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漫画・ライトノベル以外の書籍スレ

1真ナルト信者:2017/02/08(水) 19:12:46 ID:???
漫画・ライトノベル以外の書籍なら純文学でも文庫でも新書でもレピシ本でも攻略本でも難しい本でもOK
感想を書いたり、内容をまとめたりとかしてみたらどうでしょう

469修都:2023/11/06(月) 19:48:04 ID:Wvozer8s
渡部良子「イル・ハン国のイラン系官僚たち」
イル・ハン国では、ウイグル文字モンゴル語とアラビア語・ペルシア語官僚技術を習熟した官僚たちが活躍した
イル・ハン国では、歳出は、必要額を各地の税収に割り当てた。徴税請負責任者がいたが、要求に応じられない場合は責任者が自ら不足を補填した→過酷な取り立てと納税者の疲弊
第三代アフマドを除き非ムスリムだった歴代イル・ハンは、多くが仏教を信奉する一方、有能な人材は宗教宗派を問わず取り立てた

470修都:2023/11/07(火) 19:48:17 ID:Wvozer8s
中村淳「チベット仏教とモンゴル」
第五代皇帝クビライは、高層サキャパンディタの甥パクパを大朝国師に任じて、仏教の統領を命じた→なぜカシミールやチベットの高僧が仏教界のトップに据えられたのかはいまだ明らかではない
クビライは国師パクパに皇位の正統性や王権を表象、具象する施策を委ねた→クビライを金転輪聖王として表現する大法要など

471修都:2023/11/08(水) 19:48:06 ID:Wvozer8s
渡邊佳成「モンゴルの東南アジア侵攻と「タイ人」の台頭」
1253年、クビライは雲南に侵攻→大半はモンゴルの支配下に入った→ビルマ、北タイ方面への勢力拡張の拠点
1257年、雲南のモンゴル軍は、ベトナムに侵攻。陳朝の軍を破る。1282年、チャンパーへ侵攻→膠着状態となる→ベトナム側が攻勢に転じ、モンゴル軍撤退
→1288年、ふたたび進軍→元軍は糧食を輸送していた船が撃破され、退却を余儀なくされる。クビライはさらなる侵攻を計画していたが、1294年クビライの死によって中止
陳朝にとってモンゴルの衝撃は衰退につながるものではなかった
1277年、ビルマ軍が雲南に侵入→1284年、モンゴルはビルマ北部を奪う→その後、良好な関係に転じたが、ビルマで政変が起こると関係が悪化
→モンゴル軍は侵攻するが、炎熱などのため退却→その後、ビルマ国内は分裂→ビルマの衰退はモンゴルの侵攻以前に始まっており、モンゴルは分裂の直接の要因ではない
タイ人の勃興にもモンゴルの侵攻の影響は認められない

472修都:2023/11/09(木) 19:48:57 ID:Wvozer8s
森達也「ユーラシア世界の中国陶磁流通」
中国陶磁の海外輸出が本格化するのは、唐代後半期の8世紀末から9世紀→エジプト、東アフリカ、インド洋沿岸、タイ、ベトナム、日本、韓半島などに流通
元代に器形の大型化、装飾の多用化、色彩装飾の誕生など→モンゴル人と色目人の嗜好。食物を大型容器に盛る草原の民の食習慣が影響
イランの陶器やガラスのカラフルな世界を中国の磁器の技術で再現。モンゴルがユーラシアの主要部分を支配した時期に中国の製磁技術で西アジアの人々が好む磁器が生み出された
日本は中国文化のすべてを持ち帰りたいという意識でさまざまな産地の中国陶磁を日本に運び、日本人の好む宋代の中国陶磁を集めていた→日元貿易は他の地域の中国貿易とは異なる

473修都:2023/11/10(金) 19:46:16 ID:Wvozer8s
川口琢司「カラチュの時代」
ティムール朝の創始者ティムールは、晩年までオゴデイ家出身の人物を傀儡のハンとして置いた→名実ともにチャガタイ・ウルスからティムール朝へと変わったのは、ハンを置かなくなってから
ティムール朝の歴代君主はモンゴル系出身であるため、チンギス家のみに許されるハンの称号を名乗ることはなかった
ティムールの軍事行動の目的はあきらかにチャガタイ・ウルスの復興と拡大だった→ユーラシア各地を征服→各地域にチンギス家の人物を代理として送り込み、影響力を維持しようとした
部族出身者はモンゴル語でカラチュと呼ばれ、高貴でない者、非チンギス家の者を意味する。ティムールは自信をカラチュと認識している

474修都:2023/12/03(日) 16:37:40 ID:Wvozer8s
割田聖史「ヨーロッパにおける国家体制の変容」
フランス革命とナポレオン戦争は、ヨーロッパに暴力・テロル・戦争をもたらした→1814年のウィーン会議でヨーロッパの混乱終わる→ウィーン体制
→イギリス、プロイセン、オーストリア、ロシア、フランスの5大国体制
1848年革命→既存国家の自由主義化。フランスで第2共和政→ヨーロッパの政治地図は変わらない→1861年イタリア王国創設(第6の強国)、1871年ドイツ帝国創設(プロイセンの変化)
19世紀段階は社会保険というセーフティーネットが張られるようになったことから社会保険国家と呼ぶことができる。なお女性、労働者の家族は保険対象外
社会扶助機能は、小単位ではもはや担うことはできず、国家などの広域団体が役割を負うこととなった→国家や広域単位が帰属意識の対象となる
自由主義的国家では、政治参加、社会保障が、国家の側からの統合要求を満たすのに大きな位置を占めた
周縁地域である植民地は、国民化が望まれなかったにもかかわらず、帝国の一部として認識され、ヨーロッパ側の優位に基づいた統治体制に組み込まれた

