは多様な集団が移動を繰り返していたが、領域とメンバーシップが固定化された
ヨーロッパではトゥチがフトゥを征服して国家が成立し、人種が異なると考えられていた→ベルギーは両者を明確に区別し、トゥチに行政ポストや近代教育を与え、フトゥをそこから排除した
1960年、コンゴの独立が決まるが、洞掘採集の権益が独立国家の手に渡ることを恐れたベルギー資本が政治指導者チョンベを焚き付けた結果、コンゴ動乱が起こる
ルワンダでは、政治権力が一部トゥチに独占されていることが好ましくなかったベルギーはフトゥと親密な関係を築く→フトゥがトゥチ達を襲撃、追放→10万人を超えるトゥチが国外に放逐された
コンゴ動乱を収拾したのはアメリカの支援を受けたモブツだった→モブツ個人が国家を操作する仕組みをつくり、国名はザイールとなった
ルワンダなど中部アフリカでは一党体制の国々が次々と成立。いずれもモブツ政権と同様の性格で冷戦体制のなか、先進国から支えられた
→冷戦が終結すると西側諸国は民主化しない国には援助しない政策を打ち出したので、複数政党制に移行する国々が続出
1990年、30年前にウガンダに亡命したルワンダ難民の第2世代(RPF)が祖国に侵攻した→一旦は戦いは止まったが、94年ルワンダのハビャリマナ大統領の搭乗機がロケット砲で撃墜された
→政権はRPFによると主張し、報復→民兵らがRPFとトゥチを同一視し、トゥチ市民を無差別に殺戮。少なくとも50万人が殺害された
→和平協定を訴えたフトゥ政治家も多数暗殺されている→RPFと交渉するかどうかの対立が、エスニックな装いをまとって急進化した→殺戮が進むなか、RPFは首都を制圧し、新政権樹立
→政権側の勢力がザイールなどに逃亡。多数の難民キャンプが建設される→RPFがザイール国内ルワンダ系住民(AFDL)を動員して難民キャンプ掃討作戦
→AFDLはザイールのモブツ政権打倒を掲げて進軍開始。モブツ体制崩壊→カビラが政権を握り、国名がコンゴに戻った→政権の軍事部門はルワンダとウガンダが掌握
→カビラは両国と衝突、内戦→アフリカ大戦→2002年に紛争が終結したが、東部の治安は現在も回復していない
ルワンダは、RPFの統治下で軍事的性格を帯びるようになった。社会変革への強烈な指向があり、ルワンダの国会議員の女性比率は世界最高水準

379修都:2022/12/25(日) 18:23:02 ID:QPJxpke.
米田信子「歴史言語学からみるバントゥ系移民の移動」
アフリカ大陸の言語はアフロアジア大語族、ナイル・サハラ大語族、ニジェール・コンゴ大語族、コイサン大語族の4つに分けられる
バントゥ諸語はニジェール・コンゴ大語族に属するベヌエ・コンゴ語派の中のバントイドと呼ばれる語群の下位に分類される言語群→しかしアフリカ大陸の赤道以南に広く分布
ニジェール・コンゴ大語族の歴史は1万~1万2000年と推定。ベヌエ・コンゴ語派からバントゥ諸語という分派が始まったのは6000~7000年前
バントゥ諸語は祖地カメルーン西部から1500~2000年かけて200キロ程度移動。熱帯雨林の手前まで→その後、南アフリカまで移動
バントゥ移民は干ばつによって熱帯雨林にサバンナが出現すると南側へ移動した

380修都:2022/12/26(月) 18:01:42 ID:QPJxpke.
苅谷康太「アラビア語史料から見るアフリカ」
8世紀からアフリカに関する外部史料はあったが、12世紀頃からの外部史料はアフリカとそこに住む人々を劣った存在とみなす思想がより強固になっている

381修都:2022/12/27(火) 19:31:51 ID:QPJxpke.
杉山祐子「女性・ジェンダーからみるアフリカ史」
狩猟採集社会で肉を獲るのは男性だが、権力を行使するわけではない。子どもの養育も共同
アフリカの王国では王族女性が政治的な権力を与えられ、重要な官職を担っていた。女性の政治権力は、霊的な力と深く結びついていた
11世紀以降、イスラーム化の進展→父系原理が持ち込まれ、13世紀頃までに多くの国々が父系制に移行。それでも母系親族は力をもちつづけた
植民地化→出稼ぎに行った農村男性が現金を持ち帰ることで発言力が強まり、地域や世帯の長とされていく。女性よりも男性労働力に価値が置かれる
植民地政府は女子割礼を前近代的で野蛮として廃絶に動き出す→女性たちは自己割礼をして抵抗
植民地からの独立後も女性の位置づけは変わらなかった→それでも「伝統」(女性婚という女性同士の結婚など)を応用して女性の連帯がつくられている

382修都:2023/01/03(火) 17:05:22 ID:QPJxpke.
正木響「植民地経済の形成とアフリカ社会」
ヨーロッパでは18世紀後半には反奴隷貿易運動も盛んだった→アフリカ社会では奴隷制は一般的であり、奴隷制のような野蛮な制度を文明化するという植民地化を正当化する論拠となった
ヨーロッパはアフリカ側の首長と協定を結んで河口部を確保し、川を遡る戦略をとった→多くの川が大西洋に流れ出る西アフリカでは、主な河川ごとに支配国が異なる
セネガルではアフリカ内陸部に親族関係を持つメティス(ヨーロッパ化したアフリカ系住人)がアフリカの君主や商人との間で関係を形成し、植民地政府やフランス商人との間に介在した
1830年、セネガルで生まれた自由民の男性をフランス市民と同等に扱う政令。フランス市民でないものは臣民となり、アレテ(省令)やデクレ(政令)が適用
→フランスで共和制の実現に燃えるリーダー達は、植民地の住民にも自由・平等の精神を認めた。一方で、植民地拡張政策
フランスは、アフリカの君主に貢納を支払って領土を利用させてもらう立場だったが、徐々に保護協定で支配地を拡大。保護協定が締結されない場合は武力で征服
セネガルはフランスに植民地化されたが、セネガルの人々は内陸部の植民地化に加担→歩兵部隊への入隊は社会的上昇を可能とする
1912年、コルベと呼ばれる労働賦役が導入される→成年男性に1年に1〜2週間無償労働を義務づける→フランスは1930年、強制労働を禁止するILO強制労働条約採決を棄権
→1937年に批准するが、強制労働を義務労働という言葉に置き換えて第二次世界大戦終結まで制度を維持

383修都:2023/01/04(水) 20:02:51 ID:QPJxpke.
荒木圭子「パン・アフリカニズムとアフリカ」
19世紀以降、ロンドンには多岐にわたる分野で黒人たちが集った→人種差別的待遇を共有し、パン・アフリカニズム的思考を形成・発展させた
1897年、ロンドンにアフリカ協会が設立される→1900年、ロンドンでパン・アフリカ会議→米国内の黒人への参政権等の付与、ハイチやリベリアといった黒人国家の独立保障などが求められた
→会議後、パン・アフリカ協会となるが、数年後に活動休止
第一次世界大戦後、黒人たちは連帯して人種主義的な国際秩序の是正を求めた→従軍して連合国の勝利に貢献した見返りとして、黒人たちは自決権を旧ドイツ領アフリカへ適用することを訴えた
1919年、パリでパン・アフリカ会議→政治的権利に関しては、漸進的にアフリカ人に参政権を付与することが求められたのみ
1921年、第二回パン・アフリカ会議→黒人労働者問題への注意喚起、委任統治委員会への黒人任命などを求める程度
パン・アフリカ会議は欧米のエリート黒人、植民地経営に取り込まれたアフリカ人エリートによる会合という性格が強い
1914年、マーカス・ガーヴィーが英領ジャマイカで万国黒人向上協会(UNIA)設立→ガーヴィーは旧ドイツ領アフリカの独立を求める
19世紀末、教会における人種差別に不満を抱いたアフリカ人牧師は独立教会を設立、エチオピアニズムと呼ばれる黒人教会独立運動を広めた
→エチオピアニズムはアフリカ人たちを政治化し、主体的に参加する初めての組織抵抗運動となる
南アフリカではアフリカ内で最も多くのUNIA支部が設立される→異なる民族集団に属するアフリカ人がひとつの集団として地位向上を目指すとき、ガーヴィーのメッセージは有効だった
南アフリカの黒人たちの関心事はあくまで国内の人種問題だったが、パン・アフリカニズム的要素を含みながら展開された

384修都:2023/02/05(日) 18:16:56 ID:QPJxpke.
山下範久「一四-一九世紀における「パワーポリティクス」」
10世紀、中世温暖期→13世紀世界システム=モンゴル帝国→14世紀の危機、小氷期→統一的な世界帝国によるグローバルな一体化の時代から複数の帝国の並存割拠が常態の時代へ
→オスマン帝国、サファヴィー帝国、ムガル帝国、明朝、モスクワ大公国。近世ヨーロッパは、複合的な要素の入り組んだ国家が、互いに貫入して国際システムが成り立っていた
18世紀まで、ヨーロッパを含む世界の各地域の経済的パフォーマンスには本質的な差異が無かった→19世紀、ヨーロッパの技術革新の連鎖
ヨーロッパの17世紀後半から18世紀は、巨大な普遍的帝国の出現を阻止するための同盟関係が進行した→ヨーロッパが非ヨーロッパ世界に対して帝国として立ち現れるようになる

