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漫画・ライトノベル以外の書籍スレ

358修都:2022/11/09(水) 19:48:38 ID:QPJxpke.
黒木英充「変容する「アラブ社会」」
オスマン帝国では、総督と都市民との間に暴力的紛争が発生しても、都市民はイスラーム法官を通じて正義を主張し、秩序を維持していた
→19世紀には、その法官も社会の柱石たりえなくなっていた。シリア内陸部では徴税請負が浸透しており、農村の矛盾は都市の暴動で解決されることがあった
→19世紀半ば以降、タンズィマート改革で徴税請負が廃止され、直接的徴税の仕組みが整うと、大規模な都市暴動はなくなった
エジプトでは奴隷軍人マムルークが支配層を形成し続けていたが、アルバニア出身のムハンマド・アリーはマムルーク有力者層を一掃し、徴兵制など近代国民国家に特有の制度を導入
→エジプトの事実上の独立国家化→ムハンマド・アリーの息子イブラーヒーム・パシャはオスマン政府からの解放者としてシリアに乗り込み占領。キリスト教徒・ユダヤ教徒を優遇した
→イギリスはロシア、オーストリア、プロシアと連合し、オスマンも従えてエジプト軍を攻撃、シリアから撤退させた
レバノンでは、マロン派(カトリック)・キリスト教徒・エジプト軍・フランスとドルーズ派(イスラム)・ムスリム・オスマン・イギリスが対立・内戦→内戦後、行政会議定員が宗派別に配分された
→これがレバノンの政治体制を規定する宗派主義の起源
ムハンマド・アリーの支配権が認められた1840年以降、オスマン政府の言論統制を嫌う知識人らはエジプトに渡った。レバノンは30〜40万人規模の人口のうち10万人程度が流出した
→人口増による土地所有細分化、日本・中国産の安価な生糸との競争に敗れたのが移住の主要因
19世紀から第一次世界大戦までは南欧・東欧から膨大な人口が新大陸に向かった時代であり、レバノン・シリアからの移民もヨーロッパ移民と同じくニューヨークやリオデジャネイロなどを目指した


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