475修都:2023/12/04(月) 19:23:52 ID:Wvozer8s
姫岡とし子「ナショナリズムとジェンダー」
18世紀後半、男女の生得的な違いを強調する言説が登場するようになる→両性の基本的特性を二項対立的にし、役割を定めていった
→ただし、19世紀初頭くらいまでは、両性の対極化や公私の分離に適合しない市民層もいた
ナポレオン戦争期、男性は戦闘的でなければならないという言説が流布される→ナポレオンに敗北したドイツは男たちを祖国のために命をかける戦いへ鼓舞した
→女性は家を守るべきものだとされる→ただし、家庭の範疇にとどまらず福祉活動を展開して祖国のために熱心に活動する女性もいる→女性にふさわしいとされる活動
女性の戦争貢献は女性がネイションの一員であることを示し、一体感を強めた→ただし、ジェンダー秩序への抵触とみなす男性たちも多く、戦後には女性の活動について取りあげられなくなる
植民地言説では、文明的な強者は男性、自然で弱者である被植民地は女性にたとえられた。20世紀転換期、人種の純粋さを優先すべきという主張の登場→植民地現地人との婚姻禁止の動き

476修都:2023/12/05(火) 19:34:35 ID:Wvozer8s
貴堂嘉之「移民の世紀」
アメリカは世界史上にも特殊な移民国家として誕生したとされる→民族的単位の欠如。総人口に占めるイギリス系の割合は建国当時6割に満たず、今日では1割強
→理念を統合の核とする国→ただし、独立から1820年まで25万人ほどの移民しか入国していない→最初の移民の大波は1845~49年のジャガイモ飢饉の影響。アイルランド人移民急増
米国は元々は奴隷国家だが移民国家へと移行した分水嶺は南北戦争。リンカン政権は積極的な移民奨励策を打ち出した最初の政権
中国人労働者がサンフランシスコのチャイナタウンに集住し始めると初の移民制限立法である排華移民法が1882年制定→アジア系移民は何年アメリカに居住しても市民権が得られない
移民国家アメリカには、移民を包摂するヨーロッパ系向けの顔と使い捨て労働力としてアジア系を眼差す顔がある
黒人奴隷制の廃止と代替労働力としてのアジアからの移動→日本人移民も奴隷の亜種として眼差されていた

477修都:2023/12/06(水) 19:25:27 ID:Wvozer8s
金澤周作「海域から見た19世紀世界」
19世紀は木造帆船の時代であったが1860年代までに蒸気船の領分は拡大してきた。1865〜66年、大西洋横断海底電信ケーブルの敷設完遂
19世紀半ば以降、イギリスでは黒人船員が増え、ヨーロッパ航路ではインド系の船員がかなりの割合を占めた。アメリカ船には日本や中国系の船員がいた
棺桶船として記憶される移民船の環境は劣悪で、船舶熱がたびたび発生した。客船では、船で働く労働者と同じく、乗客にも資本主義化を象徴する階級・人種的な格差が顕在化していた
19世紀の制海権を握っていたのはイギリス→ドイツはイギリスに対抗し、世紀末に海軍予算を大幅に増額→建艦競争→果てに第一次世界大戦
19世紀初頭から関税水域や漁業水域は次第に3カイリに収斂していく

478修都:2023/12/07(木) 19:27:04 ID:Wvozer8s
並河葉子「奴隷貿易・奴隷制の廃止と「自由」」
環大西洋奴隷貿易が始まるのは16世紀初頭。規模が拡大したのは17世紀後半以降→19世紀前半まで活発に行われ、その後ほぼ終了する
1777年7月2日、ヴァーモント共和国の憲法が奴隷制の法的な廃止のもっとも早いもの→他のアメリカ合衆国北部諸州も相次いで奴隷貿易禁止・奴隷解放
最大の奴隷貿易国であったイギリスで1787年から全国的な反奴隷制運動。フランスでも1788年から→旧来のイギリスの支配層とは異なる人びとが不自由で非人道的だと批判した
→イギリスの奴隷制廃止はおよそ半世紀後の1833年→イギリスは文明化の使命を掲げて世界の奴隷制廃止に向けて活動するようになる
解放アフリカ人たちは、すぐに完全な自由を手に入れたわけではない→文明化する必要があると考えられた
大西洋奴隷貿易は急激に衰退したが、奴隷制度はしばらく残る→最後まで残ったのはキューバ(1886年)とブラジル(1888年)
インド洋西海域やアフリカ域内の奴隷取引・一部の奴隷制は20世紀初頭まで残る
フランスは革命後の1794年奴隷解放を決定した→ナポレオンは奴隷制を復活させるが、ハイチは1804年に独立した→白人や自由黒人が出ていき、奴隷も内戦で多くがいなくなり、労働力が激減
→流出した人々は、周辺の他の島でプランテーションを開き、そこに奴隷の需要が生まれた→キューバとブラジルに奴隷流入
奴隷解放後、イギリスでもフランスでもプランターと元奴隷たちとの紛争→プランター側は奴隷を保護する義務が無くなったのでむしろ労働条件が厳しくなった

479修都:2023/12/08(金) 19:46:42 ID:Wvozer8s
中澤達哉「一八四八年革命論」
ライン川以西の革命はブルジョワジーと労働者の対立に端を発し、労働者階級が革命の担い手だが東側はそうではない
1848年2月、七月王制の瓦解(二月革命・第二共和政)→社会主義政策の実施→男性普通選挙で農民がブルジョワジーを支持、社会主義者は惨敗→カヴェニャックの軍事独裁
→憲法に民主的共和主義は無し→ナポレオンの甥のルイ・ナポレオンが大統領に→1851年、ナポレオン三世を名乗って第二帝政開始
ライン川以東のベルリンでは三月革命→国民議会開設。ウィーンではメッテルニヒ失脚。ハンガリーでも革命、国民議会
革命後の労働者の不満から利益を守るには福祉国家が必要→第二帝政は福祉の実施を掲げた→労働者を消費者にするためには植民地も必要
中・東欧は革命以後も礫岩国家を構成する各地域にとどまっていた→ハンガリーは最大限の自治を獲得したが、主権から零れ落ちた民が多く存在する

480修都:2023/12/11(月) 18:34:50 ID:Wvozer8s
勝田俊輔「「イギリス」にとってのアイルランド」
19世紀、ブリテンの人間にとって身近な外国人はアイルランド人だった→1861年、ブリテンの総人口の4%に満たない
1800年の合同法は、対等ではなかった→行政府のトップは連合王国政府によって派遣される。カトリック解放がアイルランドから突き付けられたが、ブリテンの人間は強く反発
連合王国政治においてアイルランドはさまざまな困難をもたらした→アイルランドの要求に全て反対するのがユニオニズム、自治のみに賛成するのがリベラリズム
ブリテンは合同法を撤廃すれば統制が及ばないどころかカトリック国家が発足する可能性があることをおそれた
自治法案は2度の否決を経て1914年9月に可決される→しかし、第一次世界大戦勃発で施行延期
→戦後、アイルランドを南北に分割し、それぞれに自治議会を与えるとして21年に北アイルランド自治政体発足
→南部では独立戦争が泥沼化→22年、独立を認める→49年にブリテン帝国から離脱することとなる