385修都:2023/02/06(月) 20:09:25 ID:QPJxpke.
守川知子「宗派化する世界」
宗教改革によってドイツは宗派化へと向かい、地域や領主ごとにルター派、カルヴァン派、カトリックへの一元化が進展
宗教改革と時を同じくして、西アジアではスンナ派とシーア派の激闘→オスマン朝はスンナ派を強化する施策、サファヴィー朝はシーア派に転向させる施策→西アジアの宗派化
日本では、キリスト教の教義ではなく、既存の信仰対象への攻撃が受け入れがたかった。キリスト教禁教令と歩を一にして、伝統宗教である仏教へのシフトが図られている→国家主導の宗派化
シャムでも、キリスト教の既存宗教への攻撃や国王の転向が受け入れられず、鎖国体制となる
インドのムガル朝は最大版図となった時に、宗教の相違が抜き差しならなくなると、異質性(ヒンドゥー教など)を排除し、イスラーム法に反する行為を戒めた
多様な宗教を内包し共存・並存する社会から宗教マイノリティは改宗を選ぶか、移住するしかない時代へと移り変わった
19世紀、世界各地で聖地巡礼が盛り上がる→個々人の内面に侵攻が根ざし、社会の中に宗教が内在化した。16世紀からの宗派化が完遂した
宗教と政治、宗教界と国家が密接な関係をもっていた時代は終わり、宗教勢力が政治において、むしろ足かせとなる

386修都:2023/02/07(火) 20:02:19 ID:QPJxpke.
ルシオ・デ・ソウザ/岡美穂子「奴隷たちの世界史」
ポルトガル人が大西洋奴隷貿易を開始する前、アフリカ大陸を南北に繋ぐサハラ交易では、最も大規模で継続的な奴隷取引
ヨーロッパでは昔から奴隷が重要な役割。ヴァイキングの時代は奴隷貿易が盛ん
ポルトガルが海洋進出すると、もともと存在した奴隷取引が国際商業の循環へと引き込まれた
重労働が主流になるのは17世紀後半以降で、それまでの世界的な人身売買では仕事内容は多岐にわたった
ポルトガルとスペインがアメリカ大陸に進出して最初に労働力として認識したのはインディオだった。しかし、持ち込まれた疫病によって人口が激減→アフリカ人奴隷が連れてこられる
ポルトガルのプランテーションにはユダヤ人資本が投下されていた。ポルトガルを出た改宗ユダヤ人は多くがアメリカ大陸へ向かう
もともと捕虜など奴隷にされるのには理由があった→それが理由のない人々を奴隷にするようになる→神学者達は奴隷保護を訴えるようになる→奴隷制廃止論へつながる

387修都:2023/02/08(水) 19:29:10 ID:QPJxpke.
山崎岳「アジア海域における近世的国際秩序の形成」
モンゴル帝国は13世紀初頭までに発展を遂げた国際商業が生み出し、世界的好景気の中で膨れ上がったバブル
14世紀、東アジア・東南アジアで、農村社会とそれに基盤を置いた政権は混乱の兆候。海洋的性格を帯びた勢力が、活動範囲を広げつつあった
14世紀は、国際交易路の主軸が陸路から海路へと移行する転換期。モンゴル帝国は没落→14・15世紀にアジア各地で政治統合→国際関係再編、国家意識の再定義→明の朝貢体制
→ただし、諸国はそれぞれの国際的な位置づけに応じた通行通商網と自国中心的世界観を築いている

388修都:2023/02/09(木) 21:04:49 ID:QPJxpke.
関哲行「近世スペインのユダヤ人とコンベルソ」
14~15世紀、ペストによる大幅な人口減少などで封建制社会の危機となるとユダヤ人との共存は不可能とされ、ユダヤ人政策が追求される
1391年、スペインで大規模な反ユダヤ運動。全国規模でユダヤ人虐殺→15世紀末までに約15万人が改宗したといわれる(14世紀末のスペインのユダヤ人は約25万人)
1492年、スペインで王国全域からのユダヤ人追放令→目的はユダヤ人の改宗→7~10万人のユダヤ人は信仰を遵守し、逃れた
多くの資本と情報ネットワークをもち、金融業務に通じたポルトガル系有力コンソルベ(改宗ユダヤ人)なしにはスペイン帝国を維持することはできなかった
コンベルソの大多数はスペイン社会に同化した
オランダのアムステルダムに西ヨーロッパ最大のユダヤ人共同体→寛容な宗教政策、スペインへの憎悪
オランダはブラジル北東部にユダヤ人を入植させ、砂糖貿易→ポルトガル軍侵攻→ユダヤ人の一部はニューアムステルダム(ニューヨーク)に定住、北アメリカ最初のユダヤ人共同体
イベリア半島を追放されたユダヤ人の多くが亡命したのがオスマン帝国の首都イスタンブル。世界最大のユダヤ人居住都市

389修都:2023/02/10(金) 19:45:28 ID:QPJxpke.
小林和夫「商品連鎖のなかの西アフリカ」
ヨーロッパ人が西アフリカを訪れる以前から、さまざまな素材を用いて布が生産されていた。衣服の着用は、イスラームの共同体への参加と同時に、非ムスリムとの差異化を意味していた
→イスラームへの改宗者が増えると布に対する需要が増加する→ヨーロッパはインド綿布を持ち込む→西アフリカの消費者にも受け入れられる綿布が名産された

390修都:2023/02/13(月) 18:01:42 ID:QPJxpke.
大橋厚子「東南アジアにおける植民地型政府投資の光と影」
近世東南アジアでは、森林管理は誰も行わず、救貧は、様々な首長が金品を貸与え、労働で返済させる社会関係だった
オランダ東インド会社は、香辛料価格の下落により、1660年頃より高利潤を得られなくなった→少しずつジャワ島を領土としていき、現地人首長たちに胡椒などの引渡を要求
1823年、コーヒー・砂糖などの国際価格急落→オランダ商事会社、ジャワ銀行を設立し、1830年、強制栽培制度を導入
強制栽培制度では、住民に栽培報酬が支払われる。また、地方官僚制度の導入は、在地社会に抑圧的だったが平和と秩序をもたらした
ただし、植民地政庁は財政支出を抑えるためインフラ建設などをほとんど実施せず、森林管理は全くなされなかった→ジャワ島の森林は1930年までに全土の20%まで減少
商業は主に華人が担うようになったので、首長は救貧に対する意欲を失い、住民に搾取的となった
東南アジアの女性は相対的に地位が高いと言われるが、オランダ植民地支配下では、男性が労働に引出された後の生活維持の責任を負わされていた

391修都:2023/02/14(火) 19:20:25 ID:QPJxpke.
永島剛「感染症・検疫・国際社会」
イタリア都市国家はヨーロッパにおける公衆衛生行政のモデルとなった→患者隔離や行動制限など
19世紀、コレラが世界的に脅威となった。19世紀中に6回のコレラ・パンデミック→都市への人口集中、移動の広域化・大量化・迅速化によるリスク
→ヨーロッパ諸国が検疫と環境対策のどちらを重視したかは固定的ではない。インド・中東に近い地域ほど、検疫への意識が高い傾向にあったという意見もある
19世紀末は帝国主義的な勢力争いの最中で、自国第一主義が前面に出つつも、感染症に対しては列強間で一定の国際協調が図られた
→ヨーロッパ中心主義的でオリエントからヨーロッパをいかに防衛するかが主要課題

392修都:2023/02/15(水) 20:02:15 ID:QPJxpke.
矢部正明「グローバル・ヒストリーと歴史教育」
2022年、歴史総合設置→教科書を見ると、これまでの世界史の記述を受け継ぐ内容が多い
教科書が先行して、学習指導要領の内容が刷新される傾向はある。1973年、教科書に遅れて世界史をヨーロッパ・東アジア・イスラームの3つで区分することが提示される
1982年、西洋中心の歴史観見直し。1994年、世界史Aと世界史Bに分かれる→一番多く採択されている山川出版社の世界史B教科書は各国史的に叙述
2003年、進取の教科書で書かれていた地域間の交流・つながりが世界史学習で重視され、日本が世界史に組み込まれる
2014年、どのような能力を育むのかという点が重視される。2022年、歴史総合→地域間の多様な関係性を浮き彫りにし、多角的な視点を持って授業を組み立てなければならない

393修都:2023/02/25(土) 19:21:34 ID:I9ttHEEY
藤波伸嘉「オスマン帝国の解体」
オスマン帝国は自主独立のため、19世紀半ば以降、西欧法の継受を試みた→専制政治が続いたため、1908年、青年トルコ革命→革命直後の多幸感が醒めると現実的な利害対立が表面化
1923年10月、トルコ共和国成立、共和人民党のムスタファ・ケマルが大統領に→近代オスマン法学に抗するため、1925年アンカラ法学校新設
→トルコ法制史の特徴:近代オスマン法学では多民族多宗教性が前提だったが、トルコ法制史は非トルコ系諸民族を無視。オスマン人の学問上の独創性を否定
→国民主権とカリフ制の共存を目指した近代オスマン法学を否定
近世以来、西欧諸国とオスマン帝国は外交上の規範を共有していたにもかかわらず、イスラームのカリフを戴くオスマン帝国は野蛮の象徴だった
→キリスト教列強は、イスラーム法しか知らない野蛮なムスリムの下では国民の平等は不可能だと信じた
普通の主権国家として再生したいトルコ共和国は世俗主義を国是とする必要があった→列強から自主独立を護るにはオスマンの遺産は否定されなければならない
オスマン的イスラームが持つ普遍性の否定と表裏一体で進められたトルコ法の創造は、西欧近代との一体化の願望に基づくものでもあった

394修都:2023/02/26(日) 14:41:38 ID:I9ttHEEY
中村元哉「中華民国における民主主義の模索」
中国語の民主は、民の主宰者(帝王や君主)を意味する言葉→20世紀初頭、清末民初に国家の主権=人民に属する政体を意味する言葉に
当時の政治家や知識人たちは、立憲君主か立憲共和かを争った→立憲君主(立憲派)は専制(政体)で立憲民主(革命派)は共和制(国体)だという論点→双方とも憲政に立脚
1908年、憲法大綱→皇帝の権力を一部制限したが、権力を日本の天皇以上に認める。1911年、イギリスの責任内閣制に通じる制度を採用したが、時すでに遅し→1912年、中華民国成立
中華民国臨時約法→強い議会制が誕生(議会専制)→袁世凱は1914年の中華民国約法で行政権を強化しようとした→大総統に日本の天皇以上に強い権力(事実上の立憲君主制復活)
→袁世凱死去後、旧約法復活→議会は継続したが、孫文らは南方に拠点を移し、中華民国は南北分裂→1920年代半ば、北京の国会は解体を余儀なくされる
→各界の職能団体を介して憲法を制定すべきとする機運が盛り上がる
南京国民党中華民国政権の立法院は任命制→選挙制に基づく議会としていくつもりだったが日中戦争で中断→国民参与会が設置されるが諮問機関でしかない
→第二次世界大戦後はデモクラシーが世界を席巻すると予測→憲政への移行を本格化させる→中華民国憲法の土台完成
→国民党は敵対していた共産党や政治グループを排除して1946年11月、制憲国民大会→憲法には孫文の三民主義を明記
国民大会と立法院という2つの議会が誕生。国民大会が形式的な議会、立法院が実質的な議会

