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漫画・ライトノベル以外の書籍スレ

1真ナルト信者:2017/02/08(水) 19:12:46 ID:???
漫画・ライトノベル以外の書籍なら純文学でも文庫でも新書でもレピシ本でも攻略本でも難しい本でもOK
感想を書いたり、内容をまとめたりとかしてみたらどうでしょう

280修都:2022/03/11(金) 20:54:29 ID:AY2wDrvM
飯島渉「「感染症の歴史学」と世界史」
感染症は世界を変えた→代表例はペストだがヨーロッパ中心主義的な考え方
ペストは中世を崩壊に導いたのか→14世紀、ペストによる人口の減少恒常化はしだいに経済的影響→農産物価格低落、手工業製品価格高騰
→農民の都市流入激化、都市の人口は農民の移住で補充。村落の共同体は動揺、紛争→ペストの影響は過大ではないが構造的変化の背景にはなった
19世紀後半のペスト流行時、アジアで死者が多かったのはインドのみ。しかし、インドの歴史を変えたとする研究はほとんどない
感染症の流行はたびたびあったにもかかわらず、今後もそれが起こりうるにもかかわらず、歴史に決定的な影響を及ぼした感染症は多くなかった
世界を変えたという表現がぴったりなのは、ヨーロッパから感染症が、免疫性のない南北アメリカに持ち込まれ、先住民社会の人口を激減させ、植民地化を促進したこと
感染症が世界を変えたことはあまりないが、感染症が変化を促したことはたくさんあった→コロナで明らかになったように、感染症の流行は、既存の制度などの持つ構造的な問題を顕在化させる

281修都:2022/03/14(月) 19:58:51 ID:AY2wDrvM
吉岡潤「ヨーロッパの歴史認識をめぐる対立と相互理解」
ヨーロッパ統合の過程は、和解の共同体を構築する試みだった→歴史認識の相違を自覚し、自民族美化を忌避することがヨーロッパ・スタンダードに
東欧では、ヨーロッパ統合への参加を求めていた間はヨーロッパ・スタンダードを受容しようとしていた→2000年代半ば以降、ポピュリズムが勢いを増すにつれ歴史認識の乖離が目立つようになる
バルト諸国やポーランドは、社会主義化を全体主義による支配の確立過程とみなし、戦後の社会主義を全否定している→西欧にもこの考え方が拡大
→言論自由化後のポーランドでは、保守的で自国中心主義的な歴史認識とリベラルでヨーロッパ志向の歴史認識の2つが競合→どちらも社会主義期を否定
2000年、ポーランド系ユダヤ人学者ヤン・トマシュ・グロスが、1941年7月のユダヤ人虐殺事件に普通のポーランド人が関わっていたことを指摘
→逆に保守的で自国中心主義的な歴史観を台頭させるきっかけともなった→「法と公正」政権は自国史中心主義的な政策を行う

282修都:2022/03/15(火) 20:04:17 ID:AY2wDrvM
笠原十九司「東アジアの歴史認識対立と対話への道」
2000年ころ、史上最も良好といわれた日韓関係、経済を中心に活況を呈した日中関係→2001年、新しい歴史教科書をつくる会の歴史・公民教科書が検定で合格
→韓国政府は。82年の近隣諸国条項に反しているとしてつくる会の教科書の記述について修正要求を日本政府に提出。中国政府も訂正要求を提出
→文科省は「明白な誤りとはいえない」と回答、両国の反発を招く→韓国政府は日本文化の開放政策を停止、交流事業も中止された
つくる会の歴史教科書は採択率0.04%、公民教科書は0.1%→韓国や中国の反発は鎮静化
2005年、中国の抗日戦勝利60周年、韓国の独立達成60周年。この年に検定合格した歴史教科書から従軍慰安婦の記述が消えた→中国各地で抗議デモ。韓国政府は憂慮を表明
2002年、第1期日韓歴史共同研究委員会発足→日本側は教科書検定制度の問題であって歴史研究とは別という立場、韓国と対立→事実上決裂して終わった
2007年、第2期日韓歴史共同研究委員会→成果なく終わる
2006年、安倍首相は胡錦濤国家主席に日中歴史共同研究を提起→友好な雰囲気で研究報告・討論→日中戦争は日本の中国侵略戦争と規定、南京大虐殺も事実と認定
→安倍政権は評価せず、無視した

283修都:2022/03/16(水) 20:56:57 ID:AY2wDrvM
勝山元照「新しい世界史教育として「歴史総合」を創る」
2022年から高校地理歴史は歴史総合・地理総合必修、地理探求・日本史探求・世界史探求選択制に移行
1950年代、高校社会科で自分の頭で考え自分の言葉で表現する歴史学習が希求された→60年代、そういった学習は後退する
→80年代、知識詰め込み授業が大勢を占め、高校社会科は地理歴史と公民に分割
2006年、500校を超える高校で世界史未履修問題→世界史は受験に不利との風潮→2011年、学術会議による提言→歴史総合ができる
2018年新指導要領→歴史的な見方・考え方を強調

284修都:2022/03/17(木) 21:59:45 ID:AY2wDrvM
吉本道雅「「中華帝国」以前」『岩波講座世界歴史5』
前2500年ころに始まる龍山期には階級分化、都市・文字の出現などがほぼ出そろっている→前1900年からの二里頭文化は中国本土全域に影響力
→夏王朝は二里頭期以降の諸王権に関わる伝説が春秋戦国時代に一個のイメージに結晶したもの
→前1600年頃、殷王朝成立→前1350年頃から甲骨文出現。甲骨文で殷王朝は大邑商と自称→邑とは城壁で囲まれた集落
殷王の支配が及ぶのは河南北部・南部(内服)、諸侯に対する支配は緩やか→殷王朝は王位継承が不安定だった→2大支族が交代で王位
天の観念は周人にはじまり、周王は天子を称する。周公旦は中原支配の拠点として成周(洛陽)を建設、天下の中心
王が諸侯に賜与すべき邑田の枯渇→権益や家産の分配→権益創出のため外征→内紛や紛争の中で西周王朝滅亡→東遷(東周)
→中原の有力諸侯国は小国を併合して領域を拡大→有力諸侯国の紛争慢性化→諸侯は最有力の諸侯を盟主に戴く同盟を結成し、紛争停止を図る
→前中原的な覇者(盟主)体制と各同盟国の世族支配体制→中原覇者晋が中原外の斉・楚・秦に対抗するという構図が前4世紀戦国中期まで持続
中原諸国は晋に貢納することを義務づけられていたが、前546年晋楚講和の結果、根拠が失われる→内乱続発。晋の覇者体制解体の危機
孔子は客観的規範(道)に基づく君臣関係を主張、君主が道を逸脱した場合、臣下は自由にやめることができるとした→官僚制
前453年晋の正卿知伯敗死→ここから戦国とする研究者が多い
趙・韓・魏(三晋)は晋から実質的な独立→それぞれ斉・楚・秦と提携。趙・韓は周を東西に分裂される→周王朝・晋侯を奉じて覇者体制を維持することは不可能
春秋期から郡・県はあったが、秦漢的郡県制の形成は戦国中期
前349年、晋断絶→周王朝は秦を覇者に認証→前334年、斉と魏は王号を相互に承認、周王朝と秦の覇権を否定。前325年、秦は独自に王号を称す
孟子が新たな政治的秩序(王道)を提唱。王の1人が天下を統一し、新しい王朝を開くことを期待
秦の独走→前256年、周王朝が断絶すると昭襄王は周に代わる王朝樹立を宣言し、秦を天子とする封建制を志向→統一はなかなか進まなかったが前221年天下統一
→郡県制施行、全領域を皇帝の直轄領とした→前206年、秦滅亡で封建が復活
中国→官僚制が編成、礼によって秩序づけられた支配層、高い農業生産力、他国との外交関係を持続しうる存在→夷は政治的文化的未成熟
『論語』は異民族にも適応しうる儒家的倫理の普遍性を強調、異民族同化の可能性を主張

