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いまさらながら「天皇論」を読んでみた

1RUSH/ALEX:2010/01/23(土) 11:51:39
小林よしのりは変な方向にいっちゃったので、もう読んでいなかったのですが、
ブックオフで「天皇論」を見つけたので買ってみました。
小林が自説を展開しているところは眉に唾つけて読むとして、
祭祀のことなど詳しく書いてあったのでその点は役に立ったのと
陛下に対する小林の想いそのものには共感できました。

「いわゆるA級戦犯」も読んだのですが、
こちらは全体としてはまずますうなずけるとしても、「戦犯」それぞれを美化しすぎ。
木村兵太郎などビルマでほとんど敵前逃亡に近い行動をとっており、
軍人以前に人間として全く評価できません。
(東京裁判で裁かれたことの是非とは別ですが)
そういうところまで是々非々で評価したうえで東京裁判の不当性を訴えるのでなければ、
左翼とベクトルが違うだけと言われても仕方ない。

新しくスレッドを立てるほどの話ではないのですが、
どこに書いていいものやら見当がつかず……スミマセン。

2RUSH/ALEX:2010/01/23(土) 12:04:05
あ〜それから、最近活発な「在日特権を許さない市民の会」略して「在特会」。

ああいうのはどうなんでしょうねえ。
ここの皆さんはあの手の運動には否定的だと思います(私もスキじゃないです)が、
行動しなきゃダメなんだ!とか言われると、少々引け目を感じないでもない。
朝鮮学校の問題なんかを多少なりとも世間に知らしめる役には立っているようだし。
かと言って同類と見られるのはイヤなので、支持するというところまでは行きたくない。
皆さんのご意見を伺ってみたいとずっと思っていました。
ことに「運動系」についてはむくまろ先生のご意見を伺いたいなあ。

3Emmanuel Chanel:2010/01/23(土) 23:07:12
ここは 2ch 形式の掲示板ですが,”単発スレ立てるな”というルールはそもそもスレの数があまりありませんから問題にならないかも知れません.
ただ, >>1-2 を一つの話題をまとめられると仰るのであれば話は別ですけど,そうでないのでしたら,”スレ違いするな!”というルールの問題もありますし,立てたスレと違う話題を脈絡もないのに早速始めるのはどうかと…

4キラーカーン:2010/01/24(日) 00:09:15
>>祭祀のことなど詳しく書いてあったのでその点は役に立ったのと

 私も立ち読み程度しましたが、「過去から現在」までの天皇制とは何かということを知るための入門書としては出来がいいと思います。その意味で、氏は「天皇論」を書くためにかなりの勉強・努力をしたと思います。あの内容は生半可な知識では書けないと思います。

 ただ、氏はやはり戦後の核家族的な環境で育ったのでしょう。皇位継承に関する氏の見解は宮崎氏の言う「直系原理」が突出しています。その点については、私の私見をこのスレに転載しておきます。

>>「在特会」
ああいう組織がないと、左翼との関係でバランスが取れないでしょう。その意味では、ああいう存在も「あり」だとは思います。ただ、主流になるのは困りますが。交渉ごとで言う「ふっかける」というということだと思います。

P.S.
ミリタリー・クラシックの最新号は
「とある陸軍の超電磁砲(レールガン)」や
「米帝へのジャッジメントですの!」とか
ネタ特集が増えて「あくしず」化しております。
これまでにも
「戦艦KJⅤ(キング・ジョージⅤ)の憂鬱
 (ただの戦艦には興味がありません。以下略)

「最強の巡洋艦が見たいカァッ!」
(全巡洋艦入場!)
とかという「ネタ特集」は各号1つくらいはありましたが、複数とは始めてみました。

そのうち、東条率いる憲兵隊がやってきて
「憲兵隊(ジャッジメント)ですの!」
と拘束される夢を見そうで怖いです。

5キラーカーン:2010/01/24(日) 00:12:14
 少子化と晩婚化、独身者の増加で、夫婦と子供2人という「標準家庭」がもはや「標準」ではないといわれて久しいです。
 ここで、表題の「いとこ」ですが、「いとこ」とはご存知のとおり、親同士が兄弟の間柄をいいます。親同士が兄弟ですから、正月やお盆といった帰省ラッシュの時期には「孫の顔を見せる」という名目で親、子、孫という3世代が一つ屋根の下に勢ぞろいすることになるのはそう珍しいことではないと思います。こういった状況から、「いとこ」というのは

家族の一員ではない人の中で一番近しい人
(よく言われる例として、「一緒にいた彼女(彼氏)は?」と聞かれた場合に「いとこ」と答えるというベタなものがあります)

ということになると思います。近くに住んでいるとか家族関係が良好であれば、いとこ同士といっても兄弟同然ということもあるでしょう。
 こういう環境の場合、男2人兄弟であれば、「長男には男の子供がいないので次男(の長男)を後継者として育てよう」という判断をしても、さほど問題がないと思います。それは、帰省という行事を通じて、いとこ同士が祖父の家で定期的に顔を合わせ、しかも「孫」という同格の立場でいることから、おじいちゃんにつながる「近しい親戚」であるという一体感が醸成されるからだといっても過言ではないでしょう。
 ここからが問題です。親が健在の間は帰省もします。そこで、(仲があまりよくなくても)兄弟と顔を合わせますし、その波及的効果として孫である「いとこ」同士も顔を合わせます。しかし、親が亡くなった後で、兄弟同士が一同に会する機会を持つ親戚はどれだけいるでしょうか。核家族化が進んだ現状では、親が亡くなれば、子供は名実ともに一家として独立します。このような状況の中では「またいとこ」以上の関係は感覚的に「親戚」と認識する機会が実質的に失われます。運がよければ、「曽祖父」の葬式や法事あるいは「いとこ」の結婚式で「またいとこ」が顔を合わせる状況はありうると思いますが、定期的ではありません。また、そういう大規模な「法事」は数年毎です。
 さらに、兄弟である親同士の仲が非常によく、また、それだけの「大家族」が一同に会するだけの場所を提供できる(一族総出でホテルに泊まる)だけの物理的・金銭的余裕がなければだめでしょう。あるいは、子供である「いとこ」同士の仲がよければ、「いとこ会」という形で集まって、その子供同士が「またいとこ」として認識できるという機会があるかと思います。
 ここまで述べてきたことは、「いとこ」や「またいとこ」といわれる関係の人がいる場合です。しかしながら、昨今の少子化と晩婚化(一生独身化)によって「いとこ」関係というのが少なくなっていきます。親が一人っ子であれば「いとこ」は存在しません。また、(「未婚の親」という例を除いて)兄弟の一方が独身(結婚経験がない人)であっても同様に「いとこ」は存在しません。となれば、「いとこ」そのものが『希少価値』になります。しかし、「またいとこ」まで関係を広げたとしても、実際に会う機会のない「系図だけ」の親戚関係となって、親戚という実感が湧かない場合が多いのも上述のとおりです。
 更に、「標準家庭」でも子供が二人ですから、男女の出生率からすれば男と女の2人兄弟というのが多くなることから、さらに「男系のいとこ同士」という関係になれば、さらにその『希少価値』が高くなります。このような状況の中で、「家督相続」というような場合を考えてみれば、長男に男の子供が生まれなかった場合

ほとんど他人の傍系の男系血族より近しい女系の血族(例:姉の子供)

の方に親近感が沸いても仕方のない状況になります。場合によっては、男女を問わず子供に継がせようという意識が働くのも無理のない状況になります。これらがあいまって、一番近い傍系血族(いとこ)の存在が希薄となっていった結果と、旧来から日本の商家や職人の家には、「婿養子」という習慣があり直系原理がかなり浸透していたことが相俟って、日本国民の意識全体として

(傍系男系血族の存在の希薄化による)直系の論理の突出

ということになってしまったということです。そして、そのような意識が皇位継承問題に微妙な影響を及ぼしているということです。この状況を評して宮崎哲也氏は

男系原理と直系原理の衝突

と評していましたが、慧眼だと思います。そして、現在の少子化などの状況から、直系原理が強くなる傾向にあります。そのような中で、「皇族」という傍系も含めた親族制度を維持している天皇家の家長である天皇の継承順位がどうなるのかということも合わせて問われているのだと思います。

6キラーカーン:2010/01/24(日) 00:13:12
 前回の「いとこ」の続きですが、「いとこ」関係ということを言い換えれば、「父−子−孫」の三代(いわゆる「直宮家」)で家系が完結するということです。ここまでは、前の投稿で述べたように、多くの人々にとって実感を持って理解できる親戚関係ということになります。つまり、多くの人にとって、自分自身が実感できる「傍系血族」は「いとこ」が限界であるというのが、核家族化の帰結です。
 さらに、言い換えれば「いとこ」同士ということは、「孫同士」ということと同値です。この「孫同士」という意味において、「いとこ」(長子の子供と次子の子供)は同じです。ここからが、皇位継承問題に移行しますが、悠仁親王殿下の誕生により皇位継承論議が一気に下火に向かったのは、悠仁殿下が

今上陛下の孫(この意味において愛子内親王殿下と悠仁殿下は上述のように「同格」)

であったことが無視できない要因であったと思われます。言い換えれば、皇太子殿下の即位後に悠仁殿下が誕生された場合では、

やはり愛子殿下が皇位を次ぐべきだ

という意見が現在よりも大きいのではないかと推測できるからです(今上陛下の長子と今上陛下の甥では「同格」にはならない)。なぜなら、愛子殿下の皇位継承を正当化するのは

直系原理が男系(傍系)原理より優先する

というところに最大の論拠があるからです。「いとこ」同士の場合、孫同士であれば、直系原理でも「同格」ですが、子供と甥では、直系原理で優劣が生じます。
 さらに、ここから更なる思考実験ですが、殿下が生まれたのが秋篠宮家ではなく、三笠宮家系の皇族(例:桂宮家)だったらどうだったでしょうか(桂宮は車椅子の生活ですが、独身であり、若くて健康な女性を娶れば、現在においても、行為継承権者ができる可能性を一応残しています)。さらに仮定を重ねれば、皇位継承権者が三笠宮の系統(寛仁親王、桂宮、高円宮)にそれぞれ存在するという状況であれば、皇位継承に関して、制度的には問題ない程度まで皇位継承権者を有していることになります。
 このような状況の場合、三笠宮系の男性皇族と愛子内親王殿下ではどちらが皇位にふさわしいかといえば、おそらく愛子内親王の方が多数派となるでしょう。なぜなら、悠仁親王が誕生された後でも愛子殿下のほうが皇位継承者にふさわしい(=直系原理が男系原理に優先する)という声が根強くありますから、愛子殿下の「競争相手」が三笠宮系ではそれ以上に情勢が愛子殿下の方に有利に傾くでしょう。

7MOMO:2010/01/26(火) 08:26:41
間違ってまったく別のところに書いてましたw

MOMO :2010/01/25(月) 18:46:40
>小林まこと
私も最近とんとご無沙汰しておりまして…
さっそく、ブックオフにいってみようかと。

>運動
お金と暇がないことには、なかなか…w 仕事と連動してくれていたら、一番いいんでしょうけど。

8RUSH/ALEX:2010/01/26(火) 21:54:45
>>”スレ違いするな!”というルールの問題
仰る通りなんでしょうけど「スレ立てた」というつもりはないんですよね……。
お説に従うと、今日は寒いですねえ、ということを皆さんに言いたい場合「今日は寒いですねえスレ」を立てて、それ以外の話題はスレ違いで禁止ということになりかねないのでは。
まあ「RUSH/ALEX雑談スレ」ということでご理解ください。

>小林まこと
それは「What's Michael?」では?(笑)

>>(=直系原理が男系原理に優先する)という声が根強くありますから

小林よしのりは「『愛子さま』などという呼び方は不敬だ」と言ってましたが、私は雅子たん・紀子たん・愛子たんで通してます(笑)
昔の海軍将校も「天ちゃん」などと言っていたそうですし。
んで、私は男系支持なんですよねえ……。
なので愛子たんが即位すると、結婚してもその子孫は即位できないことになっちゃいます。

9MOMO:2010/01/28(木) 23:28:56
>小林まこと
あ そうでした(笑) 12の三四郎とか

>ブックオフ
結構でてました。小林よしのりの本
そういえばヤッパリ漫画で読ませると子供は理解が早い?ようで アメリカ人の子供であっても 今太平洋戦争については日本贔屓です。

長女はマーケットの前で捕鯨反対の署名運動やってるグリーンピースを見つけて わざわざ鯨をすしネタにしているイラスト入りのTシャツに着替えて行ってらしい…

鯨どころか 生魚たべれないくせに(笑) 寿司屋で唯一?食べれるのは 甘海老 ホタテ サーモン

あ ブックオフでは 鬼平犯科帳を買ってきました。

10キラーカーン:2010/01/30(土) 23:24:48
>>鬼平犯科帳
主人公の名前は・・・

11RUSH/ALEX:2010/01/31(日) 02:02:43
>>鬼平犯科帳
私はもともと藤枝梅安シリーズの方が好きなんですよね。
引越しのときに鬼平は売ってしまったんですが、梅安はちゃんと取ってあります。

>>わざわざ鯨をすしネタにしているイラスト入りのTシャツに着替えて
運動家の素質がありそうじゃないですか。
でも在特会はやめといたほうがいいかなあ(笑)

>>ネタ特集が増えて「あくしず」化
こうしたネタのほとんどについて、出典がわかりません。
ハルヒぐらいはなんとか知っていますけど、読んだことはないし。
それでも「あくしず」を買い続ける私っていったい……。

そうそう、「天皇論」で引用されていた「宮中賢所物語」を読み始めました。
「清」と「穢」を徹底して区別する内掌典の生活、すごいです。
驚いたのは「肉を料理すると火が穢れるので、肉料理は禁止」というところ。
「火が穢れる」という発想は全くありませんでした。
あまりの厳しさに、「非人間的な生活を強いられている!」と騒ぐひともいそうですが、
他宗教でもこうした儀式や伝統を守っているひとはいるはず。
以前訪ねた教会の御堂で、たったひとり一心に祈り続けるシスターの姿に心うたれたことがあります。
まだ読み始めたばかりなので、先が楽しみです。

12MOMO:2010/01/31(日) 18:26:13
>>鬼平犯科帳
小さい単行本でブックオフでそろえているのでバラバラですw 一階トイレ(子供は入室禁止)の棚に入ってますww

>>梅安シリーズ
ゴルゴ13と共にバラで持ってますw しかし、どれもコレも、子供の手の届かないところに・・・ということで、子供入室禁止にしたトイレはそろそろ満杯です。

>>天皇論
雅子様が皇室の祭事(宮中祭祀)をやりたくないというのは、デマなんでしょうか?
ちなみに、悠仁様とうちの末っ子は同い年になりますが(笑)どういう風に育てたら、あんなふうになるのか、もう羨ましくて羨ましくて。
「うさぎは、どうやってもちますか?」
うちの子であるなら、初めて見たものでも第一声は「かえして!」
家族全員で敬語をつかい合わないといけないのかとw

そう言えば、皇后様が悠仁様のことを、「ゆうちゃん」って呼ばれていたのは、微笑ましかった。どんなに、可愛いでしょうねぇ・・・

13キラーカーン:2010/02/01(月) 00:04:22
>>ハルヒぐらいはなんとか知っていますけど

というわけで、ネタついでに

(ここから)
茅原さん準優勝 高校将棋 '10/1/31
 全国高校文化連盟将棋新人大会は、決勝などがあり、中国地方からは、岡山朝日高1年の 『茅 原 有 希』 さん(16)=岡山市北区=が準優勝。
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201001310040.html
(ここまで)

以下2chでのコメント(抜粋)

【将棋】茅原有希さんが優勝 全国高校文化連盟将棋新人大会
 http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1264861248/

>>対戦相手の名前がゲシュタルト崩壊して杉田智和に見えたのは俺だけでいい

14RUSH/ALEX:2010/02/01(月) 13:53:27
>>梅安シリーズ
私が持っているのは文庫本ですが
>>ゴルゴ13と共にバラで持ってます
ということはマンガのほうですかね。コミック「乱」とかに連載してましたが、もうずいぶん読んでませんね。

>>雅子様が皇室の祭事(宮中祭祀)をやりたくないというのは
内掌典の生活ぶりたるや、普通の人間ではとても勤まらないものです。両陛下や皇族方の儀式と内掌典の暮らしとは直接関係ないでしょうが、「清」と「穢」の厳密な区別などはおそらく共通でしょうし、祭祀用の衣服を着たり髪を整えたりするだけでもかなりのご負担がありそうに思われます。
しかしもともとキリスト教に親しまれていた皇后陛下も、立派にお勤めされておられるようですので、国民のために祈るという強い気持ちがあれば決して不可能ではないのでしょう。
雅子たんは通常のご公務も完全にはお勤めできておられないようなので、祭祀や儀式についても推して知るべしかと。
ただ「やりたくない」のか何らかの理由で「できない」のかは全くわかりませんし、私などが詮索すべきことでもないと思います。

>>茅原有希
ってだれ?