395修都:2023/02/27(月) 20:17:36 ID:I9ttHEEY
高橋均「第二次世界大戦後ラテンアメリカ民主化の「春」」
ブラジル大統領ジェトゥリオ・ヴァルガスは第二次世界大戦が終わると1945年10月にクーデターで倒された→1946年、新憲法。1950年、普通選挙
→この選挙の結果、ヴァルガスは当選する→やや左寄りになったが、軍部が圧力をかけてきたので1954年、自殺→1964年、軍部が全権を掌握。85年まで軍政
グアテマラでは1944年、ウビコ政権が倒れ、自由選挙でアレバロ政権となった→後を継いだアルベンス政権は、農地改革法制定→アメリカはアルベンス政権を敵視
→CIAの支援を受けた反乱軍によりアルベンス政権は倒れ、アルマス政権に→ラテンアメリカの春がアメリカによって潰された事例、ラテンアメリカの春の終わり
キューバは全面的に親米的な国として始まった。フルヘンシオ・バティスタは労働者の権利や社会福祉を盛り込んだ1940年憲法で普通選挙を実施し、大統領となった
→1944年選挙では、後継候補がグラウに敗北→グラウ後継のプリオ・ソカラス政権は腐敗政治→1952年、バティスタがクーデター
→1958年、バティスタを倒し、武闘派をも圧倒して、すべてをさらっていったのがカストロ→ハバナの知識層が馳せ参じ、アメリカべったりの文化に異を唱えた
59年秋からカストロはソ連に関係強化の意向。60年、アメリカ人所有の全資産を接収。61年4月、社会主義革命宣言→20万人の大量出国発生
チリは右派・中道・左派が鼎立する国であった→1970年、左派連合のアジェンデ当選→→社会主義へのチリの道→経済混乱→1973年、軍部が動き、アジェンデは自殺。軍事政権に

396修都:2023/02/28(火) 18:39:27 ID:I9ttHEEY
林田敏子「女性と参政権運動」
世界ではじめて女性に参政権が与えられたのは1893年、英領ニュージーランド、マオリ族も含まれる。1902年、オーストラリア連邦でアボリジナル以外の女性に参政権付与
ヨーロッパでの先駆的な例は1906年フィンランドと1913年ノルウェー
第二次世界大戦まで国際的な女性組織は欧米偏重
1903年、イギリスで結成されたWSPU(女性社会政治同盟)は戦闘的戦術をとった→第一次世界大戦では戦争協力
1918年、30歳以上の女性に参政権。男女平等の参政権になるのは1928年
インドでは、無力な植民地女性の救済を支配国としての責務と考える白人女性達がいた→インドで実質的な女性組織をつくったのはアイルランド人女性、そこにインド人女性も加わる
→1930年までにはインドのすべての州で制限つき女性参政権が認められる(有権者の割合は成人女性の1%に満たない)→インドで男女普通選挙が実現するのは独立後の1950年

397修都:2023/03/01(水) 19:57:15 ID:I9ttHEEY
塩出浩之「帝国日本と移民」
1866年、英米仏蘭公使が日本人の国外渡航解禁を要望→徳川政権は受け入れる。1868年、ハワイ王国へ最初の移民労働者約150人。もっとも多くの大和人移民を吸収したのは国内の北海道
ハワイや南北アメリカへの日本人移民は、中国人移民が制限された後の代替労働力だった→移民先よりも日本のほうが物価も賃金も低いから苛酷な環境でも移民する
20世紀初頭、アメリカやカナダでは排日運動。日本からアメリカへの新規移民は禁じられ、24年には全面的に禁止→移民先は南米が主となり、フィリピンへも増加
ブラジルが34年以降、移民を大幅に制限すると、満州国への移民が推進される
沖縄人の日本国籍保有者としての初の移民は1899年のハワイ。台湾人移民は華南など中国にもっとも多い。朝鮮人は日本本国を移民先とし、満州国建国後は移民が激増
日本から支配領域への移民は、原住者に対して支配的な地位に立った。台湾に移民した沖縄人は植民者として台湾人と差異化した
南洋群島では、一等日本人、二等沖縄人・朝鮮人、三等島民という序列があった。満州国では、朝鮮人は、漢人から敵視されるという板挟みだった
日中戦争からアジア太平洋戦争中、朝鮮人は労働力が不足した日本に強制動員された。アメリカやカナダでは、日系市民は収容所へ移送された
戦後、沖縄から現地人以外の日本人(大和人)が日本に送還された。沖縄人・台湾人・朝鮮人は日本への残留か、送還かを強いられた
→沖縄人は日本戸籍・国籍が維持されたが、台湾人・朝鮮人は52年、日本国籍を剥奪された

398修都:2023/03/02(木) 20:03:26 ID:I9ttHEEY
小野容照「近代朝鮮の政治運動と文化変容」
日本が日露戦争後、韓国支配を進めていくと義兵闘争と愛国啓蒙運動が展開される→義兵闘争は武力運動、愛国啓蒙運動は民衆の啓蒙を通して国権を回復する運動
愛国啓蒙運動では体育の奨励と愛国心涵養の手段としてスポーツが導入された
少年男子に国家的危機に立ち向かうための精神力や近代的知識を身につけさせるためには、健康な身体とともに母親の役割も重要という認識が愛国啓蒙運動で広がる
→良妻賢母として愛国啓蒙運動に貢献することを求められるようになった
朝鮮が植民地となると朝鮮人の言論、結社、集会の自由は厳しく制限された→知識人や独立運動家は海外に亡命
朝鮮人による政治運動は、朝鮮の歴史や文化を保存しつつ、よりどころとして民衆に民族意識をもたせることで、将来的な開放に備えることだった
第一次次世界大戦が終わるとアメリカにいた李承晩らはウィルソン大統領に独立請願書を送り、朝鮮民族に民主主義国家を運営する能力があることをアピールした
朝鮮半島にいた朝鮮人はウィルソンが民主主義を重視していたことを理解していなかった→朝鮮で起草された独立宣言書には独立国家のビジョンが示されていない
→この独立宣言書を手にした民衆がデモ行進を繰り広げたのが三・一独立運動→この後、日本は文化政治に転換。言論、集会、結社の自由を一定程度認める
→朝鮮人の政治運動は、民族意識に目覚めた民衆の暮らす朝鮮半島に独立国家の建設という意識をもつ知識人らが戻ってくることで活性化する
1920年代初頭の政治運動は、朝鮮民族の文化、生活、思想を世界レベルへと高めることで、将来的な独立のための実力を養成しようとした
日本からの社会主義思想の流入、朝鮮独立運動を支援することを表明したコミンテルン→社会主義者が増加→朝鮮の政治運動は左(社会主義系列)右(民族主義系列)に文化
朝鮮総督府は、民族主義系列は親日派に転換させる余地があると認識。民族主義系列の自治派は朝鮮人と朝鮮在住日本人で朝鮮議会を設置し、朝鮮人の政治参加実現を目指した
社会主義運動は1920年代を通して影響力を増大→治安維持法で大量検挙
日中戦争以降、植民地支配に協力的な知識人は、内鮮一体に朝鮮人に対する差別が撤廃される可能性を見出し、同等の権利を得ることを期待して、戦時動員に協力
社会主義者も相次いで転向→内鮮一体に民族差別が撤廃される可能性を見出した

399修都:2023/03/03(金) 19:46:32 ID:I9ttHEEY
根本敬「東南アジアのナショナリズム」
20世紀前半、東南アジアでは、宗主国による国境線の画定によって生まれた領土を土着エリートたちが国土として認識し、国民としての同胞意識を形成しようとする過程が見られた
宗主国による人口調査と分類作業で民族という枠組みも創出された
独立を維持したタイでは、国王権力によって国家の合理化がすすめられた
1927年、スカルノらによって結成されたインドネシア国民党→インドネシア語を採用→多数派が使用していたジャワ語ではなく、誰にとっても母語ではないムラユ語をインドネシア語と名付けた
→インドネシアの一体性を可能にするため
タイのラーマ6世は、タイ民族の王、上座仏教を擁護する王であることを強調した。さらにタイ在住中国人を民族の敵とし、タイナショナリズムの強化を狙った。次のラーマ7世の1932年に立憲革命
第二次世界大戦期、イギリスは英領ビルマ政府に国防費の支出増を求め、見返りとしてドミニオン(英連邦に属するが主権を有する)と同等の地位を与えることを約束した
→ビルマのナショナリズム運動を和らげようとしたが、具体的な時期に触れていなかったので歓迎されず
ビルマで反英ナショナリズムが台頭するのは1910年代後半、多数派であるビルマ人がなぜ自分の国で主役になれないのかという反発
1948年の独立以降、ビルマは第一次英緬戦争前年の1823年以前からビルマ領土内に住んでいた人々の子孫を土着民族とした→インド人、中国人、英系ビルマ人などはビルマ国民の外側

400修都:2023/03/06(月) 18:44:18 ID:I9ttHEEY
石田憲「ファシストの帝国」
第一次世界大戦後、イタリア領となったエーゲ海のドデカネス諸島→ファシズム体制になると、近代化のため、オスマン時代から保護されていた慣習を否定し、イタリア語を押し付けた
帝国主義が他者に対する優越意識に基づき支配を貫徹させるものならばファシストの植民地と欧米諸国の植民地に本質的な差はないかもしれない
→しかし、ファシスト帝国では、議会や世論、各統治機構を軽視する

