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いまさらながら「天皇論」を読んでみた

72キラーカーン:2010/09/29(水) 02:28:03
 この草壁・藤原系断絶の危機に際して、聖武天皇と藤原氏が選んだ方法は

天武天皇と藤原氏の娘との間に生まれた皇子(新田部親王)の男系男子(塩焼王)と聖武天皇との娘(不破内親王)を結婚させ、その子孫に皇位を継承させる

ことにして、女系でも草壁・藤原系を継承できる皇族を後継者に立てるという計画でした。
 とにかく、聖武天皇からの譲位を受けて孝謙天皇は即位します。しかし、上述の計画は破綻します。理由は不明ですが、塩焼王は臣籍に落とされ、氷上塩焼となり、その息子も臣籍となり、皇位継承権を剥奪されました。しかし、この親子は臣籍に落とされたとはいえ、聖武天皇と藤原氏の血を引くという出自から、幾度も皇位継承候補として名前が挙がります。
 とはいえ、これで、またまた計画変更を余儀なくされ、聖武天皇は崩御に際して遺詔で塩焼王の弟である道祖王(新田部皇子の系統)を皇太子として指名します。しかし、聖武天皇から皇太子の先任権を与えられた孝謙天皇は道祖王を廃太子にして、藤原仲麻呂(藤原不比等の孫)の推す大炊王(淳仁天皇)を皇太子にします。このときにも、塩焼王(この時点ではまだ皇族)が後継の皇太子として名前が挙がりました。大炊王は淳仁天皇として即位しますが、政治上の実権を握っている藤原仲麻呂と孝謙上皇の間がうまくいかなくなっていたことから、淳仁天皇は孝謙上皇によって天皇位を「取り上げ」られ、孝謙上皇が称徳天皇として再び即位しました。称徳天皇は道鏡を重用したことにより、藤原仲麻呂との仲は決定的に破綻します。このため、藤原仲麻呂は挙兵しますが、そのとき、仲麻呂に「天皇」として、またもや担ぎ出されたのは、既に臣籍に下っていた塩焼王改め氷上塩焼でした(これまでにも、橘奈良麻呂の乱でも新天皇の候補として名前が挙がっていたがこの際は不問に付されている)。この挙兵は鎮圧されますが、その際、氷上塩焼も処刑されます。しかし、妻である不破内親王と息子は不問に付されています。
 氷上塩焼とその息子そして不破内親王はその出自ゆえに、孝謙(称徳)天皇にとって「存在自体が脅威」というものでした。孝謙天皇は異母姉妹の井上内親王と組んで、不破内親王とその息子(志計志麻呂、川継)の皇位継承権を事実上剥奪することに成功します。結局、彼らは数々の政争に巻き込まれて流罪となり、いつなくなったか定かではなくなります。不破内親王の「失脚」によって、皇位継承計画は再度の修正を迫られました。結局、「藤原系」ということも無くなり、白壁王と井上内親王の系統(最後に残った聖武天皇の「皇統」)に皇位を継承させるということを選択します。


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