15キラーカーン:2010/02/01(月) 22:36:33
>>茅原有希

ネタの解説ほどつらいものはないですが、
「ハルヒ」のトリプルヒロイン(あえて、こう言います)の一人(しかも『一番人気』)が 「長 門 有 希」 で
その中の人(演じている声優)が 「茅 原 実 里」(ちはらみのり)という人なので、その二つが「合体」した名前なので、騒ぐ人は騒ぐといった次第です。

別に茅原有希さんが有名人というわけではないです。
で、「杉田智和」というのは、「ハルヒ」の主人公役として共演している声優です。

16MOMO:2010/02/02(火) 15:12:00
>>マンガ
もちろんですw 暗い所(トイレとか)で小さな文字を読むのは目によくありませんから(嘘)

17RUSH/ALEX:2010/02/03(水) 12:38:50
>>その二つが「合体」した名前

なるほど、合体ですか……それはわからないはずだ(笑)

18RUSH/ALEX:2010/02/06(土) 10:28:30
「ジャッジメントですの」の元ネタをYOUTUBEで見ました。なるほど。
「とある……」についてもWIKIで読みましたが、登場人物の数がすごい。
最近すっかりキャパシティが小さくなってしまい、早速読みましょう!という元気はとてもありません。
つか、もともとアニメとかラノベには明るくないんですよね。

>>>東条率いる憲兵隊がやってきて「憲兵隊(ジャッジメント)ですの!」
是非とも小沢と鳩山を拘束してほしいところです。
いまの時代の「国難」とは、どっかの国が突然攻めて来るとかそういうことではなくて、
物の考え方や教育がじわじわとダメにされていく……というところにあるのでしょう。
「村山談話」や「河野談話」のように、なかなか撤回できない「政府見解」を出されてしまうとか、
古くは都立高の水準が平準化(要するにレベルの低下)され、ハイレベルな教育を望むなら私立に行くしかない、
つまりはお金がないと高い教育が受けられない状況を作出されるとか、
婦人の権利向上や経済的独立、或いは個人の自由を謳って、法律婚を否定したり結婚そのものに懐疑的な空気を醸成するとか。

その最終段階が「外国人参政権」「夫婦別姓」ということなのでしょう。

19キラーカーン:2010/02/07(日) 00:13:54
>>アニメとかラノベには明るくないんですよね。

私もこのシリーズは、漫画版とアニメ版の「レールガン」しか把握していませんので、あまり大きなことは言えないのですが・・・。

>>いまの時代の「国難」とは、どっかの国が突然攻めて来るとかそういうことではなくて、

記憶モードですが、井上「最後の海軍大将」成美は「国家は、外患より、内憂によって崩壊する」というようなことを言っていたかと思います。

20RUSH/ALEX:2010/02/09(火) 03:36:35
>>>「国家は、外患より、内憂によって崩壊する」

レーニンだったか、「まず教育を支配する」みたいな言葉もありましたね。

21キラーカーン:2010/02/11(木) 22:28:04
>>レーニン
日本政治史では「西にレーニン、東に原敬」という有名な演説(の一節)があるのですが、その原敬が一般的に創始者と言われる「地元への利益誘導」などの政治手法は、同じ岩手県出身の小沢一郎の政治手法とダブルところがあります。

ネタついでに、久々に読み返した「アステイオン(71号)」という真面目な政治学の雑誌(昨年11月発行)の特集が 「政党政治の憂鬱」 だったので、ついつい

ただの政党(自民党)には興味がありません、この中に、売国政党(民主党)、左翼政党(社民党、共産党)、カルト政党(公明党)があれば・・・

ということを思い浮かべたのは内緒です。

22RUSH/ALEX:2010/02/12(金) 00:15:53
>>>「西にレーニン、東に原敬」

「西にレーニン」と言われてもピンと来ない……のは何故なんだろう、
としばらく考えて

「 ソ 連 = 東 部 戦 線 」

というドイツの立場に立っているからだと気がつきました。

23RUSH/ALEX:2010/02/12(金) 18:19:16
今日は休みだったので、午前中から何の気なしにテレビをつけて、
そのまま国会中継に見入ってしまいました。

与謝野はさすがに凄みがありましたね。
声を荒げたり大声を出したりはしないんですが、
「こいつ、次は何を言い出すんだ……!?」と思わせるような。
案の定「母親からの資金提供を兄は知っていた」という鳩山弟の爆弾証言を持ち出して、徹底攻撃。
一方、後藤田はまだまだ若い。
いくら詰め寄る感じで質問しても何となく迫力不足なんですよね。
政府専用機の利用をめぐって「自民党時代と同じ基準」と切り替えされる場面もあったし。
「脱税総理」の棚橋が出てきたところで中継終了になってしまい、残念でした。

24RUSH/ALEX:2010/02/15(月) 11:54:32
オリンピックは盛り上がっているのでしょうか。
私の周囲ではそうでもないような……。
私も新聞で結果を見るぐらいで。上村は残念でした。

もちろん応援してますけどね。東海大の腰パン野郎以外は。
ああいうのって、修学旅行で京都に行くDQN高校生が
「地元や他県の連中になめられないように」
といつもより気合を入れて髪を整えたりするのと同じ感覚なんでしょうかね。
「制服なんか着てたら、カナダのヤンキーになめられっからよぉ」みたいな。
スポーツが得意だろうと阿呆は阿呆ってことですな。

私が応援できない日本人は亀田兄弟と山本KIDだったのですが、
腰パンがそれに加わりました。

25キラーカーン:2010/02/17(水) 21:55:19
>>腰パン

気合の入れ方を間違えたようです。
好意的に考えれば、ああやって 「粋がる」 のが
「カッコイイ」 とでも思ったのでしょうが、

敢えて言おう!!
日本人の 「美意識」 には合わないのであると!!!
(ここ ギレン風に)

といったところでしょうか。

26キラーカーン:2010/02/18(木) 01:18:39
>>与謝野はさすがに凄みがありましたね。

水曜日は党首討論でしたが、やはり谷垣さんは有能ではあるけれども 「守成」 の人であって、野党党首には向いていないのかもしれない。

石破政調会長の 「戦う政調会長」 振りは存外に面白いです。

こうしてみると、田中角栄が総理総裁の条件として、清濁併せ呑み、政治という 「権謀術数ゲーム」 にどっぷりとつかる 幹事長 経験を必須とした意味が何となくわかるような気がします(他にもいくつか経験すべき役職を挙げていますが、必須条件とはしていません)。

幹事長経験がないということを 「プラス」 に転じさせるには、小泉元首相のように 「特殊能力」 が要るということです。

過去の首相では、三木武夫元首相が小泉元首相に近い 「特殊能力」 を持っていたかと思いますが、彼は、 「バルカン政治家」 といわっるように、通常の政治家としての一流の 「腕」 を持っていました。

あの田中角栄が対等の好敵手として評価したのは福田でもなく、大平でもなく、三木でした。

27RUSH/ALEX:2010/02/18(木) 02:40:11
スケートでメダルが2つも取れて、よかったですね。
カーリングも幸先良いスタートだったようで。

昔はテレビにかじりついて応援していたものですが、いまはニュースで見るだけです。

年のせいか、いろいろなことへの興味が薄れてきたような気がしますし、仕事もあるので仕方ないですが、
なんとなくさびしいような気もします。

28RUSH/ALEX:2010/02/18(木) 12:33:19
今日は夕方からの勤務なので、ハーフパイプ決勝を見ています。
腰パンの件で八つ当たりしているわけでは決してないのですが、
それほど面白い物ではない……。
しかし、それまで全く興味がなかったフィギュアスケートで、
伊藤みどりの切れ味鋭いジャンプに感激したこともありますのでね。
私の好きなマラソンを「走ってるだけで全然面白くない」と評するひともいるので、
これはそれぞれの感覚ということで仕方ない。

あ、腰パンが転びましたね。

29RUSH/ALEX:2010/02/19(金) 14:04:38
いまテレビをつけてみたら、男子フィギュアの高橋がメダル確定だそうです。良かったですね。
織田は靴紐が切れた(!)そうで、残念ながらメダル圏外。

これから仕事に出かけます。

30RUSH/ALEX:2010/02/21(日) 14:44:30
ふと見始めた女子ショートトラック1.500m。
以前「水すましみたいで面白くない」と言って批判された政治家がいましたが、
見ていてつい力が入ってしまいました。
たしかにくるくる回っているだけなのですが、
トラックが小さい分だけスピード感がすごいのですね。
小さい中で8人が高速で回っているので、これでどうやって抜いたり抜かれたりするのかと思いますが、
内側から外側から、すいっと抜き、また抜かれるという、ここにもスピード感があります。
日本勢の上位入賞はなりませんでしたが、なかなか面白い競技でした。

31RUSH/ALEX:2010/02/27(土) 20:12:58
昨日は仕事中にみんなフィギュアを見ていました。
真央たんが負けて、その後は勤労意欲を完全に失ってしまいました。

……たしかにキム・ヨナはそごかった、仕方ないとは思いますが。

32RUSH/ALEX:2010/02/27(土) 23:52:55
「そごかった」→「すごかったので」に訂正です。

33オリンピックも終わりましたが:2010/03/02(火) 22:17:10
144 名無しさん@十周年 ▼ New!2010/03/02(火) 21:05:55 ID:fA2VRu7VP [1回目]

神の存在証明

(1) F5連打→自国のF5戦闘機墜落
(2) 標的は2ちゃんねる→「2」機墜落
(3) 標的は2ちゃんねる→3月「2」日墜落
(4) 標的は2ちゃんねる→損害額2億2千万円法的措置協議
(5) 墜落場所→平昌(韓国冬季五輪開催候補地)
(6) 墜落場所→ファンビョン山
(7) 韓国では2機→2台→ハングルで2대
(8) F5アタックで落としたのが2chのtiger鯖→墜落したF-5戦闘機の愛称がtiger



これの原因が、女子フィギュアスケート
まさか、こんなオチが付くとは…

34新八:2010/03/02(火) 22:19:25
すいません↑は私です。

35キラーカーン:2010/03/03(水) 00:28:18
>>神の存在証明

「法則」発動と言ったところでしょうか。

それと別件ですが、笑うに笑えないのが
「おおやにき」というブログ
http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/
の「政治的行為」というエントリ
http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000674.html#more)
の中の一節

(ここから:抄)
「同盟関係は『信頼してくれ』などという言葉で維持されるものではない」

という発言に、北沢防衛相が日米同盟はうまくいっていないし、少なくともその一因は鳩山総理にあると思っていることの証拠、つうか税務署の中の人が

「間違いが露見したらあとから修正申告すればいいやという態度ではなくて、贈与を受けたらきちんと確定申告してください」

と言ったら総理大臣に対する揶揄になりかねない現状は税務署の人が悪いのか総理の方が悪いのかということを考えるべきだと
(まで)

もう、何がなんだか、「谷垣おろし」で自民党の方がまだ「自由にものが言える」という政党と言うのが実証されたと言うのも、何だかなぁと思う次第

36新八:2010/03/05(金) 21:07:17
「自由にものが言えない」イメージが「自民党には、あった」
と感じてしまうのは、何故なんでしょうね。

自由にものを言わないことと、大人の分別の違いが、五十に手がかかりそうなのに、見えていない自分の未熟さも感じていますけど。

37キラーカーン:2010/03/07(日) 00:18:59
>>と感じてしまうのは、何故なんでしょうね。

表と裏の使い分けが上手かったのでしょう。
古くは「三木おろし」、最近では、舛添元厚生労働大臣の「谷垣おろし」といい、政治家個人では勝手なことを行っていますが、党としては一応それなりにまとまりますから。
自民党の決定で、「〇〇一任」という形で、政調会などで具体的な表決を行なわないことも間々ありますし、総務会も「多数決」は可能ですが、反対派は裁決時には「退席という名の『棄権』」という形で、明確な反対票を投じないと言うのが「慣例」だったようですから。

そういう、「表」と「裏」の使い分けの一つが「国対政治」と言われて、評判が悪く、その反作用として、

裏をなくして、表での「ガチンコ」勝負一本でいく

「事業仕分け」自体の評価は高いと言うこととなります。
 その一方で、表だけの勝負にこだわるあまり、「閣内不統一」というような言動を大臣がしたり、衆議院で多数を握ったから「民意」のなの元に何をしても良いと勘違いしたりしています。

 そういう表と裏の使い分けの極致が「立憲君主制」なので、天皇陛下の扱いについて、民主党が「下手」なのはある意味当然なのです。

38キラーカーン:2010/03/12(金) 00:02:09
最新号のサピオでも小林よしのり氏はなかなか飛ばしています。
と言っても、事実認識はほとんど同じなのですが、結局のところ
小林氏は、直系原理と男系(傍系)原理との違いを一度論じたほうが、論点が明確になると思います。

現代の核家族化により
祖父母−孫−従兄弟
までしか親戚と認識できない人々と、それ以上の広がりを持った集団を「一族」として認識する集団とでは「家督継承」に関する感覚は異なるでしょう。

 私は、それ以上の広がりを持った親戚付き合いをしていますので、小林氏の「家族観」にはどうしても違和感があります。

39キラーカーン:2010/03/14(日) 00:17:59
>>神の存在証明

そう言えば、例の「デスブログ」で「鶴岡八幡宮に行って銀杏を食べた」というエントリをアップして約2ヵ月後に

源実朝を暗殺するために公暁が隠れていた大銀杏の木が倒れた

ということで、御神木でもデスブログの魔力には勝てないと言うことで盛り上がっております(逆に、御神木だから2ヶ月持ったという見解も出ているようです)

40RUSH/ALEX:2010/03/14(日) 22:40:51
こう↓↓いうマンガがあるようです。

http://at9-bloods.maxs.jp/gsgs/1.html

マンガとしてもなかなか面白かったし、絵も悪くないです。
モデルは「主権回復を目指す会」の西村修平氏ですかね。
こういう絵を描ける人が、どんどん保守マンガを描いてくれるといいと思います。

41キラーカーン:2010/03/16(火) 22:48:50
そう言えば、「嫌韓流」の山野車輪氏の新作は
世代間格差を主題にしたもののようです

42RUSH/ALEX:2010/03/17(水) 11:07:33
前から思っていたのですが、左翼陣営は出版社やライターを多く抱えていて、なにかあるとすぐに本を出版し広告を打ちます。
たいして売れるわけでもないでしょうから、金銭的にはマイナスだと思うので、どこから資金が出てくるのか不思議です。
出版社の経営がそんなに楽とは思えないので、左翼系出版社が採算を度外視して発行しているということでもなさそうです。
また一概に左翼と言っても一枚岩ではありませんから「共産党が操っている」などという類の簡単な話ではありません。
一般的なカンパや募金だけではまかない切れないでしょうし、「市民」活動家が私財を投じているとしても、限界があるはず。
このへんの話はセローさんが詳しいかも知れませんね。

いずれにしても保守派は情報戦で完全に負けていましたので、在特会などがWEBを重視しているのは賢いやり方だと思います。
いまはニコニコ生放送などもありますし、在特会が朝鮮総連に突入してもみ合いになる映像などは、是非は別にして「衝撃映像」として面白い。
こうしたことから保守の市民活動に関心を持つ人も多くなるでしょう(朝鮮人に向かってゴキブリ!ウジ虫!と叫ぶのは却ってマイナスかも知れませんが)。
しかし一般の人々の目に触れるためには、やはりテレビや新聞、出版(広告も含む)が利用できないとダメでしょう。
このところ朝日が記事で在特会を(もちろん批判的に)取り上げているようですが、これは彼らにとっては追い風です。
シーシェパードの船長が東京港についたときは「抗議する市民団体」として主権回復を目指す会がニュース映像に映っていましたし。
左翼の運動は「市民運動」として肯定的に扱われ、保守からの運動は全て「右翼」として無視されるという風潮に、わずかながら違う動きが出てきたと言えるかも知れません。

山野車輪氏の作品は、背景が白いんですよね……。もう少し描き込めないものでしょうか。

43MOMO:2010/03/18(木) 15:16:22
愛子様の問題の?子供の親は転校を申し入れたとのこと(学習院側が却下したらしいけど)

これは知り合いに聞いた話ですが、愛子様自身も活発な女の子で(良い言葉で言えば)だからこそ、揉めたとも言えると。まー学習院の親御さんが全部、愛子様側ってことはないでしょうから。ただ、子供の揉め事ですからねぇ…親が学校と一緒に問題解決という事に関しては、私はなんの問題も感じませんが、マスコミに…っていうのは、どうなんでしょうね。
今回の問題に対して、小林よしりんはなんか言ってるんでしょうか?