401修都:2023/03/07(火) 19:48:34 ID:I9ttHEEY
村田奈々子「模索する現代ギリシア」
1830年、ギリシアは独立したが、国家を建設する資金もなければ、まとめあげる指導者もいなかった→ヨーロッパ列強の介入を許した
ギリシアの国境外にはギリシア語を母語とする正教徒が国内の3倍残されていたと言われる→領土を拡張し、かれらを包摂することが国家の使命であるとみなされた(メガリ・イデア)
→1879年、ギリシア初の戦争としてクレタでオスマン帝国と戦う→30日足らずで惨敗→ただし、クレタは実質的にオスマン帝国支配から脱し、1913年にギリシア領となる
マケドニアはヨーロッパの火薬庫として危険視され、1912~13年のバルカン戦争で、オスマン帝国の手を離れ、ギリシア・セルビア・ブルガリアに分割された
第一次世界大戦→連合国側での参戦を主張するヴェニゼロス首相と中立を望む国王の対立→ヴェニゼロス解任→ヴェニゼロスは別の政府を樹立→イギリスとフランスが介入してヴェニゼロス勝利
→第一次世界大戦で戦勝国となったがトルコ革命政府軍との戦闘中に反ヴェニゼロス派政権樹立→国民には厭戦気分が高まっていた→ただし、戦いは続きギリシア大敗
→紀元前から続く小アジアのギリシア世界消滅。1923年、ローザンヌ条約でギリシアは獲得した領土のほぼすべてを失う→ギリシア人の居住地は歴史上はじめてバルカン半島南端に集約された
→ヴェニゼロス派のクーデタ。1924年、国民投票でギリシアは共和制となる→この時期の最大の問題は、小アジアから流入した大量の難民
ヴェニゼロス首相はメガリ・イデアを完全に放棄。ギリシア領の現状維持を支持したのはトルコ大統領ムスタファ・ケマル→トルコとの和解
世界恐慌→1933年、反ヴェニゼロス派の人民党が政権掌握→ヴェニゼロスはパリに亡命、1936年死亡→1935年、国王支持勢力により共和制廃止、君主制復活
1936年、国王は極右政党党首メタクサスを首相とする。第二次世界大戦では、連合国側で参戦→1941年、全土が枢軸国に占領される→政府と国王は亡命
民族解放戦線(EAM)の設立に主導的役割を果たしたのはギリシア共産党→ただし、EAMは多様な思想信条を持つ人々が参加している
イギリスはEMAの共産主義者がソ連と手を組むことを恐れていた→EMAの支援を控える→1943年、EMAは他の抵抗組織の殲滅を開始する
→ドイツは共産主義の脅威からギリシアを防衛するとしてEMAへの攻撃を正当化→1944年、ドイツ撤退。亡命政府帰還→EMAと政府の対立
→白色テロ。左翼・共産主義思想を疑われた者、EMAで抵抗運動に参加した者が、暴力の餌食となった→標的となった人々は山岳地帯に逃れた→1946年、民主軍結成
→1947年、全面的な内戦→アメリカのトルーマン・ドクトリン。ギリシアは自由世界防衛の最前線としてアメリカが政府を経済的・軍事的援助→共産党が非合法化される
→1949年、民主軍潰走→8~10万人と言われる左翼・共産主義者が政治難民に→1974年、軍事独裁政権崩壊後、共産党は合法化される。政治難民が帰国を認められたのは1981年

402修都:2023/04/29(土) 15:46:05 ID:I9ttHEEY
上野雅由樹「近世のオスマン社会」
16世紀以降、オスマン帝国の3分の2程度がムスリム、3割ほどがキリスト教徒、数パーセントがユダヤ教徒。帝国領土拡大の中で、すべての村にモスクを建設することを命じた
→公共空間へのムスリム女性の表出も大きく制限。非ムスリムはムスリムと同じ服装を禁じられる→ただし、ムスリムと非ムスリムで交流は続いている
オスマン帝国では、宗教によって明確な居住制限はない→ゆるやなか分住を前提としながらも、各地で宗教的な混住が生じる
オスマン帝国は、キリスト教徒高位聖職者の権限公認と引き替えに、奉仕や貢納金の義務を課している
18世紀のオスマン帝国は、各地域の自律性を前提としつつ、中央政府が帝国各地を監督し、利害関係を調整する役割を担う形へと発展していった
オスマン社会は、キリスト教徒やユダヤ教徒を、担税者、生産者、経済活動の担い手という不可欠の構成員として抱えた

403修都:2023/04/30(日) 13:11:46 ID:I9ttHEEY
近藤信彰「サファヴィー帝国におけるシーア派法秩序の形成」
サファヴィー帝国はサファヴィー教団という神秘主義教団を母体としていた→初代君主イスマーイールは征服した住民に十二イマーム・シーア派を強制。イラン高原にシーア派法学が導入される
サファヴィー帝国は宗務・司法組織を導入した→しかし、シーア派法学は組織となじまず、組織の外に法学者が法務を司る余地を生んだ
サファヴィー帝国はさまざまな民族や宗派によって構成されており、社会は多様性を持っていた→宗教的少数派は一定の自治を行っていたと考えられるものの、単位は地域ごとのコミュニティ
非ムスリムの権利は擁護されていたが、帝国権力が迫害を加える場合もあった

404修都:2023/05/01(月) 20:17:49 ID:I9ttHEEY
真下裕之「ムガル帝国における国家・法・地域社会」
ムガル帝国ではイスラーム教徒は少数派、多様な宗派の信徒を擁していた
地域社会の法秩序で、宗派の所属は決定的な重みをもたなかったし、宗派に根ざした権威的な法典が援用された形式も乏しい→有意だったのは各社会集団が維持していた慣習や慣行
形式上のイスラーム帝国は非ムスリムに対する宗教的慈善制度(生計補助)でムスリムと別個のやり方をしていない
→いずれの宗派の信徒であれ、給付の対価として帝国が求めたのは王朝の永続のための祈りに従事すること
→このような非宗派性に潜んでいるのは、多様な諸集団を包摂する帝国の支配体制の原理

405修都:2023/05/07(日) 19:14:38 ID:I9ttHEEY
小笠原弘幸「オスマン王権とその正統性」
オスマン王家は系譜操作し、トルコ系の人々に支配の正統性をアピールした(オグズ族のカユ氏族出身)→オグズは預言者ノアの息子、ヤペテの子孫(トルコ系はヤペテの子孫とされている)
15世紀末になるとオスマン王家はノアの息子セムの子孫、エサウを始祖とする→オスマンによれば、エサウには王権があたえられたとされている→エサウ=カユともなっていく
→16世紀半ば以降になると、ヤペテが始祖になっている→トルコ系にエサウ説は受け入れがたかった
オスマン帝国君主の聖なる顔をもっともよく示す称号は、マフディー(神に導かれし者)。サーヒブ・キラーン(合の持ち主)という称号とも結びついた
オスマン帝国の王権は、神秘主義に基づいた、神により聖性を付与されたカリスマ的な権威を帯びることで形成されていった→しかし、カリスマ性は失われていく
→カリフ(スンナ派ムスリム共同体の指導者)という称号の登場→聖性に基づく正統性から伝統的イデオロギーに基づいた正統性へ

406修都:2023/05/08(月) 19:57:36 ID:I9ttHEEY
藤井守男「シーア派世界の深化」
シーア派ウラマー(法学者)による神秘主義批判→スーフィーたちの活動減衰、社会的立場悪化
17世紀、イラン社会にシーア派の定着が図られる過程で、ペルシア語の書物が民衆の間に普及し、シーア派教義がイラン社会に浸潤した
サファヴィー帝国末期、スーフィーに代わって、奇跡の持ち主のシャイフ(導師)として民衆から崇拝されるシーア派法学者も現れ始める

407修都:2023/05/09(火) 20:02:28 ID:I9ttHEEY
太田信宏「デカン・南インド諸国家の歴史的展開」
17世紀初頭、ムガル帝国のデカン進出はしばらく停滞したが、アフマドナガル王国の名宰相マリク・アンバルが1626年に没するとデカン進出は再開された
→一時は勢力を強めたが、ムガル帝国が衰退に向かうとデカン・南インドのほぼ全域がムガル帝国中央政府の指揮・命令から離脱する
18世紀中頃までには、ヨーロッパ勢力が、利権を確保・拡大するために現地諸政権の勢力争いや内紛に介入し、行方を左右するまでになる
交易の拡大で、大量の金と銀が流入、貨幣経済が広く浸透した→商機を求めてデカンに渡り、王国政治でも活躍するムスリムが目立つようになる
ムスリムは現地出身者とインド域外の出身者に分かれてしばしば対立した
ムガル帝国のデカン・南インド支配は期間も短く、帝国支配体制の扶植は不十分なものにとどまった
デカン・南インドでは、ムスリム文化と現地の文化との邂逅が、北インドとは異なる独自の混淆的な文化を生み出してきた

408修都:2023/05/10(水) 19:56:38 ID:I9ttHEEY
米岡大輔「バルカンにおけるイスラム受容」
ボスニアでは長らく全土を統一する勢力が現れなかった→オスマン帝国は在地の有力層を徐々に従属させ、段階的に征服した
→15世紀後半から16世紀にかけてイスラム教が漸進的に受容される。戦争の最前線だったボスニアには域外から住民移動→社会の不安定化→ムスリム住民の暴動多発
ヨーロッパ諸国によるバルカン情勢への介入→ボスニアは、ハプスブルク帝国の統治下におかれる→ムスリムにとって、生き方を問い直さねばならない時代の到来