481修都:2023/12/12(火) 19:31:52 ID:Wvozer8s
二瓶マリ子「一九世紀前半、米国の領土拡大と大西洋革命」
スペイン領テキサスは先住民たちの襲撃やフランス領ルイジアナとの境界争いが絶えない上、銀山なども発見されず、植民は進まなかった→密貿易で大西洋世界と接続
1808年、ナポレオンがスペイン国王を退位させ、兄を王位につけると、メキシコでスペインへの反乱
→1813年4月6日、メキシコは独立を宣言。テキサスはテキサス州となり、メキシコ共和国に属した→メキシコは広大な領土を有したが、諸地方を統合する指導者がいなかった
→29年、スペイン軍が再征服のため侵攻してきたのを破ったサンタアナが大統領になると副大統領の自由主義者ゴメスが急進的な改革
→1834年、保守派がクーデター→35年、連邦制停止。反革命体制に→テキサスが独立を求める→米国は中立を宣言したが、テキサス周辺の州政府はテキサスを支援
→テキサスはサンタアナを捕虜とする→サンタアナはテキサスの独立を承認→メキシコはサンタアナが調印しただけだとしてテキサス共和国を承認しようとしなかった
→イギリス、フランスはアメリカのテキサスへの介入を警戒してテキサス共和国を承認。45年、テキサス併合を掲げるジェイムズ・ポークがアメリカ大統領に
→テキサス共和国は米国への加入を表明、併合された→アメリカは46年、メキシコに宣戦布告→48年、カリフォルニア、ニューメキシコ、ネバダ、ユタ、アリゾナが米国に割譲された

482修都:2023/12/13(水) 19:32:59 ID:Wvozer8s
野村真理「近代ヨーロッパとユダヤ人」
フランス革命後の1791年、ユダヤ教徒解放令が議決された→フランスに併合されたライン川左岸地方でもユダヤ教徒解放。プロイセンも1812年、ユダヤ人に自由と権利、市民的義務を認めた
国民国家においてユダヤ教徒が平等な国民となるには、ユダヤ教自身の近代化も必要があった→ユダヤ教徒は会派にわかれることとなる
一方でドイツ人からは、ユダヤ人はドイツ人になりうるかという不毛な議論が繰り返される→ナポレオン失脚後、ユダヤ人の解放は後退。市民権は地域によって撤回・制限された
ドイツ帝国成立時のユダヤ人は約51万人(総人口の1.25%)で70%以上が農村地帯に住んでいた→帝国成立後、大都市への移動が加速
→歴史的に商業に携わってきたユダヤ人は、自由主義経済の波に乗り、成功した者も少なくない。偏見や差別が残るドイツ社会でユダヤ人は弁護士、医師、ジャーナリストなど専門職を好んだ
→1873年の恐慌→経済的反ユダヤ主義。ユダヤ人が市場経済を腐敗させ、ドイツ人が犠牲者になっているとした
ポーランド会議王国では1862年、ユダヤ人の居住制限撤廃→農村地帯のユダヤ人は都市に向かって移動
ポーランドにはリトアニアやロシア帝国領ポーランドからの流入もあり、ユダヤ人人口は1816年の21万2944人から97年には127万575人(総人口の14.54%)に増加
19世紀の会議王国ユダヤ人にはハシディズムが受け入れられた→熱狂による神との直接的結合を志向
ドイツのユダヤ人はドイツ文化への同化を志向したが、ポーランドでは若いユダヤ人の間でユダヤ人の民族運動が支持を集めた
ポーランドの商業・金融・保険業のユダヤ人の割合は59%近く→異民族によるポーランドの経済支配と見なされ、排斥が唱えられる

483修都:2023/12/14(木) 19:26:45 ID:Wvozer8s
工藤晶人「植民地統治と人種主義」
フランス植民地の有色自由民は18世紀になると差別を受けるようになっていった→現地人と白人の結婚禁止
近代国家の建設に関わった為政者たちは、黒人や混血者の存在を危惧した。アメリカ独立宣言の起草者ジェファーソンは、混血は白色人種を汚染すると述べていた
ナポレオンの民法典は植民地を法の例外として位置づけている→白人と解放奴隷は別個の法域に属する。フランスの国籍定義は血統主義

484修都:2024/01/27(土) 17:39:17 ID:Wvozer8s
藤井崇「ローマ帝国の支配とギリシア人の世界」
ローマ支配の優越が認められるようになった前2世紀前半は、ギリシア人にとってローマ帝国の開始時期
ローマ人はギリシア人を帝国に服従する人々と軽蔑する一方、ギリシア文化への強い憧れを持ち続けた→ギリシア人側のローマ・イタリア文化の摂取は選択的
ギリシア人都市は勝ち組になるべく対立する陣営の見極めに四苦八苦しながらも、小帝国主義はパクス=ロマナ(ローマの平和)成立直前まで継続
ギリシア人は都市や共同体の神話をローマ帝国の神話と接続。ローマがギリシア人の血統を引き継ぐ共同体であると主張

485修都:2024/01/29(月) 10:42:01 ID:Wvozer8s
三津間康幸「ローマ帝国と対峙した西アジア国家」
アルシャク朝パルティアは、前3世紀半ば中央アジアの半遊牧部族連合に属したパルニ族のパルティア侵入で形成→前145年までにセレウコス朝シリアから独立→バビロニアも支配
前64年、セレウコス朝はローマの属州シリアになり滅亡→ローマとアルシャク朝が対峙
黄道十二宮の起源は約2400年前のバビロニア→ローマに影響を与える
224年、ペルシス地方のサーサーン家がアルシャク朝アルタバーン4世を敗死させた→サーサーン朝がアルシャク朝を引き継ぐ
602年、サーサーン朝はローマに対する全面戦争を開始→サーサーン朝の敗北→630年からアラビア半島のアラブ・イスラーム勢力が侵入→侵攻を止める力はサーサーン朝には残っていない
→651年、サーサーン朝滅亡