285修都:2022/03/21(月) 17:13:16 ID:AY2wDrvM
宮宅潔「軍事制度からみた帝国の誕生」
中国史上最初の帝国とされる秦は軍事的な拡大傾向を持ち、幾多の戦役を勝ち抜いた
荀子は秦の軍功褒章制度を評価
春秋時代、兵役は士以上の階層が特権的に担っており主役は馬の戦車→前6世紀後半から主力は歩兵に→広い階層の人間を徴発→戸籍がつくられる
秦の兵力→職業軍人・専門兵・応募兵・徴集兵・刑徒
新占領地には罪人、一般人を移住させる→兵站の拠点になり、兵員徴発地となる
秦王政は6国との共存を放棄し、16年で斉を滅亡させ戦いは終結→それまでの戦いとは違う全面的な総動員
→台所事情が苦しくなる、限界→拡大した領土を支配する軍事体制は確立できなかった
漢の皇帝が直接支配したのは秦の元々の支配領域を中心とした帝国の西半→劉邦最大の脅威は帝国東半の諸侯王、功臣たち→粛清後も直轄化されず、親族が封建された
→諸侯王にある程度の自由裁量を認め、間接的に統治するやり方→軍事力動員において、各王国が兵を徴発・組織し、費用も各王国が負担する
→皇族出身諸侯王との関係も悪化し、前154年呉楚七国の乱が起こる→皇帝は全土の直轄地化を進めてゆく→ただし、軍事費の一定部分を王や列侯が負担するという体制は存続する

286修都:2022/03/22(火) 21:43:53 ID:AY2wDrvM
鷹取祐司「漢帝国の黄昏」
漢帝国は物資と労働力を民衆から徴発した→民衆はたやすく逃亡する存在→帝国存続のためには民衆の生活を守ることが必須
武帝崩御、昭帝即位→武帝期の軍事的成果からの負担軽減と休息が政治課題→次の宣帝期頃までに夷狄が帝国西北辺の諸郡に少なからざる規模で移住していた
→一部は選抜されて漢軍に編入
元帝は節約、税の減免を実行→儒学が政治に深く入り込んでいたので経済振興による民衆の生活向上が推進されることはなかった
→元帝が崩御すると王皇后の実子成帝が即位→外戚王氏が権勢→哀帝は高級官僚や豪族が広大な田宅と多くの奴婢を保有していることを問題とした
前漢晩期には辺境防備の傭兵化が進行
王莽が皇帝となると改革が強行されたため、混乱に陥る→文書行政が徹底していたため、その命令は確実に遂行されていた→王莽の混乱で多くの人々が逃亡、流民化
光武帝は郡国の常備兵を廃止→移住していた夷狄の軍事利用が加速→中華と夷狄の混淆
章帝→10歳の和帝→13歳の安帝。安帝の代行として鄧太后→鄧太后が生きている時は鄧氏の専横は抑制されていたが、死去すると外戚と宦官の横暴
安帝の時代107年、羌の大反乱→西域遠征に使役されたことがきっかけ→鎮圧するも帝国の国庫は空となる→134年にも反乱
→郡国の常備兵が廃止されているので鎮圧の戦力は夷狄と募兵
儒学が政治に深く浸透しているので経済積極政策はできない→財政状況は改善しない
安帝期以降、漢人の反乱も発生するようになる→反乱はいずれも帝号や王号を称する→漢帝国はすでに民衆から見限られている
→漢帝国立て直しの最後の希望は清流士大夫→専横を極める宦官を批判→逆に排除される
疫病の流行→人々の不安→太平道などに救いを求める→184年、太平道信者大反乱(黄巾の乱)→各地で反乱
190年、多くの胡兵を率いた董卓が献帝擁立→実質的に後漢王朝滅亡→220年、献帝が曹丕に禅譲、後漢王朝滅亡

287修都:2022/03/23(水) 20:25:50 ID:AY2wDrvM
石井仁「漢人中華帝国の終焉」
曹操直属軍が地方の要地に駐留し、治安維持を開始したのが都督府の始まり→都督制は魏晋南北朝期を通して基幹的な制度・体制
董卓、曹操が勢力をのばしたのは偶然ではない→後漢帝国の最重要課題だった西方・北方政策、非漢人対策を担った人材だった
三国時代、中国の勢力は南北に拡大した→非漢人との関係が多様化、深化
州都督は支配地域の官民に人員・物資の供出を強要できる→流民、非漢人にも支配の網→都督制は後漢末以来の社会変動に対応し、人の直接把握を狙った統治体制
→定住民と流民、漢人と非漢人を区別しない平等な制度→北宋まで残存。魏晋の都督制は普遍的、完成度の高い政治制度だった
漢末の群雄、三国政権は漢人中華帝国維持という点で一致している→一方、都督制は都市から農村への人口移動、胡漢の雑居を前提に適用される政治制度→漢人中華帝国の終焉

288修都:2022/03/24(木) 19:27:14 ID:AY2wDrvM
髙村武幸「漢代地方官吏の日常生活」
漢の官僚機構の基礎は戦国期から発展した秦の官僚機構。漢代の地方行政機構は郡と県→郡は前4世紀末までに秦で設置されたと考えられ、県を管轄
郡県の長官・次官は中央政府が任命。この他、諸侯王国・列侯国もある→紀元前154年、呉楚七国の乱以後は、諸侯王国は郡、列侯国は県と大差ない権限しかない
県の下に郷と里。郷の主要業務は民衆の把握と徴税。前106年、全国は13の州に分けられてもいる
下級官吏は各官府長官が任用→経済的に中流以上が多い→長官・次官らは地域事情に詳しいとは限らず地域に影響力を行使できる人物を任用する傾向
優れた地方長官の転任→地域性の均質化。ただし、地方長官は地域の事情に詳しいとは限らないので地方少吏らが地域社会の利害を優先しても抑えられないケースが多々
→地域有力者との関係は党派として機能
前漢末以来広域地域社会成立→184年、黄巾の乱以後、漢の統治能力が著しく低下すると州を単位とする地域意識