409修都:2023/05/11(木) 19:56:03 ID:I9ttHEEY
桝屋友子「絵画に描かれた女性たち」
イスラムの預言者伝では、女性は頭光を帯びたり、顔面に白いヴェールを垂らして描かれている→男性預言者と同様の扱いが女性に対してもなされている
絵画では、当時の男女別の居住のあり方が反映されている。物語の叙述が必要ならば、挿絵で男女問わず被り物や衣服を伴わない姿で描くことは可能
オスマン朝では王朝の歴史書挿絵に宮廷の女性たちが描かれることは一切なかった→歴史の表舞台に女性は出されなかった
ムガル朝では限られた場面ではあるが、宮廷の女性たちが描かれる。サファヴィー朝では宮廷女性の表現がほぼ制約なく行われていた
オスマン朝の歴史書は公式の歴史で、ムガル朝の歴史書は皇帝にとって私的な所有物。サファヴィー朝の人物画は理想的な姿で描かれており、人物像の実在性は希薄
17世紀後半以降、ヨーロッパ人の訪問により多様な階級の人々の姿が描かれるようになり、オスマン朝では女性表現が新たな段階を迎えた

410修都:2023/05/12(金) 19:23:47 ID:I9ttHEEY
鴨野洋一郎「地中海」
地中海周辺やヨーロッパの原料でつくられていた亜麻織物や毛織物、東方から届く高級品だった絹織物や綿織物は、千何百年にもわたって地中海地域の重要な交易品であり続ける
中世前期には、絹織物工業が地中海域で始まっていく→ヨーロッパに多くのビザンツ帝国の織物が入り込む
11世紀、イタリア商人が地中海の交易を拡大させると、ヨーロッパでは綿織物、毛織物、絹織物をつくる工業が勃興
→紡車も水平の織機も東方で生まれたものをヨーロッパが導入し、改良したものだった
イタリアにおける毛織物・絹織物工業の成長は15世紀に入っても続くが、大きな役割を果たしたのがオスマン帝国→イタリア製品の市場
オスマン領内の原綿はヨーロッパ各地の綿工業に使われていった。オスマンは、日本と同じく生糸の一大輸出国ともなる

411修都:2023/05/13(土) 19:14:18 ID:I9ttHEEY
熊倉和歌子「ナイル灌漑をめぐる近世エジプト社会と帝国」
近世以前のエジプトの村々は、ナイルの増水の際にも浸水しない高台に形成された
オスマン帝国の統治を特徴づけるのが、台帳による記録管理→水利行政に関わる情報も台帳に保存されていった→水利行政確立
エジプトのナイル川流域では、個人の財産として水利権が扱われた形跡は史料上確認できない

412修都:2023/07/02(日) 17:33:46 ID:Iwso9WKY
池田嘉郎「ソヴィエト社会主義の成立とその国際的文脈」
1873年、ヨーロッパと北アメリカは長い不況に入った→社会主義者は資本主義の最後が間近であると受け取った→しかし、1896年に好景気
1889年、ヨーロッパの社会主義政党を中心にした社会主義インターナショナル(第二インター)結成→第一次世界大戦が始まると社会主義政党も戦時予算を受け入れたので崩壊
ドイツ社会民主党内の右派には、戦時統制経済を国会社会主義とみなすものもいた。レーニンも戦時統制経済がある程度確立されたロシアで、社会主義に移行することは可能と認識した
1917年、二月革命が起こるとレーニンはドイツから帰国→10月25日、十月革命→平和に関する布告を採択→イギリス・フランス・ドイツ労働者の応答もなかったことはレーニンの期待を裏切った
→ドイツ側同盟国のみとブレスト・リトフスク講和条約
1918年、ロシア社会主義ソヴィエト共和国という国名が打ち出される。モスクワに首都移転。党名はロシア社会民主労働党からロシア共産党に→民主主義自体を見直している
5月、チェコスロヴァキア軍団が反乱→軍団の救出を名目に連合国も軍事干渉
6月、重要工場企業の全面的国有化
1919年、モスクワで第三インターナショナル(コミンテルン)創立大会→西方では革命の展望が開けなかったが、シベリア・極東ではソヴィエト化の展望
トロツキーは軍隊を労働軍に改組、労働義務制と組み合わせた→レーニンは、トロツキーを抑える。農村では穀物徴発に対する放棄があいつぐ→食糧税へ転換。残った穀物は市場で取引できる
1922年、ソヴィエト社会主義共和国連邦結成。レーニンはこの年から政治活動から遠ざかり、1924年死去した
トロツキーの永続革命論に対して、スターリンは一国社会主義論を打ち出した→実際にはトロツキーの構想とあまり異ならない
トロツキーは農産品を輸出し、工業機械を輸入することを主張→要職を追われる。スターリンは1928年、強制的に穀物を供出させる→農業集団化への展開
→農村は飢餓に苦しむが、穀物を輸出して工業化の原資獲得→トロツキー派の多くが支持
1937年・38年、157万5259人が逮捕され、68万1692人が銃殺判決。ただ、ソ連体制が、総力戦を耐え抜いたこともたしか
第二次世界大戦後、ソ連は帝国主義廃絶・世界社会主義革命という第一次世界大戦時の課題に回帰する

413修都:2023/07/03(月) 20:11:15 ID:Iwso9WKY
中野耕太郎「二〇世紀アメリカの勃興」
1893年、シカゴ万博→資本主義文明の最先端を誇示→開幕の4日後、ニューヨーク株式市場大暴落→万博会場の外には貧困と暴力が渦巻く世界。全米の貧困者の数は1000万人
→生活状態の物質的な底上げへの議論。アメリカの後進性の自覚→ヨーロッパから社会福祉を学ぶ
セオドア・ローズヴェルトは市場規制を推進した政治家。社会的な問題に、集権的な国民国家の行政で対応しようとした。ヨーロッパに倣い、帝国主義的な政策も展開
第一次世界大戦によってアメリカが世界の金融や海運を支配する力を持つようになった。ウィルソン政権の国際主義への変革には、ヨーロッパを指導する立場に立ったという強い自負心
第一次大戦によって、アメリカ政府は鉄道や鉱山を国家の管理下に置くなど前例のない産業・社会統制
黒人は前線から排除→地域的な人種慣習が国策として受容された。分断の深化
戦後、労働者保護政策や社会福祉は後退→かわりに排外的な社会保守運動が活況→禁酒法→白人至上主義団体KKKと密接に結びついていた
大恐慌下のフランクリン・ローズヴェルト政権は、労働者保護と貧困対策に舵を切るニューディールが新しかった→はじめて労働組合を法的に承認。失業保険と老齢年金を制度化
→社会保障法は非白人の労働を制度の対象外とする→新たな分断
ニューディールは一国主義的→帝国支配からも撤退。フィリピンの独立公約。ただし、現地に一定の軍事力を残す

414修都:2023/07/04(火) 19:48:38 ID:Iwso9WKY
飯塚正人「イスラーム主義の盛衰」
ムスリム諸王朝の近代化は、国家財政の破綻を招き、列強への従属を深めてしまった→イスラーム主義者は、没落はムスリム個々に非があると発想した
エジプトは1876年、財政破綻→イギリス人、フランス人がそれぞれ国家の収入と支出を管理するヨーロッパ内閣に→民族運動
→運動は成功したかに見えたが、イギリスの侵攻を受け、70年に及ぶイギリス占領期→第一次世界大戦が起こると、反乱を恐れて、保護国とし、戒厳令を布く→戦後、反英運動
→1922年、イギリスはエジプトの独立を宣言。エジプト王国誕生→独立は形式的なもの
オスマン帝国が第一次世界大戦で敗北すると、ムスタファ・ケマルが武力反乱。勝利→スルタン・カリフ制をスルタン制とカリフ制に分離、スルタン制廃止→1924年にはカリフ制も廃止
→政教分離への決意→新たなカリフの選出をめぐって各所で議論。1928年、エジプトでムスリム同胞団が生まれる
→1930年代、イスラームを後進的と非難してきたヨーロッパは混沌としており、ムスリム側にヨーロッパの先進性に関する疑問が生じていた→真に優れているのはイスラームなのではないか
同胞団は政治に一定の距離を置いていたが、パレスチナにユダヤ人移住者が急増すると、ジハードを強調するようになり、イギリスに警戒される存在となっていった
同胞団は、女性と男性が同じ空間で一緒に教育を受けることには反対だったが、服装と行動さえイスラーム道徳に則っていれば、何にでもなれると説いた
第二次世界大戦後、エジプトは極めて深刻な不況→政府との決定的な対立だけは回避する構えだった指導部の意思を無視して政府関係者を襲撃する同胞団
1952年、エジプト革命→同胞団はクーデタに協力したがやがてクーデタ側と対立→クーデタ指導者ナーセルが亡くなるまで同胞団冬の時代
ナーセルは同胞団がイスラームを歪める者だとして弾圧。ナーセルは67年の第三次中東戦争でイスラエルに惨敗→同胞団など大衆イスラーム主義運動の復活
1970年、ナーセルが急死すると同胞団幹部は大量釈放された→大統領サーダートは左翼勢力に対する勢力として同胞団を利用
→サーダートが対イスラエル単独和平路線を歩むと、81年、同胞団幹部は一斉検挙された→81年、サーダートはジハード団員によって暗殺される
→エジプトのイスラーム主義運動は、法の枠内でイスラーム国家を目指すムスリム同胞団と武装闘争派の地下組織に分かれる
2011年、30年続いたムバーラク政権が倒れると、同胞団は自由公正党を結成、政権を獲得→13年、軍事クーデタで非合法化、テロ組織に指定される。再び冬の時代となっている

415修都:2023/07/05(水) 19:24:20 ID:Iwso9WKY
石井香江「労働とジェンダー」
第一次世界大戦中、軍需産業で働く女性の増加は各国で確認できる→未熟練労働者のため戦時福祉や労働の機械化の導入→戦時中に限定的な代替労働力であるという印象を強めた
戦後、女性は失業するか、女の仕事へと戻っていった→ジェンダー秩序を本質的に変化させることはなかった
ナチスなどファシズムは、男女の役割を二分したが、女性を労働市場から完全に排除することはできなかった→ただし、これはファシズム国家に限られた現象ではない
ナチスは、労働動員しなかった中・上層階級女性には無駄を排する主婦を期待