44セロー:2010/03/18(木) 19:47:17
>出版社の経営がそんなに楽とは思えないので、左翼系出版社が採算を度外視して発行しているということでもなさそうです

私も商業出版の世界は詳しくありませんが、
出版社はどこも青息吐息なので、信念だけでは本は出せないと思うんですよね。
一定の部数を確実に買ってくれるところ(団体・会社・大学・図書館・施設など)を
確保してるんじゃないでしょうかね。

本って、カラーの絵や写真を入れなければ結構安く作れるので、
たとえば3000部刷ったとしても2000部売れれば赤字にはならないし、
ライターが安ければ1500部でも黒字になる本もあります。
まあ、今は1000部売るのにも四苦八苦なんですが。

左の人たちは右の人たちより結束が固そうだしグループ交際も多そうなので、
鉱脈さえ見つければ本は売りやすいかもしれませんね。

45RUSH/ALEX:2010/03/18(木) 23:32:50
>>44

おおセローさん、ありがとうございました。
図書館が左翼出版社の「顧客」だとすると、本当に困りますね。

しかし「グループ交際」というのは意味が違うのでは?(笑)
なにやら「ほろ苦い青春の1ぺえじ」のような雰囲気が……。

46セロー:2010/03/19(金) 18:32:03
>>RUSH/ALEXさん

荻窪駅前でビラ配りしてた日教組先生(50代後半)たちと
マクドナルドで隣席になったんですが
まさにグループ交際って感じで。。。
いまにもフォークダンス踊り出しそうでした。

47RUSH/ALEX:2010/03/22(月) 13:28:24
>>まさにグループ交際って感じで

それは気持ち悪い……。

48RUSH/ALEX:2010/04/17(土) 18:24:28
実は4月の人事異動で単身赴任になりました……。
今日は自宅に戻っているのですが、赴任先ではまだPC環境が整っていないので、当分来られないと思います。

49MOMO:2010/04/17(土) 23:11:20
>>48
えええ! それはいろいろと大変…というか 娘さんと離れるのは辛いでしょうに…
大きな会社はそれがあるから大変ですね(泣)

50キラーカーン:2010/04/17(土) 23:17:06
>>48
おや、そうでしたか。
まず、ご自身の生活環境構築の方を優先してください。

51新八:2010/04/18(日) 11:52:01
>>48
それは、まぁ、大変ですね。
私は、微妙に現場から外れました。

↓ 退役したバートルが居て、ちょっと嬉しいかも。
  あそこに並んでいる隊員は、救難の隊員と言うことになりますね。
http://www.youtube.com/watch?v=RHfBmvcAkY0&feature=related

52キラーカーン:2010/09/19(日) 02:34:34
ということで、皇位継承問題にスレの流れを戻します。

 相変わらず、SAPIOで女系(直系)優先論を唱えている小林氏ですが、最新号での所論(これはあまりにも粗い立論で読むに耐えないもの)を踏まえて個人的に論点を整理しておきたいと思います。
 まず、10年ほど前に、「天武(母は皇極(斉明)天皇)、文武(母は元明天皇)、元正(母は元明天皇)の母親が天皇であることからこれらの皇位継承を「女系相続」ということはないと思います。」という投稿を日本茶掲示板にしたことがあるのですが、まさかそのことを大々的に大真面目に主張する「言論人」(小林氏)が登場するとは予想だにしませんでした。
 しかし、小林氏がこの時期を取り上げたのはある意味必然です。この時期(天武−孝謙天皇)までの時代は皇位継承の歴史で「直系」意識が一番強かった時代であり、また「女帝の世紀」といわれるくらい、女帝が多かった時代でしたので、直系優先・女系容認説に立つ小林氏が自説の歴史的根拠を求めるのであれば、この時代に求めるのが一番合理的だからです。

 JFKと女帝と不改常典(女帝は中継ぎか)
 ここで言うJFKはケネディ元米国大統領ではなくて、後述のように、阪神が誇った中継ぎ−押さえの三投手(ジェフ、藤川、久保田)のことを言います。
 古くから、そして現在においても、女帝は中継ぎであるといわれてきました。そして、「中継ぎ」という言葉から、これら「中継ぎ」とされる女帝は男帝に比べて一段低い(皇位を「預かっている」だけで、皇位に伴う権力(皇権)の行使を自粛する)というイメージが付きまとっていました。
 女帝の性格については昔から議論がなされているところではありますが、
1 卑弥呼のような巫女王
2 飯豊皇女、推古女帝、皇極天皇のように後継者が未定の間の中継ぎ
3 神功皇后、斉明天皇、持統天皇、元明天皇、元正天皇のように後継者が成長するまでの中継ぎ
と大きく3つに分かれると思います。神功皇后については、歴史的には卑弥呼と飯豊皇女の間に位置しますが、後に即位して応神天皇となる皇子の摂政だったということで、便宜上ここに入れておきます。

53キラーカーン:2010/09/19(日) 02:34:48
 ただし、これら3つにはっきりと分かれるのではなく、一部重なりながら、徐々に移行していくというイメージです。記録(記憶モード)によれば、皇極天皇(斉明天皇)は雨乞いを行なったという記録もあったようで、巫女王という性質も残っていました。
また、皇后(当時において「皇后」とは呼ばれてはいなかった(おそらく「キサキ」と呼ばれていた)とは思いますが、便宜上「皇后」に統一)は、夫である天皇と皇権を共同して行使していたとの説もあります。これが、古代において、皇后が皇族でなければならなかった実際上の理由(皇権を行使するものは皇族に限る)だったと思われます(皇族以外の皇后は聖武天皇の皇后である光明皇后をもって嚆矢とします)。
これらのことから、皇后あるいは皇太子妃の前歴を持つ推古、皇極(斉明)、持統、元明の各女帝は決して、「一段低い」中継ぎの天皇ではない。皇位に登極下からには、他の天皇とは全く変わらない「普通」の天皇であるという小林氏の所論は一定の説得力を持ちます。つまり、「中継ぎ」は「中継ぎ」であったとしても、後継者に皇位を譲るまでは安心して皇位を委ね皇権を行使できる人物、現代で言えば、セットアッパー、あるいはクローザーという勝ち試合の終盤の1イニングを確実に抑えることのできるという、前投手陣の中でも信頼度は随一というという人物といえるでしょう。そして、そのような現代野球の当主分業制の「(第二)革命」の代名詞として、かつて阪神タイガースの誇る「トリプルストッパー」である「JFK」に相当する存在が、これらの女帝(特に斉明天皇以後の女帝)であるといえます。
そして、その彼女ら(女帝)が中継ぎであることを正当化する当時の皇位継承法が「不改常典」と言われたものです。これは、その名前だけが伝わっていて、内容(条文)は不明なのですが、この名前が引用される文脈から判断して、「皇位の直系継承原則」を規定したものと思われます。また、具体的には、

皇位は天武天皇と持統天皇の子孫(草壁皇子の系統)に伝えられる

ということを意味しました。
 つまり、井沢元彦氏の著作などで有名になった「天武系皇統」は、実は、「草壁系皇統」(+藤原氏の女性が産んだ皇子)という意味だったのです。歴代の天皇を挙げて具体的に言えば

天武−草壁−文武−聖武−孝謙(称徳)

の系統に「のみ」皇位は継承されるということになります。それ以外の系統の皇族が皇位を継ぐ場合は(天武系であっても)この草壁系の皇子への「中継ぎ」ということを意味しました。実在の天皇で言えば淳仁天皇がこれにあたります。また、聖武天皇が遺言で皇太子に指名した道祖王もこの「中継ぎ」に該当し、更には、遠山美都男氏の「天平の三姉妹」(中公新書)によれば、光仁天皇も該当します。
 この「天平の三姉妹」は、聖武天皇の子どもの代で草壁系の男系が断絶することが確定した時代において、この「不改常典」と皇位継承をどのように両立させるかという重い命題とその命題の解決を委ねられた(否応なく背負わされた)聖武天皇の三人の皇女の生涯を物語仕立てでまとめた意欲作です。この三姉妹が直面した問題は、まさに、現在(少なくとも悠仁親王が生まれるまで)の皇室が直面している問題でもあるわけで、その意味では現代皇室に通ずるものがあります。

54キラーカーン:2010/09/23(木) 01:41:10
では、なぜ、女帝は中継ぎといわれたのか。

そのことは、歴代女帝の即位(実質的に皇権を行使した)際の事情に隠されています。女帝(及びそれに準ずる地位にあった女性)のうち、ほとんど神話の領域に属する卑弥呼と神功皇后を除いて以下話を進めて行きます。

1 後継者が未定の間の中継ぎ(飯豊皇女、推古女帝、皇極天皇:第一期中継ぎ期)
飯豊皇女の場合は、清寧天皇崩御後、允恭天皇(雄略天皇)系の皇位継承権者がいなくなり、具体的な後継者が確定できていなかった時期に、事実上の「称制」(即位せずに皇権を行使すること)として臨時に政務を執ったものです(このため、史料によっては、飯豊皇女を歴代天皇の列に加えているものもあります)。

推古天皇の場合には、崇峻天皇暗殺という異常事態により、自身(及び夫である敏達天皇)と同世代(兄弟)の皇位継承権者がいなくなったが、その次の世代(例:聖徳太子)の候補も若くまた候補者も数人おり、この世代に皇位を継承するのは不可能であったことから、敏達天皇と同世代の皇族(異母妹)でもあり、敏達天皇の皇后でもあった推古天皇が即位したものです。

皇極天皇の場合にも、夫でもある舒明天皇崩御時の皇位継承権候補者である山背大兄王(舒明天皇と同世代)と次の世代の若い皇族である古人大兄皇子あるいは中大兄皇子(後の天智天皇)との間で誰が後継になるかが決定できなかったため、皇極天皇が舒明天皇の皇后の資格で即位したものです。

55キラーカーン:2010/09/23(木) 01:43:33
2 後継者が成長するまでの中継ぎ(斉明天皇、持統天皇、元明天皇、元正天皇:第二期中継ぎ期)

斉明天皇の場合には、後継者は中大兄皇子(後の天智天皇)で確定はしていたが、何らかの事情で中大兄皇子が即位できなかったため、皇極天皇が再度即位したもの。(天智天皇は、斉明天皇崩御後も即位せずに、数年間、皇太子のままで皇権を行使していました。これを「称制」といいます。日本史上では、公式に「称制」とされているのは、この例と、天武天皇崩御後、持統天皇即位までの間の2例だけです。)

持統天皇の場合は、まず、天武天皇崩御後、草壁皇子に皇位を継承させるため、「称制」という形で皇権を行使していましたが(皇極→孝徳という前例があるとは言え、生前譲位のハードルが高かったのか)、「称制」の間に草壁皇子が薨去したため、草壁皇子の息子である文武天皇に皇位を引き継ぐため、その間皇位を預かるために自ら即位したものです。そして、文武天皇の成長を見届けてから(それでも当時としては極めて若年での即位といわれている)、文武天皇に譲位したものです

元明天皇と元正天皇の場合には、持統天皇の場合と同様、文武天皇の子である聖武天皇に行為を引き継ぐため、聖武天皇が成長するまでの間皇位を預かるために即位したものです。この場合は、元明天皇と元正天皇と二代もの「中継ぎ」女帝を必要としました。

孝謙天皇(称徳天皇)の場合
孝謙天皇は、これまでただ1人の女性皇太子です。このことについても、当時、聖武天皇の皇后である光明皇后が男子を出産する可能性を残していることから、その男子が成人し、即位するまでの「中継ぎ」としての地位を確定するために立太子したとの説もあります。この説によれば、孝謙天皇の立太子→即位も持統天皇から元正天皇までの「後継者が成長するまでの中継ぎ」の系譜に属します。
ただし、その後継者が「将来生まれてくる男子」というこの世に存在していない人物であったということが異なる点です。そして、歴史の事実としては、聖武天皇と光明皇后との間には皇太子となるべき皇子は存在しませんでした。つまり、壬申の乱以後の「正統(嫡流)」とされた草壁系の男系による皇位継承が途切れるという事態に直面することとなります(「中継ぎ」が「中継ぎ」でなくなった)。そのことによって、俄然脚光を浴びるのが、孝謙天皇以外の聖武天皇の皇女(孝謙天皇の異母妹)とその婿そしてその男子だったのです。(詳しくは後述することになると思います。
そして、それが、前述のように「天平の三姉妹」の悲劇の始まりだったのです。そして、そのおよそ1200〜1300年前の三姉妹の歩んだ「悲劇の」人生を現代によみがえらせて愛子内親王の物語にさせるというのが小林氏の所論でもあるわけです)

56キラーカーン:2010/09/27(月) 23:27:59
譲位と女帝との関係
歴史上初めて譲位がなされたのは、皇極天皇から孝徳天皇への譲位ということになっています。この譲位の直接的なきっかけは、蘇我本宗家滅亡(この事件だけをいう場合、学術的には「大化の改新」ではなく「乙巳の変」というそうです。)によるものです。最近では、この譲位は、本来「中継ぎ」であるはずの推古天皇が長命を保ったことにより、推古天皇即位当時の皇位継承候補者(推古天皇の子ども、甥)が推古天皇より前に全員薨去したため、「中継ぎ」が「中継ぎ」にならなかったことから、大化の改新という「クーデター」を契機に譲位を実現させるという方法をとったといわれています。
 「第一期中継ぎ」の時代である限り、後継者が決定できないという理由で後継者決定を先送りして「中継ぎ」の女帝を擁立したとすれば、後継者が決定し、その後継者の即位が可能になった時点でこの(中継ぎ)女帝は後継者に譲位をしなければならないというのが結論になります。ということは、(中継ぎ)女帝は即位の時点で譲位することが予定されているということになります。しかし、その一方、男帝は終身在位(譲位はしない)というのが古代天皇の不文律ということになっていました。次のように、女帝は比較的生前譲位が多いですが、男帝は崩御まで在位しているほうが多いです。

「第二期中継ぎ」では、逆に、女帝即位時には後継者が決定している(あるいは決定するために即位する)ということで、この時期の「中継ぎ」は、皇位継承者決定の先送りという意味はありません。
皇極天皇以後、崩御まで女帝であったのは斉明天皇及び称徳天皇のみ(双方とも二度目の即位というのも偶然にしてもできすぎ)ですが、男帝では、孝徳、天智、天武の各天皇が崩御まで在位しており、譲位した男帝は逆に文武、聖武、淳仁の三人です。しかし、文武天皇の場合は後継者である聖武天皇がまだ若年であることから、「中継ぎ」の天皇は必須であったことから、崩御の直前に譲位をした方が円滑に聖武天皇への皇位継承が行なわれるという判断だったと思われます。
推古天皇崩御の際に後継者を指名していたということから、少なくともそれ以降の時代においては、皇位を全うできた天皇は後継者を指名する権利があったと思われます。文武天皇崩御による皇位継承であれば、いくら遺詔による後継者指名があったとしても、文武天皇の伯父が複数生存しているために不測の事態が起きる可能性もありました。実際、推古天皇が崩御した際も、直接推古天皇から言葉を賜った舒明天皇、山背大兄王の双方ともが「推古天皇から後継者に指名された」と主張したことから、舒明天皇の即位まで若干の混乱がありました。また、聖武天皇の遺詔によって孝謙天皇の皇太子に指名された道祖王は聖武天皇の崩御後孝謙天皇から皇太子の地位を剥奪されます。
ここで、文武天皇の崩御に乗じて、草壁皇子の男系子孫以外の天武天皇の男子孫、特に、当時生存している天武天皇の皇子(特に、舎人、新田部の両皇子は文武天皇崩御から約三十年後に薨去)へ皇位継承されれば、その即位した男帝の子孫に皇位が継承され、聖武天皇に皇位継承が行なわれなかったという可能性が高くなります。過去にも、孝徳天皇が即位したことで、その息子の有間皇子が皇位継承争いに名乗りを上げ、結局、天智天皇によって死に追い込まれたという例がありました。このため、かつ、「息子から母へ」という異例の譲位ということもあり、生前譲位を行なう必要があったということです。
淳仁天皇の例は生前譲位というよりも、孝謙上皇に皇位を「取り上げられた」といったほうが実態に即している(このため、淳仁天皇を「淡路廃帝」と言うこともあります。しかし、「天平の三姉妹」にあるように、淳仁天皇自身が聖武天皇の孫までの「中継ぎ」である可能性も捨て切れません)ことから、典型的な生前譲位を行ったのは聖武天皇だけということも可能です。

