したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

いまさらながら「天皇論」を読んでみた

66キラーカーン:2010/09/27(月) 23:54:00
近代皇族制度と「家」制度の問題

 ここで、上記五条件の四番目「男系では約六百年以上分かれており血縁関係が薄い」について、話を移します。実は「家」制度(あるいは養子、親王宣下という制度)を考慮すれば、この六百年というのはあまり問題になりません。少なくとも日本史上では二百五十年〜三百年程度まで離れた父系継承は問題がないという実例があります。それは徳川将軍家の例で

十四代家茂→十五代慶喜→十六代家達

という継承です。この継承は初代将軍の徳川家康までさかのぼらなければ父系ではつながらないという継承です。つまり、父系では二百五十年以上分かれているという継承です(ちなみに、十三代家定、十四代家茂、十六代家達の三名は従兄弟同士。家定には兄弟も息子もいなかったので男系の従兄弟が最近親)。さらにいえば、徳川家の現当主である十八代目は会津松平氏の男系子孫であって、十七代の「婿養子」として徳川宗家を継いでいます。
 会津松平家は二代将軍秀忠の息子が初代ですから、十七代から十八代への継承も父系では三百年以上離れているということになります。それでも、何の問題なく徳川宗家十八代当主として扱われています。
 もう少し定義を広げて、「藤氏長者」という藤原一族の長という地位についてみてみます。この地位は、五摂家の当主間で持ち回りということになっていました。摂関家が分裂したのは、西暦千二百年頃ですから、父系で約八百年分かれていても(名目的とはいえ)藤原一族の長の地位を継承できました。
 因みに、近現代政治史で「最後の元老」として知られる西園寺公望も場合によっては「藤原公望」と署名したこともあり、近衛文麿も藤原家の同族として扱ったといわれます。なお、近衛家と西園寺家は藤原師輔(藤原道長の祖父)までさかのぼって父系では同一の祖先となります。そこまでくれば、千年以上離れています。

 では、なぜ、このようなことが可能だったのでしょうか。それは「家」制度によるものです。家制度ということを端的に言えばどういうことかといえば

「家」の当主は初代当主の地位を継承する

ということです。
 親王家を例にとれば、親王家の当主は親王宣下とともに当代の天皇の養子(猶子)になります。つまり、親王家の当主である限り、皇子の待遇を受けるということです。また、徳川家では、御三家の当主である限り将軍の兄弟(次男、三男格)という待遇を受けます。御三家のうち、尾張、紀伊家の当主はであれば大納言に任官しますが、この大納言は将軍家でも世継ぎ(世子)しか任ぜられないものでした(水戸家は中納言で一段格落ち)。というように

御三家の当主の>将軍の次男以下

という格式になります。また、たとえ将軍の近親者(孫、甥、従兄弟)でも他家に養子に出され、御三家、御三卿の当主でないのであれば将軍継承資格はありませんでした(例:八代吉宗の孫である松平定信)。これは、上級貴族でも同じです(清華家の当主>摂関家の次男以下)。但し、天皇家では一世親王を指す「直宮」と宣下親王を指す「宮家」との間では格差があり、実子(直宮)優先でした。
このように、「家」という観念を媒介すれば、実年数では何年経っていても、初代当主の待遇を維持できるということです。だからこそ、西園寺公望のように徳大寺家の生まれであっても西園寺家の養子となり、西園寺の家督を継ぐことができるのです(徳大寺家と西園寺家はいわば兄弟格の間柄)。
 つまり、「家」制度がしっかりしていれば、実際の血縁関係がどのようなものであったとしても、家の当主は家格に応じた待遇を受けるということです。例えば、中公新書の「皇族」という本のなかに「宮家の親王(宣下親王)は明治天皇の叔父として振舞った」という記述があります。つまり、親王宣下を受けた以上、養親である親王宣下をした天皇の皇子としての待遇を受けるのであり、その結果、養親の子が天皇になれば天皇の弟として、孫が天皇に即位すれば天皇の叔父として振舞うことができるのは当然のことだったのです。
 このため、武家政権である北条執権家、足利将軍家、徳川将軍家を見てみても、

分家が成立していた北条、徳川両家は血縁関係が遠い執権位、将軍位の継承が見られる
分家が成立しなかった足利家は最大で従兄弟までの将軍継承である

という違いがみられます。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板