289修都:2022/03/25(金) 20:12:44 ID:AY2wDrvM
釜谷武志「漢魏晋の文学に見られる華と夷」
前漢の詩歌として伝わる烏孫公主の歌→西域の烏孫王国に嫁いだ女性の歌→中国の生活習慣と異なる住と食の例を挙げる
北方の匈奴に嫁いだ王昭君の物語→烏孫公主の物語も王昭君の物語も望郷の念にかられながら異国で生涯を終える同一の類型
西晋時代の王昭君を題にした歌→異民族は人以外の動物に相当しているという表現
後漢時代、南匈奴に連行されて王の妾となった蔡琰の物語→北方の陰鬱さ、ことばの通じない人種の野蛮性
南朝の梁では北方の地や民族を内容とする歌がたくさん制作された→北方を異民族から奪還したいと願いつつ、かなわないことからノスタルジアを覚えるしかない

290修都:2022/03/26(土) 16:36:24 ID:AY2wDrvM
古勝隆一「礼秩序と性差」
殷以来の礼制があり、孔子と後継者が礼を革新し思想的に深め、後世へと引き渡した→殷王には帝に対する信仰があり、それが西周王の天信仰のもと
周の礼→天命が王の権力の源泉で、王は臣下や諸侯に青銅器を下賜し、その命を再分配していた
中国を統一した秦は、周の天命を完全に断ち切ったという意味で礼においても画期→始皇帝は東方の名山をめぐり祭祀→礼による権力の誇示
漢は武帝期以降、儒教が漢の制度に導入された→後漢から西晋にかけての諸王朝も礼制の整備に熱心→秦漢に作られた統一王朝的な礼制が引き継がれた
春秋時代、男女の別は社会通念だった→孔子の前から成立していた→秦代の思想家には中国の太古や異民族には男女の別がないという思想がある
婚姻は男系の家を中心とした視点のもと、礼において重視される→中国古代では、夫婦は対等ではない
礼の基本的な構想は、それぞれの人が与えられた立場(分)に応じて行動すべきというもの→男女の役割分担
新石器時代では男系ではない双系的な社会→二頭里文化の儀礼は男性中心だったのではないか→殷時代の王妃は王陵区に埋葬されていない
→西周時代は夫人墓が王墓と並んでおり地位が上昇したと思われるが男性優位は変わらない
春秋時代の男女の服喪規定は対等に近い→戦国時代の夫婦墓は妻の墓が小さくなる

291修都:2022/03/27(日) 16:47:07 ID:AY2wDrvM
田中俊明「楽浪と「東夷」世界」
中国東北にいちはやく置かれた遼東郡は戦国時代、燕の時代(前300年前後)→郡設置以前から燕人の入植があった
漢の時代、燕国は諸侯廃絶策で瓦解し、燕王に仕えていた満は朝鮮に逃げ、王となった→衛氏朝鮮国成立→朝鮮は漢の外臣として認められる
→前108年、外臣にふさわしくないとして武帝に滅ぼされる。国としては王を中心に土着中国人と在地首長層が結集したものだった
→武帝は楽浪・真番(後に廃止)・臨屯(後に廃止)・玄菟郡を置く→後漢末、董卓の遼東太守公孫度が自立→子の公孫康が帯方郡を設置
高句麗には公孫氏に通じる勢力と魏に通じる勢力とがあった→魏が公孫氏を滅ぼし楽浪・帯方郡を接収→魏と高句麗の対立
卑弥呼は魏が公孫氏を平定した時に使者を送っている

292修都:2022/03/28(月) 20:39:30 ID:AY2wDrvM
荒川正晴「漢晋期の中央アジアと中華世界」
紀元前後頃、パミール以東のタリム盆地周辺に大小様々なオアシス国家。パミール以西には一都市一国家的なオアシス諸国
秦漢代、中央アジアの草原地帯に現れたのが、遊牧国家匈奴
シルクロード→中央アジアを中心にしたユーラシア大陸における前近代の交流・交易のネットワーク
遊牧国家はオアシス国家を支配していた→漢の武帝は匈奴を討滅する目的でパミール以西まで使者として張騫を派遣→これ以後、漢は西域に進出→西域支配は比較的安定
クシャン朝勃興→シルクロードの主要ルートはイランへ延びるルートではなく、インドへ南下してゆくルートに
後漢の班超はクシャン朝の勢力進出を押しとどめる→班超が中国本土に帰還すると西域経営が急速に悪化、西域から完全撤退。クシャン朝全盛時代
中国への仏教伝来は、クシャン商人の東方活動が活発化し始める時期
タリム盆地周縁のオアシス国家は中華世界の政治的な統治を受け入れても、文化・宗教的にはインド文化の影響下。オアシス国家では仏教を信奉
三国魏の時代に中国と西域との関係は再構築される→大月氏(クシャン朝)に新魏大月氏王を授与(この称号は知られている範囲では大月氏以外では倭国のみ)
→当時、呉の孫権が皇帝になり、東南アジアとの結びつきを強めていた→呉との対抗上、魏は西域の大月氏、東方の倭国に称号

293修都:2022/03/29(火) 21:47:05 ID:AY2wDrvM
佐川英治「十六国北朝隋唐政権と中華世界」
十六国期ほど華北が分裂した時代はない→劉淵が漢の劉氏の後裔として皇帝に即位→漢の将軍だった石勒は趙王になるが撤回されたことで袂を分かち、漢は分裂(漢と前趙)
→劉氏を倒し石勒が皇帝に即位(後趙)→やがて内乱が起こり、好機として前燕が河北に進撃→皇帝に即位
関中では後趙の滅亡後、前秦が建国される→皇帝に即位→前燕を滅ぼす→やがて華北を統一→東晋に敗れる
→皇帝・天王が複数いたのは前燕と前秦が対峙した18年間のみ→前秦敗北後は皇帝・天王を称する国が常時併存する状況
鮮卑の拓跋部は曹操の時代に勢力を築き、4世紀の初めには晋から援軍を要請されるようになっていた→338年、後趙の人質だった什翼犍が戻って王となると君健安定
→376年、前秦に滅ぼされる→386年、前秦崩壊後、魏を名乗る→398年、皇帝に即位(北魏)→北魏は十六国のなかで唯一モンゴル高原の草原世界に君臨
436年、北魏が華北の全域を支配、北は柔然、南は宋と対峙した。北魏では皇帝と可汗の称号を併用(これまでは併用されなかった。可汗は非漢民族の称号)
十六国期は華北に仏教が普及。仏教振興は前秦崩壊後。中華を相対化する仏教を王権に取り込む素地は北魏にはあった→皇帝・可汗を併用する北魏はもともと中華を相対化している
466年、宋の皇位継承をめぐる乱で逆臣となった人物が北魏に降伏してきたことで北魏の領土拡大→膨大な兵力が必要→兵役の公平化と租税の負担軽減→均田制
→兵力を民に担わせる反対給付としての均田制
孝文帝は洛陽に遷都し、宮中での鮮卑語を廃止、漢化政策
北魏内で爾朱氏の力が強くなる→爾朱氏を高歓が倒す→孝武帝が宇文泰の下に出奔→高歓は孝静帝を擁立(東魏)。宇文泰は孝武帝を殺し、文帝を擁立(西魏)
東魏では高歓の子が即位(北斉)。西魏では宇文泰の子が即位(北周)→574年、北周の武帝は仏教と道教を禁止→577年、北斉を滅ぼす
→幼帝を補佐した楊堅は仏教・道教禁止を解く→581年、楊堅が即位(隋)→589年、陳を滅ぼして中国統一
都城制は北魏の洛陽城にはじまる