416修都:2023/07/06(木) 19:48:10 ID:Iwso9WKY
篠原琢「中央ヨーロッパが経験した二つの世界戦争」
第一次世界大戦時、オーストリアにおける政治と社会の軍事化、軍部独裁は極端であった。二重帝国の東側ハンガリー王国では議会も文民政府も機能を続ける
オーストリア=ハンガリーは最も早く配給制度を導入した→1916年の冬から、必要最低限の栄養すら供給できなくなる→1917年春、飢餓暴動
→日常生活に直接介入した帝国権力は、介入の使命を果たせないまま支配の正統性を失っていった
1916年11月フランツ・ヨーゼフ1世死去→新帝カールは軍部独裁廃止、帝国議会を召集→1918年、帝国の連邦化案を発表
1918年、チェコスロヴァキア国民委員会はチェコスロヴァキア共和国の独立を宣言。新国家は市民権の認定にあたってネイションへの帰属を問うた
1939年、ミュンヘン協定により、ドイツ人が集住するチェコスロヴァキア西部国境地域ズデーテンはドイツに併合された。翌年にはスロヴァキアがチェコスロヴァキアから独立
→翌日にはドイツ軍がチェコを占領してボヘミア・モラヴィア保護領が設置された→ユダヤ人コミュニティは破壊された→保護領総督はドイツに同化可能なチェコ人を選別
→チェコの抵抗運動はチェコスロヴァキアからのドイツ人の大規模追放を要求→1945年9月、ドイツ人の追放、財産の略奪が始まる
→チェコスロヴァキアはナチスドイツの人種主義を拒絶したが、市民権の付与・剥奪でその実践を継承→チェコ的価値に忠実かが問われた
→ユダヤ人も占領中の反ファシスト活動を証明しなければ市民権を獲得できず、7500人のうちチェコスロヴァキアに残ったのは500人程度とされる
チェコスロヴァキア西方の国境地域の新しいチェコ人は出自が非常に多様であった→地域コミュニティの中に差異をつくりだした

417修都:2023/07/07(金) 18:57:38 ID:Iwso9WKY
野村親義「インドにおける工業化の進展」
近代的製造業がインドに次々に出現したのはインド大反乱前後の19世紀半ば以降→近代的製造業の発展を主導したのは綿ジュートの二大繊維産業
日本との競争にもかかわらずインドの機械制綿糸は1920年代以降も100%自給率→ただし、近代的製造業はインドの一人当たり国民総生産を大幅に上昇させるには不十分だった
植民地期インド政府は小さな政府に固執し、政府の積極的な関与に基づく近代的製造業の発展を実現するための財政的基礎を欠いていた
インドと日本の名目賃金は1900年以降、ほぼ同水準。短期資金と労働力に関しては印日間に大きな違いがなかった可能性
日本やドイツで重要な役割を果たした銀行による長期資金融資は、植民地期インドでは稀

418修都:2023/07/08(土) 16:41:13 ID:Iwso9WKY
平井健介「日本植民地の経済」
台湾と朝鮮は総督府を行政府とする外地である。外地では経済的近代化をもたらす開発が志向された
内地では19世紀末に米の自給が困難となり、政府は外国米を輸入して米価安定を図る外米依存政策を採っていた→第一次世界大戦で外国米の輸入が不安定化
→帝国内自給策に転換。需給のギャップは外地米の移入で埋められ、内地の米自給は1930年代前半に達成された
外地では第一次世界大戦期以降に工業部門が成長。外地は内地の重化学工業の市場としても重要な役割を果たした
戦時期の内地で需要された原料や燃料の供給での寄与は乏しく、中華民国・東南アジア侵略が進められる背景の一つとなった
朝鮮の一人当たり穀物・イモ類摂取カロリーは、1920年頃を頂点に停滞・低下。1920年代は一人当たり実質GDPの成長が最も低く、在内地朝鮮人が4万人から42万人へ急増

419修都:2023/07/09(日) 12:33:00 ID:Iwso9WKY
中村隆之「ネグリチュード運動の形成」
ネグリチュード運動の中心人物は、この語を発明したマルティニックのエメ・セゼールと、この語を普及させたセネガルのレオポル・セダール・サンゴール
アフリカ系住民は、西洋の人種イデオロギーを通じて形成された白と黒の優劣意識を長らく内面化してきた
→カリブ海の黒人エリートは文明の地はヨーロッパ、アフリカは未開で野蛮の土地だという社会進化論的な考え方を身につけていった
→しかし、黒人エリートも宗主国に渡ると野蛮な黒人として多数の白人に見られることに気づく
→マルティニック出身のナルダル姉妹がパリ郊外クラマールで開いたサロンが黒人意識の目覚めを可能とする交流の場となる→ここから『黒人世界評論』という雑誌が出る
→この雑誌やそれ以外のさまざまな交流と影響のもとに『黒人学生』が刊行される
1944年、ドゴール将軍は植民地諸制度の改革を約束した→第四共和政は植民地住民にフランス人と同等の市民権を認める
セゼール(共産党)とサンゴール(社会党)も政治家としてのキャリアをスタートさせた
しかし、フランスは独立運動は容赦なく弾圧した→セゼールがカリブ海の四つの植民地を県に昇格させる法案を提出し可決される
1956年、セゼールは、スターリン主義に追従し、アルジェリアの武力弾圧を支持するフランス共産党を批判し、離党を表明→マルティニック進歩党結成
1958年、ドゴールが、フランス共同体に加盟する是非を植民地や海外県に問うた→加盟を拒否したのはギニアのみ
1960年、セネガルではフランスとの関係を維持したままサンゴールが初代大統領となる。セゼールはフランス共同体加盟に賛成した
→サンゴールとセゼールは後続の世代からの支持を得られなくなった

420修都:2023/07/10(月) 19:48:28 ID:Iwso9WKY
田中ひかる「アナーキストによる国境を越えた連帯」
国境を越えてアナーキズムの理念を共有した最初の運動は、1870年代に形成される第一インターナショナルにおける反権威派
→マルクスらはインターナショナルを権威主義的に運営していると非難→運動を引き継ぎながらアナーキストを自認する人々が現れる
→1880年頃から提起されたのが、各人はその能力に応じて働き、その欲求に応じて消費する共産主義
1886年5月、シカゴでヘイマーケット事件。全米一斉ストライキで警官により労働者に死者が出ると、アナーキストが抗議集会開催→解散させようとした警官隊に爆弾が投げ込まれた
→4名のアナーキストが公開処刑→共通の記憶とシンボルとなり、国境を越えて共有されることとなる
幸徳秋水が1907年、直接行動を支持すると宣言した要因として、アメリカのアナーキストたちとの交流がある→処刑後、遺族支援の義援金がアメリカやヨーロッパから送られている
アナーキズムから影響を受けた労働運動サンディカリズム運動は、19世紀末からフランスで始まり、世界各地に広がる→労働者階級が政党と国家から自律し、直接行動を行う
アナーキズムとサンディカリズムの対立は世界各地で見られる→サンディカリストは特定の政治運動を否定する。アナーキストはサンディカリズムが労働条件改善だけにとどまっていると批判
アナーキストは国家が他の国々や地域の人々に支配を拡大する帝国主義戦争に反対した→反植民地闘争のナショナリストとの連帯
→しかし、第一次世界大戦が始まると、アナーキストに戦争を支持する人々が現れ、アナーキスト間での対立が生まれる
→クロポトキンは、ドイツによる勝利がリベラルな政治体制を破壊するという理由から、連合国の勝利が必要と主張した→多数のアナーキストは支持せず、戦争を肯定しなかった
ロシア革命以降、ロシアでは弾圧を受け、ヨーロッパでもアメリカでもアナーキズム運動は沈滞するが、1936年からのスペイン内戦で刺激を受け活性化する

421修都:2023/07/22(土) 17:28:30 ID:Iwso9WKY
後藤明「太平洋世界の考古学」
太平洋世界の全貌を明らかにしたのは、1768年に始まるイギリスのジェームズ・クックによる3度の探検
1950年代から始まった放射性炭素による年代測定法で、太平洋の島々にも数百年から数千年の歴史があることが証明された
後期更新世、氷河期の海面低下でインドネシアの島々は大陸とつながりスンダランドを形成していた。オーストラリア大陸とニューギニア島もサフル大陸を形成していた
完新世、海面上昇すると、島嶼世界では貝類、ネズミ、コウモリ、爬虫類が食されていた。ニューギニア島高地では紀元前4000年頃には初期農耕が始まる
→穀物の導入はなく、豚は紀元前1000年頃、サツマイモは1000年以降、もたらされるので、サツマイモを食べ、豚を飼育するニューギニア島高地の生活は伝統ではない
放射性炭素年代の基準が示されると、中央・東部ポリネシアの居住は今から1000年前以降という結果となった→急速に東進してきたラピタ集団はなぜ1000年以上そこへの移動をしなかったのか
人類は安全を考えて東進した可能性が高い→安全に帰ることができる風があるか
リモート・オセアニアに入植した集団は持ち込んだ資源と新しい島で動植物を効率よく利用しようとしたが、いくつかの島では貝類や鳥類が減少し、または絶滅した
アオテアロアの鳥モアが絶滅したのは森林伐採と火入れで環境が変革されたことが大きい
アジア起源のオーストロネシア集団は、西部ポリネシアの長い滞在期間で階層的な社会や宗教体系の原型が形成されたのだろう→14世紀頃までは、島間の交流が盛ん
→15世紀以降、各諸島は孤立する傾向となり、人口増加、社会階層化、戦争などが起こり、一部の島では国家に匹敵するレベルにまで発展した