57キラーカーン:2010/09/27(月) 23:31:02
しかし、皇極天皇が即位した時点においては女帝男帝問わず皇位は終身であるという観念があったと推測されます。つまり、「実質的譲位」を行なった飯豊皇女、神宮皇后(彼女は神話に属する人物でもありますが)は、歴代天皇に列している史料もありながら、即位→譲位という歴史的記憶として共有されていなかったことから、正史では歴代天皇からは外れ(神宮皇后は応神天皇の「摂政」という扱い)ということになるのでしょう(ちなみに、天皇にならなければ「譲位」という行為も発生しない)。
その一方、正式に歴代天皇に数えられている最初の女帝である推古天皇は(当時の政治情勢もあったでしょうが)、結局、他の男帝のように終身在位してしまいました。このため、即位すれば、天皇は男性女性問わず「終身在位」という固定観念が舒明天皇の時代までに形作られたと思います。

さて、皇極天皇即位の時点では、推古天皇の話は近い過去の話です。一例を挙げれば、山背大兄王は推古天皇によって結果的に即位を阻まれた聖徳太子の息子であり、自身も推古天皇崩御後の皇位継承の有力候補であり、今回も、皇極天皇即位によって即位が「見送られた」(そして、皇位には就けなかった)人物です。このように、推古朝における皇位継承に関する当事者も山背大兄王のほかにもまだ多く生存していたでしょう。つまり、遠い過去や神話の時代である飯豊皇女、神宮皇后の事例よりも、近い過去の推古天皇の事例の記憶の方が強く残り、女帝といえども終身在位であるというような「イメージ」ができあがったのかもしれません。(ちなみに、奈良時代以後、皇位の生前譲位がほぼ4分の3にのぼり、摂政関白政治が定着した後は、幼年での即位も増えてきます。)
このような時代背景の中で即位した女帝である皇極天皇は、それこそ、「中継ぎ」女帝として、即位時において決着していなかった後継者問題を決着させて「譲位」を成功裏に行なわなければならないという大きな使命を追っていました。そして、皇極即位のおかげで一人の皇族が「ダークホース」として皇位継承権者として名乗りを上げ、実際に皇位を射止めます。その名を軽皇子、一般には孝徳天皇として後世に名前を残す人物です。

そして、この皇位決着問題の先送りという形態は皇極天皇で終止符を打ち、持統天皇から元正天皇まで、女帝は後継者の成長を見届けて譲位をするというパターンが定着します(斉明天皇は譲位することなく崩御)。そして、その中継ぎの天皇としての女帝の役割は、
1 後継者の決定については皇太子制度の定着
2 後継者が成長するまで政務を見るという機能は摂関政治の定着
によって代替されることとなり、女帝というものは、歴史の表舞台から姿を消すこととなったのです。

58キラーカーン:2010/09/27(月) 23:34:00
女帝が「中継ぎ」であるための条件(「第一期中継ぎ期」、飯豊皇女から皇極天皇まで)

 これまで見てきましたように、女帝は何らかの形で「中継ぎ」という性格を持っていました。そして、その性格から、女帝はしかるべき時期に譲位を行うということが予定されていたともいえます。つまり、後継者が決定していない場合の中継ぎにおいては後継者が決定した時点において、後継者が決定している場合には後継者が成人した段階で譲位を行うことが予定されていたのではないかということです。しかし、上述のように、男帝のみに当てはまる原則であった皇位は終身であるということを推古天皇の事例から女帝までに拡張したため、皇極天皇はなんとしても譲位を行わなければならないという宿命を負っていました。(この時点では、生前譲位に失敗した推古天皇の影響を蒙った各当事者が生存しています。例えば、推古天皇が聖徳太子に譲位していれば、聖徳太子の長男である山背大兄王の行為継承順位は格段に上昇します。)

 ここで視点を変えて、第一期中継ぎ期の特徴である後継者が決定していない場合の「中継ぎ(女帝)」の必要条件とは何かということです。これは、現代社会でも「暫定的」にある組織の長になる場合、その長になる人間に求められる条件は何かということにも通じます。これを一般化すれば

中継ぎ(暫定)で長になる人間は「野心」を持たないこと
(しかるべき時期が来れば、しかるべき人にその地位を譲らなければならない)

ということです。
 現代日本においても、あるいは洋の東西を問わず、後継者が決定していない、あるいは熾烈な後継者争いが予想されるため、下手をすれば組織が分裂するという可能性がある場合、「第三の候補」を擁立して対立を回避するという手法はままあります。この場合における「第三の候補」である条件として、その他の候補に対して「次は自分だ」という希望を持たせられる人物であるということです(政治世界で言えば、犬養毅が政友会総裁に就任したのもそういう側面があったといわれています)。
 そして、「中継ぎ」が「野心」を持ったため、熾烈な権力闘争が発生した例は近い過去にも存在します。戦後に限っても、鳩山一郎の公職追放を受け、自由党総裁を「預かった」吉田茂が鳩山の復帰後も総理・総裁の座を譲らなかった例や、三木退陣の後を襲った福田赳夫と大平正芳との間で「2年後に大平へ総理・総裁を譲る」という「密約」が反故にされたことによって熾烈な権力闘争が発生しました。皇極天皇即位当時において、推古天皇の即位、あるいは崩御の際の皇位継承の実例は、現代からみた自民党の派閥抗争程度には生々しい記憶として当時の皇族、豪族層に刻まれていたでしょう。

 これを女帝に当てはめればどういうことになるでしょうか。つまり、後継者決定を「先送り」する形で即位した女帝が持つ「野心」とは何かということになります。世襲制である皇位継承における野心というものは、男帝も女帝も同じく、自分の子供に皇位を継がせたいというところになるでしょうから、「中継ぎ」で女帝になることと引き換えに放棄する「野心」は

わが子の皇位継承権を放棄させる

ということになります。つまり、母から子への皇位継承は「ありえない」という結論が導き出されます。このことは何を意味するかといえば

1 皇位継承において母から子へという「女系継承」は原則的に排除されている
2 女帝は即位後、子どもを生まないということも求められる。端的に言えば未亡人あるいは生涯未婚
 であることが求められる。即位時点で息子がいなければそれに越したことは無い。

という宿命を女帝は負っているということです。
 したがって、「皇位継承をややこしくさせないため、女帝は子どもをもうけてはいけない」という小林氏の所論は、この後者の意味において正鵠をいていると思います。この意味からも、前の天皇の后(=未亡人。この時代においても男帝は終身在位が基本であったことから、「前の天皇の后」という時点で事実上未亡人であることが確定)である女性皇族というのは「中継ぎ」として適任であったといえます。さらに言えば、皇族の后のうち一人が「大后」として、夫である天皇を輔けて皇権の行使を一部肩代わりしていたともみられますので、その観点からも「統治者」としての女帝としては適任であり、そのことによって、「中継ぎ」の女帝であっても皇権の行使については男帝と変りなかったという小林氏の所論にもつながって行きます。

59キラーカーン:2010/09/27(月) 23:35:54
 しかしながら、このことは、第一期中継ぎ期においては、「大后」が即位することによって、それまで皇位継承争いで最有力であった大后の息子の即位がなくなるということを意味します(上述のように、女帝は息子の皇位継承権の放棄と引き換えに得る地位)。百歩譲っても、その他の皇位継承候補者と同じ位置にまで引き摺り下ろされるということを意味します(このことからも、即位時点で息子がいない方が都合が良い。そもそも息子がいなければ、女帝の息子の皇位継承権を云々する必要性は消滅します)。そのためかどうかわかりませんが、飯豊皇女や推古天皇は「即位」当時、息子はいなかった(飯豊皇女は独身で子供がなく、推古天皇は息子に先立たれていた)といわれています。
 つまり、「女帝」の息子が即位することはありえなかった(逆に言えば、息子の即位がありえないから、「女帝」の即位が実現した)ということになります。
 皇極天皇の即位で初めて「息子のいる女帝」が出現しました。皇極天皇には中大兄皇子という息子がいましたが、結局、中大兄皇子は直接母(皇極天皇あるいは斉明天皇)から直接皇位を継承することはできませんでした。前者では孝徳天皇を「中継ぎ」にしたが、それでも孝徳天皇の後を襲うことができず、後者の場合、(理由はさておき)即位せずに皇権を行使する「称制」という「冷却期間」が必要でした。この理由として母から(そして、孝徳天皇を難波宮に「放置」したという経緯から)直接皇位を継承すると「皇位簒奪者」としてその即位の正当性に傷がつくからという説もあります。
 ということで、皇位継承の歴史で「母から子へ」直接皇位継承できた例は「一例もない」のです。少し定義を広げても持統天皇から文武天皇という「祖母から孫へ」という「一例だけ」です。

 このように、古代においても皇位の「女系継承」は原則的に認められていません。但し、極めて例外的事例の場合、女系継承は否定されていないという立論は可能です。女帝が子どもを生んではいけないということは、皇位継承の運用に関することであって、女帝の子ということをもって、理論(制度)上は皇位継承権が否定されていないという立論も可能です。しかし、重ねて言いますが、女帝即位の事情から、実際の運用上女系継承は否定されているということはいえるかと思います。
 つまり、「女帝の世紀」を前面に出して女帝容認・女系容認を打ち出す小林氏の立論は根本的に無理があるということです。

 では、例外的に、女帝あるいは女系継承が認められる場合とはどのような場合でしょうか。それは、女帝が即位した事情から類推するしかありません。となれば、女帝、ひいては女系継承が認められる場合というのは以下の場合に限られるでしょう

1 男系男性の(衆目の一致する)皇位継承者が存在しないこと
2 男系継承が不可能であるということ

の二点に集約されるということになります。
 近年において、皇位継承問題が議論されるようになったのは、近い将来(といっても数十年後ですが)この二つの条件が成就する可能性が無視できなくなったからです。その意味において、小林氏の問題提起は「真っ当」なものです。これについては、後で述べることになると思います。

 閑話休題、皇位継承において女系継承はありませんでしたが、百歩譲って

皇族の母から生まれたことを最大の根拠として皇位を継承する

というところまで「女系継承」を広く取ったとしても、皇位継承の歴史において、これに近い例を探せば、「別の家系」と看做される系統に皇位が移った場合、皇位継承者は前の家系で生存している女性皇族を娶り(例:継体天皇)、その女性皇族との間にできた皇子(例:欽明天皇)とその子孫に皇位を伝えるという形態だけといえるでしょう。
 前の家系の皇族を后としている(后とする)ことによる皇位継承はいくつか例がありますが、その后から生まれた息子の系統に皇位が継承されたのは、管見の限り、継体天皇→欽明天皇の一例だけです。
 そして、その場合においても、女性皇族が即位して女帝となり、その子孫に皇位が継承されるのではなく、その夫自身の持つ皇位継承権(天皇の男系男子孫)に基づいて即位するという形態をとります(ちなみに、「王朝交代説」を採る学者には、そういうような婚姻関係が発生した時に古代日本において「王朝交代」が行なわれたと推測しています。したがって、女系継承ではなく、男系継承であり、女系はその男系の正統性を補強するという役割分担となっています。

60キラーカーン:2010/09/27(月) 23:38:52
 世襲原理の一般論からいって、その他の条件が同じ場合、女帝の息子(あるいは皇后の息子)は皇位継承争いにおいて圧倒的優位に立ちます。従って、女帝の子が皇位継承権を保持したままでは、皇位継承者決定の先送りが先送りにならない(女帝の即位時点で後継者が事実上決定してしまい、後継者決定の先送りにならない。例:持統天皇の即位)というパラドックスに陥ってしまいます。つまり、女帝が擁立される政治情勢と女帝の子が皇位継承を行うという女系継承というのは相容れないということです。

 ここで、いかにして第一期中継ぎ期において「中継ぎ」女帝がどのように譲位を行い、その使命を全うしたかについて概観するために、時代を皇極天皇即位当時に戻して見ましょう。
 舒明天皇が崩御した際、皇位継承候補者としては
・ 山背大兄王(推古天皇崩御後、舒明天皇とともに皇位継承候補者として名前が挙がった人物であり、年齢経験は申し分ないが、血縁関係が希薄(舒明天皇の又従兄弟))
・ 古人大兄皇子(舒明天皇の長子で母は蘇我氏であり、蘇我氏の支援が得られる)
・ 中大兄皇子(母は皇后であり、出自は一番有利。しかし蘇我氏との関係が薄い)
という3人がおり、一長一短でした。
 崩御した舒明天皇との血縁からいえば、舒明天皇の皇子である古人大兄皇子と中大兄皇子という二人の皇子ということになりますが、いまだに年齢が若く、即位には時期尚早(摂関政治が行なわれる以前では、天皇自身に統治者に相応しい能力が求められるため、成人後一定の政治的経験を積まなければ皇位継承者にはなれない。したがって、即位するにはある程度の年齢に達している必要がある)と見られていました。このため、古代においては、兄弟間相続が多く見られます。
 しかし、この場合、舒明天皇の兄弟はおらず、同世代の皇位継承者候補は山背大兄王となってしまう。しかし、山背大兄王は舒明天皇とは又従兄弟の関係であり血縁関係は薄く、かつ、推古天皇崩御後の舒明天皇との皇位継承争いに負けており、有力な皇位継承候補者ではありますが、衆目の一致する皇位継承候補者というわけには行きませんでした(客観的情勢としては舒明天皇と皇位を争ったときより山背大兄王を巡る情勢は悪化していたと思われます)。このため、舒明の皇后が皇極天皇として即位し、皇位継承者問題を棚上げ、先送りということにしました。
 上述の「女帝の子は皇位に就けない」という仮説に拠れば、皇極天皇が即位した時点で、「女帝の子」となった中大兄皇子は皇位継承争いから脱落したということになります。その代わりとなるかのように、皇極天皇即位に伴って、その弟(後の孝徳天皇。以後「孝徳天皇」で呼び名を統一)が「天皇の甥」から「天皇の弟」という地位に昇格し皇位継承争いに割って入りました。しかし、即位時点の事情から言えば、山背大兄王か古人大兄皇子(あるいは中大兄皇子)かということであり、孝徳天皇はあくまでの、その次の順位の候補者という程度でした。
 ここから皇極女帝が即位した唯一最大の理由を全うするため「皇位継承サバイバルレース」が開幕しました。まず、ふるい落とされたのは山背大兄王でした。彼は古人大兄皇子(、中大兄皇子)、孝徳天皇の共通の敵であり、さらに、この時点では蘇我本宗家にとっても「邪魔者」になっていました。山背大兄王は蘇我氏との血縁関係が比較的深い皇位継承候補者でしたが、この時点で、蘇我本宗家が推す候補は古人大兄皇子でした。これにより、古人大兄皇子が皇位継承争いのトップに躍り出ました。このまま古人大兄皇子が成人すれば、皇位は皇極天皇から古人大兄皇子へと「譲位」される見込みが極めて高くなりました。そうなれば、孝徳天皇(女帝の弟)、中大兄皇子(女帝の子)も皇位を継げずに終わってしまいます。
 ここで、孝徳天皇と中大兄皇子の利害が

1 蘇我本宗家排除による古人大兄皇子の皇位継承争いからの排除
2 「クーデター」による皇極天皇から孝徳天皇への「譲位」の実現
3 中大兄皇子は「女帝の子」という傷を治癒させ皇位継承権を回復する
4 孝徳天皇の後継者(皇太子)を中大兄皇子とする

