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いまさらながら「天皇論」を読んでみた

73キラーカーン:2010/09/29(水) 02:29:08
 『天平の三姉妹』によれば、称徳天皇は他の系統に皇位を譲るくらいなら、臣下の道鏡に、白壁王と井上内親王との間の皇子への皇位継承の「中継ぎ」として皇位を譲った方がましというところまで思いつめます。しかし、和気清麻呂の活躍により、この「前代未聞」の譲位騒動はここで終わりを告げます。称徳天皇は崩御に際して異母姉妹の夫である白壁王(光仁天皇)を後継者として指名し、崩御します。
 この称徳天皇の崩御の際における白壁王の後継指名については古くから異説があり、称徳天皇が指名した後継者は、本当は、臣籍降下していた別の天武天皇の孫だったのが、藤原百川の陰謀で白壁王に摩り替えられたとされるものです。しかし、聖武天皇の娘婿という地位は他の皇族との皇位継承争いにおいても有利に働いたでしょう。ここでも、「女系」は男系の皇位継承権の増幅装置であって、「女系」自身が皇位継承権を主張する最大の根拠とはなりえていません。女系ならば、井上内親王が「中継ぎ」として即位しても何の問題もありません。
 ということで、光仁天皇の皇太子が井上内親王との間に生まれた他戸親王に決まるのは、当然の成り行きです。しかし、ここで藤原百川が暗躍し、井上内親王の廃后、他戸親王の廃太子、そして、この二人は死に追いやられます。そして、山部親王(桓武天皇)の立太子が矢継ぎ早に決められます。しかし、桓武天皇も母が井上内親王である異母姉妹を妃に迎えざるを得ませんでした。しかし、この二人の間には男子が生まれませんでした。これで、草壁系皇族は歴史の舞台から完全に姿を消したはずでした。
 しかし、草壁系皇族を巡る物語はこれで終わりませんでした。桓武天皇即位の翌年、聖武天皇の孫(不破内親王の子)である氷上川継の桓武天皇暗殺計画が発覚します。氷上川継は伊豆へ不破内親王は淡路へ流され、これ以降記録から姿を消します。おそらく、その地で人知れず没したのでしょう。

 ここで、何人もの中継ぎ女帝を擁立してまで守ろうとした草壁(・藤原)系皇統の物語は終わりを告げます。その掉尾を飾った、孝謙(称徳)天皇、不破内親王、井上内親王は男系断絶という局面に直面し、その出自ゆえに皇位継承を巡る政争にいやおうなく巻き込まれ、波乱、あるいは「悲劇」といっても過言ではない人生を歩むことを余儀なくされました。不破内親王、氷上川継の流刑及び平城京から長岡京・平安京へ遷都によって桓武天皇は「女帝の世紀」(草壁系皇統の時代)の呪縛から抜け出すことができたのです。併せて、

1 第一期中継ぎ期の女帝の機能は皇太子制度の定着
2 第二期中継ぎ期の女帝の機能は摂関政治の定着

によって代替され、「女帝の世紀」は終わりを告げることとなったのです。

 愛子内親王を「無理矢理」に「皇太子」に祭り上げ、このような「政争」に巻き込むのは個人的には時期尚早だと思います。穏便にことを済ませられる方法は、まだ残されているのですから。


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