294修都:2022/03/30(水) 20:10:34 ID:AY2wDrvM
鈴木宏節「トルコ系遊牧民の台頭」
遊牧民についてはウイグルを過渡期として遊牧社会が古代から中世に移行したという時代区分が共有通認識
トルコ系遊牧民も世俗王権は世襲。君主はカガン(可汗)
遊牧国家ではカリスマ的な君主のもと、強大な王権の求心力が発生する→時代の経過とともに中央の権力は分散
突厥はユーラシア東西に勢力拡大→部族集団をつなぎとめるための方策としてタルカン制

295修都:2022/03/31(木) 21:27:20 ID:AY2wDrvM
辻正博「隋唐国制の特質」
隋の文帝は州と県の間の郡を廃止、州―県とした→地方間の任免権を中央に回収→地方統治は中央派遣の官員が担う
煬帝は二百数十年ぶりに統一された中華の皇帝だった→李淵は煬帝の母方の従兄弟。北方防衛を任されていた李淵は突厥と結び、長安に進軍→入城すると煬帝の孫を皇帝に擁立
→煬帝が死ぬと自身が皇帝に即位(唐の高祖)→隋朝官人は別の煬帝の孫を皇帝とする→隋が滅亡しても鄭や夏では隋の官制を用いた→唐は差別化を図るため律令で独自色
隋唐は身分秩序で成り立っていた
文帝は各地に置かれていた軍府を大幅に削減、兵籍につけられていたものを民籍に編入
唐王朝は軍役を課した→衛士に選抜されなかったものは防人→負担に耐え切れなくなった農民は逃亡しだす
衛士は宮城の警備で戦闘要員ではない。防人は辺境警備。戦時にのみ行軍を召集・組織して兵員を大量動員する→8世紀前半になると職業兵士が中心になる
北周から隋、隋から唐への変革はそれまでと違い、前朝国制の継承を拒絶するものだった

296修都:2022/04/01(金) 20:41:48 ID:AY2wDrvM
戸川貴行「南朝の天下観と伝統文化」
4世紀初頭、永嘉の乱→騎馬遊牧民が西晋の都を攻略し、皇帝を殺害→漢族は江南に避難、東晋が成立→国家儀礼と雅楽の大部分が失われたと思われる
→中原を恢復するまでは国家儀礼や雅楽の整備を控えるべしとされた→東晋につづく宋の孝武帝は中原恢復をあきらめ健康を新たな天下の中心にしようとした→国家儀礼の整備
北魏では530年、権臣の爾朱栄が孝荘帝に殺された後、従子の爾朱兆が洛陽を襲撃→雅楽器が略奪・燃やされた→新たな雅楽がつくられた

297修都:2022/04/03(日) 20:13:57 ID:AY2wDrvM
桃木至朗「東南アジア世界と中華世界」
東南アジアが歴史学会の市民権を獲得したのは、1990年前後
東南アジアで、仏教・ヒンドゥー教やサンスクリット語などインド文明の摂取が始まるのは4世紀末以降→国家成立
紀元前千年紀から10世紀までに形成された東南アジアの諸歴史圏は現代の諸国家の記憶の中に残っていない→9〜14世紀(憲章時代)の諸国家は歴史叙述の中に多くが姿を見せる
→憲章時代は唐宋変革の時代とほとんど重なる
東アジアの一部と見なされていたベトナムは、80年代の東南アジア地域研究の発展で東南アジアの一員であることが強調されるようになった
ベトナムは陳朝になると中国と対等な南国(南の中華帝国)というイデオロギーと歴史を練り上げていく

298修都:2022/04/04(月) 20:42:48 ID:AY2wDrvM
岩尾一史「チベット世界の形成と展開」
吐蕃の中核となったのはヤルルン川周辺のプゲェル氏、東チベットコンポのコン・カルポ、チベット東南部の諸勢力
ソンツェン・ガンポが統一→この後、チベットは拡大路線。唐軍に勝利して一時期はタリム盆地を支配→皇位継承をめぐり国内が安定しないなか、唐軍により押さえ込まれた
→755年、安禄山の乱が勃発すると吐蕃が再び進出。763年には吐蕃軍が長安を2週間占領→790年代、唐軍に大敗。9世紀初めには拡大路線は手詰まり
→唐と長慶会盟→吐蕃は最大の版図、吐蕃とウイグルが崩壊するまでユーラシア東方に平和
吐蕃は農耕の経済的安定性と牧畜民の機動力を併せ持つ国家。チベットは多民族国家
吐蕃が仏教を公式に受け入れたのは779年→普遍的な宗教権威による王権正当化のため世界宗教を選んだ
→ただし、吐蕃期は仏教がチベット社会に完全に浸透する前段階。古代信仰が残っている
842年以降、後継者をめぐって南北に対立→分裂していき吐蕃の栄光を取り戻すことはなかった→ただし、吐蕃崩壊後も支配地域ではチベット語が利用され続け、チベット仏教文化圏が残った

299修都:2022/04/05(火) 21:31:04 ID:AY2wDrvM
李成市「朝鮮史の形成と展開」
韓国と北朝鮮は936年の高麗王朝を最初の国家統合としている→新羅の時代の渤海を朝鮮史の一部とみなし、南北国時代とするから
高句麗の広開土王は永楽太王と号した→中国の冊封体制では通用しない独自の王号→高句麗を中心とする政治秩序→独自の天下観は五胡十六国時代という華北の変動のなかで生まれた
百済は360年代末、近肖古王の時代、高句麗に勝利→372年、東晋に朝貢。支配層は高句麗系、新羅系、倭系、中国系など多様な出自
新羅は377年、前秦に朝貢→高句麗に朝貢を強いられるが、百済と同盟を結び、高句麗に抵抗→漢江下流域を奪取→564・568年、南北朝(北斉・陳)に外交
642年、高句麗の権臣泉蓋蘇文と百済の義慈王は連携して新羅を攻撃→新羅は唐の支援を求める→唐は女王統治を非難→女王廃位・唐依存派と自立派(春秋)の対立→春秋の勝利
→春秋は衣冠制を唐制に改め、唐年号を採用→政治的実権は権力を掌握した金春秋と一部の近親者集団のもとに
新羅は670年から6年にわたって唐と抗争、それに勝利→684年、朝鮮半島全土を支配
景徳王は759年、官司を名を唐風に改める
新羅後半期は王位争奪戦がくり広げられ、地方では反乱が頻発→高句麗の再興を訴えた勢力は朝鮮半島独自の年号を用いた