ということで一致したと考えられます。
 しかし、ここで動かなければならなかったのは中大兄皇子ではなく、年齢的なものや本来的な皇位継承順位が低い孝徳天皇のほうだったと思います(時間が経てば経つほど、後継者として、舒明天皇の皇子が有力になり、世代から言って、舒明天皇の「(義理の)弟」である孝徳天皇は不利に追い込まれる)。このため、私は大化の改新(乙巳の変)の首謀者は孝徳天皇であるという遠山美都男氏の説に魅力を感じています。

61キラーカーン:2010/09/27(月) 23:40:00
 しかし、孝徳天皇は男帝です。本当は「中継ぎ」だったとしても、本人の意識としては「本格政権」というものはあったと思います。つまり、即位時に中大兄皇子を皇太子にはしたものの自分の息子(有間皇子)に皇位を継がせたいという「野心」は持っていたでしょう。そういうこともあって、孝徳天皇と中大兄皇子との間の溝は深まって生きます。その結果、中大兄皇子や皇極前天皇以下の面々が孝徳天皇を難波宮に置き去りにしてしばらく後、孝徳天皇が亡くなり、そして、有間皇子を死に追いやることで、中大兄皇子の皇太子としての座は安泰のものとなりました。しかし、中大兄皇子が天智天皇として実際に即位するのは、皇極前天皇の斉明天皇としての再即位、斉明天皇崩御後の「称制」を経てからのことでした。(この「称制」の理由について色々な説はありますが、どの説でも、本論の進行には影響はありませんので、これ以上触れません。)

 これとは逆に、「後継者が決定していない場合」の女帝擁立に失敗し、国内が混乱に陥った例を挙げておきます。
 天智天皇の後継者は、従来、同母弟である大海人皇子とされてきました。しかし晩年には天智天皇の長子である大友皇子に皇位を継承させたいという意思が強まってきました。そして、天智天皇の命数が旦夕に迫ったとき、天智天皇と大海人皇子との会談がもたれます。その内容は天智天皇の後を誰が継ぐかという点であったというのは間違いのないところです。大海人皇子か大友皇子かどちらに決まるのか。その会談の席中、大海人皇子が変化球を投げてきました。

皇后を女帝とするべきです。そして、私(大海人皇子)は出家(して吉野に隠棲)します

 つまり、「大友皇子が即位するまでの時間稼ぎとして皇后(古人大兄皇子の娘)を『中継ぎ』の女帝とし、時間をおいて、しかるべき時期に大友皇子に譲位するべきです。一方、私は出家して皇位継承権を放棄します」という内容です(皇族において出家することは皇位継承権を放棄することを意味します(古人大兄皇子は乙巳の変で出家に追い込まれ、皇位継承レースでは、孝徳天皇=中大兄皇子側の勝利が確定)。また、天皇の出家は「退位」を意味します)。結局、皇后は即位せず、天智天皇崩御までに後継者問題に決着はつくことなく、この決着は壬申の乱という「古代日本最大の内乱」によってしか決着がつけられませんでした。
 この苦い経験があったからこそ、兄弟で皇位継承すると内乱が起きるので、皇位は直系(嫡系)によって継承すべしとして、持統天皇は草壁皇子薨去後、並み居る天武の皇子(と天智の皇子)を押しのけて、自分の子である故草壁皇子の長子である文武天皇の立太子、そして譲位を断行できました。この時点で、女帝の第一期中継ぎ期(後継者決定の先送り)は幕を閉じ、第二期中継ぎ期(皇太子の成人までの中継ぎ)が開幕することとなりました。言い換えれば、持統天皇は後継者問題を「先送りする」ためではなく、後継者を「決定する」ため(文武天皇への譲位を確実にするため)に即位したのです。

62キラーカーン:2010/09/27(月) 23:42:09
皇位継承権と母の出自

 とここまで、(古代において)女帝とは何かということを縷々述べてきました。現時点では、女帝は何らかの形で「中継ぎ」であるということは否定できないということです。(しかし、即位後は、男帝と何ら変わる事のない天皇として皇権を行使することができたということは明記しておくべきです。「中継ぎ」だからといって格落ちの天皇ではない。天皇は天皇であって、その意味では何ら区別はされなかったということです。勿論、当時の政治情勢で、天皇が思うままに権力が振るえたか否かは別の次元の問題です。)
 ここで、次の論点である「女系」に移りたいと思います。「狭義の女系」とは、ミトコンドリアよろしく、曾祖母−祖母−母−娘−孫娘という継承を指します。皇位継承問題における「女系」とはそういう意味ではなく、「非男系」あるいは「男系、女系入り混じってもかまわない」という意味になります。
 古代の日本は、父方、母方双方から「財産・身分」を受け継ぐことができた双系社会といわれていますが、母親が皇族でなければ女系相続ということは問題になりませんから。それでも、天皇には実質的な統治能力が求められることから、当時の社会状況においては男性の方が有利であったと思われます。その意味では、男系優位、男性優位の皇位継承状況だったといえると思います。したがって、皇位継承順位は基本的に男系によって決定されるといってよいかとます。

 しかし、男系によって優劣がつかない場合(例:兄弟)には、双系(的)社会ということから、生母の地位が影響します。例えば、壬申の乱で言えば大友皇子の生母の身分が低かったので、皇位継承争いでは極端に不利というよりも、そもそも皇位継承レースに名乗りを上げられるのかということも問題にされました。天武天皇の諸皇子の中でも、一番年長で、壬申の乱においても功績を挙げた高市皇子も生母の出自ゆえに皇位継承レースからは事実上脱落した形でした。そのため、太政大臣という地位に就任して、皇族と臣下との中間的な地位にいることによって、その政治生命を全うしました。その一方、草壁皇子と年齢も近く、また、同じ天智天皇の皇女を母とする大津皇子はその出自ゆえに草壁皇子の最大の対抗馬であり、その結果、天武天皇崩御後、持統天皇に粛清されるという結果になります。ここでも、生母の差が皇位継承順位(皇子の序列)と結びついており、その意味でも、女系継承原理が残っているということは可能です。

サッカー流に言えば
・男系(父)が「勝ち点」
・女系(母)が「得失点差」
に相当するものといえるかと思います。
 現実問題としては、外戚として有力豪族(貴族)の支援が得られるか否かという問題もありますから、皇族の后から生まれた皇子が絶対有利というわけではありませんでした。この時代では、蘇我氏の娘から生まれた皇子(例:古人大兄皇子、山背大兄王)も有力な皇位継承候補者になり得ました。また、継体天皇より前の時代では、皇族の后という存在は、継体天皇以降の時代ほど目立ってはいませんでした。
 おそらく、継体天皇より前の時代では皇族の卓越性が継体天皇以後の時代よりは弱く、天皇への即位には諸豪族からの推挙という要件が継体天皇以後よりも強く、「豪族連合政権」という色彩が強かったと思われます(舒明天皇の即位に際してもこの形式は残存していました)。従って、豪族の支援を受ける必要性があるため、継体天皇より前の時代においては、天皇の后も皇族ではなく、豪族からとることが多かったのです。
 これまでも触れましたが、皇族の后を娶る場合は、自身の皇位の正統性をその皇族の后によって補強するという必要性があったということです(で、この点を強調するとこの時点で「王朝交代」が行なわれたという説にたどり着きます。これの発展系として、天智天皇が四人もの娘を「弟」である天武天皇に嫁入りさせたということも、天智、天武非兄弟説の傍証とされることがあります)。
 ということで、継体天皇の時代から
1 皇族の后から生まれた皇子が「正統」とみなされる
2−1 皇族の后から生まれた皇子と異母妹との婚姻(例:敏達天皇と推古天皇との婚姻)
2−2 「2−1」でない場合には、皇族の后から生まれた皇子とその皇子の兄弟の娘(=叔父と姪)との婚姻
   (例:舒明天皇と皇極天皇)
ということが頻繁に行なわれるようになりました。

63キラーカーン:2010/09/27(月) 23:45:23
 継体天皇(と安閑天皇、宣化天皇)は武烈天皇の姉妹と婚姻することによって、自身の皇位の正統性を補強し、欽明天皇は兄宣化天皇と武列天皇の姉妹との間に生まれた娘(=姪)を后として迎えました。以後、このように皇族間での婚姻が増加したことから、豪族と天皇家との身分上の決定的な差異が生じたということができるでしょう。一般論で言っても、身分差別が一番端的に現れるのは「婚姻」といわれます。さらにいえば、上述のように継体天皇の後、皇位は、継体天皇と武列天皇の姉妹との間に生まれた欽明天皇の子孫に受け継がれました。

 しかし、これまで述べたように、男性皇族と婚姻した女性皇族自身が皇位に就くということは推古天皇まで存在しませんでした。例えば、上述のように、武烈天皇の姉妹で婚姻・出産が可能な年齢まで成長していた皇族は少なくとも三名は確認されています。女系継承が認められているのであれば、継体天皇の后となった手白香皇女が「中継ぎ」として即位して、彼女の息子である欽明天皇に譲位しても何の問題も無かったはずですが、現実問題として、このような「女系継承」は生起せずに、継体天皇が自身の皇位継承件に基づいて皇位に就き、その正統性を補強するために、手白香皇女を后に迎えたという形になっています。
 そして、彼女の息子である欽明天皇の即位の前に、皇族を母としない安閑天皇、宣化天皇両天皇が即位しています(継体天皇の死後、安閑天皇、宣化天皇両天皇と欽明天皇が対立関係にあったという説もありますが、この説に拠っても安閑天皇、宣化天皇両天皇が即位したという事実は認められますから、女系よりも男系の方が優先されていたという結論は動かないと思います。
 それは、推古天皇が欽明天皇の子の世代では最後に即位(つまり、皇位継承順位が一番下)したことからも伺えます。

 このように皇族同士の近親婚が定着する時代になって、母が皇族であることがその皇子の扱いにおいて有利に働くことという事態が定着したと思われます。が、それは飽く迄「男系」という条件で同じ場合において、皇位継承件者の間の序列をつけるものであって、上述のように、「勝ち点」に対する「得失点差」というものであったということです。そのような中で、蘇我氏の娘が生んだ皇子(例:用明天皇)が皇位を継承できたということは、当時において、蘇我氏の勢いがいかほどであったかということが想像できます。

64キラーカーン:2010/09/27(月) 23:47:21
律令の規定と女系継承との関係

 ここで、女系継承容認論者が歴史的根拠として挙げる「女帝の子また同じ」という律令の条文について話を移します。皇族の中でも皇子(皇子)とその他の皇族(王)で呼び名の差が生じたのは継体天皇の時代の頃からといわれています。そして、前者は親王という称号になりました。
 皇族としての格は「何代さかのぼれば天皇に行き着くか」ということに示されます。一般的な数え方として、天皇の子を一世、孫を二世・・・という言い方をします。また、「親王」や「王」だけでは、その何代さかのぼればということが必ずしも明確ではないため、その「何代」を明確するために、例えば「一世親王」、「三世王」という言い方もします。(例:常陸宮は一世親王、桂宮は二世親王)。皇位継承に際して、「王」が皇位につくことがあります(例:白壁王から即位した光仁天皇)。その場合、その天皇に兄弟や子供(例:山壁王(後の桓武天皇))がいた場合、彼らの称号は当然「王」ですが、彼らを「王」から「親王」に格上げするというのが、この律令の条文の趣旨です。
 この世代数の数え方は男系によります。つまり、二世王と一世内親王との間の子供は三世王となります。つまり、原則どおりに行けば、(夫が天皇ではない)女帝の兄弟や子の称号は「王」になりますが、子供に限っては例外的に「親王」に格上げしますというのがこの条文の趣旨です。そして、この律令の条文の言うところを簡単にまとめると

1 天皇の子供、兄弟で「王」である者を一律に親王、内親王とする
2 女帝の子供で「王」である者を一律に親王、内親王とする。

ということです。
 つまり、「また同じ」という文言だけにとらわれては、男帝も女帝も同じように見えますが、ひとつ見逃せない違いがあります。それは

男帝の兄弟は親王になれるが、女帝の兄弟は親王になれない

ということです。ここでも、男系と女系では待遇に違いがあるということです。皇族としての格が○世の数字の大小によって示されるということであれば、親王と王では当然格に違いがあり、その格の違いは皇位継承権の順位に直結するということになります。即位することによる格の引き上げ効果が男帝と女帝で異なるということは、皇位継承上、男帝と女帝との扱いにも当然差が出るということです。重ねて言いますが、まとめれば

女系でも継承権が「全くないというわけではない」。しかし、男系との比較においては、女系は継承権が低い

ということになります。また、皇位継承権保有者をむやみに拡大させないという観点からも、女系による継承権は「凍結」したほうが良いという運用に落ち着いたのでしょう。
 ここまで、長々と歴史的経緯について論じてきましたが、結論としては

悠仁親王と愛子内親王との間の皇位継承権(特にその子孫の皇位継承権)の優劣については、歴史的に決着がついており、その意味では議論の余地はない。

ということです。その意味では、小林氏がいくら歴史的経緯を述べたとしても、せいぜい、

愛子内親王の皇位継承権を奪っている現行皇室典範が不当である

というところまでであって、愛子内親王が悠仁親王より上位の皇位継承権を有しているということは証明できないということです。

65キラーカーン:2010/09/27(月) 23:50:02
皇位継承問題が盛り上がった理由

 そこで、問題は、なぜ、悠仁親王が生まれる前はこの問題がこれほど問題が盛り上がったかということです。逆に言えば、悠仁親王の誕生により、この問題はなぜ一気に鎮静化したかということです。それはいうまでもないことかもしれませんが、おさらいしておきます。それは

皇太子殿下、秋篠宮両殿下より年下の男性皇族がいない(いなかった)

ということに尽きます。
 このままでは男系男子の皇位継承者が断絶するという、皇室史上前代未聞の事態が発生するということです。上述の触れたように、女帝、ひいては女系継承が認められる二条件

1 男系男性の(衆目の一致する)皇位継承者が存在しないこと
2 男系継承が不可能であるということ

の成立がほぼ確定的となったからでした。
 ここで問題となったのは

1 女性皇族といわゆる旧皇族との間ではどちらの皇位継承権が上か
2 その発展系として、女性皇族の子孫に皇位継承権を認めるか(女系継承を認めるか)

ということでした。
 この問題を複雑にしたのが「旧皇族」(法制度的に言えば、「旧皇族」ではなく、「旧皇族の男系男子」という言い方が性格ですが、ここでは「旧皇族」という言い方で統一します)という「あいまい」な存在です。彼らが臣籍となったのも、皇族の「自発的」な事情ではなく、敗戦に伴うもので「強制的」に臣籍になったということが複雑さを増幅しています。言い換えれば、本来的には現在でも皇族のはずで、「旧皇族」となっているのは単なる偶然であるということです。
 また、近年でも「有栖川宮事件」という皇族詐欺事件というものがあったことからも、「旧皇族」という類型がまだ社会的意義を失っていないという証左となるでしょう。
 彼ら旧皇族に皇位継承権を再び付与することに対する基本的な問題点としては、「旧皇族の皇族復帰」と「男系(傍系)継承か直系(女系)継承か」という二点に集約され、それを分かりやすく細分化すれば

1 皇族を離脱してから半世紀以上の時間が経過し、いわゆる「旧皇族」といわれる人で皇族であった人は殆どおらず、「生まれながらの平民」という人がほとんどであること。
2 将来、皇位継承権が付与される人はそういう「生まれながらの平民」であった人であること
3 現実問題として、そういう「生まれながらの平民」を天皇あるいは皇族として尊敬できるのか
4 男系では約六百年以上分かれており血縁関係が薄い
5 そもそも、父系継承というのが過去の遺物であり、男系女系問わず、皇位の直系継承が現代の皇室に求められている

というところに集約できるかと思います。
 このうち、「1」〜「3」までについては解決策があり、実質的な問題とはならないこと。その解決策を活用すれば付随的に「4」の問題点が解決すること。そうなれば、「5」の論点は現実的に意味を成さなくなるということが見込まれます。それは、多くの論者が指摘しているように

1 女性皇族と旧皇族(一世内親王が最適)が婚姻する
2 この場合、女性皇族は皇族に留まり、旧皇族は皇族となるが皇位継承権はない。
 旧皇族には摂政就任資格のみ与える
3 この二人の男系男子には皇位継承権を与える