486修都:2024/01/30(火) 19:36:21 ID:M/tp9h46
池口守「古代世界の経済とローマ帝国の役割」
ローマ首都に対する穀物供給の7、8割は市場での売買に委ねられたと考えられる→定期市は農民と都市住民の間で売買を行う場
ローマ人の食習慣は、穀物が大部分を占め、獣肉や魚介類が占める割合は小さかったというのが通説。外食の習慣も古代ローマ人には一定程度根付いていた
交通では動物としてロバ、ラバ、ラクダなどが活躍した。速度を重視する場合は馬。長距離輸送の主役は海上輸送
ローマの海上覇権が交易活動の安全を保障したことで、地中海沿岸諸地域の市場が一定程度結合された可能性がある
ローマはエジプトを併合すると、プトレマイオス朝の遺産を活用してインド洋交易に乗り出した→輸出品は金貨と銀貨→インドでは溶かされて使われた。輸入品は香辛料など
ローマ政府はインド洋交易から得られる関税や通行料には関心を向けたが、交易の安全の保護は一定の水準にとどまる

487修都:2024/01/31(水) 19:20:25 ID:M/tp9h46
春田晴郎「西アジアの古代都市」
古代ペルシア語では都市にあたる語がはっきりしない。ハカーマニシュ朝の都市ペルセポリスは中心部に人口が集中せず、居住域は分散している。城壁市壁は存在しない
アレクサンドロス大王によってハカーマニシュ朝が滅亡すると都市のあり方も変化した→ギリシア都市が西アジアから中央アジアに建設される
アルシャク朝パルティア時代になると市壁で囲まれた都市が多くなる

488修都:2024/02/04(日) 17:38:16 ID:M/tp9h46
高橋亮介「ローマ帝国社会における女性と性差」
皇帝家に属さない女性たちの姿はなかなか現れないが地方都市の碑文には、都市参事会身分に属する女性についてしばしば言及されている
女性が都市公職や神官職に就く道はあるが、富と地位を誇りうる女性のみ。また、女性が自由に振る舞えたかにも疑い
属州エジプトのパピルス文書の自筆署名は男性が34%であるのに対し女性は6.7%

489修都:2024/02/05(月) 19:36:58 ID:M/tp9h46
田中創「ローマ帝国時代の文化交流」
ローマがギリシア文化に敬意を払い、模倣したことは間違いないが、ラテン語という自分たちの言語と表現を研ぎ澄ますことで、全面的にギリシア語を採用せずに済ませた
東地中海地域ではローマ帝国のもとでもギリシア語が広く用いられたが、3世紀末以降は、ラテン語や西方の文化の影響も見て取れる。帝政後期には、エジプトのパピルス文書からもラテン語
『ローマ法大全』はギリシア語が主流の帝国東部において、ラテン語で書かれた大部の専門書だった→法学教師たちが逐語訳
4世紀、キリスト教がローマ政府からの支援を受けるようになると、エジプトのパピルスから異教の神々に由来する個人名が姿を消し、キリスト教名に取って代わられる
ギリシア神話に登場する神々は大きな功績を残した人間だとなっていき、聖書の物語とも融合されていく

490修都:2024/02/06(火) 19:36:35 ID:M/tp9h46
南雲泰輔「「古代末期」の世界観」
古代世界では、征服活動によって増大した地理学的な視野と知識は、新たな知的好奇心も喚起し、さらなる軍事的拡大へ結びついた。地理学・地図製作と政治権力は密接に結びついている
ローマ人は、3世紀末までに総延長約40万キロメートルと推計される街道網を敷設し、一定区間ごとに里程標石を設置した。地理情報のカタログ化は古代末期を通じて数多く見出される
古代末期の世界観は、ギリシア・ヘレニズム時代からの継続性とローマ時代における新規性を取り込みつつ、特異な形で変容を遂げた
→街道網が組み込まれた結果、ユーラシアの東西は途切れのない世界として認識された

491修都:2024/02/07(水) 18:36:24 ID:M/tp9h46
大谷哲「内なる他者としてのキリスト教徒」
イエスが磔刑に処されてから約70年、1世紀末頃にキリスト教徒というアイデンティティがユダヤ教徒から分化しつつあった
1世紀のローマ帝国が、キリスト教徒という独立した集団を認識していたとは思えない。ローマ人がキリスト教徒という存在を認識したと確認できる最初の史料は112年秋頃、2世紀初頭
迫害は散発的で小規模だったことがわかってきている。ローマ帝国に迫害する意志はなかった。社会的少数者であったので頑迷な者達、迷信者達として認知されていた

492修都:2024/02/08(木) 19:55:56 ID:M/tp9h46
井上文則「三世紀の危機とシルクロード交易の盛衰」
3世紀、軍人皇帝時代にローマ帝国が危機に直面していたことは否定できない→軍人皇帝時代の帝国分裂、異民族の攻撃、疫病、インフレ
3世紀以後、中国でもローマと同じく分裂時代(漢の滅亡)。アルシャク朝も滅びた。3世紀のローマは、古代末期小氷期への移行期。中国でも寒冷化と乾燥化の時代
さらにシルクロード交易も不振だった。1世紀後半がシルクロード交易の最盛期→2世紀に入ると規模は縮小し始める
2世紀後半になるとローマでは疫病で空前の被害、同時期に中国でも疫病→シルクロード交易の人の移動による疫病流行
3世紀になるとサーサーン朝が東西で積極的な軍事行動に出るので、交易路の安定が損なわれる。3世紀後半には、ローマのインドとの交易量はどん底に落ち込む
→交易の不振が3世紀の危機を引き起こしている
ローマ帝国は輸入だけでなく、輸出にも関税をかけており、税額は莫大だった→シルクロード交易の衰退はローマ帝国にとって大きな損失

