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いまさらながら「天皇論」を読んでみた

56キラーカーン:2010/09/27(月) 23:27:59
譲位と女帝との関係
歴史上初めて譲位がなされたのは、皇極天皇から孝徳天皇への譲位ということになっています。この譲位の直接的なきっかけは、蘇我本宗家滅亡(この事件だけをいう場合、学術的には「大化の改新」ではなく「乙巳の変」というそうです。)によるものです。最近では、この譲位は、本来「中継ぎ」であるはずの推古天皇が長命を保ったことにより、推古天皇即位当時の皇位継承候補者(推古天皇の子ども、甥)が推古天皇より前に全員薨去したため、「中継ぎ」が「中継ぎ」にならなかったことから、大化の改新という「クーデター」を契機に譲位を実現させるという方法をとったといわれています。
 「第一期中継ぎ」の時代である限り、後継者が決定できないという理由で後継者決定を先送りして「中継ぎ」の女帝を擁立したとすれば、後継者が決定し、その後継者の即位が可能になった時点でこの(中継ぎ)女帝は後継者に譲位をしなければならないというのが結論になります。ということは、(中継ぎ)女帝は即位の時点で譲位することが予定されているということになります。しかし、その一方、男帝は終身在位(譲位はしない)というのが古代天皇の不文律ということになっていました。次のように、女帝は比較的生前譲位が多いですが、男帝は崩御まで在位しているほうが多いです。

「第二期中継ぎ」では、逆に、女帝即位時には後継者が決定している(あるいは決定するために即位する)ということで、この時期の「中継ぎ」は、皇位継承者決定の先送りという意味はありません。
皇極天皇以後、崩御まで女帝であったのは斉明天皇及び称徳天皇のみ(双方とも二度目の即位というのも偶然にしてもできすぎ)ですが、男帝では、孝徳、天智、天武の各天皇が崩御まで在位しており、譲位した男帝は逆に文武、聖武、淳仁の三人です。しかし、文武天皇の場合は後継者である聖武天皇がまだ若年であることから、「中継ぎ」の天皇は必須であったことから、崩御の直前に譲位をした方が円滑に聖武天皇への皇位継承が行なわれるという判断だったと思われます。
推古天皇崩御の際に後継者を指名していたということから、少なくともそれ以降の時代においては、皇位を全うできた天皇は後継者を指名する権利があったと思われます。文武天皇崩御による皇位継承であれば、いくら遺詔による後継者指名があったとしても、文武天皇の伯父が複数生存しているために不測の事態が起きる可能性もありました。実際、推古天皇が崩御した際も、直接推古天皇から言葉を賜った舒明天皇、山背大兄王の双方ともが「推古天皇から後継者に指名された」と主張したことから、舒明天皇の即位まで若干の混乱がありました。また、聖武天皇の遺詔によって孝謙天皇の皇太子に指名された道祖王は聖武天皇の崩御後孝謙天皇から皇太子の地位を剥奪されます。
ここで、文武天皇の崩御に乗じて、草壁皇子の男系子孫以外の天武天皇の男子孫、特に、当時生存している天武天皇の皇子(特に、舎人、新田部の両皇子は文武天皇崩御から約三十年後に薨去)へ皇位継承されれば、その即位した男帝の子孫に皇位が継承され、聖武天皇に皇位継承が行なわれなかったという可能性が高くなります。過去にも、孝徳天皇が即位したことで、その息子の有間皇子が皇位継承争いに名乗りを上げ、結局、天智天皇によって死に追い込まれたという例がありました。このため、かつ、「息子から母へ」という異例の譲位ということもあり、生前譲位を行なう必要があったということです。
淳仁天皇の例は生前譲位というよりも、孝謙上皇に皇位を「取り上げられた」といったほうが実態に即している(このため、淳仁天皇を「淡路廃帝」と言うこともあります。しかし、「天平の三姉妹」にあるように、淳仁天皇自身が聖武天皇の孫までの「中継ぎ」である可能性も捨て切れません)ことから、典型的な生前譲位を行ったのは聖武天皇だけということも可能です。


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