という「ありきたり」な解決手法です。これは、現在の皇室典範にある、非皇族女性が皇族妃となった場合の規定を旧皇族に準用したものです。つまり、男女が入れ替わっただけで、現代の皇室制度と殆ど変わりありませんから、現代社会でもあまり違和感がないと思われます。
 そして、旧皇族が「婿養子」となることで、現在の皇族の(誰か)と擬制的親子関係を結ぶことにより、傍系継承を直系継承に転換させる効果を持ちます(といいますか、江戸時代においても、傍系から家督を継ぐ際には先代当主の養子となって「直系継承」という形式は維持していました)
 これによって、皇位継承権を有する者は「生まれながらの『皇族』であり」、また、「直系継承」の枠内に収まるということになり、上述の五条件を全て満たすということになります。

66キラーカーン:2010/09/27(月) 23:54:00
近代皇族制度と「家」制度の問題

 ここで、上記五条件の四番目「男系では約六百年以上分かれており血縁関係が薄い」について、話を移します。実は「家」制度(あるいは養子、親王宣下という制度)を考慮すれば、この六百年というのはあまり問題になりません。少なくとも日本史上では二百五十年〜三百年程度まで離れた父系継承は問題がないという実例があります。それは徳川将軍家の例で

十四代家茂→十五代慶喜→十六代家達

という継承です。この継承は初代将軍の徳川家康までさかのぼらなければ父系ではつながらないという継承です。つまり、父系では二百五十年以上分かれているという継承です(ちなみに、十三代家定、十四代家茂、十六代家達の三名は従兄弟同士。家定には兄弟も息子もいなかったので男系の従兄弟が最近親)。さらにいえば、徳川家の現当主である十八代目は会津松平氏の男系子孫であって、十七代の「婿養子」として徳川宗家を継いでいます。
 会津松平家は二代将軍秀忠の息子が初代ですから、十七代から十八代への継承も父系では三百年以上離れているということになります。それでも、何の問題なく徳川宗家十八代当主として扱われています。
 もう少し定義を広げて、「藤氏長者」という藤原一族の長という地位についてみてみます。この地位は、五摂家の当主間で持ち回りということになっていました。摂関家が分裂したのは、西暦千二百年頃ですから、父系で約八百年分かれていても(名目的とはいえ)藤原一族の長の地位を継承できました。
 因みに、近現代政治史で「最後の元老」として知られる西園寺公望も場合によっては「藤原公望」と署名したこともあり、近衛文麿も藤原家の同族として扱ったといわれます。なお、近衛家と西園寺家は藤原師輔(藤原道長の祖父)までさかのぼって父系では同一の祖先となります。そこまでくれば、千年以上離れています。

 では、なぜ、このようなことが可能だったのでしょうか。それは「家」制度によるものです。家制度ということを端的に言えばどういうことかといえば

「家」の当主は初代当主の地位を継承する

ということです。
 親王家を例にとれば、親王家の当主は親王宣下とともに当代の天皇の養子(猶子)になります。つまり、親王家の当主である限り、皇子の待遇を受けるということです。また、徳川家では、御三家の当主である限り将軍の兄弟(次男、三男格)という待遇を受けます。御三家のうち、尾張、紀伊家の当主はであれば大納言に任官しますが、この大納言は将軍家でも世継ぎ(世子)しか任ぜられないものでした(水戸家は中納言で一段格落ち)。というように

御三家の当主の>将軍の次男以下

という格式になります。また、たとえ将軍の近親者(孫、甥、従兄弟)でも他家に養子に出され、御三家、御三卿の当主でないのであれば将軍継承資格はありませんでした(例:八代吉宗の孫である松平定信)。これは、上級貴族でも同じです(清華家の当主>摂関家の次男以下)。但し、天皇家では一世親王を指す「直宮」と宣下親王を指す「宮家」との間では格差があり、実子(直宮)優先でした。
このように、「家」という観念を媒介すれば、実年数では何年経っていても、初代当主の待遇を維持できるということです。だからこそ、西園寺公望のように徳大寺家の生まれであっても西園寺家の養子となり、西園寺の家督を継ぐことができるのです(徳大寺家と西園寺家はいわば兄弟格の間柄)。
 つまり、「家」制度がしっかりしていれば、実際の血縁関係がどのようなものであったとしても、家の当主は家格に応じた待遇を受けるということです。例えば、中公新書の「皇族」という本のなかに「宮家の親王(宣下親王)は明治天皇の叔父として振舞った」という記述があります。つまり、親王宣下を受けた以上、養親である親王宣下をした天皇の皇子としての待遇を受けるのであり、その結果、養親の子が天皇になれば天皇の弟として、孫が天皇に即位すれば天皇の叔父として振舞うことができるのは当然のことだったのです。
 このため、武家政権である北条執権家、足利将軍家、徳川将軍家を見てみても、

分家が成立していた北条、徳川両家は血縁関係が遠い執権位、将軍位の継承が見られる
分家が成立しなかった足利家は最大で従兄弟までの将軍継承である

という違いがみられます。

67キラーカーン:2010/09/27(月) 23:57:01
家制度と「実系」との関係

 このような家制度では、上述のような旧皇族復帰問題のように、実際の血縁関係が段々と遠くなっていくことによって、実際の血縁関係と待遇との差が徐々に広がっていくということになります。この実際の血縁関係という意味で「実系」という言葉も使われます。この家格と実系との差を埋める方法として例を挙げれば

1 世代を経るごとに家格を下げる(親王・王方式、または清朝方式)
2 適当な継承者がいなくなった時期に養子を送り込む(親王家方式)
3 当主は前当主の血縁ではなく、本家から派遣される(御三卿方式)

というものが挙げられます。
 旧皇族に潜在的な皇位継承権(皇族女性と婚姻した場合、男系子孫場合によっては本人に皇位継承権が発生する)を認めても、皇族費が支給される「宮家」というものは3〜4に制限すべきではないか(御三卿方式)というのが個人的な考えです。

ごく最近にもあった皇位継承の危機(明治、大正の両天皇には弟宮(直宮)がいなかった)

 現在においても、皇室典範がこのままであれば「近い将来、皇族は悠仁親王だけとなってしまう。皇位継承の危機は未だ去っていない」と危惧する議論があります。しかし、明治以後においても同様の危機は存在していました。
 小見出しにもあるように、明治、大正両天皇には弟宮(直宮)がいませんでした。つまり、

明治維新から秩父宮が生まれる(大正十一年)までは、当代の天皇には息子がいないか、いたとしても一人しかいなかった(万一の場合、「宮家」に皇位が継承される可能性があった)

ということです。
 特に、大正天皇が病弱だったことから、大正天皇が子供を残さずに崩御、あるいは、明治天皇に先立って薨去すれば、その時点で、皇位は伏見宮の系統に継承されるという事態になります。そして、医療が現在ほど発達していない現在において、その深刻さは、現在の非ではないでしょう(現在においては、悠仁親王が六十歳位までは生きられるということを「暗黙の前提」としていますが、大正天皇に関しては、そんな悠長なことは言っていられなかった)。

 このような事情をかんがみれば、明治維新後、出家していた皇族が続々と還俗し、一代限りだった皇族の身分も子孫にわたって認められるというように、皇族の範囲は肥大化していきました。それは、明治維新とそれに伴う「王政復古の大号令」、明治憲法体制における「天皇親政」という概観の保持ということから、一般国民に天皇の威光をいきわたらせるために、それまでの四親王家よりも多くの皇族を「天皇の分身」として必要としたということは言えるかもしれません。

 しかし、そういう「政治的」な理由とは別に、皇位後継者の枯渇ということも明治天皇をはじめとする明治政府の幹部は考慮に入れざるを得ませんでした。当時、閑院宮家、桂宮家は男性の後継者がおらず、また、それらの宮家に養子として送り込む直宮も存在していませんでした。このままでは皇位の控えである四親王家の半分が廃絶の憂き目に会います。従って、皇位継承権者を確保するためにも、出家していた皇族を還俗させる必要がありました(当時においても、出家は皇位継承権の放棄ということを意味していました)。
 それだけではなく、明治天皇は成人した四人の内親王を全て宮家に嫁がせ、万一の際、宮家に皇位が継承された場合に、その皇位継承の正統性を増加させる場合には必要不可欠な方法でした。大正天皇には内親王はいなかったので、そういうことはできませんでしたが、昭和天皇も皇后を久邇宮家の出身であり、長女を東久邇宮に嫁がせています。しかも、昭和天皇もなかなか男子には恵まれず、弟である秩父宮、高松宮にも結局子供が生まれず、三笠宮は未だ若く(長男である寛仁親王が誕生するのは昭和二十一年)、直宮による皇位継承者枯渇の危機は昭和になっても継続していました。このため、側室の設置(まだ、制度上側室制度は存続)や宮家からの養子も考慮されたとも言われています。

 つまり、宮家自身が有している皇位継承権を補強するために一世内親王(皇女)を娶るということは明治以後においても「万一のために」なされていました。

68キラーカーン:2010/09/27(月) 23:57:20
 これらのことから、これまでの皇位継承の実績という「歴史上の重み」と皇位継承者の枯渇の危機とを鑑みれば、何らかの形で、旧皇族と女性皇族を皇族に留まられた上で婚姻させて、その男系子孫に皇位継承権を与えるという方法しかないでしょう。少なくとも、「愛子内親王を現在の皇太子に次ぐ皇位継承権を与えようとしない限り」、直系(女系)派も反対のしようはないのです。
 そして、愛子内親王に悠仁親王以上の皇位継承順位を与えることについては、歴史上、決着がついています。

 次は、この「愛子内親王に悠仁親王以上の皇位継承順位を与えること」を正当化する歴史上唯一の実例である孝謙天皇の時代の話になります。そして、「皇統」の話になります。ここで、やっと「天平の三姉妹」の悲劇を愛子内親王に負わせようとすることになると、かなり前に述べたこととつながってきます。

69キラーカーン:2010/09/29(水) 02:19:21
補論1 皇統とは男系のみを指すのか(旧皇室典範との関係)

 皇統とは男系のみを指すのか、女系を含むのかということも議題になっているようですが、結論から言えば

1 旧皇室典範の条文上は「男系」のみを指す
2 一般的な用法では男系、女系「双方」を指す用法もある

ということで、双方とも正解ですというより「間違っていない」という方がより正確でしょうか。
 では、まず、旧皇室典範の条文ですが

 第一条 大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス
 第二条 皇位ハ皇長子ニ伝フ

とあります。それでは、この条文の準公式解説書である『皇室典範義解』にはどのように書いているかといえば(該当部分抜粋)

皇統は男系に限り女系の所出に及ばざるは皇家の成法なり。
祖宗の皇統とは一系の正統を承くる皇胤を謂う
一 皇祚を践むは皇胤に限る
二 皇祚を践むは男系に限る

とあり、皇統は男系に限るとしています(ということで、皇位に就くことを「践祚」といいます)。
 なぜ、『皇室典範義解』が「準公式」解説書かといえば、皇室典範制定の際、この解説書の解釈に合意をしているからです。つまり、立法者の意思がそこに示されているということで「公式」解釈としてよいということ。そして、この義解は伊藤博文個人の著作として出版されており、政府名義で出版されていないことから、「純然たる公式」ではないということ。この二つの理由から本書が「準公式」解説書といわれる次第です(『憲法義解』も同様です)。
 この解説から見れば、旧皇室典範では「皇統」は「男系」に限定していると解釈せざるを得ません。
 では、小林氏の批判点である

皇統が男系に限るというのであれば、なぜ、旧皇室典範のような書き振りになっているのか

ということの解説に入ります。この条文解釈の要点は「ニシテ」という言葉です。
 実は、私もこの条文を読み返してみて、小林氏の解釈に疑問を持ちました。というのは、この条文は、「ニシテ」で一旦切れる事実上二つの文が合わさったものと解釈する方がより妥当であると思われるからです。つまり

前段:大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統(皇位は皇統である)
後段:(大日本国皇位ハ)男系ノ男子之ヲ継承ス(皇位は男系男子が継承する)

というものです。『皇室典範義解』も

一 皇祚を践むは皇胤に限る
二 皇祚を践むは男系に限る

と、上記の前段、後段に分けるのと同様の解説をしているからです。
もし、小林氏の解釈が正しいとすれば

 第一条 大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統 「ニ属スル」 男系ノ男子之ヲ継承ス
(実は、「皇統に属する男系の男子」というのは現行皇室典範の条文ですので、参考までに現行皇室典範の条文を併記します)
 第一条  皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。
(単純に旧皇室典範を口語体に直せば以下のようになると思われます)
 第一条 大日本国皇位は祖宗の皇統であり、男系の男子がこれを継承する

というような条文になると思います。
 この意味において、小林氏の旧皇室典範第一条の解釈は「正統的ではない」といえます。少なくとも、条文起草者の意思とは異なっています。ということで、現行皇室典範では「皇統」は男系女系双方を含む概念であると解せざるを得ません。これも、小林氏の「誤解」の元になったと思われます。

70キラーカーン:2010/09/29(水) 02:20:46
 では、小林氏の「なぜ、わざわざ、男系ノ男子」と書いたのかという質問自体が間違っているのかといえば、そうではありません。小林氏の批判は一般論としては正しいです。その根拠は旧皇室典範第二条と明治憲法第二条にあります。そのために、上では、旧皇室典範の第一条と第二条を並べました。皇室典範の第二条は

皇位ハ皇長子

となっています。これは、旧皇室典範第一条で、皇位を継承するのは男系男子と限っているので、「皇長子」と書いても、皇女が含まれる可能性はない(因みに、昭和天皇の「皇長子」は内親王(皇女)です)からです。小林氏はこれとの類推で「皇統ニシテ男系ノ男子」とある条文を見て「皇統には男系と女系双方を含むのでわざわざ“男系”という言葉を入れた」と「早合点」したと思います。実を言えば、この条文だけでは、嫡出子と庶子との区別がつかないので、別の条文で規定されているのですが、この文の進行には影響ないので省略します。因みに、昭和二十二年に現行皇室典範が施行されるまで、庶子にも皇位継承権がありましたので、制度上は、現行皇室典範の施行に伴って側室制度が廃止されたということとなります。
 小林氏の批判が「一般論」として妥当する傍証として、明治憲法第二条を挙げます。今度は、旧皇室典範第一条と明治憲法第二条とを併記します

 第一条 大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス
 第二条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス

『皇室典範義解』と同様に明治憲法の準公式解説書である『憲法義解』では

皇男子孫とは、祖宗の皇統における男系の男子をいう。この文は皇室典範の第一条と同等である。

となっています。
 明治憲法第二条では「皇統」という語が出てきませんので、「皇男子孫」という語を使っています。ここでも、小林氏の批判が一般論ではもっともであるということを示しています。

 とつらつら書いてきましたが、もうひとつ、小林氏の「誤解」がもっともである理由があります。それは、「皇統」という用語に「男系と女系双方を包含」した用法があるということです。例を挙げれば

『皇室典範に関する有識者会議報告書』 「『皇統』とは歴代の天皇からつながる血統」
『天平の三姉妹』(遠山美都男著 中公新書) 「聖武天皇の皇統」
(聖武天皇の皇統という場合、それは『天平の三姉妹』を通じた「女系」でしかありえないので、ここでいう「皇統」は女系を含むとしなければならない)

というものがあります。また、伊藤博文の『憲法義解』などを読んでも「皇統」が男系のみか、男系女系双方を含むのかのどちらの意味か判然としない箇所もあります。例えば上述の『憲法義解』における明治憲法第二条の注釈

皇男子孫とは、祖宗の皇統における男系の男子をいう。この文は皇室典範の第一条と同等である。

というで部分です。この文の趣旨は、旧皇室典範第一条と同じといっておきながら、「祖宗の皇統における男系の男子」と表現をしており、「皇統」には男系だけではなく女系も含まれると解釈しても意味が通る表現となっています。しかし、上述のように、旧皇室典範の解説で「皇統は男系に限る」としていますので、そのあたりは若干の不整合を生じています。

