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いまさらながら「天皇論」を読んでみた

57キラーカーン:2010/09/27(月) 23:31:02
しかし、皇極天皇が即位した時点においては女帝男帝問わず皇位は終身であるという観念があったと推測されます。つまり、「実質的譲位」を行なった飯豊皇女、神宮皇后(彼女は神話に属する人物でもありますが)は、歴代天皇に列している史料もありながら、即位→譲位という歴史的記憶として共有されていなかったことから、正史では歴代天皇からは外れ(神宮皇后は応神天皇の「摂政」という扱い)ということになるのでしょう(ちなみに、天皇にならなければ「譲位」という行為も発生しない)。
その一方、正式に歴代天皇に数えられている最初の女帝である推古天皇は(当時の政治情勢もあったでしょうが)、結局、他の男帝のように終身在位してしまいました。このため、即位すれば、天皇は男性女性問わず「終身在位」という固定観念が舒明天皇の時代までに形作られたと思います。

さて、皇極天皇即位の時点では、推古天皇の話は近い過去の話です。一例を挙げれば、山背大兄王は推古天皇によって結果的に即位を阻まれた聖徳太子の息子であり、自身も推古天皇崩御後の皇位継承の有力候補であり、今回も、皇極天皇即位によって即位が「見送られた」(そして、皇位には就けなかった)人物です。このように、推古朝における皇位継承に関する当事者も山背大兄王のほかにもまだ多く生存していたでしょう。つまり、遠い過去や神話の時代である飯豊皇女、神宮皇后の事例よりも、近い過去の推古天皇の事例の記憶の方が強く残り、女帝といえども終身在位であるというような「イメージ」ができあがったのかもしれません。(ちなみに、奈良時代以後、皇位の生前譲位がほぼ4分の3にのぼり、摂政関白政治が定着した後は、幼年での即位も増えてきます。)
このような時代背景の中で即位した女帝である皇極天皇は、それこそ、「中継ぎ」女帝として、即位時において決着していなかった後継者問題を決着させて「譲位」を成功裏に行なわなければならないという大きな使命を追っていました。そして、皇極即位のおかげで一人の皇族が「ダークホース」として皇位継承権者として名乗りを上げ、実際に皇位を射止めます。その名を軽皇子、一般には孝徳天皇として後世に名前を残す人物です。

そして、この皇位決着問題の先送りという形態は皇極天皇で終止符を打ち、持統天皇から元正天皇まで、女帝は後継者の成長を見届けて譲位をするというパターンが定着します(斉明天皇は譲位することなく崩御)。そして、その中継ぎの天皇としての女帝の役割は、
1 後継者の決定については皇太子制度の定着
2 後継者が成長するまで政務を見るという機能は摂関政治の定着
によって代替されることとなり、女帝というものは、歴史の表舞台から姿を消すこととなったのです。


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