422修都:2023/07/23(日) 12:31:57 ID:Iwso9WKY
風間計博「ヨーロッパ人との初期接触から新たな太平洋島嶼世界の生成へ」
ラピタ人を除くと、アジアから東へ大洋に漕ぎ出す人々はいなかった。西から航海に挑んだのはヨーロッパ人だった。ヨーロッパ人と在地住民との初接触の多くは敵対的であり、頻繁に流血をみた
スペインのグアム支配を除くと、ヨーロッパ人は資源の乏しいミクロネシアには進出しなかった
太平洋の全体像を明らかにしたジェームズ・クックの探検→プロテスタント諸宗派は異教徒の習俗に身震いした
ポリネシアにおける外来者との邂逅は、衝突を回避できた場合には、訪問客を庇護することとなった。しかし、実際は頻繁に衝突が起こった
ヨーロッパ人は、一方的に理想的な人間像を無垢な島嶼出身者に投影した。一方、探検船に乗った島嶼の人々は、新たな世界を経験し、事物や知識を貪欲に吸収した
欧米の探検は海軍を動員した国家事業であった。18世紀後半以降、商人、宣教師等の民間人が本格的に太平洋に進出
ポリネシア人は、19世紀初頭から船員になっていた。在地住民は、ビャクダン交易の活動的な参加者だった
太平洋島嶼各地では、男性船員と在地女性の性的接触が起こり、未知の感染症がもたらされた。在地住民に免疫はなく、極度な人口減少が起こった。労働交易も人口減少の主要因

423修都:2023/07/24(月) 19:31:01 ID:Iwso9WKY
藤川隆男「移民国家オーストラリア」
イギリスによるオーストラリア入植が始まったのは、フランス革命の一年前。オーストラリアが本格的に発展するのは、ナポレオン戦争以降
1830年、植民地オーストラリアの人口の約70%が流刑囚と元流刑囚→識字率はイギリスの労働者の平均をかなり上回っている。8割が窃盗犯、その半数が初犯
イギリスでは1833年、奴隷制廃止。流刑制度にも批判が高まった→オーストラリアへの移民の主力が流刑囚から自由移民に→先住民から無償で奪い取った土地が、移民補助の原資となった
ゴールドラッシュを契機に中国からも移民流入→1850年代から移民制限。1880年代末までには、中国人移民を制限する移民制限法制定
1901年、オーストラリア連邦成立。有色人種の移民に言語テストを課し、非白人を事実上排除した→白豪主義
1902年、連邦選挙法→すべての女性が男性と同等の選挙権。先住民の選挙権を否定。太平洋諸島労働者法→1906年までに全メラネシア人労働者を国外に輸送する
アボリジナル政策→混血の児童の多くを親から引き離し、施設に収容→実際は十分な教育が与えられず、非熟練労働者となった→現在も補償が課題となっている
旧来の歴史が批判的に検討されるようになったが、戦略的に先住民や女性の国民国家への貢献を強調する研究が増やされている
第二次大戦後、資本主義諸国が人種差別的だという批判を封じる必要性、アジア諸国との経済的関係の拡大などを背景として、1958年、言語テスト廃止、移民制限措置緩和

424修都:2023/07/25(火) 19:36:15 ID:Iwso9WKY
矢口祐人「ハワイの内側から見るハワイ史」
ポリネシア系と呼ばれる人びとがハワイに渡ったのは、今から1500から1800年ほど前と言われている。ジェームズ・クックが1778年に辿り着くまで西洋では知られていなかった
1893年のクーデター→在ホノルル駐米公使ジョン・スティーブズが白人男性たちと共謀し、アメリカ海軍とも協力してリリウカラーニ女王を王座から降ろした
→1900年にアメリカの領土となる。ほとんどのハワイアンは、女王を支持し、併合に反対した。アメリカが標榜する自由や民主主義の理念を用いてアメリカを批判した
→1993年、アメリカ合衆国連邦議会はハワイアンが主権を直接放棄したことは一度もないと謝罪
1959年、ハワイはアメリカの州となるが、それまで連邦議会に代表を送ることもできず、選挙人を選ぶこともできなかった。州知事も選挙ではなかった。事実上の植民地
→州になることは名実ともにアメリカの一部に組み込まれることを意味しており、強く反対した者もいた。州になれば白人とアジア系住人が利益を得ることも明らかだった

425修都:2023/07/28(金) 19:47:43 ID:Iwso9WKY
深山直子「先住民マオリのアオテアロア・ニュージーランド史」
ヨーロッパ人として初めてNZを確認したのは、1642年のアベル・タスマンら→上陸したのは、1769年のジェームズ・クック一行→ヨーロッパ人とマオリとの接触は浅く断続的なもの
→宣教師が赴くようになると、文字や知識も浸透
ヨーロッパからの来訪者が増加し治安が不安定化するなかで、1832年、イギリスはジェームズ・バスビーを駐在事務官に任命した
→1835年、北島北部のマオリ首長たちにニュージーランド部族連合として独立宣言に署名させ、保護者となった
→1839年、ウィリアム・ホブソンを副総督として実質的に植民地化する方針に→1840年、ホブソンはマオリにワイタンギ条約締結を迫った→500人以上の首長から署名を集めた
→条約によって、NZはイギリスの直轄植民地となり、ホブソンは総督に任命された→自治の要求が高まると、1852年、自治植民地となる
→条約では、マオリに権利や資源を認めるとあったが、実質的にほとんど効力を発揮しなかった
→1858年、イギリスの王制に対抗するため、フェロフェロがマオリ王として擁立され、マオリ王運動が組織される
1860年、マオリと植民地政府との間で戦争(ニュージーランド戦争)→1863年、マオリを制圧
原住民土地裁判所設立→マオリの土地は、個人所有化され、1939年までに北島の約半分がマオリの手を離れた
NZの選挙権は大半のマオリに認められなかった→1867年、マオリ議席が4席確保され、マオリ議席への選挙権は認められる
→1893年、世界に先駆けてマオリを含む全ての成人女性に選挙権が認められる。1967年、一般議席とマオリ議席いずれにも立候補することが可能になる
1907年、ドミニオン(自治領)になり、国際連盟の初代加盟国にもなる
1975年、ワイタンギ条約法。ワイタンギ審判所→条約の原則に合致しない国王(NZ政府)による不利益を被った蔡、申し立てができる
→近い将来に過去の植民地主義的な収奪に関して全て和解に至る見通し

426修都:2023/07/29(土) 19:45:07 ID:Iwso9WKY
馬場淳「パプアニューギニア史におけるホモソーシャルな政治と女性たち」
ニューギニア高地に白人が入っていくのは1930年代以降。植民地化は、1884年、ドイツとイギリスが東部ニューギニア島および周辺を保護領とすることからはじまる
→イギリス領ニューギニアは1906年からオーストラリアの領土パプア。ドイツ領ニューギニアは1921年からオーストラリアの国際連盟委任統治領となる
→異なる政治的地位にあった二地域だが、日本軍の侵攻に対抗するため一元化される
1950年代、キリスト教の教理や白人の性別役割分業にもとづき、現地人女性に、家庭を守る母・妻として、主婦的なスキルが教えられる
→性差を絶対化し、公的領域に男性を、私的領域に女性を配置する→しかし、伝統的社会では、女性も経済や儀礼を担っていた
パプアニューギニアは1973年11月、高地出身の保守系議員の多くが反対するものの、内政自治へ移行が決定し、1975年9月16日独立する
パプアニューギニアは地方分権主義→住民は国家よりも出身集団のアイデンティティを強く保持している
1980年代後半からのブーゲンヴィル問題→強引な鉱山開発による環境破壊と補償への不満を背景にした爆破事件から始まる独立戦争→2001年、和平協定。05年、自治政府発足
パプアニューギニア憲法は男女平等や女性の政治参加を掲げているが、絵に描いた餅→女性議員は数えるほどしかいない

427修都:2023/07/30(日) 18:44:13 ID:Iwso9WKY
桑原牧子「フランス領ポリネシアの歴史」
1767年、サミュエル・ウォリス船長のドルフィン号が西洋船として初めてタヒチ島を訪れた→イギリスの占領を宣言
→1768年、ブーガンヴィルがタヒチ島に訪れる→ウォリスのことを知らず、フランスが占領したと信じた
1788年、バウンティ号がタヒチ島に到着→船員の多くは島の女性たちと性関係を持った→89年、島を出発すると船員が叛乱→船員たちは島に滞留した
→首長トゥは船員を味方につけ義兄との戦いに勝利→ポマレと改名して王朝を樹立→船員の叛乱はタヒチ島への楽園幻想を西洋社会に広めた
ポマレ2世は宣教師団を全面的に支援した→島民は疫病や死傷に対してオロ信仰が無力であると疑念を抱き始めておりキリスト教を信仰する人々が現れる
1815年、反キリスト教を掲げてポマレ2世に対抗する首長オプハラがキリスト教礼拝の現場を攻撃→ポマレ2世は勝利を収め、全島を支配する
→キリスト教への改宗が進むなかで、伝統信仰は異教徒の信仰となっていく→1836年、フランス人カトリック宣教師が上陸
→女王ポマレ4世助言者のイギリス人プロテスタント宣教師はカトリック宣教師らを追放する→1838年、フランスはカトリック宣教師追放の賠償請求を行う
→女王は賠償に応じるが、イギリスはカトリックの締め出しを強化→フランスは女王不在時に他の首長たちに保護領化同意の署名をさせ、女王にタヒチ島をフランス保護領とする条約を締結させた
→ポマレ4世は逃亡。1844年、ポマレ王朝を支持する首長たちがフランスに反発、フランコ・タヒチ戦争勃発→1847年、フランス勝利→ポマレ4世はタヒチに戻り、77年に死ぬまで政権掌握
→保護領ではポマレ王朝とフランス人総督による執政が併存→ポマレ5世は80年、主権をフランスへ譲渡→第二次大戦後、海外領土となり、住民にフランス国籍が与えられる
20世紀後半、ポリネシア人による植民地統治への抵抗が起こったが、1958年、国民投票が実施され、フランス残留支持率が64%だった
アルジェリアが独立するとフランスの核実験地はアルジェリアからツアモツ諸島となった→核実験は1992年まで行われたが95年に再開決定されると暴動まで勃発した。96年までに193回の核実験