493修都:2024/02/10(土) 15:41:26 ID:M/tp9h46
藤井純夫「古代オリエント文明の骨格」
紀元前1万3000〜前1万年頃の西アジア、ナトゥーフ文化の段階には野生動植物の多くは主要な食料の1つとして利用されていた。小型の集落も出現、農具が用いられていた
栽培ムギや家畜が食物残滓の大半を占めるようになったのは、紀元前7500〜前6500年頃の先土器新石器時代Bの後期後半。集落の大型化・固定化加速→農耕牧畜社会
→牧畜は農耕地から放しておくため、農耕と牧畜が分離していく
紀元前6500〜前5000年頃の後期新石器時代には巨大集落が解体する一方でメソポタミアの一部が都市へと発展していった
後期新石器時代までは温暖・湿潤化で、それ以降は乾燥化。農業関連石器が主流を占める。世帯を単位とした農村社会が西アジアほぼ全域に成立。社会の階層化は進んでいない
牧畜集落は乾燥化による本村の再編によって集落を移動する遊牧となった
前5300〜前3800年頃のウバイド後期、メソポタミア南部で農業生産が飛躍的に拡大。神殿の建築も始める
前3300〜前3100年頃のウルク後期に世界最古の都市ウルクが誕生。社会の階層化も進行。世界最古の文字記録システムも発明された→楔形文字
周辺乾燥域では遊牧社会が部族制となっていた

494修都:2024/02/12(月) 20:00:02 ID:M/tp9h46
柴田大輔「古代メソポタミアにおける神々・王・市民」
古代メソポタミアのハウスホールド(世帯)は明らかな父系。単婚が主流。核家族が中心。古代メソポタミア国家はおおむね王制で、強大な中央集権国家もある
古代メソポタミアは、典型的な多神教。神殿に勤務した人々は主神に仕える家来・奴隷として働いていた
古代メソポタミア世界では神こそが国土・人民の主→王は神の委託を受けたエージェント。前2000年紀前半ごろまではエンリルが最高神。後半ごろからはマルドゥクなども最高神となった

495修都:2024/02/13(火) 19:55:52 ID:M/tp9h46
佐藤昇「古代ギリシアのポリス」
前570年頃から前200年頃までの間に、およそ1500のポリスが確認されている→世界史上最大規模の都市国家文明
前5世紀半ばまでに多くのポリスで採用された体制は、穏健寡頭政もしくは民主政
基本的にポリスの下に正当な物理的暴力行使はほぼ独占されていた。ただし、その暴力行使はかなり小規模で、実効性に疑問符
ポリスでは間接税が好まれていた。富裕者に対する直接税はポリス財政の重要な部分を占めた
いずれの神をどのように祀るかは、ポリスごとに異なっていた

496もにゃら:2024/02/14(水) 17:07:58 ID:wYxr5ygg
>>495
ポリス毎にいろいろ違ってたらしいね

アテネは男尊女卑がキツくて、クレタは緩く、不倫した時の罰則に差異があると聞いた

497修都:2024/02/14(水) 20:43:12 ID:M/tp9h46
>>496
かつてはアテネかスパルタかみたいな考え方みたいだったですが、今はその2つだけじゃなくて
それぞれをちゃんと考えようというのが研究のスタイルのようです

498修都:2024/02/14(水) 20:44:02 ID:M/tp9h46
三宅裕「西アジア新石器時代における社会システムの転換」
西アジアにおける新石器時代の始まりは完新世の始まりとほぼ一致(紀元前9600年頃)、温暖な気候が安定して続くようになる時期→定住生活への移行と農耕牧畜開始
先土器新石器時代の集落に公共建造物が存在することは特別なことではない。社会的な不平等・格差の拡大もある程度進行していた
公共建造物はPPNB後期頃になると姿を消す→土器新石器時代には小規模な集落が点在する状況に。農耕社会が成立したのに衰退ととれるような変化
→儀礼祭祀という余剰生産物や富を集積する機構が機能しなくなったことで、社会全体の生産力が低下したのでは

499修都:2024/02/15(木) 20:03:46 ID:M/tp9h46
馬場匡浩「初期国家形成期のエジプト」
ヒエラコンポリス遺跡の墓地→殉葬の慣習、身長1.2メートルのドゥワーフ人骨の存在。動物も墓主と共に埋葬されている→階層化の進行は明らか
ヒエラコンポリスでは、支配者の台頭とほぼ同時に、生産活動でも分業化が発達、従属の専従職人も階層化社会の一翼
ファラオは南のナカダ文化と北の下エジプト文化を統合する支配者。ビール生産の広がりが、ナカダ文化内の地域性消失、下エジプトの文化変容の契機となったとされる
農耕社会で、特殊狩猟集団は、名声や優位性を獲得し、動物に係わる儀礼を管掌することで宗教的威信を高め、権力を伴う社会格差へと発展。ビール生産も掌握

500修都:2024/02/16(金) 18:10:27 ID:M/tp9h46
唐橋文「シュメール都市国家における王権と祭儀」
都市国家ウルクのイナンナ女神はシュメール(現在のイラク南部)全域で崇敬され、祭儀も複数の都市で維持されていた→祭儀を中心にある種の都市連合
王朝の継続と支配の正統性をもたらす祭儀を執り行うことは王妃の役割の一つだった。王は、神の代理者として、神によって定められた秩序を維持した

501修都:2024/02/19(月) 17:56:21 ID:4qrqq.3Y
河合望「新王国時代第一八王朝のエジプト」
北のヒクソス王朝と南のクシュ王国の間に挟まれて脅威にさらされていたテーベのエジプト第一七王朝→イアフメス王の時代にヒクソス王朝を滅亡させた
→クシュ王国も直轄植民地としてエジプトを再統一。新王国時代第一八王朝の開始。潜在的な脅威は北メソポタミア・シリアのミッタニ王国
→ヒッタイトがシリアに進出し始めるとミッタニとエジプトは同盟→国際情勢安定
第一八王朝前半の国家神アメンの権威は絶対的→古王国時代の国家神太陽神ラーと習合して国家神アメン・ラーに
アメンヘテプ四世の時代にアメン神と決別、アテン神へ帰依→アメン神像の破壊。他の神々への祭祀も停止
→アクエンアテン王(アメンヘテプ四世が改名)が死ぬとアメン神信仰再開→ツタンカーメン王がアメン神復興