300修都:2022/04/06(水) 21:43:18 ID:AY2wDrvM
冨谷至「中華と日本」
2000年に及ぶ帝政中国で中華帝国が周辺諸国に賜与した称号は一貫して王
後漢光武帝の時代、倭の首長は倭王の称号を与えられた→「漢倭奴国王」は漢の倭奴国の王と読むべき
6世紀に入ると、倭と中国南朝の交渉は疎遠
『日本書紀』には隋からの国書に「倭皇」と書かれている→倭王を隠ぺいするために書きかえている。倭王の称号は、もはや忌むべきものとなっていた
→もとから倭皇だったのではなく、『日本書紀』が書写されていく過程で書きかえられた可能性が高い
倭が日本に国号変更したことを唐へ正式に告げたのは702年第8回遣唐使→701年に初めての年号大宝を制定した翌年
すでに漢語として存在していた日本を倭国が東方の国である自国の国名に転用した
天皇の称号が飛鳥浄御原令に記されていた可能性。少なくとも天智朝では日本という国号も天皇号も成立していない→天武朝に天皇号、国号日本。読みとしては日本もヤマト
中国王朝は一貫して王・日本国王という呼称を維持→天皇の読みスメラミコトを姓・号と見なした可能性

301修都:2022/04/07(木) 20:45:55 ID:AY2wDrvM
下倉渉「交拝する夫婦」
経書の婚礼→男家が女家に婚姻を申し込む→女性の名前を聞く→占う→結納→輿入れの日を決める→新郎が女家に向かう→花嫁が男家に至る
→男家に至るまでに婦が夫に付き従う存在であることを可視化したパフォーマンスが行われる
漢の時代は皇帝の娘公主と結婚するときは公主の居宅に通った→魏の時代に公主であっても夫尊妻卑の論理が適用されていく
後漢代後期あたりから夫婦交拝の儀式→通常は身分差のある者同士で交わされる拝礼ではない→宋代は新郎の寝室で行われ、元代以降もこれに準じていた
男尊女卑・夫尊妻卑を基本理念とした儒家的な婚礼は婚礼儀礼上における絶対的なスタンダードではなかった
→宋代以降、新郎の寝室で行われるようになった→成婚の儀礼が儒家の説くものになっている(夫尊妻卑)

305真ナルト信者:2022/07/08(金) 11:16:51 ID:???
age

306修都:2022/07/09(土) 16:45:35 ID:sO0X8N3w
佐々木憲一「北アメリカにおける先史時代社会の諸相」
アメリカ大陸へはベーリング海峡が陸地であった氷河期末期にシベリアから現生人類が大型哺乳類を追いかけて移動してきたというのがアメリカ考古学会のほぼ一致した見解
極北(アラスカ州北部からカナダ北部、グリーンランド沿岸地域)→ヨーロッパ人入植まで海獣や海鳥の狩猟と若干の漁労→極北東部域で人々が生活を始めたのは紀元前2500年頃
北西沿岸(アラスカ州南端からカリフォルニア州北端)→気候変動のため多くの遺跡が水没
北部では唇飾りを装着した人々、南部では頭蓋変形を受けた人々が社会的に高位の人々→社会的不平等。北部海岸地域では戦争の証拠
→ヨーロッパ人がこの地を初めて訪れた時には社会的な階層分化が存在
南西部のチャコ・キャニオン遺跡群には食人の習慣も含めて暴力の考古学的証拠が顕著
ヨーロッパ人入植以前の北アメリカ大陸先住民は金属器の鋳造技術を有することはなかったが、自然銅で道具を作ることはできた
紀元前10世紀頃、土器の使用の開始は北東部と南東部で大きな変革→定住化が起こったからこそ土器製作が容易になった
紀元前1050年頃、南東部のミシシッピ文化→マウンド(墳丘墓)築造に精魂を傾けた時代→大遺跡をトップとする階層構造は地域ごとに完結
→地域を超えて築造規格が共有される日本の古墳時代とは違う
北アメリカ大陸の多くの地域はヨーロッパ人入植のときも狩猟採集経済で土器もなかったが、南西部・南東部・北東部(北部を除く)は紀元前4世紀までに農耕、定住化

307修都:2022/07/10(日) 15:45:22 ID:sO0X8N3w
関雄二「アンデスとメソアメリカにおける文明の興亡」
メソアメリカ→メキシコ中部からホンジュラス、ニカラグア、コスタリア西部。アンデス→ペルーとボリビアの一部
更新世の末頃、アジアからアメリカ大陸に人類到達、拡散→完新世初期に植物栽培は開始されるが、農耕に依存した社会は4000年以上も後
アンデスは定住、公共建造物の出現でメソアメリカに先行→平等性が高い社会で、埋葬に差異が認められない。いずれの遺跡でも、王宮や王墓などが見つからない
→公共建造物が出現して、2000年以上経って集団内の差異が明確化
メソアメリカは公共建造物よりも土器の出現が早い→前1400年頃オルメカ文化では大規模な公共建造物の建設と支配者の存在を示唆する証拠
アンデスでは国家が誕生していなかった時期、オアハカ地域では国家レベルの社会。マヤでは王権が成立
前100〜後700年のナスカ文化(ペルー南海岸)→国家ではない。地上絵は儀礼の際に歩いた通路とする見方が強い
マヤは各都市に王を戴く国家が成立。都市国家間で同盟が結ばれ、抗争も絶えなかった→マヤの崩壊。人口急増による環境破壊、戦争による社会疲弊などによると考えられている
アンデスでは国家や都市は限られた地域であり、王はいない→ワリ文化。アンデスの広い範囲を影響下においた初めての政体、帝国とする論もある
スペイン人が到来した当時、アンデスのインカ帝国は地球上最大の帝国→中央集権的ではなく間接的支配→王の親族集団の生活は私有地からの物資
インカ帝国は1532年、160名あまりのスペイン人との数時間の戦いで崩壊
マヤはスペイン人が到来してもすぐに征服されず、滅ぼされたのは1697年
メキシコ高原のアステカは人身供犠を行ったことで知られる→1521年、スペイン人に滅ぼされる
アメリカ大陸の古代文明では財を蓄えていくような王があらわれない→軍事行動においても祭祀や世界観の具現化を求めた行動が底流。祭祀の精緻化に伴って階層構造

308修都:2022/07/11(月) 20:06:16 ID:sO0X8N3w
大越翼「マヤ人から見たスペインによる征服と植民地支配」
マヤ文明の王や貴族らと平民との間に財に関して大きな差はない→王の権力基盤は労働力の多寡→王は人口の大多数を占める農民の意向を無視することができない
→王は一方的な収奪を行っておらず、農民への還元がある→農民が王権をくつがえすほどの力を持っている
ユカタン半島東海岸のマヤ人はスペイン人を平和に迎えスペイン国王に忠誠を誓った→1527年のモンテホの征服は成果を得られず、ユカタン半島を放棄
→半島西海岸から進軍、北部低地西半分の王国群を支配下に収めた→モンテホは先住民同盟軍の必要性を認める→1546年、北部低地の征服終了
マヤ地域の主だった征服戦は16世紀半ばまでにすべて終了→南部低地の大半は手つかず→南部低地はスペインが実効支配していた地域から逃れてくる人々が住む地域
スペイン側の思惑通りに先住民社会が改編され、スペイン王国の臣民としてのキリスト教原理に基づいた社会が創造されたわけではない
マヤ人すべてが、暗黙のうちに2つの宗教を矛盾することなく生きていた→スペイン人による征服がマヤ社会を崩壊させたのではない、マヤ人が主体的に新しい時代を乗り切っていこうとした
ピラミッドは壊され教会が建てられたが、道は手をつけられなかった→先住民にしてみれば、道の行きつく先が異教の教会だろうと、既知の精神世界に教会を包摂していく行為
マヤの人々は、スペイン人邸宅で働く者が多く、女性はスペイン料理に伝統的なマヤ料理を組み合わせた新しい料理を作りだした
乳母はスペイン人の子供たちにマヤの伝統や儀式などを語り聞かせた→事実上、子供たちはスペイン語とマヤ語のバイリンガルとなった
スペイン人がマヤ人たちを冷酷に扱い、人とも思っていなかったというのは必ずしも正しくない
マヤ地域の征服はスペインとメソアメリカの人々との共同事業