428修都:2023/07/31(月) 19:56:38 ID:Iwso9WKY
丹羽典生「民族の対立と統合への可能性からみたフィジーの20世紀の歴史」
1874年、フィジーは大英帝国の植民地となる→先住系首長13人が、イギリスへ主権を受け渡す方式で植民地化
→プランテーションでの雇用の中心は契約労働者で、太平洋諸国からの移民労働者は賃金が上昇していた→インド人契約移民労働者導入
1910年代、先住系からもインド系からも反植民地主義的な運動。この頃は両者の連帯は無い→1959年のストライキではじめて先住系とインド系が連携した
1970年、フィジーは独立。1987年、フィジー労働党・国民連合党(インド系)が連携し、独立以降フィジーを牽引してきた同盟党(先住系)に選挙で勝利
→首相は先住系、閣僚の半数が先住系だったが、先住系の人々から警戒された→軍隊がクーデタ→インド系宗教施設の破壊など、民族対立の感情が衆目にさらされた
→このクーデタをきっかけとして、現在に至るまで政治的混乱が絶えない

429修都:2023/08/01(火) 19:55:02 ID:Iwso9WKY
石森大知「ソロモン諸島史にみる社会運動の系譜」
イギリスがソロモン諸島の全領土を保護領としたのは1899年。1910年代までには、イギリスの武装警官らによって集団的な武力衝突は影を潜める
1920年代、植民地政府が統制を強め、数々の武力闘争が発生する→30年代になると、非暴力的な手段となっていく
第二次世界大戦では、ソロモン諸島民は関係のない戦争に苦しめられた→ガダルカナル島では、病気や飢餓で14%の住民人口が失われた
ソロモン諸島民は、アメリカ軍が運んできた大量の物資に圧倒され、分け与えられるものを喜んで受け取った→イギリス人とは違い、アメリカ人とはいい関係を作れた
→戦後、戻ってきたイギリス人はアメリカ軍がもたらした物資を没収する
西ソロモン行政区での反植民地主義的な運動は、反政府というよりも反教会だった。西ソロモンでは、教会が交易者および政府に代わる存在だった
イギリスは経済的利益をもたらさないソロモン諸島の早期の独立を望んだ→独立は与えられたものだった→1978年、ソロモン諸島はエリザベス2世を国家元首とする立憲君主制国家として独立
ソロモン諸島では、1998年末からの民族紛争を契機として各州で州政府への移行および分離独立を求める機運が高まっており、現在に至っている

430修都:2023/08/02(水) 19:34:45 ID:Iwso9WKY
今泉裕美子「太平洋分割のなかの日本の南洋群島統治」
1898年の米西戦争後、スペインはグアム島をアメリカに売却、北マリアナ諸島とカロリン諸島をドイツに売却
スペインの統治はキリスト教の布教活動に重点を置いたことに比して、ドイツは産業開発に着手→日本人も生活の糧を求めて渡航し、植民地社会の一員となっている
→日本人移民たちの仕事ぶりは、仕事を奪われるのではないかとの不安を移民先の社会に生み、対日脅威論を強めることにもなる
第一次世界大戦は、日本が太平洋分割に初めて参加する機会となり、南進を実現する好機と捉えられた→日本は南洋群島の領有を強く希望した
日本の委任統治政策は、東南アジアへの経済的進出、対米軍事戦略上の要地としての活用を現地住民の福祉及発達の履行であると説明して行うもの
委任統治開始時、沖縄は困窮状況(ソテツ地獄)にあり、移民や出稼ぎを求める人々が急増していた→南洋群島は格好の移民先→現地住民が、開拓事業に従事する機会は、限定されていた
暗黙の序列:一等国民内地人、二等国民沖縄人・朝鮮人、三等国民島民→現在も、日本統治時代を経験した人びとはトーミンと呼ばれることに嫌悪感を示す
→賃金は内地、沖縄、中国人、チャモロの順に低い
現地住民は、成績優秀者の中のごく僅かに認められた児童のみが小学校での就学を許された

431修都:2023/08/03(木) 19:50:52 ID:Iwso9WKY
石原俊「小笠原諸島史」
小笠原群島の発見に関する最古の記録は、1670年→徳川幕府は1675年、探検家の島谷市左衛門を派遣
硫黄列島の発見は、1543年のスペイン。北硫黄島には、紀元前1世紀から紀元後1世紀頃にかけて定住者がいた
1830年、シチリア島出身とされるマテオ・マッツァーロがハワイ・駐ホノルル英国領事から支援を引き出して約25人の移民団を組織し、小笠原群島に渡航
→小笠原群島には、入植者・寄港者・逃亡者・漂流者・掠奪者がいた
ペリーは1853年、小笠原群島の領有宣言をしている→英国からの強い抗議と米本国での政権交代で白紙
→日本は1862年、咸臨丸を小笠原群島に派遣→父島に幕府の役所を設置し、統治業務を開始→英仏との軍事的緊張から1863年、官吏と入植者を引き揚げさせる
1875年、明治政府は官吏団を小笠原群島に派遣→先住者に服従を求め、外国からの移住を禁じた。先住者は1882年までに日本国民に編入→扱いは帰化人
先住者は経済的に豊かであったが、1911年、世界初の本格的な野生生物保護条約でラッコとオットセイの海上捕獲全面禁止、第一次大戦後の米国との軍事的緊張
→1920年代には、先住者の子孫の多くが貧困層に転落
硫黄列島は1887年、巡航団が派遣され、91年、領有宣言→硫黄の採掘事業が行き詰まると、糖業が主産業に。開拓農民の大多数は小作人
→1920年代半ば、糖業危機が起こると、コカの生産地となり、コカインも精製された。コカインは、インドの闇市場やナチスドイツにも密輸された
1920年代、日本は父島に米国を仮想敵国とする要塞建設→帰化人と呼ばれた人びとは、潜在的スパイとみなされた
1944年、小笠原群島で本格的な島民疎開開始→先住者系島民は疎開先の本土でも潜在的スパイとみなされ、地域住民から暴力を受けることもあった
一方で、16歳から59歳までの小笠原群島・硫黄島民男性は軍属として徴用された。地上戦に動員された103人の硫黄島民のうち、生存者は10人
戦後、小笠原群島・硫黄列島には島民も日本軍関係者もいない状態になった→1946年、日本併合以前から小笠原群島に居住していた先住者の子孫に限り、再居住が許可された
1968年、小笠原群島・硫黄列島を含む南方諸島の施政権が日本に返還された。本土系島民にも居住が認められた
硫黄島は海上自衛隊の駐屯が始まり、硫黄列島のインフラ整備を行わないことで民間人の再居住を事実上阻んだ
硫黄列島民は、約80年にわたって全島民が帰還を認められないという状況に置かれ続けている

432修都:2023/09/02(土) 17:00:37 ID:Wvozer8s
踊共二「宗教改革とカトリック改革」
ルターは「信仰のみ」。カトリック教会は人間の主体的な意思や努力を強調する。ルターの宗教改革は体制的に新しかった→ザクセン選帝侯が改革を支持し、新しい教会創始を認めた
ドイツ語圏スイスではルター主義とは異なる宗教改革が進展(改革派)。ツヴィングリが指導者→信仰によって個人の生活と社会のあり方が変わる
ルターが死去した年の1544年、神聖ローマ皇帝カール5世はプロテスタント諸侯に攻撃→皇帝側の勝利→協議も礼拝も再カトリック化しなければならなくなった
→1555年、カール5世弟フェルディナントはプロテスタント諸侯の抑圧は難しいと考え、アウクスブルク宗教平和令公布→諸侯にカトリックかルター派か選択を許す
ルター派の重心はドイツ諸領邦と北欧でローカルな性格が濃かったが、カルヴァンの改革派は国際的
カトリック改革の成功は新しい修道会や修道団体によるところが大きい→イエズス会の活動によって西欧各地で再カトリック化が成功

433修都:2023/09/03(日) 12:34:48 ID:Wvozer8s
小野塚知二「産業革命論」
産業革命はまず機械革命としてドーヴァー海峡の両岸で認識され始め、ヨーロッパ諸国、アメリカ合衆国、日本に及んだ
伝統的な再生可能エネルギーのみの状態からの大きな転換(エネルギー革命)でもある。また、原料革命でもあった→木材から鉄へ
産業革命は、欧米による世界支配の完成を意味している。産業革命とは、過去の自然と他国の自然に依存した産業社会が世界規模で確立するための長い過程
産業革命は産業による相違と地域による相違が大きいため、全産業・全地域で一斉に革命的変化が進行したということは、できない
それ以前とは断絶した技術・組織・基盤を獲得した産業と、在来の技術・組織・基盤の上に成立した産業とが併存している
産業革命によって時間規律が発生した。産業革命期までの人びとの時間はもう少し自由で、時間の進行を主体的に決定できていたが、産業革命以降、時計にしたがって生きるようになった
当初は女性と子どもが長時間労働で、近世まで続いた家庭のあり方は産業革命期に危機に瀕するが、その後、男女の分業、子どもとの関係が再編され、近代家族が生みだされる
18世紀後半から19世紀前半、イングランド食文化の伝統は途絶え、食文化を育んできた人的基盤の再生産もできなくなった
→産業革命期、もともとあった祭が楽しまれることもなくなった。利用可能なのは大量生産食材と輸入食材に限られるようになった
イギリス以外の産業革命では、これほどの変化は無く、農村と祭も維持され、食の能力は維持された

434修都:2023/09/04(月) 19:47:03 ID:Wvozer8s
松浦義弘「大西洋世界のなかのフランス革命」
フランス経済全体の中核となったのは対外貿易(植民地貿易)で、商業資本主義の発展だった→18世紀後半、民衆層へも贅沢品が普及→中間層としてのブルジョワジーの増加
印刷物の増大、識字率上昇。1720年代、パリでフリーメイソン創設→ネットワークの形成。18世紀後半の大西洋世界では印刷物や書簡が流通、地域人などが頻繁に往来した
革命前のパリでは、フランス人、ヨーロッパ諸国からの亡命者、アメリカの革命家などが交流するサークルが存在し、大胆な変革が構想された
1780年代のフランスではアメリカ革命論が共和政を争点として展開され、体制批判も出版され流通した


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