502修都:2024/02/20(火) 19:26:51 ID:4qrqq.3Y
山田重郎「アッシリア帝国」
イラク北部のアッシュルは紀元前14世紀まで南メソポタミアの大国の影響下にある都市国家にすぎなかった→前2025年頃、独立。前15世後半は、ミッタニ(北メソポタミア・シリア)の影響下
→ヒッタイトによってミッタニが衰えるとアッシュルが大国となった(ギリシア語訳がアッシリア)→前13世紀半ばに頂点→前12世紀末以降、遊牧集団の攻勢と飢饉で衰退
→紀元前10世紀後半から前9世紀にかけて、固有領土を回復すべく軍事遠征(先帝国期)→固有領土が2倍ほどになる。アッシリアの国土は直接統治されるアッシュルの地と朝貢国から構成される
帝国内のエスニック集団は、納税など臣民としての義務を果たすなら、個性はある程度保持され、宗教文化も容認された
アッシリア滅亡は、直接的には南のバビロニアと東のメディアの攻撃によって起こった→崩壊の要因としては、遠征の前線を遠方に広げすぎた、気候不順による不作などがあったと考えられる

503修都:2024/02/21(水) 19:19:18 ID:4qrqq.3Y
長谷川修一「ヘブライ語聖書と古代イスラエル史」
ヘブライ人という呼称を用いるのはヘブライ語聖書のみ。イスラエル人という呼称は複数の同時代史料によって確認できる
イスラエル人が遊牧民だったという記述もヘブライ語聖書だが、伝承を裏付ける史料はない。イスラエル人がエジプトにいたことを示す同時代史料も皆無
前13世紀末、イスラエルと呼ばれる集団が南レヴァントに存在したことは確認される。王国の存在を直接的に裏付ける同時代史料はない
ダビデという人物を創始者とする王朝は存在していたとは思われる。しかし、ダビデとソロモンの実在は裏付けられない
分裂前の王国の存在はわからないが、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂後の史料はある。北王国がアッシリアに滅ぼされ、住民の一部が強制移住させられたことは裏付けられる
南王国はバビロニアに滅ぼされたが、バビロンに連行されたのは王族などだけで、その他の人は諸地域に移住させられたようである

504修都:2024/02/22(木) 19:55:56 ID:4qrqq.3Y
周藤芳幸「ミケーネ宮殿社会からポリス社会へ」
前1200年前後数十年間でミケーネ時代の諸王国の中心にあった宮殿が相次いで姿を消していった。ミケーネ諸王国の規模は、ポリスと変わらないどころか地域によっては明らかに小規模
ミケーネ時代からポリスへ連続するものとして饗宴が社会的統合の手段だったことがある
ミケーネ宮殿社会とポリス社会の相違点の1つは、ポリスでは神殿と聖域、そこで定期的に開催されていた祭儀が欠かせないものだったこと

505修都:2024/02/23(金) 16:35:08 ID:4qrqq.3Y
栗原麻子「ジェンダーからみたアテナイ社会」
アテナイの政治生活は、およそ男性市民のみの閉鎖的な空間で成り立っていた。社交生活の男女分離は、古典期アテナイの特徴
アテナイ在留外国人は、市民とは別の部隊に編入させられる→アテナイ男性市民の男らしさより劣る集団とされる
妻に求められたのは、家庭の管理と嫡出子を産むこと。女性市民は家庭内ならば一定の発言力があった。宗教領域では、女性たちは、男性を経ずに声を届けることができた

506修都:2024/02/26(月) 15:25:33 ID:4qrqq.3Y
阿部拓児「アケメネス朝ペルシア帝国とギリシア人」
前540年代、アケメネス朝帝国はアナトリアを征服し、エーゲ海沿岸に住むギリシア人は帝国臣民となった→建築技師や医師としてギリシア人が活躍
ペルシア大王は、近隣地域が渦巻き状・同心円状に、それ以外の地域は放射線状に広がっていくという中心―周縁の座標軸で世界を認識していた
ペルシア大王は地上世界の統治者として、多様性にあふれる世界を構成する要素にたいし配慮した→各要素も王を支える
スパルタと対立したアテナイがペルシアに接触したことは、ペルシア大王からすれば頼ってきたことであり、その時点でアテナイは、ペルシア大王の監督する多様な世界の一員となった

507修都:2024/02/27(火) 21:12:33 ID:4qrqq.3Y
長谷川岳男「ヘレニズム時代のポリス世界」
ヘレニズム時代のポリスは大国の狭間で厳しい状況にあった。ポリスの力をはるかに超える勢力が周囲に存在した
→ポリスは血縁関係を根拠にローマのような大国を利用したり、ギリシア人に助けを求めたりした。ポリスが連盟をつくって大国に対抗する形もあった
対立を力ではなく、第3者の仲裁、裁定に委ねる行為もポリス間で行われた。ヘレニズム時代でも民会は様々な事案を決定している
ヘレニズム時代の変化として、富裕者が施与行為により指導的な立場を盤石とするものがある。ヘレニズム時代は西アジア、エジプトの莫大な富が地中海世界に流入、富を得る者が出現した
→貧富の差の拡大→富裕者たちは不満を抑えるためにも施与行為が必要だった。前2世紀後半以降は、指導者層は固定され、民会も一部の市民以外の関与が難しくなっている

508修都:2024/03/16(土) 17:47:32 ID:4qrqq.3Y
酒井啓子「リベラルな国際秩序の拡散・終焉とグローバル・サウス」
近代以降の国際秩序は、欧米諸国がルールを制定し主導的に維持するものであって、被支配側に置かれたグローバル・サウスはルール策定者の立場から外されてきた
→被支配国も国際秩序のなかに取り込まれることで、利益追求のために妥協したり利用したりする協働関係が存在。植民地性に目をつぶる被支配国内のエリート
湾岸戦争時、フサイン政権は反植民地主義、アラブ・ナショナリズムを掲げ、一定の大衆的支持を喚起した。イスラエルがパレスチナ撤退すればイラクも撤退するとしてアラブ社会の支持を得た
冷戦末期、アメリカはフサイン政権を利用していたが、冷戦後には危険視した。アメリカは反イラン勢力としてフサイン政権を支援していた
アフガニスタンでは、アメリカはソ連への対抗のため、ムジャーヒディーン勢力を支援していた→アルカーイダに発展
九・一一事件に始まった対テロ戦争は、イラクでもアフガニスタンでもアメリカにとって望ましい政権を確立することができなかった→アメリカの退潮→代替大国としての中国、ロシアへ期待
→ロシアのウクライナ侵攻後、アメリカは産油国に石油増産を要請したが、サウディは拒否、他の産油国も欧米の対ロシア政策に追随していない
60年代以降、欧米型国際秩序、世俗的国民国家建設に抗する形でイスラーム主義が展開した。パレスチナやレバノンでは国家の代わりにイスラーム主義政党が疑似国家能力を発揮
→90年代以降、自由選挙が導入されると多くの国でイスラーム主義政党が多数の議席→それもまた権威主義化し、魅力は風化しつつある
イスラーム国の登場は、欧米諸国で移民社会がいかに欧米的秩序から排除されているか、鬱屈を解消するための幻想をイスラーム国が提供し、受け皿になることを示した