309修都:2022/07/12(火) 21:50:53 ID:sO0X8N3w
網野徹哉「トレント公会議とアンデスにおける先住民布教」
インディオを委託されたエンコメンデーロには先住民の教化義務が課せられ、聖職者を雇う必要があった
アンデスの伝統的宗教実践については、一概に排毀するのではなく、積極的に取り込んでゆくという柔軟な適応精神
1545〜1563年トレント公会議→公共要理を土着の言葉で伝える方針→先住民言語の習得が義務づけられた
インディオは法務文書を運用する能力も身につけている→司祭を訴えるインディオたち

310修都:2022/07/13(水) 20:50:56 ID:sO0X8N3w
横山和加子「一六世紀メキシコからみたグローバルとローカル」
メキシコ市は西半球随一の都市であった→スペイン人は都市、先住民は村という住み分け→異人種間の婚姻に法的な問題は無し。先住民女性との結婚は珍しくない
アステカ王国モクテスマ二世娘イサベル・モクテスマはアステカ王の血と姓をスペインの貴族の中に注ぎ込んだ
17世紀、多くのカシケ(先住民首長)がメスティーソ(先住民とスペイン人の子)、カスティーソ(メスティーソとスペイン人の子)だった
自由な黒人(征服に同行した黒人奴隷)と先住民の混血も始まる→17世紀半ば、メキシコ市に黒人は一定割合いたが、18世紀になると減少、ほぼゼロ→混血者の中に吸収された
混血の複雑化と白人化の可能性→北米とは異なる緩やかな人種観の形成

311修都:2022/07/14(木) 21:32:05 ID:sO0X8N3w
金井光太朗「「先住民の黄金時代」とセトラー・コロニアリズムの衝撃」
セトラー・コロニアリズム→「野蛮人」を殲滅排除して勤勉なる入植者が定住を進めて文明社会を再現するのが正当だというイデオロギー
アメリカ先住民の黄金時代→季節に応じて生態系をめぐり移動しながら生きる生活
オランダは宗教的寛容や経済的繁栄により多民族・多文化社会で、植民地入植者も多様
フランス入植者にとっては封建的な農地の生活より野蛮人生活の方が魅力的だった→先住民首長との結婚に積極的
オランダもフランスも先住民と入植者の相互関係に落ち着いていた
イギリスのヴァージニア植民地は入植から数年間危機的。入植者の半分以上が一年経たずして死亡→入植者による先住民からの強奪→1609年、アングロ・ポーハタン戦争
→1614年、ポカホンタスがイギリス人ジョン・ロルフと結婚して一旦は和平成立→1622年、第二次アングロ・ポーハタン戦争→32年、イギリス勝利、民族浄化
ニューイングランド植民地→(入植者にとって)「空いた土地」への入植侵入→1634年、ピークォト戦争→1637年、イギリス勝利、民族浄化

312修都:2022/07/18(月) 16:11:59 ID:sO0X8N3w
大峰真理「一七世紀フランスの初期植民会社と小アンティル諸島」
16世紀半ばまで中南米地域にむかう船団の積み荷は、カリブ海域の船乗りたち(フリビュスティエ)の格好の略奪対象だった→スペインの覇権は略奪者集団を存続させる要因
1626年フランス王国史上初めて植民のための特権会社サン=クリストフ会社→サン=クリストフ島をイギリスと二分割していたがフランスの植民は上手くいかなかった
→国家から許可を与えられ敵国の船を襲撃して積み荷を奪う私掠をフランスのブランはイギリスに行い、イギリスとの勢力均衡を図った→結局、植民は失敗。1634年サン=クリストフ会社は解散
→1635年アメリカ諸島会社設立→グアドループ島の開墾を目指す→年季奉公人と黒人奴隷労働力を投入する典型的なプランテーション社会

313修都:2022/07/19(火) 19:57:35 ID:sO0X8N3w
小原正「アメリカ植民地の経済とスペイン黄金世紀」
17世紀スペインは文化的には黄金世紀。一方で有力貴族が深刻な財政難の時代→疫病による農業危機、銅貨改悪による通貨危機、国債利払い停止→銀の価値上昇
→アメリカ植民地の銀を入手できるエンコミエンダの権利に注目→スペイン本国の有力貴族にエンコミエンダの権利が与えられるようになる
→現地の商人がエンコミエンダの管理を委託される→責務を果たさない商人もいた

314修都:2022/07/20(水) 21:28:35 ID:sO0X8N3w
清水有子「徳川家康のメキシコ貿易交渉と「鎖国」」
文禄元年(1592)、豊臣秀吉がルソンに投降を呼びかけた→ルソンの修道士が使節として日本に来る。日本とスペインの関係の契機
→秀吉の死後、倭寇がルソンに跋扈→家康はそれに対処。1606〜09年、マニラ市内で日本人暴動が起きると家康は日本人暴徒の処刑を命じた
家康は慶長7年(1602)禁教を表明したが、宣教抜きでの外国人の日本滞在は認めた→ルソン側は名目的なものと誤解した可能性。家康も積極的な宣教取締りはしていない
家康はルソンに関しても格下の国から進物が送られていると都合よく解釈→日本型華夷意識の萌芽
1609年、ビベロ漂着→家康と貿易交渉→協定案謝絶。家康は南蛮通行全般を見直し始めている→オランダ人との通行関係が成立している
1611年、使節ビスカイノ冷遇→貿易構想放棄。1612年、禁教令。1615年、スペイン使節を無視、スペインとの外交は途絶えた

315修都:2022/07/25(月) 21:36:15 ID:0jMA5iFU
三田昌彦「南アジアにおける国家形成の諸段階」
前6世紀頃ガンジス川中流域に都市→前3世紀マウリヤ朝が南アジアほぼ全域を統合。マウリヤ帝国は湿潤な稲作地帯から発した世界的に特異な帝国
首都パータリプトラは世界最大級の都市。マウリヤ朝は画一化を目指す施策をほとんど行っていない
マウリヤ帝国はガンジス川流域と重要地点とを結ぶ点と線の統治。領域内の経済的格差は極めて大きい
マウリヤ帝国崩壊→デカンにサータヴァ―ハナ朝、中央アジアから北インドにクシャーナ朝→4世紀初頭グプタ朝が北インド統合
グプタ朝崩壊→7世紀前半ハルシャが北インド統合→崩壊後、小勢力割拠→8世紀後半プラティーハーラ朝、パーラ朝、ラーシュトラクータ朝並立期
北のプラティーハーラ朝は辺境勢力。中央部のラーシュトラクータ朝は南アジア最大勢力→10世紀後半、地域国家並立→この時代の王朝は安定的で約300年継続