 ということで、小林氏が「皇統」を女系を含む概念だと解釈しても、それは間違いではありません。問題は、そのような「一般的な意味」を法令用語にまで適用できるかということです。現代でも、法令用語は世間で一般的な意味と一致しない意味で使用されている場合があります(例:「みなす」と「推定する」)。ということで、小林氏が、皇統は一般的な用法では女系を含むと主張するのは間違いではありません、しかし、旧皇室典範第一条の「皇統」は女系を含むというのは「行き過ぎた解釈」だろうと思います。
(だとすると、現行皇室典範第一条を起案した人はどういう解釈でああいう条文にしたのか、個人的に気になります。もし、単純に文語体を口語体に直しただけだというのなら、小林氏と同じ解釈をしたということになります。)

71キラーカーン:2010/09/29(水) 02:24:19
天平の三姉妹の物語

 ここで、たびたび触れてきた『天平の三姉妹』についてのお話です。持統天皇の政治力により、草壁皇子の男系子孫で、かつ、(偶然にも、文武、聖武天皇に男の兄弟はいなかったため必然的に)直系継承になった草壁系皇統が孝謙天皇で断絶することが確定したことで波乱の運命を辿る聖武天皇の三人の娘の物語です。

愛子内親王=孝謙天皇

というのは歴史的にも分かりやすい比喩(といいますか、愛子内親王に悠仁親王を上回る皇位継承権を与えるために参考となる日本史上唯一の例)ですが、小林氏はそれに加えて、孝謙天皇の二人の姉妹の役割を愛子内親王に負わせようとしています。

 壬申の乱で勝利した大海女皇子は即位して天武天皇となり鸕野讚良皇女(「うののさららのひめみこ」後の持統天皇。以下「持統天皇」で統一します。因みに「神田うの」の元ネタ。)を皇后(持統天皇の同母姉で同じく天武天皇の后であった大田皇女は天武の即位前に死去)とします。持統天皇は自分の子である草壁皇子を皇太子につけることに成功します。順風満帆に満ちた持統天皇の目論見に誤算が出ます。ただ一人の息子である草壁皇子が病弱であったため、天武天皇崩御後ほどなくして薨去したことです。草壁皇子には息子(文武天皇)がいましたが、当時十歳に満たない子供であり、当時の常識では到底皇位を継承できることはできません。このままでは、高市皇子や大津皇子以下の成年に達した天武天皇の皇子に皇位が移ってしまいます。

 ここで、草壁皇子への皇位継承のために、「称制」という形で暫定的に皇権を行使していた持統天皇は文武天皇への譲位を確実にするために自ら即位することを選択します。持統天皇は、皇族では天武天皇の庶長子である高市皇子、豪族・貴族層では藤原不比等(鎌足の息子)の協力を得て政権を運営していきます。藤原不比等は娘を文武天皇の後宮へ送り込むことに成功します。ここから、皇室と外戚藤原氏という構図が始まり、草壁系皇統が「草壁・藤原系」皇統へ転化していきます。
 持統天皇は、このように政権基盤を固める一方で、並み居る天武天皇の皇子を押しのけ、自身の(そして、天武天皇の)孫である文武天皇の立太子・即位(自身の譲位)を実現させます。文武天皇の即位時年齢十五歳というのは史上最年少(当時)であることが確実視されており、持統天皇自身は太上天皇(上皇)として引き続き政務に当たりました。これが、いわゆる「上皇」の始まりです。
 文武天皇もあまり身体が強くなく、数え二十五歳の若さで崩御します。息子である聖武天皇は十歳に満たない子供でした。しかも、文武天皇には男の兄弟がなく、更に、何人かの天武天皇の皇子が存命でした。その意味では、草壁皇子薨去時と状況は殆ど変わっていません。このため、崩御後の混乱を避けるためにも、崩御直前に、「子から母へ」という異例の譲位を行ったものと思われます。恐らく、文武天皇の末年頃から、元明天皇に万一のことがあれば、聖武天皇への「中継ぎの中継ぎ」として元正天皇が候補者に立てられたのでしょう。そのため、同母妹である吉備内親王は長屋王に嫁ぎましたが、長女である元正天皇は一生独身のままでした。

 このような経緯を経てやっと孝謙天皇の父である聖武天皇が即位します。聖武天皇の母は藤原不比等の娘、皇后(光明皇后)も藤原不比等の娘と外戚としての藤原氏が台頭してきます。このような状況の中で、藤原氏を母としない聖武天皇の異母弟が臣籍に降下させられ皇位継承権を剥奪され、文武天皇の同母妹を妻としており、万一の際の皇位継承候補と目されていた長屋王も無実の罪で死に追いやられます。
 しかし、聖武天皇と藤原氏が待ち望んだ光明皇后所生の皇子はなかなか誕生しませんでした。このため、聖武天皇と藤原氏は光明皇后が生んだ皇女を「空前絶後」の女性皇太子に擁立します。この時点では、光明皇后も皇子出産が可能な年齢であったと思われることから、「引き継ぐ相手の確定しない中継ぎ」しかも「皇太子」という前例のない「中継ぎ」形態で孝謙天皇は女帝となることが確定しました。そして、立太子したために生涯独身を義務付けられました(この後にも出てきますが、孝謙天皇には二人の姉妹がいますが、両方とも異母姉妹です)。

 結局、聖武天皇と光明皇后との間には皇太子となるべき皇子は結局誕生しませんでした(正確にいえば、一人生まれたのですが乳幼児の段階で薨去)。ここにおいて、草壁・藤原系の男系は断絶することとなりました。

72キラーカーン:2010/09/29(水) 02:28:03
 この草壁・藤原系断絶の危機に際して、聖武天皇と藤原氏が選んだ方法は

天武天皇と藤原氏の娘との間に生まれた皇子(新田部親王)の男系男子(塩焼王)と聖武天皇との娘(不破内親王)を結婚させ、その子孫に皇位を継承させる

ことにして、女系でも草壁・藤原系を継承できる皇族を後継者に立てるという計画でした。
 とにかく、聖武天皇からの譲位を受けて孝謙天皇は即位します。しかし、上述の計画は破綻します。理由は不明ですが、塩焼王は臣籍に落とされ、氷上塩焼となり、その息子も臣籍となり、皇位継承権を剥奪されました。しかし、この親子は臣籍に落とされたとはいえ、聖武天皇と藤原氏の血を引くという出自から、幾度も皇位継承候補として名前が挙がります。
 とはいえ、これで、またまた計画変更を余儀なくされ、聖武天皇は崩御に際して遺詔で塩焼王の弟である道祖王(新田部皇子の系統)を皇太子として指名します。しかし、聖武天皇から皇太子の先任権を与えられた孝謙天皇は道祖王を廃太子にして、藤原仲麻呂(藤原不比等の孫)の推す大炊王(淳仁天皇)を皇太子にします。このときにも、塩焼王(この時点ではまだ皇族)が後継の皇太子として名前が挙がりました。大炊王は淳仁天皇として即位しますが、政治上の実権を握っている藤原仲麻呂と孝謙上皇の間がうまくいかなくなっていたことから、淳仁天皇は孝謙上皇によって天皇位を「取り上げ」られ、孝謙上皇が称徳天皇として再び即位しました。称徳天皇は道鏡を重用したことにより、藤原仲麻呂との仲は決定的に破綻します。このため、藤原仲麻呂は挙兵しますが、そのとき、仲麻呂に「天皇」として、またもや担ぎ出されたのは、既に臣籍に下っていた塩焼王改め氷上塩焼でした(これまでにも、橘奈良麻呂の乱でも新天皇の候補として名前が挙がっていたがこの際は不問に付されている)。この挙兵は鎮圧されますが、その際、氷上塩焼も処刑されます。しかし、妻である不破内親王と息子は不問に付されています。
 氷上塩焼とその息子そして不破内親王はその出自ゆえに、孝謙(称徳)天皇にとって「存在自体が脅威」というものでした。孝謙天皇は異母姉妹の井上内親王と組んで、不破内親王とその息子(志計志麻呂、川継)の皇位継承権を事実上剥奪することに成功します。結局、彼らは数々の政争に巻き込まれて流罪となり、いつなくなったか定かではなくなります。不破内親王の「失脚」によって、皇位継承計画は再度の修正を迫られました。結局、「藤原系」ということも無くなり、白壁王と井上内親王の系統(最後に残った聖武天皇の「皇統」)に皇位を継承させるということを選択します。

73キラーカーン:2010/09/29(水) 02:29:08
 『天平の三姉妹』によれば、称徳天皇は他の系統に皇位を譲るくらいなら、臣下の道鏡に、白壁王と井上内親王との間の皇子への皇位継承の「中継ぎ」として皇位を譲った方がましというところまで思いつめます。しかし、和気清麻呂の活躍により、この「前代未聞」の譲位騒動はここで終わりを告げます。称徳天皇は崩御に際して異母姉妹の夫である白壁王(光仁天皇)を後継者として指名し、崩御します。
 この称徳天皇の崩御の際における白壁王の後継指名については古くから異説があり、称徳天皇が指名した後継者は、本当は、臣籍降下していた別の天武天皇の孫だったのが、藤原百川の陰謀で白壁王に摩り替えられたとされるものです。しかし、聖武天皇の娘婿という地位は他の皇族との皇位継承争いにおいても有利に働いたでしょう。ここでも、「女系」は男系の皇位継承権の増幅装置であって、「女系」自身が皇位継承権を主張する最大の根拠とはなりえていません。女系ならば、井上内親王が「中継ぎ」として即位しても何の問題もありません。
 ということで、光仁天皇の皇太子が井上内親王との間に生まれた他戸親王に決まるのは、当然の成り行きです。しかし、ここで藤原百川が暗躍し、井上内親王の廃后、他戸親王の廃太子、そして、この二人は死に追いやられます。そして、山部親王(桓武天皇)の立太子が矢継ぎ早に決められます。しかし、桓武天皇も母が井上内親王である異母姉妹を妃に迎えざるを得ませんでした。しかし、この二人の間には男子が生まれませんでした。これで、草壁系皇族は歴史の舞台から完全に姿を消したはずでした。
 しかし、草壁系皇族を巡る物語はこれで終わりませんでした。桓武天皇即位の翌年、聖武天皇の孫(不破内親王の子)である氷上川継の桓武天皇暗殺計画が発覚します。氷上川継は伊豆へ不破内親王は淡路へ流され、これ以降記録から姿を消します。おそらく、その地で人知れず没したのでしょう。

 ここで、何人もの中継ぎ女帝を擁立してまで守ろうとした草壁(・藤原)系皇統の物語は終わりを告げます。その掉尾を飾った、孝謙(称徳)天皇、不破内親王、井上内親王は男系断絶という局面に直面し、その出自ゆえに皇位継承を巡る政争にいやおうなく巻き込まれ、波乱、あるいは「悲劇」といっても過言ではない人生を歩むことを余儀なくされました。不破内親王、氷上川継の流刑及び平城京から長岡京・平安京へ遷都によって桓武天皇は「女帝の世紀」(草壁系皇統の時代)の呪縛から抜け出すことができたのです。併せて、

1 第一期中継ぎ期の女帝の機能は皇太子制度の定着
2 第二期中継ぎ期の女帝の機能は摂関政治の定着

によって代替され、「女帝の世紀」は終わりを告げることとなったのです。

 愛子内親王を「無理矢理」に「皇太子」に祭り上げ、このような「政争」に巻き込むのは個人的には時期尚早だと思います。穏便にことを済ませられる方法は、まだ残されているのですから。

74キラーカーン:2010/09/29(水) 02:32:14
補論2
まず、皇室典範第十六条第二項の条文を見ていただきます

天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く。

女性週刊誌では、愛子内親王の「変則登校」が毎週のように話題になっています。このままでは、雅子妃同様、成人しても何らかの精神疾患によって公務に支障が出る状況になる可能性があります。となれば、皇室典範を改正して、愛子内親王を皇太子殿下に継ぐ皇位継承順位としても、摂政設置を余儀なくされるという事態も考えられます。そうなれば皇室典範第三条

皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、前条に定める順序に従つて、皇位継承の順序を変えることができる。

の条文が現実化するという可能性もあります。となれば、女性天皇容認でも、愛子内親王の皇位継承順位を繰り下げて悠仁親王の即位を優先すべきではないかという展開になる可能性が高くなります。となれば何のために皇室典範を改正して愛子内親王への皇位継承を確実にしたのかという疑念が湧きます。で、結局、単に、女性皇族への皇位継承権だけを認めて、旧皇族の男性と結婚した場合に限り、その子孫に皇族の身分と皇位継承権を与えれば済むということになります。

とはいっても、現在のわが国に、天皇に対して「あなたの精神状態では天皇は務まらない」と引導を渡せる大正天皇に対する原敬や山県有朋のような人物がいるかという根本的な問題もありますが。
 そして、原と山県は大正天皇に摂政を置くという件についての相談を皇后陛下に対して行なっています。つまり、大正天皇に次いで皇室の家長の職務を行なうのは、皇太子(昭和天皇)でも最年長の皇族でもなければ、皇后(それも皇族出身ではなく五摂家出身)だったというのは、古代の「大后」の時代あるいは推古天皇から持統天皇までの皇后経験者が女帝になるという時代を彷彿とさせます。

女帝、女系継承を巡る問わず語りはとりあえずここまでにしておきます。

75キラーカーン:2011/07/15(金) 01:01:55
>>「女帝の子また同じ」

の原文は「女帝子亦同」という漢文なのですが、この読み下し方で見逃せない「異説」が出てきました。それは、中川八洋氏が唱えているものですが、一応の筋は通っているように思えます。その読み方とは

「女(ひめみこ:皇女)も帝の子とまた同じ」

というものです。「女」には娘という意味があります。(例:「藤原道長女」は道長の娘という意味です)また、子には息子のみを指すという用法がありますので(例:皇子、皇女)、「女帝の子・・・」ではなく「皇女も皇子と同じ」としたほうがつじつまが合うというものです。

76キラーカーン:2012/01/09(月) 23:37:48
昨今、皇太子殿下が即位の暁には「皇太子のいない時代」になると各所で言われていますが、
こういう論を立てる人は

皇太子は、今上陛下の皇子(現行皇室典範では長男)に限る

と認識しているようですが、これは、「二重の意味」で間違っています。つまり、

1 歴史上「皇太子」」という用法は、今上陛下の皇子には限られない
 (聖武天皇は、遺詔で皇太子を指名しましたが、その人は「聖武天皇の父(文武天皇)の従兄弟」
 という人で、このような立場の人にも「皇太子」という語は使われます)
2 現行皇室典範上、皇太子(皇太孫)は今上陛下の子(孫)に「限られない」と解釈できる余地がある

ということです。
皇室典範によれば
第8条 皇嗣たる皇子を皇太子という。皇太子のないときは、皇嗣たる皇孫を皇太孫という。
第6条 嫡出の皇子及び嫡男系嫡出の皇孫は、男を親王、女を内親王とし、三世以下の嫡男系嫡出の子孫は、男を王、女を女王とする。

とあります(便宜上条文は順序逆にしてあります)。

たとえば、ヒゲの殿下として有名な寛仁親王殿下は、生まれたときは「皇孫」ではありません
(当時の今上陛下であった昭和天皇の甥)が、「大正天皇の皇孫」ということで、「親王」と
 なっています。これは、桂宮、故高円宮も同じです)

つまり、現行皇室典範上、「誰の」皇子、皇孫とは限定されていませんので、「今上陛下」
ではない天皇の皇子、皇孫であれば、親王と呼ばれることから、同じく、単に「皇子、皇孫」
としか規定されていない皇太子(孫)の規定も、皇嗣が親王であれば、現行皇室典範でも