509修都:2024/03/17(日) 17:19:53 ID:4qrqq.3Y
水島治郎「民主主義とポピュリズム」
ポピュリズムは民主主義的だが、反多元主義であり、自由民主主義とは両立しづらい。右派ポピュリズムの人民は、自民族。左派ポピュリズムもナショナルな枠組みを肯定
20世紀中葉までポピュリズムは南北アメリカが中心。多くは富の偏在を批判する左派系→21世紀に入ると、西欧地域におけるポピュリズムが台頭
→21世紀、穏健な左右の2大勢力が弱体化の一途をたどっている→新興のポピュリスト政党は従来の左右対立軸とは異なる主張を持ち出している

510修都:2024/03/18(月) 19:53:30 ID:4qrqq.3Y
半澤朝彦「二一世紀の国連へ」
19世紀から20世紀前半のイギリス帝国の非公式支配は、公式帝国をはるかに超えていた→ラテンアメリカのほとんどはロンドンの金融支配など。イギリスの比較優位を保証する世界体制
→国際連盟は、この世界秩序に制度的な形を与えた→イギリスの国力に陰りが見えると、機能不全に陥る→中小国が離脱しないよう、開発援助や技術協力を行う
国際連合の新しさは五大国の拒否権→連盟時代のイギリス帝国のヘゲモニーが圧倒的だった時代と違う
米ソ両陣営は、国連を利用→衛星国家的な中小国を国連に加盟させていく。国連の枠組みを利用して基地も確保していく
2000年代初頭、アメリカ絶頂期のアフガニスタン戦争でもイラク戦争でも、国際的正統性の源泉として国連安保理決議を欲したがそうはならなかった
→多様なアクターが冷戦後の非公式帝国を形成している状態。もはや特定の国家が非公式帝国ではない

511修都:2024/03/19(火) 19:49:26 ID:4qrqq.3Y
栗田禎子「「アラブの春」の世界史的意義」
2011年の中東で生じた革命状況は、新自由主義に深刻な一撃を与えるほとんど最初の事例だった。エジプトは特に典型的な新自由主義だった
中東同時革命は、中東に成立した諸国がいずれも共通の矛盾を抱えており、それゆえ一カ所で起きた変革が連鎖・共振を生み出していくというものだった
中東は、新自由主義の弊害だけでなく、先進諸国が軍事介入を仕掛けてくるという局面もあった→再植民地化的状況→アラブの春は欧米の中東介入に対する異議申し立てという面もあった
チュニジアでは民主的・市民的勢力が強靭さを発揮しているが、19世紀のアラブ地域でも最初に立憲主義運動が始まったのはチュニジアで、民主化闘争の最前線となってきた歴史がある
2011年の中東革命では初期にはイスラーム主義勢力が役割を果たしていない。イスラーム主義勢力は独裁政権と支え合い、共犯関係だった
→国際的圧力から早期選挙が実施されると資金・組織面で勝るイスラーム主義勢力が勝利→革命の団結を破壊するために分断・対立が煽られる

512修都:2024/03/21(木) 19:57:20 ID:4qrqq.3Y
川島真「中国と世界」
中国は19世までは冊封朝貢関係だが、儀礼を伴わない貿易関係である互市もある→アヘン戦争後の南京条約は互市の調整なので冊封朝貢関係は維持
→日清戦争後、互市が対外関係の基礎になる。それ以降は、既存の世界秩序に対応する
江沢民、胡錦濤政権は党内民主化を推進した→習近平政権はその流れで成立しながら、党内民主化を止めた
社会主義市場経済→社会主義を大前提にして市場経済的要素を取り入れて社会主義を完全なものにする
胡錦濤はかろうじて改革開放路線を堅持し、党内民主化を推進した政権だが、保守派の台頭で「選挙」で習近平が選ばれた
→格差解消、一党独裁堅持という胡錦濤からの課題を克服する政権として期待された→胡錦濤には無かった強いリーダーシップが求められた
中国は国際連合重視を唱えながらも、西側先進国の秩序、価値を批判するようになった→批判を主としたもので、既存の秩序に代わるものは提示していない

513修都:2024/03/22(金) 19:44:11 ID:4qrqq.3Y
島田周平「アフリカの変容」
サハラ以南アフリカは80年代は経済の自由化、90年代は政治の民主化を遂げてきた→一党制の国は無くなった
アフリカの紛争では最終的な停戦には国連や欧米諸国の平和維持軍の派遣が欠かせないが、初期段階でAU(アフリカ連合)や準地域機構が一定の役割を果たしている
21世紀、海外投資流入でサハラ以南アフリカは高い経済成長率を記録した。その投資の最大の国が中国だった
→6ヶ国は対中国債務が危険水域に達しているといわれている。中国が直ちに政治的・軍事的要求を押し付けることはないと思われるが、高圧的に転じる可能性も否定できない
ジンバブウェでは白人農場が無断占拠されたとして2001年に欧米から制裁を受けたが、もともとイギリスが国土の46%強を所有する状況を維持しようとした歴史的背景がある
サハラ以南の医療関係者流出は深刻で元首や有力政治家が入院治療のために欧米やサウディアラビアに出かけることが常態化している
サハラ以南ではキリスト教徒が多いと考えられている。推計ではキリスト教徒が人口の63%、イスラーム教徒が約28%→キリスト教系新宗教が弱者たちに拡大している
2000年以降急増した土地売買の中には、伝統的土地保有権で守られてきた耕作権や居住権を奪うものもあった