316修都:2022/07/26(火) 20:58:07 ID:0jMA5iFU
鈴木恒之「インド洋・南シナ海ネットワークと海域東南アジア」
前2世紀末、漢の武帝はベトナム北・中部を支配下に置き3郡を置いた→南シナ海交易の玄関口→ローマ、インド、中国を結ぶ海上交易路海のシルクロード
8世紀、マラッカ海峡域でスマトラ南東岸のシャリーヴィジャヤ王国が交易ネットワーク形成。中部ジャワではシャイレーンドラ家がマハーラージャを名乗り、シャリーヴィジャヤの王位に就く
877年、東西交易の拠点だった広州が黄巣の反乱軍に襲撃され、居留していた外国人12万人が殺される→ムスリム商人の拠点はクダーに
1025年頃、南インドのチョーラ軍の襲撃でシャリーヴィジャヤは中心的役割を失う→北隣のスマトラのジャンビ王国が中心に
13世紀末から東南アジアのイスラーム化→ムスリム商人の活動を反映

317修都:2022/07/27(水) 21:38:22 ID:mLoZKEwA
馬場紀寿「サンスクリット語とパーリ語のコスモポリス」
サンスクリット語が政治の言語として用いられ、サンスクリット語の聖典をもつヒンドゥー教と仏教が主要な宗教→サンスクリット・コスモポリス
インドではアラビア語のクルアーンを正典とするイスラム教が浸透。スリランカから東南アジア大陸部にはパーリ語の仏典を伝承する仏教→パーリ・コスモポリス
1世紀から3世紀、外来民族の王朝である北インドのクシャーナ朝でサンスクリット語の使用が始まる
4世紀、北インドのグプタ朝は本格的にサンスクリット語を政治的発話に採用→4世紀から13世紀、南アジアと東南アジアの関係の緊密化とともにサンスクリット語が広まる
密教は儀礼をもたなかった仏教の弱点を克服し、仏教がサンスクリット・コスモポリスの主要宗教となる原動力となる
→7,8世紀、サンスクリット仏教は南アジア・東南アジアという地域を超え(中国・日本など)、サンスクリット語すら超えて(翻訳)世界最大の宗教となった
サンスクリット化に抵抗する仏教の一派による変革がスリランカで起こり、影響が東南アジア大陸部に波及→パーリ語こそが正しい仏典の言葉であるという言語論
11〜12世紀、アフガニスタンのガズナ朝やゴール朝がインドへ進出→北インドを中心にペルシア語が知識人の言語としての地位を獲得→ゴール朝によってインドの仏教拠点も破壊される
13〜14世紀、東南アジア大陸部の新たな王権は改革後のスリランカ仏教を導入。パーリ語はサンスクリット語とは異なり、仏典言語にとどまった

318修都:2022/07/28(木) 21:52:08 ID:mLoZKEwA
二宮文子「南アジアにおけるムスリムの活動とイスラームの展開」
ムスリムはインド洋の海の道を利用して南アジアに進出。アフガニスタンに拠点を置いたガズナ朝は10世紀末から11世紀に南アジアへ侵攻。ゴール朝は北インドを中心に征服活動
デリーを根拠としたムスリム政権はスルタンを称した(デリー・サルタナト)→13世紀末から14世紀初頭、征服活動→トゥグルク朝の時代にデリー・サルタナトは南アジア最南端以外を支配下
南アジアのムスリム社会は異なるルーツを持つ多様な人々から構成。デリー・サルタナト時代の農村部の人口の大部分は非ムスリム→支配は多くの非ムスリムに支えられている
後宮の女性たちの中にも非ムスリム出身者がいた。宗派の違いが政治的・社会的な対立に必ず結びつくわけでもない
デリー・サルタナトにおける行政や文芸活動は主にペルシア語。14世紀以降は各地の言語を用い、地域文化に根ざした素材を用いる文学作品がムスリムによって著される

319修都:2022/07/29(金) 22:16:13 ID:mLoZKEwA
小磯学「南アジアの古代文明」
前2600年〜前1900年頃、南アジア北西部で興亡したインダス文明→西南アジア交流圏の東方に展開した諸文化を結び付け統一したのがインダス文明
→交流圏の中の関係性が失われたことが文明が衰退し崩壊した原因と考えられる
インダス文明では長文の文書資料が発見されていない。王宮・王墓に否定できる建築物や遺構も不在・未発見。紛争の痕跡も欠如している
周壁をもつ都市ともたない都市が存在しており、文明内に一定の社会的格差はあった

320修都:2022/07/30(土) 20:12:38 ID:mLoZKEwA
山形眞理子「ドンソン文化とサーフィン文化」
ドンソン遺跡はベトナム北部、サーフィン遺跡はベトナム中部
ドンソン文化の紅河平野には中国の南下に圧倒される前に、東南アジアのどの地域と比べても複雑な社会が出現していたと思われる
地域ごとに成長した首長制社会の集合体がサーフィン文化の社会
鉄器時代の東南アジアには、考古学的な知見から推測される様々な道が交錯し、ネットワークが広がっていた
ドンソン文化とサーフィン文化は、交易ネットワークを通じて東南アジア各地の鉄器時代文化とつながっていた

321修都:2022/07/31(日) 23:04:43 ID:mLoZKEwA
田畑幸嗣「東南アジアの古代国家」
東南アジアは少なくとも紀元前4・5世紀以降にはインドとの明瞭な接触→インド的ないしはインドにインスパイアされた文化をもつ諸国家が成立するまでの約千年間は長い助走期間
漢籍に登場する扶南→真臘。扶南は後の真臘とよく似た価値観をもつ人々の政体。統一国家ではなく、カンボジア・ベトナム南部の政治的なまとまりの総称だったのではないか

322修都:2022/08/01(月) 20:02:57 ID:mLoZKEwA
横地優子「女神信仰とジェンダー」
日常生活に根ざした女神たち、普遍的な女神概念となった戦闘女神・死の女神、抽象概念を神格化した女神たち(シャクティ)の3階層が南アジアにはある
戦闘女神成立の中核は、ヴィンディヤ山の女神と水牛の魔神を殺す女神→『デーヴィー・マーハートミャ』では戦闘女神は最高神格であり、処女神であるため男性の神に従属することもない
死の女神は七母神の主神格→七母神はそれ以前の母神群たちをヒンドゥー化・サンスクリット化したもの→7番目の女神は対応する男性神格を持たない(死の女神)
戦闘女神と死の女神は軍事的・政治的権力や呪術的権力を求める者たちが力を獲得し維持するための有効な手段として信仰が受容され広まった
→女神信仰が野心的な男性に権力を授ける手段に変容した→女神信仰が力を求める男性に搾取された

323修都:2022/08/02(火) 20:45:46 ID:mLoZKEwA
松浦史明「アンコール朝の揺れ動く王権と対外関係」
802年、ジャヤヴァルマン2世が即位、王都をハリハラーラヤに定めた→15世紀ごろまでアンコール地方が国家の中心
1113〜1150年のスーリヤヴァルマン2世はアンコールワットを建立。この王の時代に814年から途絶していた中国との朝貢を再開
1181年に即位したジャヤヴァルマン7世の時代に王朝の最大版図。中国製品の流入と消費も大きく発展