皇太子(孫)と呼ばれても問題ないという解釈は成立の余地があります。
そして、歴史的な用法でも、そのように呼ぶことは何ら問題はありません。

これも、核家族化が進んだ現在で、直系親族しか親族と認識できず、
皇室という「傍系親族」を含んだ制度を理解できなくなっています。

これに補足して、小林よしのり氏に「女系容認論」を吹き込んだとされる
高森明勅氏は、

直系に男系皇族がいなければ、女系継承もやむなし

という所論に、現在は「カモフラージュ」しているようですが、これでも、

悠仁親王ではなく、愛子内親王に皇位を継がせるべき

という、小林氏の所論の側面援助になっています。つまり、

皇太子殿下即位の暁には、悠仁親王は「傍系皇族」になり
愛子内親王が唯一の直系皇族となる

ことから、皇位は、今上陛下→皇太子殿下→愛子内親王殿下 と

継承されるべきという所論になるからです。

昨今話題になっている「女性宮家」につきましては、暇があれば。

77キラーカーン:2012/01/09(月) 23:42:26
補足です。

聖武天皇が指名した「皇太子」は、当時の今上陛下である孝謙天皇(聖武天皇の娘)
の皇太子となりますので、孝謙天皇の祖父の従兄弟に当たります

ちなみに、その「皇太子」は孝謙天皇によって、皇太子の地位を剥奪されます

78キラーカーン:2012/06/18(月) 01:00:21
先日、寛仁親王が薨去されました。

三笠宮三兄弟で唯一生存しておられるのが、
病気で、対外的な活動に支障のある桂宮だけと
なりましたので、これで、傍系宮家は事実上消滅しました。

厳密に言えば、三笠宮寛仁親王は間違いです。
(「三笠宮」は父君の宣仁親王殿下個人に対する宮号です)
新聞記事にあった「三笠宮家の寛仁親王殿下」というのが、
珍しく、実は一番正確だったりします。

昨今の皇位継承問題や女性宮家問題に関連して、
傍系宮家の総称としての「三笠宮系」総帥格として
寛仁親王殿下の存在が、皇族の中で少なくない意味がありました。

父君の三笠宮は大正天皇の皇子として「直宮」であったため、
「生まれながら」のヒラ宮家(の皇族)の最年長でした。

そのため、皇籍離脱問題など「型破り」な宮様として人気でした。

弟君の故高円宮殿下も「皇族のセールスマン」として飛び回るのが
我々の役目とおっしゃっていたこともあります(だからこそ、日韓
W杯の開会式でソウルに飛ぶのも私の役目と高円宮殿下自身がおっ
しゃっていたかと思います)。

つまり、傍系宮家というのは、「血のスペア」だけではない、ということを
身をもって、示されたのが、このご兄弟だったのではないかと思います。

自身が「傍流」であるからこそ、「正統」とは何かということが
はっきりと認識できる立場におられたかと思います。

そして、その「正統」とは何かということを、対外的に発言できる
唯一の皇族が寛仁親王だったと思います。

そして、それこそが、臣籍降下された、伏見宮系の各皇族の役目だった
といえると思います。

そう考えれば、傍系宮家というのは、天皇の藩屏として立派な意味があり、
東宮、秋篠宮という「直宮家」のみを偏重する小林よしのり氏らの女系容認派
の歴史、伝統に対する認識は浅薄なものといわざるを得ません。

79キラーカーン:2013/09/06(金) 01:12:16
小林よしのり氏が「女性天皇の時代」という本(新書版)を上梓しましたが、
立ち読み程度ですが、内容的には「新天皇論」とまったくといってよいほど
同じですので、その書評については、上記の投稿で足りると思います。

ただし、題名が「女性天皇」としているため、「女系」については、
巧妙にぼかしており、その点は注意が必要です。

また、悠仁親王よりも愛子内親王の皇位継承権を優先すべきという
結論に持っていくために、かなりの「無理」をしています。

80キラーカーン:2013/09/24(火) 23:26:27
最高裁で、非嫡出子の相続分差別が意見という判決がありましたが、この判決の影で、日本の法制度上最大の「非嫡出子差別」が見逃されています。

それは、皇族の非嫡出子です。

皇族の非嫡出子は皇位継承権だけではなく、皇族の子として認められる 「全て」 の権利が否定されています。
(これが「嫡男系嫡出」の法制度上の意味)

しかし、皇位継承論議において、この「非嫡出子差別」に疑問を呈する人はいませんでした。故三笠宮寛仁が「側室制度」(非嫡出子の相続権容認)の議論を提起したときにも「バッシング」を受け、賛同者は見受けられなかったことにも現れています。

この最高裁判決と皇位継承論議(皇室典範)に対する態度は完全に矛盾します。私個人は、

戦前と同様に非嫡出子にも皇位継承権を認めるべき

という立場ですが、最高裁判決を支持しつつ、現行皇室典範の規定にも反対しないということは、

「理想の家族」としての皇族に何を求めるのか
法律婚の保護とその「反射的不利益」であり非嫡出子差別に対する態度
皇族と一般国民とは、そこまで異なる存在なのか

ということに対して、どこまで深く考えているのかということについて疑問を持たざるを得ません。

81キラーカーン:2013/10/16(水) 00:37:52
7年後に東京オリンピック(とパラリンピック)が来ることになりました。
その際の高円宮妃殿下のスピーチが「皇族の政治利用」ではないかとの
懸念が宮内庁から発せられました。

しかし、IOC会議の会場には、スペインの皇太子(妃?)も招致活動
を行っていました。つまり、欧州立憲君主国の「常識」では、その程度
のものは、「政治利用」に当たらないということです。

わが国にはわが国の基準があってもよいのですが、このように、欧州
の立憲君主国のほうが、王族の「政治関与」に寛容であるということ
を意識的に無視して、わが国の事例を 「国際的」 に何か不適切
であるかとの印象を振りまくのは、立憲君主制に対する不勉強か、
あるいは、無意識のうちに天皇制批判を行うというサヨクの悲しい性
であるといえましょう。

ちなみに、スペインは、フランコの独裁が終焉し、王政復古する際に
わが国の「象徴天皇制」を参考にして、国王に対し「象徴」という語
を用いています。

何度でも言いますが、この意味において、象徴天皇制は、憲法第九条
よりも、「世界標準」 となっているのです。

82キラーカーン:2013/11/02(土) 00:28:33
園遊会での山本太郎参議院議員「直訴」事件が話題になっておりますが、
簡単に言えば、「国会議員の職務放棄」の一言で済みます。

これだけでは面白くないので、それらしく、小難しく言います。
白紙的には、日本国憲法上の「国事行為」であっても「天皇の政治
利用」という議論は成立の余地があります。

ということで、憲法問題としての「天皇の政治利用」は国事行為
(と学説上位止められている「公的行為」)との関係において論じる
必要があります。

とすれば、日本国憲法上許容される「天皇の政治利用」とは、
1 すでに決定された事項
2 内閣の助言と承認を得た事項
の2つの条件を満たすもの、もしくは

3 式典の性質上、政治的色彩を持たないもの

ということになります。

極論すれば、「天皇の政治利用」とは、「天皇の権威」を利用して、
自己の都合のよい政治的結論を導き出そうとするもの、といえるかも
しれません。

露悪的に言えば、天皇の「箔付け」を利用できる権限は、憲法上、
内閣だけに与えられているということとなります。

その「箔付け」の範囲を規定しているのが、憲法学上の「国事行為」と学説上の「公的行為」となります。

この観点からすれば、
オリンピック招致は、オリンピックが「非政治的」な式典
(だからこそ「竹島プラカード」のような政治的主張は禁止される)

主権回復の日も、すでに政府決定されている「記念日」であり、その式典に天皇陛下の行幸を仰ぐか否かは内閣の権限である

ということから、憲法上の「天皇の政治利用」に当たらないことになります。

それに、オリンピック招致が「天皇・皇族の政治利用」に該当するのなら、欧州の王族が招致に参加することが問題視されていないということ
は、欧州の立憲君主制の議論においては、その程度の「政治利用(介入)」
は、憲法↑、問題ないという判断をしていることになります。
このことで、わが国の憲法学者が、

欧州の立憲君主国は、事実上国政に関する権能を有しない

と、わが国の天皇制を貶めるために、欧州の立憲君主制を「政治的思惑」
で実態以上に美化していたという、わが国の比較憲法学上の汚点が発現することになります。

83キラーカーン:2014/03/01(土) 00:54:54
小林よしのり氏の女系天皇論の「師匠」である田中卓氏が「愛子さまが将来の天皇陛下ではいけませんか 女性皇太子の誕生」となっており、帯も「女性天皇」と【女系】を意図的に隠しているのも、小林氏の「女性天皇の時代」と同じです。

問題は、愛子殿下の次の代であり、愛子殿下自身ではないのです。悠仁殿下の子どもは当然男系ですが、愛子殿下の子どもは、配偶者が旧宮家の男系男子でなければ女系となります。

その点の問題を隠蔽する書名と帯は噴飯ものです

84キラーカーン:2014/06/10(火) 00:46:28
先日、桂宮の薨去という知らせがありました。これで、三笠宮は3人の息子全員に先立たれるということになりました。

一方、スペインでは国王が退位し、交代しがそくいするとのことです。

アカデミー賞を取ったことでも有名な「英国王のスピーチ」の中で
「前国王が健在の中で即位する初めての英国王」
つまり、「王冠を賭けた恋」が英国史上初の、そして、現在のところ唯一の【生前譲位】だということです。

現在においても、一旦、大統領になると 、事実上の「終身大統領」という「帝政」をを目指す例が少なからずあるいう例から見ても、国家元首の「生前譲位」は、その国の政体の成熟度を示す指標となります。

言い換えれば、選挙を含む「生前譲位」による政権交代が成立するということは、国家体制の組織化が完成の息に達しているということを意味します。

国家元首に国家権力が属人的に帰属するような体制であれば、国家元首の交代が事実上の革命(王朝交代)となるため、血で血を洗う権力闘争が繰り広げられます。

我が国においては、幼年で即位した清和天皇のことから、そのような権力闘争から天皇家が分離されたことも天皇家の長きに渡って存続してきた一員と言えるかもしれません。

そして、他国から数百年という単位で生前譲位の伝統を生み出したことから、逆に、明治維新では生前譲位の禁止へ「退化」せざるを得なくなりました。

これは、首相への権力集中が「幕府の復活」であり、ひいては大日本帝国憲法に違反するという議論を惹起したということと対をなす事象とも言えます。

その意味において(「1900年体制」も含め)我が国は、政治の民主化よりも遥か前に、国家元首と失政権の分離、すなわち、「権威と権力の分離」による国家元首の平穏な交代という、他国であれば、「民主化の最終段階」で実現されるプロセスが民主化の遥か前に確立されていたという政治体制論的に特異な例と言えるかもしれません。

そして、その歴史的経験が、国家成立から民主化、そして、政治体制の安定になかなかたどり着けない多くの国家に対する何らかの参考例として、活かせるのではないかという氣がしており、それによって、我が国の「ブランドイメージ」を高め、特定アジアの「ディスカウント・ジャパン」を無力化できる端緒にできるかもしれません。

85キラーカーン:2014/09/22(月) 02:15:13
スコットランドの独立をめぐる住民投票が終わりましたが、その選挙戦のさなか、エリザベス女王が

「慎重に考えた上で投票に臨んでほしい」

という旨の発言をなされていますが、まったくといってよいほど問題となっていません。
この一事をみても、西欧流の「立憲君主制」とわが国の「象徴天皇制」との差異が明らかです。
たとえば、沖縄独立をめぐって住民投票が行われたと仮定して、わが国で、天皇陛下がこのような発言をすれば

(沖縄の独立反対派による)天皇の政治利用

として、問題となるのは必定です。逆に言えば、その程度の「政治介入(利用)」が許されているのが立憲君主制です。それは、オリンピック招致スピーチで、スペインの王族が前面に立った場合でも、まったく問題とならず、高円宮妃については

「天皇(皇族)の政治利用」

との批判の声が上がったことにも現れています。
ゆえに、「西欧の君主は政治的権能を実質的に奪われ、象徴的な役割しか果たしていない」というわが国の憲法学者一般に見られる見解は

わが国の天皇(象徴天皇制)を貶めるための言説でしかない

ということなのです。

86御前:2014/09/24(水) 10:41:30
メアリ・スチュワート以来の確執なんじゃないですかね。イングランドVSスコットランド

87キラーカーン:2014/10/20(月) 17:32:37
遅レスですが
独立しても、「同君連合」でエリザベス現英国王は

イングランド王兼スコットランド王

となる予定だったそうです。
さらにいえば、現英国王は、スコットランド王を英国王として迎えた(スチュアート朝)という経緯があるので、その意味で言えば

スコットランドの方が本家筋

ということもできます。

88キラーカーン:2017/01/13(金) 01:14:03
平成30年大晦日を持って今上陛下が譲位され、平成が終了するとのこと
ですが、その準備のための皇室典範改正などの法制度の整備が2年弱
というのは、「長くはない」です

譲位後の今上陛下の扱いは、全くのゼロから作り上げなければなりませんが
譲位後の呼称や「上皇」として当今よりも「象徴としての権威」を持つ
「ハイパー天皇」となるのも、わが国の歴史を見ても色々困ることが
あるので、譲位の制度化も含めた法制度設計のお手並み拝見といったところです。

89MOMO:2017/01/28(土) 15:56:14
>>88
平成の次の名前ってもう候補はいくつかあるんでしょうか?

あと、とても畏れ多いけど、それまでお元気でいられるかも心配。

90キラーカーン:2017/01/29(日) 01:07:50
MOMOさん
お久しぶりです

当面は、譲位を可能とする法律を作るのに手一杯でしょうから
組織としては、そこまで手が回らないと思います。

とはいっても、何もないのでは話が始まりませんから、
「担当の頭の中」には候補があるかもしれませんが、
本格的に検討が始まるのは法律が成立した後でしょう。

今回は、「平成」と違って、次の年号の検討を行う
ということを公開できますので、「有識者」に委嘱して
検討を行うことも考えられますので、その場合は、
有識者の選定が終わってからということになると思います。

91キラーカーン:2019/02/26(火) 01:08:55
上皇の英訳は「Emeritus」だそうです

92キラーカーン:2019/02/27(水) 01:09:05
で、色々解説を見ると「名誉〇〇」というものが多いのですが、
日本語としては、「前官礼遇」が一番近いと思います

93新八:2019/03/25(月) 14:30:59
今日は、三月二十五日です。
有識者に正式に委嘱したのが三月十四日だそうですね。
新元号が、発表されるまであとわずかになりましたね。

この期に及んで、変なアンケートしてるマスコミですが、
やっぱり、日本人にとって元号って結構身近でよく使われているという結果になっていましたね。

新元号とともにやってくる新たな日本の姿が待ち遠しい気持ちです。

94キラーカーン:2019/04/04(木) 01:46:14
昭和から平成への改元は昭和天皇崩御とセットだったので、
何かしら重い雰囲気があった中での改元でしたが、

今回の改元はそのような変事とは無縁の改元ですので
単純に「お祭り騒ぎ」ができるという点でも、生前譲位は
良かったと思います。

また、改元で「リセット」されて新しい時代が始まるという
雰囲気を作り出せるのも、天皇と元号の持つ「魔力」なのでしょう

95新八:2019/04/16(火) 17:03:41
令和の魔力…

良い表現ですね。
良い世になりますように!

96御前:2019/04/22(月) 23:45:40
令和、いいですね。
ほんと、良き御代になるもならぬも、われわれ次第です。

97キラーカーン:2019/05/02(木) 01:04:18
ひょっとすると、最短で、悠仁親王が成人した時点、
或いは秋篠宮殿下が75歳を超えれば、皇位継承順位の変更があり、
今上陛下から、悠仁親王への直接皇位継承が行われるかもしれません。

98キラーカーン:2019/09/03(火) 01:39:27
英国では、ジョンソン首相の上奏により、国王大権を以て議会が
停会されたということです。

このように、前例を参照できない状況の時には、国王大権を
「デウス エクス マキナ」として使うのも、立憲君主制の
特徴でもあります。

99キラーカーン:2019/09/26(木) 00:19:37
英国最高裁判所がジョンソン首相の停会措置が違憲とされました。
国王大権よりも議会主権が優先されるということでしょう。

とはいっても、「どのような場合に国王大権で停会措置に出来るのか」
ということについての研究が始まるかどうかはわかりませんが。

100キラーカーン:2020/10/06(火) 23:21:01
学術会議会員の首相の任命権は天皇の総理任命と同じという反論が日弁連
の元会長など法律の専門家と思しき人々からなされていますが、これは
戦後の憲法学の成果を全く無視するものです。

「天皇は象徴に過ぎない(故に政治面に影響を及ぼしてはいけない)」
というのは、日本国憲法の大原則の一つで、それこそが、日本国憲法を
第二次世界大戦後の君主国が手本とすべきスタンダードの地位を確立
させたのです。

そして、その裏面として、国政に関する政府の活動は終局的には総理が
負うということになります。先帝陛下が譲位の希望を示された際も、
「憲法違反ではないか」という声はありました。

先帝陛下の意向は法律の制定という政治的行為を必要とする以上、
その声は的外れというわけではありませんでした。


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