514修都:2024/03/23(土) 11:04:25 ID:4qrqq.3Y
大串和雄「ラテンアメリカの模索」
20世紀後半、ラテンアメリカ諸国が採用したのは、国家主導の輸入代替工業化→80年代に経済失速。輸出志向工業化を追求したアジア諸国とは対照的に経済危機
→国際金融機関や先進国からの圧力でラテンアメリカは新自由主義の時代に→国営企業民営化、貿易の自由化、雇用保護弱体化、経済規制緩和など
ラテンアメリカ諸国は19世紀初頭に独立して共和政を選択したときから民主化が始まっている→しかし、20世紀前半になっても非民主制が併存(制限選挙、クーデター、強圧的な政権)
2000年代以降、いくつかのラテンアメリカ諸国では、民主制から非民主制への揺り戻しが見られるが先進国並みの民主制もある
60年代から70年代にかけては、キューバ革命などの影響で、ラテンアメリカ各地で急進左翼運動が伸長した→弾圧→暴力革命放棄、自由民主主義・市場経済を受容
2000年前後から、一時はラテンアメリカ諸国の半数以上が、左派政権となった→穏健派はかつての急進左翼が穏健化したものだが、急進派は新たな勢力が多い
1960年代からラテンアメリカ諸国は米国から自律的な傾向を見せている→中国はいくつかの国では最大の貿易相手。存在感を高めている

515修都:2024/03/24(日) 13:33:17 ID:4qrqq.3Y
森千香子「移民・難民」
冷戦終結以降、欧米を中心とする移民受け入れ国では治安の悪化や失業の増大などを移民のせいにする排外主義の機運が高まり、移民を厳しく管理する政策への転換が進んだ
2001年の同時多発テロ事件以来、移民は国家の安全保障上の脅威とみなされる。EU諸国はアフリカや東欧に資金を与える対価に移民・難民を取り締まる役目を課した
80年代より欧米を中心に、家事労働などに従事する労働者として国境を越える女性の姿が顕著になった→女性たちが社会進出したことの代行
→移民女性には出身国に子どもや親がおり、家族を養うために出稼ぎに来ている→途上国の家族の世話をする人がいなくなる→さらに貧しい女性を雇い面倒を見てもらうという連鎖
日本では80年代以降、性産業と結婚の枠組みで女性移民の導入が行われてきた→前者は2004年に米国国務省から人身売買と批判をうけ05年に入管法改正
強制移住者の大半を受け入れているのは低中所得国で先進国の受け入れは24%にすぎない
→しかしシリア内戦が本格化し2015年に100万人を超える人が欧州に渡ると欧州難民危機が叫ばれ、移民の排除の議論が広がる
21世紀以降、ライフスタイル移民の増加→日本でも国外移住者は89年から30年間で2.3倍に増加。移民は途上国の人間が先進国にむかってするものだけではない

516修都:2024/03/25(月) 19:39:03 ID:4qrqq.3Y
田村慶子「ジェンダーとセクシュアリティをめぐるアジアの政治」
東南アジアの伝統社会では欧米よりも女性の地位は高く、セクシュアリティの多様性も認められていた→商売に関わることは女性の仕事。一方で、女性の教育は無視されていた
中国とベトナム北部では儒教道徳によって男性による女性の支配は正当化されていた。インドのマヌ法典も同様で女性は男性に支配されていた
キリスト教会や欧米諸国がアジアに進出しても女性の地位は向上していない→ヴィクトリア王朝的性道徳にもとづく男女の理想像が持ち込まれている
→東南アジアでは近代的生活様式を取り入れるにつれて女性が公共の場から撤退していった。同性愛者は犯罪者となった
日本でも比較的穏やかであった性生活やセクシュアリティに関する風俗習慣を明治政府はヨーロッパを範として矯正した
独立を獲得したアジアでは、家父長制が採用された。若い未婚女性は単純・未熟練労働者として動員されたが、男性との賃金や昇進での差別は深刻で、税制面でも差別された
中華人民共和国では、憲法に男女平等が規定され、男女平等になった→しかし、女性労働力の評価は男性より低く、同一労働同一賃金は達成されなかった
→80年代から改革開放が始まると、女性労働者は過酷な競争に晒されリストラの対象になり、家庭内の性別役割分担も強化された
→一人っ子政策が始まると、男児を産まない妻への虐待、女児の間引きや捨て子が急増
国際社会の動きの中で80年代になって、アジア各国で女性の地位の向上が謳われる→天安門事件で失墜した信用を回復するため95年、中国で第4回国連世界女性会議が開催される
中国のジェンダー格差指数順位は下がり続けている→女性の貧困が拡大している。現在の新指導部には女性はいない。日本では、性別分業を前提とした制度と慣行が続いている
男性の発言が受け入れられやすいアジアでは、レズビアンよりもゲイの発言力の方が大きい
イスラームの道徳言説が大きな影響を与えているマレーシアやインドネシアでは、同性愛は危険な存在とみなされる傾向が強い
台湾で2019年に同性婚が合法化されたのはアジアではユニークな事例→ただし、法案成立までに賛成派と反対派が激しく対立しており、台湾でも異性愛規範は根強い

517修都:2024/03/26(火) 20:03:08 ID:4qrqq.3Y
喜多千草「コンピュータの普及とメディアの変容」
1978年、ベル電話研究所がUNIXを搭載したコンピュータ間の通信を電話回線を利用して可能にする仕組みを発表した
→カリフォルニア大学バークレー校版UNIXの完成度が高く、現在に至るまでのネットワーク用サーバの基盤的なソフトウェア設計に大きな影響を与えた
さまざまな情報通信ネットワークが存在していたが、90年代に複数のネットワークをつなぐ仕組みであるインターネットに合流していく
→コンピュータ通信を介して、情報交換しようとするユーザたちがあったからこそ、商用解禁後すみやかにインターネット利用者が拡大していった
1957年から、米国の防空システムのために量産されることになった高速コンピュータの製造を請け負ったのが、会計機製造会社のIBMだった
今日のインターネットは起源の異なる多様な機能を実現しているため、現代社会のインフラとみなされている
情報技術の導入による社会の変容を革命になぞらえることは50年代から見られ、何が革命的かという内容は時代によって変換している
かつては新聞・テレビ・雑誌が担っていたプロパガンダの器としての機能はインターネット上のメディアでも担われるようになってきた

518修都:2024/03/26(火) 20:53:01 ID:4qrqq.3Y
以上、岩波講座世界歴史全24巻まとめ終わり
お騒がせしました


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