324修都:2022/08/03(水) 21:28:53 ID:mBv4sMcs
和田郁子「インド洋海域史から見た南インド」
前2世紀前半、エジプトや西アジアと直接航路で結ばれていたのはインド北西部→前1世紀末にインド西岸中部へ直行することが可能に
ローマ帝国のエジプト船によるインド洋交易は1世紀末には衰退→3世紀、ササン朝のもとでペルシア湾沿岸が整備されると様々な商人が海上交易に
5世紀頃までにはインド洋の東西海域でモンスーン航海が発展
ササン朝時代、南アジアへ移住するキリスト教徒商人もいた。12〜13世紀にかけてムスリム商人の海上交易活動拡大、複数の港市にムスリムのコミュニティ

325修都:2022/08/06(土) 15:39:26 ID:mBv4sMcs
佐藤彰一「中世ヨーロッパの展開と文化活動」
西ヨーロッパ世界は8世紀にポスト・ローマ世界から離脱→寒冷多雨な気候から温暖で乾燥した気候へ→人口の増加、取引の活発化
カールが800年、西ローマ皇帝になったとき、領土は大陸では現在のEUに匹敵(カロリング帝国)→870年、東フランク王国(ドイツ)、西フランク王国(フランス)、イタリア王国に三分
カロリング帝国の政治は帝国貴族層の合意に基づく営みであった
8世紀、徴税は国王権力が直接所掌する事業となった→ポスト・ローマ的都市機能の停止。王権は教会を徴税対象から除外、徴税が不斉一に
→フランク国家は分節化された構造をもち、斉一的な統治、行政が困難

326修都:2022/08/07(日) 16:55:30 ID:mBv4sMcs
森山央朗「ウラマーの出現とイスラーム諸学の成立」
7世紀末から8世紀前半は、ウマイヤ朝の統治が安定した時代で、神に帰依する国家や社会とはいかにあるべきかをめぐる議論が本格的に開始された
→預言者ムハンマドと父祖たちの記憶を語る物知りとしてウラマー(学者たち)が出現
ムハンマドの死後、アラビア半島を出て広範な地域に移住していったアラブムスリムたちはアラビア半島では見ることのなかった事物や慣習を多く目にすることとなった
→それらを利用できるものは取り入れていった→ウラマーはコーランの啓示に言及されていないあまたの実利的な判断や裁定を神の意思と預言者の教えに照らして正当であることを示す作業
10世紀後半から11世紀は、ムスリムの多数派の中の学派や思想潮流が合流し、スンナ(慣行)派という宗派意識が確立・浸透していった時代
ウラマーは僧侶や神父・牧師などの役割をイスラム社会で担った。ウラマーとしての地位を支えるのは学識。都市富裕層出身の男性が多い
10世紀頃まで、ウラマーは家の財産や他の生業で生活を支えていた→マドラサ(学ぶ場所)の普及によって教員という職
政治・軍事支配者とウラマーとは緊張感をともなった協力関係

327修都:2022/08/08(月) 21:02:06 ID:mBv4sMcs
森本一夫「山々に守られた辺境の解放区」
ハサン・イブン・ザイドはカスピ海南岸タバリスターンを制圧、アームルに拠点を定めた→アリー裔政権→ハサン死去、娘婿アブー・フサインが君主に
→ハサン兄弟のムハンマドがアブーを倒し君主に。グルガーンを拠点に→サーマーン朝と戦い敗死、支配される→第一次政権終わり
ハサン・ウトルーシュがサーマーン朝の勢力を駆逐、アームルを拠点に→第二次政権→ウトルーシュ死亡→軍人のハサン・イブン・カースィムとウトルーシュ息子たちとの勢力争い
→ダイラム人武将マーカーン・イブン・カーキーによってカースィムが君主となる→サーマーン朝と戦ってカースィム敗死→政権争いの中、アリー裔政権は命脈が尽きていく
アリー裔政権の君主たちのほとんどはメディナからの移住者と子孫であった(ザイド派)→イスラーム圏東方の諸地域へのアリー一族の拡散と在地社会への定着を加速させる働きも持った

328修都:2022/08/09(火) 20:36:19 ID:mBv4sMcs
三佐川亮宏「ヨーロッパにおける帝国観念と民族意識」
ドイツ人・ドイツという民族的・地理的名称が初めて自称として使用されたのは、1000年頃。ドイツ王国・国王は1070年代以降
843年のヴェルダン条約でルートヴィヒ2世が得た東フランク王国がドイツの空間的枠組み。シャルル2世の西フランク王国はフランスの母胎→ドイツ人という概念はこの頃存在しない
885年、東フランク国王カール3世が西フランク国王の地位も獲得して大フランク帝国がよみがえる→887年、クーデター、再度分裂→東・西フランク、ブルグント、プロヴァンス、イタリアに
→東以外、カロリング家ではなかったが、東カロリング家も断絶する。東フランク王国はフランケン、ロートリンゲン、ザクセン、バイエルン、シュヴァーペンの5つの分国から成る
→ザクセン、バイエルン、シュヴァーペンは非フランク系
919年、ザクセン人のハインリヒ1世がオットー朝樹立。西フランク王国では王位を取り戻した西カロリング王家がフランク的伝統の独占を主張→東の非フランク人国王はローマを志向する
962年、オットー1世が皇帝戴冠→1806年まで存続した帝国は13世紀半ば以降神聖ローマ帝国と自称するが、それ以前は単に帝国・ローマ帝国
オットー3世は、支配の中心をローマに移し、教皇との提携により普遍的・キリスト教的皇帝権を樹立するというローマ帝国の改新を構想→22歳で死去したため中断
オットー朝によるイタリア遠征への動員は南の大公領も巻き込んだ→対外活動を共に遂行する過程で、それまでの枠組みを超越した我々意識を育んでいった
北イタリアのランゴバルド人でオットー1世の側近となったクレモナ司教リウトプランドが東フランク王国の住民の総体をドイツ人と呼んだ
→イタリア人=他者による差異化の視点から、包括的に1個の言語=民族共同体として認識された他称概念→1000年頃、オットー3世と側近たちによってドイツ人が自称として受容される
イタリア人という語もオットー1世の遠征が始まる10世紀半ばまで存在しなかった
→ドイツ人のローマ帝国という現実に直面する中で、よそ者に対する差異化の裏返しとしてイタリア人という共通の民族感情
ドイツ王国という名称もイタリア人による命名→ローマ帝国を志向する皇帝権と、それをドイツ王国に限定しようとする教皇権の対立の中でドイツ王国という名称が使われる

329修都:2022/08/10(水) 11:09:27 ID:mBv4sMcs
中谷功治「聖像と正教世界の形成」
古代末期、聖遺物崇拝は批判的な言説があったものの確実にキリスト教社会に定着していった→7世紀にかけて、東ローマ帝国では聖画像が尊崇を集めるようになってゆく
→8世紀、イコノクラスム(聖なる画像であるイコンの破壊)、聖像論争→偶像崇拝の疑いを回避するため、イコンには厳格な様式が求められることになった


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